はてなキーワード: トップとは
「行けるところまで登れればいい」か…。
まるで濁流を渡渉しようとするようなものなんだろうな。
山に登らない人々までもが、彼らの挑戦に心を打たれ、日常生活を進めるエネルギーに転化していた。もちろん彼らと同じように、私も平出に影響を受けていた。
そういえば、俺は誰かの挑戦に心を打たれたりしたことがないな。
かっこよさに憧れはしても、自分の日常生活を進めるエネルギーになったことがない。
誰かの挑戦をみて、よしがんばろうと思う気持ちって、そもそもよくわからない。
むしろ、がんばろうと思うときというのは、自分を育ててくれた先人を思い出すときだ。
自分がかつての親と同じ年齢になったとき、亡くなった父のすごさを思う。
それは憧れとも違うし、親父の歩んだ道をたどって登る、岩登りの言葉でいえば、セカンドで登っていく感覚に近い。
親父はここを乗り越えてきたんだな、そしてここからは息子よトップで登れ、という感覚。
日常生活を進めるエネルギーというと、俺的にはそういうイメージ。
増田でも愛され続けたアンフェ王の一人がキャンセルカルチャーされ凍結された
ゴン・トゥーンベリの名前の由来はハンタのゴンと、グレタ・トゥーンベリである
ゴンは普通に好きで、グレタは「物言う女」として嫌いであてこすりだろう
なお彼がトップ画面に置いている画像の「フェミだから嫌われてると思ってる?性格が最低だからだよ」というセリフは洋画「ソーシャルネットワーク」が元ネタで、本来のセリフは「フェミ」部分が「オタク」である
女に失恋したのがきっかけで女叩きサイトを作っていたギークが言われるセリフだ
ゴンは俺らから絶賛される一方で苛烈な女叩きを繰り返していたのでキャンセルカルチャーされてしまった
青識王も滅び、今のツイッターはキャンセルカルチャーの荒らしが激しく吹き荒れている
ゴンは今は会社勤めを辞めてツイッターで食っており、月に30万円ほどの収入を得ていた
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/saebou.hatenablog.com/entry/2024/08/07/044725#bbutton
大変な労力をかけて勤勉に運用をしていたということを考えると、
ファシストにならないよう、気をつけて怠けて暮らそうと思う。
この文章を受けて、
「怠けて暮らそうと思う」は逆で、むしろ何も考えずに唯々諾々と命令に従った者が多数いたからこそ、この悲劇は起きた。ハンナ・アーレントが説く「平凡な悪」は怠惰から生まれる。
yamazakickerさん がスターを付けました。
yunotanoroさん がスターを付けました。
toshikishさん がスターを付けました。
まじで
頭悪いで済まされるレベルじゃない。
人に対する敬意がない。
人の心がない。
やばい。
やばすぎる。
https://anond.hatelabo.jp/20240807134220
私に、はてブを、やれ、と。。
HAHAHA。バッカジャネーノ
https://anond.hatelabo.jp/20240807135537
そこまでわかってる人はそういうコメントを書かないしましてスターを付けない。
わかっててとぼけるの見苦しいぞ
https://anond.hatelabo.jp/20240807140146
ここまでのツリーを全部一人で書いてるのやばすぎるだろ。
言いたいことはわかるが、やっぱちょっとネトウヨとか書いちゃうあたりに、本質的にこの人が右翼側嫌いなのかなって気はしちゃう。
が、まぁそういうのは置いといて
右翼は憲法を破壊改革しようと思ってるんじゃなく、日本そのものの国体を護るために変更したいということだと思う。
右翼の本質は慣性だと思っていて「動物は変更したがらない」ってことと結び付いていると思ってます。
なので、強引に変更させられた場合、元に戻そうと必死になる。それが、憲法を変更しようとする動力になってるんじゃないかなと。
あともうひとつは、よく言えば現実主義で、環境に合わせた変化は受け入れる。資本主義が定着したのもこのあたり。
ただ、現実主義で、そこにそぐわない一定数の弱者が切り捨てられるのは仕方ないって考えているところはあるでしょう。
そういうところは、自然主義って表現した部分とある程度合うところかな。
左翼の方が賢いってピキる人がうんぬん書いていたけど、もちろん、どちらにも賢い人はいて、そういうところに差はないでしょう。
けれど、それとは別に、全人類が揃って、頭脳的にも精神的にも1ランク賢くなれば、いわゆる左翼的社会を考える人が増えるのかもしれない。とは思っています。
左翼は理想主義であり、人間はすべてよりよい方向にアップデートしていくべきであり、よりよい方向とは、弱者が淘汰されることは無く、誰もが平穏に生きていける世を実現すべしという考えである。
共産主義って、主義自体は理想詰め込んだようなもので、トップの統制のもと利益はみんなで共有して、みーんな揃っておんなじ。そういう社会が一番平和でみんな幸せ。
そういう考えだと思う。
でも、こういう理想は、今の人類には自身の未熟さのせいで、現実ではまだまだ完全に機能は出来ずいびつになってしまう事を右翼の人は感じている。理想はわかるけど無理じゃね?ってなる感じ。なので左翼はお花畑って見えるわけですね。
逆に左翼からは、これが理想的で一番いいに決まってるじゃないか。なんで馬鹿はすぐに無理だとか諦めてうだうだ言いやがるんだ!ってなるわけで、このあたりが左翼が過激化する理由だと思っている。(学生運動やら日本赤軍やら)
いまの日本の形って、ある意味理想的な共産主義に近いんだけどなぁ……
資本主義ではあるけれど、国民皆保険や生活保護等でできるだけ最低限のことは受け取れるよう調整してあって(もちろん完全に機能しきっているとは言わない)
こういうのは他の国にはあんま無いんよなぁ
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「国家を背負って欲しくない」は本当にそう。せいぜいがそのスポーツの選手達の代表。だから各協会が代表決めるんだし。国の代表と勘違いするから、素人でもオリンピック選手に口出す権利があると勘違いするのでは
オリンピックは、国同士がスポーツで競い合う国際的なスポーツイベントだし、そのために日本代表選手は、日本の国旗を持って日本の国歌を歌って、日本の国民の期待を背負って競技に挑むわけじゃん
代表になるためには同じく日本代表になるために競いあったライバルを打ち負かす必要があるし
いや、左翼が昔からオリンピック嫌いなのは知ってるけど、国を背負ってほしくないみたいな戯言抜かすなよ
オリンピック選手は国を背負って戦うし、誹謗中傷する権利はスポーツに限らず何に対してもないが、応援したり選手と一緒に悔しがっていいんだよ
馬鹿かと
男→浪人してでも有名大学に行かないと地方にいる「賢い子」は立場がない。必死。学校でもトップくらいじゃないと将来が開けない。必死。
女→世間的なストレスは男と比べて軽い。地元国立でも「〇〇ちゃんは賢いねぇ」で終わり。
ここってだいぶ違うとおもうわ。
