はてなキーワード: 重要とは
また長いので要約すると
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前記事でコロンブス問題について取り上げた際、現地の当事者目線を強調し、説得力のある解釈に直面した。Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題や感謝祭に関する記事では、先住民視点の重要性を感じさせられたが、ファクトチェックが難しく、一部は陰謀論のように感じられる部分もあった。特に感謝祭の起源に関する記述には疑念が残る。感謝祭はアメリカの文化・経済に深く根付いており、その負の歴史を直視することは容易でない。感謝祭をやめることは難しいが、少なくとも先住民の立場を認識する必要がある。フランスの植民地主義も同様に、進歩的な価値観と結びついており、正義の名のもとに歴史を再評価する動きに対する警戒が求められる。正しさのもつ危険性を認識し、多様な視点を大切にするべきだと感じた。
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慎重な立場で検証すべきという姿勢には同意するけど、結局「現地民を類人猿として描いている」ように見える時点でアウトに違いないので、それ以降はキャンセル側も批判側も重箱の隅をつついているだけなのではないのかね。
「知性的な判断とは、できるだけ詳細な知識による理解に基づくべきだ」「そのための学習と、当人による体験を重視すべきだ」という点は見習うべきだと思った。
前記事で、コロンブス問題、サヨクめ!と散々書いて、当事者目線を強調しつつ最後に野沢直子の回答で締めくくっていたら、
まさに現地の当事者目線で、ぐうの音も出ない解釈を目にすることになった。
先住民目線で語る、Mrs. Green AppleのMV「コロンブス」問題 | ユロックの母
ほらみろや、と今頃、新たに手にしたポリコレ棒で気持ちよく机をバンバン叩いているに違いないと思うと、うぐぐ、な思いはあるが、この記事はとても説得力があった。
ファクトチェック全部はできないし、3割程度は陰謀論ばりのこじつけかなぁ?という印象ではあるものの、確かにそう見える、というのは、正直、とても説得力がある。
それにしても、この当事者目線というのはとても大切だと思うし、亜希ダウニングさんの他のアメリカ先住民を取り扱った記事も大変興味深いものだった。
特に、おお、と蒙を開かれたのは、感謝祭に関するアメリカ先住民の視点。
【感謝祭の本当の起源】ネイティブアメリカンの悲しい真実の物語とは | ユロックの母
これは考えるヒントがたくさん詰まっている記事だと思った。
ただ、これもコロンブス記事同様、3割程度はエイヤと断定してしまっている部分が少なからず見受けられ、必ずしもファクトを確認できない感じではあった。
(例えば、1637年のピクォート族虐殺=John Winthropマサチューセッツ湾植民地知事による征服祝いが感謝祭の起源である、と同氏は断定しているが、アメリカ先住民よりのメディアを検索しても「このピクォート族の虐殺と土地を奪ったことを讃える1637年の宴が最初の感謝祭であると、後に公式に決定」とまで断定しているものは見つけることはできなかった。もっとも保守派よりのファクトチェックサイトでは、1637年の征服を祝福、感謝したのが感謝祭の発端とする説に「事実無根だ!」と、それこそむきになって根拠なく反論しているのもみつけたので、右派にとって、痛いところを突かれれているのだろうとは思う)
というのは、感謝祭という、入植したアメリカ人の原点ともいえる巡礼始祖の心温まるエピソードで、かつ「アメリカ人」というネイションとしてのアイデンティティ形成にも寄与してきた感謝祭、そして現代では商業的にもブラックフライデーなど非常に重要な感謝祭が、実はアメリカ先住民の視点からみると、自分たちが虐殺されてきた血塗られた歴史の一コマだったというのは、ポリコレ的にどう扱うんだろうと。アメリカ先住民の立場としては、感謝祭の日は喪に服す日だとして、負の歴史を直視するよう求める主張も行われている、という。
これは、ポッと出てきたアニメやMVなどのコンテンツと違って、ポリコレ的にあかんから、といって引っ込めるわけにはいかない。
感謝祭はそれほどまでにアメリカの文化・経済社会に深く浸透している。巡礼始祖の思いというのはある意味、合衆国憲法起草にも関わってくるものなので、巡礼始祖の神話をその一部であれ、修正する、というのは容易なことではない。いかにキャンセルカルチャー全盛の昨今といえども、感謝祭、裏側からみれば虐殺の歴史、というところに目をつぶり続ける時代はしばらくは続くだろうと思う。
だから、アメリカ先住民としては、感謝祭やめろ、とまではいえないが、少なくとも私たちは喪に服すよ、ということをアピールする、というところなのだろう。
問題は、自分たちのアイデンティティ形成に欠かせないものをキャンセルできるのかというテーマだ。
そもそも、植民地主義の反省というのがアメリカのみならず、ヨーロッパ社会でもなかなか直視されないのは、それが自分たちのアイデンティティに組み込まれているからだというのは、例えばフランスの植民地主義を振り返るとわかる。
例のコロンブスMVでは、類人猿に音楽を教えたり文字を教えたりする場面があるが、ダウニングさん的にはネイティブアメリカンの歴史が最初に思い浮かぶのだろうけれども、俺はどちらかというと、未開な社会を文明化する、というテーマはむしろ、フランスの植民地政策がどんぴしゃりなイメージだったりする。前記事でそんなことを書くと、そういうお前も知識ひけらかし野郎だろが、といわれるので書かなかったが。
ひとつ前の記事で永井陽右氏の言葉を引いて、「外付けされた人権」という安易さを戒めるようなことを書いたんだが、外付けの元祖は実はフランス革命だ。
人権の出発点のひとつともいえるフランス革命では、当時、海を隔てたイギリスからこの革命の様子をみていたエドモンド・バークは、革命で掲げられたフランス人の新しい概念について、外付けはおろか、「発明されたもの」とまでいっている。褒めているのではない。「発明された概念」のもと、フランス革命では、反革命派が次々と断罪されている様をみたエンモンドバークは、なんでも進歩的なものが素晴らしいわけではないし、なんでも理性的に判断できる、偏見を解消できると考えちゃう傾向はヤべえと考えた。
偏見なんてなくならないんだから偏見をなくそうという発想をやめて、伝統や文化と結びついた自分たちの偏見を生かした社会を目指すべきだ、という考えを進めた。
つまり、「伝統的な価値観のなかでは自己実現できないひとがいる」一方で、伝統的な文化や価値観で自己実現をしたいひとだっているってことだよ。
進歩的な価値観に基づいて偏見を解消しようすると、社会のどこかで肩身の狭い思いをする人が出てくる。それをかつて中島みゆきは「世情」という歌のなかで、
学生運動のシュプレヒコールの情景をみながら、「世の中はいつも変わっていくから頑固者だけが悲しい思いをする」とうたった(哀しい思いをするのは学生たちに打倒される守旧派側でもあり、衰退する運動にしがみつく左翼くずれの末路でもある。あ、俺の解釈ね)。20代の頃の中島みゆき、すごいぜ。
エドモンド・バークに戻ると、彼はいわゆる、保守主義の元祖みたいに言われることが多いが、フランス革命による激しいポリコレにビビったというのがそもそもの出発点なのだ。
*教養なんて外付けだろうってブコメに★がたくさんついているが、エドモンド・バークの見方は、そういうことを少し考えるヒントになったりしないかね。
もうひとつ興味深いのは、フランスの人権の歴史は、実は植民地主義と深く関わっている、ということだ。
フランス革命後、自ら編み出した自由博愛平等という「人権」という概念をより普遍的な価値に高めるために、文明化の推進という旗印のもと、未開社会の啓もうにいそしんだのがフランス植民地主義の大きな側面だからだ。特に、フランス語の普及は博愛の精神の名のもとに、当時フランスが支配下においていたアフリカ地域で推進された。確か、昔読んだ本で手元になく記憶があいまいだが、当時の知識人ヴィクトル・ユゴーは奴隷制に反対しつつも、フランス語の普及にはむしろ賛同していた、と聞いたことがある。ユゴーではなくジャン・ピエールだったかもしれないが。いずれにしても当時の一級の知識人が植民地におけるフランス語推進の旗手だった。
