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はてなキーワード: 就職留年とは

2023-07-24

anond:20230723181923

増田友達東大法学部しかコミュ強で容姿別に悪くなかったのだが、のべ7社の大企業で最終面接まで進んだのにも関わらず全て落とされ無い内定のまま就職留年した)

ここ自己紹介テストに出るよ。

2023-07-23

追記あり】たった15年前の出来事もめちゃくちゃ間違って流布されてて衝撃を受ける

2009年卒の就活氷河期どころか思いっきバブルだったぞ。07年卒、08年卒はもっとザルだった。

ちなみにこの時期は、マーチ内ですら

みずほ銀行りそな銀行は無対策で応募してもかなりの高確率内々定までいっちゃうから行く気ないなら受けないほうがいい」

みたいに囁かれてた。学内で親しい先輩のうち、この年度にみずほ銀行を受けた人は5人いたけど5人全員内定してた。

早慶なんかだと

メガバンクは赤だろうが緑だろうが蹴るもの

というのが常識だったようだ。今の時代就活生や20世紀就活を知っている人からしたら衝撃的だろう。


リーマンショック由来の就職氷河期が始まったのは2010年卒の人間就活から

この就職氷河期は、不景気突入嚆矢となる象徴事件リーマン破綻から新卒採用抑制時間差が全然ない珍しいものだった。本当に突然バブルから氷河期突入したのだ。

秋頃にメガバンク採用予定計画が発表されてどこも軒並み半減してて「あーこれはヤバいわ」とNHKニュースを見ながら血の気が引いたのを覚えている。結果、やはり前年までの就活が嘘のような超買い手市場と相成った。圧迫面接が大流行した。

それから・・・

マスコミとかパイロットとかじゃない限り大手企業の最終面接儀式から落ちない」

という新卒就活常識が全く通用しなくなったのもこの年度からで、大企業の最終面接落ちも大流行した(増田友達東大法学部しかコミュ強で容姿別に悪くなかったのだが、のべ7社の大企業で最終面接まで進んだのにも関わらず全て落とされ無い内定のまま就職留年した)。


そして、このリーマンショック起因の就職氷河期11年卒、12年卒と年度を重ねるごとに地獄絵図になっていった。



ここまでは事実である

さすがに13年卒の親しい人間自分はいなかったので、この年度以降の就活戦線がどういうふうになっていたのかは全くわからない。

誰か教えてほしい。


とりあえず2009年卒はバブル2010年から突然氷河期突入っていうのは強く言っておきたい。

特にツイッター民に対して。



追記

メガバンク内定が学友から「うん、まあ良かったね……」程度の反応されるような微妙位置づけだったのには理由がある。

当時の就活生は「大手しかも高倍率でホワイト待遇のところが一番エラい」という価値観を抱いており、

したがって、「大手・低倍率・給料福利厚生以外が非ホワイト」なメガバンク内定は大して凄いと思われなかった。

この価値観がよく表れていたのは2ch就職板の『就職偏差値ランキング』なる有志が独断偏見作成したもので、

記憶が確かならそこではメガバンクよりも食品メーカーとか素材メーカーとかのほうが上に据えられていた。

実際、三菱東京UFJを蹴ってサッポロビール三井住友銀行を蹴って中央発條入社を決めた人間友達にいた(生涯賃金で5000万円以上差があると思うのだがそれでも激務は何より恐れられていた。ドラマ半沢直樹放送されるずっと以前だったが、もうメガバンク健康人間らしく働くにはあまり苛烈でエグい職場環境であることはネットのせいでバレバレだった)。



同じように証券会社保険会社大手だろうが忌避されていた。

ちなみに日興コーディアル証券なんか日大や専修あたりの大学からでも内定バンバン出てた。


このように大手金融採用は(基本的に)ザルだったのだがこれにも例外があって、

東京海上日本生命営業幹部採用じゃないほう)の総合職マーチ男子程度だとほぼノーチャンスだった。

いずれも体育会系有利と言われる会社ではあるが、マーチに関しては体育会系とかどうとかもはや関係なく、各大学0~3人程度の内定にとどまった。

身分違いだったのだろうか。



さて、

当時の就活生は「大手しかも高倍率でホワイト待遇のところが一番エラい」という価値観を抱いており、

それゆえに大手金融は09年卒であろうと10年卒であろうと

無い内定にならないため、万一入社しても高給が保証されているから、戦略として仕方なく受ける企業

しかなく、基本的に不人気だったのだが、これにも例外があった。

それはみずほ証券大手信託銀行である

みずほ証券については「ホールセールばかりでリテール全然やらなくていいから」、

信託銀行については「メガバンクと違い、残業全くしないで30歳1000万円まで一律昇給できる地上の楽園から

という大間違いでしかないイメージが当時の就活生のあいだで広まりに広まっており、

学歴コミュ力とルックススクールカーストに自信のある就活生が猫も杓子も信託銀行希望するという謎のブームが生まれていた。

ちなみに、私は当時の信託銀行ブーム距離を置いていた。

ノー残業・ノーパワハラ・ノー怒声なんていかにも嘘くさいっていうか100%ありえないと確信していたし、

完全に諦められた窓際社員でも自動的に到達できる年収は30歳700~800万円・40歳1000~1100万円くらいがせいぜいなのではという見立てだったからだ。


書いてる途中に思い出したけど、当時は楽天ソフトバンク本体内定者の学歴ボリュームゾーン日大って感じの会社だった。

今は一橋慶応になるらしいが隔世の感がある。



就活も今と比較したら随分シンプルだった。

大事なのは大学名、その場でいかに「論理的に落ち着いて会話できるか」、本人の雰囲気であり、超人エピソードを作りに動く就活生は嗤われていた。

バイトサークルのどれか一つやっていれば充分であり、インターンに応募しようとするやつはそれがたとえ1dayであっても周りから「凄まじく就活気合を入れている」という見方をされていた。