宇都宮高校と宇都宮女子高校が別学で県内公立トップ校なんだけど、公表されてる合格結果は結構色が違う。
宇都宮高校はどちらかというと旧帝大、東京一工、および地方国立を志願するケースが多くて、その滑り止めにマーチを受けている。しかし、宇高の浪人率は非常に高くて、そっちにはあまり進学していないんじゃないのかな。早慶には進む人もいると思う。
宇都宮女子高校はどちらかというと地方ではなく地元か東京か親の目が届く範囲の合格が多い。宇大及び東京の私大への合格が多数ある。どれくらい旧帝に落ちているのかは不明だけどね。
宇高レベルの男子は挑戦をして合格する傾向にあるけど(浪人率の高さなど含めてね。)、同じレベルのはずの宇女はあまりジャンプしてない。ここら辺もなんか関係ありそうよな。
医者も高給取り。
農家も儲かってる所は凄いよね。
東は2018年12月18日にツイッターでゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、解散は思いとどまる。東は21日付で代表辞任し、上田が代表に就任する。「ゲンロンに搾取されているという不満」(「ゲンロン戦記」、212頁)を抱いたそうである。ゲンロンの代表として会社のために苦労しているにもかかわらず、社員は楽しくやっているように見えるのが不満だったそうだ。理解しにくいところであるが、こういう理由から自分と同じくらいの貢献を社員に求めることになるようである。「ゲンロン戦記」のこの個所は異彩を放っていて、他は笑えるエピソードなのであろうが、ここは笑えないところであろう。代表辞任という重大な局面なので書かざるを得なかったのだろうか。
上田洋子の人生がゲンロンで好転したことは疑いない。博士号取得後燻ぶっていたが、チェルノブイリツアーの通訳を引き受けたところ、東に気に入られ、ゲンロンの副代表に就任し、それだけでも出世であろうが、東の代表辞任に伴い、代表の座に就くに至った。代表は女性ということでフェミの批判をかわせる部分もあるようである。2023年度日本ロシア文学会大賞を受賞している。東を諫めるべき立場ではあるが、そういうものとしては機能せず、東の発言をひたすら支持している。
2020年に新型コロナウイルス(COVID-19)が世界に蔓延する。東は断固としてコロナはただの風邪という立場に立った(小林よしのり×三浦瑠麗×東浩紀「コロナはしょぼいウイルス。世界中で騒いでるのが一番の問題。」【ゲンロン200328】)。田中康夫が切り抜き動画を作っていたのであるが、消されてしまっているようである。アガンベンも生権力批判の観点からコロナ対応に批判的であったが、コロナは致死率こそそれほど高くないものの、後遺症がひどいので「しょぼいウイルス」とは言えないであろう。
2020年7月に黒瀬陽平のセクハラが発覚する。東は黒瀬との関係を断つが、これはこの時世であるから仕方ないところであろう。黒瀬は「思想地図vol.1」(2008年)でデビューしており、ゲンロンではカオス*ラウンジ新芸術校などもやっていた。
2020年10月19日にシラスがオープンする。ユーチューブとどう違うのかとも思われるが、その理念は「ゲンロン戦記」第6章第2節で語られている。
2021年はキャンセルカルチャーが吹き荒れた年であったが、東京オリンピックでの小山田圭吾の炎上が最も目立つ事例であろう。音楽家の不祥事が新聞の一面トップを飾ったのは小室哲哉の逮捕以来ではないだろうか。この件で宮台真司は小山田に対して批判的であったが、これに東は反発して、関係を断つ。九〇年代に宮台も露悪系でやっていたのだから、小山田の側に立つべきだったというのであるが(「東浩紀無料突発 またどうせ消す」)、これはまっとうな批判であろう。一晩で数百万もの売り上げのあるイベントの相手をこのくらいの理由で切れるのだから、東の行動原理は損得にはないということは認めていいのであろう。
2021年4月4日、オープンレター「女性差別的な文化を脱するために 研究・教育・言論・メディアにかかわるすべての人へ」が公開されたが、これはキャンセルカルチャーの烽火といっていいものであろう。日文研助教(当時)呉座勇一が武蔵大学准教授(当時)北村紗衣を鍵垢で揶揄していたことを非難するものである。東北学院大学准教授の小宮友根が書いたらしい。呉座は日文研から准教授への内定を取り消される。同じ年に、立憲民主党の衆議院議員・本多平直が辞任に追い込まれたりもしており、リベラルが連携して動いていることは明らかであろう。キャンセルカルチャーの年表としては、「桐野夏生『日没』と2020年代の「大衆的検閲」」がある。
2021年9月29日、呉座は日文研を提訴したが、これに加えて、2022年2月27日、オープンレターの差出人に対して、オープンレターの削除と損害賠償を求める書面を送付し、同年2月25日、オープンレターの差出人らが呉座に債務不存在確認訴訟を提訴している。2021年12月に、草津町町長が女性町議から強制わいせつ容疑で告訴されたのに対して、名誉棄損と虚偽告訴の容疑で女性町議を逆に告訴したりもしていたが、キャンセルカルチャーに対して反撃が始まったという印象である。ツイッターでアンフェが気焔を上げていたのであるが、オープンレターは、署名していない人が署名したことになっていたり、差出人に加わることに合意していないのに差出人にされていたり、差出人が五十音順で並べられていなかったりして、杜撰なところが多く、そこを突かれていた。いわゆる法クラの弁護士が加勢したのも大きいのであろう。キャンセルカルチャーの本邦第一号としてモデルケースにするはずだったものと思われるが、躓いてしまった。
この呉座が、シラスにチャンネルを開設すると発表される。キャンセルカルチャーの犠牲者に助け舟を出したかたちであるが、ここからが問題であった。2022年6月、呉座が春木晶子を姫と言ったところ、辻田が咎めたが、呉座は姫の初出は東であると反論する。後日、春木は呉座に指摘を感謝し、東にこそ問題があると批判する(5ちゃんねる、東浩紀671の12)。このような経緯で呉座のチャンネルは、契約は未了であったものの、開設されないことになってしまった。また春木のチャンネルも契約更新を拒まれる。こちらはアップルパイを番組で焼いていたことも問題視された。このことからアップルパイ事件とか五反田ベース事件などと呼ばれることもある。呉座と春木はユーチューブに「春木で呉座います。」というチャンネルを開設した。
