はてなキーワード: 資質とは
トラバもブコメも「なんだ偉そうに」的な反応が目立つけど、増田はこういう職種の従事者を劣った人間だとは言っていない。
世間から軽んじられている人々を憐れみ、それに気疲れしてるということが増田からは読み取れる。
もし今後増田自身がそういった生活を余儀なくされても同じトーンで「模範的な”一般市民”からうっすら侮蔑を向けられているのがつらい」と愚痴るんだろう。
おそらく地位や名声、収入の格差、QOL、交友関係といった格差にまつわる事柄が、
生い立ちや個人の資質、今までかけてきた労力の差といったパーソナリティに集約されるのが、増田にとって不快なのだと思う。
僕は小売店でずるずるバイトを続けている身分だけど、誰と話しても「こんなとこでフリーターに甘んじてるような奴は思慮も複雑な感情もないただのでくの坊だろう」という前提で会話は進む。
大学院に通うバイト仲間もパートのおばちゃんも毎日午後8時に同じものを買って帰るリーマンも子連れの主婦も徘徊する老人も毎日へとへとな店長も近所に住むが疎遠になってしまった幼馴染も、
みんな自分の生活はだれにでも代替えできるものではないと思っている。
みんな「まああなたにはわからないでしょうけど」というものがアイデンティティに組み込まれている。
でも実質的には障碍者でもないなら人間社会なんていくらでも配置転換は可能だろう。
教育さえ施して周囲がそれ相応の扱いをするならば、
パートのおばちゃんが大学院で研究漬けになって若妻が企業戦士になりしなびたおっさんが子どもを連れた主夫になり俺がへとへとな店長で幼馴染が孤独に惨めにずっとフリーターってこともあり得るはずなんだ。
各々人間の間に蔑みが生まれるほどの能力差なんてあるのだろうか。
でも今の生活が崩れるはずがないという安心を得るため、自尊心を埋めるために、人はそれを人間としての程度の違いとして扱っているんじゃないのか。
公権として格差を規定して人を縛れば、それを個人のパーソナリティと紐付ける余地はなくなる。
魚屋の息子だから魚屋になるしかないような社会なら、あんたは馬鹿だから東大に進学できないのだというような発想はどこからも生まれない。
人として程度が低いからコンビニでバイトしてるしかないのかと打ちひしがれるか、コンビニでバイトするような身分じゃなければあれができたと空しく妄想してるか、
まずリーダーのマスダ
彼は特別これといって
秀でた一芸があるわけじゃないわ
ところどころ知性は感じるけど
基本的にはガキっていうか
良くも悪くも年齢相応
でも決断力があるのよね
うちのチーム個性は強いけど
主体性っていうのかしら
まとまりがないの
でもマスダはビシッと
次に何をしたいか
そのためにどうするべきか
方向性を定めて
真っ先に行動してくれる
次に紹介するのは参謀役
みんなミミセンって呼んでる
聴覚が敏感でね
普段は耳当てをしてるの
ひとたび外せば
あらゆる音を拾うソナーと化す
その聴覚もすごいけど
仲間の中で一番アカデミック
不可欠なブレインよ
お次は戦闘要員
いつも白黒の服を着てるから
みんなシロクロって呼んでる
こいつだけタメじゃないのよね
というか年齢不詳
仲間の中で一番ノッポで
たぶん大人だとは思うけど
控えめに言って破天荒
背は高いけど背伸びしてない
まーそれなりに楽しい奴よ
それしか能がないけど
それだけなら誰にも負けない
……あー実は
仲間もう一人いるんだけど
アンタ如きにゃ言えないわ
それにね
その子って繊細なの
複雑な子なのよ
そーいう子は置いてかれがち
単純な奴らは構わず進んじゃう
わたし達は違うけど
仲間としては気にかけるわよ
たまに立ち止まって周りを
皆のことを見ているから
あの子の歩調も知っている
でも仲間だからといって
踏み込みすぎはよくないわ
良い関係性を保つには
もし日清の社員の目の前でカップヌードルをジョークグッズとして使ったらどうなる?
怒られるよな
たぶんうちの商品をそんな風に使わないでください、とか言うだろう
で、だ
今回のは日清が公式にカップヌードルでシコろうキャンペーンをするようなもんなんだ
「世の中にそういう見方がある」のと「公式がそういう見方を肯定する」のには大きな差があるんだ
たとえば「これを機にタイツがエロアイテムとして認識されるようになってしまったじゃないか! 日用品なのに!」という意見の、「これを機に」の部分とか。「これを機に」ではなく、もともとそうだったでしょ、と。
女性の着衣でエロアイテム化を免れ得ないものはない。男性の両脚の間にある妖怪レーダーは(個々人により異なる指向性を持つものの)総じて感度はたいへん優秀なので、どんなものにでも男は欲情するしタイツとて例外ではない。タイツとは厚みが異なるだけのストッキングの中には男の劣情を喚起することに機能を絞ったものすらあるわけで、今までタイツだけが例外だったとする認識はおかしい。セーラー服やハイヒールがそうであるように、みんな性的にまなざされていることは薄々知りつつ着用していたはずである。
タイツにエロさを感じる資質を備えた紳士であれば今回のキャンペーンなどなくともとっくに目覚めていたはずで、今回のキャンペーンによって「お墨付きをいただきましたので性的にまなざし始めます」みたいな男はおそらくいない。そんなことは内心の問題なので、まなざすやつはもうとっくにまなざしていたはずなのだ。アツギが種を撒いたことにはならない。
つまり、今回のキャンペーンを契機にタイツに対して“新たに”注がれることになった性的まなざしは(考慮が必要なほどには)増えてはおらず、強いて言えば「タイツ絵」という絵画表現の魅力に目覚めてしまう人はいたかもしれないが、そのことが今後「じろじろ見られる」「タイツ着用者の性犯罪被害が増える」などといったかたちで実社会に直接的な影響を及ぼしていくとはちょっと考えにくい。
ある広告がモノ化と批判されるのを、「企業 対 モデル」の話だと勘違いしてるの? 話をズラしたいのなら、ちょっと悪質かな。
たとえばあるアニメが「女性をモノ化してる、女性差別だ」と批判されたとき、「アニメ会社は声優をモノ扱いなんてしてない」って言っても、何の意味もないでしょ? あるいは「〇〇たんは差別なんてされてないであります!そもそも二次元ですしpgrwww」とか言っても、可哀想な目で見られるだけだよね。
広告でも同じ。モデルは広告の中で、あるキャラクター(例えば〇〇社の製品を使って幸せになってる架空の誰か、みたいな人)を演じてるに過ぎないよ。批判されてるのは、その架空世界やストーリーそのものであって、それを演じてる誰かではない。その架空世界やストーリーそのものに差別的な構造があるとすれば、それは結局のところ作り手の思想なわけで、つまりこれは「その広告のクリエイターの思想 対 世間」の話なんだよ。思想そのものは自由だ。でも、それを世間に向けて「表現」という形にするなら、厳しい批判にさらされることは覚悟しなくちゃいけない。
そして更に言えば、広告が企業にとっていわば「顔」である以上、クリエイターの背後には当然ある会社などの考えそのものがあるわけで。ある企業がお金かけて差別的なメッセージを「世間」に流したら、それは明らかに批判されるべき行為だよ。無自覚にやってるなら修正と自覚が必要だし、自覚してやってるならそれはヘイトスピーチだよ。
