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はてなキーワード: 八幡宮とは

2021-09-14

anond:20210914115238

八幡神って神様だよ。だいたい八幡宮があるんじゃないかな。

○○天神、みたいなのと一緒だと思う。

2020-12-10

anond:20201210082245

最近医療ビルってあるじゃん

同じビル内科外科肛門科が集まってるやつ。

肛門科に行くつもりなんだけど、中には他の科もあるから建物に入るときに恥ずかしさを感じずに済むやつ。

から新潟神社もきっとそういうことなんだよ。

敷地内で神宮寺みたいに神社神社の夢のコラボレーションしてるから敷地数のわりに神社数が多いんだよ。

例えば、奥の院にある神社と手前の神社は違うのに、手前の神社だけ拝んできて失敗したみたいな話が徒然草にもあったじゃん。

岩清水八幡宮だっけ?そういう感じだよ。新潟じゃないけど。本当の理由も知らんけど。

2020-10-28

鶴岡八幡宮は音の響きが完璧

声に出して言ってみよう つるおかはちまんぐう

鶴は千年生きるが亀は万年生きる

から本来は亀の方が縁起が良い

亀岡八幡宮でもいいわけ

声に出して言ってみよう かめおかはちまんぐう

鶴岡八幡宮の方が音の響きが良い

なお亀岡八幡宮実在する

2020-09-26

今日神社巡り

仙台地下鉄東西線川内駅から亀岡八幡宮まで行った。

表参道から階段がとても長くバランスの悪いものだった。それでも途中までは手すりがあるから登っていたのだが

最終的に急角度の手すりなしの階段が出てきて唖然とした。

昨日は雨だったので1日休んでいたのに、登っている最中にクラっときて、そのまま転落しそうな気分になったのでこれはまずいと引き返し

坂道を登って裏参道から入った。が、この坂道も意外と長くて結構きつかった。

ようやくたどり着いて参拝。その後御朱印を頂いた。

帰りにここまでの階段ってどんなものなのかなーって思って表参道を見てみるとすごい角度の石段だったのでちょっとびびってしまった。

これはやばいと思い、やっぱり裏参道から道を戻った。

仙台三十三観音第一観音がある場所まできた後に御朱印を頂こうと思って御朱印管理しているお宅様に電話で連絡をしてみたが留守だった。

まぁ後日こちらには行く機会があるのでそのとき貰えたらいいなと思う。

今日坂道を登って結構疲れたなぁという感じだったので、無性に寿司を食べたくなった。

というわけで地下鉄東西線川内駅から青葉通り一番町まで移動して

寿司を食べたのだけれど、その画像は某所で掲載するのでここでは割愛!美味かったとだけ言っておく!

やっぱり寿司は最高だ!!

この後もう少し歩いた方がいいかなぁと思い、定禅寺通り周辺を散歩した後に帰宅した。

2020-09-21

仙台市内で出かける場所考え中

仙台市内で寿司を食べに行く傍ら、御朱印集めと公共施設やら観光に行ければいいなーと考えている。

ここに行った方がいいぜ!って言うのがあれば助言があれば嬉しい。

  

仙台市科学館と台原森林公園仙台文学館

近隣に寿司屋があるため行くのに最適、仙台市地下鉄南北線旭丘から降りてレッツゴー?

  

陸奥国分寺薬師堂木ノ下公園と近辺の神社

仙台市地下鉄東西線薬師堂からちょっと歩けばこうや寿司 宮城の萩大通店があるので行ってもいいかも。

  

亀岡八幡宮宮城県美術館

近くに東北大学植物園があるけれどコロナで閉園中。更に近所に寿司屋が無いので駅前方面まで戻る必要あり。

  

仙台市博物館と青葉山公園宮城護國神社青葉城本丸会館

るーぷる仙台で行くか地下鉄東西線国際センター駅で行ける。青葉城本丸会館の付近日本料理仙臺では確か寿司そばセットがあったはず

  

