はてなキーワード: かなみとは
眼の見えない偏屈な琴の先生の話で、検校ってのは盲人の最上級の官名のことらしいので、主人公はわりとえらいおっさんなんだと思う
この柳のおっさんは全盲で、柳の一人称視点で進むから、この作品では視覚情報は描写されないんだよ
この風、草の香りすんなとか、この女生徒しとやかに戸を閉めたな(推測)とかそんな感じ
柳のおっさんは昔は目が見えていたらしく、子供の頃見た夏の風景を思い出しながら、今もそんな花が咲いてる季節なんかなみたいなこと柳は語るけど、実際に花咲いてるかどうかは読み手にもわかんないわけ
御付きの人に手引きされながらも自分の家と教え場の行き来をするから、「渡り廊下」とか「庭」とか「校門」とかの言葉は柳の語りには出てくるけど、そこがどんなところかという視覚情報は描写されない
もちろん先に述べたように聴覚、触覚、嗅覚などを介しての描写はあるけど、具体的にどんなところなのかはよくわからないんだよ
でも小説としてすらすらと読めてしまって、読者である自分にとって「渡り廊下」ってただの言葉でしかないんだよと自分で証明してしまったようで気落ちした
何も描写が無くても問題がないってことは、いつも小説の中の世界を想像せずに、場所や風景を読み飛ばしているということだろう
もっとこう『指輪物語』とか『はてしない物語』とか『死のロングウォーク』を読んでいた中学生の頃は一つ一つの情報に目を凝らして小説の中の世界や登場人物の顔を想像してどきどきしながらページをめくってなかったけか
NHKの20minという20分の短いドキュメンタリー番組の『見えない人の見る世界』の回で、とある全盲の女性が自分は脳内に偏見スタジオがあると言っていたことを思い出した
今いる場所が商店街と聞いて、周りの音や活気を感じて、自分の脳内の偏見スタジオにパーツを組み上げてどんな場所かを作り上げていくとのこと
両側の白線は掠れていて、敷かれているタイルはモスグリーンでみたいな想像風景を、同伴者の話や新たに出てきた情報で間違っている部分を修正し、偏見スタジオで組みなおしていくみたいに世界を見てるんだってさ
目の見える自分とは違うなとか、面白い話だなってドキュメンタリーを見た直後は思ってた
でも、『柳検校の小閑』を読んでから、小説を読むときだけは小さな情報から世界を予測して組み上げて修正してのスタジオが自分の脳内にもかつてあったよなと思った
むしろ逆に、栗の花とあまり遭遇しないからこそ良くない勘違いを防げるというか、誤魔化せるというか
青少年達はあの匂いを嗅いで「おい誰だよここでシコったの」となるし、でもそれに対して「馬鹿お前アソコにある栗の花の匂いだよ」と言える
逆に情事があった際には「栗の花のにほひかな」と知らない花の名前を出されて逆になんか知ってない自分が悪いのかなみたいな気持ちになるし、そんな雅な感じで誤魔化すことができる、気がする。
でもムワッとしてるし汗臭いし汗かいてるし服乱れてるしで結局バレる。
とはいえ誤魔化す為にあまり理解されない花の名前を出して「そんな花あるんだぁ」と姑息に誤魔化すのがあの表現のある意味、でも結局そんな花咲いてないと気付かれてバレて白い目で見られるのも込みの話なんだろう。
自分も家を建てるときに住宅系Youtuberをよく見てたんだけど、ある日突然気付いてしまった
「こいつら一体だれやねん」
それっぽく数字を出したりして説明してくるけど国やメーカーが出してる数値とは違ってたりしてて
その理由については「国はメーカーの言いなりで〜」みたいなことしか言わない
医療系だと「Youtuberの言ってることだもんな」という感じになるのに
住宅関係や自動車、その他いろいろの場合はYoutuberの言ってることに一定の信頼性を持ってしまってるのは非常に危ういと思う
例えばメーカーの人間は自社の贔屓もあるだろうけれど嘘をつくわけにはいかないのである程度の信頼性は確保されてる
テレビに出ているコメンテーターなどでも、発言内容はテレビ局側の責任やスポンサー問題になるので信頼性がそこで確保される
Badのクリック数なんてそもそも見てない人は押せないわけだし
誰かが「あのYoutuberは嘘をついている」みたいな指摘をするわけでもない
仮にやってたとしても、わざわざそれを見ることは無いし、そもそもその指摘が正確なのか判断する術が無い
100歩譲って顔出し名前出しのYoutuberならその人の今後の活動に影響が出るから自己責任として信頼性を確保するかもしれないが
2年前好きな娘が同じ職場にいてご飯食べたり遊びに行ったりしてたんだけど、自分が告白する直前にそこそこのクズ男に告白され付き合って結婚した
悪い子じゃないんだけど話や常識が少し通じなくて理解できなく、同僚達と話した結果少し受動型のASDが入ってるんだろうねって結論になった
同僚達に聞いても、いや旦那氏ほんと顔も頭も性格も悪くて無理だし怒鳴り付けたい、子供出来たらモンペになりそう、負のkz世代スパイラルになりそうっていう評判だったし自分も同感だった
そんで、そうは見えても何かkzにもいいところがあるのかな(DQNにもいいところがあるのかなみたいな)がどうしても知りたくて1年間旦那氏の真似をしてみた
毎晩酒を気絶するまで飲み続けてろくでもない食事を続けた
煙草をアホ程吸い続けた
休みの日は対戦ゲームで相手を心の中で罵りながら勝つために嫌な戦い方をし続けた
空いた時間はずっとスマホに張り付いてソシャゲとネットで時間を潰した
職場では自分より強いものにはへつらい、弱いものには罵声を浴びせようとしたけど、それは無理だった
そんで1年続けて結論は出た
・受動型ASDでなんでもよかった・関心が無い・断れなかった・どうでもよかった・同類だったのどれか、或いは全部なんだろう
俺メンヘラだから金払って買った女とのスキンシップって何か汚れた感じがしてまーじで嫌なんだよな