昔は、ある思想が「表現」として世間の目に触れるまでには何段階もの目が入って、明らかに炎上するような偏った思想はチェックされてた。まあ、世間もおおらかだったんだけどね。ところが、インターネットやSNSのせいで「個人の内心表明」がすぐ「全世界に向けた宣伝」に直結した。さらに、Twitterなどの「嫌なら見るな」式のクローズドSNSは、規制の眼の入らない小さなコミュニティを大量にネットに作り上げることを簡単にしてしまった。その結果「偏った思想の人ばかりの村」ができ、そこで、「個人の内心」を垂れ流しても別に問題ないじゃんね、みたいな誤った認識が育てられることになった。それに対して公的な規制がかけられつつある現在、その住人らが「思っただけで取り締まられるのか!表現のじゆう!」みたいに騒いでいる現状、これはとても面倒くさい状況だと思う。
ここからは余談。
人々が神秘に弱かった時代は、「神様」の権威の下に社会の制度を作ることが、もっとも「オープンなコミュニティ」を作る最適解だった。
その後、少しの合理性を備え、でも人と人がまともにコミュニケートできず力こそパワーな時代には、強者が「民の声をよく聞く」ことが、「オープンなコミュニティ」を作る最適解だった。
コミュニケートのレベルが少し上がってくると、王個人の資質によらずシステムとして「民の声を聞く」、すなわち民主主義が「オープンなコミュニティ」を作る最適解となった。
そしていま、コミュニケートの手段が飛躍的に加速した現代、その手段が逆に人々をクローズにしている状況で、民主主義が適切に機能しない状況を迎えてしまった。
(これは別にTwitterが悪いという話じゃない。彼らは人々の欲求に応えただけで、問題は、そういうクローズなコミュニティを求めてしまう私たちの方にある。)
民主主義が本当に息絶えてしまう前に、私たちは、新しい「オープンなコミュニティ」を作る思想を作り上げなきゃいけない。
それは何か。ヒントはおそらくこれまでの数千年の歴史の中に示されているだろうと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20201107053636
今となってはあれを「タイツ屋のキャンペーンとして適切だった」と考えている人は少ないと思うし、元増田もセーフとは言っておらず批判するなら理論武装したほうがいいよと言っているに過ぎない。
それなのに「そんなことをしてやる義理はない」「理路など必要ない、ひとりひとりの言葉にできない不快感と向き合え」といった感じのブコメが散見されて暗澹たる気持ちだった。そういう人たちは「不快な気持ちにさせて申し訳ありませんでした」という謝罪文が引き出せれば満足なのだろうか? 1件1件の炎上で都度スカッとしたいだけならそれでもいいんだろうけど、そうではないよね。
口々に好き嫌いという気分を述べているだけではただの人気投票であって、そんなもの何万票集まったところで「このキャンペーンはウケなかったな」「フェチは燃えるね」くらいの限定された結果しか導けないでしょう? 一企業の一通の謝罪文止まりで発展性がない。
そうではなく、社会を変えたいならば、つまり女性の社会的地位の向上とか生きづらさの解消とかを本気で目指しているならば、問題をきちんと一般化して「こうしたキャンペーン手法は女性全体にとって、ひいては社会一般にとってマイナスである」というセオリーを確立したほうが効果的(=説得力・影響力がある)だと思いますよ、というアドバイスなんだけど、大きなお世話なんですかね……。
説得力を完全に放棄したこの手の言説をいわゆる「はてフェミ」たちが口にするのをしばしば目にしますが、自分には誠実な態度とは到底思えないんですよね。もっと女性の意見を聞けと言うわりに肝心の対話は拒絶するんだから。たとえばブコメにもすごい境地に行き着いた意見あった。
なぜそんなに偉そうなの?討論するために声を上げた訳ではないのですが。
自分(たち)が上げた声は常にすべて正しくて無検討で聞き入れられるべきだという態度のほうが数万倍偉そうでしょう。せめて話し合いましょうよ。まあこれは極端な例でしたが、「お前は馬鹿なのでわかっていないようだが自分にはわかっている(説明はしないがな!)」というスタンスのコメントはほかにもいくつもありました。
どんな議論でも同じだけど、たくさんの意見の中には問題の核心に迫るものから取るに足らぬくだらないものまで色々あって、種々雑多、玉石混交。その中からノイズをより分けてポイントを整理して論点を明確化していくのは不可欠なプロセスだと思う。そこから全速力で逃げようとするのは「女には理屈が通じない」「論理的な話ができない」っていうジェンダーステレオタイプを自己強化してしまう結果を招きかねない思いますよ。余計なお世話かもしれませんけど。
一例だけど、様々な批判の切り口の中に「タイツをエロアイテム扱いするのはけしからん」というテーマがある。この主張にも数々の派生バリエーションがあるが、その中には検討に値しないものもあると思う。
たとえば「これを機にタイツがエロアイテムとして認識されるようになってしまったじゃないか! 日用品なのに!」という意見の、「これを機に」の部分とか。「これを機に」ではなく、もともとそうだったでしょ、と。
女性の着衣でエロアイテム化を免れ得ないものはない。男性の両脚の間にある妖怪レーダーは(個々人により異なる指向性を持つものの)総じて感度はたいへん優秀なので、どんなものにでも男は欲情するしタイツとて例外ではない。タイツとは厚みが異なるだけのストッキングの中には男の劣情を喚起することに機能を絞ったものすらあるわけで、今までタイツだけが例外だったとする認識はおかしい。セーラー服やハイヒールがそうであるように、みんな性的にまなざされていることは薄々知りつつ着用していたはずである。
タイツにエロさを感じる資質を備えた紳士であれば今回のキャンペーンなどなくともとっくに目覚めていたはずで、今回のキャンペーンによって「お墨付きをいただきましたので性的にまなざし始めます」みたいな男はおそらくいない。そんなことは内心の問題なので、まなざすやつはもうとっくにまなざしていたはずなのだ。アツギが種を撒いたことにはならない。
つまり、今回のキャンペーンを契機にタイツに対して“新たに”注がれることになった性的まなざしは(考慮が必要なほどには)増えてはおらず、強いて言えば「タイツ絵」という絵画表現の魅力に目覚めてしまう人はいたかもしれないが、そのことが今後「じろじろ見られる」「タイツ着用者の性犯罪被害が増える」などといったかたちで実社会に直接的な影響を及ぼしていくとはちょっと考えにくい。
ちょっと身も蓋もないことを書くけど、もともと男性が異性を見るとき、「審美的まなざし」と「性的まなざし」をきちんと切り分けてはいない。「素敵だなあ」と「そそる」の間はグラデージョンというか入り混じっていて、「ここから純粋、ここからスケベ」というきっぱりした線は引かれていないのだ。結果として、女性が審美的な魅力を高めようとすれば多かれ少なかれ性的な魅力も勝手に高まってしまう。これは女性本人が異性の目を惹くことを意図していなくてもそうなる。オシャレとは本質的にそういうものではないだろうか?
