はてなキーワード: ホビットとは
臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。
確かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつの出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。
読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードをミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶を登場人物とシンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説をSFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。
しかしながら、感情の描写や文章のリズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。
そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。
どうも舞台となっている世界の技術水準や、テクノロジーが社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。
かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由に戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロの本領である、決定的な本音や事実を意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。
熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。
かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中頭からも、今となっては過去の人とみなされており、最後に自分の人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。
かつての美しいイギリスの風土と、失われた執事の美徳/悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理が自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国のメイドや執事の本を何冊か読んだ。
長崎出身で現在はイギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身が創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。
これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的に相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画の脚本のお手本的でもある。
最初のうちは、この違和感は終戦直後の日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治の文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。
台詞で説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。
情けないかつての画家の話。老いて第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間は自分の存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。
そのくせ、隠しようのない自己満足と防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳は日本経済新聞の「私の履歴書」の文体にそっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。
よく、入り組んだ官僚機構をカフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶が曖昧で、自分がそもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家のあるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国の短編集といった趣だ)。
すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一のショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来いそっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。
カズオ・イシグロのテーマのひとつ、コミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆「虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。
奇妙だ。自分と他人の記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。
両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。
息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷なユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。
【追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。
忘却がテーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティが曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的で意図的な隠蔽とか。
国家が組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。
ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっと軽いかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代の日本語としては普通に受け入れられてるのかな。
あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。
ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話が引用されている。
彼のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家も文学のジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。
ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています。
イシグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品はファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。
人工知能が太陽光に病気を回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。
どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しかも最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教のパロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手に効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。
カズオ・イシグロのSFは、SFが主食の人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。
たとえば、明らかに危険な能力向上処置を子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。
カズオ・イシグロのSF設定がときどきザルなのは、リアリティのレベルを小説よりSF風の映画・テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話の絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。
確かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。
だいたい、フレーム問題未解決というか一般常識のインストールされてないスタンドアローンの親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系の知識を持つ読者にとってはかなりしんどい。
以上。読んだ順。
私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。
「わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説はSFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ
リベオタ=twitterで目立つリベラル思考のオタク、性別は問わない……という意味で用いている。
いや私自身もどちらかというとポリコレを支持しているし、リベオタなんだけどさ
ほんの僅か数ヶ月前の出来事に「黒人エルフを叩いていたのは男オタ」なる歴史修正をするのはやめてくれよ。当時の5chのログは普通に見られるよ
「『 男オタが』、黒人エルフを叩いていた」というとは全く事実とは異なる
まあ中には男もいたかもしれんが、男だけじゃなかった事は確かだよ
私は女だし、多分半数以上は女性だったと思う
しかもオタクはオタクでも最近用いられている、特定の作風のアニメ漫画ゲームのファンという意味のオタクではなく、『トールキンオタク』『指輪物語オタク』の方だ。
トールキンの指輪物語は1954年に原作が出版されてからというものから全世界で広がり、日本においても人気を博し、
エルフ語を本気で勉強したり英国留学したりするようなディープなファンが数多くいる
自分はピーター・ジャクソン版の映画から入ったけれど、それだってもうファン歴20年だ。
原作を読み、未邦訳の書籍を読み、オックスフォードに聖地巡りもした
映画版は今でも大好きだけれど原作ファンからしたら批判すべき点があるのも承知している
指輪物語のアマプラドラマ版の『力の指輪』はトールキン財団の協力は得ているといっても原作の時代設定や人間関係を大幅に変えており、黒人エルフのアロンディルの存在もその一部だ
原作にあるエルフの肌が白いという記述はエルフ全般ではなく上のエルフであるノルドールに限られるとの反論もあるようだが、
上のエルフを白い肌にして在野のエルフであるシルヴァンエルフのアロンディルを黒い肌にするのはそれはそれで差別的では?
