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2020-09-13

ひきつる笑顔呪い

写真を撮られるのが嫌いだった。

幼い頃の写真はたくさんあるが小学校に上がってから写真はかなり少ない。





小学校入学入学した。

ピカピカのランドセル可愛い洋服

長い髪の毛をハーフアップにして一番可愛いのは私だった。


1年1組出席番号は20

隣の席の出席番号21番はやんちゃそうな男の子だった。


デメキン


顔を合わせた途端言われた。

驚きすぎてまさしくデメキンのように口をパクパクさせるしかできなかった。

私は目が大きくむしろそれが私のチャームポイントだとすら思っていたのに、横の席の彼はいたずらに笑いながらそう言ったのだ。

褒めているわけではないのは明らかだったし、「ブス」と暗に言っているのもよくわかった。

他人からそんなストレートな悪意をぶつけられたことのない私にはとても衝撃的な小学校デビューの日だった。





その日の夕食時デメキンからかわれたことを家族に話した途端


「アッハツハッハッハッハッハ!!」


と大きな声で母親が笑った。


デメキン! デメキン! アッハッハ!」


何なら慰めてもらうつもりだった私は呆気にとられた。


あんた目が大きいもんね、確かに似てるわ」


一通り笑い終えてから母はそう言った。





その日から学校でも家でもデメキンと呼ばれる日が続いた。

そのうちに学校では隣の席の男の子デメキン以外にもストレートに私をなじるようになり、家ではまだ幼い弟までもが私をデメキンと笑いながら呼ぶようになった。


私はブスだった。

父は毎日のようにカメラを構えて私達姉弟写真を撮っていたが、ブスな私を撮られたくないのでそのレンズからも逃げるようになり次第に父はカメラを構えなくなっていった。





そんなことをしているうちに思春期となり、ますます自分の顔が嫌いになっていった。

クラス可愛い子と比較していか自分がブスかを考えるようになっていた。


ブスだから写真は集合写真以外に写ろうとしなかった。

その結果『カメラの前で笑う方法』がわからなくなり、集合写真にはひきつった顔の私がいた。





小学校卒業して中学校入学した。

ブスだから着ていなかったスカート制服から着ることになった。

ヒラヒラのプリースカート可愛いな。

でもブスが可愛い格好したいなんて滑稽だ、恥ずかしい。


入学式に1枚だけスナップ写真を撮った。

親友とのツーショット彼女の親が撮ってくれた。





しばらくしてその写真親友が焼き増ししてくれた。

家に帰って封筒を開けると満面の笑みの親友の横にブスがひきつった笑顔とも言い難い顔で立っていた。


その写真を見た母親


あんちゃんと笑えないの? いつも引きつってるよね」


と冷やかした。





極力写真を避けて生活し、大学生になった。

学生証についている証明写真は目も当てられない程にひどかった。

学内では学生証に電子マネーを入れて買い物をするのだが常に学生証は裏返しでピッと決済していた。





大学生4年生の春、彼氏ができた。

こんなブスのことを毎日可愛いと言ってくれた。


髪の毛を切れば「その髪型も似合ってるね、可愛い


メイクを少し変えただけで「メイク変えた? 可愛いね」


服を買いに行けば「これが好み! 絶対可愛いよ」


何をしてもしなくても可愛いと言ってくれた。

毎日のように私を撮って、笑って笑って! この顔可愛いよ、と写真を見せてきた。





次第にブスは勘違いしてメイクファッション勉強し始め、自撮り彼氏に送るほどになった。


スマートフォンに写る自分の姿は可愛かった。





大学卒業にあたり、せっかくだから記念写真を撮ろうと母親提案してきた。

プロメイクしてもらって袴を着た。

美容院の大きな鏡に写る私は可愛かった。



「こっち見て笑ってくださーい!」


写真館でアンティーク調の椅子に座り、カメラの前でニッコリ笑顔を作った途端


「無理して笑わなくていいのに」


と笑いながら母親が声をかけてきた。

撮影が進む中、引きつってるよ、自然自然に! と常に母親声援が聞こえていた。


卒業記念の写真にはブスが写っていた。





それから10年以上経った。

私の膝にはようやく首の座った娘とイヤイヤ期真っ只中の2歳の息子がいる。


「みんな可愛い!」


そう言ってスマートフォンを構えて連写をしているのが夫だ。





毎日のように家族写真共有フォルダには可愛い笑顔の私と子どもたちがアップロードされている。

そして時々、いい笑顔の夫の写真も。

2020-09-02

そもそも教免法に「わいせつ行為」の規定なんてねーよ

はてなーはこんな釣り気味の記事に引っかかってないでちゃんソースをチェックしような。

はてなブックマーク - 「わいせつ教員の免許再取得を5年に延長」案に異論…文科省は一体何を守ろうとしているのか(FNNプライムオンライン) - Yahoo!ニュース

この記事によると、教員による児童生徒への性暴力が深刻化している事態を受けて文科省が、わいせつ行為教員免許を失っても3年経てば再取得可能な教免法を改正し、制限期間を5年に延長する”規制強化案”を検討しているという。

はい、ずいぶんと持って回った書き方ですね。どういうことかっていうと、教免法には「わいせつ行為」の規定なんてないんですよ、元から

第十条 免許状を有する者が、次の各号のいずれかに該当する場合には、その免許状はその効力を失う。

一 第五条第一項第三号又は第六号に該当するに至つたとき

二 公立学校教員であつて懲戒免職処分を受けたとき

三 公立学校教員地方公務員法昭和二十五年法律第二百六十一号)第二十九条の二第一項各号に掲げる者に該当する者を除く。)であつて同法二十八第一第一号又は第三号に該当するとして分限免職処分を受けたとき

2 前項の規定により免許状が失効した者は、速やかに、その免許状を免許管理者に返納しなければならない。

第十一条 国立学校公立学校公立大学法人が設置するものに限る。次項第一号において同じ。)又は私立学校教員が、前条第一項第二号に規定する者の場合における懲戒免職事由に相当する事由により解雇されたと認められるときは、免許管理者は、その免許状を取り上げなければならない。

2 免許状を有する者が、次の各号のいずれかに該当する場合には、免許管理者は、その免許状を取り上げなければならない。

一 国立学校公立学校又は私立学校教員地方公務員法第二十九条の二第一項各号に掲げる者に相当する者を含む。)であつて、前条第一項第三号に規定する者の場合における同法二十八第一第一号又は第三号に掲げる分限免職事由に相当する事由により解雇されたと認められるとき

二 地方公務員法第二十九条の二第一項各号に掲げる者に該当する公立学校教員であつて、前条第一項第三号に規定する者の場合における同法二十八第一第一号又は第三号に掲げる分限免職事由に相当する事由により免職処分を受けたと認められるとき

3 免許状を有する者(教育職員以外の者に限る。)が、法令規定故意違反し、又は教育職員たるにふさわしくない非行があつて、その情状が重いと認められるときは、免許管理者は、その免許状を取り上げることができる。

4 前三項の規定により免許状取上げの処分を行つたときは、免許管理者は、その旨を直ちにその者に通知しなければならない。この場合において、当該免許状は、その通知を受けた日に効力を失うものとする。

5 前条第二項の規定は、前項の規定により免許状が失効した者について準用する。

わかる? 具体的に「子供へのわいせつ行為」を罰する規定なんてどこにもないの。

抽象的に「教員がとんでもない不祥事をしたとき」には免許を取り上げることができ、その「教員のとんでもない不祥事」には飲酒運転とか万引とか部活児童を殴って負傷させたとか学外で痴漢したとかと並んで学内児童に性暴力を振るったというのが含まれますよ、という話。

