はてなキーワード: 西村賢太とは
「新潮」note開設の一発目の記事として谷川俊太郎が投入された
それに加えて、谷川俊太郎をよく知らない人への説明でもあったのではないか
名前と一部作品程度しか知らない人(増田のような)にわざわざ何を説明する必要があるんだ
と思うだろうけど、時事ネタへのコメントが苦手な件で、谷川もいよいよ大丈夫なのかな
などと邪推していた増田は、アレは平常運転であり老いてますます元気なんだなと納得できた
なんとなく、追悼文にアレは大丈夫なの?みたいな声が新潮の耳にも届いており
1月号にちょうどいい記事があったので編集部が気を利かせて、一番に出してくれた
と見るのは穿ちすぎだろうか
https://note.com/monthly_shincho/n/n74bb120454d4
>新聞雑誌ラジオテレビなどのいわゆるメディアから、発言を求められることがあります。大体時事的なテーマが多いのでほとんど期待に添えない。情報過負荷で矛盾に満ちたこの時代に、公的な発言ができるほど僕は知識がないし、器も大きくない。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220201-OYT8T50129/
西村賢太さんとの最後のやり取り…石原氏追悼原稿に「動揺もあって汚くなって申し訳ありません」|読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220205-OYT1T50204/
記事掲載の2日後に急逝した西村賢太の絶筆の石原慎太郎への追悼文
詩人の谷川俊太郎さんの話 として短い思い出だけが掲載されている
【特集】天才詩人と石原慎太郎氏の意外な接点 「あいつはいいやつだ」の関係|47NEWS
https://www.47news.jp/1466515.html
>彼は僕が全然やらないことを知っていて、クレー射撃の散弾銃を撃たしてくれたり、ヨットに乗せてくれて三浦半島の方まで連れて行ってくれたり。
数年に一度は自分に襲い来る長野まゆみ作品ブームにはまっている最中のため、あまり商業BLを読めていない今日この頃。残り少ないお小遣いも、長野先生の新刊(非BL)を買うために温存中。
ちなみに、長野まゆみ先生の書くものの多くには男×男の恋愛要素があるのだが、「非BL」作品扱いなのは何故なのかというと、BLレーベル以外から出版されており、商業BLの定義にあてはまるようなBLではないからというだけ。商業BLには面倒臭いルールがあるのだ。例えば、基本的にハッピーエンドとか、攻めの浮気厳禁とか、無駄に女を登場させてはいけないとか。
世界は人の住まう「現世」と人ならざる者の住まう「常世」に別れている。主人公の天野は、常世から来た者たちが利用する人里離れた旅寓(旅館)で働いている。
ある日、常世の王・ツクヨミが旅寓に骨休めにやって来た。傍若無人なツクヨミに天野は振り回されるが、ツクヨミにかつて自ら命を断った友人の面影を感じ、気になってしまうのだった。
これはある特定の層にピンポイントでぶっ刺さるやつなのだろうと思うが、生憎私自身はこういう系を好きこのんで漁って読む方ではないので、せいぜいハジ先生の『坊主と蜘蛛』を読んだくらい。BL外の作品ではたとえば『千と千尋の神隠し』とか『しゃばけ』とか『蟲師』とか『夏目友人帳』とか『モノノ怪』とか『家守綺譚』とかそこら辺が好きな人向けなんじゃないか。あ、私の好きな『左近の桜シリーズ』(長野まゆみ)もこういう系だな、そういえば。
特定の層にピンポイントでぶっ刺さる系なので、『極夜』のレビューを某BLレビューサイトで見るとけっこう良さげなのだが、泣いたとか感動したは言い過ぎなのではないかと、私は思う。そこまですごくはない。まあまあ良い話だとは思うけど。