このドラマではエルフに限らず人間もドワーフもホビットも、特に脈絡なく黒い肌のキャラクターが混じっているが、そのような人種のサラダ・ボール化は移動が盛んになった現代だから有り得るのであって、太古の地球を舞台にした世界観には合っていないよ
黒人エルフに批判的なファンであっても、東夷やハラドの英雄を描いてくれたら支持したという声もあった。
シルマリルの物語の方ではエルフに協力して戦った有色人種の英雄だって出てくるのに。
自分が日本人だからよく分かるけど、お前らは死んだほうが良い。
現代で知性的であることや、真面目に働くというのは仕事を効率的に行ったりイノベーションを起こせるような環境や体制を作ることだ。
ところがお前ら日本人は若手を活用しようとせずに、書類上は真面目に働いたことにして実際は全く効率化のための改善を行おうとしない。
効率化というのは結局のところ新体制や新システムへの連続的な移行そのものであり、旧体制派との衝突は避けられない。
もし自分たちの上司やクライアント、出資者の立場の人間が旧体制派であった場合は新しいシステムに移行する際の障壁となる。
そこでお前たち日本人は
「ビビって引き下がる」
ことを
「優しさ」
だとか
「真面目」
だとか
「思いやり、空気を読んで」
とか
「和をもって」
とか
負け犬の口で言い換えているだけだ。
実際は戦いすらせずに自分と仲間の命を全くかけようとせずに自分たちの権利と自由を勝ち取ろうともせず、
理想を一切叶えようとせず、しゃぶり尽くされてカラカラになった残飯の骨だけ加えて引き下がるだけの糞犬でしかない。
自分らの方が正しいと信じて、理論的にも論理的にも正しいという主張を持っているにも関わらず、
相手が権力者で相手の方が有利で会社や組織内で有利であるというだけで、しっぽを巻いて逃げる負け犬そのものだ。
いや、闘ってすらいないからクソ犬だ。
お前らはドラマの中ではレインボーブリッジを封鎖したり討ち入りしたり仕事人したりして
現実では自分より強い存在にはビビって何も言えなくなるホビット族でしかない。
何が誇り高き日本人だ。
そんなやつらは太平洋戦争で大量に死んで、今生き残ってるのは他人の命よりも自分の命を優先にしたやつらの子々孫々だろうが。
生き残って帰ってきた人間たちがどれだけ戦争が悲惨だったのか、同じ間違いを繰り返さないように教えても
お前ら日本人は馬鹿だからテレビに映る裸の男をみて手を叩いて笑うだけで誰も真剣に考えてこなかっただろ。
なぜお前らはそうなってしまったんだ。
何もデモを起こせなど言ってるわけではない。
自分らに正当な主張を持っているという確信があるなら同調する仲間を集めろ。
その主義主張が受け入れられるものであれば、どんどん広がっていく。
たとえそれが現代の法律に反していても自分たちのもつ倫理・論理が正しいと思うなら主張すればいい。
法律の元となるものが何なのかお前らは忘れてしまったのか。それは一般常識だ。
一般常識とはお前らが考えて行動している日常生活におけるルールそのものだ。
お前らがこのルールは違うと思えばいくらでも変える権利がある。
だがそれを国民全員で決めれない、だから選挙で選んで代理で政治をさせるのが間接政治だ。
お前らは元々の権利が自分ら個々人にあることすら完全に忘れている。
政治家とは常にお前らに評価されなければ代理人としての使命を果たさなくなることすら忘れている。
今、お前ら日本人が何年も続けてきた、権力に対する無関心のツケを支払うときが来ている。
団結しない
正しいことを正しいと主張することすらできない
自分らが新しいリーダーになるのではなく、権力者のおこぼれをもらうのを成功だと信じている
今、そういった古い考えで人生を生きている日本人は一度死ななければならない。
実行しろ。
反抗しろ。
もうお前ら汚くなった日本人たちに、誇るべき精神的文化なんて残ってないんだよ。
勇気をもて。
たったそれだけがないせいでこの国はこうなった。
俺ついさっきまでダンバイン見てたんだよ。
アの国とイの国とウの国とカの国みたいのが戦ってるやつ。
俺さあ、これが全然わかんないんだよ。
んでまあ思い出してみるとさ、昔から時代劇とか見ててもどっちがどっちの所属とかよく分かんないんだよな。
サッカーみたいにゼッケンしてれば色で分かるんだけど、そうじゃないと特徴的なパターン以外は無理なんだよ。
たとえばファンタジーでも「エルフそっくりなダークエルフ」とか「人間と同じ背丈のホビット」みたいのが出てくるとさ、いつの間にかソイツの種族が分からなくなるんだ。