子供乱暴したのに5年で済むのか! と言って再取得可能な年限を引き上げたら、別に子供を傷つけたわけではない飲酒運転教師万引教師かに差し支えが出ることになるけど。

飲酒運転万引場合でも永遠に免許取れないようにしろ、とはまさか言わんよね? 再犯率とか被害者安全とか関係ないもんね。

ちなみに、これって小学校とかだけの話じゃないからね。高校教員も含まれる法だから

まり、既婚者の教員17歳高校生と合意の上で性行為を行い、結果として懲戒免職処分を受けて失効した場合もこの規定適用される。

これを、10の子供をトイレに連れ込んでわいせつ行為をはたらいた場合と同じように永遠に免許を再取得できないようにしろ、というのは不合理極まりないでしょ。

やるべきことは、今の大雑把な免許失効規定見直しなんじゃない? 職務を利用して子供に対して性的暴行を行った場合、みたいな条文を新設して、そこだけ再取得を不可能にするか再取得までの年限を長くするみたいな解決策はありえると思う。

逆にそこを切り分けられないやつが議論している限りは現行の3年を堅持すべきって主張するね。万引やら不倫やらの社会復帰に3年というのは妥当な期間だと思うものチャイルドレスターとばっちりでそんなホイホイ引き上げられてたまるかよ。

追記

教員以外にも仕事はあるんだから理由はなんであれ免許取り上げられた人は学校戻ってこなくていいよ。性犯罪だろうと万引きだろうと。

いや最終的に不祥事の大小関係なしに一律汚れた教員永遠に追放したいってのが世の要求では……? なんやかんや最終的にみんなが目指してるのそれでしょ。

不祥事の大小はどうあれ教職に復帰させるな」というなら最初からそう言うべきで、「わいせつ行為再犯率が高い」とか「小児性愛者を子供接触させるな」とかそんな理屈微塵も関係ないやんけ。

ここで問題にしてるのは、まるでわいせつ行為ピンポイントで罰する規定があるかのごときミスリーディングな書き方と、それにホイホイ釣られるはてな民であって、つまり教免法でどんな規定がなされているか理解せずに論を立てていることなわけ。

「5年は短すぎる」って言ってた人たち、どう考えても元々の規定性犯罪以外も含むものであるって把握してないでしょ。そこが問題なんだよ。「性犯罪を起こして免許が失効した場合の再取得までの期間が5年と規定されている」と「不祥事を起こして免許が失効した場合の再取得までの期間が5年と規定されていて、そこには性犯罪者も含まれる」はまるっきり別の話でしょ。実際は後者なのに前者と勘違いして叩いていた人たちは恥を知るべきって話。

量刑に合わせりゃいいのにね。そして児童虐待や性犯罪の罰を重くすれば自動的教員にもなれなくなる

量刑と言われても、犯罪じゃない行為でも懲戒免職対象になるんだけどそういう場合はどうすればいいの? 失効の翌日から再取得を認めるべき?

たとえば、「児童の母親と何度もセックスしていた校長」が懲戒免職処分になってるけど、当たり前だけど大人同士が双方合意してセックスする行為自体はなんら刑事罰対象にはならないからね。

教員不祥事といっても、そこには犯罪であるもの犯罪ではないが教員品位を損なうものが混在していて、現行の教免法はそれをまとめて処分する規定になっているわけ。「犯罪とそれ以外は分けろ」というならわかるけど、ひとまとめに「量刑と連動させろ」と言われても「無理です」としか言えない。

スマートでエレガントな解決策を提案してくださるのは実にけっこうなんだが、頼むから現在どんな条文になっているか把握した上で語ってくれ……

??? 「万引やら不倫」も含む条文になるかは、立法テクニカルな話で、そこは現時点では関係ないよね。よっぽど切り離せない理由があるか(ある?)、馬鹿が条文を書かない限り、そんなことにならないじゃん。

からさ、元のFNN記事ではどういう改正案が検討されているかからないじゃん。「わいせつ行為教員免許を失っても3年経てば再取得可能な教免法を改正し、制限期間を5年に延長する”規制強化案”を検討している」っていう文章それ自体ミスリーディングなんだから。これ、どういう意味文章だと思う?

わいせつ行為教員免許を失っても3年経てば再取得可能な」という部分は、FNNがくっつけた形容詞なの? それとも文科省が本当にそこをピンポイント問題にしているの?

文科省のねらいは、「教免法を改正して免許再取得の制限期間を(現行の失効規定を維持したままで)5年に延ばそうとしている」ということ? それとも、「教免法を改正してわいせつ行為教員免許を失った場合制限期間を5年に延ばそうとしている」ということ?

そもそも児童へのわいせつ行為処分するための独立した規定存在しない」状況で、「わいせつ行為教員免許を失っても3年経てば再取得可能な教免法」なんて書くのは、間違いではないけどどう考えても誤解を招く書き方でしょ。これは誤解を誘発することを狙って(つまり単純な制限期間の延長問題性犯罪問題すり替えて読者に理解させようとして)やってるの? それとも言葉足らずでこういう表現なっちゃっただけで本当に文科省わいせつ行為に的を絞って5年に延長しようとしているの? そこがわからなければ是非を論じる以前の問題じゃん……

条文がないので推測でしかないですが、免職事由によって処置を分けるような立法が困難な理由があるのかもしれませんね。例えば学校側による恣意的運用がなされた場合の検知が困難とか

逆でしょ。事前に細かく「こういう場合はこういう処分」と決めてたら、「どう考えても大問題なんだけど規則に書いてないか処分できない」という事例が発生し得る。それを防ぐために、つまりある程度恣意的免許を失効させられるようにするために処分を分けてないんだと思うよ。

2020-08-28

院試落ち 教授からは才能がないと言われた23高学歴童貞運動音痴コミュ障子ども部屋おじさん

23歳がおじさんに該当するかどうかはこの日記主題ではない。

この日記は似た境遇経験した方々を探したいという思いと

自身の半生を振り返りたいという思いからつづる日記である

先日私は大学院入学試験に見事に不合格となり、春からの進路を失った23である

まずは現状をつづりたい。

東大京大には及ばないもの世間一般から高学歴といわれても差し支えのない大学

化学系の学部入学し、その後一度の留年を重ね、

卒論以外の取得単位を得たのち自大院試を受け落ちてしまった。

その後、院試の筆記の結果やいままで5年間の期末考査の出来などから

講義にはすべて出席し提出物もすべて出しているにもかかわらず筆記試験の点数が悪い。真面目なのはいいことだけどこの分野は向いていないと思う。就職した方がいい」

アドバイスを受けてしまった。

次は、大学入学後5年間は化学以外の勉強インターン等のその他自身にとって有益となる活動を一切せず

滑り止めとなるような院試を受けずに油断していた私がこれから何をすべきなのか

自身の半生を振り返ることで考えていきたい。

小学生の時、私は体が弱く、そしてどんくさい奴だった。運動神経だけではない、会話の流れが早くなればついていけなくなるような頭の回転という面でもどんくさかった。

ただし、家庭環境は非常に良かった。

小学校6年間通して進研ゼミ(発展ワーク等のオプションを含む)を受講し、中学受験を控えた5,6年生の時には塾に通わせてもらったこともあり

学業で大きく後れを取るようなことはなく、

自身の頭の回転の遅さを自覚することなく育っていった。

そして、中学受験、私は志望校に落ち公立中学へ進学することになる。

(一つ言い訳をさせてもらうと、一般的な私立中学を受験したのではなく、公立中高一貫校のみを受験したため、滑り止めといわれるような学校受験していない)

中学校では、受験に落ちた悔しさをバネにし勉強をしたため、かなり上位の成績を維持することができた。

今思うと学業において周囲の人間に頼りにされていたあの頃が最も自己肯定感に満ちていたように思う。

しかし、高校受験、再び第一志望に落ちてしまう。今思うと悔しさをバネにできたのは最初の1年間で残りの2年間は惰性で勉強をしていたような気もする。

ただ、それでも曲がりなりにも周囲の人間よりも勉強をしていたこともあり名のある進学校の一つには合格することができた。

高校の時は文武両道を目指し運動部にも所属

生来身体の弱さから部内での活躍底辺であったがそこそこ真面目に取り組んだため楽しかった)

