はてなキーワード: 気づきとは
ザイオンス効果という言葉を初めて知った。wikiによると以下のことなんだそうだ。
単純接触効果(たんじゅんせっしょくこうか、英: mere exposure effect)は、(閾下であっても)繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。1968年、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスが論文 Zajonc (1968) にまとめ、知られるようになった[1]。
ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則、ザイアンス効果などとも呼ばれる。対人関係については熟知性の原則と呼ばれる[2]。
はじめのうちは興味がなかったものも何度も見たり、聞いたりすると、次第によい感情が起こるようになってくる、という効果。たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説(misattribution of perceptual fluency)で説明されている。また、潜在学習や概念形成といったはたらきもかかわっているとされる。
図形や、漢字、衣服、味やにおいなど、いろいろなものに対して起こる。広告の効果も、単純接触効果によるところが大きい。CMでの露出が多いほど単純接触効果が起きて、よい商品だと思ったり欲しくなったりするのである。
Z世代に顕著と元増田はいうのだが、上記定義をみると、広く言えば、むしろ日本の集団主義的な組織風土をドライブするメカニズムに関係しているように思えるね。単純接触効果を組織内でうまくつかって「うちわ」の安心感を醸成してゆく、というか。
従来の日本の組織というのは、年配者が半ば強引に、単純接触の機会(パワハラ的指導、飲みにケーションが最たる例)をつくり、すでに組織内で支配している層に居心地のいい「うちわ」感を若者に覚えさせてゆくプロセスを通じて、世代間の組織風土の持続性が図られてきた。80年代、上司の室田日出男が新人部下の中井貴一をオルグして毎晩カラオケについていったように(ふぞろい世代)。
そういう見方をしてみると、要するに、ザイオンス効果をとらえて、Z世代の特徴かというと、よくわからない。
恐らく、ザイオンス効果自体は変わらないけれども、変わったのは環境なんじゃないかな。Z世代以前以後で。
Z世代以前と以後では、世の中の居場所、選択肢が急速変化している。
80年代のティーンの居場所は、学校かゲーセンか、盛り場、塾だったし、学校が嫌になった場合の逃げ場が限られていた。
通信手段も、携帯電話は存在しなかったから、友達からきた電話を親が先にとる時代だった。娯楽も限られていた。
消費者の選択肢が少ないから、メーカーもプロダクトアウトな発想で、繰り返しCMを流し、消費者に刷り込みをかけてマスな製品を作ってしまえば市場を席捲できた。ソニーのウォークマンが典型。これもザイオンス効果のひとつといえる。
マスな動きに取り込まれる(流行に乗る)ことが取り残されない条件だったし、会社でも上司に従うしか、居場所を見つけられない時代だった。
政治選好的にも、当時の自民党VS社会党というのは、絶対的な安心感を与えていて、とにかくうちは自民党、うちは問答無用で、昔っからおたかさんみたいな時代。
そして、学生から社会人など、環境が変わるたびに、通過儀礼的に「その空間での安心感はこれだ、こういうやり方してりゃいいんだよ」と新参者は叩き込まれる。
しかし、90年代以降の動きというのは、情報革新によって、ニッチな居場所、環境が急激に増えた時代。あるいは気が付くことができるようになった。
ニッチな環境がどんどん増えて、自分で居場所を選べるようになった。
政治も細川政権以降、離合を繰り返した。会社組織も働き方や仕事の仕方に、多様性を認めるようになってゆく。その最初のきっかけは80年代、転職というムーブメントだった(リクルート)。
しかし、自分で転職したり、ニッチな空間をみつけて得られる安心感というのは、自分の欲求ニーズにジャストミートをするという意味では安心だが、例えば自民党を疑いもしない時代に比べると、寄る辺のなさを感じるものであり、かつてほど盤石ではなく流動的で、大きくもない。
そしてかつてのような大きな主体に取り込まれることの安心感が少なくなっているんだろうと思う。
昔だったら、そういう大主体は自分から探すものではなく、人生のステージがあがると、会社の上司が象徴するように、待ち構えているものであって、
飲みにケーションの洗礼をあびて、数年で組織に同化していった。同化の過程は最初は激烈でキツイんだけど、集団に慣れると逆に居心地がよくなるのだ。
ザイオンス効果という言葉をあえてつかって、前世代の特徴をいえば、オルグする、という意味で、プッシュ型のザイオンス効果。紙の新聞メディアもその典型で、世の中の標準的な考え方というものをテレビや新聞などのメディアを通じて受け入れるプロセスが存在した。
しかし、情報通信革命がもたらしたニッチな空間、居場所への気づき、というのは、自分から自発的に、その時々で感じている不安・ニーズを解消する場所へ向かえるようになった、という意味。
自分から安心を探し出す、という意味ではプル型のザイオンス効果。簡単に答えがみつかるからSNS依存を深めてしまう。自分の疑問や不安は自分からググればなんとなしに答えが見つかる、という。Togetherは都合のいいようにあたかも大勢の人が考えを共有しているかのような細工をして答えを提供してくれる。電子掲示板やSNSの、自分と似た意見や思想を持った人々が集まる場で、自分の意見や思想が肯定されることで、それらが正解であるかのごとく勘違いする、いわゆるエコチェンバー効果が議論されるようになったのも2000年代初頭。
こういう時代には、何が標準的な考え方で、支配的な考え方なのか、それを新聞などマスなものを通じて確認する、ということが難しくなっている。
SNSなどを通じて自分の求めている何かを見つけてしまえる安心感と引き換えに、いろいろな人がいろいろな場所に安心を見出すようになって、マスなものにピントが合いにくくなってしまった。
だけれど、恐らくザイオンス効果がプッシュ型であれプル型であれ、本質的に、よりマスなものを求めて安心する、という傾向は変わってないんじゃないか。
一方で、プッシュ型のオルグからうけるストレスに、自分で答えを探すことによってすぐにすり抜けてしまう、ここにZ世代の特徴があるかもしれない。
昔だったらほかに選択肢もないことから、ちょっと我慢して順応せざるを得なかった組織も、今ではそのストレスから逃れる手段も選択肢も豊富。
ストレスから逃れた先に、当面の安心感はあるかもしれないが、マスなものに比べれば脆弱だ。
それはパーツパーツでちょっとした安心感を消費するものであって、全体として組織が自分を傘のようにかばってくれるような安心感ではない。
それはむしろ、自分で集めた安心、時代のキーワードを寄せ集め、組み合わせてコンセプトを自分なりに構成していかなければならない。
上司の説教など、プッシュ型を避けてしまえた結果というのは、つまりそういうことだ。しかし、そういう構成力というのは、若者の経験、能力、資質にどうしても依存してしまう。
自分自身をふりかえってみても、そういう試みというのは、一時しのぎになりがちだ。安心をみつけるのはほんとに安易になった時代だ。
しかし、だんだんわかってくる。マスなものも慣れてくる。経験を重ねるとみえてくるものが増えてくる。その経験値の差が今の時代に、なんとなく世代間の差のように映じているんじゃないだろうか。一昔前だったら、そんな個人的な経験値など全くどうでもいいものだったと思う。
若年層の政治的な保守性というのは、保守の理念への信頼ではなく、
寄る辺のなさからなんとなしに選択されているんだろうと思える。
もう一度繰り返すと、ザイオンス効果自体は、安心を求める日本社会において、Z世代を特徴づけるものというよりは、全世代に通底するものかもしれない。
アメニティは確かにしょぼいけど風呂敷が宿ごとに違うとか、そういうワンポイント抑えるだけで満足する客も多いだろうなとか気づきが多いのも好きw
界の食事も別に不満じゃないけど料亭紹介システムがあるなら今度使ってみようかな
多能工は辛いところもあるだろうけど、そのおかげで無理のないシフトを組めるだろうし、従業員の細かい改善を全員で共有できて他工程にも横展できるだろうしすごい効率的だろうな
あと、地元の特産品の勉強していろんなイベントを従業員が自主的に考えていそうな感じも裁量多そうで良いなって感じた(実際はどうかわからないけど)
お客様のために何でもやる、ではなくお客様が本当に求めているサービスは何かを考えぬいて合理的かつ適切なサービスを提供している感じが逆に心地いい
星野リゾートってコストを抑えつつ満足度を最大化しようとするとても工業的な宿だから、最高のホスピタリティとかそういう言葉が好きな人には合わないだろうしボロクソに言われるだろうねで、コスト抑えてる割に高いし笑 ワイはシステム代として払ってるけど笑
俺ついさっきまでダンバイン見てたんだよ。
アの国とイの国とウの国とカの国みたいのが戦ってるやつ。
俺さあ、これが全然わかんないんだよ。
んでまあ思い出してみるとさ、昔から時代劇とか見ててもどっちがどっちの所属とかよく分かんないんだよな。
サッカーみたいにゼッケンしてれば色で分かるんだけど、そうじゃないと特徴的なパターン以外は無理なんだよ。
たとえばファンタジーでも「エルフそっくりなダークエルフ」とか「人間と同じ背丈のホビット」みたいのが出てくるとさ、いつの間にかソイツの種族が分からなくなるんだ。