物事を認識する際に使う記憶領域みたいなのが多分足りてないんだろうな。
ゆうてまあIQは悪くないっつうか、就職試験とりわけ公務員試験とかに出てくるようなIQテストはバンバン解けるんだわ。
ガキの頃から物覚えは悪かったんだが、ガキの頃は覚えるべきポイントを的確に絞ることで上手くやってたんだよ。
というか、単純にただ1対1で覚えるのはそこまで苦手でもないっぽいんだな。
ただ複数の属性を一つの物事に対して覚えるのが苦手で、その中でも人物がどのコミュニティに所属しているのかを認識するのがすげー駄目っぽいんだわ。
映画とかで裏切り者が出てくると、ソイツが今どっちの陣営にいるのか分からんくなるんだわ。
周りの人間を見ると、どうもそういうのって一部の頭が悪い人間しか起こさない現象っぽくてさ、俺この分野に関しては致命的に頭が悪いんだろうなと薄々感じてたわけよ。
んでまあ今さっきあダンバイン見てたんだが、まあダンバインってマジで意味分からんのな。
国の名前がシンプルすぎて脳みそに上手く染み込まねえし、主人公たちも異世界召喚されてるから顔つきで陣営を予想するとかも無理なの。
ほぼ自力で誰がどこに所属しているかを把握していく必要があるわけよ手探りで。
これがまあ駄目だったよ。
段々ゴチャゴチャになって今はもうショウ・ザマっていう主人公がダンバインに乗ってるってこと以外はてんで分からんくなった。
ロボットアニメだからバンバン戦争とかしてるんだが、結局どこの国とどこの国が戦ってるのかが全く分からんのな。
もしも12歳や15歳の頃の俺なら、どこを抑えればいいかを上手く把握しただろうし今よりは記憶力がマシだったろうからなんとかついていったと思う。
俺は今45なんだがもう無理だ。
完全に無理。
もうこれは知的障害者だろ。
でもこれって人間の能力のバランスが皆一律して最低ラインを超えてるわけじゃないって当たり前のことに由来してるんだと思うんだよな。
ランダムで振り分けた数字の中にときおり極めて低い数値が混ざるような当たり前の偶然っていうかさ。
そういうのがあっても人間って他の能力で上手く補えちゃうと思うんだわ。
特に知能に関する部分は、複雑に色んな能力が絡み合ってる分他の能力から枝を多めに伸ばしてやればそれでカバー出来るんだろうなと。
そういうのって他の人はどういう所にあって、どう誤魔化してきて、どう気づいたのか教えて欲しいわ。
らおかしいでしょ?
トールキンは翻訳しただけ。じゃあ誰が書いたかって言うと、ビルボとフロドが書いたのよ。
で、トールキンはエルフ語のそれら「西境の赤表紙本」を英語に翻訳した(という体裁をとっている)。
そして我々日本人はさらにその英語版を日本語に翻訳したものを読んでいる。
貴方が指輪物語のハードカバー版を持っているならば、カバーを剥いた表紙が赤いことに気づくはず。それこそがフロド達が書いた「西境の赤表紙本」の日本語版なのである!
だから、ビルボやフロドによるあれらの描写は彼らの視点で見たもの感じたものをなの。だからこそ、トールキンは本当に世界を見たように描写する事ができたのさ。
で、その赤表紙本にはホビットからみての黒人のような生き物はほぼいなかったわけ。だって、いたらもっと書いてるに決まってるだろ?
だから、「指輪物語」の中つ国のファンタジー生物には黒人がいるのはおかしい。と、俺は感じるのです。
まずビルボ・バギンズ。ホビットの冒険こと、ゆきてかえりし物語の主人公。ドワーフのお宝を巡る冒険の旅についての日記的なものを書いた。人生の最後に西方に旅立った。
そしてフロド・バギンズ。ビルボ甥。ご存知指輪物語の主人公。ビルボから日記帳を引き継いで指輪を巡るたびの顛末を記す。冒険で傷ついた心身は癒える事無くに西方に去る。
及びサムワイズ・ギャムジー(通称サム)などホビット庄の住人。フロドから日記を引き継ぎ、別バージョンや郷土愛に溢れる(退屈な)ホビット庄の記述を追記(そのため、序章で指輪物語を断念する人多数)。
まあ、映画版ロード・オブ・ザ・リングもアマゾンの力の指輪も、「指輪物語」では無いとわりきってるから別に黒人が出てもLGBTが出ても車いすのダウン症の中年が出てもどうでもいいんだけどね。
役者の人種や性別に多様性が必要なのってポリコレというよりも、単純に見分けがつきにくいからじゃないのかなあ…と思った
だって白人の同世代の男性だけを何人も並べられても、マジで見分けがつかないんだけど!?