これはつまり、あっと驚くような体験活動のおかげで就活結果が大きく変わることがないというシビア現実意味しており(テレビ局とかの採用は違うんだろうけど)、

裏を返せば課外活動をせずともコンビニバイトでも適当にやって面接の場をどうにか凌げば大手から内定が出るような時代だった。

筆者には法政大学に通う仲の良い友だちがいたのだが、

彼は今で言うチー牛で(当時は非リアといった)、サークルには所属せずボランティアなどの課外活動エピソードもなく、

週3のコンビニバイトと1日2度のオナニーをするのみであったが某中堅損保内定した。

ちなみに体育会野球部であろうが同大学の一般学生比較してさして就活で有利にならない時代でもあった。

チー牛友人は内定者懇親会に参加したとき、同じ大学野球部の有名選手いたことに

大学野球頑張っても俺なんかと同じ値打ちにされるのか……」

と大変なショックを受けたと言っていた。

実際、筆者は野球が好きなので六大学東都大学の4年制進路を毎年チェックしていたが野球部ブースト全然効いてなくて毎年苦笑したものだ。

東大早慶でも一般学生期待値は大して変わらず、マーチ日東駒専にいたっては一般学生より下手すりゃちょい悪いのではというほどだった。

マーチ野球部から全国紙とかサントリーとかADKかにいけるのは直系附属出身者や県立トップから一般入部してきた選手とかで、野球名門校出身者は主力選手であろうとも野球継続しないのなら大手百貨店関の山だった。◯◯自動車販売”とかもお馴染みの進路だった。

そして日東駒専大東亜帝国あたりの野球部の進路はこんなもんじゃなかった。

当時の就活も嘘つき合戦ではあったが、今の就活インターン当たり前、エピソード作るために大胆に動くの当たり前だと聞いて本当に大変だと思う。

2023-06-24

anond:20230621210336

リーマンショック世代の末路を語るよ。

氷河期世代を語る流れがあるからそれに乗ってみる。リーマンショック世代を忘れないでくれ。

筆者は女で、2007年大学入学2011年卒業国立旧帝大文系卒業してる。彼氏大学は違うが旧帝大文系だった。

まず、筆者が1年だった時の4年生、つまり3学年上の2008年卒の先輩方や、2学年上の先輩方はすんなり就職決まってた印象である高学歴だし、普通にやってれば決まるって感じ。

ところがリーマンショックが起きて、1学年上の2010年卒の人たちから雲行きが怪しくなってきた。学者肌ってタイプでもないのに院進して就活を遅らせる人や、最初から公務員目指してたのではなく民間が受からいから諦めて卒業してから公務員試験目指す人、全く専攻を活かせないパチンコ屋に就職する人が増えてきた。

筆者の年もひどかった。人手不足教員不足が叫ばれる現在では考えられないだろうが、余裕で受かると思ってた公立教員採用試験落ちたり、優秀な人が決まらなかったり。あえて就職留年する友人も多かった。女性活躍(笑)空気もまだまだなくて、女は採ってないんだな…と面接に行ってから思わされることも多かった。

真面目な人は病んでいた。そりゃ、真面目に一生懸命勉強してきたのに時代のせいでパイが少なければ病みもするだろう。筆者は真面目なタイプではなかったので、病まずに済んだ。やりたい仕事も将来の夢もなかったので、大した就職活動もせず、内定は無かった。SPI等は高得点だったが、やる気がないのを面接官に見破られていたんだと思う。

彼氏高学歴好青年なのに就活で苦労し、中小企業とも言えないような小企業入社を決めた。

筆者は、30ぐらいまでなら働きたくなったら公務員でもなれるだろうし、出生率からすると将来の人手不足は間違いないと踏んで(後出しではなく、本当に既にこの時そう考えていたのだ)、高学歴新卒カードをドブに捨て、長く付き合ってた彼氏との結婚に踏み切った。とりあえず住む場所が決まってからその後のことは考えればいいと思っていた。多くの家族人知人に反対された。一世一代の大博打であった。

卒業と同時に結婚、22歳貯金なし夫婦爆誕である

夫が就職した企業昭和ワンマン企業であった。真正ブラックとまでは言えないが、ほんのりブラックだった。残業代社長の気分でついたりつかなかったりした。

就職はいつでもできるが、子供若いうちしか産めないと思ったので、先行きも不透明なままに子供を二人産んでみた。もちろん男性育休なんて取れず、孤独子育てをした。

2014年アベノミクスが始まった頃、夫が会社を辞めて大企業転職した。3年しか経ってないのに、2011年卒業時とは社会空気が変わっており、ポンポン面接に進んですぐに内定が取れた。狐につままれたような気分だった。

