はてなキーワード: 小唄とは
一.
ワイフもらって 嬉しかったが
何時も出てくる 副食物(おかず)はコロッケ
これじゃ年がら年中コロッケ
こりゃ可笑し(おかし)
二.
開けて見たらば金貨が
株を買おうか 地所を買おうか
思案最中に 眼が覚めた
こりゃ可笑し
三.
芸者が嫌なら 身受けしてやろ
帶も買ってやろ
ダイヤもやろう やろう
いふて呉れるやうな客がない
こりゃ可笑し
四.
亭主もらって 嬉れしかったが
何時も出て行っちや滅多に
帰らない 帰らない
これじゃ年がら年中 留守居番
こりゃ可笑し
NHKドラマ「おしん」のなかで、大正12年9月1日、田倉商会の新しい工場の開業祝いの準備中に子守を任された源じいが歌っていたのが、このコロッケの唄(大正6年版)。wikipediaによるとコロッケの唄は、その後、昭和37年に浜口庫之助(五月みどり)版、平成版、令和へとなんどかリメイクされて歌い継がれてきたようだ。
大正時代のコロッケは、現代と違って、手ごろなお惣菜ではなく、東京などの洋食店でしか食べられない高級食品。この夫婦が富裕層であることがわかる。二番以降もあわせてみると、大戦後の好景気を反映し、一般投資家が増大した世相を色濃く映した、興味深い唄だ。
それはおしんの番外編。1983年放送当時の8月、おしんを演じていた田中裕子が過労静養のため撮影を中断せざるを得なくなった事態になって、急遽制作され、放送時間帯に15分ずつ6日にわたって放送された番外編「もうひとりのおしん」だ。これは、おしんと同時代を生きた山形や東京の女性に当時の話を聞くという番組。関東大震災前、おしんはラシャ問屋がつぶれたあと、子供服の店を田倉と始める。同番組では当時、日本橋横山町で子供服を始めたというおばあちゃん(放送当時90歳)の話を聞く場面がある。まさにこういう話を聞きたくて、わざわざDVDまで購入したのだが、見てよかった。
それまで和服に日本髪というのが当たり前だった日本人の服装が、洋服に変わっていったのは、関東大震災の後だといわれる。
このおばあちゃんはインタビューで「大震災があったでしょ、それからみんな裸になっちゃいましたから。それからだいぶん、服が変わっちゃいました」と答えている。この簡潔な一言に歴史のダイナミズムが凝縮されている。
おしんの物語では、田倉商会が時代を先取りする形で安価な既製服商品としての子供服のポテンシャルを見抜き、田倉の再起を賭けた。そのドラマの展開にリアリティを与えるインタビューだった。
もっとも、おしんは当初、夫である田倉竜三の羅紗問屋の事業失敗に懲りていて、大して商才もないのに夢ばかり大きい夫の行動が不安で仕方がなく、本当は手堅く地固めをしたい。子供服作業場の拡張には反対していた。だがやがて夫を信じようと思いなおし、夫の夢に賭けるようになる。
おしんのドラマは、10年に一度くらい再放送で目に留まって数話くらいずつ散発的にみていたのだが、今回、腰を据えて全297話をみていると、ドラマの演出がなかなか面白いことにも気が付いた。例えば、夫に商売の才能がない部分を自分の働きで夫婦の稼ぎをカバーしようと自分なりの仕事を始めて成功してしまう場面。プライドを傷つけられた旦那は「髪結いの亭主」さながら飲み歩くだけの怠け者になってしまう。夫を堕落させたのは自分だと気が付いたおしんは、あえて自ら稼ぐことをやめ、夫を立て夫がいつかまじめに稼いでくれるのを信じることにした。その結果、やがて今日明日の米に困るほど夫婦は追い詰められてしまう。田倉はようやく目が覚めて商人の道を諦め、勤め人として働きだすようになった。その様子をみて安心したおしんは、田倉商会の将来的な再興を目指して、子供服の商売のための子供服のデザインなどこつこつと準備を始める。おしんのデザインをみた田倉はおしんの才能を知り、いったんは勤め人として手堅く暮らそうとしていたのに、勤め人をやめて子供服の商売にまた再起を賭けようと夢を語り始めた。おしんに相談もせず勝手にミシンを購入したり、ひとを雇ったりとおしんを戸惑わせた。あげくは事業拡大のために借金をして工場建設をすると鼻息荒くしていう。
そんななか、ドラマの背景で、東京の街中で流れてくるのは「船頭小唄」。おしんの不安を象徴させる、にくい演出だと思った。
そして、大震災当日の朝、順風満帆で工場開業の祝賀を催す準備のさなか、田倉竜三の子供のころからのお目付け役である源じいが歌っていたのが冒頭の「コロッケの唄」だ。源じいは昼に発生した地震で亡くなってしまうので、源じいが幸せだった最後の瞬間だったといえる。その浮かれた雰囲気を、その時代の空気とともに、この歌はとてもよく演出している。
その後のドラマの展開は、田倉の本家である佐賀へ舞台をうつし、橋田壽賀子お得意の嫁姑地獄が待っている。
引かれ者の小唄って知ってる?