事前調査なし・試し読みなしで買って読んだら、表紙めくって出てきたカラーイラストが『鴆――ジェン――』のフェイ将軍とツァイホンの絵だったので、私は買う本を間違えたのか? と一瞬慌てた。調べたら、この『極夜』というタイトルの単行本、文善やよひ先生が『鴆』の大ヒットで人気作家になったために、絶版になっていた過去作品を『極夜』と改題して復活させたものだった。表題作の他に『鴆』の番外編も同人誌から再掲。なるほど、今の文善先生はかなり手練なプロ作家という印象だが、『極夜』は確かに若いなって印象だ。『鴆』はpixivコミックで2話まで無料で読める模様。
文善先生の大ファンの人で過去作品全部コンプしたい人向け。文善作品にちょっと興味があるくらいなら、回り道せずに『鴆』シリーズか『蟻の帝国』を読むといいのでは。
エロシーンがしめやかでいいな。私はあまりこれ見よがしな感じのエロシーンは好まないので。それと、ベタとスクリーントーンが少ない為にエロシーンの白抜きが煩く見えなくていい。
しかし、シンプルめな画風でもごっそりと白抜きのかかるのって。以前、某お気に入り作家さんのBL作品がシーモアで無料になっていたので読んでみたところ、修正レベルがシーモアだったのでKindleでは輝く白さに消されるべき所が薄ぼんやり見えていたのだが、薄ぼんやり越しにもそこがかなり生々しい描かれ様なので驚いてしまった。な……BL作家さんって、キャラの顔はめっちゃ漫画でもおちんだけはこんなにリアルに描くもんなのか……なんでここまでおちん描写に執心してるのかわからない……と、電子書籍派Kindle使いな私は愕然とした。そんな所どうでもいいと言い切ってしまうのも何か違う気もすると思いつつ、正直どうでもいいよなあ、どうせ消される所なんだし……と思わずにはいられない。
16ページしかない掌編なので、あらすじは省く。掌編アンソロジー『掌編歳時記 秋冬』に収録された作品。サラリーマンのほんのりオフィスラブ。現代の現代的な話だから、幻想なし。エロもなし。しかし非BLなので安定のインモラル上等ぶり。
普通に現代ものなのでビビった。登場人物がちゃんと今時のサラリーマンだなんてすごい! 漢字の字形にやたら拘るところはいつもの長野先生だけれども。
こんな短い文章でボーイズがラブしているのすごい。文章は簡潔だけど、短いなかに情報量が多く、なのに情緒と風景描写が死んでいないとは。熟練のプロ作家恐るべし。と、これを読んだ時にちょうど小説投稿サイト・フジョッシーで開催されていた掌編コンテストに応募すべく四苦八苦していた私は、震え上がり畏れ平伏叩頭したのだった。プロすごい。
ところでBLとも長野先生とも関係ないけど、『掌編歳時記 秋冬』のトップバッターが先週亡くなった西村賢太先生。訃報を知ったあとに読むとほろりとしてしまう、切ない掌編だった。
猫のチマキは飼い主のマダム・ロコとはぐれてしまい、まだ赤ちゃん同然の弟・ノリマキを連れての放浪生活ののち、小巻おかあさんの家に流れ着いた。小巻おかあさんの家・宝来家は大所帯。おかあさんの息子でありまかない担当のカガミさんの他、おかあさんの亡夫の前妻・マダム日奈子、日奈子の娘の暦さん、暦さんの兄・樹の娘のだんご姫、だんご姫の叔父の桜川くん、そしてジャン・ポールが住んでいる。
そんな複雑な家庭でクセのある人々と共に暮らすチマキは、小巻おかあさんのエッセイ『コマコマ記』を真似て『チマチマ記』を書くことにした。これはチマキが宝来家にたどり着いてから約一年間の記録。
だいぶ極まった感じのロハス生活を描いた作品だが、長野まゆみ先生らしく背景には桜川くん×カガミさんのほんのり(悪魔的な)BLがある。
長野先生がこんなにふんわりした感じの森ガール(死語)が喜びそうな文章を書くなんて意外な気がする。しかも「にゃん語」とか「萌え」とかいう単語が長野作品に登場するとは、その事自体が萌え萌えしい。