2017年子育ての辛さに耐えきれず、子育てから逃げるために筆者は就職活動を始めた。両立ができなければ、いざとなれば、無理でした〜とケツまくって逃げれば良い。やってみなければ分からない。一人で家で子育てするより、保育園に預けて働く方が楽かもしれない。その可能性に賭けた。当時は待機児童が多く保育園も圧倒的に足りてなくて、認可外に入れつつ派遣社員として働き始めた。デスクワークだったので、仕事の方が楽だった。読みが当たった。

2018年、認可外で派遣社員なら月によっては保育園代>筆者のお賃金 になるのが馬鹿らしくなって未経験職の正社員転職した。

今、筆者は仕事幸せな家庭も子供も手に入れてるが、それはたまたまの結果でしか無い。一歩違えばどんな未来があっただろうか。

卒業と同時に結婚せず、真面目に就活して、キャリアを追求してたらどんな未来があっただろうか、とは思う。

あの頃はそうするしかなかった、と自分を言い聞かせる。正しい道なんてない。選んだ道を正解にしていくしかないのだ。

2023-05-24

anond:20230524103906

内定ゲット(就職留年できないなら)>>高収入初任給でなく生涯年収、平均年齢×平均年収)>>雰囲気やりがい

やで。

2023-04-23

ライフステージが変わった”だけ”の兄

人口20000人未満のど田舎町で生まれた。幼少期に両親は離婚して母と兄との3人暮らし

兄は小さい頃から家の事を手伝うことなどなく、母子家庭なのに浪人して予備校にまで通って国立滑って早慶に進み、母から家賃公共料金代まで貰いながら都内一人暮らし。その後就職留年しても大手就職できずに卒業して地元に帰って来て、公務員試験受けて地元町役場に入った。

私は母と家の事を分担しながら地元国立医学部私立禁止かつ上京禁止だったため)に現役で入りストレート卒業して、研修終わると同時に東京に逃げて来た。

兄は役場就職して間もなく、近所に住む兄や私と同じ県立の進学校卒業して大学進学せずに地元信用金庫で働いていた女性結婚した。義姉は美人なので、田舎じゃなかったら兄と義姉がくっつく事は絶対なかっただろう。

私は恋愛婚活経験したものの、満足行く相手出会ことな婚活市場から撤退

田舎の暇な役場でダラダラ働きながら、家では実母と妻の女二人にケアされている兄が既婚の子持ちってだけでまともな人間面して、家事貯金仕事も全部一人でこなしてる私が独身ってだけでライフステージ変わらない無産人間認定される世の中マジでクソだな。

2022-10-15

氷河期だけど氷河期でくくらんでほしい

氷河期だけど文句言ったことないし

給料も多くはないが1500万はもらってる

資産は1億くらいはあるからリタイアしたって生きてはいける

   

氷河期全部が負け犬根性文句ばかり言ってるみたいにいうのはやめてほしい

   

就職はたしかに厳しめだったとは思う

京大出身だけど、普通なら余裕で就職できるくらいのちょいコミュ障なんかが就職留年してたし

まあでもその後2006-7年や2012年以降は景気良かったから言われるとおりだわ

2021-05-06

就職浪人就職留年、なんか見てると、現代於いて経済自立をすることのハードルってすごく高くなってるんかなあ。という印象を受けてしまう。

新卒から生活保護。っていう人もいるんだろうか・・・

2018-05-24

だいたいフィクションだと思ってほしい、憂鬱

最近毎日日大アメフト部の話を見て憂鬱になる。

ここから先はだいたいフィクションだ。

大昔、日大ではない、アメフト部マネージャーをしていた。

もともと競技を知っていたし学部の先輩もたくさんいたし就職率もいいよって言われた。

毎日授業が終わったらグラウンドにいって練習の準備をして、夜の10時や11時までドリンクを作ったりビデオ撮影をしたり、スコアをつけたり、OB連盟学校と調整をする。時には終電を逃して、部室で夜を明かしたこともある。

休みは月曜くらいなもので、かといって学生なので学業を怠らないようにしないといけない。

自分いたころ、「選手は本気で日本一になりたいなら留年するし、マネージャーリーダーになったら留年覚悟しないといけない」と囁かれていた。

実際のところ、3割くらいはみんな本当に留年していた。

資格就職留年ならまだしも、部活単位を落とすような留年絶対いやだ、と本気で思っていて、実際にめちゃくちゃ頑張った。

楽しい学生生活のつもりがつらかった。

マネージャーですらこんな生活をしているものから選手は当然もっとつらい。

体罰パワハラアカハラなんて言葉はみんな全然意識してなくて、キツイ言葉バンバン言って、それで鍛えられると思い込んでいたし、体を作るためだと言って食の細い人は無理やり3号は白米を食べさせられていた。