悪いことは続くものであるが、今や東のトレードマークともなった「とんこれ」発言が飛び出す。衆議院選投票日を二日後に控える2022年7月8日、元総理大臣の安倍晋三が統一教会に家庭を破壊された過去を持つ山上徹也によって射殺される。7月10日、ニコニコ生放送で「【参院選2022】開票特番|三浦瑠麗、東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう」が放送されるが、中継で社民党の福島瑞穂が「それで現在はまだ詳細がわかっておりませんが、統一教会との関係などとも言われております。ですから詳細が明らかになると同時に、もし自民党を統一教会が応援していることが問題とされたのであれば、まさに自民党が統一教会によって大きく影響を受けているということも日本の政治の中で問題になりうると思ってるんですね」などと発言した。中継終了後、東は「あの、これさ……自民党は統一教会と関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」と述べ、一連のやり取りの中で「これとんでもない話だなぁこれ」との印象深いフレーズが口にされる。福島に安倍への銃撃を容認する意図はないと思われるが、そのように曲解したのであろう。しかし、この発言がネタになったのは、味わい深いものがあったからであろう。「五反田式人文パフォーマンスは①唐突で②滑稽で③絶妙にピントが外れていないといけない。極めるのは大変ですよ」(5ちゃんねる、東浩紀スレ817の622)。狙ってやれるものではないように思われる。
2022年10月頃、暇空茜が一般社団法人Colaboの杜撰な会計を追求しはじめる。これは2021年後半から始まったキャンセルカルチャーへの反撃のうちで最大のものであった。暇空の活動は、表現を燃やすものを燃やすことでキャンセルカルチャーを終わらせることを目的にしているが、そのために情報公開請求や住民監査請求などの合法的手段を用いている(一部デマもあるようだが)。青識亜論のような従来の「表現の自由戦士」は原理を唱えるだけであったが、行動に移したかたちである。東は暇空についてほとんど言及していないが、暇空を支持している宇佐美展也と「都知事選は本当にこれでよかったのか!?」(2024年7月7日)で共演している。
「とんこれ」発言で東の評判はずいぶん落ちたため、それからは安全運転を心がけているようである。しかし、安倍が死んだこともあり、検察が息を吹き返した。東京五輪の汚職で株式会社KADOKAWA会長の角川歴彦は逮捕・起訴され、「とんこれ」発言に同席していた夏野剛が棚ぼたで取締役・代表執行役社長兼CEOに就任した。同じく「とんこれ」発言に同席していた三浦瑠璃にはそういうラッキーはなかった。夫(当時)の三浦清志は、建設の見込みがないのに太陽光発電の出資を受けたとして、詐欺容疑で告発されていたが、2023年3月7日、業務上横領罪で逮捕されたのである(同月27日に起訴)。三浦瑠璃はしばらく活動を休止していたが、2024年4月26日、夫との離婚を発表し、活動を再開した。
辻田真佐憲は、「訂正可能性の哲学」の副読本「訂正する力」(2023年10月)の聞き手・構成を担当するなど、東の最側近になっていたが、2024年5月31日の「東浩紀突発#136 ただなんとなく雑談」で批判される。「みんな格好つけたいんだろ?俺、自分が格好つけるとか考えない。ゲンロンとシラスのためにめっちゃやってるから!俺シラスを盛り上げようと思ったんだよ。シラサーと一緒に。やってくんないよ!みんな自分のチャンネルのことばっか考えてるじゃん!」などの発言があったそうである(5ちゃんねる、東浩紀スレ酒849の290)。「石戸諭×桂大介×東浩紀 ネットで(ついに)社会が変わるのか?」(同年7月18日)でも辻田は批判される。辻田が論壇フェスというイベントに出るのが気に食わないようである。辻田は「【雑談配信】東京都知事選後日談、中間の重要性、論壇フェスほか」(同年7月19日)で反論した。しかし、辻田は売り上げトップであるだけに東も軟化し、辻田がシラスを止めることは今のところないようである。
現在に追いついた。これまでのあらすじをまとめると、東は郵便本で確立した視座でずっとやってきたといえるのであろうが、ゼロ年代はネット草創期のコミュニケーションの変容をアーキテクチャ論から考えていて、この頃がいちばんよかった。個々人は社会から下りていても、社会は回っていくというような夢が語られた。このような夢まで否定されるいわれはないだろう。テン年代になると、SNSによってネットが政治的なもので満たされるようになり、東はそこから距離を置こうとしてゲンロンに立てこもるようになった。ゼロ年代はネットの勢いに乗っており、その可能性を引き出すべく理論化に励んでいたが、テン年代はネットの動向に批判的になり、アーキテクチャ論も捨ててしまい、時代を作るような存在ではなくなっていった。
時代を作っているのは、左派ウォーキズムであろう。東に近かった人でも、津田や藤田はこちらに付いていったのであるが、ゼロ年代の東は、環境を変化させることで行動を変える環境管理型権力がこれからの権力であり、内面に介入する規律訓練型権力は過去のものになりつつあるとしていた。しかし、左派ウォーキズムは明らかに内心に介入しており、先祖返りしている印象である。外山恒一はキャンセルカルチャーについて「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」(情況 2022年春号)と言っているが、これにならえば、左派ウォーキズムは、云ってることはフーコーだが、やってることがキリスト教といったところであろうか。しかし、左派ウォーキズムは収まりそうになく、これに対する抗議運動も続くであろう。
展望も記しておくべきなのであろうか。宮台真司は東に健康診断を受けるように勧めていたが、宮台はステージ0のすい臓がんを発見しており、しっかりと健康診断を受けているのだろう。東はアル中ではないということらしいが、酒の飲みすぎであることは疑いない。しかし、健康さえ保てれば、今の地位は揺らぎそうもない。思想的な伸びしろは乏しいのかもしれないが、依然としてアイデアマンではあり、あと十数年は売れる本を出せるであろうし、ゲンロンも続けようと思えば続くであろう。
これでこの伝記は終わりであるが、記憶に頼って書いたところも少なくなく、誤りもあるかもしれない。東の埋蔵量は油田のようであり、書き終えられるか不安になったこともあるが、何とか書き終えることができた。これを読んだ人にネット草創期の興奮が少しでも伝われば幸いである。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌「ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。
東のゼロ年代はゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムがゼロになる」という意味らしい(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか。
3 ゲンロン
ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観で編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。
ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズは2010年4月6日に創業された。2009年の秋の飲み会でアイデアが出たそうである。宇野常寛、濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜(空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズの代表に就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表に就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかったかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。
「一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月号から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿は2010年代に書かれたのですが、出版は震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代のパラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもので民意をくみ上げようというものである。ゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代とゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。
「サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画は2ちゃんねるの動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSにネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。
「一般意志2.0」の次の主著は「観光客の哲学」(2017年)であるが、サブカルチャーを批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれてから、アニメやゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客の哲学 増補版」第2章によると、観光客は二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタクは原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客も住民の暮らしなどお構いなしに無責任に観光地をつまみ食いしていく。このように観光客は現実を二次創作しているそうである。
「福島第一原発観光地化計画(思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発で事故があり、ダークツーリズムの対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズムは二次創作への抵抗である(「観光客の哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地に観光に出かけると、普通の場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである(二次創作への抵抗)。
社会学者の開沼博は福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞のウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故のイメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客の哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府の戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年に東京大学大学院情報学環准教授に就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣「脱原発の哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラーは佐藤の博論(「権力と抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤はバトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラーの著作の邦訳を担っている)。「脱原発の哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤の博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。
「観光客の哲学」はネグリ・ハート「帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学的であるとして、郵便的マルチチュードとしての観光客を対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというもの、リベラルはマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客の哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二やこたつぬこ(木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判的である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実「革命的なあまりに革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命が成功していることになるのか」(「現代日本の批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。
東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である。経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうである。ブレイディみかこ・松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルがマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田は2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員の代表を務めている。