議論が深まっ太郎
承前 : Part-8 https://anond.hatelabo.jp/20201018143903
次回 : 予定無し
今回は路頭🙏おじさん専用回だ。毎回コメントをしてくれたお礼に救いようのない話をする。
学歴があり頭が良く生産性の高いエリート達が高給を稼いでいるように見えるシリコンバレー。
「シリコンバレーではlayoffは日常茶飯事。皆慣れたものであっけらかんと次の職に移る」
シリコンバレーで職を失うことは母国で職を失うことよりも悲惨な状況になる場合が多々ある。
まず、Unvested RSUはすべて没収される。以前取り扱ったXさんのような場合、3年目以降のvestを目前にして首を切られようものなら号泣では済まない。
場合によってはvested stock optionさえ没収されることもある。Skype買収の際の詐欺紛いの雇用契約書によるSO没収を覚えている人もいるのではないだろうか: https://techcrunch.com/2011/06/26/skypes-worthless-employee-stock-option-plan-heres-why-they-did-it/
さらに、外国人の場合visaが問題となる。H1の場合「すぐさま」(実際に何日かの解釈は未決定)次の職を見つけねば帰国しなければならないし、F1 OPTの場合は数週間だ。
Lの場合は問答無用である。さらに、こうして帰国することになった後、また米国に戻ってくるのはかなりの骨だ。求職の難易度は一段跳ね上がる。H1が取りにくいインド人などは死活問題である。
GCの手続きもやり直しだ。PERMまで終わっていれば大した影響はないが、それ以前ならほぼ一からのやり直しである。
こうした状況で心底あっけらかんとできる人はそういない。表情には出さなくても、心中は絶望と怒りで満杯だ。
社員が職を追われる状況全体を指してFiredと呼ぶ人は多くいる。これは無知かoversimplificationだ。ごく一部のみが本当のFireを経験する。つまりmutual agreementが一切無くinvoluntaryなfire for causeだ。
何故か。カリフォルニアはat-will employmentであるから、社員の首を切るのはいつでも如何なる理由でも自由のはずではないか。
現実は随分と違う。例えば、ある社員のパフォーマンスが悪かったとしよう。単なる中間管理職であるその上司が"You are FIRED!"とBTTFの一場面のようにその社員をfireしたとしよう。
何の事前準備も無く、何の契約書もない状況でそれをした場合、その社員が会社をdiscriminationで提訴する可能性がある。つまり、このfireはパフォーマンスが原因であったというのはbaseless、実際はその社員のrace, religion, genderなど法律で差別が禁止されている要素によってなされたものだ、と。実際に提訴する社員は少ないし、勝訴する可能性もそれほどではない。しかしその可能性があること、その場合の会社への損害が、特にブランドが大事な大企業の場合多大であることから、のっけから示談に持ち込まれる可能性がある。その社員は大枚をせしめることになる。そうでなくても、首を切られた社員はunemploymentを受給できる(社会通念に触るようなcauseの場合を除く)ので翌年からinsuranceに影響する。たかが一社員のために全社に関わるそんな問題を起こした中間管理職の運命は推して知るべしだ。
つまり、だれの目から見てもその社員が社会通念上あるいは雇用契約上の何かに抵触したような場合(GoogleのJames Damoreが記憶に新しい)でない限り、何らかの事前準備、あるいはその社員との間の何らかの承諾書なしに首を切ることは大企業の中間管理職にとって考慮の外なのである。一部下のパフォーマンスどうこうで自分を危険にさらす人間がどれだけいるのか。いるとしたら馬鹿である。
しかし、まだブランドを気にする段階にないstartup、あるいは法律やHRにまだ詳しくないその経営者などによってこのreal fireが行われることもある。訴訟されないのはsheer luck。後でlegalやHRに釘を刺されることだろう。
これはWork Force Reduction (WFR)あるいはReduction In Force (RIF)と呼ばれる、本物のlayoffだ。
ビジネス上の理由があり、きちんと書面で事前準備をして、その部署の全部または一部をlayoffする。
LegalとHRがしっかり事前準備をしている限り、訴訟リスクはほぼ無い。但し、その部署は縮小傾向にあることが前提なので、翌年からのH1/GC手続きに制限がかかる。
個人のパフォーマンスどうこうの事由ではないので、大抵severanceは太っ腹であり、他部署へのtransferもできるだけ支援される。
社員にとっては悲劇ではあるが、全体でみるとまだ地獄の入り口にも達していない場合である。
今回の主眼である。
その社員が本当にlow performerだったとしても、fireはできない。ではどうするか。以下のどちらかが必要となる。
どのようなlayoffだっとしても、まず一つ目の選択肢が与えられる。severanceもきちんと払われる。逆に言えばそれを人質にしてこの選択を迫る。
あくまでもvoluntaryなので離職後にunemploymentは出ない。早急に次の職を探さねばならない。
社員が承諾しない場合のため、二つ目の選択肢の準備が必要だ。これこそが恐怖のPerformance Improvement Plan (PIP)だ。
その社員は即座に辞めることを拒否する代わりにPIPに入ることを選択し、一定期間その上司と何らかの「プロジェクト」に携わる。
名前が示す通り、表向きの目的は社員のパフォーマンスを向上させることだ。実際にそういう場合もあるだろう。しかし、囁かれる事例のほとんどは訴訟リスクを下げる形式付け以外の何物でもない。
上司がせっかく用意したPIPでも向上の兆候が見られなかった。明らかなlow performerでありこれを事由として解雇する、となる。
中には明らかに達成不可能な「プロジェクト」をあたえられる場合もあるし、たとえ達成してPIPを抜けたとしても今後の出世はほぼ無理だ。
PIPをもってdeath sentenceと呼ぶことが多くあるのにはこういう背景がある。ほとんど全員が宣告と同時に職探しを始める。
想像してほしい。訴訟リスク低下のためだけに、達成不可能なように、自分で辞めるように、調整された拷問を受けるのである。
しかもそれを執行するのは自分を無能と判断した上司。実際どちらが根本原因なのか他人は知る由もない。
まさに糞である。
会社としてもこんな制度があるのは好ましくない。しかし現実には存在する。何故か。
残念ながら、この場合も多い。一流大学から来た、LeetCode面接を華麗に突破した新入社員たち。
彼ら全員が実務で使える技術者になれるか? No way!
説明が難しいのだが、実務で使える技術者になれるかどうかはその人の資質による。LeetCodeをたくさん練習してきたかどうかとは殆どかかわりがない。
脳の回線が何か違うのか、実務でとことんダメな子はいくら教育してもダメなままであることがほとんどだ。そのような例を多数目にしてきた。それこそ大事なコードを書かせてはいけない人々だ。
自分は面接でLeetCodeは一切させない。Unit testについての経験、難しかったdebugの経験などについて質問することにしている。
しかし、業界全体ではLeetCodeを多用し(楽なのだ!)、LC面接に向けて特化練習してきたダメな子とそうでないが実務で使える子と、評価が逆転することになる。
ただの暗記・努力コンテストなら四書五経の暗唱と変わりないではないか。
糞すぎる。LeetCode delenda est!
Coasterというのはもともと、ある種の成功者達を指していた。Google/FBなどが買収した企業の社員であったり、長年いて大事なシステムの難しいところをすべて心得ている人だったり、とにかく会社が失うわけにはいかない人々だ。そういった人々の中には、遮二無二働くのをやめ、会社に来るだけでほとんど仕事をしない。しかしRSUはたっぷりと支給されているので辞めるわけにもいかない。Rest and vest. Retired at office. 悠々自適の人生を送る、つまりcoastingしているのだ。そういった人々の中には年間$1Mを得ているひともいる。
ある種の糞コミュニティではこの言葉の意味を広げ、単なるslackerにも適用するようになった。
真のcoasterほど会社に必須の、高ランクの社員ではないが、長期間昇進しなくても首を切られないterminal level (GoogleのL5, AmazonのL6等)に達し、あとは流している人々だ。
会社によっては沢山いる。こういったslackerの方が真のcoasterよりも問題である。
すでに功成り名を遂げた真のcoasterは他人のプロジェクトに口を挟まず、その卓越した経験から時にpinch hitterをすることもある。彼らが高給をせしめようが、会社が傾かない限り自分はどうとも思わない。
逆に、slackerは自分の存在を正当化し、最低限必要な評価(GoogleのCME等)を得るために他人の成果を横取りしたりpoliticsに興じる場合がある。
Passive-aggressive masterも多くて非常に苛立たしい。Nefarious shxtbag. Atrocious slacker. GTFO for god's sake!
まさに癌である。是非ともPIPられて欲しい。
本当に救いようがないのはこの場合だろう。
上記のようなlow performer, slackerという判断は誰がするのか?もちろん上司である。
ではその上司の判断は常に正しいのか? NO FUXKING WAY!
実際はできる社員が糞上司に陥れられてPIPられる話は枚挙に暇がない。
大体、本当にその社員がダメだったとして、そのような状況になった原因のある程度は面接の手法だったりプロジェクトの進め方だったりにもある。
その全責任を部下に押し付けて、自分は被害者かのようにふるまうのだ。
さて、各会社でどの程度PIPが行われているのか?