メンタルをやられる人はたくさんいて、入部したこからしばらくすると半分はいなくなるのが常だった。

どうすればモチベーションを保てるかなんて精神論を戦わせる、今となればかなりムダなミーティングを夜の10から朝の4時、5時までやったりしてもいた。

自分もそれに付き合っていたけれどもある日いきなりプツンと糸が切れた。

体が起き上がらなくて、何日か休んだ。

授業に出たくて学校に行ったら部員に見つかってグラウンドへ行かなければならなくなった。

地獄で、練習行きたくないけどでも行かなきゃいけなくて、行ってもお腹が痛くて使いものにならない。そんな日が続いた。

食べたら食べた分だけ吐いた。貧血で倒れた。みるみるうちにやつれた。

やめよう、と決めた。

もう無理です、と先輩や主将、同期の何人かと監督の前で言った。

精神論で、お前はまだやれるよって言われたけど無理です無理なんですと言ったらめちゃくちゃキレられた。罵詈雑言浴びせられた。

監督にはお前はもういらないと捨て台詞のように言われた。そのあと別の機会で設けられた同学年全体でのミーティングでも吊るし上げられて、最後にはみっともなく泣きながら無理なんだと叫んで部室を飛び出した。

当然誰も追ってこなかった。

そこから2ヶ月くらい、授業には出るけど授業以外のことは何もできない人間になった。

しばらくしたら、アメフト自体はまたみれるようになったし楽しいスポーツだなって思えるようにもなった。

大学部活ってそういうところだったんだ。競技問題じゃなくて人の問題だった。

この話はフィクションだし、現実だったとしても、もうその時の人間はみんなとっくにいいおじさんだ。

これは昔話で、今の時代にはそんなもの、ないだろうって思っていた。

けれどもそれは違うみたいで、報道を見る限り、今でも、同じようなことをしているような空気を感じた。

効率的時間をしばるやり方で、精神論で、キツイ言葉で、人を追い詰める。

一番最悪なのはアメフトが好きだったはずの人がアメフトグラウンド故意に人を傷つけるくらいまで、アメフトを嫌いになるまで追い詰めるような、そんな体質がまだ残っていることだ。

はいえ、今みんな日大のことばかり言ってるけれども、あそこだけじゃないだろうし、こういうのはアメフトだけじゃないだろう。

いつになったら、こういうの、なくなるんだろうね。

毎日ニュースを見て悲しくなる。

選手とも、こんなことで話題になるために毎日きっと夜遅くまで頑張って技術を磨いたわけじゃないだろうに。

大学生の頃の自分の苦しみを思い出して、彼らの今までの努力が無になるような報道を見て、毎日憂鬱だ。

2017-11-09

働くということ/失うということ

もうすぐ二十七歳になる。

無性に文章が書きたいので、これを書く。





最近自分が何歳なのか、よくわからなくなる。

から時々確認しなくてはならない。

紙に書いて壁に貼って、誕生日になったら剥がせばいいのかもしれない。

「今、俺は26歳! 社会人4年目! ここが頑張りどき!」

みたいなことを正月にでも筆で書いて、壁に貼っておく。

誕生日が来たら剥がす。そして次を貼る。

「今、俺は27歳! 社会人5年目! 上から評価だけでなく、後輩の育成も、ね!」




時間は流れてゆく。

いや、流れているはずだ。

僕の中の時間は止まったまま、現実世界時間けが過ぎている。

27歳になるのもビックリする。

22歳になったときはまだ覚えている。

そこからの5年、何かあったのか?

子供のいたずらで、時計を針をぐるぐると何回も何回もまわして、気がついたら2017年になっていたような気さえする。





サラリーマンになんてなりたくなかった。

けれど、時間に押し出されるようにして、僕は選択を迫られた。

フリーターになって夢を追うとか、まあそのぐらいの選択肢はあったけれど、実質的就職する以外の選択肢はなかった。

労働ということに、価値を見出せなかった。今もそうだが、昔からそうだった。





2012年のあの頃、僕は叫ぶようにして面接をしていた。

就職活動

長い年月を費やしたけれど、今の僕にはほとんど記憶がないのは、忌々しい記憶だったからだろう。

ずっと組織集団といったものに馴染めなかった。

日本企業なんて、大半は気持ち悪い集団だった。

それでも、「御社への志望動機は…」という話を延々とした。

そして一社だけ内定をもらえて、そこで働き始めた。

長い就職活動だった。

会社に入ってくる後輩は、学歴就職活動ハードさも、ワンランクもツーランクも落ちるような奴らだった。

結局は運なのだと思う。

僕の同期は、就職留年したり、未だに実家寄生したりするが、それはなんだったのだろうか?