物事を認識する際に使う記憶領域みたいなのが多分足りてないんだろうな。
ゆうてまあIQは悪くないっつうか、就職試験とりわけ公務員試験とかに出てくるようなIQテストはバンバン解けるんだわ。
ガキの頃から物覚えは悪かったんだが、ガキの頃は覚えるべきポイントを的確に絞ることで上手くやってたんだよ。
というか、単純にただ1対1で覚えるのはそこまで苦手でもないっぽいんだな。
ただ複数の属性を一つの物事に対して覚えるのが苦手で、その中でも人物がどのコミュニティに所属しているのかを認識するのがすげー駄目っぽいんだわ。
映画とかで裏切り者が出てくると、ソイツが今どっちの陣営にいるのか分からんくなるんだわ。
周りの人間を見ると、どうもそういうのって一部の頭が悪い人間しか起こさない現象っぽくてさ、俺この分野に関しては致命的に頭が悪いんだろうなと薄々感じてたわけよ。
んでまあ今さっきあダンバイン見てたんだが、まあダンバインってマジで意味分からんのな。
国の名前がシンプルすぎて脳みそに上手く染み込まねえし、主人公たちも異世界召喚されてるから顔つきで陣営を予想するとかも無理なの。
ほぼ自力で誰がどこに所属しているかを把握していく必要があるわけよ手探りで。
これがまあ駄目だったよ。
段々ゴチャゴチャになって今はもうショウ・ザマっていう主人公がダンバインに乗ってるってこと以外はてんで分からんくなった。
ロボットアニメだからバンバン戦争とかしてるんだが、結局どこの国とどこの国が戦ってるのかが全く分からんのな。
もしも12歳や15歳の頃の俺なら、どこを抑えればいいかを上手く把握しただろうし今よりは記憶力がマシだったろうからなんとかついていったと思う。
俺は今45なんだがもう無理だ。
完全に無理。
もうこれは知的障害者だろ。
でもこれって人間の能力のバランスが皆一律して最低ラインを超えてるわけじゃないって当たり前のことに由来してるんだと思うんだよな。
ランダムで振り分けた数字の中にときおり極めて低い数値が混ざるような当たり前の偶然っていうかさ。
そういうのがあっても人間って他の能力で上手く補えちゃうと思うんだわ。
特に知能に関する部分は、複雑に色んな能力が絡み合ってる分他の能力から枝を多めに伸ばしてやればそれでカバー出来るんだろうなと。
そういうのって他の人はどういう所にあって、どう誤魔化してきて、どう気づいたのか教えて欲しいわ。
https://twitter.com/cicada3301_kig/status/1570217233149992960?s=46&t=BamErSZW8QjH_vD6KLW13Q
頭悪くて頑張っているが何もかも空回りして、何もしない方が会社も安定する子が主人公。
ヒロインのことを見下していたが、自分が生み出したマイナスをゼロに変えている人が過労で入院してしまい、自分もまた同じであることを知る。
自分の無能さに気づき挽回しようとするがその結果自分の部署は崩壊してしまう。
クソブスヒロインは流石にまずいと感じて、まじめになった。元から知識はあったため、主人公よりもずっとマシだった。
主人公は絶望し、何もしなくなった。会社は元に戻ってさらに無力感が増す。
これを話にしたいけど、やっぱりリアルに根ざしてるから思想偏りすぎって反論されるんか?この現実の嫌さや頑張りの空回りってエモいなとかならんのか?
基本ずっと一人で独学やってきたんだけどさ
独学だと「何か合った時はこうする」「トラブルの解決方法」「○○とつなぐ」あたりは自力で覚えんのよ
だけど「ここをこうしたらこう動く ← 実はこう書いたほうが楽だし早い」「習慣でいつもこうしている ← ○○という記述、ツールを使ったほうが早い」
先に言っておく、これから書くグダグダと長い話はコミュ力のない女がコンテンツの名を借りてくだを巻いているだけのしょーもない話である。(三行でまとめた結論)
もっと言えばアテクシ男性向けジャンルにずーっといるのに男性の友人が一人もできなかったチクショー!(落ち着けお前に魅力がないからだよ)って話です。だめだどう言ってもだいたい三行で終わる話やんけ!!!!
私もアホすぎて友人にも言えない話をどっかに吐き出したかっただけです。
私自身ねらーだし炎上案件を暇つぶしに見ちゃうやつだからあわよくばコンテンツ関係のブログにまとめられて好き勝手言われたり面白おかしく叩かれたいな~と思わなくもないが、そんなん誰も得しないし、そんな妄想しちゃうちっぽけな自己顕示欲自分でもキモ…と思うのでまあつまり以下はそんなどうでもいいお気持ちです。
前置きはさておき。
私はアイドルマスターが好きだ。特に765とシンデレラとミリオンに担当がいる。
タイトルにあるプロデューサーとはつまりアイマスにおける我々ユーザー諸兄のことである。
しかし最近その中のひとつのマスで、目標にしてた区切りが出来たので(実際は違うんだけど声がついたとかレベルが目標までいったとかそういう感じ)徐々にハマっていた熱が落ち着いている。
そしてそろそろもう引退の文字が頭をよぎった頃、モバマスのサ終のお知らせ。
それでサ終における心残りを自分で思い返してみたらまあ色々あるんだけど、そのうちの一つが「プロデューサー(アイマスとか同じ趣味の)の彼氏が欲しかったなぁ」だったのだ。
我ながらマジで何言ってんだよ担当に恥ずかしくないのか??って思うけど恥ずかしいので増田に書いている。
モバマスをたまにやる程度だった私がデレステを機にまた興味が出てライブに行って気がつけばめちゃくちゃハマってた。
ゲームをやり、円盤やグッズを買い、コスプレをしたり、即売会に行ったりライブに行った。
デュンヌ(この言い方あんま好きじゃないけどわかりやすいので使う)はライト勢に思われがち(いやそもそもそれこそが私の偏見だわ)だけど、ゲームの頻度とかお金のかけ方とか選挙のダイマとかも張り切ってやっちゃうレベルにこのコンテンツにハマっていたと自分では思う。
ならそれでいいじゃないか、アイマスを楽しんでるじゃんって話なんだけど、強欲なのか性欲なのか自分でもよくわからんが彼氏が欲しかった…いや出会いが欲しかったという後悔が生まれてしまったのだ。
その後悔を消化するために何故そんな気持ちが生まれたのか、そして何故彼氏が出来なかったのかをここから更にダラダラ書いていきたい。
まず大前提として私は彼氏いない歴=年齢で、大学生の時にモバマスが始まったりアニマスがやってたので今まわりが結婚ラッシュな年齢なのである。
更に長くアイマス界隈にいると、プロデューサー同士で結婚しましたとか、付き合いましたとか、結婚式のセトリにアイマス曲流しました(素敵で羨ましい)というのが結構流れてきて「いいなぁ」と思ったからである。
(あと実はアイマス以外にも好きな男性向けジャンルが色々あり長年推してる女性声優さんがいるんだけどこっちの界隈でもファン同士での結婚話を本当によく聞く)
だから適齢期だからとかじゃなくて同じライブに行ったり同じ趣味の恋人…というものに漠然とした憧れがあったのだ。
そもそも物心ついた時から私はアニメやゲームが好きなおたくである。
大好きな女性向けジャンルがあるんだけど、それとは別に男性向けジャンルも昔から大好きだった。
(ジャンルに男性向けも女性向けもないんだけど便宜上使います)
わかりやすく言うとコミケで1日目2日目で女性向けを買い漁った後、3日目で男性向けも買い漁っていた。
男性向けジャンルっていうかギャルゲやエロゲの美少女ゲーが好きでときメモ、キミキス、アマガミはもちろんエロゲをプレイして感想ブログや聖地巡礼ブログを読み漁るのが好きで、いつかこの「好き」を誰かと語り合えないかなぁとつくづく思っていた。
もちろん男性向けジャンルが好きな女性はいっぱいいるから女性の友人を探せばよかったのだがそちらも中々見つからなかった。
アイマスにハマるよりも遥か昔、入り浸ってた某萌系携帯掲示板で男女比の統計を取ってた時に「いうて6:4くらいっしょ」とか思ってたら1割もいなくて本気でビビった思い出がある。携帯サイト時代より今はおたくがオープンになったからもっと男女比普通だろうけど。
大学に入ったらげんしけんみたいなサークルに入って青春するんだ!とも思ってたけど結局おたく系のサークルには入らなかった。
だからとにかく男性ファンが多いコンテンツについて、誰かと好きを共有したいという気持ちがどんどん私の中で強くなっていた。
たぶんこれを書いたら「そういうことを自分で言っちゃう性格で、選りすぐりしてるだけだから恋人できねーんだよ」という結論になるんだけど、とりあえず聞いてくれ。
率直に言うと、私はわりと彼氏がいないといっても信じてもらえないタイプの人間である。
別に飛び抜けて良いわけじゃないけど容姿は稀に美人と言ってもらえる程度の普通さで(だと思いたい)、メイクもおしゃれも好きで服装もいわゆるモテファッション(ごめんモテファッションって言葉キモイよね、全人類好きな服着りゃいいだろと思ってる)みたいなのが好きでいつも茶髪で女子アナっぽい格好をしている。
告白もこの数年間に何人かにされた事がある(分かち合えるおたくの人がいいので全員お断りした)
彼氏がいないってのを信じてもらえなくて泣いたこともあった20代だったけど、アラサーになった結果無事「その年齢までいないなら性格とかに致命的な欠陥があるのだろう」と生温かい目で見られるようになってしまった。
つまり何が言いたいかっていうと、好みは置いとくにしても一般的容姿の問題はクリアしてるかもしれないのになんで彼氏できないんだ!?という激しく上から目線の気持ちが私の中にはあるのである。
要約すると、
容姿的には平均基準は満たしてるからワンチャンあったのでは!?