こうしてユニバーサリズムの名のもとに、フランス人の精神の普遍化を推し進めた、というダイナミズムがあったこと、そして、隣国の保守知識人からはフランス革命のその後の経過は「発明された概念」による野蛮なポリコレとして映じていたりしていたことは、「人権を普遍的なもの」として習ってきた学生が、次のステップとして教養として知っておいてもいいことだと思っている。
人権の普及と植民地支配が地続きであるというのは、フランス社会での植民地支配への反省の足かせになってきただろう。それは博愛を友愛とポリコレ的に言い換えても同じことだと思える。
これはある意味で、感謝祭が国民意識の醸成に関わってきたことと、その負の側面を直視しにくいアメリカの状況と、状況は異なるが、抱えている課題は共通する。
昨今のコロンブスMV叩きについて、得体の知れない違和感を覚えるひとは、俺も含めてなんだが、恐らくどちらかというと、人権の普遍化のプロセス(進歩主義)と植民地主義が一心同体というところに気持ちの悪い類似性をうすうす見出せるのではないかと思う。エドモンド・バークほどはっきりと「人権よりむしろ偏見のほうが大事!」と180度振り切るまではいかなくとも、正しさのもつ禍々しさを何か表現できないかというモヤモヤがあるはずだ。
自らの存立基盤をポリコレ的に正す究極が革命というものだとすれば、それに対する警戒感というのは埋もれてはならないものだと思う。
そういうモヤモヤは大切にしてほしいし、アメリカ先住民の立場からみたらやっぱり、という記事を見つけたとしても、そこまで確信をもって解釈できなかったし、寄り添えない、という部分は残しておきたいと思う。それに対して「貴様、アメリカ先住民の心情をないがしろにする気か」という反応は、ある意味、表現の自由の乏しかった80年前の戦時中に、「兵隊さんご苦労さん」といって国民を一斉に同調させたダイナミズムとよく似てくる。何が正しいかについて翌々考えず、適当にポリコレ棒を拾って叩いていると知らず知らずのうちに、みなが操られた正義に踊らされてしまうというのは危機感としてもっていい。
どこかで拾ってきたパリの写真などを上げてパリ在住のように意図的に演出していたが、同時に東京の写真も上げたりして設定ガバガバ。
語学力のあるものにとっては、当初から「こいつ言ってること怪しすぎるな?」と不審点だらけだったが、バカは気づかない。
知性も品性もないルンペン左翼のガス抜きでたっぷり稼ぐよ青バッジ。
高卒どころか中卒という噂もあるミリタリー雑誌ライター兼シミュレーションゲームデザイナー。
理系でも高校世界史をちゃんとやってたバランスの良い高学歴ならわかる。マジで言ってること歴史学的にはデタラメ。
最近はプロフを東大院に書き換えたらしい。社会人入学でもしたのか? 努力は認めるけど、「独裁者」とか「専制君主」とか重要な歴史用語の使い方がめちゃくちゃなのは学者と呼べるレベルではない。
本当は総会屋はてサの親分瀬川深(https://x.com/segawashin)とか入れたいけど、まあ身分詐称してないだけマシなので圏外に。
他に入れたいの、ある?
増田を伸ばすコツは「不快感をシェアする」こと、あからさますぎてはいけない
そうすると不快感を受け取った人が自らも不快感を表明したくなって浅いことを書きに来る
浅い薄い見識をひけらかすようなものがいくつも見られるだろう?
自分が本心からそう思っていて不快感をシェアしやすいテーマを見つけることが重要
VTuberはそれほど詳しくないのに一言言いたがる増田が多いという点もよいテーマである
あとは時間帯と運
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VTuberリスナー達って相手がVTuberであるってだけで本人と何の関係もない見た目をかわいいかわいいとほめて、
下手なイラストを上手い上手いとほめて、
下手な歌を上手いきれいだとほめて、
そうやって散々高い高い下駄を履かせて褒めちぎって3ヶ月で飽きて別のVTuberに同じことするんだよな
それを真に受けるVTuberもVTuberだよ、客観性とかないんか?
途中で切れた。長いと切れるんだな。知らなかった。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が必要な特性について見過ごされたまま、強いストレスを肉体と精神の両方に受けることになったこと。
また、発達特性が仇となり、ストレスを軽減するための人間関係を作れず孤立したこと。
これらの要因により精神的な限界に達した時、受けた負荷が強いパニックの形で噴出してしまい、結局はそれが水泳を挫折する原因になったということ。
また、子ども当人(つまり、私)が、その負荷をむやみに強いられたと感じ、母親への不信を深め、その感情に向き合って修復する機会がないまま、成人後に関係を破綻させてしまったこと。
そして、これらの感情的な傷付きに至る経緯とは別に、特性について適切なケアやトレーニングを受ける機会を得られなかったこと。
これらのことが、社会に出てから仕事への意欲が薄いこと、将来への展望を描けないこと、社交場面における不安などに影響し、また自分の特性を扱う上での経験不足がストレスによる不眠、日中の眠気などに繋がり、上記の不安に拍車をかける結果となった可能性はあるのではないか、と私は思う。
そして、冒頭の「あなたの言葉は感情を説明しない」という指摘もまた、やはり『嫌だ』『つらい』という訴えを繰り返し退けられ練習を強要された経験から、自分のつらさを他人に訴えてケアしてもらうことを諦めてしまい、直視せずに蓋をすることが常態化している精神状態にある、そのために精神的な問題を抱え込みやすくなっている、と説明できるかもしれない。
また、休職前に孤立無援と感じられる状況にふたたび置かれたことで、水泳でパニックを起こしたときのように、強いパニックをおそらくまた起こし(あいまいな書き方なのは、あんまり覚えていないので)会社に行くことができなくなっている。
これが当時のトラウマのいわゆる『再演』にあたる可能性はあるかな、と少し思う。
両親は私を愛しすぎるほど愛してくれており(少し連絡が取れないだけで着信を100件超えて入れるのが常態化していた程度には)、特に金銭の面では一般的な親の倍以上に私に支援をしてくれたことは事実である。
上記の事実をもって、私をまだ幸運なほうと思う人もいるだろうし、就活のくだりなんか、特に甘ったれていると思う人間も多いだろう。
ただ、3歳〜16歳ごろの人格形成期+思春期に、チームメイトと精神的にまったく連帯できない状態でスパルタ式の暴力的な教練を日がな毎日受けるという負荷は、おそらく定型発達の人間でも耐えられる人は限られるのではないか、という気もする。
そういう負荷に発達特性のある子どもが挑む場合には、おそらく精神的なケアは定型発達の子ども以上に必要で重要なことだったのだろうと思われる。
私がそういう子どもであったことが親の不運で、特性由来のストレスに対する適切なケアや社会的トレーニングの機会が得られなかったことが私の不運である。
正直なところ。
母は小学校高学年くらいの段階で、私を発達障害者だと疑ってはいた。ネットの普及し始めた当時、私の持つASD的な特性の一部分はアスペルガーと呼ばれていたが、そのことについて母が情報収集していたことを覚えている。
しかしそれは、障害を受容した上で、適切な支援に繋げるという結果にはならなかった。
ちょうどそのくらいの時期に平成不況がやってきたのだ。私の特性を考え、進学先に私立中学を視野に入れていた母の計画は、完全にそれどころではなくなってしまった。父の会社にもリストラの波がやってきたのだ。
タイミングの悪いことに、私が水泳の過度のストレスからチックに陥った時、ちょうど母は不況への恐れからパートを始めたばかりの頃だった。私の『病気』の原因について、母は周囲からの責めを一人で負うしかなかった。父の両親との二世帯同居の家で、専業主婦の母は孤立した養育者だった。
結論から言うと父はリストラを免れ、我が家の経済危機は回避されたのだが、その頃には私の私立進学計画はとっくに頓挫していた。母が「結果で黙らせなさい」と言うようなことを口にし始めたのも、この頃だったかもしれない。