そんなもの存在しなかったかのように、日経平均は上昇し続けている。

そして僕もまた、そんなもの存在しなかったかのように、安定した暮らしをしている…






リクルート的な価値観に従うならば、仕事というのは自己実現手段でなければならない。

仕事を通して、大きな変化を社会に与えて、それを通して自分という存在が救われるのである

その文脈において、僕がしている仕事は、まったく価値のないものしかない。

僕の勤めている会社利益だけを考え、その関係者けが幸せになるものしかない。

どちらかといえば、『課長 島耕作』とかの世界観に近い。

やっていることが、FAXからExcelの穴埋めに変わったくらいか

古いシステム会社である








会社から評価されている。

上司は恵まれている。

技術者気質だが、管理職としての自分役割理解して、高いレベルバランスのいい部長がいて、

放任気質でどうでもいいところはノータッチにして、締めなければいけないところは締める課長がいて、やりやすい。

そういう上司のもとで、それなりの成果が出せている気がする。

そんな恵まれ環境でも、三年目くらいまで、どうしようもないくらいの焦燥感があった。

自分技術力とか、会社の求めているマネジメント能力とか、そういうものへの反発があった。

早晩潰されてしまうのではないか、という不安は常にあったけれど、色んなものに恵まれて、そんなことはなかった。

仕事ができる人間‘」として扱われる環境は、居心地がいい。

自分人生ではじめての環境なのかもしれない。

僕が居心地がいい環境というのは、ずっとなかった。

家庭でも、学校でも、バイト先でも、そんな環境はなかった。友達恋人の部屋でさえも、僕は居心地の悪さを感じていた。





極力シンプルに生きようと思っている。

仕事が終わったら帰って、一人でビールを飲んで、早めに寝る。

平日はそれで過ぎていく。

休日に色んなことを考えてしまうが、それだけが僕の生きている時間なのだと思う。

平日はそれでいいと思う。

休日も、ぼんやりしていたらすぐに終わってしまう。

今の僕が失ったのは、休日焦燥感である

よくもわるくも、僕はサラリーマン社畜である自分を受け入れつつある。

今の日本には、僕と同い年で、同じくらいの給料をもらえている人間なんてほとんどいないのだ。

そのデータは、大学に行ったおかげでわかっている。

けれど、それは結局、失われた20年に突入した日本の大半の若者が得られなかった、ある時代は当たり前だった待遇しかないのだと思う。

もちろんそういう詭弁をもって、仕事をやめて、自由を手にしようということではない。

何が言いたいかというと、このままだと、僕に許された幸福に続く道のりは、

いい奥さんをもらい、仕事を頑張り続けることだということしか残されていない、ということなのだ。

幸福に関しては書きたいことがたくさんあるけれど、はたしてそんなことなのだろうか?

僕にはわからない。

わかる人間なんているのだろうか?






この文章で、誰かを批判しようとか、肯定しようとかい気持ちは一切ない。

とにかく僕が、シンプルに生きようとしている、ということだけを書きたかった。

それにまつわる複雑性について、夾雑物を捨てるように、書きたかったのだった。

2017-10-20

anond:20171020181601

1.それ3月末時点で諦めて進学する人や就職留年バイトする人が母数に入ってない。

2.昔の数字が悪いのは昔は家業農家が多かっただけはなく、バブル以前は大卒が多くなく新卒主義がここまでではなかった。

2015-09-10

あがり症克服した

私は高校生まで、人の前で喋れなかった。典型的あがり症ってやつ。

それも結構重症で、本当に酷い時は友達の前でさえ喋れなかった。先生の前でももちろん無理で、三者面談がうまく行った記憶がない。こんな感じだったけど、高校は無事卒業できて、大学も入った。

学部性質上、ディスカッションプレゼン系の授業も多くて、多少は良くなると思ったけど、状況は変わらず。一応、人見知りは多少ましになったけど。

ゼミプレゼンは頭が真っ白になっても良いように、原稿を書いて、予想される質問は全てまとめておき、万全の準備をして本番に臨んだ。ディスカッションはとりあえず全力で頷いて、なるだけ自分に矛先が回ってこないようにしていた。

こんな感じでなんとか大学もやり過ごしたけど、見事に就職が決まらなかった。書類選考はそこそこ受かるのに、面接は一切通過できない。当たり前だった。だって一言もまともに喋れてなかったからw

それで、1年就職留年をしたわけだけど、どうせならと、思い切って渡米して現地の大学入学。そこで酷い目にあってきた。

アメリカ大学ってプレゼンの量のケタが違うし、ディスカッションの量もとんでもなかった。毎日あがり症総動員。プレゼン原稿は間に合わないし、ディスカッション毎日毎日顔を真っ赤にしながら頑張った。

ある日プレゼン原稿が間に合わなくてぐっちゃぐちゃの英語でしどろもどろになって説明してる時、目の前の子がさ、「どうでもいー」みたいな顔して私のプレゼンを聞いていた。というか多分、あれは聞いてなかった。

その時、私はやっと「あっ、こいつら、私のプレゼンなんてどうでも良いんだな!」って思った。その途端、肩の荷が下りたみたいにすごい楽になった。要は開き直ったんだと思う。

まり、私は色々なんか完璧でありたいと思いすぎていたんだってその時に気付いた。でも、プレゼンしている相手って本当に自分のことどうでも良くて、噛もうが発音悪かろうが失敗しようがいづれ忘れるんだよね。

これに気付いた時、悔しかったな。自分しか見えてなくて、相手に伝わるように話せてない自分に気付いてしまったので、長らく自己嫌悪に陥った。あがり症だったころは「うまくやらなきゃ!」と思う気持ちが先行してたんだと思う。

それから、私は徐々に原稿を用意しなくてもある程度はプレゼンができるようになった。アメリカでの成績は下の中くらいだったけど、本当に良い体験勉強をさせてもらったと思ってる。良い友達にも恵まれたし。

日本に帰って来てなんとか社会人になれた。今ではプレゼンにはかなり強い方。同期の中では確実に私が一番プレゼン慣れしていると思う。信じられないけど、あれほど悩んだ上がり症は1年で克服できた。今では100人の前に立ってもそんなに緊張せずに話せる。