糞コミュニティ筆頭blindで"PIP"で検索して出た中から、ある程度スクロールダウンした後のキーワード発生回数を見てみよう。
Amazon+AWS | Microsoft+MSFT | GOOG | APPL | Netflix | |
---|---|---|---|---|---|
653+46 | 85 | 59+16 | 55 | 40 | 2 |
単なるブラウザ上のキーワード検索なのでその会社でのPIPなのかどうかとは関係ないかもしれない。しかし、以上のFAANG+Mの中で一つだけダントツにヤバいのがいるのは確かだろう。
AmazonのPIPは際立っている。そもそも、他の企業と違い、unregretted attrition (URA)が「最低で」5-10%になるように管理職にPIP対象者選定を強制する地獄そのものの制度があるのだ。
FBのPIPもよく知られているが、少なくとも建前上は必要な場合のみ行われるもので、最低首切り率などという制度は(自分の知る範囲では)無い。
このような状況で、自分やそのお気に入りがPIPられないように、管理職はbackstab, throw under the bus, hire to fireに長けていくことになる。
まさに地獄である。いや、正直さや善行をappreciateする閻魔様に管理される地獄の方がどれだけ良いか。
ところで、上のランキングの最下位であるNetflix。ではPerformance-based layoffが無い楽園なのかというとまったくの逆である。
どんどん首を切る。制度として確立したPIPすらなく、単に首を切るのだ。もちろんseveranceは選択肢にあるが、多くの社員がそれを選択せず提訴したらどうなるのか、興味がわく。
この辺り、技術者間にランク分けがないのと合わせ、startupの気風を色濃く残すFAANGの変わり種といったところだろう。
PIPという点ではもっとも安全なのはGoogle. PIPがほぼ無く、L5に到達してCME以上なら他のチームに渡り歩くだけで首を切られることは無い。
それはいいことなのかどうか、また色々と風聞のあるGCPではどうなのか、という点まで行くとdepends on whom you ask。興味があれば自分で情報収集してほしい。
今回までで9回、時には30分よりも大幅にかかって書くことになった。
面白がってくれた人、役立つ情報として何かを学べた人、がいれば幸いである。
他に何か、多くの人が興味を持つトピックがあれば次回を書くかもしれない。
但し、「どうしたらシリコンバレーで就職できるか」などの他人任せの質問に答えるつもりはない。自分の人生は自分で切り開いて欲しい。
「政府を叩いてばかりいる!」と言われた野党政治家の態度は2種類に分かれる。
①悪いものを叩いて何が悪い。叩いてばかりいる、などという言葉は、正当な批判を封じる呪いである。
②野党は叩いてばかりなどいない。実際に〜〜をし、自民党の議案に賛成すらした。ただマスコミが取り上げないだけである。
いずれも事実ではある。
しかし後者は褒め称えられ、前者は罵られるべきである。なぜなら前者がやっているのは、正義であって、政治ではないからだ。正義がやりたいなら検事か革命家になるべきだった。政治家の仕事ではないし、政治家の資質がない。①を述べてしまう野党政治家は、十分に国民が賢ければとっくに選挙で落ちているし、落ちるべきである。
人の怒りというものは往々にして誰かに利用されることにしかならない。誠実な戦争というものが存在しないのと同じで、この世界には誠実な怒りというものは存在しない。それは通貨に似ている。うらぶれた通貨だ。誰かが、誰かの何かが、へばりついた通貨だ。そういうものと一緒なんだな。
とにかく、俺は怒りというものがあんまり得意じゃない。大体において、怒りというものには何の価値も無いし、いわばそれは何かに対するアレルギー反応と一緒なんだな。
それをエネルギーに換えている人もいるって? 人糞から電力を作り出す装置を作った人間の方がずっと優れてるよそんなの。怒りというものが何なのか全然分かってねえなお前らは。
何でお前らはそんなにも馬鹿なんだ?
いいかい、感情においては多くの場合同一律とか矛盾律とか排中律というものは通用しないんだ。感情の世界において怒りは怒りじゃないし、悲しみは悲しみではない。時に好意は好意ではない。執着は執着ではない。何でそんな簡単な理屈がお前らには分からないんだ? お前らは何を考えて普段生きてるんだ? 何も考えていないんだろうな。分かるよ。
これは怒りじゃない、侮蔑だ。
侮蔑は侮蔑じゃない。感情の世界においては、同一律が機能することはない。だから俺はお前らを侮蔑しているけれど、これは侮蔑じゃないんだ。
世の中の本当の感情はそれほど多くなくて、それは愛情と憎しみなんだよ。
分かるかな。
分かんねえだろうな。分かるよ。
三段活用だよ。お前らに対しては俺は年中こう思ってるんだよ。「分かるかな。分かんねえだろうな。分かるよ」って。分かるよ。俺はずっと色んなことを考えてるからな。だから分かっちゃうんだよ。お前らが分かってねえってことが。そして、お前らが何も考えてねえってことが。なあ。分かっちゃうんだよなあ。
ドストエフスキーはお前らみたいな人間を愛していたよ。ドストエフスキーの書いた小説を読んだかい?
『悪霊』を読んだかい? 『悪霊』に登場する人物には一人として理知的な人間は存在しない。ヴェルホーヴェンスキーも、スタヴローギンも、ステファン先生も、皆々馬鹿ばっかりだ。何も見えてねえ。メクラだよ。盲。でもなあああああああああ、ドストエフスキーの愛が伝わってくるんだよあの物語からはなあ。お前ら分かるか? 分かんねえだろうな。分かるよ。
大小説家の共通点はなあ、一つだよ。その資質は一つだよ。それはね、取るに足りないものを愛するということなんだよ。
分かるかな?
わかんねえだろうなあ。分かるよ。でもね、ドストエフスキーは多分お前らみたいなやつのことを愛していたと思うよ。いいかい。これは『悪霊』を読まないとお前らには絶対分からないと思うし、あるいは読んだとしても全然分からないかもしれないんだけど(その可能性の方が高い)。とにかく、ドストエフスキーはお前らみたいなカス野郎達のことを愛していたと思うよ。何故かって?
『悪霊』には二十名程の登場人物が出てくるんだけど、そのどの人物を取っても皆愚か者しかいないんだよ。面白いだろ? そして、そのどの人物に対しても緻密な描写が施されている。人間性の掘り起こしがかなりの深度まで及んでいる。
とにかく、『悪霊』。これは面白い。何故って、あんな愚か者しかいない小説を1200ページくらいぶっ続けで書けるモチベーションがどこから湧いてくるか余人には想像もつかないからなんだよ。そしてそれはね、ドストエフスキーが愚か者のことを、取るに足りない者達のことを、愛しているからなんだよ。
ドストエフスキーは貧困街の医者の息子として生まれて、貧困故にありとあらゆる不幸によって苛まれる人々と幼い頃から接してきた。特に、強姦された少女との交流の話は有名だな。
幼い内から、ドストエフスキーは、この世界にいる人々の多くは愚か者で、取るに足りない存在で、そしてそれ故に愛おしく美しく描くに足る存在であることを直観してたに違いない。馬鹿野郎どもが。つまりそれはお前らのことを愛していたってことなんだな。分かるか? わかんねえだろうなあ。
俺が読んだことのあるドストエフスキーの小説はそんなに多くなくて、罪と罰と、カラマーゾフの兄弟と、悪霊と、それから何だったかな。死の家の記録と、賭博者。多分これくらいだと思う。
まあとにかく、ああ、怒りが尽きてきてしまった。でも、本当は誰にも怒ってないんだ。これは同一律の存在しない世界なんだよ。感情の世界には、同一律は存在しないんだ。
怒りは怒りじゃないんだ。悲しみは悲しみじゃないんだ。
でも、唯一、いや唯二つ存在しているものがあって、それは憎しみと愛情なんだよ。でも、憎しみって結構簡単に消えちゃう気がするなあ。俺は忘れっぽいのかしらん。分からん。いや、あるいは気付かないだけで憎しみは存在し続けているのかもしれない。分からない。まあいいや、愛情もかなり長く存在し続ける。あるいは消えるかもしれないけれど、その消えた後に残った穴ぼこみたいなものもまた、愛情なんだな。
リーダビリティと同様の概念として、メモラビリティーという概念を導入したい。人の頭の中には、記憶しやすい情報と記憶しにくい情報がある。忘れやすい情報と忘れにくい情報がある。そして、そのような情報の中から、記憶しやすい情報と、忘れにくい情報を選り分けていく。すると大体二つのものが残る。それは、愛情と憎しみなんだね。それが人間のアーキタイプなんだ。多分皆こういうことは考えないんだろうなあ。ねえ、「覚えやすさ」っていうものとか「忘れにくさ」っていうものは、多分人間の構造というものと一直線に繋がっている。人間の、多分原型といっていい枠組みと、ダイレクトに繋がっている。何故って、人間の心を作っているものはたった二つだからだよ。それは、覚えやすいものと、忘れにくいものだよ。ねえ。考えてみたことはあるかな? それ以外のもので人間の心は作られていないということについて。
分かるよ。
分かる。
だから答えなくていい。お前らはそんなことを考えたことはないだろうからね。分かる。
まあ人間が人間たりうるには色んなことが必要で、そして、その色んなことの内で我々がもっとも普段から必要としているのは、「考えているフリをすること」なんだ。
考える。でも考えていない。怒る。でも怒っていない。好む。でも好んでいない。嫌う。でも嫌っていない。楽しむ。でも楽しんでいない。悲しむ。でも悲しんでいない。