「観光客の哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学」である。こちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢が大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念の意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能性なのだという(森脇「東浩紀の批評的アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。
こうして現在(2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身の気質を自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事を自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体と境界侵犯の欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀・桜坂洋「キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からぬものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。
宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客が結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利を宇野が要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である(映画の原作なのだろう)が、宇野のウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代の論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代の批評をふり返った本の終章なのだから、2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代の論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。
濱野智史は「アーキテクチャの生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised:情報社会の倫理と設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドルが流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年、アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史(社会学者)が経験したアイドルプロデュースの真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。
千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰と東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベントで千葉はゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀と何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生を全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。
大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。
福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談「現代日本の批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。
津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田は2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督に就任し、東は2017年10月、企画アドバイザーに就任する。しかし、企画展「表現の不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルからも顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。
東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀は特別の存在であった。これは今の若い人には分からないであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からないからである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別に、インターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代を代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀、堀江貴文(ホリエモン)、西村博之(ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのである。ファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。
私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたものを網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信もほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレの古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。
東浩紀は71年5月9日生まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介の時代区分だと、虚構の時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。
東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市に引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親は金沢の出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組】東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼は新左翼。左翼よりバカ!」【真実と幻想と】)。
東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校の模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。
筑駒(筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブの高井麻巳子の福井県の実家を訪問したことであろうか。秋元康が結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代にうる星やつらのファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。
もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。
東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月)である。ソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫のノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。
東は、教養課程では、佐藤誠三郎のゼミに所属していた。佐藤は村上泰亮、公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在(2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文とグロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤のゼミに所属していたことから、学部時代に読んだのだろう。
東は94年3月に東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学分科を卒業し、同4月に東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文はバフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである。私たちの世代は三読くらいしたものである。博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。
郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッターで清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。
東の若いころの友達に阿部和重がいる。阿部はゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイを寄稿している。川上は早稲田文学の市川真人によって見出されたらしく、市川は渡辺直己の直弟子である。市川は鼎談「現代日本の批評」にも参加している。
東は、翻訳家・小鷹信光の娘で、作家のほしおさなえ(1964年生まれ)と結婚した。7歳年上である。不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー「東浩紀「批評家が中小企業を経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。
そして娘の汐音ちゃんが生まれる。汐音ちゃんは2005年の6月6日生まれである。ウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれた時間まで書かれている。名前はクラナドの「汐」と胎児用聴診器「心音ちゃん」から取ったらしい。ツイッターのアイコンに汐音ちゃんの写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分の写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館「世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。
96年、コロンビア大学の大学院入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試が残酷なのは、それが受験生を合格と不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生や家族に対し「おまえの未来は合格か不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢は無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。
2 ゼロ年代
東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年に刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である。
東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便的不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だから、サブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。
「いま批評の場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。
動ポモは10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから「動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモはフェミニストには評判が悪いようである。北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモは英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客の哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客の哲学」が3つと動ポモが圧倒的である(2024年8月3日閲覧)。動ポモは海外の論文でもよく引用されているらしい。
次の主著である「ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視を否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。