したが、

その後あろうことか娯楽を覚えた私は自身長所である学業の成績を大きく落とすこととなる。

その娯楽とはオタク文化なのだが、自身集中力を削ぐ一番の原因は、当時大きく普及したスマートフォンオタク文化と大きく相性が良かったことのように思う。

中学の時とは違い名のある進学校、1年という月日は周囲の人間自分学力の差をどうしようもないほどに引き離すには十分すぎる時間であった。

そのことに2年生時に気づくも3年に進学するまでの一年間では埋めることはできず、少し勉強に力を入れた程度では

その差をこれ以上広げないことしか出来なかった。

ここで私の当時の教科ごとの成績を確認したい。

英語、最も大きく成績を落とした科目、またどの大学を志望するにも必ず受験する科目でもあり、そして当時から現在にかけてまで私を苦しめる存在

数学中学当時最も得意だったが、平均以下にまで落ち込んでしまう。その後も学内平均を行ったり来たりを繰り返す。

国語中学の時から苦手であり、膨大な文章を読むと眩暈がするため真っ先に大学受験から切り離した。今思うとこれが不得意であることが頭の回転が遅い一番の証明であるかもしれない。

理科物理化学生物地学のなかで唯一化学けが学内上位の成績をとれた。これが化学系の学部を志望する要因となる。

社会センターのための倫政以外の勉強は一切しなかった。

化学しか得意科目がない以上理系に進学する以外道がないように思い、進学校であることも相まって国立理系志望となる。ただし成績不振であることから東大京大は目指せなかった。

3年生、国立理系志望、東大京大でなくとも名のある大学第一志望にしていた私は自身の成績では到底足りないことを自覚夏休みの40日間、22時就寝3時起床の生活サイクルを維持しながら合計600時間勉強を達成する。このモチベーションを維持したまま大学受験突入したこともあり見事現役で第一志望に合格。今思うと当日の入試問題たまたま得意分野が出題される、苦手分野は誰も解けないくらいの高難易度などいくつもの幸運が重なった結果であり、

担任教師からですら浪人すると思われていたが、合格した。

人生で初めて第一志望に受かった瞬間だった。

しか第一志望に受かったからと言って

その後にすべてうまくいくわけではない。

大学入学後、5年間、この期間を振り返るとあまりにも無為に過ごしたと言わざる負えない。

大学生たるもの学業以外の活動も行うが、アルバイトはどれも長続きせず、サークル活動では自身のどんくささから後輩から説教を受ける始末。

何も成しえないがしか学業においても多くの必修単位を落とし留年。1年後卒論以外の卒業単位をかき集めるも院試には落ちてしまう。

教授曰く、「講義にはすべて出席し提出物もすべて出しているにもかかわらずあらゆる筆記試験の点数が悪い。真面目なのはいいことだけどこの分野は向いていないと思う」

とご指摘を受ける。また、TOEICの点数も非常に悪く驚くことなかれ400点以下。救いようがないのは事実

院試の結果が出た際、自身の親からは「大学受験の時ほどの必死さがなかった。」と指摘を受ける。

自分もっと頑張れば院に行ける人間なのか。それとも教授が言っているように向いていないのか。

上記のように自身が今まで頑張ったことが勉強しかない人生。その勉強ですら院試落ちという結果に終わってしまった。

就活、ほかの大学院受験など選択肢は無数にあるがどれを選択するのが自分にとって最善なのかわからない。

2020-08-23

既卒就活現実

今、私は二年目で大学院中退して、既卒生として就活をしている。学部大学院も(2chでどういわれているかはともかく)比較知名度の高い大学だ。受験勉強したことがない人でも知っているような大学所属していた。

大学院中退した理由は大量にあるが、誤解を恐れずに言うのであれば、同意なく、しかコロナ関係なく親に学費を使いこまれたことに起因する。中退に至るまでの経緯でまた記事が2本は書けるぐらいには内容が濃いので、ここでは取り合えず割愛することとする。ただ、私の中退が親に学費を使いこまれいたことに起因することは、断言できる。

さて、既卒生として就活している私だが、まるでエントリーシートが通らない。コロナ禍の影響もあるのだろう。ただ、それを抜きにしても所謂大企業なんていうところには見向きもされない。中小企業でさえほぼ通らない(ただ、一定選り好みはしているが)。

企業にも勿論嗜好があるのだろう。それは当然のことであるし、理解共感もできる。

が、私の今の就活を顧みると、面接で落とされるのはともかくとして、書類で切られまくっていると疑問しか浮かんでこない。一部上場企業の中にも、面接まではこぎつけてくれる企業もあるにはあったが、1つだけであった。

記事は、私のこの疑問を延々と書き綴るものである。良く言えば「私の考え」ではあるが、実態は「恨みつらみ」でしかない。ただ、やはりこれを不特定人間には知ってもらいたい。このように強い思いとそれなりに過酷経験をしている人間でさえ、既卒となると就活で苦労するというのを知ってもらう必要もあると考えている。

からこそ、こうして記事として起こしてみた次第だ。

さて、まずは私の経歴や就活経験から話したいと思う。

私は、偏差値50少しの高校から、「有名大学」と世間で言われる大学に現役で入学することができた。そして、これまた現役で卒業をし、そのまま大学院へと進んだ。大学院では、英米(のどちらか)の大学院へ一か月留学し、研究もした。

中退という部分を隠して読めば、比較キレイ学歴をしていると思う。

ただ、先述の通り親に奨学金を使いこまれ中退をすることとなった。奨学金生活をしていたし、親の支援ももう期待できないことから、取り合えず就職しようという段取りとなった。

就活経験について、実は全くないという訳ではなかった。学部時代友達ウェブテスト替え玉しまくり(10社弱分は受けたと思う)、ES面接の準備・添削を手伝うこともあった。時にはESを全くのゼロから作ることもあった(!)。当然、私はその企業に応募もしていないし、興味もなかった。

そして、当時は大学院に進学する予定であったので、私個人自発的就活をすることはなかった。

さて、私は無事に大学院合格通知を得ることができた。確か9月10月であったと思う。経緯は割愛するが、大学院進学ではなく就職する方がより良い選択ではないか、と思わざるを得ない状況となった。

そういう訳で、秋採用も終わりかけている10月頃になって、就職活動を始めた。

ウェブテストについては、替え玉した人の分が全て通っていたので、無対策でも問題ないだろうと思い特に勉強はしなかった。

結局、私がした就職活動は、企業分析業界分析自己分析ES推敲であった。その結果、どうやら私は金融に向いていそうだということとなり、マザーズ上場している中規模投資銀行三井住友銀行に応募してみることとした。

三井住友銀行は、私がウェブテストの期限を勘違いし、人事に無理をいって期限を特別に延ばしてもらった上で完了させた。このような経緯で許してもらったウェブテストであったこから、結果に関してはもういうまでもない。

投資銀行については、説明会選考会をやるからリクナビだかマイナビだかから予約してね、という具合だったので、早速応募をしてみることとした。

さて、投資銀行については、私の履歴書が余程面白く映ったのだろう(「債権の回収」や「担保」という単語飛び級入試での大学院合岳経験があることを多いに盛り込んだ)、人事部との一次面接私の履歴書に打ち出された単語面白いだの、ペットは何を飼っているのか、という悪く言えばくだらない話で終わった。二次面接は、確か営業部長と執行役員だかとの面接だったが、面接というよりは議論に近かった。コンサルでよく聞かれるケースに基づく議論のような雰囲気だ。「君の理解は間違っている」とドストレートに言われるも、「いえ、私の理解はこのようなもので、そのようにお考えになったのは貴方の誤解です」というようなことを言い返していた気がする。よくあんなこと言えたな、と今では思う。議論だったとしても、こんなこっ恥ずかしいことをプロに対して言うべきではなかったと強く反省している。

そんなこんなで一週間しないぐらいの内に、「どうぞ最終面接へお越しください」と言われた。就活をほんの1か月したぐらいであったが、会社勤めは性に合わない、資格を取ってプロになろう(特定のため、ぼかした表現にはしている。この資格を取り、こういうキャリアパスを経よう、という設計は既にしていた)、と決心していたので、選考を辞退することとした。少し申し訳ない気持ちがした。