それがないと人間の生活は成り立たない。例え怒っていなくても人間は怒ったフリをしないと生きていけない。じゃないと生活は成り立たないからね。
どこかの増田が、青葉真司はラノベなんか目指さず、西村賢太のように私小説をやればよかったと言っていた。
こういう現実的な進路指導には巡り合えず、きれいなことを言う弱者ビジネスの養分にされるだけで一生を終えるのが底辺だと思う。
スポーツ・お笑い・芸能はワナビビジネスの養分で終わるリスクが高く、持たざる者にも可能性のある道とは言えなくなった。
前向きに頑張ろうとして自己啓発系につかまる。プロ弱者は実質ヤクザという認識が世間に広まり余程フォトジェニックでないと自立は難しくなった。
では、どうすれば良いのか。
トップにいるバカを徹底的に褒めあげフォローすることで、太実家子女が空気のように得ていた機会を得るのだ。
ブサイク・低学歴・貧困などの資質は、バカの気分をよくするため優位に働く。
のちにバカをヨイショしてたという理由で非難されるリスクがあるため、成功ギリギリの段階で無能への正直な気持ちを公の場で発言したり引きづり下ろすと良いだろう。
追記はしないつもりでいた。
でも、ある1人だけにコメントを返させてもらう。
https://anond.hatelabo.jp/20201001022747
衝撃を受けた。
ここまであなたの心を傷つけるとは思ってもみなかった。
でも、あなたにだから正直に言わせてもらうけど、辞めたことは後悔していない。
5年以上が経ったとは言いつつ、もっともっと、かなり昔の話なので当時の感情を思い出すのは難しいけど、それでも転職という答えが幸せになるための道だったんだよ。
日記は2つともすべて読ませてもらった。
文系の学部出身で、事務職で応募して、もの凄く面倒くさいエントリーシートを書いて、何度かの面接の後に採用された。
企画部門への配属だった。生産管理を希望していたけど通らなかった。
増田でこんなことを書いている以上は察してもらえると思うが、俺は失敗した側の人間だ。
任天堂は素晴らしい会社だ。世界に誇ることができる。でも、考えが甘かった。俺には適合しなかった。
気持ちの整理はついている。別に1万字とか書き殴るとかではないので、もし暇だったら読んでほしい。
大学3年の秋になって、いよいよ就職活動を始めることになって、大学のフリースペース(名前は忘れた。インターネットができる端末とか、調べものができる書棚が置いてある広い建物だった)で四季報を読みながら応募先を決めていた。
どこに応募するかを決めるにあたって、色々と考えた。
「将来、どういう人生を送りたいのか?」
そして、考えがまとまった。
趣味が大事な人間だった。おっさんと呼ばれる年になった今でも続けている。
それで、四季報やインターネットを見て、そういう雰囲気の会社を見つけては説明会に申し込んだ。
なぜ、任天堂を選んだのかというと、上の条件を満たす可能性のある会社だと思ったからだ。実際にそんなことはなかったのだが。
後は、当時所属していた学際サークルの先輩が、任天堂に入りたいと豪語していたけど普通に落ちていたからだ。その先輩は、サークルの中でも指折りの実力者だった。
京都大学に現役で合格して、4年間の学生生活を謳歌して、サークル活動では常に頼られていて、住友商事に内定して、同志社大学のサッカー部のキャプテンが当時付き合っていたチアリーダーの子を口説き落として、数年後には結婚して、今では新しい家のブランドを作る仕事をしている。
そんなレベルの超人が一次面接でお祈りされるなんて、どんな会社なんだろうと思った。
俺が通っていたのは一流の大学ではなかったけど、それでも受けてみようと思った。
採用試験の内容は述べない。俺の体験談は面白くないと思うし、年を経て記憶がだいぶ怪しくなっている。インターネットで、採用試験がどんなものかを紹介しているページがあるけど、まさにそんな感じだった。
書類選考で勉強のできない人を落とした後で、『創造性』がありそうか?というのをつぶさに見る。
本題に入る。
俺はプロの世界を嘗めていた。仕事にかける情熱が同期と比べて明らかに低かった。社会人として生きる覚悟が足りていなかった。
プランナーというのは、ファミコン時代のマリオで例えると…土管はここに置くとか、空中のブロックをどこにするとか、1UPのキノコは右に流れるべきか左に流れるべきか、みたいなことを考える。
大体の会社ではそうだと思うが、新入社員に任される仕事は“形”や“答え”のあるものだ。俺が最初に任された仕事は、企画部門の中でも相当に定型的なものだった。
超すごい人達がゲームのデザインをして、レベルの高い人たちが上記のプランニングを済ませて、さあ開発だ!となる辺りの段階だ。
ぜんぜんダメだった。ダメ過ぎて上司や先輩に怒られ放題だった。お前情熱を感じねーんだよ、みたいなことをよく言われた。その度にムカついたけど、知能も知性も知識も足りなさすぎて、黙って耐えるのがやっとだった。
たぶん同期にも馬鹿にされていた。なんであんなのが入ってきたの?って言われていた可能性が俺の中では90%くらいある。
任天堂の社員にはどんなイメージがある?キラキラしているイメージだろうか。
実際に見てみればわかる。総合商社とか銀行員とかコンサルとか、そういうのとは異なる人種だ。一応は製造業なので、見た目は大人しめな人が多い。
でも、中味は違う。元気があって、溌剌としていて、自分の意見をはっきり言えて、他人の意見を受け入れる力があって、何より頭がいい。俺みたいのもいるけど少数派だ。
2年目、3年目も同じような仕事内容だった。いわゆる“答え”のある仕事。レベルの高い同期は本格的な企画の仕事に進んでいた。みんなが知っているようなゲームタイトルの制作会議に20代の若者が出て行って、父親くらいの年齢の社会人と侃々諤々の議論をしていた。
当時の俺は、今のよくない状況を肯定的に考えていた。むしろ喜んでいた。
なぜかって、このまま永遠に形のある仕事、答えのある仕事をしていれば、企画を出す仕事をしなくてもいいからだ。当時の俺は、自分のアイデアが世の中に出ることに関心はなかった。ただ、毎日定時に帰って、それなりの額の給料をもらって、土日祝日に趣味を楽しんで…そんな生活に満足していた。
毎年のように事務系の部署に異動希望を出して、「いつかは通るだろう。俺のような者を企画に置いておくはずがない」とアホみたいなことを考えていた。
先輩がひとり、またひとりと消えていき、気が付くと俺は中堅社員になっていた。ある年の4月、初めて企画らしい仕事を主担当として任されることになった。
実力が足りていなかった。あるゲームの操作画面や説明画面、設定画面なんかを手掛けることになった。今風の言葉で言うとユーザーインターフェースだ。
ゼロの状態から仕様書と設計書を作るだけの力はなかった。それでも、今まで自分が作ってきたやつをツギハギして、どうにかしたつもりだった。
上司や先輩から、「ここわかりにくくない?俺はこっちの画面に行ってしまうよ」と言われても反論できなかった。自信がなかった。自信がないから上司を押し切ることができない。上司の方も、そんな奴の意見をそのまま通すことはできない。
それで悟った。これまで俺は、上の人たちが作ってくれたパーツを組み合わせてただけなんだって。自分では何ひとつ創造していないんだって。再確認させられた。
今までパズルをやっていたのだ。任天堂が作らないといけないのはパズルそのものなのに。
結局、納期をオーバーした。上司はそれでも俺を諦めることはなかった。最後まで作らせてくれた。もしこれを読んでいるあなたの記憶の中に、あのゲームの操作画面はわかりにくかったというのがあれば俺のせいかもしれない。個人的に謝罪する。
今度こそ、本気でゆっくりまったりしている会社を探そうと思った。地元である京都がいいなと思ったのでリクナビに登録したものの、ぜんぜんうまくいかなかった。
ゲーム会社からは100通以上のメッセージが来る一方で、志望していた機械系メーカーや化学系メーカーの事務職のオファーは少なかった。応募しても書類選考で落とされる。15社に応募したけど、結局ぜんぶ書類選考で落ちた。
今ではわかる。中途採用なのに、事務職として必要な経験が全くなかったのだ。部品調達はやったことがないし、社会保険の手続きもできないし、法律に詳しいわけでもない。
もういい年だし、一流の大学を出ているわけでもない。
それから何か月もかけて、年収が低くてもいいので“ゆっくりまったり”を実現できるかもしれない会社を見つけた。どうやったらそこに入れるかを考え、情報収集をして、研究と対策を重ねて、3度の試験の後に採用通知を受け取ることができた。転職活動を始めて1年後のことだった。
退職を告げた時の、上司や先輩からの引き止めの言葉を覚えている。
「せっかくモノになりかけてるのに」
「ストレスに耐える力は一人前だから、もっと時間をかけてみれば」
「あと1年だけでも働こうよ」
一言一句は合ってないが、おおよそこんな内容だった。手帳に書き留めていたから、そこまで違ってはいないだろう。
社交辞令なのか、それとも本気で言っているのか判断がつかなかった。
あの会社で働くだけの資質が俺にはなかった。創造的な仕事を馬鹿にしていた。もうその時点でゲーム会社にいる資格はない。
あの頃の俺は会社を冒とくするだけでなく、一緒に働く仲間も含めて冒とくしていたのだ。子どもだったから気が付くことはなかった。
最後に、これを書くにあたってヤフー知恵袋などを読んでいたところ、任天堂に入りたい人の疑問が予想外に多かったので、その辺りも主観をベースにちょっと書いてみる。
問.どんな人が内定を取れるのか?