父親はというと、やはり私の親で発達的な特性が強く、自分の興味のあることしかやりたがらないタイプだった。養育者として、社会的な範を示すとか、発達的な特性とどう付き合っていくかとか、そうした問題についてまったく頼りになる人ではなかった。
悪い人ではない。悪気のある人でもない。一流企業にまじめに勤め、高収入であり、私に関わる多額の費用を全部賄ってくれた人である。そしてそれが、おそらく自身でも困りごとをたくさん抱えていたであろう身で父にできた、私への精一杯の愛情だったろうと思う。
母もまた、母の出来ることを最大限にしてくれた。母は、思春期の私の苛烈で発達のアンバランスな性格(受けていたストレスを考えると、おそらくそうなるしかなかった)に何度も振り回されて、傷付き、それでも最大限考慮した上で、「あなたは結果で黙らせなさい」と言うしかなかったのだと思う。
これは私がどう生き、どう傷つき、現在どう困っているかにまつわる記録ではあるが、同時に単に毒親からの被虐待についての記録としてはなるべく書きたくはないと思っている。充分悪者に書いただろう、と思えるような筆致だったかもしれないので、ここに補足しておく。私は難しい子供で、両親は常に一方的な加害者ではなく、私を支援してくれようとした。私たちはお互い感情的な対立を何度も経験し、お互いに何度も傷付き、それを乗り越えてきた。その過程でいくつか間違いがあり、一度関係が破綻してしまったが、それでもまだ、この先に和解の可能性がないわけではない。
それぞれの人間がそれぞれに苦しんだ結果、私の今日につながっているのである。
これを書いているいま、これからどうなるのか私にはわからない。これらの生い立ちから私が受けた傷を癒せるかもしれないし、そうではないかもしれない。困りごとを軽減してなんとか社会で上手くやっていけるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。
ただ、良くなってほしいという希望を持って先生たちは治療に当たってくれているし、希望は捨てるべきではない。そう思うので自分の恥部を曝け出す覚悟でこれを書いた。一種の『底尽き』を気力で前に持ってきた、というやつかもしれない。
ただ、強いトラウマを抱えた発達障害当事者の予後は正直あんまり良くなさそうだなぁ、とは、当事者たちの声をインターネットで拾ってみて思わなくもない。
ただ、復帰できないとこれが現実に起こりうることが現状最大の懸念である。
当然、持っていく予定である。
プラダリアの取捨だれかおせーて。
それはそう。
カウンセリングにはこの記録を持っていこうとは思うが、どの程度まで自己開示すべきなのか、いまが適切なタイミングなのか、そのあたりをきちんと確認しながらやっていこうと思う。
少なくとも、これを書き下せたことで、私の中では問題解決へ向けて、整理と準備がついたと思っている。
べつにわかってもいっかと思って書いている。とくに失うものはない。
何かしらの連絡手段で私とつながっていて、内容でなんとなく察した人は、「もしかしてこれお前?読んだよ」とメッセージくれると嬉しいよ。困窮者だ!金ヅルにしよう!と思って寄ってこられるとちょっと悲しい。というか休職人間に金はない。
自分は言語理解が比較的高い特性を持っているので、書くことによって自分をメスで捌くように腑分けして、人前に晒すという自傷行動に割と慣れているし、やはり言葉によって自分を説明できるとなんとなく落ち着くタイプである。その助けもあってなんとか書き切れたが、それでも書き切るのにかなり涙を流したので、この記録には多大な精神的労力を必要とした。文字通り血を流しながら書いたと言っていい。
その上で、超フラットに、予断を挟まず言えば、その可能性はないとは言えない。私のような人間はレトリックを使うのがうまい。そのレトリックの中にいつでも逃げ場を作り出せてしまうので、「可能性がない」と言い切るのはフェアではない。自分でも気づいていない可能性がある。
私の半生を占める水泳と、それがその後の人生に及ぼした影響について整理するために書いた記録である。
なお、当時は強いストレス下に置かれていたため、詳細を思い出せなくてぼんやりしている部分もある。
私は現在休職状態にあり、ADHDの診断を受けたところである。
精神科に通いつつ、投薬とカウンセリングの治療をおこなっている。
そしてカウンセリングを受けつつある今、自分がいまこうなっていることの底にはあまりに苦しかった水泳の記憶があり、それを直視することは避けては通れない道ではないかと思ったからだ。
(先生に直接「直視しろ」と言われたわけではない。ただ、「あなたの言葉はあなたの感情をひとことも説明しませんでしたね」、と言われ、その原因を自分で考えていたら、勝手にそこに行き着いたという話である)
正直に言えばそこに目を向けるのはめちゃくちゃ嫌で、前回のカウンセリングを受けてから2週間くらいメソメソメソメソメスティーソ泣いていたのだが、友達と遊んで少し息抜きをしたらちょっとした気づきと癒やしがあり、なんとか気力を振り絞れそうなので書いてみた。
早いうちに才能を見出され、小学校1年か2年くらいでヘッドハンティングのような形で選手育成クラスに移った。
当時、肉体にすごく負荷を掛ける練習方法が流行っていた時代だったから、シンプルに肉体的につらかった。スパルタが主流で、体罰は当たり前だった。
楽をしようものならコーチにも怒鳴られ叩かれ全員の前で吊し上げられた。そこまでは周りのみんなと条件は変わらないのだが、私の場合は母親もほとんど毎日練習を見にきていて(それほどに熱心な親は他にはいなかった)、仮にコーチに怒られなくても、母親の目から見て私のパフォーマンスが悪ければ、そのことを帰りの車の中で詰められる日々だった。
行き帰りは車で母親に送迎してもらっていたが、車の助手席に乗り込むと母親の「今日の練習について」の裁判が始まるので、毎日まるで犯罪を犯して法廷に立たされるみたいだった。キツい負荷の練習をこなしてやっと家に帰れるのに、すこしも安らいだ気分になれなかった。
でも、私は無理にでもやらせればやらせただけ、負荷をかければかけただけ、結果が出せてしまうタイプの人間だった。
父親も叔母もスポーツで学生時代に成功した経験があって、家系としても肉体的に優秀だったのだと思う。
それが母親の成功体験になってしまい、尻を叩けば叩いただけ結果が出るという思い込みを強化したふしがおそらくあるんじゃないかと思う。
長期休みに入るたび、朝夕2回の練習では足りないと別のプールに連れて行かれ泳がされた。この習慣は我が家では「こそ練」と呼ばれていた。
ただでさえキツい練習をしてるので嫌だったが、嫌がれば母親から「速くなりたくないの?」と頷くまで詰められる。
こうやって追い込めば追い込むほど結果が出たので、母はどんどんエスカレートしていった。
極め付けはようやく出来始めた友人関係を破壊されたことだった。
中学に上がると、小学生の選手育成クラスから中学生クラスに上がって、ここがジュニアの女子の選手としては一番上のクラスだった。その上に、高校生の男子のさらにその上澄みだけが入る、一番練習がハードなクラスがあった。
いま振り返ってみると、私はかなり発達障害的な特性のはっきり出た子どもであり、周りと関わるのがかなり下手だった。だから、キツい練習を何年も毎日一緒にこなしてきたというのにチームメイトと連帯感を育めなくて、ずっと浮いていた。浮いているのに才能だけあったから、周りからすると目障りな子どもだっただろうと思う。選手育成クラスというだけあってそこそこ実力主義ではあるので、幸運にもいじめられこそしなかったが(あるいは特性上あまり他人に興味がなく嫌がらせに鈍感だっただけかもしれない)、やっぱり浮いていた。私は人生を通してずっと普通になりたい、と漠然と願ってきたが、その願いはこういう環境のなかで醸成されてきたように思う。
(ちなみに、当時どのくらい浮いていたかというと、なんか男子たちが私に話しかけるのを何かの罰ゲームの一種として扱っているな、と気づいたことがある程度には浮いていた)
けれど、ここで話の合う友達ができたことで、この一瞬だけ練習に行くのが楽しかった時期があった。