n_kasei 俺は昭和元年生まれで同世代なんだけど、湖畔の宿が流行っててラジオでよく流れてた。けどすぐ戦争になって聞かなくなった。俺は嫡男だったし結核だったから戦地行かなくて結構肩身狭い思いした記憶がある。
izumiya1948 【あたしの若い頃は戦争戦争でレコード買う余裕なんて無かったよ。】そもそもレコード以前に蓄音機が庶民には高くて買えなかったよ(時代によるが蓄音機一台が家一軒分とか車一台分した)
kash06 戦争前の小唄ブームがアツい。勝太郎・市丸ならどっち派でした? 勝市時代って言ったら市丸ファンから市勝時代だって言われたよ。ちゃっきり節派か。(ヤクルトファンなら勝太郎派
sekretosekreto ゴンドラのうたとかね
関ジャムの若手アーティストが平成の曲を選ぶアンケート企画が話題になっている。
https://guatarro.hatenablog.com/entry/2022/05/08/234252
そういえば昭和から平成に変わった当時でも同じような企画をNHKがやってたなと思い出しちょっと調べてみた。
無作為抽出の2000人に対する電話アンケートで思い出の曲を聞くという当時のNHKらしい力強さを感じるが平成になったばかりなんでこんな曲が何故そこにというのもゴロゴロ。
NHK昭和の歌・心に残るベスト100(1989年10月10日発表)
Best 1位~100位
2位 ◇影を慕いて(1932_昭7)藤山一郎
5位 ◇悲しい酒(1966_昭41)美空ひばり
6位 ◇柔(1964_昭39)美空ひばり
8位 ◇岸壁の母(1954_昭29)菊池章子/二葉百合子(昭和51年カバー)
13位 ◇お富さん(1954_昭29)春日八郎
16位 ◇有楽町で逢いましょう(1957_昭32)フランク永井
19位 ◇矢切りの渡し(1983_昭58)細川たかし 他(競作)
22位 ◇北国の春(1977_昭52)千 昌夫
25位 ◇襟裳岬(1974_昭49)森 進一
30位 ◇アカシアの雨が止む時(1960_昭35)西田佐知子
31位 ◇君恋し(1929_昭4)二村定一/フランク永井(昭和36年カバー)
37位 ◇銀座の恋の物語(1961_昭36)石原裕次郎&牧村旬子
39位 ◇くちなしの花(1973_昭48)渡 哲也
40位 ◇涙の連絡船(1965_昭40)都はるみ
41位 ◇黒い花びら(1959_昭34)水原 弘
42位 ◇この世の花(1955_昭30)島倉千代子
44位 ◇せんせい(1972_昭47)森 昌子
45位 ◇さざんかの宿(1982_昭57)大川栄策
48位 ◇ブルーライトヨコハマ(1968_昭43)いしだあゆみ
49位 ◇娘よ(1984_昭59)芦屋雁之助
50位 ◇月がとっても青いから(1955_昭30)菅原都々子
52位 ◇いつでも夢を(1962_昭37)橋 幸夫&吉永小百合
53位 ◇長崎は今日も雨だった(昭和44年_1969)内山田洋とクールファイブ
57位 ◇与作(1978_昭53)北島三郎
59位 ◇湖畔の宿(1940_昭15)高峰三枝子
60位 ◇夜霧よ今夜も有難う(1967_昭42)石原裕次郎
61位 ◇誰よりも君を愛す(1959_昭34)松尾和子&和田弘とマヒナスターズ
63位 ◇氷雨(1977_昭52)佳山明生/日野美歌(昭和57年カバー)
65位 ◇異国の丘(1948_昭23)竹山逸郎
71位 ◇酒よ(1988_昭63)吉 幾三
72位 ◇三百六十五歩のマーチ(1968_昭43)水前寺清子
75位 ◇二人は若い(1935_昭10)ディック・ミネ&星玲子
76位 ◇夢追い酒(1979_昭54)渥美二郎
79位 ◇おもいで酒(1979_昭54)小林幸子
80位 ◇潮来笠(1960_昭35)橋 幸夫
81位 ◇人生劇場(1938_昭13)楠木繁夫/村田英雄(昭和34年カバー)
82位 ◇見上げてごらん夜の星を(1963_昭38)坂本 九
84位 ◇てんとう虫のサンバ(1973_昭48)チェリッシュ