映画に女性や黒人やアジア人を出したりするのって、白人男性ばかりなのに比べて見分けがつきやすいというだけでも大きな利点なんじゃないかと。
その逆で例えばロード・オブ・ザ・リングなんかは旅の仲間九人が全員白人男性だったけれど、
少なくとも種族別にビジュアルが全然違ったから見分けはついたものなあ
特に魔法使いとエルフとドワーフは間違えようがなかった(人間二人とホビット四人はたまに見分けがつかないという人もいたけれど)
あー、2択が来てしまった。
三種の神器は手裏剣以外は2つずつ手に入れてロード2人と侍2人に分配したが、手裏剣はまだ来てないんだよなあ。
一方、盗賊は専用の最強装備アイシングダガーを持ってるから、正直今のタイミングで転職しても強くならない。
このシナリオはどうも盗賊の短刀が無いっぽいから、忍者に手裏剣持たせたければレベル1から忍者作るしかないんだよなあ。
ステータスリセットを考えると、今のLV60盗賊を転職させてもHPを引き継ぐ以外のメリットが薄いな。新キャラ作った方が良いかも。
またはホビットで盗賊作って忍者になれるステータスになり次第転職するか。
どっちにしても、いまから育てる労力考えると、仮に手裏剣が手に入っても盗賊から置き換えるほど戦力に違いが出るとは思えないんだよなあ。下手すりゃ弱体化もあり得る。
・「指輪物語」(1950年代)以前にコナン(1930年代)などのヒロイック・ファンタジーがあった。
→「ソード&ソーサリー」という言葉は60年代に生まれた。
・「指輪物語」の米国での出版(1965)以後、“トールキン的なファンタジー”が広まった。
→当時「トールキンはソード&ソーサリーと呼べるか」論争があった。
→D&D(1974)など冒険者がパーティを組むゲームを通じて、人間型種族やモンスター側種族、ゴブリン、オーク、トロルやハーフリング(ホ○ット)がメジャーになった。
【Amazonプライムのドラマ版】※予想含む
・冥王サウロン(潜伏中)が関わってくる?
・映画版「LotR」冒頭の、サウロンの指が切り取られ、一つの指輪が失われるのが第二紀の終わり
・Amazonプライム版のキャラクター名がエルフっぽいので、第二紀前半のエルフの指輪鍛造のころか?
・若きガラドリエル(別キャスト)やエルロンドの青春時代、闇の森のスランドゥイル(レゴラスの父)も登場か?
森瀬「トールキンがそもそも描こうとしたのが現実の北方人種(北欧系)の世界だから……映画「ホビット」三部作になると人間側の人種バリエーションも広がっている」
【初級課題】
・「シルマリルの物語」「終わらざりし物語」も読んでおくとなお良し。
・これから「指輪物語」「ホビット」を読むならどの翻訳で読むか?
→Apple books(電子版)「指輪物語」固有名詞も良い。
【中級課題】
・The Lord of the Rings: A Reader's Companion という英語の注釈書もある。
・土地勘を養うなら「シャドウ・オブ・モルドール」や「Lord of the Rings Online」。
・The History of Middle-earth(12巻、Kindle版あり)通読ではなく索引的に使う。
・エルフ語学習 映画を見たときにエルフ語パートがわかる喜び。
→「A Gateway to Sindarin」映画の監修者によるエルフ語(シンダール語)解説書。
【おまけ(番組外)】
・“エルフ語”対応のAI翻訳サービス 「指輪物語」パロディーだけではなかった本当の目的 - ITmedia NEWS
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2109/14/news112.html
ダンジョン飯 ワールドガイド 冒険者バイブルのことなんだけど、
チルチャックがハーフフットの種族名のことを語る漫画があるじゃないですか。
わかっている人はスキップしてね。
もともとチルチャックみたいなハーフフットとかハーフリングとか呼ばれる、
背が低くてすばしこくて手先が器用でという種族の元ネタはトールキンのホビットなんです。
だから本当はあういう種族の総称はホビットになるはずなのです。
ところがトールキン著作権利を管理しているトールキン財団みたいなところが割と権利関係にはうるさいところで、
昔、テーブルトークロールプレイングゲームの元祖であるD&Dがホビットという種族名を使ったところを、勝手に使うな!と物言いがついたのです。
そこから、色々と派生して、どうもホビットという種族名を使うのは駄目らしいということになってホビットという統一名称は使われない世界線となったのです。
雰囲気としてはディズニーとか任天堂の著作に対してのネタみたいな感じ。
付け加えると、エルフとかドワーフもトールキンの著作から生み出されたと言っても過言ではないのですが、
エルフやドワーフは元々の単語として存在していたものでトールキンの創作ではないので物言いをつけることが出来なかったので普通に使われて現在に至るわけです。
場合によってはホビットという名称がエルフやドワーフみたいにもっとメジャーになっていたこともあり得るのですが、