答.ホームページの採用情報に書いてある。あれは美辞麗句ではなくて、本当にそういう人を欲しいと思っている。つまり、以下の要素を持っていると判断されれば採用される。
①の創造性は、学生時代の実績を見られる。例えば、学生時代に部活をしていなくて、サークルに入っていなくて、でもゲームにのめり込んでいて~みたいな人は多分落ちる。
面接で、学生時代の実績についてガッツリ聞かれるからだ。創造的な活動とはどんなことかと言うと、正直何でもいい。自分の考えがあって、主体的に動いて、それでいて周囲と協調ができていればどんな活動でもいい(結果がいいのに越したことはない)。
自分の場合は、大学生や専門学生だけでプロの歌手やバンドを呼んでライブを実行する学際サークルで活動していた。はっきりって端役だった。分かりやすい例でいうと…今季アニメの「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。完」で説明する。
卒業生のためのプロムパーティーを実施することになって、ゆきのんが実行委員長で、いろはすがイベント準備の統括的なポジションで、八幡が影の参謀みたいな役割だったと思う。
俺がやっていたのは、いろはすの下で働く生徒達だ。会場のセットをしたり、参加者の受付をしたり、集客用のフライヤーを撒いたりするような、そういう下働きのポジションで部分リーダーをしていた。
創造性といってもこのぐらいでいい。自分の考えがあって、主体的に動くことができて、その過程で他者を巻き込む経験をしていれば何でもいい。面接で何を聞かれても自分の言葉で話せるはずだ。
ただし、アピールは忘れないように。自分の経験が100かなと思ったら、頑張って膨らませて500にする。それ程度なら問題ない。あなたが受ける会社だって、自社の魅力が100だとしたら1000にしてアピールしている。
②のゲームへの情熱は言わずもがなだ。この業界は、ゲームへの熱い思いがないと生き残ることはできない。実際、俺は生き残れなかった。
想像してほしい。新しい案を立ててプランを作っていかないといけないのに、何も思い浮かばずに席に座っているだけの自分を。それでいて時間は流れていく。もうすぐ打合せだ!となって、何が何でも間に合わせようとするも、会議で恥をかくために資料を作っているとしか思えない精神状態になる。
そんな自分が嫌になって、ますます精神が追い詰められてうつ的な症状が出る。かつての俺だ。でも、情熱があればなんとかなることもある。情熱さえ生きていれば、アイデアが枯渇しても、他社や他人から少しだけパクッて、自分のアイデアとつなぎ合わせるなどして窮地を乗り切れる。
ゲーム業界に名を残すような人でも、ポンポンとアイデアが湧いてきて、企画会議も余裕でプレゼンテーションをしているかといえば、そんなことはない。あの人達も必死で藻掻いている。どんなに残業が少ない会社でも、社命が懸かった仕事に取り組んでいる人はとんでもない量の仕事をこなさないといけないし、土日祝日も関係ない。
夢というのは、一度叶えて終わりじゃない。死ぬまで叶え続けないといけない。
あなたが志望する会社に採用されて、志望するポジションになれたとする。「夢は叶った!めでたしめでたし」じゃない。
例えば、ゲームを作る会社で働いている間は、健やかなる時も、病める時も、ずっとゲームのことを考えなければならない。止めた時点で、あなたの夢は終わったことになる。あなたにとってのゲームはそこまでの存在だったということだ。
③の学習ができるというのは、新しいことを能動的な姿勢で覚えていけるということだ。特に、英語ができないと仕事で詰まることがある。事務系は英語の読み書きだけでなく、海外の販売会社等と電話でやり取りしないといけない場面がそれなりにある。
企画系だろうと、デザイン系だろうと、開発系だろうと、どの部門であっても「学習ができる」ことが必須だ。この業界は変化が早いので、去年まで使っていたソフトウェアが今年から全く新しい物に切り替わることもある。世間の変化に対応して、どんなゲームが人気になるのか、どんなゲームが社会の役に立つのか絶えずアンテナを張っている必要がある。なにより、他社がいいゲームを出してきたら研究しなければならない。他社のゲームをプレイできるのではない。プレイしなければならないのだ。
だから、学習ができる人でないと務まらない。知らないことでも、興味のないことでも、やりたくないことでも取り組んで、知識や技術を自らの血肉にする。そういう人を任天堂は(というかすべての会社は)求めている。
書き過ぎた。反省している。
今でも思うことがある。俺はあの会社に感謝しているが、果たしてどこまで感謝しているのか?確信を持てずにいる。
時間が経てば、感謝以外の本当の気持ちがわかるのかもしれない。
ここまで読んでくれた人に感謝する。
個別の喧嘩の発端は…こちらに責があることもあれば向こうに責があることもあるし、最初は自分が我慢して済むならそれでもいいやと思ってたんだけど、やっぱり理不尽な怒りの暴発を難度も経験すると、徐々にこっちの自尊心が削れてくるし、不機嫌の徴候が見えるだけで心理的に身構えてしまうんだよね。無意識のうちに、相手の地雷(どこに埋まってるかわからないんだけど)に触れないように立ち回るようになる。そうすると家庭が安心できる場でなくなってしまう。
もともと彼女自身にも、そういう感情的制御ができないことの自覚はあるし、直したいとも思っているんだけど、キレてる最中に「そういう言い方や態度はよくないよ」と意見しても耳に入らない。「どうせ全部私が悪いんでしょ」「はいはい、また私のせいなんだよね」となって会話を打ち切り、刺々しい振る舞い(ドタドタ歩いたりドアを閉めたりモノを乱暴に扱ったり)して、後には不機嫌な空気だけが残る。これがなんともやるせない。一定時間が経って落ち着くと、何もなかったように振る舞うか、一応は「ごめんなさい」と言ったりもするんだけど、そういう殺伐とした感情って人の心を痛めつけるんで、お互い何もなかったように振る舞っていても、やっぱりこっちの心は無傷じゃなくて、刺されたり殴られたりした疼きが残る。たぶん相手の心も無傷じゃない。どっちにもいいことがない。
で、子供が生まれて物心がついてきたのを機に、お互いに真正面からこの問題に向き合うことにした。子供が親の逆上や不機嫌に萎縮するようになったら誰にとっても不幸だ、というのはお互いの考えが一致していたので。
実はこの「子供との関係」というのが重要で、結論から言うと、彼女が毒親(母親)に非常に悪い育てられ方をしてきたことが全ての起点になっていた。母親、自分から見ての義母は、幼い頃の彼女を蹴ったり殴ったりした。氷点下に近い納戸に数時間閉じ込めるという身体的虐待もあったし、ネグレクトも罵倒もあった。理由は、折り合いの悪い義祖母に顔立ちが似ていたから、ということもあったようだし、良家同士の見合い婚で専業主婦になった自分にとって「育児を成功させ、娘は良家に嫁がせる」ということが唯一かつ至上の役割になっていたこともあったようだ。それほど受験戦争が激しくない地方にあって小さい頃から娘に複数の塾や家庭教師をつけ、成績が思うように伸びなければ「あんたはなんでできないの」「私が恥をかく」と詰め、娘の夏休みの自由課題が賞をもらった翌年からは、傾向と対策を踏まえて母親が課題を制作し、受賞すればそれを周囲に誇るようになった。義母にとって娘は自己の付属物であり、自分の能力と努力を表示する成果物だった。これは娘側の一方的証言ではなく、義母本人がそのことを問い詰められて(娘以上に感情的に)キレたり、逆に緘黙する状況を自分も見ているので、嘘や極端な誇張はないと思う。