はい、この項目で一気に読んでくれてる人から味方を失った気がするけど続けます…。
(だってこれ言い換えると「理解のある彼くん欲しいナ、そろそろいないとヤバイ年齢だし、容姿的にもアテクシにいないのおかしくない?」って言ってるもんでしょ…まじでそういう傲慢な気持ちは一切ないんだ信じてくれ)
そして彼氏が欲しいだけじゃなく、何故「プロデューサーの彼氏」が欲しいのか。
まあこれは単純に私がアイマスを好きだから一緒に語りたいってのが一番の理由。
あとはこれはシンデレラに限った話(いやシタのTSの時もか)だけど、総選挙中につらい気持ちになったりして本当に心の底から誰でもいいから同担と語りたい、担当を好きな人とこの気持ちを分かち合いたい!と強く思ったことが過去にあったから。
同担と語りたいなら同担のデュンヌと仲良くなるばよかったのでは…?
とお気づきの方もいるだろうがそれについてはこれから言及したい。
◆何故彼氏ができなかったのか?①
身も蓋もないけど!!
だって彼氏欲しくてアイマスやってたんじゃないもん!アイドルとプロデューサーの関係の世界観とか、ゲーム性とか、あとはまあ惰性でやってたりもするけど、なにより担当が可愛くて好きだからアイマスやってるわけで、出会い目的のつもりが一ミリがなかったから。
◆何故彼氏ができなかったのか?②
めちゃくちゃコミュ障だし、性格もこんな自己顕示欲と自己肯定感のなさが混同する読みにくい長文増田を書いてしまってる時点で色々お察しですがな。
自分から人に話しかけたりするのが苦手で、ていうか男性に免疫が全くないので我ながらよく出来たなと思う位めちゃくちゃ凝った名刺を100枚刷った時もライブに行ったのに1枚も渡せなくて、泣く泣く会場近くの家電量販店とかの名刺置き場に自分で貼りに行くとかやっていた。(名刺交換したい…)
もちろんライブで隣り合った人に自分から話しかけるなんてのも無理だから、前の席の男性陣が初対面なのに「今日はよろしくお願いします!」とかUOや名刺渡しあったりしてるのを羨ましく指をくわえて見てることもしばしば。
一回だけライビュで帰り際に隣にいた一人客の男性が「お疲れ様でした!」って言ってくれた時は嬉しかったな…。
(これは異性に声をかけられた嬉しさとかじゃなくて女が一人でいて不審がられてないから心配だったけど上映中の振る舞いでちゃんとPってわかってもらえたかも!っていう同志として認められたような嬉しさ)
賛否あるけど私は名刺とか、隣のPに挨拶~みたいなアイマス特有の文化が好きだから、自分が男性だったらこの文化を全力で楽しめたのかもなって悔しく思うこともあった。
企画に参加して担当の法被も持ってるけど、現地の法被撮影会とかも行きたくても勇気がなくて行けなかった。
(もちろん名刺交換してるデュンヌも挨拶してるデュンヌもめちゃくちゃいるので私個人の問題だよなぁぁ)
ライブも一人で行ったり別ジャンルの女の子の友人と行くとかばかり。
まあでもライブには担当や中の人見に行ってるから、やはり出会うつもりで行ってないってのは大きい。
一人で行ってもセトリ最高だったー!!ってウハウハで帰宅とかしてたし。
◆ 何故彼氏ができなかったのか?③
アイマスは一旦抜きにしても、アラサーになるまで何故彼氏がいないのか。
私自身の魅力のなさはもちろんだが、これについても自ら出会おうとしていなかったからに尽きる。
正直人間誰しも恋愛に積極的ならある程度の色事経験は出来るのではないかと思っている。
でも私は女子校だったし、ライブやイベントとかも好きだからオタク趣味にも忙しくて休日は埋まってたし、男性に免疫がないから自分から恋愛関係に積極的じゃなかった。
恋愛がなくてもオタク趣味のお陰で毎日充実してたから必死に欲しがっていなかった。
最近はマッチングアプリでおたくの彼氏できたよ!って友人もかなりいるが、マッチングアプリもやった事がない。
だってやってみて万が一にも誰かに気に入ってもらえたとして実際会ってガッカリされたら立ち直れない気がするのだ。
(とら婚とかおたく専用のマッチングもあるらしいが、結婚を視野にとかじゃなくてまじで付き合ったことのない女が同じ趣味の人と付き合ってみたいという初歩的な気持ちすぎてガチな所も申込みづらい)
先日自分もアイマス好きなんですよ~という知人にご飯に誘われついノッてしまったがにわかにも程があry…じゃなくて、あんま知らないくせに女とご飯をするという目的でアイマスをダシにされて最悪だった。
別に廃課金であれとは言わないけど、好きだというなら全キャラの名前は普通に知ってるレベルでいて欲しい。
こんなんだからエロの知識もエロゲと同人からがほとんどで片寄っている。アラサーにもなってこれだとやばいのは自分が一番わかってて辛い。
◆ 何故彼氏ができなかったのか?④
他にもこの疑問を考えるとわかりやすい大きな理由がSNSを活用出来てなかったという点もある。
私はそもそも他にハマっている女性向けジャンルがあるのでツイッターでもそちらのジャンルについてばかり話していて、プロデューサーとSNSでほとんど繋がっていなかった。
なのでデュンヌの知り合いもほぼゼロ。
別ジャンルメインのツイッターに天井芸スクショとか載せてもフォロワーさんにまたやってる~と言われる位の反応しかなった。
Mマス好きな知り合いは結構いるが、私が女の子のアイドル好きでMマスには詳しくなかったのでアイマスを語れる人が周りにいなかったのだ。
アイマス専用垢でも作ろうかと思ったけど、ごく一部のデュンヌってだけでフォローしてくる輩の存在を知って怖くなって結局アイマス垢は作っていない(彼氏が欲しいなら矛盾してるかもだけど)
一方的にフォローしてるアイマスジャンルの人はいるけど話しかけたことはない。
フラスタ企画とかで繋がることもあるけど、基本的に違うジャンルの話ばかりしてるからしばらくしたらフォロー外されちゃったりする。
そんなわけでツイッターでのプロデューサー繋がりはほぼないのだ。
コスプレもしているので、アイマスを知っているカメラマンさんと話したりはするけど深くハマってるガチ勢と会ったことはなかった。(これは単に縁がなかった)
が、古参の人が仲間と話すために回していたり、熱心に企画してくれる方を見るだけでこちらから話す事はなかった。
私もまあまあ古参だけど!って思う場面でも出来上がった交友関係にいきなり話しかけるほどイキることもなく…。
それでも人数が少ないディスコでオフ会に誘ってもらえたこともあったのだが、ディスコでは男性を装ってネナベのような感じで話してたのでオフ会にいきなり女が現れたら困らせたり不快にさせてしまうかもしれないと思い断ってしまったこともあった。(友人に男性が多いオフ会にお前みたいなメイクばっちり女が行ったら怖がられるよと言われたことも行く勇気が出なかった理由でもある)(でも普通におしゃれしてるデュンヌ多いからこれも私の気持ちの問題)
つまり私はデュンヌも相当数いるというのに、男女比を過剰に意識しすぎて「プロデューサーと語りたい」という気持ちと同時に「プロデューサーと会う為の行動が出来ない」というジレンマを抱いてしまったのだ。
その忸怩たる二律背反が、「プロデューサーの彼氏が欲しい!けど出来ない!!!!!!」という妄執を産んだのだと思う。
そして時は流れ、アイマスについて誰かと語り合える前に引退がよぎるようになってしまった…悲しみ。
私もさあ!ライブ大満喫したあとに男性でも女性でもいいからプロデューサーと打ち上げ飲み行って、ライブのよかった所とか担当の可愛い所語ったりして、そのうちにその中の誰かといい感じになってときめきどこまでもエスカレートしてみたかったし、恋のレッスン初級編したかったし、そんで恋心ハートマークチュッチュチュチュチュッしたかった!うおおおおおん。
だから同性でも異性でもP同士の仲間がいる人はみんなすごいよ。羨ましい。
P界隈も色々あるけどさ、楽しそうに語り合ってるのみると素直にいいなって思う。
◆つまり、なんなのか
アイマスに長年いると、中の人の既婚者も増え、ついには某Pの中の人もご結婚され年月の早さが身に沁みた…。
さらに欲を言えば誰かと恋愛がしてみたい、そしてどうせなら相手は自分と同じ趣味のプロデューサーだったらいいのにって思ってしまった悲しい喪女のぼやき。
なんか書きながら居た堪れなくなってツッコミまくるから()多用してクソ読みにくくなってるものをここまで読んでくれてありがとう。
オタクに恋は難しい…っていうよりコミュ障に恋は難しいだなとつくづく思うのであった。
「男性に何かをしてあげられる優しい母親系女」は男性の自立を拒む悪である筈なんだけど…
男性達当人が「自分のために何かをしてくれる女」の事を嫌ってはいないから
幾ら性差別を無くそう・男女平等にしようと言っても、こういう女がこの世から消える事は無いんだろうな
「台所に男は入らないもんだ」って考えが根底にあって男性を挙げ善据え膳にしておく女とか
「台風に男児一人だと傘や靴を壊すか川に流れて危ないから」と安全な所まで送ってくれる女とか
「優しくて嬉しいor人として当たり前の気遣い」と思わずに「何こいつ男を馬鹿にしてんのか?」と怒るような人、あんまり居ないと思う
そういう「女が男に何かして当たり前」って考えの人は
要は男性を同性のように対等だと思わず下に見てる訳でナチュラルに女尊男卑思考な訳だけど
長く付き合ったり結婚してからそういう面が嫌になったと思う事はあっても、交際を始めたばかりの頃そういう「何かしてくれる女性」を嫌いになるだろうか…?