だが、文体はふんわりしているのに、ことあるごとに美味しい食べ物はカロリーが高くしかも健康に悪いという現実をビシバシ突き付けてくる。なんなの長野先生サドなの? そんなに言わなくてもいいじゃないカロリーのことなんて! 普段は現実離れした作風なのになんでそこだけリアルでシビアなのか謎。極力カロリーと塩分を抑えてしかも美味しい料理を作ろうとなった時にまずは極上の食材を調達してきてそれを干す、という異様な難易度の高さ。救いなどなかった! しょうがない、貧乏人はポテチ食ってデブるしか……。
昔、向田邦子か誰かの随筆で、戦中にこっそり隠れて読んでいた婦人雑誌に「シュウクレエムのいただき方」という記事が載っていて腹を空かせながら読んだが、結びに「淑女はシュウクレエムなど食べてはいけません」と書かれていてがっかりした、とかいう内容のがあったと思うのだが、きっとその時の向田邦子か誰かの気分が『チマチマ記』のお料理場面を読んだ時の私の気分に近いんじゃないかなと思う。
難易度高過ぎロハス暮らし描写に勝手に心折られてしまったが、桜川くん←カガミさんのBLは良さげに納まったっぽいのでいいや。
桜庭一樹さんの「少女を埋める」を今頃読み終えて、いろいろ心を揺さぶられる思いがして、この作者の著作を初めて読んだので、どんな人なんだろうとネット検索をしていて、鴻巣友季子さんの評をめぐって議論が発生していたことを知り、ここにたどり着きました。
お二人の「論争」(?)、ざっとたどってみました。一応決着見たようですが……モヤモヤが残りました。
このモヤモヤ感についてこの場を借りてちょっと書いてみますね。
あなたも指摘されているとおり、桜庭さんは、「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」ということを強く主張されていますね。
でも、そもそもこの言い方が間違いだと思うのです。
鴻巣評の問題のくだりは、「テキストにそう書かれていたかのよう」に「断言」しているかと言うと、そうは断言できないかな、と。
だって鴻巣評のうち、「テキストにそう書かれていた」部分は「 」で括られていて、問題の部分は括られていませんからね。
そもそも評者の解釈だと読めなくもない。もちろん桜庭さんが言い、あなたが代弁するように、客観的にこんなお話だ言っているようにも取れる。
これは絶対どっちかだとは言えない書き方ではないでしょうか。
だとすると、桜庭さんの「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」という、この言い方が悪手だったかなーと思うんですよね。
鴻巣さんは、この主張にうまく乗っかって、「あらすじとは解釈だ」みたいな誰にも否定できない話に持っていった、
桜庭さんにとっては、持っていかれちゃった、ということになったかと。
それを踏まえてこの二人のやりとりを見ると、「論争」の決着点としては、鴻巣さんが大人の対応をしたってところに収まっちゃいましたね。
二人して朝日をちょっと悪者にして、桜庭さんも手打ちにしたのかな?と。
鴻巣さんは、桜庭さんが本当に言いたいことは何か、わかっていたと思うんですよね。
わかっていて、そこには対応しなかった。
むしろ相手の言い分の、言わば言葉尻をとらえて反応してみせた。だから「大人の」対応です。
そう、「不誠実な」対応でした。
なぜなら、そもそもあの作品をあの評文のなかにああいう形ではめ込むことが、あの作品にとって圧倒的に不当だからでしょう。
あの作品はあんなものではない力を持っているのに、弱々介護の話ってことにしちゃった、ご自分の読みの甘さ、いや読みじゃないかなー、表現力の至らなさかな?