榴岡天満宮榴ヶ岡公園仙台歴史民俗資料館

仙台から徒歩でも行ける距離だけど仙石線榴ヶ岡駅で降りると早い。検索したら鮨 みずきという店がでてきたけれど17開店

  

・二柱神社七北田公園

仙台市地下鉄南北線泉中央駅から移動。帰りに泉中央寿司屋があるのでそちらに行ける。ベガルダの試合があれば良かったけど競争率が。

  

仙台うみの杜水族館三井アウトレットパークその他神社

仙石線中野栄シャトルバス仙台市地下鉄東西線荒井駅からバスで行ける。山昭鮨さんという寿司屋さんがあるので行ってみたい。

  

仙台市天文台

仙山線愛子(あやし)駅から錦が丘方面までのバス(本数は少ない)で行ける。帰りに神社により、その後ちょっと離れてるけど寿司屋へ?

  

仙台市葛岡墓園

仙山線葛岡から徒歩ですぐ。ゴミ処理場とかがある場所なんだけれど実は一回も行ったことが無いので行って診たい。天文台の帰りでもいいかも?

2019-10-01

本日、駅名が変更された関西10

関西地方では、本日付けで10駅の駅名が変更された。

そのうち、4駅が大学名を追加する変更である

阪急

梅田 → 大阪梅田(おおさかうめだ)

河原町 → 京都河原町(きょうとかわらまち)

石橋 → 石橋阪大前(いしばしはんだいまえ)

阪神

梅田 → 大阪梅田(おおさかうめだ)

鳴尾 → 鳴尾・武庫川女子大前(なるおむこがわじょしだいまえ)

京阪

深草 → 龍谷大前深草(りゅうこくだいまえふかくさ)

八幡市[本線] → 石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう)

八幡市[ケーブル線] → ケーブル八幡宮口(けーぶるはちまんぐうぐち)

男山山上 → ケーブル八幡宮山上(けーぶるはちまんぐうさんじょう)

大阪モノレール

柴原 → 柴原阪大前(しばはらはんだいまえ)

2018-12-17

盛岡八幡宮境内にある IngressMission盛岡八幡宮クイズ

盛岡八幡宮境内にある IngressMission盛岡八幡宮クイズ」(初級、中級、上級)は境内にあったクイズの答えが書いてあった由来書きがなくなっていたりネット検索しても出てこなくて答えが分からなくなっているのでメモとしてここに残しておきます

盛岡八幡宮クイズ 初級

https://intel.ingress.com/mission/4886164f3a5d45f5b24029ed8d21b4f9.1c

盛岡八幡宮大鳥居

 Q、盛岡の総鎮守とされるこの盛岡八幡宮ですが、この盛岡八幡宮シンボルともなっている社号標にはなんと記されているでしょうか?

 A、盛岡鎮守

健康神社

 Q、五臓の神、癌神、中風神、健康神、生命神、薬神など、健康にまつわる神々が祀られている健康神社ですが、神社横にある案内に記されている人生において「悪であるもの

 A、病気

高倍神社・庖丁塚

 Q、この高部神社包丁塚ですが、高倍神社に祀られているのは何の守り神?(二文字

 A、料理

盛岡八幡宮

 Q、この八幡宮例大祭は毎年9月に何日間開催されるでしょうか?(数字文字

 A、4

盛岡八幡宮クイズ 中級

https://intel.ingress.com/mission/26bab5647322429aac96812e08b96b57.1c

盛岡八幡宮大鳥居

 Q、この大鳥居の横にある八幡宮社号標ですが、この社号標を書いたのは誰?

 A、山屋他人やまやたにん)

健康神社

 Q、この健康神社に足腰の健康を願って奉納されるものとは?

 A、わらじ

高倍神社・庖丁塚

 Q、この高部神社例大祭が行われるのは何月の何日?