この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年生まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである。北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラを告発されたこともあるが、不発に終わったようである。結婚して子供もできて幸せらしい。
その頃は2ちゃんねるがネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃんを俎上に載せている。北田は「広告都市・東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーションが接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析の古典ではある。
東は宮台真司や大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本のジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である。動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。
宮台や大澤や北田はいずれもルーマン派であるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者の馬場靖雄(2021年に逝去)は批評空間に連載されていた頃から「存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文「正義の門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマンの社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの「社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。
佐々木敦「ニッポンの思想」(2009年)によると、ゼロ年代の思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダン”とは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。
佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代の思想の土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。
北田によると、東の「情報技術と公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術、工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会の批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。
佐々木「ニッポンの思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝「ストリートの思想」が出ている。文化左翼の歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代(佐々木の命名)から勢いが増していき、今や大学、メディア、大企業、裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。
非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり、本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田は消息が分からなくなり、小谷野も2017年頃から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年、教育學 Permalink | 記事への反応(13) | 17:44
1種目についてのジャンルわけとかで人数が異なるでしょ
その意図が「同一成績分け」じゃなくて「同一前提分け」になってるってだけの話よ
10人出れる枠もあれば数人の枠もある それを「この競技は実数として何人だが」とか持ってくるのは意味がないと思うよ
そして分け方が「どういう理論で成り立つか」ってオリンピック競技者選定理論、なんてもので各競技の基準とか人数とか決めてるわけじゃなくて
あくまでスポーツをする前提で、できるだけ公平になるようにとする基準が「基準に沿った各国からの選出」になってるってだけの話
「柔道で無敗のクラス、10戦5勝のクラス、1勝9敗のクラス」と実力で分けたら、平等になるか?とか
「100メートル10秒で走れるクラス」に8秒の選手は出れないし10秒以上の選手しかいないチームは出場できない?とか
そういう事だよ これがなにかの理論に沿ってるわけでも一貫した哲理があるわけでもない
同じ競技をするのに何が「不平等感につながるか」を最低限排除するという事で決めるのがスポーツだねって事だよ
男女で分けてる話は「文面上同じ記事内に書かれているけど、出場枠の制限について男女の分け方が起因している」と結びついてないよ
「100メートル10秒の選手で競技する」となると男女の意味はないけど、逆に「100メートルのタイムを競う」で選手を募るなら男女わけは基準のひとつになるでしょ
前提としてもちろん「何秒台で走れる帯域」というのが性別に起因する可能性はあるけど、足の遅い男性と足の速い女性を混在させる場合に「完全にトップスコアを全人類上でだせる競技」でない場合だと
その混在理由、混在させてともに走ってスコアを出して、その1種目の中で順位を決めて賞を与える意味って「何々なのに足が遅い」というなんの基準もその意味も情報としても価値もないものになるよね
「体形が同じで同じスペックが出せるはずなのに、遅いやつは何なんだ」という事に、理由というか続ける言葉を人がつくるとしたらそこにあるのは差別的な何かになるでしょう
ただ早い人類を探すイベントなのだったら、100メートルを7秒台で走る義足の選手が出てもおかしくないでしょう 筋肉を特殊な方法で育てた人が出たりとか
そういうのを排除する意味は、人間のパフォーマンス選定会じゃないからって事 スポーツ競技者が成果を見せ合うお祭りなの
スポーツの公平性ってそういうことだって話だよ 研究室のパフォーマンスデータを一般人に見せるイベントみたいなものじゃない
たまに横断的に金をとる選手がいたりするけどそれはスポーツの祭りで平等性よりも「トップスコア」を狙ったスポーツマンシップから外れた基準だろうと思われても仕方がない
でも基準がいまのところそこはできるからしてるってところはあるだろうし、みんながお祭りとして楽しむためによりよくしていくならば、出場を限らせる条件をうまく言語化できるならばルールにしていくべき所だと思う