鴻巣さんは、自覚していたと思います(だって鴻巣さんですよ)。
鴻巣さんは、あの作品を読んで、深く心を動かされた、でもそれを直ちにはうまく言語化できない……でもすごいことはわかる。
評言のなかの「不思議な」という言い方にもそれが感じられます。「不思議」を言葉にするのが評者の役割なのにね。
で、心のどこかに引っかかってて、弱々介護の話を書いているときに、「そうだそうだ」って桜庭作品を取り上げちゃったんじゃないかなー。
「みんなー、頼む、百回読んで」ってことを時評全部使って素直に書けば良かったんですけど、締め切り迫って言葉にできなかったのかな。
どこを切り取ろうと、とにかく取り上げて世に知らしめるだけでも、この作品の助けになる、助けてあげる、応援してあげる、みたいな驕りもチラチラ透けて見えます。
この作品にいち早く注目した私、読み巧者よねーみたいなのもあるかも。
(いや、鴻巣さんぜんぜん嫌いじゃないんですよ、私は)。
私は、あの桜庭さんの抗議は要するに、「そんなふうに読み取らないで!ぜんぜん違う!」ってことだと思うんです。
問題の本質は解釈のなかみなんでしょ。桜庭さんご自身も、ツイッターで、そういう怒りを垣間見せていますよね。
「わたしの懸念は、私小説として発表されたこの作品の評で、……」
でもこの作品は私小説としては発表されていないんですよね(鴻巣さんは「自伝的随想のような」って勝手なこと書いてますけど)。
『文学界』の当該号のどの頁にも「私小説」って書いてないもんね。
で、まあ、百歩譲って「私小説」だとしたらどうだと言うんでしょう?
西村賢太さんがどこかで、私小説だからって、書いてあることが全部事実だと思う読者はバカ、って言ってた。
でも、あんなふうに、とてもナイーブな書き方をしてしまう桜庭さんの思いもジンジンと伝わるんです。
何かこう、わが身の血と肉を自分で食って吐き出すような、そういう格闘の末の作品なんだろうなー、
そういう格闘を、あんなふうに一つの作品に言葉で築き上げるってすごいなー、
それを「私小説」って言ってるんですよね、きっと。
そしてその格闘の焦点である母親との闘争/和解(?)のギリギリの物語の、
その当の母親についてあんな切り取られ方をしちゃうとなー、そりゃ怒るよなー、って思う。
でも、怒りの焦点は、自分の母親が虐待人間って大マスコミで公言されたことじゃないよね
(私小説と自任して書いているなら、こういう反応に対する覚悟は少なくともできていないとね)。
なにその読み方、バッカじゃないの? ぜんぜん違うし、って、桜庭さんはそれだけ言えば良かったのでは?
どこかの増田が、青葉真司はラノベなんか目指さず、西村賢太のように私小説をやればよかったと言っていた。
こういう現実的な進路指導には巡り合えず、きれいなことを言う弱者ビジネスの養分にされるだけで一生を終えるのが底辺だと思う。
スポーツ・お笑い・芸能はワナビビジネスの養分で終わるリスクが高く、持たざる者にも可能性のある道とは言えなくなった。
前向きに頑張ろうとして自己啓発系につかまる。プロ弱者は実質ヤクザという認識が世間に広まり余程フォトジェニックでないと自立は難しくなった。
では、どうすれば良いのか。
トップにいるバカを徹底的に褒めあげフォローすることで、太実家子女が空気のように得ていた機会を得るのだ。
ブサイク・低学歴・貧困などの資質は、バカの気分をよくするため優位に働く。
のちにバカをヨイショしてたという理由で非難されるリスクがあるため、成功ギリギリの段階で無能への正直な気持ちを公の場で発言したり引きづり下ろすと良いだろう。
どんなにつまらないと自分で思っている人生でも、しっかりと向き合って書けば、かならず誰かが瞠目する物語になる
嘉村磯多という人は、地方の地主の家に生まれはしたが、旧制中学を中退して、東京に出るとまったくカネはないわ、仕事はないわで、都内の陋屋を転々とし、最後は居候先で病気になって、36歳で死んだ