と、学部時代比較的わかりやす就活をできていたので、既卒就活既卒というハンディキャップを除けばそこまで大きな負担にはならないだろうとかなり楽観的になっていた。

既卒就活の結果は、冒頭に書いた通りであるそもそもエントリーシート自体が通らない。コロナ禍の影響もあるであろうが、それでも何かおかしいと直感的に感じる。

学部時代より、より入念にES作成するようにしていた。就活ハウツー本を5から6冊程は読みまわしながらESを作っていたと思う。それでも通らないのだ。ウェブテスト学部時代経験からすると、落ちる要素がない。替え玉当時、私が受けたメガバンクや野〇證券などが通っていたので、決して正答率も低いはずではなかった。

他に落ちる原因は何か。ESウェブテストで抜かりなくしていたのであるなら、何か。年齢か。新卒切符24歳まで有効と聞いていたので、年齢も問題はない(はず)。そうすると、やはり既卒という略歴ではないか

さて、既卒という略歴が問題ではないか、ということで早速情報収集を始めた。結論から述べるが、やはり既卒という略歴が多大であるように私は思う。

というのも、まず、既卒生の就活記事ハウツーといったものが極めて少ない。結局、「この就職エージェントに投げてね☆」というものに落ち着くものか。「情報収集を徹底的にやれ、新卒の倍は動け」という根性論に終始するものばかりである既卒生の就活成功談を見ない。

そして、「所謂大企業であっても、既卒は受け入れている」という記事を見かけるが(私に言わせればそんなこと就活を始めた当日に知ったこである)、「既卒大企業就職できた」という記事は見ない。クラシックオタクなので、「ググる能力」に関しては絶対的な自信があるが、やはり記事は見なかった。「既卒就職できたよ!」という記事もほぼ見ない。

勿論、私もバカではない。猫の手を借りるぐらいのことはする。就職エージェント4社程を利用して、求人を紹介してもらったが、明らかにおかしものばかりであった。例を挙げだすとキリがないが、ブラック企業といって差し支えないようなものばかりであった。中にはそうでないものもあったが、私の志望する業界職種でないことから断っていた。

話が右往左往して恐縮であるが、私は学部時代はかなり頑張っていた。

学業においては、学部上位5%以上の英語クラスを、90点以上で合格した。優や、A+、A、Sという風に評価されるものだ。英語に関してはスピーキングからっきしだが、リーディングリスニングについては比較的自信はある。今でもタイムズ紙ぐらいなら読める。

二年生の頃にフィールドワークを経て執筆した論文は、担当教授奨学金論文として推薦された。奨学金論文として推薦されるのは、優秀卒論を除けば、各学年2名までだ。極端な表現だが、私は学年で少なくとも2位の成績を得たということもできる。

ゼミについては、正課としてのゼミと、潜りとしてのゼミの2つを取っていた(勿論、両教授からの了承は得ている)。卒論では、その2つの領域にまたがる論文執筆した。担当教授からメタクソに批判され、時には(マジで)泣かされたが、結局、80点以上の評価単位を授与してもらえた。

学業に関してはこのような感じだ。基本的には単位だけ取れていれば良いというスタンスであったが、力を入れるべき部分ではきちんと力を入れて評価は取っていた。

課外については、私は文化系サークル所属して活動をしていた。大会では代表を二度務め、一つは四位、一つは二位へと入選している。可もなく不可もないとは思う。

役職には2つ就いており、1つは、企画系の役職の長に就き、もう1つは、サークル研究会の会長を務めていた。

サークル研究会長については、基本的に後輩の勉強指導をしたり、同期と議論をしたりがメインであったので、かなり楽しかった。正直、会長とは名ばかりのものであった。責任のある業務もほぼなかったと思う。

ただ、企画系については、一筋縄はいかなかった。まず、50名規模で開催する合宿を全て私一人で仕切った(相方はいたが、とんでもないポンコツだったので、仕事を一切振らなかった)。具体的には、合宿企画発案や、旅行会社ホテルとの交渉参加者を集めるための広報や、経理との予算調整などだ。経理が通帳を握ったまま飛びやがったので、家まで通帳を取り立て行ったりもした。夏休みに行う合宿であったが、冗談抜きで7月から9月半ばまでは、土日以外は永遠に合宿の準備をしていたと思う。テスト前日に宿の内見に行ったりもした(この時だけではあったが、役職関係なく同行してくれたK君には頭も上がらない。ありがとう)。

大変であったが、企画の発案や参加者の誘因等の難しさ・楽しさを得ることができ、なんだかんだとは言いながら充実感は感じていた。ようやく院試勉強に集中できる、と一息ついたものだ。

…というのも束の間、OBOG会の会長から10数年ぶりにサークルパーティーを行いたいとの申し入れが顧問を経てやってきた。何故会長じゃなくて俺にそのことを伝えたんだ、と同期に愚痴ったりもしたが、顧問曰く、「貴方と連絡をしていたからそのまま伝えた」とのことだった。当時は「俺に信用力があるからだ」と前向きに考えもしたが、2か月半程動き続けた身にひょいと投げていい申入れではないだろう、と大きく溜息をつきもした。

さて、このパーティーが非常に厄介であった。まず、OBOGに招待状を送らなければならないが、こともあろうに会員名簿の更新が15年程されていなかったのだ。直近の先輩方の住所や電話番号なんかも分からないまま、どうやって招待状を送るんだと頭を抱えた。開催が2か月後ということだったので、もう当たって砕けろの精神で「3年生の〇〇ですが、こういう下りパーティーをすることになりました。先輩からまた直近の先輩へとご連絡してもらえると助かります。参加を希望される方がいらっしゃったら、私にまでご連絡をするように併せてお伝えください」というメッセージ飛ばしまくっていた。完全にマルチ商法のそれと同じだが、時間がない以上仕方が無かった。名簿に残っている方でも、中には既に老齢で亡くなられていた方もいらっしゃったようで、カジュアルに連絡をすることもままならなくなってしまっていた。体力的にはそこまで大変ではなかったが、精神的にはかなりきつかった。

精神的にきつかったところに更に肉体的にきつい仕事が増える。名簿の更新をしながら、OBOG会にあったパーティー運営組織をOBOG会からサークルへと移譲したいと言われたのだ。何が分からないのが分からない状態から始まっており、そもそも相手はOBOGだ。「じゃあ昼飯食った後部室でね」が通用しない。逐一メールをしながら、何月何日、どこそこの店で打ち合わせをしましょう、という風にするしかなかった。苦学生バイトしまくっていた身としては、この打ち合わせ日時に合わせることがかなりしんどかったし、運営組織移譲に伴ってするべき後輩への引継資料作成が本当に苦痛だった。当然、在学生参加者を募るための広報もしなければならない。

このように働きまくっていた結果、十数年ぶりの開催であるにも関わらず、どうやら歴代最多数の参加者を得ることができたようだ。しかも、参加者の半数近くが在学生だったということで、企画をした私の誘因力を大いに褒められもした。結果は出せたと思う。数字だけでなく、これだけ頑張ってくれたのだから、ということで部室に設置してあるパソコンプリンターといった周辺機器一新してもらえた。大変有難かった。

さて、「どうだ、俺は凄いだろう」というエピソードをこんなにも書き連ねた訳だが、やはり当時は大学生なりにはかなり頑張ったと私は思う。このような経験や思いがあるからこそ、もっと挑戦をしたい。内定が難しいと言われている企業へ応募して挑戦もしてみたい。しかしながら、そもそもエントリーシート既卒からという理由で(私はこれが原因と考えている)切られるようであれば、どうしようもない。私は満足に挑戦すらできていない状況で諦めたくないのだ。そのような状況で不満のある待遇に甘んじたくはないのだ。

勿論、就活では上記エピソードをいわゆるガクチカなんていうものに盛り込んでアピールをする。就活構文と私は密かに呼んでいるが、「結論理由」「動機→行動→結果」といった構文も遵守した。多少は盛りはしているが、「やらされていたこと」を「やるべきだと考えた」と変換する程度のものだったし、面接でもこの点についてボロを出さなかったので問題はないと考えている。