まあ、「男性の自立を拒む女は悪」という考え方自体強者男性的な考え方の一つでしかないのかもしれないけど
パートナーとは完全に対等の関係で居たいと思う人も居れば、自分を庇護してくれる頼りがいのある存在であってほしいと思う人も居る訳で、結局何が正しいとは言えないよね!と思った
母親や妻についての反応が先述のエントリ(anond:20220908185524)に幾つかあったので、そこについても書きました。
賛否が分かれやすい「女をあてがえ論」に触れるので、先のエントリに比べて説得力が弱いかもしれません。
過去、男性が弱さを晒していいとされてきたのは、母親や妻(この文章の妻は恋人なども含む)に対してだけだったと思います。
「男は家の外に出れば七人の敵がいる」という慣用句は、逆説的に家の中にいる母や妻だけは味方のはずだということを示しています。
歴史に残る権力者や金持ちであっても、愛してくれる女性を求めて身を滅ぼしがちなことに疑問を持った人は多いと思いますが、それは、自分含めて誰からも気遣ってもらえない男性人生の唯一の安息の場所としての妻を求めずにはいられなかったからではないでしょうか。
そのような状況について、母や妻に男の世話という役割を押し付けてきたという指摘は正しいと思います。
ただし、そのジェンダーロールの押しつけを行っているのは男性ではなく、女性も含めた社会全体であることには注意が必要です。
男を気遣ってあげるべきは母や妻だけということは、一般女性にとっても、自分の息子や夫以外の男性の弱さや繊細さを想像する必要はないということですから。
社会のいたるところで監督と保護を受ける女性と、監督されづらいが保護もされずただ母と妻にだけは保護を期待してよい男性、という構造があったわけです。
母親が息子に対して過保護になりがちなのも、女性がダメ男に「この人は私が面倒見てあげなくちゃ」と考えるのも、社会も男性も女性も男性の味方をしたがらないことを察知しているので、母や妻である自分だけが助けてあげられると感じているからでしょう。
それが昨今では、母と妻に負担を押し付けすぎだという気づきや、家族の解体や非婚の増加により、女性は社会から監督と保護を受けて、男性は監督も保護も少ないという構造に近づいてきています。
しかしこの状況が心身を傷つけられることが少ない強者男性に有利で、弱者男性にとっては厳しさが増していることはわかると思います。
そして、フェミニズム的な潮流によって、女性に対する監督は今後減っていくことが期待できるため、「女性は社会から保護だけを得られるようになるが、男性は監督も保護もない」というバランスの崩壊した未来を予想する人もいます(さらに悲観的なら、男性は保護されないのに危険存在として監督だけされるようになると考える人もいます)。
そこで弱者男性論からは、男性への保護(と、明言していないが一定の監督)を求める声が上がるのですが、それはいわゆる「女をあてがえ論」だという批判を受けやすいです。
私は、男性保護が「女をあてがえ論」に近くなりがちだという点にはある程度頷きます。
しかし、「女をあてがえ論」だからナンセンスだし黙れ、という扱いをするのは良くないと思います。
「女をあてがえ論」が出ざるをえないのは、男性のせいではなく、社会全体のせいです。
男性ではなく、我々皆が、男性の弱さ辛さを気遣い保護と監督を与える存在として、母と妻以外を準備できていないのです。
個人的好悪ではなく、立法と政治的駆け引きと職員の職務意識が上手く回せれば、改善は着実に訪れるでしょう。
児童支援や女性支援や貧困支援や障害者支援を見ればわかる通り、現実の問題に対して福祉が焼け石に水的であることは否めません。(それでも水をかけ続けることは大事ですが)
意識面について。
母と妻に負担を押し付けすぎだと現代人は気づいたと書きましたが、しかしその一方で、男の弱さを保護するのは母か妻だという意識は、実は大して変わっていません。
現代の「ジェンダーロールからの解放」を表現する物語であっても、大抵は、男性が辛さを吐露して受け入れてくれる相手は妻や疑似配偶者であることに、端的に表れています。
「母や妻に男の気遣いを押し付けるのは良くないよね。でも男なんかを気遣ってあげられるとしたら母や妻だろうね」という歪な感覚が現代の意識なのでしょう。
そしてじゃあ母や妻以外に誰が? となった時、誰も適切な答えを返せません。まるでNIMBY問題のようです。
ここに「男性同士でやればいい」と答えようとすると、次で説明する能力面の問題に突き当たります。
能力面について。
母と妻以外に男性の弱さを気遣う存在として、男性があげられることはあります。
先述のエントリで書いたように、男性は様々な場面で粗末に扱われる人生を生きていくためには、自分に対しても他人に対しても気遣う能力を退化させざるをえません。
多くの男性のケア能力は既に鈍麻し退化させられているのですから、男性同士が集まったからといって気遣いあえるわけがないのです。
だから男性の集まりは、競い合うライバル関係、お互いの得意分野を見せ合う趣味の会、外部に発見した敵と戦うことで一体感を得る集まりなどになりがちで、弱さへの気遣いをしあうことができません。
ならばケア能力を退化させずに生きてきた人たちが手を貸すことが望ましいですし、男性が能力を失っている以上その中心は女性になるでしょうが、それは「女をあてがえ論」だと言われてしまうわけです。
男性にも社会からの監督・保護・ケアを与えようとするのであれば、女性が、自他を気遣う能力の師匠をやる時期がしばらく必要だと思います。
女師匠の存在は、「ずっと女に押しつけておけ」というものではなく過渡期として必要な施策であり、悪しき「女をあてがえ論」だと否定するべきではないでしょう。
100年後くらいに、気遣う能力を潰されずに中高年になれる男性も増えたら、男性同士での気遣いも、気遣い能力の教育も可能になり、女性ばかりが師匠をやらなくて済むようになるはずです。
(私個人は、先述のエントリで書いたように基本的には男女ともに監督も保護も少ない男女平等の方が実現可能性が高いと思っていますが、男女ともに監督と保護が増した世界を目指すならこのような考え方がいるだろうという思考です)
このエントリは、前のエントリに比べて同意を得られないでしょう。
特に、一番同意されないのが、男性に自分たちを気遣う能力を喪失しているから能力のある他者が助けなければいけないという部分だと思います。
しかし、そこがもっとも男性の能力のなさ、即ち男性の弱さと助力の懇願を赤裸々に書いたパラグラフのはずです。
「男性の多くは、この分野(自他を気遣うこと)においては自分達の面倒を見る能力を喪失させられている」までは前のエントリで書いたことと同じであり、一定の同意を得られたはずです。
ですがそこから「なので、能力が鈍磨させられづらい人々が助ける必要がある」というSOSになると、一転して反発され、助けなくていい理由や、他者集団を頼らず自分たちの中で何とかすべき理由が沢山考えられる。
プライドなんか捨てた方がいいというアドバイスは世間に沢山あるけれど、いざプライドを捨てて金の無心を始めた人間に対してはみんな冷たくしはじめる、という状況を連想させます。
男性の弱さが世の中に認められづらいという傾向は、このような抽象論のうちは同情されても具体論として実際に助力を求めだすと拒絶されるという現実にも強く表れており、それが男性たちの「結局弱い男なんて誰も許さないんだよ」などの捨て鉢な言葉に繋がってしまうのではないでしょうか。
スペック紹介。
顔は下の上〜中の中。人によっては可愛いってたまに言ってくれる人が現れるぐらい。
婚活というか恋人探しを始めた理由は、このままじゃまじで一生独身なんじゃないかと思い始めたから。
大学の時は長く付き合ってる彼氏がいたけど高学年の時に別れた。就職して環境変わったら自然と新しく彼氏できるだろ、くらいの安直な気持ちでいたら職場の人間がほとんど恋人いる人ばっかりで少し焦った。あと女の子結構みんな可愛くて自分が特別目立ったり人気出たりすることは無いだろうという事もすぐ悟った。
当然職場で彼氏は出来ず、仕事以外の出会いもないので彼氏を作るには能動的な動きが必要だと考え始めた。そこで仕事少し慣れてきたかなくらいの時期にまずはマッチングアプリを始めてみた。
というより上から目線の意見で本当に申し訳ないけど、「だからアプリやってんだろうな…」みたいな男の子ばっかりで、正直自分が今まで好きになってきた様な所謂"普通の男の子"みたいな人が全然いなかった。