と書けば、この人は近代日本の弱者男性だったように見えなくもない
でも彼は、いくらマイナーな作家と認識されてはいても、日本の文学史に私小説作家として名を残した
西村賢太のように、中卒で職を転々として、30を過ぎてから私小説を書きだして芥川賞作家になった例もある
あ? 私小説? どうせ、実生活で体験の幅が狭い作家が、どうでもいい身辺雑記を延々と書いた文学のことだろ? くっだらねぇ。
というふうに自分は思っていた。
で、私小説をいくつか読んでみた。
食わず嫌いの先入見は、まちがいだった。
なにが面白いか。
私小説は、主人公が馬鹿で、下衆で、これでもか、これでもかというほどに生活がどんどん下降していくさまが、ある種爽快なほど露悪的に書いてあること、
そしてこれが事実であるかもしれないという期待を読者に抱かせながら、虚実入り混ぜて物語が展開されること、
ではないかと思う。
主人公が失業して貧困に陥ったり、男女関係で泥沼にはまったり、酔っ払って人に迷惑をかけ、誰からも相手にされなくなっていくごとに、読んでいる側としては、変なカタルシスを感じてしまうというか。
で、ネット上で有名になって、お金も欲しいという人は、もっと私小説的な文章を発表してけばいいと思う。
ネット上で炎上してきた(している)話題は、当事者を主人公にして、私小説仕立てにしてみると、もっと面白くなりそうなものばかりだ。
ネット上の有名人が、ネット以外でブレイクすることを妨げているのは、彼ら(彼女ら)が、小賢しいことだ。
小賢しいとは、自分の失敗や品性の低さを指摘されると、取り繕ったり、反論したりして、自分を分相応以上に賢く見せようとするということだ。
こうすることにより、彼ら(彼女ら)は、いっそう小者に見えてしまう。
コンテンツとして自分の価値を最大化したければ、大正、昭和の私小説作家のように、あるいは現代の西村賢太のように、卑小さを卑小さのままに、破綻を破綻のままに描き出し、そのことから生じる業を生きるほうが、じつは戦略としては賢いかもしれないのだ。
サッパリ自著は売れないながらも、昨年の彼の税務署への申告額は、小説関連の収入と、作家の肩書あっての各種アルバイトで、それでもx千x百万円になっていた。汚ねえ身なりをしているからと云って、そう容易く浮浪者を見る目で眺めて欲しくはないのである
これをフィクションと受け取るかどうかは、読者次第だろう。
炎上芸人は炎上芸人のままで終わる必要はない。もっとコンテンツとしてのポテンシャルがある。金銭的に報われる可能性がある。自分の人生をコンテンツとし続けることの業を生き続けるだけの覚悟があれば。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card3212.html
「近所の借金がうるさくて仕様が無いので、どこかに行つて書いて来るつもりだ。……大洗の方へでも行かうと思ふ」と言い残して主人公は東京を出て茨城に行き、知人のつてを頼って旅館に逗留するが、そもそも宿代を持ってきていない。知人が何とか融通してくれるだろうと最初から当て込みながら、居座る。
知人は当然のことながら激昂し、旅館からは宿代をつけにしたまま追い出される。
有り金がないまま次々と宿を変えながら茨城をさまよう話なのだが、最初はちゃんとした旅館だったのに、しだいに宿のグレードが下がっていって、最後はドヤ街の宿のような木賃宿で弟の送金を待ちながら、身につけたものをどんどん質に入れて裸になっていくところが笑える。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card49655.html
馬鹿で不細工で貧乏であることに強い劣等感を持っている主人公の中学時代を描いた作品。恥ずかしい過去を思い出して悶絶するときのシーンはとくに秀逸。
