トラバもブコメも「なんだ偉そうに」的な反応が目立つけど、増田はこういう職種の従事者を劣った人間だとは言っていない。
世間から軽んじられている人々を憐れみ、それに気疲れしてるということが増田からは読み取れる。
もし今後増田自身がそういった生活を余儀なくされても同じトーンで「模範的な”一般市民”からうっすら侮蔑を向けられているのがつらい」と愚痴るんだろう。
おそらく地位や名声、収入の格差、QOL、交友関係といった格差にまつわる事柄が、
生い立ちや個人の資質、今までかけてきた労力の差といったパーソナリティに集約されるのが、増田にとって不快なのだと思う。
僕は小売店でずるずるバイトを続けている身分だけど、誰と話しても「こんなとこでフリーターに甘んじてるような奴は思慮も複雑な感情もないただのでくの坊だろう」という前提で会話は進む。
大学院に通うバイト仲間もパートのおばちゃんも毎日午後8時に同じものを買って帰るリーマンも子連れの主婦も徘徊する老人も毎日へとへとな店長も近所に住むが疎遠になってしまった幼馴染も、
みんな自分の生活はだれにでも代替えできるものではないと思っている。
みんな「まああなたにはわからないでしょうけど」というものがアイデンティティに組み込まれている。
でも実質的には障碍者でもないなら人間社会なんていくらでも配置転換は可能だろう。
教育さえ施して周囲がそれ相応の扱いをするならば、
パートのおばちゃんが大学院で研究漬けになって若妻が企業戦士になりしなびたおっさんが子どもを連れた主夫になり俺がへとへとな店長で幼馴染が孤独に惨めにずっとフリーターってこともあり得るはずなんだ。
各々人間の間に蔑みが生まれるほどの能力差なんてあるのだろうか。
でも今の生活が崩れるはずがないという安心を得るため、自尊心を埋めるために、人はそれを人間としての程度の違いとして扱っているんじゃないのか。
公権として格差を規定して人を縛れば、それを個人のパーソナリティと紐付ける余地はなくなる。
魚屋の息子だから魚屋になるしかないような社会なら、あんたは馬鹿だから東大に進学できないのだというような発想はどこからも生まれない。
人として程度が低いからコンビニでバイトしてるしかないのかと打ちひしがれるか、コンビニでバイトするような身分じゃなければあれができたと空しく妄想してるか、
ズバリ、その通りだと思う。特に最後の一文がポイントを言い表していると思う。