顔がかっこいい子は結構いて、でもそういう子は彼女作る気無かったり、職が安定してなかったり、日本語がちょっと危ういとか…そんな感じ。イケメン高学歴もたまにいるけどそういう人とは本当に美女じゃないとマッチしない。
Twitterとかでも散々言われてるけど、現代ではイケメン〜フツメンは美女と付き合うから、美女じゃない女は付き合えもしないフツメン以上を求めて、その下のちょっと癖ある男の子とか顔があんまりカッコ良くない人を好きになれないっていうのをすごい実感した。
自分だってアプリに頼らないと誰かに好かれたり告られたりアプローチされたりするイベント起きないし、自分の女としてのレベルって男の子だとこういう辺りなんだ…って自覚した。
そんな中でも自分の好み寄りの顔でまあまあ学歴高くて年収も良い人を1人選んで、一応付き合った。半年くらい付き合ってたけど、その人もやっぱり癖がある人で、そんなもん歴代彼女に矯正されておけよって部分が多かった。(すみません伝わってください…)てか、そういう部分があるから今まで長く彼女と続いた事無いんだろうな…みたいな。
その人との別れを契機にアプリじゃ結局自分が求めてるものは得られないと分かった。
ので、今度はもう少しガチで踏み込もうと思いライトな結婚相談所へ入会することにした。
結婚相談所
わたしが入ったところはマッチングアプリの堅いバージョンみたいな感じ。月15000円。男の人はもう少し高いのかも。入会して専用サイトで顔つきまたは顔なしプロフィールのみ、とかをずらーっと見て簡単なスペック見れて気になったらメッセージ送るみたいな。時々イベントとかも開催してくれて参加したければ別費用払って参加。担任みたいな人がついてくれてたまに1対1のお見合い話も持ってきてくれる時もある。
そこで感じたのはやっぱり圧倒的な顔面レベルの低さだった。サイトでプロフィールずらーっと見てても惹かれる顔はあんまいない。
イベント参加した時に、参加女性はこ綺麗な感じで比較的ペラペラ喋れるお姉さんが多かったけど、男性はうーんって感じのコミュ障ばっかり。
唯一の希望(?)が、わたしは結構学歴と年収を重視するタイプだったので顔なしプロフィールでええやんって思える人もまあまあいたことだった。
活動1ヶ月くらいで、3歳上の有名国立大卒の堅い仕事についてる人と会う事になって、顔もまあまあ好み寄り、話も全然できない訳じゃない、誠実そうな人だったので2回目のデートも行く事にした。でもやっぱりときめいたりきゅんきゅんしたり、そういうのは無い。雄っぽさが無い。その日の夜に電話で交際を申し込まれて、なんとなく保留にしてしまった。このスペックで、自分にすでにベタ惚れしてくれてる人を断ったら勿体無いんじゃないかと思った。
保留にしたまま3回か4回会ってるけど、会うたびに変な歩き方とか、ヨレヨレのポロシャツとかなんでそんな大きい鞄持ってくるの?とかペタっとした髪型とかわたしに気遣いしすぎるとことか、LINEがおじさん臭いとことか新しい発見が目についてちょっとイラッとしちゃう。
それでもこの人と結婚したら多分一生わたしのこと好きで居てくれるだろうし太っても老けても気にしなそうだし何でも言う事聞いてくれそうだし、
童貞っぽいから元カノの影に怯えてヘラッて泣くこともなさそうだし浮気絶対しないだろうし、
いろいろ自由に生きていけそうだなって思ってる。
だから多分この人と結婚する。男として色気感じたりした事ないし好きじゃないけど。ぼちぼち交際OKだそうかなあ…という感じです。
多分自分のスペックでは今後の人生において、かっこよくておしゃれでセクシーで話が面白くて、みたいな男の子とはもう付き合えないから。
妥協というか諦めというか。
イケメン男性医師と結婚することを学生時代は夢見てたけど、現実ちゃんと見れてきてます。
研修医終わる時点で恋人いないと結構本気で女医さんは独身コースになるっぽいので、早い段階で行動して自分のスペック理解できてよかったなと思ってます。
以上です。誤字脱字ありましたら申し訳ありません。
攻略本とか知識本を買ってあげるといいと思う。ゲームで大切なことは"プレイ"に関わらず、自分で"探索"すること。自分で気づき、自分で考えて実践することに意義がある。Youtubeを見ているだけでは、子供は何も身につかない。
未だに興奮して眠れない記録魔の自分がすることはやはり記録することだった。
時間による記憶の喪失が愛しい者を失うことの感慨さえも洗い流してしまうなら
それは人にとって救いであり、希望なのかもしれないが私はそう思わない。
私の猫が死んだという事実は私が生きている限りにおいて永遠に記憶されるものであって欲しい。
死んだ瞬間は悲しくなかった。
実を言うと今も悲しくはない。
死んだ瞬間はその事実に気づき、やはり死んでいる、生き物ではなくなり
外界を認知し変化させることのなくなった物体に変化した、そう認識した。
だから後悔はなかったのかもしれない。
医学は専門ではないがわからないなりに病院に行き、母と二人で注射器での薬の経口投与を繰り返した。
本人がどれほど嫌がろうとも。
猫の体調が悪いと気づいたのは一ヶ月ほど前からだった。
食事後に餌を吐くようになり、吐いた餌を食べたり食べなかったりした。
3日ほどで病院に行くことになった。
猫の体調が悪化するのと逆に自身の長年の体調不良は回復していった。
糖分を取らなければもろもろの不定愁訴が解消していったのだ。
2年以上に渡る体調不良は米を取らない。その一つの行動から回復していった。精神科にも通った。薬の効果も実感している。
しかしながら生まれてきた中で思い出せる限りの長い期間常に自身は体調不良だったのではないかと気づいた。
薬理的な効果以上に炭水化物を取らないことが自身の体調に寄与していることは明らかであった。
猫に話を戻そう。
とにかく彼女は餌を食べられなくなった。
異物を飲み込んだのではないかと判断した医者は様子見の生徒剤の投与後、内視鏡による異物摘出を試みた。
その時点に至るまで二週間ほどがすでに経過していたと記憶している。
また、気管挿管の際にミスをしたのか、呼吸音が異常になっていた。
次にしたことは猫を飼い始めた時にノミ・ダニの薬とワクチンを打ってくれた看護師に連絡することだった。
彼女らはすぐに来てくれ、この食事が良い。だの、この時期に猫が吐いてしまうのはよくあること。だの、医者は変えた方がいい。だの、と違う立場で自由な意見を述べた。
親切にしてくれたし、変化が必要かもしれないと、私は彼女らの言葉を聞き、近くの病院に医者を変えた。
今思うに、この判断は貴重な時間を空費するだけに過ぎなかったと考えざるを得ない。
やはり、医者を変えたあとも猫は吐き続けた。
次の病院で行われた治療は元の病院とは種類の違う吐き気止めとステロイドを繰り返し投与だった。長い二週間だった。
彼女は嫌がった。苦しいので当たり前だ。餌も飲み込めず、後に水すらも飲み込めず苦しがるほどの猫に経口投与を繰り返した。
しかしながら呼吸音はステロイドにより落ち着いた。そのように思えた。
ただ、嘔吐は二週間の間に違う餌に切り替えた努力も虚しく、変化がなく無駄だった。
私は調べうる限りの症例を聞いたが、最後にガス性のイレウスではないかと聞いた際にはっきりとそうでない理由を伺うことはできなかった。
このままでは食事ができずに死にますよ。そう伝えると彼の助手である女性の看護師は二次診療専門の病院を提案した。
この病院でのカルテは渡すので、治療データがこちらより豊富な元の病院から二次診療専門病院に連絡をつけるようにと言われた。
元の病院に連絡すると少し驚いた様子であった。
事実上、さじを投げたと言ってもいいだろう。
二番目の病院からでも出せる診察依頼を出すことなく、元の病院に戻したので少し呆れていたのかもしれない。
しかし私はそんなことはどうでも良かった。
20万円ほどの少ない蓄えも底をつき始めていたが、友人に借金してでも治療を完遂させようと考え、友人にもその旨を伝え、了承を得ていた。
そこからは彼女なりの治療プロトコルに従わないので苛ついているような反応を返すノミ・ダニの薬を売ってくれた看護師に話を聞いたり
死んだ場合どうすれば良いのかを考え始めたり、たまに来る母親に猫を見てもらったりした。
モノになったのだ。席を立ち、ジョナゴールドの発泡スチロール箱を見てやはり実感する。
眠っているのではないことは知っている。もう彼女は外界に何ら影響を与えることを許されないのだ。