「あツ、あツ」と、私は奇妙な叫び声を発して下腹を抑へた。両手の十本の指を宙に拡げて机の前で暴れ騒いだ。
「何を気狂ひの真似をなさるんです。えイ、そんな気狂ひの真似する人わたし大嫌ひ」
私淑していた葛西善藏の気狂いっぷりを書いた『足相撲』もあわせて読みたい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1337.html
ミハイル・バフチンがカーニバル文学と読んだドストエフスキーの作品のように、これ以上ないほど気まずく不謹慎な破綻の場面を職人的な巧みさで書ききるようになった著者の近年の作品はすべて必読。
大学が忙しくなったので定期的なバイトのシフトが組めなくなり、仕方がないので日雇い派遣の会社に登録して働く事になったが実に最悪だ。
基本的に糞な点を挙げると
1、働いている人間が糞。基本的に怒鳴る、キレる、等でしか人とのコミュニケーションができない人が多い。
「アレやっといて」「アレってなんでしょうか?」「んなこともわかんねえのかよ!」な感じ。
2、現場に統一されたマニュアルがない。誰かの言うことを聞いて仕事をすると別の誰かが「なんでそのやり方でやってんの!」とかキレる。
基本日雇い相手なので育てるという発想がなく、牢名主みたいな連中が我が物顔で仕切っている為行き当たりばったりにしかならない
3、それでありながら給料が非常に安い。最低自給な870円とか。しかも余計な人件費使うまいと、早く終わるとその給料分はケチをつけて払わなかったりする。
4、1~3が相まって職場にはものすごい負の空気が漂っている。
今までの週4のテレアポの仕事をつらいと感じていた自分が懐かしい。
コンビニはじめ日本の便利さってこういう奴隷産業が支えているんだとしみじみした。
そんな仕事場に電車賃すら惜しくて自転車で一時間かけて通い、食事に270円の牛丼を食ってると「ああ、俺は本当に奴隷なんだな」と思って涙が出てきて、仕事が終わるとまずくて気持ちが悪くなるのを承知で氷結果汁でも飲まずにはいられなくなる。
僕はこの生活が期間限定であることがわかっているからまだ耐えられるが、もしずっと続けなければならないとしたら本当に寒気がする。
赤木智弘が「31歳フリーター。希望は、戦争」を書いたときに左系の知識人から「それは結局体制派を利するだけの感情論に過ぎない」とか批判されたが
もしこの生活を一生続けざるを得ないとして、その時にレーニンやヒトラーでもいいが、このやり場のない憎しみをまとめ上げて指向性を与えてくれる人間がいたら非生産的なのを承知で自分はあっさりついていくだろうなとも思う。
さて先日、伊東乾先生が村上春樹を「所詮は経営の苦しい己のジャズ喫茶の赤字黒字を思いつつビールをなめつつ書いた原稿であって、しらふの本気の人間には最初からキャンてなもんで太刀打ちも出来ない」等とdisっていた。
まあご立派な環境で作ってらっしゃる伊東先生の音楽は「あっ前衛的っすね」で済ませとけばいい現世と没交渉な退屈極まりないものだとは思うけど、その一方で「人間の大半を決定する多感な10代20代をどう送ったか」が創作をする人間は非常に重要というのはうなずける点がある。
村上春樹自身がジャズ喫茶経営の経験から書いている事だが、絶え間ない肉体労働と貧困というものは人間を絶え間なくすり減らしていくものなのだ。
奴隷に仕事をやらせて哲学談義にふけったギリシャ人のように、文学なんてものはそういうのものと離れ余裕を持った人間でもない限り、難しいだろう。
肉体労働者から小説家になった西村賢太にしろレイモンド・カーヴァーにしろ例外中の例外だからこそ目立つのだ。
世の肉体労働者が心をすり減らし、アルコール等に逃げざるを得なくなりどうなっていくのかを見たければ山谷なり黄金町なりにいけばいい。
腐るほど日本の成長の為に使い捨てられた先輩奴隷たちの末路を見ることができる。