 A、6月15日

盛岡八幡宮

 Q、この八幡宮前の広場ですが、流鏑馬奉納の為北側大鳥居から大鳥居までかなり長く広い敷地が用意されています。さてこの長辺の長さはおよそ何間

 A、220

盛岡八幡宮クイズ 上級

https://intel.ingress.com/mission/26bab5647322429aac96812e08b96b57.1c

盛岡八幡宮大鳥居

 Q、この大鳥居の横にある社号標ですが、書いたの方は、皇太子妃雅子さまのどの続柄にあたる方でしょうか?

 A、曽祖父(そうそふ)

健康神社

 Q、この健康神社には様々なけんこうにまつわる神々が祀られていますが、五臓の神、肺神、肝神、腎神、心神あと一柱は?

 A、脾神(ひしん ひぞう)

高倍神社・庖丁塚

 Q、毎年開催される例大祭奉納される包丁式では、調理人は、魚に手を直接触れず、何をかけない?

 A、息

盛岡八幡宮

 Q、盛岡八幡宮に祀られているのは?

 A、品陀和気命(ほんだわけのみこと)

2018-08-14

息子とのふたり旅が楽しすぎた

中2の息子と父子ふたり旅。

秋田岩手東京浜松を経由して今名古屋に向かってる。

名古屋で少し遊んだら帰り道となる。

本当に楽しすぎた。

幸せすぎた。こうやって一緒に喜んで旅に出てくれる息子で良かった。

ありがとう、息子。

間違いなく一生の思い出になった。

秋田では旧友に会い、稲庭うどんを食べた。ババヘラアイスというのも初めて食べた。美味しかった。

盛岡ではわんこそばに挑戦した。

2人とも100杯には届かなかったけど楽しかった。盛岡八幡宮も美しかった。

平泉ではレンタサイクル中尊寺金色堂を見てひたすら感動した。

2人で汗かきながら坂道を登ってたどり着いた本堂、なんか妙に美味しく感じた瓶のコーラ

東京では新宿リアル潜入ゲームをやったりVRゾーンマリオカートやったりゾーマをやっつけたりした。夜にはちょっといいお寿司を食べた。初めてカウンターでお寿司を食べて息子はすごく嬉しそうだった。

浜松では晩御飯を食べるところを探してひたすら歩いた。

地元でも食べれるチェーン店禁止ルールの旅だったので、お腹を空かしながらマクドナルドスルーした。

楽器博物館ではチェンバロの仕組みがすごく興味深く面白かった。

移動途中のタクシーに息子がスマホを忘れてきたりのトラブルもあったけどいい思い出。まだ旅は終わってないけどそれぞれの思い出がすごく愛おしく思える。

最後の夜ふたりホテルでくつろぎながら「あー、明日で終わりかぁ。もっと続いたらいいのになぁ」ってぶつぶつ言ってた。

息子には今回の旅行、一緒に来てくれてありがとうと何度も伝えた。息子も連れて来てくれてありがとうと言ってくれたから嬉しかった。

息子にとっても最高の思い出になってくれたら嬉しい。

もう少しだけ旅は続く。最後まで元気に楽しみまくって帰ろう。

あー、楽しかった!いっぱい笑った!

2017-06-04

山川出版日本史の何がすごいのか、さっぱり分からない

山川出版の日本史いかに凄いかについて情熱的に説明する」

http://blog.tinect.jp/?p=40198

はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。

これ、おっさん居酒屋でしゃべっているレベルですよね??