成績も特別に良いというわけではないが、学内平均よりかはずっと高い。

ウェブテストESについても、学部時代に手伝っていた(というより最早やっていた/書いていた)経験から、突飛なことはやっていない。

でも、シンプル留年したとしても新卒でさえるならば、トンチンカンな奴でも内定を得てしまうのが非常に納得がいかない。彼彼女らなりに留年した理由付けはしているとは思うが、人事は恐らく見抜けないのであろう。

形式面では既卒より優れているというのが極めて不服である留学インターンであるならば経歴や職歴に書けるが、そのようなものが書けないシンプル留年であっても、新卒新卒である既卒には劣らない。

私は、大学を四年間で卒業し、大学院一年半勉学を修めた。学部在学中は勉学にも課外活動にも励んだ。

但、冒頭で述べた通り、私は親に学費を使いこまれ大学院を退学をせざるを得なかった。

それでも、私は形式的には新卒より劣っているのだ。同等ですらない。

新卒至上主義と私は読んでいるが、この点についても非常に疑問がある。また記事に起こしたいと思う。

この記事は、あくまで私の一個人の考えを知ってもらうことだけに価値がある。従って、読者がどのように思うかは勝手であるし、読者に思考さえしてもらえれば、私の願いは成就したと考えている。

特に就職をする予定でいる大学在学中の学生諸君は、是非一度自分キャリアルートについて考えてみて欲しい。貴方が思う以上に、新卒既卒という区別残酷ものとなっている。

2020-08-15

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

2020-07-28

anond:20200728000519

本館地下(自分がいた時)の方の学科教授が持ち回りでやってるよくわからない相談は雑な対応されて逆に心が傷つくぐらいひどいんだけど

保険センターのほうはちゃんとした人がいるからどんな相談でもきちんと受け止めてくれるよ

入学したときに大量に配られた書類の中に、困ったら悩まずとにかく相談に来て下さいって資料もあるはずだし

親に言われて就職強い機電系行ったけどクソほど興味ないとかそういうのはよくある悩みだと聞いたか

現状をきちんと話して、とりあえず休学とかで休んでみるとかだましだまし卒業までこぎつけるとか、次につなげる話もきちんとできるよ

あと学内カウンセリングはもちろん金かからいか

行く場所大岡山の保健管理センターね(今やってるか知らないけど)本館の方には行っちゃダメ

2020-07-26

卒論が書けない

Fラン地方大4年。タイトルの通り卒論が書けない。

年末提出の卒業論文で、ゼミの同輩は既に計画書を仕上げて調査に入っているのに、自分は未だに研究目的すらも書けないままでいる。

2週間に1度回ってくる進捗報告に向けて資料を仕上げて、教授に困った顔をされて、「今の研究目的にはこんな問題がある、研究根本に関わる問題なので、自分で改めてきちんと検討して」と言われる。言われたことについて考えて、資料を作る。ダメ出しが来る。また直す。ダメ出し。直す。ダメ出し。その繰り返し。

教授に言われた点について検討しなおすたびに研究の内容が微妙に変わっていって、教授にも「こいつは一体なにがしたいんだ?」と思われている感じがする。

今まで「自分でもう一度考えてみて」だったのが、ついに「先行論を急いで見直して」になった。

4年の夏、提出まであと半年タイミングで、先行論読んでって…………。優くて世話焼きな教授にそんなことを言わせるようなゴミみたいな資料を作ってしまったんだと、情けない気持ちになった。泣きながら資料作って、先行論も色々読んできて、それでもこの時期に到達すべき水準には届かなかった。

自分で言うのも変な話だが、学内では優秀な方だった。自分卒業論文を立派に書いて、晴れ晴れとした気持ち学内大学院に進学するのだと思っていた。

増田さんなら大丈夫」と色んな人に言われていた。でもきっと今、誰よりも卒業論文が進んでいないのは私だ。

研究って楽しそう、と思っていた。Fラン地方大にしか入れなかった時点で学者にはなれないだろうけれども、自分なりに課題を見つけて、それを追求できるんだ!とワクワクした気持ちで進級した。卒業論文こそ躓いているけれど大学勉強はとても楽しくて、大学院への進学を目指そうと決めたときも迷いはなかった。

まさか卒業論文すら書けないとは。学部卒業できるのかという心配をしなくてはならない程度の頭で、大学院進学なんて宣った自分傲慢さに吐き気がする。

ゼミの同輩に愚痴ってみても、「いや、増田なら大丈夫でしょ」と言われる。何も大丈夫じゃない。

卒業論文研究目的すらも書けない有様なら、もう大学なんて辞めてしまいたい。いやもう4年生になってしまったので、今更辞める訳にもいかず泣きながらゴミみたいな論文を書くことになるのだろうとは思うけれども。

以前に読んだ先行論を見返しているとき自分が数週間前の資料に書いていた問題意識と丸ごと同じことが書かれているのを見つけて、もう嫌になった。

いつ教授に「今のテーマは諦めましょう」「来年までかけてゆっくり頑張ってみませんか?」と言われるのか、あるいは呆れ顔で見捨てられるのか。夜になると、そればかり考えている。資料を読んでいると不安が膨らんで文字が頭に入らなくなる。資料作成していると死にたくなったり、大学辞めたいなと思ったりする。ここまで来てしまったら辞めないし、なんだかんだ死にたいと思うだけで死なないんだろうと思うけれども。

そこそこ大規模な調査が要るテーマなので、研究目的で足踏みすることが許されるのも残り1ヶ月くらいだろうと思う。時間猶予がクソほどない。

辛い辛いと言いつつも食欲はあるし睡眠も取れているから、私が辛いのはきっと甘えでしかない。私がこうしてクソ読みにくい愚痴を書いている間にも、みんなは卒業論文の準備をしているのだろう。結局その積み重ねだ。私はきっとインターネット愚痴を書き散らして、論文を前に「目が滑る……」なんて言いながら、真っ白なWordをどうにか埋めて、そしてまた振り出しに戻ることになる。その間にも皆は教授に指摘された点を直し、調査分析を行っている。差が開く。追いつけなくなる。自業自得。おわり。

書いたらちょっとスッキリしたので、また先行論を見直してくる。

破滅まで一直線だ。いっそ破滅したら心置きなく全部台無しにできるのにな~。

2020-07-25

大学の専門科目の講義日本語でやってくれ

大学院日本人教員による英語講義を履修しているが、苦痛なのでやめてほしい。

ここでは大学院の話をするが、大学を含めた日本高等教育グローバル化、あるいは英語化を推し進めようとする動きに対する不満を吐く。

筆者について

経緯

講義英語で行われる旨の通知を受けたときは「自分英語力だと講義の内容を理解する上で困ることはないだろうし、専門用語の語彙が身について得だなあ」などと呑気に考えていたが、今では「どうして優秀な教員講義日本語で受ける機会を奪われているんだろう」と考えながら講義を履修している。

現在講義形式

本来は対面で行う予定だった講義が、感染症の影響を受けて映像配信になった。誰もいない講義室で教員講義を行う様子を録画した映像学内システム配信されていて、それを視聴して受講している。また、講義使用されているPowerPointスライド(原則として英語)が資料として配布されている。ただでさえ今年度から講義英語化する必要があるのに、講義形式まで変わるとあって、教員対応に苦心されているように見受けられる。

このように講義形式が例年とは異なるのは事実だが、仮に対面で講義を行っていれば英語化した講義がうまくいっていたかというと、筆者にはそうは思えない。

問題だと感じている点

教員英語発音が致命的に下手

無礼承知で言えば、大半の教員が話す英語アクセントがめちゃくちゃで、聞いているのが苦痛になることもある。録画配信のおかげで聞き取れなかった部分を聞き直せるので、もし対面で講義が行われていたら現状よりも講義理解度が低かったかもしれない。