そういう母親との間で育った娘である奥さんは、根本のところで自己肯定感がとてつもなく低く、「自分には価値がない」という強迫観念に苛まれていた。彼女は親元から離れたあと、亡父の尽力もあって学歴にはやや不相応な金融総合職につくことができ、廻りの高学歴の人達に揉まれながらも持ち前の根性で「コネ入社の腰掛けさん」に留まらない営業成果を出し、職場でも多くの同僚に認められるようになった。でも、これは見方を変えると「自分が無価値な人間ではない」ということを自らアウトプットや業績評価によって証明し続けなければいけなかったからそうしていたわけで、その「頑張り」は結局は不安と強迫観念によってドライブされてたんだよね。背景にそういう動機があって「頑張り続けなければいけない」人がどうなるかというと、最後はメンタルヘルスを崩し、拒食症になり、自己都合で退職した。つらい。
その後いろいろあって彼女は自分と結婚したんだけど、お互いに落ち着いている時に(感情的にチャージされてない状況で)この課題について話し合い、時にはネットの情報や心理学の書籍なども参照しながら考えるなかで、激昂の背後にあるのは自己肯定感のなさだということが見えてきた。彼女は成長の過程で「人間は能力や実績によってだけ認められるわけではなく、ただ人間であるだけで価値がある」という確信を得てこなかった。母親から与えられたのは条件付きの愛で、条件を満たさなければ存在自体を否定された。だから「認められるために頑張る」という所作が身についた。
頑張りの中には「社会的に認められる人格を演じる」ということも入っているから、ソーシャルマナーはちゃんと実践できる。人当たりはよく、好感度も高い。しかしそれはあくまで「舞台」に立って「頑張り」を発揮して評価を獲得しなければならない状況での話で、身内にはこのルールが適用されない。だから親族や家族の中に(彼女の基準で見て)頑張っていない人(例:私はこんなに頑張ってるのに、あなたは)、彼女の頑張りを認めてくれない人、彼女の頑張りの成果をスポイルする人(例:頑張って片付けたのにまた散らかして)に対しては、時に制御の効かない怒りを感じ、苛烈な言葉や行動を直接ぶつけてしまう。自己肯定感が低いから、他者を無条件に肯定できない。自分に課した高いハードルと同じ評価基準を相手にも課し、それを満たさない相手を詰る。そういうメカニズムがあるみたいだった。
ついでに言うと、彼女の母親にとっては娘自身が「彼女の頑張りをスポイルする人」(一生懸命教育してるのに成果を出さずに「私に恥をかかせる」から)だったので、娘に対してそうした精神的身体的DVを繰り返していたわけだ。自己肯定感の欠如と感情のコントロール欠如という点では似たもの同士だった母親と彼女との喧嘩は、ちょっとした言葉尻の棘を捉えて相手を強く咎める(「それどういう意味?」とか「あなたはいっつもそう!」とか)の繰り返しで、なんでもないやりとりがあっという間に激しい罵倒の応酬にエスカレートしたりする。まさしく言葉の刃で刺し合うがごとくで、たまたまその場に居合わせた自分もぐったりと疲弊し、時にはあまりの情けなさに泣くこともあった。
ともあれ、我々2人は「こんなことが当たり前ではいけない、子供をこういう『こじれ』に巻き込まないようにしよう」ということをスタートにして、まず彼女と母親との関係は明らかに機能不全に陥っていること、彼女の母親が過去も今も彼女の自尊感情を蝕んでいること、自尊感情の乏しさが他者への非寛容や感情制御の困難につながっていること、自分は母親の承認/不承認にかかわらず価値のある人間だし、他人もそうだということなどをひとつひとつ確認していった。彼女は最初は「母親はもしかしたら毒親だったのかも」程度の認識だったのが、あまりにも定型的な虐待のパターンのど真ん中に自分がいたことを知り、自分の感情コントロールの難しさが個人の資質というより関係の病理に起因していることを学んだ。そうすることで、母親との関係も1:1の差し向かいではなく、その関係自体を第三者として見る視点を手に入れた。自分はそのときに情報や考察の手伝いはしたけど、結局それは彼女自身の自己探究の道のりだった。
それでどうなったかといえば、状況は明らかに良くなっている。奥さんはアンガーマネジメントを少しずつ理解し、実践している。実際にキレる回数は格段に減った。キレてしまった時はそのままにせず、すぐ言葉にして反省するようになった。YOUランゲージを控え、Iランゲージを使って自分の希望や意志を率直に伝えられるようになった。母親とのやりとりもベタ足の殴り合いをするのではなく、だんだんと「所詮は他人でしかない、母親とのやりとりで感情的に消耗したくない」という感覚を持てるようになってきている。無駄に険悪になることもないが、母親だから近しくしなければいけないという「演技」からもちょっと解放された。やっぱり根本的な原因や構造が見えてきたことで、本人の物事の捉え方も変わってくるんだと思う。
…というわけで、うちの場合は子供ができた結果、徐々に状況がよくなってきたんだけど、これ「子供が生まれたから良くなった」じゃなくて「子供がいるから良くしないといけない」という問題意識を両方が持ったからだと思っている。逆に言えば、元増田の場合、子供ができなくたって「この状況を放置するのは2人の心理的安全性にとって良くない、2人の関係の健康を損ねる」という意識で話し合うことができれば、だんだんと建設的な方向に向かえるかもしれないよ。
さっきも書いたけど、うちの場合は、彼女の病理というより関係の病理だった。だから時間はかかったけど、こじれた関係を解きほぐすことが解決の糸口になった。元増田の奥さんが同じかどうかわからないけど、参考になったらうれしい。お互いがんばろう。
M2なんですよ。
で、ありがちなことに投げ出して引きこもっていたんですよ
原因について言語化したくなくて考えないでおいたんですけど増田にならできる気がするので書きますね。
・今年はコロナの影響で3月-5月は学校侵入禁止だったんです。だから研究ができないから雑誌会をめっちゃやろうかということで月1本くらいやることになっていたんですね。本来は就活が終了した人から大体7月くらいにやるんですけど。
・ついでに自宅で就活をする必要があるではないですか。でもちっとも進まなかったんですよ。自宅なんて寝る用のスペースしか用意していないのに、部屋は妹と同室なのに、自己管理ができないからコアタイムがちがちの厳しめな研究室にしたくらいなのに、説明会も会場に行くのではなく自宅で好きな時間に見るようになってこれまた自己管理の必要性が出てきて、そもそも友達がいないし、まあこの辺は言い訳なのですが、ESが出せない出せない。うっかり期日を過ぎた企業が多数で、何とか出せた数社も締め切り数時間前に滑り込みだし、まあそんな感じでグダグダしていたんですよ。それを横目に数少ない友人は内定を決めてくるしね。
・とはいえ思ったよりも自己を律せられなかったなと思う。1月から発狂したように就活をしていて体力が無い癖にその体力の無さを認められず把握せず管理せず休みもほとんどなく体力的に疲れていたというのもある。コアタイム中に実験をサボって就活をしているというのが快感で、就活をしないのだったら実験をしなくてはならないというのが一応のプレッシャーではあった。これが急に無くなってサボろうと思えば私だけの不利益でサボれてしまうんだもの。
・そんな中雑誌会もしなければならないじゃないですか。私そんなに成績いい方じゃないし本当下から数えたほうが早いし有機化学も得意じゃないしでもまあ実験は好きだから研究室来たんですけど手を動かすのは好きだけど得意とは言っていないのですけど、
で、だからこれまで雑誌会は本当に締め切りのめちゃくちゃ前からゆっくりじっくりやるのが好きだったんですよ。でも就活(やっているとは言っていないが)の合間を縫ってやるのが本当に進まなくて。1つ目は締め切り1週間遅れで無理やり仕上げたけど自分の目で見てめちゃくちゃクオリティ低いし。っていうか普通雑誌会が出来たら発表する前に先輩や同僚に見せるのが慣例なんですけどそんな暇もないし。