新体操だってベストなスコアが出せる人間がいたとしても「喫煙をしていた」とかで落ちる可能性があるんだよ
スコアと喫煙は関係ないよね だから出場するべきではあると思うけど選出条件から漏れたからトップスコアでも代表選手になれないって事があったりするわけ
ほかの身体スコアがトップだとしても薬物は違反だとか、他の倫理規定とかに違反していたら脱落とかある
競技者が競技として、そのスポーツの人口を増やす原因となってほしい成果のひとつをみんなに見てもらうためのお祭りがオリンピックなんだよ
でも出場の人数に制限があるわけ
トップのスコアを出す人間なのかどういう条件を満たしたのかとか、いろいろ選定の基準があるわけ
その中に男女って区分けもあるってだけの話
男女という属性を抜きにすれば通常「トップのスコアを出す人間なのか」という基準しかない
(それを決めるために複数の基準を適用することはあるけど、あくまで「トップのスコアを出す人間なのか」という観点であって、別の属性を入れ込むわけではない)
逆なんだよ
公平性っていうのは
100メートルを10秒で走れる人をあつめて 100メートル走を行う
じゃないんだよ
100メートルを走ることが出来る人をあつめて そのタイムを競うんだよ
それで差が出るよね
その差が「優劣」でもなく「貧富」でもないのがスポーツの公平性なんだよ
足が遅い国は教育や食事とか経済なんかにおいて水準を上げる援助や協力が必要であるなんて答えを出さない
じゃあ男女でもだれでも出たいと思った人間が出ればいいじゃんって思うよね
そうだよ
別に足があろうがなかろうが走れようと走れまいと関係なく出たらいいんだよ
でも出場の人数に制限があるわけ
開催国だって競技人口を全部受け入れる広さもないし、移動とか考えてというか常識的に考えて一競技一人に絞るのが妥当でしょ
トップのスコアを出す人間なのかどういう条件を満たしたのかとか、いろいろ選定の基準があるわけ
その中に男女って区分けもあるってだけの話
そこの国の「人種」がどういう形であるかを決めたり「同程度」の能力がそれぞれの「人種」で「どういう階級と並ぶか」みたいなモロに差別な事を言わないわけ
そういう人種を「国の代表」としているから、たとえば100メートルを8秒で走れる「人種」とそうでない「人種」で並べたとしたら努力とかスポーツマンシップとか関係なく「人種の交配」以外に競技の見出せる意義がなくなっちゃうでしょ
発想は公平性から来てると思うし差別の意図はないと思うけど、それを利用して感情が偏る結果に差別があるのよ
1ドルが145円とかみたいな「1対1」の交換比率に差がある、平等で公平な基準に差がでるという事は「平等に考えて差があるから」」という基準を生むわけ
そうなると全然関係ない要素にも平等と公平性で出した結果が利用できるよねって言い出す「差別」が生まれるわけよ
同じ体格で100メートルのタイムが2秒もちがう、となると「同じ体形の人間に課す料金、手続き、対応」なんかについても「スポーツで結果がでてる差があるから」という理由で基準が生まれかねないわけ
人種で「同じに見えても違うから」という理由、その同じ見た目という基準を持つ事自体が「人の差を見た目で判断している」という差別の一歩なのよ
体格が同じに見えるからという理由で階級を分けてる格闘スポーツがあるでしょ
あれは身体能力の他に「技の差」が、平等性を欠くことを意図的に差別化することで回避してるのよ
「平等性」を取り入れて「条件による代表制」ではなく「同じ体形の人間」だけで運動能力競技をすると「根源的な種の差」で勝つ人が出てくるわけ
「技で複数の階級制覇」する人と同じ意味の人が、最近話題のトランスジェンダー競技者と同じ差が出てくるのよ
勝ったとか負けたとか順位があるから、優劣を競ってるように見えるんだろうけど
スポーツマンシップってのはそういう結果が出るものだとしても「優劣」ではないんだわ
体形が違うからとか構造が完全に違うからとかいう理由で「相手の代表に選んできた相手」との結果がすべてで
人種とか体形とかそういうものの差でどうのこうのってのはあっちゃいけないわけよ
トランスジェンダーか構造的な差がもともとあったとして棄権した選手が、そういう感覚でスポーツマンシップを損ねた態度をした件があったけど
「そういうものじゃない」って態度をあとで謝罪して理解した旨を示したでしょ そういう事よ
相手がどんなモンスターだとしても代表選手として選んできてIOCが認めたんだから、IOCの提供する競技の場ではスポーツをして結果を出すべきだったって話
選定基準とかそういうルールみたいなものは外野が騒いで、ルールの在り方とかを第三者的に監視してよりよいものにしてくべき所
選手はできるだけスポーツとして純粋に結果が出せる環境に、代表として名乗りを上げれる状態にしてほしいと願って日々鍛錬をするだけ
なので人がどこからきて、なぜそこに定着するに至ったかを考えることから始めます。
(日本は歴史的にそこら辺があやふやな部分が多いので、ローマの植民や異民族の侵入辺りを参考にするとよいです)
水場がある、戦争において有利だから占拠した、川の渡し場がある、港を作れる、近くの都市国家の安全保障圏内だった、などです。
ダンバー数という概念があります。社会的な動物である人間がコミュニティの安定を保つのに適正な状態を示すものです。
正直理論そのものは眉唾なのですが、経験則上一定の人数が集まると運営が困難になるのは周知の事実かと思われます。
どれくらいの人がいて、何を目的として集団を形成しているのか。これが統治であり国の在り方です。
部族が拡大しその首領が君臨するというのが古代的な社会ではあります。分裂もします。
血統が貴ばれるのは文明が発展し、人民がナラティブを受け入れる社会性を獲得してからの話です。
基本的には暴力です。ここで言う暴力とは当然直接的な暴行もそうですし、数を束ねて運用し少数者を抑圧する能力も含まれます。
また支配者に絶対忠誠を誓う暴力を保有する、財物で買える暴力を保有する、あるいは財物そのものを暴力として使用するなどもあります。
この支配者はどういう暴力をもって君臨しているのか、を意識すると国家としてのデティールが明確になるでしょう。
古代、人権とは王ただ一人が保有するものであり、今で言う憲法とは王の思想と同一でした。
絶対王権や中央集権は古典的暴力に思えますが、これは近代に入って人類が獲得した暴力の集大成です。
地主、あるいは領主、のちに貴族と呼ばれる人々は相応の暴力をもって君臨しています。
王とは彼らの同盟のリーダーであり、地主の忠誠など期待できないものでした。
領地貴族が別の領地貴族(王も含む)にへりくだれば統治の正当性(暴力の有効性)を失いかねません。
信仰が信仰として単体で成立するならいいのですが、組織宗教となり王の暴力を用いる側になると構造が複雑化します。
信仰、教えに留めておきましょう。
ここまででぼんやりと形ができたと思いますので、あとは暴力に魔法だのスキルだので色付けすればなろう小説としては十分です。
王を一番強い、強い力を運用するポジションにつけて、その支配を世界の隅々に下ろしていくことで自然的なレベルデザインも生じます。