また、英語出身教員によって行われる講義もあり、それらを視聴していると講義の内容に集中できて安心する。意味がわからない。

講義の質の低下

教員が話す英語を聞き取るのに苦労するだけでなく、そもそも講義の内容が薄い。講義によっては、ある項目について説明しようと数秒間考えた挙句教員の語彙の不足によって次の内容の説明に移ってしまったりして、スライドに表示されている内容以上の情報が得られないこともある。仮に日本語での講義だったら詳細な解説や具体例による説明が得られたかもしれないと考えると胸が痛くなるし、本来得られるはずだった情報が得られないことがもどかしく、損している気分になる。

講義資料原則英語提供されているが、教員裁量スライド日本語版(おそらく講義英語化される前に使用していたもの)を配布してもらえることがある。また、基本的には英語講義を進めつつ、適宜日本語で同じ内容を解説してもらえる場合がある。とてもありがたいが、いよいよ英語講義を行う目的がわからない。筆者は教員英語練習に付き合わされるために学費を払って大学院に在籍しているわけではない。どうしても高等教育英語化したいのであれば、講義自体日本語で行い、講義資料英語にするくらいが妥当だと考える。

教員を責めるべきではない

そもそも教員が自ら進んで英語講義を行っているわけではないし、問題は(これも無礼だが)英語での表現力が十分でない日本人教員英語での講義を強いていることだと考えている。筆者はある言語講義を行うためには少なくとも日常生活で苦労しない程度の表現力が必要だと考えるが、これを唐突にすべての教員要求するのは無理がある。おそらくグローバル化を推進する活動を行うことで国から大学補助金支給されていると思われるが、教員学生がそのしわ寄せを受けるのでは本末転倒ではなかろうか。

おわりに

誤解を招きうるタイトルかもしれないが、筆者の英語力が不足していて講義理解できないか日本語でやってくれという趣旨ではない。

英語での表現力が十分な教員に関しては、英語講義をしてもらえるとグローバル化につながると考える。ただし、日本語での講義と同等の情報量が提供されないのであれば、無理に講義英語化することは教員にも学生にも苦痛を与えるだけなのでやめてほしい。もっとも、日本高等教育においてグローバル化を進める必要があるのかという根本的な問題存在する。

筆者にとって大学院に進学した目的研究活動であって講義の履修ではないが、それは本来提供される可能性があった日本語の講義よりも質が低い英語講義提供されることを正当化する理由にはならない。大学(院)での講義は各分野の優秀な研究から知見を享受できる貴重な機会だと筆者は考えているので、それを蔑ろにしてまで「グローバル化に取り組んでいる大学」という肩書きを得ようとすることに反対する。

2020-07-20

我が家にはネット弁慶の生きるのだけはうまい姉がいる。

面倒くさがりだが器用で、やる気がないだけでやれば学内10位とかに当たり前に入るような。

当たり前にファッションセンスがあって化粧うまくて、生活タイミングが合ったらリアルでウェイパリイベントに参加する(実際のウェイパリイベントは知らない)

引きこもりだが持ち前の器用さとアンテナの広さでアフィで稼ぎ、ごくたまーに就活して数ヶ月働いて、気分が乗ったら彼氏作って貢がせてる。

私が寝る時間スパスパタバコを吸い、ゲラゲラと笑いながら最近流行の(もう旬が過ぎているかも)麻雀アプリで遊ぶ。

私はというと青春全てを周りに追いつくためのマラソンに使い果たし、社会人になってメチャクチャ努力して胃に穴開けて発狂して精神病院にぶっこまれた。

医者カウンセリング(?)ですぐに知能検査しよっか。って言った。

結果重度の学習障害と発達、自閉が見つかり半年後には障害手帳が出た。

さらに診察時は過剰ストレス統合失調症適応障害、鬱の三冠だった。

今は少し元気になった。作業所というのに通ってる。

ありがたいことに、趣味でやってたもの仕事になり、支援を受けて仕事を受け続けたらきっと作業所卒業自営業者にでもなるのだろうな。

どうして同じ親同じ腹からまれてここまで格差が出るのかとたまーに姉に殺意が湧く。

だが悲しきことに、そんな私を20数年唯一否定せず、対等な人間として接してくれ、肯定してくれるのもまた姉なのだ

複雑である

2020-07-03

なんか国立大学図書館地元に帰ってきてる学生のために開放しろみたいな話を見たけど

そもそも普段から自分地元国立大公共図書館との連携で使えてるし、そういうのなくても大学うしの連携でほかの大学使えたりするし、

それが逆に今の状況で来館者が学内者とかだけに制限されてるって感じなんだけどなあと

そういう大学だと、普段制限されてる来館者を今の状況で制限をはずすって流れにはならないような気がしてしまう。もともと制限ゆるいから。

逆に自分の状況、普段はそういう図書館ごとの連携で広範囲図書館が使えてるのに今だからこそ使えないって感じ。

さらに言えば、私大でも地域開放してるとこあるし。普段なら。

東大理系院に行って、救われた話

Fラン私立大卒業後、しばらく資格職で働いたのちに、30歳目の前で東大理系院に潜り込んだ。

  

学部はド文系だったため、入試に受かるか不安だったが、あっさり受かった。

研究にはあまりついていけず微妙な結果しか出せなかった。

  

しかし、自分東大に行って救われたと思う。

大学院に進学した理由は、世界に対する絶望があったから。

働いていて、こんなもの世界なのかと、人付き合い含めて嫌になっていた。

  

理系に関して憧れがあった。技術人間は救われるんじゃないかと思った。

研究分野に関していえば、さら絶望が深まった感があるんだけど。

自分研究分野以外の方面での技術を学びまくった。

  

まず、入学当初に期待していた数学理論物理に関しては、少しガッカリだった。

東大数学科や理論物理科(数理科学院)の研究を眺めたが、これらが直接世界をよくするイメージイマイチわかなかった。

もちろん、カラビヤウだの、ヤンミルズだの、M理論だのはあまりからなかったニワカで語っている。

しかし、代数幾何や数え上げ幾何ルベーグ関数解析アインシュタイン方程式くらいは理解した。

もう少し勉強すれば深い感動はあったのかな?

  

一方で、予想していなかった分野では感動がたくさんあった。

情報幾何学、材料物性、光学計算化学といった、実学ちょっと先の分野が大変面白いと思った。

そのような研究を見聞きするのは大変楽しい

数ヶ月ごとに、これまでの人類刷新される成果がガンガン出てくる。

パワー半導体や、レアアース採掘電池エネルギー技術は、本当に2、3年でドンドン人類根本的に変わる発明実用化がガンガン出る。

このような分野を普通に理解できるようになったのは本当に楽しい。(別にこのくらいを楽しむ程度なら、東大行かなくても、youtube勉強とかでも最近はいいのかもしれないけど正直)

  

予想していなかった感動として、学内ベンチャーも凄かった。

こんなに東大生というのはチャンスがあるのだなと感動しっぱなしだったし。

当然それに答える技術ゴロゴロ東大研究室にはある。

  

正直、自分研究はうまくいかなかったが。

それなりに高価なパソコンシミュレーションしたり、

いわゆる最先端というか、未来を変えうる技術を少しできるようにしたくらいの成果はできた。

また、この分野の研究や成果をどうやって作るのかの知見も得られた。

  

自分は、社会人に戻ったが、あの日々の経験自分にとっては、「生きててよかった、世界は間違いなく変わる」ことを実感させてくれた。

普通に技術系のニュースを見ると、人類絶望せずにいられる。

技術が作る未来を見たいし、そこに、自分のようなブサイクで生きる価値のないキモい人間も生きていられる世界ができる気がするし、自分でも世界を作れると感じられるから

2020-06-30

大学に騙されたわ。学科名前変えてワイみたいなマヌケ釣りまくっててevilだわ。何でダムとか農業用水路勉強しなきゃいけないんだよ。教授趣味の押しつけで実習で学内を数時間歩かさせられるし。 天下りハゲは授業の内容が自分の好きな偉人について語ってるだけだし。何でお前の書いたクソみたいな読み物を買わなきゃいけないんだよ。毎年リタイア率15%以上って高すぎないか?毎年毎年みるみる学生減ってって草枯れる。ホントごみ