ただただ衝撃だけがある。
元の病院の男性の医者ではなく、別の女性の医者が対応してくれた。
彼女は胸にあるしこりと、胸水が気道と食道を圧迫していることに気づいた。
猫はここでも抵抗した。麻酔なしでは胸のしこりを生検することはできなかった。
また彼女は、胸水の原因を特定しようと試みたが確実にリンパ腫が原因であるとは判定できなかった。
もしくは、今の胸水を専門医に判定させる。
私はCTを受けさせることにした。
そして初診を予約できたのがそれから三日後だった。
初診の前に血液検査を行うことになった。
血液検査の結果、異常は特に無いように思えたが猫白血病ウイルスが陽性であった。
こうなると寛解はしない。高額な医療費を請求されて生きられるのは半年から一年程度。
そういった認識があった。
友人とは相談した。
つねづね私は話していた。
単純な功利主義だけでは世の中回っていかないが、重度のケアが必要な猫を一匹救うより、未だに健康を保てている猫を二匹救うべきだと。
友人と私は話し合ったが明確な答えは出ず、それでもざっくりとした方針をなんとか決定した。
飼い猫はまだ4歳前後であることから、一度治療に成功すれば5年以上の生存の見込みがある。
そのためにならば50万から最大100万円程度の治療費を貸し付けることは容認できる。
しかしながら、一年の延命治療のために高額な費用がかかるのは私自身の考えからは外れてしまうこと。
つまり、リンパ腫など予後が悪い病状の場合は安楽死、ないし積極的な治療を放棄することを決定した。
初めてあった時から肩に登ってこようとし、私の無茶な要求にも反抗しようとすることはほとんどなかった。
左耳の部分が腐ったのか落ちており、付け根は膿んで肉が露出していた。
さくらねこというのだが、猫は避妊処理の後のリリースされると耳の先をカットされる。
メス猫は普通左耳の先をカットするが、彼女には左耳がなかったので右耳をカットされていた。
彼女は飼い猫以上に友人であった。
自分の鼻をすぐに舐めたがる犬のような猫であった。
その癖意地を張ってウェットフードを食べない頑固な猫だった。
時に一緒に眠り、また、顎をブラシで撫でてやるとゴロゴロと音を鳴らした。
肉付きはよく、4.4キロほどあったと思う。
話を戻すが治療方針を決めて二次診療専門の病院の初診に向かった。
母親に車を出してもらい向かった先でしたのは、元の病院の女医の話す内容とほとんど変わらない内容の説明を受けることだった。
また、治療方針として、胃ろうをして欲しいと言うと彼は自身が胃ろうは好きではないと話した。
ここでは結局治療をすることはなかったし、進展はなかったので詳しい話は省略する。
初診料として8500円ほどを支払い、帰路についた。
それからまた3日ほど経った日、水を飲んでも吐くようになった。
このままでは保たないと判断したので、点滴で水分だけでも入れてもらおうと元の病院に連れて行った。
体調が悪いこと、胸水を抜くのは抵抗されたので難しかったこと、9月1日にCTを取りに行く前にもう一度点滴を受けて万全の状態にすべきであることを女医は告げてきた。
次の日、つまり昨日(8月30日)その瞬間は訪れた。
呼吸音が異常ではあったが、それほど異常の度合いが高いわけでもなかった。
しかし母親が突然来訪し、ちゅーるを持ってきた。友人と話していた自分は母親と話すことになり、もう一匹の猫にブラシをかけるなどの世話を始めた。
帰ってものの十分程度で発作的な呼吸が始まった。
初めて失禁し、のたうち回った。
夜間病院に連れて行くかどうか、20分ほど思案した後、母親を呼び戻した。
母親が到着したのは35分程度後だった。
それまでに、死んでしまい、死後硬直が始まった時のためにダンボールとタオルは用意していた。
車で来てくれた母親に事前に電話した動物病院に行くようにお願いをし、移動を初めて20分ほどで呼吸音がなくなったことに気づいた。
助手席から降り、確認したがすでに瞳孔は開きっぱなしで力の全く入らない死体になった猫がそこにいた。
動物病院に行くのはやめ、大きいディスカウントスーパーに向かうことにした。
保冷を始めるためだ。
私はもう次の準備を考え始めていた。
アドレナリンが出て興奮していたのもあるが死体を腐らせる訳にはいかないと思っていたし、覚悟はしていたからだ。
スーパーに向かい、発泡スチロール箱の有無を聞き、もうなさそうだとわかると氷だけを買ってそこを出た。
23時になっていたのでコーナンなども空いていない。
家の近くにあり24時間開いているスーパー玉出に向かうことにした。
普段から無愛想なおじちゃんに声をかけるとそこになかったらないと言われたが無事キレイな発泡スチロール箱があった。
おじちゃんに礼を言って車で自宅まで移動し、母親と別れ、友人と話をした。
そんなにしんみりはしなかったが、衝撃はあったと話をし、故人の話をしてくれたりしたが、騒音が気になりほどほどで話は終わった。
風呂に入ったが猫を何度も風呂に入れたことを思い出し、喪失感を感じてすぐに出た。
もう一匹の猫を膝の上に乗せていると少し眠たくなったので寝たがやはり一時間ほど寝れずにこれを書いている次第だ。
これから葬式をどうするか考えないといけないし、行動している内、考えている内は悲しくなることはないだろう。
この文章も一時間半ほど書いて疲れたのでこのあたりで筆を置くことにする。
死ぬ前に考えた。
自身は無神論よりの不可知論者ではあるが、猫が死んだらどうなるのかと。
自分は肉体と精神に関しては唯物論的な思考でいるので肉になるのだと考えた。それでも悲しくはなかった。しかし救いはなかった。
私は幸いにも救いを必要としていないのだろうけれど、なぜ宗教が必要とされるのかは少しわかった気がした。
思うに愛別離苦、別れは経験であり、自身の糧にするべきで背負っていくべきものだ。
死は絶対で覆すことはできない。それはあらゆる命にとっての救いでもあるのかもしれない。
数年前から増田でも話題の「有料で感想をもらうサービス」を利用してみたところ、もらった感想がまるで夏休みの学生の読書感想文のようで萎えたという話。有料感想サービスって、サービスとして良い話しか聞かない気がする。なので、これから有料感想サービスを利用しようと思っている人への「こういうマイナス面もあったよ」という、サービスに対する星1レビューです。参考までに。
これまで何冊も同人小説本を出したことがあるけど、今回は締め切り直前で話の方向転換をしたこともあって、とにかく締め切りに間に合わせることで精一杯だった。なので、内容についての手応えも弱くて、正直これまで出した本の中で一番自信がなかった。ただ、締め切り直前=イベント直前ということもあって、親しい友人に読んでもらって感想をもらっている時間はなかった。(なにせ文庫本ほどのページ数があるので、友人に「いついつまでに読んで感想くれ!」というのも頼みづらかった)
そんな時に、別ジャンルの同人女たちが有料感想サービスを利用してすごく良かったという話を聞いたのが、きっかけだった。
これまでわたしはそれなりに本を作り、頒布してきて、それなりに感想ももらっている。なので正直感想に飢えている、というわけではない。だけど今回は上記のこともあって「頒布前にちょっとテンション上げられたらいいな」くらいの気持ちで、有料感想サービスを申し込んだ。
先に断っておくけど、これはそのサービスを提供した人の人格を否定するつもりは一切ない。「有料サービス」を購入したユーザーとして、提供されたサービスに対する「レビュー」というだけなので。
お願いした小説は50,000字以上100,000万字未満、数年前にぼちぼちメジャーだった作品の二次創作で、キャラクターたちの未来の話で、全員が医療に関係しているお話としておく。元々医療系の小説が好きで、かなりの冊数を読み込んできた。医療関係の友人に監修もしてもらい、本格的なものを目指した。サービスの料金は3,000円前後、頂いた感想の文字数は3,000字前後。感想を頂いた方は元の作品をまぁまぁ知っている程度。
小説のテキストデータを送って約一週間、テキストデータで感想を頂いた。冒頭の挨拶から始まり、全体への所感。ここですでに的外れな印象を受けた。
「メッセージ性が強い作品で…」と書かれているが、大それたメッセージを乗せた覚えはない。「微笑ましい場面が…」と書かれているが、日常的なシーンは冒頭部分くらいで、あとは病気と闘うビリビリした場面ばかりのつもりだったんだけど、ほのぼのして見えたのかな…と正直ショックだった。