・というかね、うっかりもうM2なんですよ。つまりね、後輩の面倒を見なければならないということなんですよ。でもここ2年で全然成長していないし本当成長が遅くて。正直私より後輩の方が普通にできるし。だから私に雑誌会の添削を頼んでも大したこと言えないと思うのよね。というか添削本当に苦手なんですよ。普通に頭悪いし本質を理解せずにパターン丸暗記の段階だから応用が効かないし。ああ私勉強できなかったんだな分かっていたことじゃないか。でもそうすると5人もいる後輩をもう一人の同期がほとんどすべて面倒を見ることになるじゃないですか。同期はまあ面倒見がいいし要領がいいし文句はめちゃくちゃ言いつつもやれると思うんですけどそれは申し訳ないし何より悔しいじゃないですか。でも私事実後輩の面倒を見るの得意じゃないしできないし苦手なんですよ。こう、できないのにできるふりをして無駄に高圧的に的外れなことをいう典型的な悪い上司ムーヴをしてしまうんです。まあ言い訳なんですけど。
(今考えると結果的に投げ出しているので後輩指導を同期に丸投げしていることになっている。意味がない。)
・で、二つ目のも無理やり仕上げたんですけど本当クオリティ低くて。というか2つくらい難しくて分からないけど調べ方が分からなくて。これを晒して後輩に笑われるのが怖くて。恥ずかしくて。
・で、提出を投げ出してすべての連絡を絶って引きこもったんですね。
就活もちょうどいいから投げ出して。推薦で行く予定だった最終面接も投げ出して(これは本当に、後輩に申し訳ない)、ほかもろもろ投げ出して。
引きこもっていた期間の行動や心理については、父が音読してくれたこのブログとほとんど同じである。どのブログだろう。探せなかった。
https://note.com/kazuaki3280/n/n95ea3a34bc06
私の現状を知った父に引っ張り出され無理やり研究室に行かせられているのが今日である。
・まあ今年の、同級生にありがちな就職は厳しそうだろうなというタイミングだから諦めもついたというのもある。
・正直私は今でも退学したい。恥ずかしい思いをする場から逃げ出したい。
ただこうやって当時の心理を言語化すると感じるが、本当に視野が狭いし、中島敦の「臆病な~」を送りたい状態だな。今もそうであることは否定しないが。
就活でハイになって、先輩もいなくなって、自分の期待値を上げたのが悪かったのかもしれない、敢えて悪者を作るとすれば。
・他の同僚に受け入れられるかという話ですが、みんな意外と優しいので私がヘラヘラしていたら受け入れてはくれるし排斥はしないと思うし、そこはあまり心配はしていないのだけど、普通に受け入れられた後に普通に研究を続けた後普通に研究とかのコミュニケーションでうまくいかなさそうでそれは心配。
・多分留年すると思うんだよね。前期の研究の必修の単位落としたし。
就活どうしよっかな、いっそ別の分野で文系就職をした方がいいのかしら。でも他にとりえもないしコミュ力が無いからこの分野(化学系のメーカー)で就職したいとM1の時に思ったのであって、文系就職の方が苦戦しそうな気がする。
でもなあ、研究室で私がうまくやれていたかというとそんなことないので、きっと雰囲気や求められている資質が同じな化学メーカーの研究職に行ってもどうせダメな気がするなぁ。
そこは迷わないと決め打って就活をしてきたんだけど、こうなった現状迷ってしまうな。じゃあ他の分野と言われても何、って感じだしな。どうやって調べたらいいかすら分からないな。就職イベントとかに行けばいいのか?インターネット苦手だな。
分かんない。どうやって決めたらいいのかわからない。自分で決めて自分で自分の責任を取るのが怖い。
・M2になってさ、できる人にならなくてはならないという思いはまあめちゃくちゃあったよね。そこは諦めたほうがいいんだろうなと言う思いは持つことにした。
・うちの研究室の5年前くらいの卒業生に似たように3年かけて卒業した先輩がいることは知っている。隣の研究室で私の2つ上の先輩に留年した先輩がいることも知っている。前例がいればいい訳ではないが、まあ事実として少しの安心材料にはなる。
・研究についてですが、そもそも個人テーマだし、ちょうど芽が出ないから他のテーマやりたいですと言っていた時期だったし、その意味ではあまり問題は大きくない。
12月に学会に行くと言ってしまっていたので、それをどうするかは教授と相談しなくてはならない。多分振り込みはしたが申し込み書類は書かずに投げ出したし事前のなんちゃらも何もしていないのでどうしたらいいのか教授と相談しなければならない。
・教授はいい先生だと思う。比較的手厚いし、生徒を気にかけているのは感じるし、私に心配のメールを送ってくれていることからもその辺は豆である。
ただ優秀な人には嫌われがち。管理したがりだし、厭味ったらしくはあるし。
・ただ事実として毎年のようにドロップアウトする学生が続出しているのは先生が可哀そうだなと思う。私みたいな学生をうっかり取ってしまって本当に申し訳ない。多分お情けで取ってくれたのは知っているし(私の年は偶然定員オーバーしていなかったから落とされなかったが他に人がいたら落としていたとは思う。似たようなことは取るときに言われた。)、本当はた迷惑な学生で申し訳ない。
母が言っていたが、だとしても取ってしまった以上卒業まで面倒を見るのは仕事なので教授の義務らしい。知らないがアメリカならとっくにクビなのではないだろうか。
その辺は日本の大学の古くて有り難い部分だと思って権利を行使するべきなのだろうか。定期的に頭の中の私が「私にそんな権利ない!やめるべきだやめたいし!」と叫ぶ。
でも父も母も口を揃えてやめるなと言うのでやめない方がいいのだろうな。
・せめて雑誌会をさ、クオリティ低いものを提出するか、せめて「間に合いませんごめんなさい次週でいいですか」の連絡くらいするべきよね。別に就活も投げ出して私生活も投げ出せば許してくれるわけではないから。先生は私がこんな感じなのは十分知っているのだから優しくも「無理そうですか?」というメールもしてくれいていたのだし。
当時は鬼の形相のメールに見えたが今読むと全然そんな事なくてむしろ優しい文面で驚く。
・最近、先生が、なよい学生が増えたから緩くなったよねと言われていて、その一翼を私も担ってしまったのが悔しい。
(悔しいと思う箇所がずれているとはよく言われる。これもそうなのだろうか。多分本当に悔しいことは他にあって、でも言えなくて、まだ言えそうなことになすっているような気がしている。)
・ねえそういえばこれファーストコンタクトを教授にしたけれどさ、普通は同僚の学生とか他の研究室の懇意にしている先生とかに相談すべきだったのだろうか。
もうちょっと書きたいことがあるのだけどまた書いて再投稿します。
【9/29 0時 追記】
とてもあたたかいコメントが沢山ついていて本当に驚きました。ありがとうございます。涙が出ました。
あなたの親戚にも一人くらい居ないだろうか
親戚の集まりの中でちょっと立場が弱めな、弟の嫁さんとか姪の彼氏とかを捕まえて、誰も興味ないような自己流ご高説を延々と垂れ流してるやつ
話を聞いてる側も色々としがらみがあるのでニコニコ相槌を打ったりして、傍から見ると「あーあ」って感じだが、話してる本人だけが気持ちよくなってるやつ
小さい頃から、「○○ちゃん、知ったかぶりはやめた方がいいよ」とガチの善意で忠告されたりするようなガキだった
今でもちょっと油断するとすぐ、SNSで半端な知識をさも知った風に書き散らしてしまう(だからはてなとかやってるんだけど)
自分がそうだからこそ、他人がそれやってるのを見ると非常にいたたまれなくなる
電車内でサラリーマンが新人ぽい子相手にオレ流仕事術を吹聴してるのとか、もう聞いてられない
それがだよ
この度、めでたく妹に彼氏ができたんだけど、それがめっちゃ傾聴力の高い良い人でさ
私のクソどうでもいい趣味語り(彼の趣味とはかすりもしない)とかを凄い真面目に聞いて、挙句の果てに「すごいですね!」とか相槌うってくれんの
そんでいい気になってベラベラやって、後日「やっちまった……」って反省してるところに、妹経由で「勉強になりましただって」とかいう追い打ちかけてくんの
やめて恥ずかしくて死にそう
このまま順調にいくと妹とその彼氏が結婚するので、死ぬほどウザい親戚のオバチャンが爆誕してしまう
でもアラフォーにもなってこういうのって直るのかな……