2020-06-02

https://anond.hatelabo.jp/20200601232235

アラサー自分で払ってた。

学内活動やらサークルやら学部内やら友達や知り合いは沢山いたけど、自分で払ってる人なんてほとんどいなかったよ。

それでなにが起こるかというと「惨めさ」。

周りが気軽に買えるもの自分は買えない。周りができることが自分はできない。

仲のいい友達から知り合いまで、自分との間で明確に貧富の差がある。

奨学金をもらわざるをえないから、その貧富の差は将来十数年~数十年続く。

あと、親に学費に払ってもらってる人のなかには親が苦労して工面してたり借金してる親御さんまでたかな。

個人的には親が学費を払う気がないなら大学へ行けなんて言うなって感じ。

ちなみに偏差値はニッコマMARCHあたりの大学

2020-05-31

人間リアルを教えよう

そこの人間諸君!上を見て羨ましいと勘違いしていないか今日はそんな誤ったイメージを正し、実際に人間の愚かさを教えよう。

人は上を見て劣等感を感じるタイプと下を見て優越感を感じるタイプかのふたつのタイプに大別できる。分かりやすい例を挙げると、東大生学内天才達や世界トップ大学学生達の環境を見て劣等感を感じるが、慶應生はMARCH等の学生を見て優越感に浸り自信満々な態度を取れる。MARCH等の大学生は旧帝や早慶学生を見て劣等感を感じるがさらにその下に行くと上の人のことを大して気にも留めず幸せに生きていく。

人間自分が属していると思っている集団内での上下に敏感になる。自分トップ集団にいると思っている人はその中で上の人を見て勝手劣等感を感じる。自分が二流集団にいることを自覚している人はその中でトップであれば優越感を感じるし下にいると思えば劣等感を感じる。

年収1000万円に容易に手が届く人は、自分ビジネスを持っていたり資産を持っている人たちの生活ぶりを見て自分はまだまだ中流だと思ってしまう。年収1000万円なんて夢のまた夢なんて思っている雑魚どもは年収1000万円の生活に夢を見る。年収1億の人は年収100億の人を見て劣等感を感じ、年収100億の人は世界的な富豪を見て自分の小ささを思い知る。

全ては波なのだ。上か下、どちらの世界に目が向いているかということ、またそれに起因する比較指標に関する感情は、全て波のように移り変わっている。あなたが下にいれば上を見るし、上にいれば下を見る。もちろん個々人レベルで見れば自分がどの階層にいると思いこんでいるかということで矢印の向きも変わるだろうが、全体的な傾向を言えば大きな矢印の向きの移り変わりが各階層で起こっている。

あなた年収1000万円を上と見るか大したことないと見るか。その生活が良いものか贅沢なものとみるか。それはあなたが見ている世界、見えている世界によって大きく変わる。

あなた幸せになる方法、それは下を見ること、もしくはこのしょうもない永遠階層から解脱することだ。

https://anond.hatelabo.jp/20200530164357

2020-05-26

なぜ博士号をとったか大学教員になったのか

すまん。書き出しで結論を言うと、自分でもよくわからん

アカデミックあきらめた博士号保持者の記事が目に留まったので、運よく大学に残れた側のエッセイを書く。小さなころから科学者になりたかったんです、なんていう大学教員を見ると、眩しくてクラクラちゃうんだ。すまんな、憧れもなく大学教員になってしまって。

僕は少年時代に、科学者に対する憧れというものほとんどなかった。ニュートンとかガウスとかアインシュタインなんかの伝記を読み漁ったりして、心惹かれるものがあった。だけど、それは自分科学者になりたいという憧れとは少し違って、科学者仮面ライダーウルトラマンのように現実と断絶した世界にいるヒーローのようだった。

大学に入ると、教員たち講義を受けて、ずいぶん大学先生は楽しそうだと思った。あとでわかるが、それは誤解だった。ただ一人、すごく楽しそうに熱く語る先生がいた。専門を簡単説明する。それでいて奥が深い講義だった。僕はその講義に夢中になったが、周りの学生からは評判が良くないのが不思議だった。こういう先生なら、なってみたいかもしれない、とぼんやりと思った。

僕は研究者というよりは科学ファンだった。自ら新しい科学を切り開くということに、それほど魅力を感じなかった。それなのに、大学院へ進んだのは「もっといろいろなことが知りたい」という一言に尽きる。このセリフは厄介で、一見すると科学者適性がありそうだが、実際は逆だ。「ただ自分の興味が向くことを、気の赴くままに知りたい」という僕のような人は研究者に向かない。いったい僕は何になればよかったのだろう。大学院生としての一番の幸福は、図書館の薄暗い書庫顔パスで入り、紙が焼けているのにピンピンしていて、全く手を付けられていないような文献を読むことだった。だから論文が書けず苦労した。今もしている。研究者世界は手を動かす、アウトプットをするのが貴ばれる。研究世界に飛び込むことは少し違和感を覚えたが、もっと良い場所もなかったので居続けた。卒業したいので、しかたなく研究した。

学会で一流の知性に出会うのは、本当に楽しいことだ。僕にとってはスターライブであり、学会の懇親会で大物に研究の着想を聴いてみることほど楽しいことはない。

大学から学位記と一緒に追い出されるように飛び出し、一つ目の職場就職した。就職が上手く決まらなかったので、ダメなら別の業界に行こうと思っていた。だけれど何とか職場が見つかった。そこへ行った理由は、この業界にいれば、また暗い図書館での心躍る体験が、いつかできるかもしれないと、不純な希望を持ったからだ。着任した先では、学力が酷かったけれど、教員博士号持ちの熱血教師ぞろいだった。教員たちの教育に対する熱いパッションを聞かされて、なぜだかすっかり気持ちが冷めてしまって、他に居場所を探した。転職するためには、論文必要だったので必死研究した。欲しがりません勝つまでは、を地で行くスタイルで無理をした。体調を崩して大病してしまった。

なんとか次の職場を見つけ、落ち着いている。学生時代の環境を思えば、ここの学生世界が狭くかわいそうだと感じることもあるが、一つ目の職場と比べればだいぶましだ。すべては相対的だ。転職して、自分時間が増えたのでぼちぼち研究している。いつか解明したいテーマも懐にしまっている。いつか、は来ないので少しずつチャレンジしている。だけれども、ほとんどの研究時間は一日も早く給料を上げたい、そう思って不純だと思いながら心の血を流しながら論文を書いている。僕は興味が散発的なんだ、だから論文がこれほど憎たらしく感じられるんだと思い続けている。

博士号取ったのに大学教員にならなかった氏が言うように、大学が残念な場所であるとは認める。成績不良の学生面接したときは、部屋に一人残って泣いてしまうこともある、僕が。これから教員仕事うなっちゃうんだろうかって悩みつづける。実にこの業界ジリ貧だ。だけれど、大学教員以外に僕のふわっとした欲求を満たせる場所を知らない。雑用を投げてくるスーパースプレッター同僚もいるが、傷付きやすい僕を大学以上に放っておいてくれる職場を知らない。

文科省大学経営陣も学生も同僚もみんなクソだ。クソだけれど、僕はそんな奴らの戯言を骨抜きにしながら、今の場所に居座ってみようと思う。僕の興味と幸運の続く限り。

研究者にもなれない、だが学生を思いやる教育者にもなれなかった。一人でいたいから、学内政治家もっとごめんだ。いったい僕は何になればよかったのだろう。

2020-05-10

anond:20110526194145

美術系の男の子と付き合ってた。すごく好きだった。が、私と会った後に学内で異性関係こじらせて複数人関係をもって、人間不信になったからもう会えない、でもその中の一人の女と付き合うことにしたとか言われた。経緯や理由を聞いても「学内人間関係崩れると残りの大学生活が困る」の一点張りだった。支離滅裂で話もかみ合わないまま別れることになった。別れた後でも引きずって悩んでた。この記事と同じように、芸術家は考えること違うのかな、破滅することが作品を作る原動力なのかな、性的逸脱もそうなのかな、とか情状酌量してた。この点において美術が分かる人の考えを知りたかった。美術からどうこう、でもなかったのかもね。これから美術を解さな一般人としてまともな人生歩みます。この記事出会えてほんとによかった。ありがとうございました。

2020-05-09

じゃあ病院勤務医師から寄付募って患者に回すのかよ

大学勤務。文字通り休み無く働いている。連絡がつかない新入生には電話もかける。もはや教員職員も一緒にとにかく働いている。

ローテーションの出勤ではあるものの、在宅勤務で同僚との打ち合わせが深夜12時とかザラにある。もはや研究なんて余裕はない。

とにかく働いている。今までネットに触らなかった先生方も、必死オンライン授業を作り直している。詳しい先生方は学内コールセンターと化していて、Zoomで顔見るとげっそり痩せてた。

そんな中、学生支援のために寄付しろという話が出てきた。

これだけ働いて、その上さら徴収されるのか。

学費が払えない学生オンライン授業の設備を持たない学生支援必要だと思う。でも、それは教職員個人的寄付して賄うものなのか?