87位 ◇かえり船(1946_昭21)田端義夫
90位 ◇喜びも悲しみも幾歳月(1957_昭32)若山 彰
93位 ◇ブルーシャトー(1967_昭42)ジャッキー吉川とブルーコメッツ
94位 ◇みちづれ(1979_昭54)牧村三枝子
96位 ◇おふくろさん(1971_昭46)森 進一
97位 ◇もしもピアノが弾けたなら(1981_昭56)西田敏行
98位 ◇骨まで愛して(1966_昭41)城 卓矢
99位 ◇浪花節だよ人生は(1984_昭59)木村友衛/細川たかし
102位 ◇啼くな小鳩よ(1947_昭22)岡 晴夫
106位 ◇別れても好きな人(1979_昭54)ロス・インディオス&シルヴィア
107位 ◇昔の名前で出ています(1975_昭50/昭52年ヒット)小林 旭
109位 ◇東京ナイトクラブ(1959_昭34)フランク永井&松尾和子
111位 ◇星はなんでも知っている(1958_昭33)平尾昌晃
120位 ◇花街の母(1973_昭48/昭52年ヒット)金田たつえ
124位 ◇いとしのエリー(1979_昭54)サザンオールスターズ
130位 ◇祝い酒(1988_昭63)坂本冬美
131位 ◇青春時代(1976_昭51)森田公一とトップギャラン
133位 ◇夜霧のブルース(1947_昭22)ディック・ミネ
134位 ◇東京のバスガール(1957_昭32)コロムビア・ローズ
135位 ◇九段の母(1939_昭14)塩 まさる
142位 ◇時には母のない子のように(1969_昭44)カルメン・マキ
145位 ◇夢は夜ひらく(1966_昭41)園まり
147位 ◇白い花の咲く頃(1950_昭25)岡本敦郎
148位 ◇北上夜曲(1961_昭36)多摩幸子&和田弘とマヒナスターズ
149位 ◇嫁に来ないか(1976_昭51)新沼健治
151位 ◇時の流れに身をまかせ(1986_昭61)テレサ・テン
154位 ◇ジョニイへの伝言(1973_昭48)ペドロ&カプリシャス
155位 ◇ガード下の靴みがき(1955_昭30)宮城まり子
163位 ◇お座敷小唄(1964_昭39)松尾和子&和田弘とマヒナスターズ
166位 ◇おひまなら来てね(1961_昭36)五月みどり
167位 ◇好きになった人(1968_昭43)都はるみ
168位 ◇知りたくないの(1965_昭40)菅原洋一
169位 ◇東京の花売娘(1946_昭21)岡 晴夫
170位 ◇圭子の夢は夜ひらく(1970_昭45)藤 圭子
171位 ◇浪花恋しぐれ(1983_昭58)都はるみ&岡 千秋
175位 ◇黄色いさくらんぼ(1959_昭34)スリー・キャッツ
177位 ◇夜明けのスキャット(1969_昭44)由紀さおり
181位 ◇蘇州夜曲(1940_昭15)霧島 昇&渡辺はま子
182位 ◇ダンシングオールナイト(1980_昭55)もんた&ブラザーズ
187位 ◇高原の駅よさようなら(1951_昭26)小畑 実
190位 ◇僕は泣いちっち(1959_昭34)守屋 浩
191位 ◇島育ち(1966_昭41)田端義夫
194位 ◇港町ブルース(1969_昭44)森 進一
それなんて「かわいそう小唄」
テーマは深刻なんだけど、ジョニーデップの持ち味の出た、面白い映画だった。
どうでもいいことだけど、昔からなぜか、
ジョニー・デップのことをしょっちゅう、ジョニー・ディップと言い間違えてきた。
これは、バングラデシュのことを、バングラディッシュと言い間違えるより恥ずかしいことだと思っている。
そのジョニーデップが写真家ユージン・スミスを演じる?というのが、
パイレーツオブカリビアンのイメージがこびり付いた身には全く想像がつかない。
興味本位で観に行ったら、本人としか思えないユージン・スミスぶりに、おお、と感動してしまった(あったことはないけど)。
ユージン・スミスのことは、というと
この映画を見るまでほとんど何も知らなかったので、どういう背景があって、あの写真が生まれたのか、垣間見られてちょっと感銘を受けたりもした。