そして貧困を逃れられた人間でもその憎しみをかつての自分の同類に向ける渡邉美樹のような人間もいる。
「貧困や苦労が人を立派にする」などと言うのは自分と同じ苦しみを味あわせるためか、苦労を知らず貧困にロマンを持つ馬鹿のたわごとに過ぎない。
正確を期するなら「貧困や苦労を抜け、その苦しみを自らが相対化できるだけの余裕を持てたとき、人は立派になることもある」とでもいうべきだろう。
とりあえず、僕はこの生活で自分から余裕がなくなり、憎しみをため込んで、嫌な人間になりつつあることを自覚している。
おそらく数年間続ければ自分達最下層奴隷を意味なく怒鳴り散らしているベテラン奴隷になるのだろう。
「日本は社会の格差の増大に苦しむという。 そういう人は、電気のない干ばつのアフリカ、砂漠の続く酷暑のアラビアで、まずほんの短時間にせよ、生きてみたらどうか。 そして飢えに苦しむ人々に自分の食べるパンの半分を割いて与えるという人道の基本を体験したらどうか、ということだ。」とかほざいている金持ちの家に生まれた曽野綾子。おまえは一年くらいここで働いてみろや。
あと人道の基本ってのはお前ら持っている人間が持たざる人間に対して与えることだろうが。
お前みたいに「うちの奴隷はよその奴隷に比べて待遇がいいから耐えろ」とかいうことじゃねえ。
この十年の大学の学費の異常な値上がり、不況による仕送りなんかの減少で自分みたいな大学生は多いだろう、というか周りを見回してもたくさんいるし、学費がはらえずに脱落していった人間も多い。
そして窮状を訴えれば団塊だのバブルだので好き勝手やった連中が「甘え」だのと言い、アホな学者は「牛丼福祉」なんぞとほざき、弱者の味方のはずの左翼のみなさんは「脱成長」だのイデオロギーありきな「脱原発」なんぞにかまけててこっちを見ない。
ほんと、どうにもならねえよ糞ッタレ。
とりあえずこれからツタヤで100円で借りたアメドラの「スパルタクス」で奴隷が蜂起して主人達を皆殺しにするシーンでも見ることにする。
あと金がないっていう事について非常に参考になるまとめをはっとく。
追記
さらに追記
こんな駄目大学生が書いた文章を多くの方に読んでいただき恐縮です。
あとブコメでnetcraftさんという方のお名前が出ていましたが、その方と僕とは関係がありません。
さてこの文章を書いた意味、と言うようなものは正直特にありません。
本来なら「不況なのにシャレにならないレベルで上がった学費をどうにかしてほしい。お金持ちでない家の大学生でもある程度勉強に専心させてください。世間に対して影響力のある人が現在の若者の状況をろくに調べないで自分の脳内のみで考えた若者像で批判ですらない中傷をしないでください。」等と書くべきなのかもしれません。
ですが残念ながらこういった状況を改善しようとする意見が、自己責任だの甘えだのといった安い言葉で個人の内面の問題に矮小化され冷笑されるのをずっと見てきましたので今更そんな事を言おうとも思いません。
書いた事に意味がなくとも理由があるとすれば「主人の見ていないところで文句をたれる」という奴隷にも残された自由でストレスを解消したことと、これから大学生になろうとする人に家がお金持ちでなければ、学費と学部の選択や就活等によってこのような事態は容易に起きるという事を知ってもらえればということくらいです。
僕は自分が今している仕事は奴隷であり、心底糞だと思っていますが、所詮期間限定であり、ずっとこのような環境で働き続けて消耗し、抜け出そうという気力すらなくしてしまった人々のつらさには比ぶべきもありません(まあ脱落して戻ってくるかもしれませんが)。
ただ現状こういった労働は「無敵の人」を大量生産する工場として機能し始めていますし、その問題を社会問題として対策をとるのではなく個人の問題として切り捨ててきた以上、ツケは社会全体に回ってくるとは思います。
兎にも角にも読んでいただいたみなさん、ありがとうございました。