私はもともと才能があったので、中学生のクラスを受け持っていたコーチにも期待されていたし、たくさん話を聞いてもらえて、私自身もコーチのことを頼れる大人だと思っていたし、期待に応えたいと思っていた。信頼関係を築ける大人との出会いがここであった。だから、このクラスでちゃんと私の記録は伸びていた。
だけど母はその伸びでは満足できなかった。
母にはいわゆる白雪姫の母コンプレックスみたいなものがあって、私が楽しそうにしていると不安になる性質だった。不安を感じやすく、その解消のために誰をどれだけ振り回しても良いと考える傾向があった。
私が楽しんで練習に行き始めた時、母は不満だった。私が苦しんでいないから、きっと負荷が足りないのだと考え、「娘の才能が無駄に消費されている!」と強く不安を感じたのだろうと思う。これでは速くなれない、と母は考えた。
そして、「上のクラスに上がりたいと言いなさい」と母は私に強要した。
私はかなり嫌がった。もともとジュニアの女子が入れる中で一番上のクラスではあったし、せっかく話の合う友達ができたのに、その子たちと話せなくなってしまうことも嫌だった。先生の期待を裏切ってしまうことにもなる。すごく抵抗があったことは覚えている。
母は私に、「あんな肥溜めみたいなクラスにいたら、あなたはダメになってしまう」と言った。
嫌だった。泣いて抵抗した気がする。あまり覚えていない。でも、最終的には「上がりたい」と言わされた。コーチはショックを受けていたと思う。でも最終的には上のクラスのコーチに頼んでくれて、私の(母の)要求は通った。
中学1年の女子が高校生の男子のクラスに入れられて泳ぐことになった。毎日階段をまともに降りられないくらいの筋肉痛になった。まわりはひと回り年の違う高校生の男子しかいないので、友達と話せる機会は減った。肉体の負荷は上がるのに、心の支えは何もなくなり、ただ苦しかったしつらかった。
私が苦しんだので、母の不安は解消された。
実際に大幅に記録が伸びた。一緒に泳いでいた高校生の男子より私は上のタイムを叩き出し、彼らにもよく頑張ったと認められた。中2のころにはジュニアオリンピックで決勝に残り、関東中学で優勝し、全国でも10本の指には入った。国体にも県代表で選出された。県で私より速い選手はいなくて、私がベストを出せばその度に大会新記録、県の新記録だった。母はこのことについて、自分が尻を叩かなければ結果が出せなかったはずなので、自分の手柄だと考えた。
注意して欲しいのは、これらの成果を私自身もまた喜んでいたことである。才能や能力があると見做されることは、特性持ちの人間にとっては他人から受けるマイナスの感情を弾く盾にもなる。母の手柄は、私を絞り上げ、苦しめて作り上げられたものであるが、同時に私を守るものでもあった。
「あなたは結果で他人を黙らせなさい」というのが、母の持論だった。母は私のために、心を鬼にして私を苦しめていたはずである。叩けば結果が出ることがわかっていたのだから。
この頃から、試合や合宿で遠征先に行くと、夜中にこっそり抜け出して、当て所もなく歩き回るようになった。特に裏道や暗い道を選んで歩いた。いま考えると、間接的な自傷だったと思う。酷い目に遭いたかった。私という価値が一気になくなってしまうくらい、誰かに酷い目に遭わされたかった。母が守る『私』という価値と、それに伴う苦しみが分かちがたく結びついていたために、母の目の届かないところで地味な自傷行為に走っていたのだと思う。
体に傷を残すようなことはできなかった。そんなことをした日に母を襲う衝撃と、その衝撃の余波を受ける自分のことを考えたら、とてもではないが無理だった。
しかし、こういう無理は続かないものである。ほどなくして精神的に破綻して、泳げなくなった。中3の秋ごろだったように思う。喘息を悪化させ、負荷のキツい練習から逃げ、最後は何か喚き散らして家に帰り、そこからしばらく練習に行けなくなったように思う。詳細は覚えていない。
だけど、そこで辞めるには水泳は私の人生で大き過ぎた。人生の大半を占める一大事業に等しかった。だからそこから高校2年の夏まで、通うスクールを変えて足掻き、ブランクを取り戻し、記録は少し伸びたし、インターハイにも出た。
ただ、大学受験に切り替えるならこの辺りがタイムリミットだった。結局、わたしはここで引退して受験に切り替えた。水泳のために自分の学力よりかなり下の高校に行ったので、辞めてからは予備校漬けになった。
受験勉強は圧倒的に楽だった。体の負荷も消えたし、学業は自分の特性から見ても結果の出しやすい分野だった。あまりにも結果が出やすくて、母も不安にはならなかった。躓きや苦しみも多少はあったが、水泳で受けたそれとは比べ物にならなかった。この時期、私と家族はかなり明るく過ごした。
大学には簡単に合格した。願書を出した大学ほぼ全てに受かった。
とにかく家を出たかったので、その名目が立つ大学を選び進学した。
ひとり暮らしをはじめて、やっと手に入れた自由を楽しんだ。でも1年目、ぜんぜん他人との関わり方がわからず、友達が作れなかった。小中高と水泳にかまけていて、相変わらず発達特性的な部分で学校でも浮いていたし、そもそも自分の偏差値より随分下の学校に行った(水泳にはリレーメンバーの都合がある)ため、頭の程度が均されている環境でほかの人間と接して友達になる機会がまったくなかったのだ。県大会で何度も優勝し、実家に腐るほどトロフィーがあっても、友達の作り方がわからなかった。この時点で、私の能力は社交性に比して随分歪だったと言えると思う。
ひたすら学校と家を行き来して、家ではゲームばかりやっていた。
1年の後半の方になってようやく所謂オタクサークルに入って、対人能力に似たような問題を抱えた人たちに出会い、それでやっと少し友達ができた。ここから就職活動が始まるまでは、楽しく過ごせていたと思う。彼氏もできた。
とはいえ、あまり成績は良くなかった。勉強したいと思って進学したはずなのに勉強に向かう気力が湧かなかった。どころか、水泳を辞めたことが傷になっていて、「どうせ最後には全部台無しにする、水泳だってあれほどつらい思いをして人生を捧げてきたのにそうやってダメにした」と囁く声が頭から離れなくて、あまり集中できなかった。
学業もそんな感じだったので、いざ3年になってもぜんぜん就職活動を進められなかった。というか授業もギリギリのラインだった。
振り返ると、つらい思いをして思春期を生き延びた先に、ようやく手に入れたご褒美としての『自由』がたった4年で終わることに全然納得が行っていなかったんだという気がする。他の人たちは将来を考える精神の準備ができていたのに、私には何もできていなかった。こんな人生の先に、また何十年も続く苦痛が待っていると思って、絶望感があった。
このあたりのことはぼんやりしているが、就職活動が出来なさすぎて就職留年した。ちょうどリーマンショックや東日本大震災の影響があった時期で、特に女子の就活は周りを見渡しても厳しかった。なので就職留年という言い訳は通った。
でも、留年したのに就活が全然ちゃんとできていなくて、とうとう親が乗り込んできた。希望する企業の傾向は決まっていたので、母親がマイナビリクナビでエントリーする企業を選んでくれて、エントリーシートや履歴書に書く志望動機などの文章としてこちらで考えたら、それを母が手書きで代筆してくれたりして、こんな大学生はおそらく他にいないなと思うほど過剰にサポートしてもらった結果、なんとか書類選考が通るようになり、面接を受けたりと就職活動らしいものを進めることができた。
面接が苦手すぎて苦戦はしたが、なんとか内定をもらった。たた、周りがちゃんとこなせていることも自分にはろくすっぽできないとわかって情けなかった。
このあたりもぼんやりしている。夏くらいに内定が決まって、そこからたしか全然ゼミに行かなかった。いや、たぶん特性的に並行してふたつのことができないので、就活中はゼミにも授業にも行けていなかった気がする。内定が決まった後、バイトはしろと言われてしていて、必要な授業の出席とバイトくらいはしていたが、ゼミに出てないので卒論が当たり前に書けなかった。英米文学専攻なので卒論は英語で書く必要があった。ぼんやり決めたテーマがあるくらいしかなくて、そのまま冬になった。ちょっと書こうとしたけれど当たり前に書けなくて、でもそれを就活を熱心にサポートしてくれた親には言えなくて、卒論提出の日に失踪した。1〜2週間家に戻らず、銀行口座の金が尽きたら死のうかなくらいの気持ちでいた。漠然と死のうと思っていたし、その時が来たのかと思っていた。