ここ最近上司から新人のくせにプレゼンだけは上手い」って褒められたので、うれしくて記念にエントリ

2014-12-04

退学の周辺

10年ほど前にとある大学入学した。

大学受験が全国対ゲームのように思えて楽しかったため流れで入ったが、

それ故大学生活の展望も、勉学に対する意欲も全く持ち合わせていなかった。

結果、文系学部にも関わらず1回生前期で3割ほど単位を落とした。

その後更に低調となり、遂にある辺りから大学に出ず引き篭もりがちになった。

確か二十歳の誕生日は一日中布団で寝たきりで

「ああこれで地元市役所高卒区分を受けることができなくなったのか・・・

ということを考えていた気がする。

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ところで、かつて在籍した学部には

「前期は4月中に、後期は10月中に休学届を提出し、受理されれば学費は月割り」

という規定があった。

半期28万ぐらいが4万8000ぐらいで済む。

学生生活における1年の違いが生涯年収における何百万の差にうんたらという言説もあるが、

目先の20万も大きい。

半期開始早々にドロップアウトセンサーが反応し、「あ、これはヤバイな。」と思うところがある以上、

この選択肢意識せざるを得なくなった。

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このようなクズ人間故に、休学届の提出は4月30日(または10月31日)の夕方以降であった。

ギリギリまで迷っていたということもあるが、現実学費無駄にするという実感が迫ってくるのが大きい。

ある時は本当にギリギリになってしまった。

休学の申請の手順であるが、教務で申し出ただけでは申請したことにならず

大学財務部で1月分の学費を支払い、その領収書を休学届に添付することで初めて受理される。

学部教務の受付時間が17時までのところ、着いて休学すると申し出たのが16時45分頃。

残り15分で財務部との間を往復しなければならない。

ここで問題になるは、在籍していた大学が山の上にあったということだ。

20万の懸かった山道全力ダッシュというのもなかなか経験できるものではなく、

学生時代に得られた数少ない貴重な体験の一つである

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余談だが、当時は上記のような休学時学費免除制度一般的ではなかった。

就職留年問題になった頃、それ故に休学する場合学費免除という制度が導入された大学がいくつかあった。

まり普通に休学する分には学費も通常通り発生するということだ。

今では学費制度はそれなりに広まってきているようである

中退先延ばし・休学におけるテクニックの一つとして覚えておきたい。

http://www.etic.jp/kyugaku/university.html

これも余談だが、別学部にいた友人から担任教員とのやり取りで休学手続きをしたという話を聞いた。

そもそもこちらの学部には担任すら存在しないのだが、

そういう点も含めて休学一つとっても学部が違うだけでも随分変わってくるものだと妙な感心をした記憶がある。

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こうして休学~復学を繰り返した結果、最終的には5年在籍して退学するに至った。

実働2年半で取得単位が70丁度、卒業要件の約半数。まあこんなものかもしれない。

決め手となったのは第二外国語の再履修のクラスがなかなか決まらず、

ベンチで一人座って途方に暮れていた時に不意に涙が溢れ、この場にもう居たくない、と思ったことだった。

思えば語学とは極めて相性が悪かった。

暗記をするということが恐ろしく苦手である時点で仕方がないのかもしれない。

ある時、第二外国語ドイツ語課題で「ベートーヴェン第九の歌詞を覚えて書き取り」というものがあった。

他の学生にとっては並の課題かもしれないが、これが恐ろしく苦痛で仕方がなかった。

そしてその課題が出された直後から、ある車のCMで第九が頻繁に流れるようになった。

正直これは堪えた。今でも第九は苦手だ。

所謂ゼミを履修するための要件の一つに第二外国語単位一定以上取得するというものがあった。

当然履修することなど出来るはずがなく、一瞬たりとも研究室所属したことがなかった。

文系なのでどの程度の密度で事が行われるのか今でもさっぱり予想がつかないが、

学生たるもの少しぐらいは研究というものに触れておきたかたかもしれない。

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退学を申請する際のシステムも少し変わっていたかもしれない。

教務の説明によれば

「退学した場合支払った学費は戻ってこない。従って期末まで休学ということにして、改めて判断して欲しい。」

とのことだった。

まさか前述の休学のテクニックに応用編が存在するとは思ってもみなかったし、

たまたま申請に行ったのが10月で助かった。

最後に、と思って掲示板を見てみると、あらゆる掲示物に記された学籍番号が1から始まっていた。

学籍番号の頭二桁は入学年度を示している。私は2006入学だったので06始まりだった。

入学してすぐの頃、一人二人ほど99で始まる学籍番号が掲示されることがあった。

01辺りを見かけることすらなかなか無い。そんな中、十の位から違っているのは奇異に見えた。

ところが気付けば自身もそちら側に移っていたことをはっきり認識した時、

変な話ではあるが「やはり退学は止むを得ないか」とも何故か思ったものだった。

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周りで退学が視野に入っている人間が少なくとも3名いた。

際どく耐えた者2名、最終的に退学した者1名。ただその者も私のようなクズではなかった。

ある時在学中お世話になった部活会合に出てみると、退学するか悩んでいる現役生がいた。

類は友を呼ぶではないのだろうが、やはり似たような者が自然と集まるように出来ているのかと妙に納得した。

極々たまに話の流れで自身が退学したことについて触れることがある。

勿論その受け止められ方は様々だが、ありがたいことに嫌な顔をされたことはない。

退学という話題に触れた際、明るく笑って流してくれる人は大事にすべきだ。

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退学について書き殴ってもよいという場を見つけたので、吐き出させて頂いた。