固定の給与もらってるなら文句言うな?大学教員給料って高いと思われてるのか?

保育園が休園になって、配偶者と出勤がかぶるときシッターを頼まざるを得なくなった。リモートワークの自宅の光熱費通信費も自腹。さらに自費で学生支援するのか?

どれだけおかしいことだと思う?じゃあさ、病院勤務医師から寄付を募って患者に回すのかよ。ネットワーク保守エンジニアから寄付を募ってバックボーン増設とかやるのかよ。

それこそ国が出すことなんじゃないのか。

2020-04-12

anond:20200412074055

機械系だけどシミュレーション系以外はできないじゃないか

まあシミュレーション系ですら普通セキュリティのために学内ネットからしか繋げないのが普通

リモートでできるってことは外部から情報抜かれてても分かんないってことと同義だし

緊急事態宣言下で生物とか扱ってるところはどうしてんだろうね

2020-04-02

学部生がオンライン講義必要性を実感した事について

まずは今年新入生の方はご入学おめでとうございます

あなた方が入ってくれることによって大学収入源となり大学が稼働すると言っても

過言ではありません。多分見てる方は社会人以上の方で大学生が匿名ダイアリー使ってる人は

直見た事無いのでこの言葉は届くと事は無いでしょうが...

先に記述しておくとこれを書いているのは一法学部の3年でありGPAも2以下のよわよわ頭です。

GPA高卒の方にもわかるように書くと5段階評価のほぼ2でちょくちょく3あるくらい)

ツイッターフォロワー少ないし5chはdat落ちしそうだしと考え、何となく文書きたいなと思った結果

ここに駄文を連ねるだけなので読んでくれる方は流し見してくれれば幸いです。


↓ここから書きたいことの前置き(もっと↓に本題)


世間を賑わすコロナウイルス。私が影響を感じたのは3月入ってから登録してたバイト

予防の為中止になったのが始まりでした。

それと同時期に早稲田大学が授業開始を延期するのをニュースで見ましたがその時は

正直羨ましいなくらいでした。そりゃ休み延長とか嬉しいじゃないですか。

別にそれと言って何をしたいとか有りませんでしたが。

そのまま体調壊したりして時が過ぎて3月後半になって東京で40数人。

その時点で?と思いましたがまだ良いかなって思ってました。

ようやく重要視し始めたのはつい先日の都知事の会見。

何かのグラフかは忘れましたが週に最低2桁から最大二百ウン十人。

二百ウン十人???、そして都は病床5kを目指している。

??????

そんな要らないんじゃねって思ってた私にはびっくりです。

そもそも感染者減るのでは?????


↓こっから本題


私はてっきりインフルエンザのように4月にはコロナ騒動は収まると思ってました。

だが収まらないコロナ。そして我が大学は先日5月以降へ授業開始日を変更。

現時点で、です。これがもっと感染者が増えたら???そしてまだ居ない学内感染者が

発生したら???大学はまたいつまで授業開始日を伸ばすのですかね???

延期しまくって今学期の単位は一律で付与しません!!!と言われたら???

そう考えた時にオンライン講義必要性を実感した次第です。

幸い今は情報化社会であり、オンラインサービスが多数あります

JAPANが誇る東京大学ではオンライン授業についてどうやるべきかの学内者向け

ガイドラインを設けています。気になった方は一番下にリンクを張るので読んでみると良いと思います

サイトポリシーを読んだらリンクOKと書いて有ったので多分大丈夫でしょう。

大学に一部の大学においてオンライン授業が計画されているらしいです。

我が大学も一応システムとして出席を記録出来る(各回において教員側が記録して後から生徒が参照可能)ので

ゼミなどはzoomなどで出欠を確認すれば行けるはずです。

是非各大学オンライン講義実施してください。そうすれば少なくとも学部生は単位心配は減ります

というか講義してもらって試験実施して単位ください。それだけが私の望みです。

参考サイト

オンライン授業・Web会議 ポータルサイト東京大学

https://utelecon.github.io/

2020-03-27

新型コロナウイルスに関して

特定覚悟で書きます

拡散されて予定が変更になれば幸いです。

私は国立大学学生です。

昨日総長づけで、学生教職員向けにコロナウイルスに関する当面の対応についての連絡がありました。

簡潔にまとめると、

不要・不急の出張等を控えること

不要・不急の会議等を中止・延期すること

各人健康管理に注意すること

屋内での十分な距離をとることができない活動を避けること

の4点でした。

同日、私が所属する学部では授業の開始が4月8日から4月15日になりました。

それにも関わらず私が所属する学科では、4月1日卒業研究着手についての説明会が行われます

卒業研究室への配属に関する説明があるため全員出席するように連絡がありました。

連絡は上記2件と同日であり、

具体的なスケジュールリマインドがなく何時間行われるか不明で、短時間で済むように時間厳守で集合することとありました。

なぜ1日に開催するのか、

学生職員感染者がいたら、

説明会クラスターが発生したら、

これがきっかけで亡くなる方が出たら、

予防や対策が十分に行われているのか…

何もかも不明です。

学内ですでに感染者がおり、県内でも徐々に増加しているにも関わらず予定通り開催する必要があるのかと思ってしまます

何よりこの決断をした教員事務の方に疑問を呈したいです。

学生が思いつくことになぜ考えが及ばないのか。

このような大学で私はこれから何を学ぶことができるのでしょうか。

将来が不安です。

駄文失礼しました。

2020-03-06

anond:20200306235009

ワンチャン奨学金全額返済免除がある(学内選考なのでハードルが高い)から、もしそれに通ると見込めるイケてる論文書ければベットしようかな。

日経平均分岐(そこから悪化するか緩やかに持ち直すか)は6月くらいに見える気がしているので、しばらくは買うかどうか楽しく迷ってみる。

2020-03-01

anond:20200229164536

死んでしまったり後遺症残ったりメンタル病んだりしたら、進学内申どころじゃねーんだぞ

未来がなくなるんだから

まず警察に行け

あしらわれたら110番しろ

児童相談所とかぬるいことしなくていい

今のお前を一番守れるのは、お前自身

正直高校なんてどこいってもいいんだよ

そこでがんばって勉強すりゃどこの大学でもいけるんだから

また何かあったら増田に書けよ

2020-02-20

競争資金は死すべし

文科省様はだいがくいじめている論が好きなみなさま

本当の敵は大学の中にいるのですよ、それもあなたの隣に

学内研究費を、競争的に!? アタマ狂ってんじゃないか

タダでさえ面倒な申請、報告、申請神聖、報国...が嫌になってんだよ

これ以上仕事ギャンブル要素とクソ仕事要素を持ち込むな

そして自由を奪うな、放っておいてくれ

愚かだ、あまりに愚かだ

科研費が取れないかもしれない、何かのときセーフティーネット学内予算だろうよ

それを喜んで競争的になんて、ご冗談でしょう

いったいどんな生きかたをしてきたらそんな提案できるんだ

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