処女厨だしクソほど独占欲強いからまず俺以外にも愛想ふりまいてる商売女って時点で既に無理なんだけど
この女は俺から金がなくなったら離れていくなって欠片でも思ったらそれも無理
むしろ金がなくなっても俺の事構ってくれるかなみたいな試し行動すらする
客観的に見て金ケチるくせにスキンシップに飢えてて更にしっかり体は求めてくるっていうリアルガチクソ客オブザイヤーなのはわかりきってるし
だからもう最初から客になりたくないから風俗キャバあらゆる水商売の世話になったことが無いしこれから世話になることもない、ハマることも永遠にない
でもなんかクソ客なはずなんだけどキャバ嬢とか風俗嬢から何回かプライベートで好かれて金貰って(ホテル代奢ってもらって)セックスしたこととかあるのが微妙に自慢
Twitterはとにかく哲学、社会学的な思考や思想の発信に向かないし、その上それを続けていると頭がバカになってくる。
まともな哲学書とかを読むとわかるが、100字以内に収まる文章があったとして、
その文章に使われている単語一つ一つをどのような意図や文脈、意味で使っているのかをグダグダと書いていかないといけない。
例えばマルクス・ガブリエル「なぜ世界は存在しないのか」などは
「世界という概念はこの世の全ての属性を包括した概念だけど、一元的な全てを包括する概念としての世界というものは意味として成立し得ないよ。世界というのはいっぱいあるよ。」
ということを、日本語訳で356ページかけて喋っている。
この356ページを必死こいて理解してやっと、どういう文脈で世界が存在しないとかいう意味不明な事をこのドイツ人のあんちゃんが言い始めたのかということが共有できるのだ。
それぐらいやらないと所謂「作者の気持ち」はわからないとも言える。
ところが文字制限があると、どうしても文章を短くしなければならなくなる。
文章が短くされる事象を考える上で大事な点は、「どこを削るのか」ではなく、「何を残すか」だ。
残されるのはほぼ間違いなく主張になる。
主張が残りがちというのは、例えばカレーが米と合うということをどうしても伝えたくて
「日本式のカレーは辛さの中にもたまねぎの甘さがあって味も濃いから米と相性がいい。」
という文章を考えたけれどもどうしても短くしなければならない場合、
「カレーは米と相性がいい。」とするのが妥当だろうという話だ。
「カレーにはたまねぎの甘さがある。」だと「で?」となってしまう。理由だけでは何が言いたいのかさっぱりになってしまうし、自分としても言いたいことはこれではない。
農協のポスターになら使えそうな文章だが、言いたいことは米と合うという話なので全く適当ではない。
そうやってトリミングしていった文章は最終的に理由が薄くて主張から主張に八艘飛びする文章、
そう、Twitterでよく見るあの押し付けがましいうるせえ~文章になる。
そうなると読み手は間の文脈を自分の価値観で埋めるしかなくなる。
例えばカレーはインドカレーしか知らない人が、「カレーは米と相性がいい。」という文章を見た時、
「日本式」という補足がトリミングされているので日本式カレーという文脈で考えることが出来ず、「いや、ナンとも合うけど何言ってんだこいつは。バカか?」となりかねない。
カレーの例えだとバカバカしさが際立つが、思想や社会問題の場になってくると「これぐらい知ってるだろ…」みたいな丸投げが読み手にも書き手にも発生するので、
それは「文字制限に収めるために省略した部分を、そのうち書き手が考えなくなってくる」
という事だ。これが「バカになる」という部分になる。
さっきも述べたように文章をトリミングする際は理由や具体例が削られやすい。
そこを書かずに、論理的な構築が文章の中で完結していない文章を書くというのは実は危険な行為になる。
自分の中で「完璧に筋が通っている」と思っていても、言語化すると意外にスカスカだったり矛盾があったりすることが多い。
しかし、文字制限があるとそこを「書かなくても良い」という風になり、次第にそこの言語化自体が省略され始める。
そうでなくても、書いているうちに「あれ文字数足んねえな」と駆け足で結論を書き始める場合もありうる。
なんとなーく見覚えがあるだろうが、「前半と後半で全然違う主題になっているようなツイート」というのはこのように成立しうると言える。
こうなるともはや思考は肝心の検討すべき部分が言語化されていないフワフワの状態で終わってしまう。
「いやリプライにつなげたりメモを画像化すりゃいいじゃん」という反論もあるだろうが、Twitterは短い文章のほうがウケる。
つまり、回ってくる文章は長いものではなく短いものばかりになるのだ。
こうなるとまず作者の気持ちすら読み解けない文章から議論がスタートすることになるし、
ウケるということは共感されやすいということでもあるので、最初は長く文章を書いていても徐々に短いほうが良いのかなみたいな誘惑が読み手にも発生する。
長文がウケないわけではないが、打率の差がある。
そしてそもそも長文自体もTwitterに毒されていた場合は、「ただ論拠に乏しい長い主張」になり得る。
こないだの人か。
https://anond.hatelabo.jp/20220702070421
もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、
今の日本は民主主義国家なので、「民主主義の視点からの正しさ」はあると思うよ。
「それに反発する人間の意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。
「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・?
2022-07-12
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?