普段滅多に文章を書いたり打ったりしないので何かと散らかっているが、ご容赦願いたい。

退学 Advent Calendar 2014

http://www.adventar.org/calendars/573

2014-10-28

18-25歳

去年の9月、新卒で入った会社半年で辞めた。

タイムカード新卒研修もなく、残業代も出ない、

増田からしたら狭量な人格人間が多くて、今思えばブラック会社だった。

7月8月精神的につらすぎて、初めてのボーナス10万は、全部風俗に使った。3日でなくなった。

風俗嬢にも仕事を辞めたいと泣きついていた。あかんたれだった。

大学は5年通った。音楽系の部活に明け暮れた。

留年は、当時は志望業界があったたため、就職留年のようなものをさせてもらった。教職などの資格は取っていない。

大学入学前は、1年間浪人もさせてもらった。結局、第一志望の大学には入れなかったが。

高校は、最後の1年は半分ほどしか行っていない。成績もだいたい下の方で、クラスメートとは連絡もほとんど取っていない。

いまは、親の自営業の手伝っている。儲かってはいない。実家寄生フリーターのような現状だ。

このような状況、積年の怠惰癖が祟ったのかもしれない。奨学金の返済もあと200万弱はある。あかん

地元美容室に行って会社を辞めたと言ったら「大学行ったの無駄でしたね」と笑われる。

役所に行くと、中高の同級生が職員になってて同世代は世の中に出回りだしている。

顔本では、大企業に勤める知人の近況などを知ると、

現代の正規ルートから外れたことを一瞬だけ後悔したりするくそ情けない自分もいる。

世間的に見たら、コストパフォーマンスめっちゃ悪い人間だわ、自分

今は、自営業仕事の関連でほそぼそとフォトショップイラストレーターを使って、

ハガキ名刺ポスターを作ってクリエイター気分に浸っている。

お客さんに褒められて、「俺、デザイナーいけんじゃね?」とか思っても、

才能ややる気のある人は高校ぐらいからデザインデッサンをやっていて、

25歳ならもう中堅ぐらいだろう、と思い、デザイン方面仕事探しにも踏ん切りが付かない。


最近大学で知り合い、ここ1,2年よく会っていた人と付き合いだした。

ふんわりとした雰囲気のやさしいひとだ。

増田風俗でよく遊んでたことや、仕事がうまくいかないこととか、ださださなことも全部知っている。

「たまには、かっこいいところも見たいな」と最近言われた。

やりたいことなどとくにない。この先どうなるかもわからない。

ただ、近くにいる人を大切にすることを起点に、動き直そうと思う。


寝れなくて、思い立って初めて書いた。

何だ彼女いるのか死ねよ。ほんとコスパ悪いな、駄文野郎、なんでも笑ってくだされ。

2014-06-19

なんでみんな就活出来るの?