『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。

僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああい教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである

ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである日本民族いかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的価値観を元に記述せざるをえなくなる。

客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。

いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。 

  

クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。

例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています

平清盛後白河法皇幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団中央貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。

これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団挙兵して、ついに内乱全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。

平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。

しかし、畿内西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係説明が詰め込まれています

  

まず、平清盛後白河天皇幽閉したこと、安徳天皇即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています

当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています

  

次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団中央貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています

これはまさしく因果関係に言及しているわけです。

  

このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価因果関係がしっかりと述べられているのです。

そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。

  

なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています

治承・寿永の乱は、一般には源氏平氏の戦いといわれている。しか歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏平氏勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃近江河内源氏若狭越前加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏である。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである

彼らの動向をまとめあげ、武家棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。

教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。

この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。

こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。

他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。

  

【参考文献】

山川出版社『詳説日本史』(日B 001)

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

東京書籍日本史B』(日B 004)

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

桐原書店新日本史B』(日B 011)

(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)

  

  

  

余談:教科書の読み比べ

  

山川出版社新日本史B 改訂版』(日B 018)

伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏根拠地鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦千葉上総氏などの有力な東国武士主従関係を結んで御家人とし

頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います

三浦千葉上総という武士名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦ときに唐突に登場します。)

[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元三善康信就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦平氏を滅ぼした。

[]は引用者註。

この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。

鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています

  

  

  

桐原書店新日本史B』(日B 011)

北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦い平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇対立したので、法皇は同年、頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経さら平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門壇ノ浦平氏一門を滅ぼした。

この教科書歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。

上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏都落ち安徳天皇を伴ったことも言及なし。

というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります

  

鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。

教科書の中では唯一、桐原書店けが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。

(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍面接して」という説明も省かれています

  

["新恩給与"についての註]

土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。

これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!

所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世土地支配構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います

なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています

職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。

本家職①、領家職②、預所職②、下司職②、荘官職①

  

[引用者註:丸の数字はこの用語を掲載している教科書の数]

山川出版『日本史B用語集』より

この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地のものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。

しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています

地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利

  

山川出版『日本史B用語集』より

これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?

せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。

  

さて、桐原書店教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています

幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。

[ふたつの源頼朝像]

Aについては南北朝時代武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨甲斐善光寺蔵)。

とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。

  

  

  

東京書籍日本史B』(日B 004)

養和は平氏政権が用いた年号で、これを認めない頼朝の支配する関東では、ひきつづき治承の年号が用いられた。

網野善彦著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います

他の教科書には載ってませんが、ピンポイント東大入試に出題されました。

  

源氏鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮八幡宮前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。

鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍教科書だけです。

上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉経済流通」というのも掲載されています

東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います

  

  

  

山川出版社『高校日本史 改訂版』(日B 017)

こののち、後白河法皇義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。

頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています

あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷命令無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。

  

それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。

両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます

関西にある政権東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ

  

  

  

実教出版日本史B 新訂版』(日B 014)

平氏安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。

この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス

都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。

どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています

  

ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)

例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とありますさら西国御家人東国御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書関西中心っぽい史観は独特です。

  

  

  

三省堂日本史B 改訂版』(日B 015)

  

……って、おい!? 増田がここで文章を掲載できなくなったんだが??

せっかくこの先が本番なのに、文字数の上限なのだろうか。

つづき→http://anond.hatelabo.jp/20170605001028

2017-05-19

竹添 進一郎(たけぞえ しんいちろう、1842年4月25日天保13年3月15日) - 1917年大正6年)3月31日)[1]は、日本外交官漢学者。名は漸、字は光鴻(こうこう、みつあき)、号は井井(せいせい)と称した[2]。 甲申政変時の朝鮮弁理公使であり、後に漢学者として活躍した。日本学士院賞受賞。熊本県近代文化功労者[3]。

目次 [非表示]

1 来歴

2 主な著作

3 栄典

4 脚注

5 参考文献

来歴[編集]

肥後国天草(現・熊本県上天草市大矢野町)生まれ。父である小田左衛門(竹添筍園)は、肥前国島原出身医者で、天草大矢野島に移り住み、上八幡宮宮司二上出雲の娘である美加と結婚した[3]。順左衛門儒学者広瀬淡窓門下十八傑の一人でもあり、進一郎が幼い頃より儒学を教えた[1]。

1855年(安政2年)15才の時、天草より熊本に出て儒学者木下韡村の門下生となった。学業は極めて優秀で、木下門下では、井上毅木村弦雄と三才子と称され、さらに古荘嘉門を加えて四天王といわれる[3]。藩校時習館の居寮生となり、木下のはからいで士分に取り立てられ、藩命により京都江戸奥州を訪れる。江戸では勝海舟の知遇を得る[1]。

1871年(明治4年)、廃藩置県で失職し熊本市玉名市私塾を営んだ後、1875年明治8年)に上京する[3]。勝海舟の紹介で森有礼全権公使随行し、清国へ渡った。同郷の津田静一と共に清国を旅し「桟雲峡雨日記」を記した[1]。天津領事北京公使館書記官などを経て、1882年明治15年)、花房義質の後任として朝鮮弁理公使となるが、甲申政変に深く関わり辞任した[4]。

1893年明治26年)、東京帝国大学教授就任漢文学を講じた[1]。退官後、小田原暮らし、76才で没した。1914年大正3年)、日本学士院賞受賞(第4回)。文学博士従三位勲三等。熊本県近代文化功労者。次女の須磨子は、講道館柔道創始者である嘉納治五郎結婚した。媒酌人は、木下韡村の次男で後に京都帝国大学総長となった木下広次が務めている[1]。

2016-06-23

ウンともスポとも便ならざりき

江戸の詣出の離れでは

舛のぶんだけ

瓦翔ぶ

チーチクくわえた夫と息子

夜を溶かして八幡宮

2016-04-29

[] 宇佐市

宇佐市(うさし)は、大分県北部国東半島の付け根に位置する市。

  

全国4万社余りの八幡宮総本宮宇佐神宮があり、正月には全国からの参拝客でにぎわう。また本願寺別院東西とも)も旧北東部

広大な地域管轄するものでこれも規模は大きい。また市内には宇佐神宮以外にも観光名所が多く、県内有数の観光都市である

  

宇佐神宮門前町として発展した宇佐地区特に宇佐)、本願寺別院寺内町として発展した四日市地区港町として発展した

長洲地区の3地区が、伝統的に経済的同時に文化的中心地である

これ以外はほぼ全域が農村地域であり、県下最大の穀倉地帯となっている。

  

2005年平成17年3月31日 - 宇佐市院内町安心院町新設合併し、新たに宇佐市が発足する。

  

産物として、麦焼酎いいちこ」が全国的に有名な三和酒類が駅川地区山中存在し、全国に出荷される「いいちこ」がすべて

ここで製造されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%B8%82

2010-07-03

さっき思い立って夜の七里ヶ浜原付で向かったら、昼の景色と違いすぎて驚いた。めちゃくちゃな数の暴走族七里ヶ浜セブン駐車場を占拠していて、パトカーが2、3台で警戒アンド取締している図。うららかな日差しと潮風が気持ちいい昼間のあの空間は何処へ。

当初の予定ではセブンで一息ついて夜の浜辺を眺めて帰るつもりだったが、異様な雰囲気のなか、止まるに止まれず。そのままとりあえず鎌倉方面に走り去っておいた。ついでに八幡宮まで走り段鬘をUターンしてまた七里ヶ浜まで帰ってきたら、暴走族はまだまだセブンブンブン言っていた。

集会なのかな。見ようによってはコンビニの殺虫灯に群がる羽虫のようでもあった。

昼間の印象しかなかったから七里ガ浜のセブンはいつもすごい客足で、めちゃくちゃ良い商売していると思ったが、夜中はあの数のヤンキーを相手に仕事しなきゃならんのかと思うと、ただ旨い商売ってなかなか無いものだなと思う。

ああいう人たちの中には増田を見るやついるのかな。いたら面白いな。

 
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