結局親に口座の金を引き上げられて、無様にも死ねずに戻った。怒られ、殴られ、彼氏にも心配をかけまくり、色々あったとは思うのだが、この辺りの記憶はぼんやりしている。
ひとり暮らしの家を引き払い、実家にカンヅメになって母親の監視のもと卒論を書いた。足りない単位のための授業とバイト以外の外出はさせないくらいの感じだったと思う。
ひとり暮らしの家を引き払った時、この時も家がゴミ屋敷になっていたので、ゲーム依存で病気だと親に疑われたが、ゲームは単なる逃避行動で、やれない環境であればあっさり辞められた。振り返ってみれば、何らかの支援の網に引っ掛かっておくタイミングがここだったような気がする。ただ、スポーツで結果を出し、世間的には良い大学に行ったような人間が、ゲーム依存なんかで病院に罹るのは外聞が悪い、という意識がなんとなく家族全員にあったのか、結局ここでは必要だったであろう支援とつながることはできなかった。
この環境でなんとか卒論を書いて卒業した。就職は結局バイト先に拾ってもらうかたちになった。
働き始めるととにかく眠かった。ひたすら眠かったことを覚えている。仕事でも会議でも寝てしまい、怒られて、怒られたあとは体が一時的に闘争反応というか覚醒状態になるので、それで過集中を起こし仕事を進めてなんとか巻き返す、みたいな感じだったと思う。昼に寝てしまうので夜は眠れなかった。その悪循環で昼にまた意識を失った。
本当は病院に行くべきだったと思うが、家に帰るとその気力もなかった。家の電球が切れて、ほとんど暗闇だったのにも関わらずその家を引っ越すまで電球を変えられなかった。1年以上真っ暗闇で生活した。歯が折れて激痛でも病院に行けなかった。ぎっくり腰でも行かなかった。ゴミ屋敷はここでも生産された。
この時期私は相当な困難を抱えていた気がするけれど、同時にどこか安心しているような部分があった。自分の価値がこうやって毀損されていくことに対する「ざまーみろ」という気持ちがあった。ちょうどこの頃、母親と完全に連絡を遮断して、実家と絶縁状態になった。直接のきっかけはなんだったか覚えていない。ただ、自分の価値がボロボロと溢れ落ち、人生がダメになっていくことについて、母親への不健全な復讐の欲求が満たされるように感じていたのは覚えている。
この状態を5年くらい続けて、3つくらいの現場を経験した。就職先は人売りのSESだった。
これは自分にとって大きな転換点だった。寝ているところを他人に見られないのでストレスが大幅に減り、なんとか自分が起きていられる時間帯に仕事を進め、眠りたい時は寝ていることができた。とても褒められた就業態度とは言えないが、それほど能力的なハードルが高い客先でなかった幸運もあって、なんとか巻き返しが効いた。この時期が一番平穏だったように思う。この現場が自分にとって一番長く続いたし、終わり方も案件ごと終了ということで円満だった。
リモートワークが終わり片道40分くらいの通勤の生活が数年ぶりにスタートする。10年近く戻っていなかった本社に知った顔はほとんどなく、コミュニケーションが得意そうな子たちの若い顔が並ぶ。すでにこの時点でうまくやっていけるか不安ではあった。
自社開発の案件にアサインされるも、やはり眠気の問題が復活し、怒られる。仕事も客先常駐とは違い、粒度の粗い仕事を上手いことやっておいてというような感じで振られるため、勝手が全然わからず、先の見通しが立たない。作業をうまくこなせず、進捗が出せない。学歴とスポーツの成績だけ見れば能力はあるはずだと思われているので、サボっていると見做される。寝てるよね?なんでコミットが全然出ないの?
年次だけは無駄に高いので直属の上司もおらず、まともな相談先もなく、周りの子たちは若くてこんなことを相談できる相手ではなく、結果誰にもうまく頼れずにひたすら信頼を失い続け、頼みの綱だった週1回のリモートワークも許可を取り消される。
社長から「新卒みたいなことを注意させないでくれる?」と言われる。怒られて、闘争反応になった勢いで、なんとかメンタルクリニックの予約を取った。
これらの問題は通院治療を開始したところでたちどころに解消するようなものでもないので、年末年始の休みを挟んだ後、ボツボツと休みが増え、雪崩れ込むように職場に行けなくなって休職開始。
心理検査(WAIS-Ⅳ)の結果、言語理解とワーキングメモリ・処理速度の間で有意差50を超えた。言語理解・知覚推理凸、ワーキングメモリ・処理速度凹のタイプだった。
この結果と、現在社会生活が送れていない実態をもって、5月ごろにADHDと診断された。
概観してみると、今の私を状態を説明する要点は、下記のようなものであると考えられる。
特性を持って生まれた子どもが、いわゆる体育会系の世界に入れられ、なまじ才能があったがために、支援が Permalink | 記事への反応(21) | 22:15
我那覇真子さんは本当に素晴らしい女性だ。 ワクチン薬害について国に対して追及していく姿勢には共感している。 しかし共感出来ないこともある。 昨日、横浜スタジアムでワクチン接種会が行われていて、 そこで我那覇さんのグループは反ワク運動をしていたのだが、 なぜこんなことをするのかがよくわからない。
だって、打ちたいやつは勝手に打てばいいだろう。 なぜ、打つのを止めようとするのだろうか。 今になっても毒チンを見抜けないような白痴は死んだ方が国のためだ。 だから、国のためを思って活動しているのであれば、むしろ打たせる方が筋が通っている。
同じく昨日、これは別の話題になるが、 木原功仁哉という弁護士が国賠訴訟を起こすことを発表した。 原告は、高知大の佐野教授の論文に出てくる、 接種から2年経ったのに皮膚からスパタンが発見された人だ。
2年も経ったのにスパタンが発見されたということは 接種者の中でスパタンが無限に産生されていることを示しており、 これが最近になってワクチン薬害がハネてきている理由であることはほぼ確からしいわけであるから、 これはワクチン薬害において非常に重要な鍵となる事実ということになる。 だから、このタイミングでこの裁判を仕掛けに行ったのはさすがと言わざるをえない。 国を転覆させることの出来るほど重要な裁判になるだろう。注目している。
ところで調べてみるとこの木原という弁護士、 もとは京大物理工学科の出身だ。 しかも84年生まれということだから、おれやルシファーと同世代ということになる。 この世代はタレントが揃いすぎている。伝説の世代だ。 木原さんはその後、法科大学院を経て弁護士になった。
思えば、日本のワクチン薬害においては京大理系出身者の活躍が目立つ。 荒川央さんは京大理学部の出身だし、 藤川賢治さんも京大情報工学科の出身だ。 本庶佑さんも京大医学部出身で、こちらは立場上目立った活動は出来ていないが、 ところどころヒントをくれている。 そしておれも、京大電気電子工学科出身だ。 実のところ、これ以外にも京大理系の人間はワクチンを打ってない人が多い。 例えば、京大生ユーチューバーのこばちゃんねるは、ワクチンを打ってないことを表明している。 彼らは、こばが地球工、サイコが物工だ。
なぜこんなにも京大理系出身者は真実に対して簡単に近づけるのかというと、 真実にしか興味がないからだろうと考えている。 だから、真実を知りたいと考えるし、 真実以外のことは雑音でしかないから、他人に何と言われようと興味がないのだ。 おれの場合、他人に対する興味もないし、社会に対する興味もない。
おれが増田でワクチン薬害について批判し続けているのも、 他人にワクチン接種を思いとどまってほしいからではなく、 ワクチンに反対していたという事実を残しておきたいからだ。 だから、ワクチンが間違っていたことが事実であれば、 それ以上のことはどうでもいいということになる。 打ちたいやつは勝手に打って死ねばいい。 知的障害者民草のことなんか、知ったことではない。
グレゴリー・ペレルマンも、自身の証明が正しいのであれば 名誉や賞金は必要ないとしてフィールズ賞の受賞を辞退したりもしたそうだから、 彼もきっと、真実以外には興味ない族の一人なのだろう。 そしてきっと、京大理系の祖である湯川秀樹や朝永振一郎や 岡潔なども全員、真実以外には興味ない協会の会員だったのだろう。 超理系人材にはこの傾向がある。