就活ができない。

おととしの12月から就活突入したけど、まったくやる気が起きなかった。

たまにES書いて、通ったら面接行ったり行かなかったり。

で、なんで就活に身が入らないのだろうと思った僕は、自分に自信がないからだ、という結論に至った。

一年前の夏のことだ。

結論に従い僕は自信をつけるために今まで興味があったけれど、取り組まなかったことに取り組んでみた。

その活動は性質上様々な人と関わりを持たないといけなかったし、また始める前は僕自身共通の趣味を持つ人と関わりたいと思っていた。

でもダメだった。

彼らは僕が予想した以上に、その分野への造詣が深く、とてもとても僕が仲間に入れてもらえるとは思えなかった。

じゃあ努力しろよ、って話になりますわな。

でもちょうど頑張り始めた矢先、ちょっとした病気を患ってしまい、僕は活動からフェードアウトした。

季節は夏から冬に変わっていた。

とりあえず自信をつけてから、また就活を始めようと考えていた僕は、就職留年という選択をしていた。

いや、それは選択じゃなかったんだよな。ただの先延ばし、僕は何にも選んでいなかった。


二度目の就職活動クールが訪れた。二度目の就職活動ももちろん身が入らなかった。

就職を決めた同級生たちは、卒業旅行なんかして大学生活のまとめに入っていた。

僕は就活スタートしたにも関わらず、彼らと一緒に卒業旅行をしたり遊びほうけていた。

滑稽だよね。その当時は本気で、彼らが卒業したら就職活動本腰入れようと思っていたんだよ。


同級生の数少ない友人たちが社会に出た後、僕は去年にも増して就活をしなかった。

友人に「就活調子はどう?」

と聞かれることもあったけど、そういうときは決まって嘘をついた。

ESと筆記は通るんだけど、面接になると全然だめだよ」というセリフ挨拶代わりになった。

嘘ばかりついてると、自分もだまされていくんだよね。

自分はそれなりに就職活動してるけど、結果がついてきてないんだ、って無意識に思ったりしてた。

本当はほとんどなんにもしていないのに。

たまに夜寝る前に、このまま大学卒業したら僕はどうなるんだろう、と思って焦る。

そんな夜はベッドに横たわってスマホからリクナビマイナビを経由して説明会を予約する。

でも翌朝(昼の方が多いか……)目覚めるとそんな不安雲散霧消している。

説明会前日にキャンセルボタンクリックしたり、当日の朝面接ブッチを決め込んだり。


なんで僕はこんなにクズなんだろう。

わかっている、こんな状況でも僕はまだなんとかなるって思っちゃってるんだ。

僕はバイトもしたことなけりゃ、サークルにも熱心に取り組まなかったし、ボランティアなんて馬鹿にさえしていた。

全力で何かに打ち込んだことがないから自分の実力がわからない。

自分の実力がわからないから、いつか僕は何かキッカケがあれば飛躍するだろうなんて思っている。

でも実際は何の実力もないんだろう、認めたくなかったけれど、それが事実


でもやっぱり心のどこかで諦めがつかない。

僕がこのまま「何者」にもなれず、就職活動をする。

なんとか入れた企業でボロ雑巾のように扱われるのかと思うと、とてもやるせない気持ちになる。

多分、みんなもそんな不安や諦めを乗り越えて、就活をして、妥協して大人になり、社会人になったんだと思う。

そんなみんなの方が立派だと思っているのに、やっぱり僕はどこかで馬鹿にもしている。

無批判にレールに乗っかってお前が入ってる大企業もいつ傾くわかったもんじゃないぜ、とか思ってる。

今のところなんの才能もない僕は

(こう書いてる時点でいつか、何かしらの才能が開花するんじゃないかって思っていることがわかる)

就活に打ち込むのが人生正攻法だよね?

だとしたら、今からどうすればいいの。俺はどうすればいいの。

2014-04-27

http://anond.hatelabo.jp/20140427142933

文学部に入って就職なんてできると思ってるの?考え方が甘いんだよ。

って叩くのは簡単にできるし、これまで落とされて散々凹んでると思うので

何も言わないが。

就職活動はこれまでの人生を否定されているようで辛いが

とりあえず夏までがんばって。

まぁ最悪、就職留年すればいいじゃないか。

院行くよりはマシだろ。

2014-03-29

働くって難しいね

就職留年して現在2回目の就活中。

昨日も最終面接でお祈りされた。

何回苦しめばいいんだろう。

みんなと一緒に卒業たかった。綺麗なドレスも着たかった。

卒業旅行とか友達とやりたいこといっぱいあった。

どうしてこうも働くことが、自分にとってこんなに難しいんだろう。

1年以上こんな感じで、全てが妬ましくて生き辛い。

なんていうか、内定もらえない苦しみよりも、こんな状況でも死ねない苦しみのほうが大きい。

いろんな意味で全部終わればいいのに。

2013-05-27

大手病の人に「大手ばかり狙わず中小に行け」という忠告は間違い

中小経験者や資格スーパーマンしか採らないか大手に絞っているという事も考えられないかと思う。

大手ほど新卒のような就労未経験者を採ってくれる会社はないし、そのために教育制度や人事考課にかなりの予算を費やして人事教育を施している。

けれど、中小は規模が小さくて景気の波に常に悩まされているから人事教育お金を費やす事ができない。

それだから経験者や資格スーパーマンを積極採用するものの、大手ほど新卒者受け入れ体制が整っていない現状がある。

まり大手ばかり狙わず中小に行け」という忠告は本当は間違いなのだ

中小に行くのが厳しいのは、明らかな職場引き継ぎであり、それ以外はいわゆる3Kで肉体労働中心の本当に誰にでも出来る仕事という事でやりがいも魅力もない。

給与ピンハネサビ残不透明組合費など労働水準が低い事もよく見る光景だ。

業界にもよるだろうけど、どこの業界大手以外はい倒産してもおかしくない状況も相俟って中小に行く事が如何に無謀なことか。

不人気と言われている業界ですら、他業界であぶれた人がそっちに行くから飽和状態でとても人員を割く余裕がないし、中小中小なりの経営方針で

例えば同族経営だと不透明予算運用旧態依然丼勘定のために人材採用お金を掛けない事も考えられる。

画期的システム効率化も中小にしてみれば、会社のやり方に逆らう不良社員だとレッテルを貼られパワハラが横行するものだ。

そう考えると、そうした悪循環が待ち受けている職場に行って新卒枠をわざわざ潰したい人もそうはいないはずだ。

そうした背景や昨今の倒産速報、株式動向から安定性を求めて安易大手を狙うのは実は間違いではない。

しろ、状況が好転しても変わらない中小に行く方が自殺行為に近い。

それで新卒枠を消滅させる位なら就職留年という道もあるわけだ。

また大手に落ちまくったからといって大手は絶対落ちるわけではなくて、時勢とか運とかそういう些細な事が重なっただけに過ぎない。

大手に行く事自体は間違いないし落ちたか安易中小に行くのは愚か者のする事だ。

新卒カードは大切に使うべきだ。

2012-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20120316115623

一定の水準以下の大学就職留年専門学校や院進学などモラトリアム続行、形態が不明な派遣社員バイト

なんかも含めればそのぐらいの%いくんじゃない?

特にまらなかったから進学しよ~っとっていうの以外と多いよ。

 
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