というか、冒頭の所感がまるで定型分。「たくさんの衝撃に目が離せず」「読めば読むほど先が気になって」「読了後の余韻も大きく」「展開が読めなくて」「分量があるのに読みやすくて」などなど。自分の作った話に向けられたとは到底思えないくらい汎用性の高い言葉が並んでて、依頼者全員にコピペして送ってるんじゃないかって思った。
そんな定型文が1,000字ほど。すでに1/3。それ以降の、内容に触れられた2,000字が、まるで嫌々書かされた読書感想文のようだった。
学生時代の夏休みの読書感想文(指定図書があるタイプ)、興味ない本を読まされて、何書いていいか分からなくて、提出したら先生に「これは本のあらすじを書いているだけ。もっとどの場面でどんな気持ちになったのかを書いて」って言われる、そんな感じのやつ。あらすじを感想として書かれるのって、こんなに微妙な気持ちになるんだ…って思った。
「AとBが〜〜する日々に〜〜したのがCでした」「こうしてはじまった二人の生活は、意外な人物の登場で一変します」「後にDは〜〜という経験から〜〜という決断を下します」
それってあなたの感想ですよねどころか、それってこの本のあらすじですよねって言いたい。めっちゃ言いたい。あらすじで文字数稼ぐ手法やるよね、わかるわかる。「この本の感想です!」って本のあらすじ書かれてたらこんなに萎えるんだなって、逆に感動すらした。場面ごとのあらすじの後に「このセリフにびっくりしました」「この行動、すごく説得力がありました」と書き足されてはいるけど、どうしてびっくりしたのか、なぜ説得力があると感じたのか、それがいわゆる感想ってやつなんじゃないのだろうか…。
この方のサービスのレビューには「リピートです!今回も丁寧に読んでくださって嬉しいです!」や「自分では気が付かなかったポジティブな気づきが…」や「細部まで読み込んでもらえて…」といった星5レベルのレビューが並んでいる。自分の小説がよほど悪かったのか?とも考えたが、今までそれなりに冊数作ってきて、毎回二桁後半刷ってイベント2~3回と通販で一年以内には確実に売り切っているし、長文感想も何度も貰ったことがある。なので、〝よほど〟悪いとも思えなかった。
一点ひっかかる部分があるとすれば、感想文中に書かれていた「わたしは医療系の小説をあまり読まないのですが」という部分。
要するにこの方はそもそも「医療系(と元作品)」に〝興味がない〟のだ。だから「興味のない分野の長々とした小説を読まされて、捻り出した結果あらすじを羅列した感想」になってしまったんだろう。
当然の反応だと思う。興味のない分野の小説を読まされて、〝感想くれ!〟って言われても、そもそもそのジャンルが刺さらなければ感想なんぞあるはずもない。
しかし、これは「有料のサービス」なのだ。わたしは「感想」を依頼したのであって、「あらすじをまとめてほしい」と依頼したわけではない。金額に見合うサービスかどうか以前に「感想」という商品を買ったものとして、これは不良品なのではないかと思った。「あなたの小説(ジャンル、分野)に興味はありませんが、お金はもらっているので捻り出しました」というのが伝わってしまってはおしまいだと思う。造詣が深くないならないなりに、もっと上手な書き方ってあったと思うんだけどな。
同じ金額を払うなら、例えば自分の作品を長く好いてくれていてある程度仲の良い方や、同人仲間、自分にこういう趣味があり自分の好みを知ってくれている友人などにちょっといいランチご馳走してスタバカードあげてお願いしたほうがよっぽど有意義な気がする。だってそういう人たちはそもそもこちらに興味の矢印を向けてくれているのだから。そういう人がいないから有料感想を買っているのだとしたら、まず根本的に「そういう人がいない」という自分の人間関係の構築の仕方を見直したほうがいいんじゃないかと思う。だって同人やってれば創作仲間の一人や二人できるでしょ。
これから有料サービスで感想をもらおうと思ってる人は、できれば自分のジャンルを好いてくれている人や興味の矢印を向けてくれている人にお願いしたほうがいいと思いますよ。というかまず、そういうやりとりができる友達つくったほうがよっぽどコスパいいなと思った。
https://www.asahi.com/articles/ASQ8V5CM4Q8VOIPE008.html?ref=tw_asahi をざっと見てちょっと思った。
男性の育児参加が高まると、「仕事と家庭の両立が困難になるから」という理由で昇格をも望まないという男性も出てきそうだなと思ったもので。
勤めている会社は年功序列ではないので、別に部長や課長だからと言って頭の禿げたおじさんではない。
そして、役職が上の方の人ほど、この人たちいつ寝ているんだろうみたいな仕事の仕方をしているように見える。
部長に子供が生まれた時、様々な意思決定をしてもらわないといけないし、決裁も必要だからと長期に休まれるのも困ると思う反面、
育休もほとんどとらず仕事復帰しているのを見ると昇格をしたいと思う一方で、昇格して家族との時間が減るのは嫌だなとも思ってしまう。
アンケートの対象となった入社5年目くらいの人たちは、未婚で子どももいなかったりして、大変さが見えないから男性は無邪気に管理職を望み、
"Do not leave before you leave."とシェリルが言ってあげないといけないような女性たちはその先の大変さにすでに気づき、管理職を望まないと予想する。
育休を取るのが当たり前の会社で、子供の年齢が5歳の人に同じ質問をすると、男性でも管理職を望まない率がかなり多いのではないかと思った。
これは自分の心境の整理のために書くものであって、誰かに読ませるためのものではないことをあらかじめ記載しておく。
男の子の遊びが好きで、運動が嫌いだから外遊びこそしなかったけれど休み時間は女子よりは男子とつるんでいた。
家族から「女の子なんだから」「いつか将来彼氏ができたとき」「その服かわいいね」と言われるたび違和感があった。
それで、「性同一性障害」と――少なくとも当時はそう教えられた――呼ばれる概念を知ったのが小学校5年生の秋頃。性同一性障害という単語を知って数日後に、突然自分がそれに当てはまることに気が付いた。
気付いたときは混乱した。今まで自分は女として分類されていたし、身体が女なんだからそれを疑いようがなかった。だから赤いランドセルを大事にしていたし、シナモロールの筆箱を黙って使っていたし、将来の夢は幼稚園の先生だった。体育の着替えも使用するトイレも、女子たちと一緒でも何も思わなかった。
今なら自分の持ち物は親が買ってきたものなんだから選択の自由なんてはなから無かったと言えるし、小学生の言う将来の夢なんて知っている職業から無理やり捻りだしているに過ぎないとわかるし、身体が女なら周囲の人間や自分自身の安全のために女子更衣室や女子トイレを利用するほかないことぐらいは当然理解できるのだが、小学生の自分は「男か、女か」という固定概念に囚われ、自分の在り方が大いに矛盾したもののように感じられた。
その日学校から自宅に帰ってきて、初めてうちの母に「俺」という一人称を使ってみたいと言った。母は怒り狂った。そんなはしたない言動をしていいわけがないだろう、痛々しい。女の子なんだから俺なんて言葉を使っちゃいけません。テンプレみたいな行動だった。
母はパソコンで「俺っていう一人称使う女イタいよね」みたいなスレのまとめまで引っ張り出してきて、「ね?みんな気持ち悪がってるからやめなさい」と言い出した。「中二病乙って感じ」「マジで気持ち悪い」「(暗黒微笑)とか使ってそう」みたいなレスならまだよかったが、中には「僕っ娘かわいい彼女にしたい」とか「ぶち犯して女であることを理解させたい」のような性的な物まで混ざっていた。多分母も頭に血が昇っていて内容まで細かく精査する余裕はなかったのだろうが、だとしても小学生に読ませる内容ではない。まして自分の性別の違和感に気づき、勇気を出して親に打ち明けた小学生に読ませる内容では絶対にない。……と今なら反論できるだろう。繰り返すようだが当時小学生である。心理的に非常にショックを受けたが、それを言語化できない。
母も修羅場だったんだろうなと思う。私が早めの中二病を発症して、このまま矯正しなければどんどん品性の無い振る舞いを覚えるようになるのではと危惧したのだろう。こちらの心理を勝手に決めつけて行動さえしなければ正しい教育方針だったんじゃないだろうか。結果的に大惨事が起きてるけど。この出来事は親への信頼を損なった思い出として大いに心に残り、このことを父親に言えたのは今年の7月に入ってからだ。