そして我々京大理系人材はこれら祖先たちの意志を受け継いでいるため、 ワクチンが間違ってると思うならそれに対してまっすぐに行動出来るのだ。 もちろん自分も打たないし、他人に何と言われようとどうでもいい。 反ワク弁護士と呼ばれようが、陰謀論者と呼ばれようが、気にすることはない。 我々に構ってほしいなら、京大を卒業してほしい。学歴穢多野郎は近寄るな。
京大というのはそういう特殊な大学であり、 理系は京大 or dieと言われるのはそのためである。 しかし、このように京大ナイズされるためには、学部教育から京大で学ぶことが何としても必要だ。 京大関係者ではあるがとんちんかんな人を見ると、 大学院から京大だったり、あるいは研究者として京大で働いているというだけに過ぎないことが多い。 それでは全くお話になっていない。 宮沢孝幸が最終講演において京大という大学の担う役割的なものについて語っていたらしいが、 全く持って穢らわしいので撤回していただきたい。 あなたは京大グループではない。
富士通に忖度してるとか言ってるけど、あれ、普通に取材NGだったんじゃないかな。
当時の経緯を知ってると「私の名前は出さないでください」ってなったとしても不思議じゃないと思う。そうなれば当然NHKも富士通も触れないし、本人が拒否したんですなんて発表するわけもないし(例え親族が声を上げたとしても)
京コンピュータって、富士通半導体の最後の打ち上げ花火だったんだよ。
京の開発が進み、実際に生産されるころは、経営方針として富士通は半導体撤退をするかどうかで揉めていたころだった。
京コンピュータは、富士通が自社工場で作った最後のスパコンであると同時に、国のトップ開発のHPCにおいて、富士通が単体で作り上げた初めてのHPCでもあった。
これは、富士通が優れている、というよりも、逃げ遅れたと表現してもよいかもしれない。HPCのプロジェクトからは、NECと東芝が次々と撤退していたのだ。
当時半導体の重い投資に堪えられなくなった電機各社とその銀行団は、自社から半導体部門、少なくとも工場を切り離したがっていた。まさに、それどころではなかったのだ。
しかし富士通はまだ撤退を決断せず、他社とは一線と画した対応をしていた。
ようにみえた。
京コンピュータのCPUは、45nmのプロセスで作ると言うことで言っていたためか、富士通はなんとか自社で開発した。けれど、京に乗せたプロセッサで最後になった。次のプロセスは開発されていない。
https://news.mynavi.jp/techplus/article/architecture-467/
さらに、当時、45nmのプロセスは安定して無い状況で無理矢理作ったと言う話もあったはずだ。これは京コンピュータ以降はTSMCに委託することが決まっていたため、既に投資が絞られていたためでもある。
(後にTSMC版の進んだプロセスで製造されたSPARCを使ったミニ京コンピュータが何個か作られたのだが、ノード辺りの性能が30%以上アップしたと言う。これはプロセスが細分化された以上の性能向上であった)
富士通が、自社の半導体部門を富士通セミコンとして切り離したのが2008年。京コンピュータ用のプロセッサを生産したのが2010年の三重工場であった。
その三重工場は2013年にさらに別会社として切り離され、現在は完全に売却されて富士通に残ってない。
また、同じく半導体工場としては福島県の會津富士通があったんだが、その時の工場撤退のエピソードは、今でも大企業は黒字でも簡単に工場を撤退させる事例として有名になった。かなり悲惨な事態だったと言える。
そうして重荷になっていたとされる工場を切り離しファブレスに近い業態にしたのは、富士通半導体を残すためだったと思われる。
しかし、そうした建前などなかったかのように2014年にはシステムLSI/SoCの開発部隊の分社化を決定。それが現在のソシオネクストである。PanasonicのLSI部隊と合弁した会社で、分離した当時、富士通は設立当初40%の株式を保持していたが、現在は完全に売却してしまった。
現在、富士通の半導体部門はFeRAMや光回路用の超特殊なものを除いて完全売却で撤退している。
なお、その後、ルネサステクノロジ(※富士通は合弁に参加していない)が組込向け半導体でほぼ世界首位と同率2位まで上り詰め、国内半導体の必要性が新たに叫ばれTSMCが国内に半導体工場を建設。Rapidusという日米政府が関わる半導体企業ができる流れになっている。もし将来、RapidusがプロジェクトXになるときには、大手電機産業からリストラされた技術者達の奮起という文脈が語られそうな気がする。閑話休題。
件の方がご退任をされたと言う2012年は、半導体のさらなる切り離し、売却などの決断と、次期スパコン(つまり富岳)がSPARCを捨ててARMになるという決断が行われた年であったと考えられる。(発表は後になる)
半導体を専門にされてずっとやってきた方には堪えられないもだったのではないかと拝察する。仮に、思い出したくもないし、宣伝にも使われたくないと判断されても仕方がないことでは無いかと思う。(もちろん 出演NGされたと言うのはワイの妄想なので注意)
その後、富士通はSPARCを使ったUNIXサーバーを作り続けてはいたが、大きくアーキテクチャを改善する開発は行われないまま(保守設計は続けられていたが)メインフレームとともに撤退が発表された。これはやむを得ないことだろう。
また、ARM化された富岳は、確かに性能面や利用面、汎用性では高い成果を出したが、富士通のビジネス的にはさっぱりだったと思われる。
アーキテクチャをARMに切り替えた理由は、ビジネス面でもあった。高性能タイプのARMを作ることによって、旺盛なクラウドDC需要などに対して食い込んでARMサーバを大きく拡販していくことだったと思われる。
が。富岳に乗せたARMプロセッサを利用した波及製品はみられなかった。
なぜか。それはAWS、MS Azure、Googleなど膨大な需要を持つ企業は、需要が巨大すぎてARMが搭載されたコンピュータを買うのではなく、自社でARMのIPを購入し独自開発することを選んだためである。
彼ら相手には商売にならなかった。それ以外のクラウドベンダーは無きに等しい。ARMなどアーキテクチャが影響しないのはPaaS以上の象徴度を持つサービスだが、寡占状態にある大手以外まともに提供出来ていないため、市場が無いのだ。
ただし、この時富士通とARMの競業によってARMは成果をあげた。アウトオブオーダー実行など、ARMは高性能コンピュータで必要な技術を富士通から取り込んで現在に至る。
それ故、富士通の商売は上手くいかなかったが、世の中的には良かったとは言えるのではあるのだ。そのIPで大手クラウド各社は自社向け半導体を作って商売をしているのだから。
だから今のタイミングでプロジェクトXに乗ったのだと思うが、綺麗事では語れない話がたくさんありすぎる。
受注はまず間違い無く富士通だと言われている。と言うのは、開発の一部は既に行われているから。
https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2310/12/news074.html
そして、国内にもう国産でHPCを作ることの出来る会社はNECと富士通ぐらいになってしまったためである。
富士通は新しいHPCは1位を目指さないかもしれないという考えから、計算効率の方に大きく振った開発を進めおり、国内トップのHPCに採用されたという実績を背景に売り出そうというつもりではあると思われる。富岳の夢再び、だ。
https://cloud.watch.impress.co.jp/docs/special/1560540.html
https://www.fsastech.com/about/
ご覧の通り、富士通のブランドを一切使っていないのだ。既存の商品からも富士通マークを取り払っている。さらに、会社概要に株主欄がなく、富士通の名前が出てこない。(他の関連会社はそういった記載がある)
半導体がどうなったかの流れを知っていると、暗い予感しかしない。
そして、HPCはレイヤーの低い、ハードウエアに近い部分、さらにメカニカルな設計や冷却など物理的な部分のノウハウが多く必要とされる。それを富士通が分社化して製造能力を失っていく中で、果たしてまともにHPCが作れるのだろうか?