映画で描かれているユージン・スミスは、アル中で薬中。過去のいろいろで、メンタルをやられて写真家としてのモチベーションがどん底にあった頃のユージン・スミスだ。
一方、フォトジャーナリズムを標ぼうしたものの、売上が上がらず、次第に、魂を売るかのような大衆迎合的な記事や広告を載せ始めた、落ち目の写真誌「ライフ」が背景として描かれている。
ピューリッツァ賞を夢見て起死回生を図るべく、次の目標に選んだテーマが、当時、世界のあちこちで問題化し始めた公害だった。
当時、すでにMINAMATAの名は世界でも、
日本の辺境の地で奇病だの猫踊り病だのと言われ、長い間、対応がなされず蓋をされ続けてきた公害として知られていた。
この映画は、写真家として再起を図るユージン・スミスと逆転ホームランを狙う写真誌が、水俣病に目を付けるところから始まる。
いやー、こういう不純な動機、構図。なかなか良いと思う。
水俣の記録ドキュメンタリは、これまでも土本典昭やNHK、いくつかみたことがあったけれども、この目線はいままでなかった。
この映画の見どころはなんといっても、ユージン・スミスの写真家として、親としての葛藤を描くジョニーデップの演技。
日本にきたものの、途中でやる気をなくして投げ出してしまい、大切なはずのカメラまで現地の少年にあげてしまうシーンとか。
ただ、残念でならないのは、ロケ地。
違和感があったのでググったら、なんと日本ではない。観終わったあとに読んだ町山智浩のコメントによると、セルビア・モンテネグロなのだという。
どうりで、海のシーンが逆光でぼんやりしているものが多かったわけだ。
漁民も、漁民たちが扱う魚も、明らかに違和感ありまくりで、端的に貧相だった。違うだろ。。もっと豊かな海を描いてほしかった。
あと、土本作品へのリスペクト、というのもひそかに注目していたのだけど、
まあ特にないのかな、という印象だった。
過去の記録映画を観ていれば、モデルが誰なのか、すぐにピンとくる。
ここはやはり、あれだろう、船頭小唄だろう、と思ったのだけど
そのかわり、ユージン・スミスになついて、カメラに興味を示し、撮って遊ぶ天真爛漫な少年が描かれている。
しかし、考えてみれば、船頭小唄なんぞ奏でようものなら、そのメッセージ性が強烈すぎて、
物語を邪魔してしまうだろうから、日本の観客向けにはむしろないほうがいい、ということかもしれない。
映画のクライマックスは、水俣病の歴史で欠かすことのできない、大きな事件である、チッソ株主総会。
そこからの流れはとてもテンポがよく、裁判によりチッソが補償を決定するまでの激動の動きが、
ユージン・スミスのもっとも有名な写真である、「入浴する智子と母」の撮影シーンを織り込んで進んでゆく。
國村隼演じるチッソ社長が人間味があって、いい味を出していた。土本作品など過去のドキュメンタリ映画ではなかなか見ることのできなかった加害者の視点、被害者と向き合い補償を決断するチッソ社長の描かれ方は映画ならではであり、圧巻と言わざるを得ない。
見事な演出だと思う。
NHKアーカイブスでも視聴できる有名なチッソ株主総会は、1970年。
スミスが乱闘に巻き込まれて負傷した事件は翌年の東京本社での事件なので史実とはちょっと違うが、
映画は、1973年、チッソが補償を決断し、川本輝夫(映画では真田広之演じるミツオ)が裁判での勝訴をかみしめるところで終わる。
その後の水俣病の動きはわずかにエンドロールで触れられているに過ぎない。
この映画は、ベースの設定が雑誌ライフの復活とユージン・スミスの再起というテーマを背負っていたため、
チッソが責任を認め、補償に応じる、という、ここで終わりになるのは、それはそれでエンタメ的な収まりどころ、なのかもしれない。
しかし、現実の水俣病の歴史は、ある意味、まさにこの裁判勝訴と、それに続くチッソの補償協定とを契機に、
チッソVS被害者団体という構図から、経済優先で被害を黙認する行政VS被害者という構図に大きく変化してゆく。