それから中学校・高校と、友人の前では男として行動し、先生や家族の前では女として行動する生活が続いた。当然友達はいなかったが、そもそも友達と一緒に遊ぶよりは一人で過ごす方が好きだったので大した問題は無かった。精々中学校で変わった奴認定されてひそひそ陰口を叩かれたぐらいだ。それなりの偏差値の高校に行けば止まった。
今通っている大学では、自分の身に降りかかるありとあらゆる出来事にある程度妥協ができるようになったつもりなので女として過ごしている。就職したら準備が整い次第すぐ母親から離れて、私生活では男として過ごすつもりだ(就職活動を女としてやってしまったので就職先ではどうなるかわからないが……)。
まあ妥協できたつもりになっているのはあくまで「つもり」でしかないので、未だに自分の性別がどちらかわからなくなるし、女として振る舞いたくなる時も稀にある。だけど基本的に私の性別は男で、身体の性別が重要になる場面以外では男として扱われたい。いちいち説明するのもめんどくさいので、身なりを変えられるようになるまでは女として過ごしているだけだ。
結局何が言いたいのかわからなくなってしまった。誰かに読ませるための文章でないことは冒頭に記述した通りだが、こんな怪文書を最後まで読んでくれた根気のある人に強いて何か伝えるとするなら、何も言わず普通に接すること以上の配慮はないということだ。個人的な意見だが、性的マイノリティに対して特別な配慮が必要なわけではないのだ。ただ、こっちがどんな一人称を使っても、どんな服を着ていても、突っ込まず昨日までと同じように普通に話してほしいだけ。内心でどう思っていようが、面と向かって馬鹿にされない限りはこちらも気にしない。「その服おかしくね?」とか「何その喋り方」なんていう問いは、自分で自分自身に向けて散々発しているのだ。今更他人に問われたくない。
ブルアカの今イベが、なろう系によって滅びたはずの青春と精神的な成長を描いた物語りで老害としてはテンションがあがった。ざっくりいえば、中二病から高二病に移った少女が、中二病も高二病も同じだと気づく話である。
そういう大人に近づくこと。少し言い換えると、自分本位さに気づいて他人を受入れられるようになること。冗談と侮辱との違いを感じとれること。自分を信じてくれる仲間とそうではない人たちがいることに気づくこと。分別がつく、ということだけど、実際それはまだらで、一人の中に分別のつかない子供っぽい一面があれば、分別のついた大人っぽい一面もある。そんなところが今イベの物語りには詰め込まれていた。
まあ、こういう大人になる物語りは旧世代の王道ではある。でも、ある事柄だと自分は分別が付いていないという性格の欠点に気づき、それで分別がつくようになるというのは、他人の人生を垣間見れるという面白さと同時に欠点を突きつけられる苦痛がある。苦みのある面白さは、なろう系の性格を全肯定することで苦痛を排して、自己を承認される快楽を楽しめる物語りによって滅ぼされたのだと思っていた。海の向こうだから生き残っていたのか、それとも過去の王道を目指しているのかはちょっと分からないところである。
判定が明確ではないからと、小説のネタパクは流されがちだよなあ。
読み専の立場ではありますが、一次創作や二次創作を読みながら「Aさんのこの作品、タイムラインで流れてきたエロ漫画の広告と同じ展開だな」「Aさんのこの作品、流行り漫画と全く同じ設定だな」「Aさんのこの作品、エロシーンの展開がBさんの前回の新刊と全く同じだな」と思うことが度々あり、最近ではAさんが今後の執筆の予定を呟く度に元ネタがどれなのかを当てるのを楽しみにしています。
ご本人は「インプットを増やそう!」と言ってよく映画の感想や漫画の感想をツイートされているのですが、彼女の言う「インプット」はシコれる設定・展開を探すことなのだろうなという印象です。当然、キャラクターの掘り下げから生まれる作品では無いため、展開やキャラクターの言動に違和感が残ります。
一次創作・二次創作、あくまで趣味の世界なので気になるなら読まなければいい話ですが、前述の通り元ネタを探して読み合わせる遊びをしているためついつい読んでしまいます。
私は一読者なのでまあダメージは無いし笑い話なのですが、これ、ぱくられている側のBさんは気づいていないのか?と気になるところ。とはいえ揉め事の元凶を作る気もないのでこうして増田に書きに来ています。
そして恐ろしいのは、このAさんと読んだ方、1人ではないのです。同じような方が散見される。そして総じてそういった方達は
を自負しており、度々そういった事を匂わせるツイートをしています。
私はこのとおり、増田にいる腐女子なので高校生の頃漱石や川端にハマり読み込んだ黒歴史持ちなので、彼女達の小説が、小説と呼ぶにはあまりにお粗末である事に気づいています。
例えば、主語の入れ替わりなどの文法的な問題、熟語の誤用……自分が取引先なら絶対に嫌だなと思う間違いが多いのですが、彼女達は気づきません。
そして、新作が発表される度にその人の周囲にいる人のネタパクだと、ラレ元さんは読んだ時にきっと気付くのに、どう気持ちを整理しているのだろうと思います。読者側ももちろん気付くとは思いますが、冒頭の通りトレパクのような明確な判定が難しいため、「〇〇さんのその作品を私は読んでいません」「よくあるネタなので被ることはあると思います」「気分を害してしまい申し訳ありません」と言われてしまえばこれで収束してしまう。
こういう人に限って自分のネタが先、後から同じネタ(展開は全く違う)で近しい人が本を書くとモヤモヤツイートをするので始末が悪い。
貼ったの母親じゃん
とくに事件性なし
たぶん拉致被害者とかだろ
生きてるとは思うが、念のため合掌
1994年9月、当時27歳の嵐真由美さんは出産のために東京都墨田区にある実家に戻っていました。
そして9月2日の19時ごろ当時1歳の娘を実家に残して外出し、そのまま行方不明となってしまいます。
「同級生に会いに行く」とだけ言い残して行方不明となった真由美さんは、そのまま戻ってくることはありませんでした。
「洋子のはなしは信じるな」
この言葉が広まったきっかけとなったのは、ニュース番組「スーパーJチャンネル」でした。
この番組では、未解決事件を番組独自で調査する人気コーナーがありました。当時この事件も未解決事件として取り上げられ、そこでこの事件が取り上げられることになったのです。
番組取材班は真由美さんの実家に取材に出向きます。テレビで特集し拡散することで真由美さんが見つかる可能性もあると考えた家族は、この取材を受け入れました。
しかし、インタビュー映像を取っていたディレクターがある異変に気づきます。
話題になったのは真由美さんの父親がインタビューを受けているシーン。それまで特に変わった様子はなかったものの、突然母親と思わしき人物が父親の背後、カメラにも映る場所に「洋子のはなしは信じるな」と書かれたメモを張り付けたのです。
「洋子」とは真由美さんの姉のことで、実家に暮らしていた洋子さんもこの取材でインタビューを受けていたのです。
カメラにもばっちり映ったこのメモについて、番組スタッフも違和感を感じますが「不可解なものがあったほうが視聴率がとれそうだ」というディレクターの判断により、そのまま放送されることとなります。
わるいです
発覚して1年半くらいです
33歳です
血糖コントロールは大切だと分かっているのですが、なかなか体調に表れにくいので、ついおざなりにしてしまいます
いま糖尿病以上にわたしの体調を直撃しているのは、生理前の不調で、おもに精神的なものです
死にかねません すごくたいへんです 別人になると考えていただきたい
しかし最近気づいたのですが、血糖コントロールが悪いと、これらの症状も悪いのではないでしょうか
糖尿病も、PMDDも、多嚢胞性卵巣症候群も(それもあります)、緑内障も(それもあります)、合併症といわれていなくても、全部同じわたしという人間において起こっていることで、なにかしらすベてつながりがあり、それらを切り分けて考えるべきではないのではないか
もっというと、すべて悪いのは糖尿であり肥満なのでは、と最近気づきました
やせればよいのでは
ともあれわたしからは、人間のからだとこころは総合的なものであり、すべての臓器は互いに関連している、という気付きを共有させていただきます
やせたほうがよい
以上です