さらに、確かに2010年代半ばのころはワークロード不足に陥ってコンピュータは安売りに陥っていたが、現在AIと言う巨大な需要が生み出され、価格も回復、ハードウエアが再び重要と考えられ始めている。ハードウエアと同時に提案できる能力が強みになりつつある。
しかし、既に富士通はそれらに対応するための強みを、はした金と決算の数字をよくするためだけに売り払った後である。案の定、粉飾紛いの異様に高い目標に対して、結果が出ないと言う発表を繰り返している。
富士通はアクセンチュアを真似ていると言われる。以下の記事にはこうある
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00848/00049/
目指す先はアクセンチュア、富士通が主力工場を総務に移管する理由
時田社長は2019年9月に開いた初の記者会見で「開発製造拠点をどう整理するのか」という質問に「既に方向は定まっている。後は状況判断と時期の問題。富士通はサービスに集中する企業になる」と応じていた。
そこまでやったのに、ここ3年ほど株価は伸び悩みが続いている。アクセンチュアの真似をしますと言ったときは撥ねたがが、その後は同業他社や業界全体の株価上昇率に及ばない状況が続く。
それはそうだ。アクセンチュアの真似をしていてはアクセンチュアには勝てない。まして工場売却を通じ、元々の強みを捨て弱みまでアクセンチュアの真似をしているのだ。富士通がこの先生きのこるにはどうすればいいのか?
はてブは「研修医の免許はく奪しろ」、「中高生が腹痛出来たら全例SMA症候群疑え」、「ERに研修医を置くな」など頭抱えるコメントが多い中、ヤフコメは「SMA症候群の診断は難しく、むしろ入院後管理に問題があった可能性」、「病院は研修医の問題としてミスリードしている」など理解できるコメント多数ある。恐らくはてブには医療従事者が少ないのだろう。
基本は対症療法。SMA症候群は脂肪織の減少によるので背景として、重症心身障害児であったり、神経性食思不振症など基礎疾患があることがある。そういった基礎疾患があったのかどうか。心停止の原因は単にSMA症候群だけだったのかが不明。
どうもニュース記事では研修医が誤診したことにfocusしているようだが、では初診時に入院させていれば今回の事例は防げたのかどうかがよくわからない。本症例は研修医が帰して自宅で死亡したわけではない。少なくとも月曜日に再度クリニック受診することは可能であった状況。むしろ責任としては入院管理で適切な補液管理、胃管チューブを留置したのかどうか、そっちの方が重要だと思う。
ここまで大々的にニュースにするなら、研修医の見逃しばかりにフォーカスするのはおかしいし、そもそも病院は研修医を守るべきであり、常勤の入院主治医を庇っているような印象もある。そういった印象を抱かせているのは病院が中途半端な情報公開をしているからだ。
新NISAは、良い環境で良いタイミングで良い制度が始まってよかったなあと思います。
(これを書いている人は、かなり昔からインデックス投資をしていた人です。)
2024年1月から新NISAが開始されましたが、この半年間の株式の上昇はあまりにも順調です。
1月から全世界やS&P500を積み立て始めた方は+10%程度のリターンとなっています。
マイナスから始まると投資をやめてしまう方も出ると思いますが、まずはプラスから始まったことは投資を継続するためにはとても良かったと思います。
オルカン(もしくはS&P500)で良いよって雰囲気があったことはとても良かったです。
他の商品も良いって意見もあると思いますが、投資初心者の方が投資を始めるのに、ひとまずこれを買っておけばOKという商品があったことはとても良かった。
楽天証券、SBI証券(もしくはマネックス、au株コム)などの便利で使い勝手がよく、ポイントももらえる証券会社が複数あったのはとても良かった。
高コストの商品を営業されそうな対面証券や銀行窓口が不人気な事は、投資初心者にとってはとても良いと思います。
身の回りでもこれをきっかけに始めた方がとても多かったです。彼らを見ていると大金を一気に投資せず、こつこつ積み立て投資をされている方が多く、長期投資してくれそうでよかった。
平均的な給与がある方が月2万円程度積み立てておくと、NISAより節税効果もあってお得なので、老後の生活費の準備としてもっと多くの人が利用したらいいなあと思います。
制度がもう少しわかりやすくなって欲しいのと、特別法人税を一時凍結ではなく完全撤廃など制度改善がもう少し必要だなあと思います。
10-15%程度の下落が起こって、投資に対して少々不安になる経験があってもいいんじゃないかなと思っています。
今後必ず大きな下落は経験すると思いますし、株価リターンが順調でみなさんプラスリターンの時に、ちょっとした下落を経験しておいて株価の上下に慣れるのが良いと思います。
株価指数が30-50%も下落するような〇〇ショックが起こる前に、軽い下落を経験しておくのが良いと思ってます。
TVやYouTubeなどを見ていると、オルカン買う人は出世しないとか、オルカンを超えるリターンを狙うべきみたいな論調の映像をしばしば見かけます。
このような煽りに対して、バッサリと切り捨ててくれるような論調の大御所が現れてくれるといいなあと思います。
投資が専業でない大半の方にとっては、無駄に投資のリスクを取る事は不要で、コツコツと節約して投資を続ける事が重要だと思います。
ただ、オルカン投資を煽るようなコンテンツがテレビにも出てきていることは、オルカンでコツコツ投資することが広く普及した事の結果とすればうれしいです。
思いつくまま。
・家事の分担を守らない、というか好きな家事を好きな時にしかしない。
・そのために支出しなければならない、こちらが建て替えたお金(例、夕食用の買い物代など)を精算しない
・保険の受取相手が子供だけ(こちらは同様の保険でちゃんと受取相手にしている)。
・子どもの学校の保護者欄にこちらの名前・連絡先などを書かない。
・子供関係だけでなく重要な書類なのに見せないで提出しようとする/した。
・周囲の人に自分が同情を買うような話を作る。
・家計決済用の口座の残高を確認せず、連絡もせずに予算オーバーな支払いをする(ギリギリ気づいて事なきを得る)。
・自分の収入支出の詳細は非開示、こちらの支出はクレジットカードの履歴まで封書をあけて確認(これを受けてWebのみにしたら切れる)。
・理由を説明せずに唐突に不機嫌になり、プチ家出を繰り返す・離婚だと言う。
・そういう時はたいてい一人で酒を飲んだ後(翌日空いた酒瓶や缶を発見する)。
・長期出張中の定時連絡をしてもでない。返事がない。
「次からはそういうことが起こらないように仕組みを変えるとか、本当にやる必要がある仕事なのか精査して全体を見直すとか、そういう動きが求められると思うよ。」
https://lightnovel.jp/blog/archives/2024/0616.html
いやさあ、あれがないこれがないってのはキリが無いてのはよくわかるんだけど、それをいわないとこういうのって楽しめなく無いか。
特にこの記事はこの人の趣味みたいなのを色濃く出してますよって路線なので特にね。
新しいのはしらないので途中でおわっちゃうけど。
ラノベ論者ってまあ例によってキリがないからなんだろうけど直接の隣接領域であるゲームやアニメはまだ言及しても一般の小説やら映画とかにはあんまり触らない方向なんだよな。
