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2017-05-19

右筆(ゆうひつ)は、中世近世に置かれた武家秘書役を行う文官のこと。文章の代筆が本来職務であったが、時代が進むにつれて公文書や記録の作成などを行い、事務官僚としての役目を担うようになった。執筆(しゅひつ)とも呼ばれ、近世以後には祐筆という表記も用いられた。

目次 [非表示]

1 概説

2 鎌倉幕府室町幕府

3 織豊政権

4 江戸幕府

5 関連項目

6 関連作

概説[編集]

初期の武士においては、その全てが文章の正しい様式(書札礼)について知悉しているとは限らず、文盲の者も珍しくは無かった。そこで武士の中には僧侶や家臣の中で、文字を知っている人間書状文書を代筆させることが行われた。やがて武士地位が高まってくると、公私にわたって文書を出す機会が増大するようになった。そこで専門職としての右筆誕生し、右筆文書作成執筆を行わせ、武家はそれに署名花押のみを行うのが一般的となった。これは伝統的に書式のあり方が引き継がれてきたために、自筆文書一般的であった公家とは大きく違うところである武家が発給した文書場合文書作成のもの右筆によるものでも署名花押が発給者当人のものであれば、自筆文書と同じ法的効力を持った。これを右筆書(ゆうひつがき)と呼ぶ(もっとも、足利尊氏のように署名花押まで右筆に任せてしま特殊例外もあった)。

なお、事務煩雑化すると、右筆正式手続を経て決定された事項について自らの職権の一環として文書作成署名を行い、これに主君発給文書と同一の効力を持たせる例も登場する。こうした例は院宣綸旨などに早くから見られ、後に武家の奉書や御教書などにも採用された。

現在では天皇皇后文章の代筆をする宮内庁文書専門員(中島司有、佐伯司朗といった書家が務める)は「祐筆」と呼ばれることがある。

鎌倉幕府室町幕府[編集]

源頼朝鎌倉幕府の原点である鎌倉政権を打ち立てた時に、京都から下級官人が招かれて事務的業務を行ったが、初期において右筆を務めていたのが大江広元である。後に、広元が公文所政所において行政に専念するようになると、平盛時(政所家事)・藤原広綱・藤原邦通らが右筆を務めた。

その後、将軍執権のみならず、引付などの幕府の各機関にも右筆が置かれ、太田氏や三善氏などの官人末裔がその任に当たるようになった。基本的室町幕府もこの制度を引き継いだが、次第に右筆の中から奉行人に任じられて発言力を増大させて、右筆方(奉行衆)と呼ばれる集団構成するようになった。

なお、室町幕府では、行政実務を担当する計方右筆公文書作成担当する外右筆(とのゆうひつ)・作事造営を担当する作事右筆などと言った区別があった。

織豊政権[編集]

戦国時代に入ると、戦時必要文書を発給するための右筆が戦にも同行するようになった。戦国大名から統一政権を打ち立てた織田・豊臣の両政権では右筆衆(ゆうひつしゅう)の制が定められ、右筆衆が行政文書作成するだけではなく、奉行・蔵入地代官などを兼務してその政策決定過程から関与する場合もあった。豊臣政権五奉行であった石田三成長束正家増田長盛は元々豊臣秀吉右筆出身であった。他に右筆衆として著名なもの織田政権の明院良政・武井夕庵・楠長諳・松井友閑・太田牛一、豊臣政権の和久宗是・山中長俊・木下吉隆・安威了佐などがいる。

なお、後述のように豊臣政権の没落後、右筆衆の中には徳川政権によって右筆に登用されたものもおり、右筆衆という言葉江戸幕府でも採用されている。

江戸幕府[編集]

戦国大名としての徳川氏にも右筆存在したと考えられるが、徳川家康三河時代右筆家康勢力拡大と天下掌握の過程奉行代官などの行政職や譜代大名などに採用されたために、江戸幕府成立時に採用されていた右筆は多くは旧室町幕府奉行の子弟(曾我尚祐)や関ヶ原の戦い東軍を支持した豊臣政権右筆衆(大橋重保)、関東地方平定時に家康に仕えた旧後北条氏右筆久保正俊)などであったと考えられている。

徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩から将軍就任した徳川綱吉は、館林藩から自分右筆江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書作成管理を行う既存の表右筆将軍の側近として将軍文書作成管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆将軍以外の他者私的関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆承認を得ないと、文書老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題将軍の指示によって調査・報告を行った。このために、大藩の大名江戸城を陰で仕切る大奥の首脳でも奥右筆との対立を招くことは自己地位を危うくする危険性を孕んでいた。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆待遇奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物・朱印状などの一般行政文書作成や諸大名の分限帳や旗本御家人などの名簿を管理した。

2015-12-29

文化教養がないということ」を読んで

じっくり批判することもできるが端的にいくぜ。ブコメでも言い尽くされている感もあるが。

まず文化単線的にとらえ過ぎ。もちろん東京中心ってのは否めない部分もあろう。だが世の中大阪もあれば北海道とかもある。カップ麺の味付けすら、現代私たち統一できていない。

文化ってのは多様性だ。そして本来平等な・フラットものだ。ただコンサートホール美術館に行くことが「文化的」と捉えるのでは極めて了見が狭い。そういうもの文化だし、批判の的になっている「東京底辺」にも文化がある。美術館とかコンサートとかキラキラしたものの、こんな一つの物差しで測るから、狭い「文化教養」があるかないかの議論しかできない。そして物差しの数値が30センチだろうが2センチだろうが、本来は良くも悪くもない(しかし現状では「東京は素晴らしい、なんでもある」というある種のアトモスフィア形成されてしまっているのだが)。

では何を見るべきだったのか。地域にある美術歴史だ。「何もない田舎」ってよく俎上にのぼるけど、本当に伝統も何もない超歴史的・脱歴史的土地などあり得ない。SFじゃねーんだから。例えば埼玉なんかバカにされるけどさきたま古墳群ってすげーだろ。はにわ! 稲荷山古墳もすごい。鉄拳! あと群馬館林藩とかやべーじゃん。他も譜代大名が入りまくってる。こういう場所江戸幕府を支えていたんだぜ。こういうのって多分かなり「何もない」の裏返しで「こんなものしかない」「恥ずかしい」と思われがちだが、本当は、胸を張るべきところ。未来に向けては、こういう気恥ずかしさを払拭することが文化を考える上で極めて大切だ。

話戻すけど、話者は東京中心文化に毒されすぎ。折角文化というものに興味があるのに、一つの物差ししか持っていない。若い人だと思うのに、そして田舎出身なのにこれはもったいない。都会と田舎だけで物差しは二つになる。物差し二つあった方が色々便利だろ。脳の中もおんなじだ。コンパスや分度器だって持っていたっていい。もちろん、文化の網目の中に東京大阪といったコアがあるのは否めない。だがそこから広がる多様性。これを幅広く測るスキルがこれからの「文化」を担い、あるいは語るものに求められるのではないか。話者の狭い了見では狭隘文化観が再生産されかねない。わりと真面目に極めて危険な態度だと思う。

 
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