この映画が第2幕の終わりだとすれば、第3幕はスーパーヒーロー不在の、果てしなき国との闘いだ。
チッソの社長が除去された水をコップで飲んで見せたことで有名な、有機水銀除去サーキュレーター。
効果がないのを知りつつ黙認してきた通産省を筆頭に、高度経済成長を錦の御旗に被害に蓋をし続けてきた行政の悪業が明らかにされてゆく。
最終的に国の規制権限を行使しなかった責任が最高裁で認められたのは、それから四半世紀後の2004年。
さらに一方で、1973年の被害者の勝訴判決は、チッソの患者への補償の契機となったものの、その補償協定そのものが、地域社会の新たな分断の出発点ともなった。
補償をするためには、患者が症状によって定義される必要があるのは自明の理だが、補償協定の1600万円を受け取るに値する症状という形で定義・整理されてしまったのだ。
そこに絡んでくるのが厚生省と当時の環境庁だ。国の定める、公健法上の患者認定基準が、チッソと患者団体との補償協定の要件に連動してしまったのだ。
どういうことかというと、国は広範囲に患者認定を推進するため、公害健康被害補償法により水俣病被害者の認定制度を創設したが、
そこで認定された被害者は、73年に本来は一部の患者団体と締結した補償協定の適用を受けることが認められ、1600万円を受け取ることができるようになる、という仕組みだった。
しかし、1600万という高額の補償が、結果的に、チッソの補償能力を超え、被害者認定の足かせとなってしまう。取りこぼされた多くの被害者が今日に至るまで苦しんでいる、というのが、
映画のその後の世界なのだ。2004年に最高裁が被害者の要件を国の認定基準より緩く認定した、にもかかわらず、だ。
そして国の重要産業である化学工業、そしてチッソの賠償破産を食い止めるため国や県が金融支援をし続ける、という構図がこの映画の後に待ち構えている世界だ。
国は当然、実態調査、疫学的調査に消極的で、というか一度もなされたことがない。
その意味では、映画のエンディングシーンである勝訴判決は、実は新たな闘いの出発点ともいえるのが水俣病の歴史だ。
そのことを思い返しながら、映画の話に戻ると、この映画の残念なところは、以下の点。
・風景が日本でない、不知火海が見えない、漁民がいまひとつリアリティがない
・写真家、出版社、一部の被害者闘争のリーダーという限られた構図で、実態解明に尽力した熊大や問題を放置した行政が出てこない
・だから、なぜ原因企業が折れて補償に応じたのに問題が解決しないか、みえてこない→多分世界中の公害で類似のことが起きているだろう。
・エンドロールで見せている世界の公害にリアリティを与えるためにはやはり行政の視点をどこかに織り込まなければならなかったのでは。
ただ、だからといってつまらない映画では決してなかったし、満足感は高かった。みようによっては、セルビア・モンテネグロにしちゃあ頑張って日本の漁村を描いた、ともいえる。
ジョニーデップのクズっぽいキャラは最高に楽しめたし、撮影に至るまでの信頼関係の醸成など背景がみえたのは、この映画の見どころだ。
(追記)
いやじゃありませんか 軍隊は
カネのお椀に 竹のはし
仏さまでも あるまいに
一ぜん飯とは なさけなや
ご存じ「軍隊小唄」である。政治的な主張はさておき、よくわからない箇所がある。「一ぜん飯」とはなにか?
調べてみると、仏前に備える通夜の枕飾りとして、一杯盛り切りの食事を置くことに由来する。死者のこの世との別れの食事である。そして、米を食べるときには一杯だけだと仏前の食事を想起させて縁起が悪い。よって、少量でいいのでお代わりをする、とある。
自分は驚いた。そんな話など初耳だったからだ。箸を茶碗に立ててはいけない「立て箸」なら知っていたが。
六十代の両親に確認したが、この風習にはなじみがないそうだ。しかし、「軍隊小唄」が流行していた以上、こうした風習がある程度広がっていたはずである。