このブロックだと時代というか朝日ソノラマというレーベルの範囲でいうと言及がそこまででもない部類だと剣の聖刻(ワースブレイド)シリーズと藤原征矢か。
TRPGブームとかだったんだけど、みんなその雰囲気わかるかな。
■1984年 なぎさボーイ・多恵子ガール /氷室冴子 /コバルト文庫
ここらへんはそれこそ「新井素子しか読んでない」だったのであんまりなにかいえることはない。
「絶句」は大好きです。
■1988年 聖エルザクルセイダーズ /松枝蔵人 /角川文庫
『宇宙皇子』とかアルスラーンとか。あとラノベ史的には最大の大物と言っても過言ではないロードス島か。
このあたり、ちょっと前から続くTRPGブームを少し頑張っていて、枠外扱いとしてドラゴンランスとかがやっぱベースになるんじゃないかなあ。
語らないのはちともったいない気がする。
リナインバースが斬新だとされたのはレイストリンがガリガリで血を吐きながら魔法を放っていたからというのはやっぱあったわけで、そこらへんは重要じゃないかなあ。
■1989年 ハイスクールオーラバスター /若木未生 /コバルト文庫
読めてない領域だなあ。
■1991年 ユミナ戦記 /吉岡平 /富士見ファンタジア文庫
野性時代とかスニーカーはまあとして、富士見ファンタジア大賞とドラゴンマガジンというサイクルを作ったという点で大きいのかなとは思った。
例のアレでサイト落ちてるけどドラゴンマガジンってまだ続いてるんだよな。すげえよ。
このブロックで言及されてないのだと「ザンヤルマの剣士」が好きだった。
この記事だと言うまでもって感じだが、やっぱ「フォーチュンクエスト」はエポックだったのでは。
ゲーム文庫って体裁だったのでブギーポップはマルチエンド構成なんだよね。
こんなやりかたあったんだ、って当時は思った。
ブギーポップのヒットから現代物が増えたってのは確かにそうなんだろう。
現代人にはわからんだろうが当時はエロゲーがサブカルの最先端で、学園ものとかが強かったのよ。
あとまああえていうまでもないけど「ジョジョ」ね。
マリみてはいまおもうとなんであんなヒットしたんだっけとおもうところはある。
フルーツバスケットとかもこのあたりだっけ。
カレカノもこのあたりか。
そういうタイミングだったのかな。
うん、それが男性の発想。実際に自然に雰囲気を作れるならいいけどほとんどの男性にそれは無理
東北圏から東京圏に移動した理由を複数回答で尋ねたうえで、インタビュー調査で最も重要視する項目を順位付けしてもらったところ「やりたい仕事・やりがいのある仕事が地方では見つからない」ことが地方から転出した主要因だということが分かりました。
不可能だということに目を瞑ればよォ〜〜
https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic101.html
こう言う記事あるけどさ。。最初に「地方女子プロジェクト」なる偏った思想の連中から話を聴いて煽るのやめない?
そんなのより、地元で暮らしたいけど就職先がないとか、働く場所が無い人たちに力を入れようよ。
取材を受けた人々がノイジーマイノリティであること、これは本人も認めていて、記事にはこうある。(強調は増田による)
「地方から女性が出ていってそれが人口減につながっている、みたいな課題を見たときに、投げかけられているのは『地元に戻って子どもを産め』ということなのかなみたいな。
そういう圧みたいな、あおりみたいなものに感じ、地方が女性にとって生きづらい場所になっているのではないかという疑問があって。
でも報道とかレポートとかを見ていても、そこに当事者である女性の声が全くない。私たちの思いは統計や数字になっていない感じがするので、それを示したいです」
個人の感想を言うのはいいよ。そりゃ大事な意見だ。だけどそれがまるで主流か何かの様に報道するのって何がしたいわけ?
悪質なプロパガンダじゃん。
「私たちの思いが統計や数字になってない」のは、あなた方が「当事者である女性」を代表できるような存在ではないからであって、主語を「女性」ではなくて「私」に置いて活動しろと。
典型的なノイジーマイノリティではないか。
自分たちが主流だと主張するならちゃんと統計とってこい。話はそれからだろ?
彼女らはは田舎を捨てて外にでること、外に出たら結婚もせず子どもも作らないことを決めてるわけだよ。
それは別に悪い事じゃないよ?好きにすりゃいいのよ。好きに生きたらいいのよ。そんな人たちが作ってきた文化や世界は間違い無くあるから悪くはない。
でも、こいつら主流派じゃないでしょ。典型的なノイジーマイノリティ。
たぶん彼女たちに少子化問題予算はもちろん、人口減少対策の金をつぎ込んだって何にも起こりゃしないよ。コスパ悪すぎ。
地元を離れた女性たちからは、国や自治体が行う支援は結婚や子育てを前提にしたもので、独身女性へのサポートが少ないのではないかという声も
逆に言おう。「独身女性」という属性だけでなぜサポートをしろという話になっているのか?
例えば貧困であるとか、病気をしているとか、そういう話があるならがそちらの属性は当然社会的支援がいるだろが、そのような話が一切なく、なぜ突然字独身女性はサポートするのが本来であるというような謎の概念が出てくるのか。
男女逆にして「独身男性へのサポートが少ないと言う声」なんぞNHK絶対記事にしないだろ。
取材したやつはこの記事を書いていて何の疑問も感じなかったのか?
記事への突っ込みはこれぐらいにして、ではどうしたらいいかを考える。
実は、若者の地元志向というのは、ほとんど変わらないというか、徐々に増えているという事実がある。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/syukatsu/syukatsu927/
https://career-research.mynavi.jp/reserch/20230509_50051/
これを見るとわかるのだが、定量的に見ると、都会に出て就職を希望する人は増えている訳ではないのだ。
これは記事中でも一応出てくる。統計では主因なのになぜか扱いが小さいが。
東北圏から東京圏に移動した理由を複数回答で尋ねたうえで、インタビュー調査で最も重要視する項目を順位付けしてもらったところ「やりたい仕事・やりがいのある仕事が地方では見つからない」ことが地方から転出した主要因だということが分かりました。
実は有効求人倍率と地方就職率は緩やかな相関があって、有効求人倍率が上がると地元で暮らす人が増えるという関係にある。事実、数ではなく率という点では地元に就職する人は、わずかではあるが増えているのだ。
示されている、本当は地元で暮らしたい、地元で家族を作っていきたい人を支援することが最優先であって、地元を捨てて出ていったノイジーマイノリティに金を流し込むことではない。どうせ連中はひとり暮らしになる高齢期にじゃぶじゃぶ社会福祉費を使うのだ。今銭を食わせる理由はない。
産む機械扱い? 誰が言ってるのかそれは。妄想じゃないのか。統計に載ってこない声とやらを発するノイジーマイノリティではない。彼女たちが極端に偏ったおかしな話をばらまいて分断を煽る事ではない。好きに生きて好きに死ね。ただ少子化・人口減少対策の予算はお前らには出ない。それだけ。
いい加減にしてほしい。
追記: