はてなキーワード: 参道とは
インドネシアのスタジアムでの暴動で多数の死者が出た事件で、NHKがあたかも暴力が主原因で170人以上が死んだと取れるような報道をしているが
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20221002/k10013845461000.html
はっきり言って間違いだと思う。素手の暴力でこんなに死者は出ない。
一方、雑踏の事故では簡単にこれだけの死者は出る。だからこれは観客席に催涙弾を打ち込んだ警察が原因と思われる。
日本の警察であればこんな事はまず起きない。だがこれは日本スゴイって話じゃない。ちょいと説明しようと思う。
警察は司法権力機関であるだけでなく、行政としても強い権力を持っている。
だから雑踏に関しても命令する権限があって、人が集まるイベントを届け出なくやったりすると怒られるわけだ。
店の外の行列を放置していれば「ちゃんと店員か警備員雇って整理しなさい」と言われるし「○○という有名人が△△に来てる」っていうデマを流して将棋倒し惹起したら逮捕される。
警備業というのは監督官庁が警察になっていて、更に警察官の天下り先でもある。また社長が警察上がりというケースも多い。
元々警備業はボディガードなどから派生して色々な形態の警備を請け負うようになったのだが、実はその前から同様の警備請負をする人士達が居た。右翼である。
右翼はボディガードだけでなく労働運動潰しなども請負い、暴力の行使や時に殺人も行っていた。更に昔の右翼はヤクザと不可分の所も多かった。
昭和30年代にTVで「ザ・ガードマン」というドラマが放送されると雨後の筍のように警備業者が起業されたのだが、ここに右翼/ヤクザ経営の企業舎弟の会社が大量に入り込んでしまったのである。
警備請負というのは暴力からの防御という仕事が多い。それは即ち対抗するための暴力だ。
一方、警察というのは国家という暴力装置の実行装置だ。暴力装置たる所以は暴力の独占であり、警察をコピーした暴力が世間にあってはならない。
また、道路工事での交通規制でも警備員は必要だが、土建業というのはヤクザの企業舎弟が大変に多い分野だった。つまりヤクザの資金源になってしまう。
という事で警備業法というのが施行され、警備業は警察を監督庁とする許認可事業で、前科がある人間の雇用禁止、警備員は法含む研修必須などが定められ、業務が完全に警察の指揮下に置かれたわけだ。
警察の天下り先って事で、利益誘導の面もあって警備業の派遣先が増える結果にもなった。「これやるなら警備員を何人以上配置せよ。その配置図を出せ」って何かにつけて言われるって訳ね。
因みに以上の経緯から警備員の装備というのは厳しく制限されているよ。例えば警察署の前で長い棒をついた私服警官が立ってる事がよくあるが、あれは実は軍隊と同じ立哨で立ち方も決まっている。持っているのは「警杖」なのだが、あれを警備員が持つことは禁止されてる。警棒の長さや形に制限がある為だ。
日本で雑踏事故が少ないのはこういう戦後の経緯の末に、人が集まる事をせんとする場合は警備員の配置と雑踏警備計画を提出させられるからだ。
雑踏警備での鉄則は「一方通行」と「ボトルネックを無くす」である。これは群衆が流体のような動きをするからだ。
一方通行にしない場合にどうなるというと、「クサビが噛み合った状態」になる。
例えば広いところの間にトンネル通路がある場合で、通路の両側から群衆が押し寄せた場合、通路の入口では「通路の半分からはみ出さない」という動機が働きにくいので通路のほぼいっぱいに広がって進行する。
だがこれは反対側でも同じなので、出口付近では人一人くらいの隙間をぬって通る事になる。
これは上から見ると三角形のクサビが噛み合っているような状態になる。効率的には最小化だ。
後ろから押されているので隊列が狭くなると群衆密度が増す。だが人は一定以下では足の歩みが出来ないので押されてやがて転んでしまう。
後ろの人間は前で起きていることが見えないので前にどんどん進行してくる→それらも更に転倒する、となって、転んだ人とのその手前の人間には数百キロ~数トンの圧力がかかり、皆死んでしまう。
これが通路を対面通行にした時に起きる雑踏事故だ。通路は一方通行が鉄則なのはこういう理由だ。
ボトルネックがあった場合は、細くなる手前で群衆圧力が上がる。
更にボトルネック手前の壁に当たった人間は通路に戻ろうとして横から割り込む→圧力が高いので弾き出される、となってそこでグルグル回って出られなくなったりする。まるで落ち葉だ。
でもそうする事でただでさえ高い群衆密度へ割り込まないとならない人が出て局地的に密度が極度に高くなる→転倒事故、あとは上記の例と同じで死亡事故まっしぐらである。
だから「狭くなる」箇所というのは作ってはいけない。狭い場所があったらそのずっと手前からパイロン等で狭い状態が継続した状態にせねばならない。
「ボトルネックを無くす」の類型に「通路をのばす」というのもある。
立体交差する駅で秋葉原駅は階段一本で山手線と総武線ホームが直接行き来出来るのに、武蔵野線南浦和駅はわざわざ遠回りして通路を歩かされる。不合理だと思った事ないだろうか?
これは秋葉原が通勤ラッシュなどを然程考慮してなかった昭和初期の建設、南浦和が痛勤ラッシュ常態後の昭和後期開業である為で雑踏事故対策なのだ。
電車の降車客は波状的なので、長い通路をダラダラ歩かせてそこで客の波を吸収してしまおうという思想だ。
秋葉原では短い階段でホームに直接客が展開してしまい、群衆密度が高い箇所がホームという危険な状態になってしまう。
地下鉄高田馬場駅の改札はホーム端の先にあるが、2004年頃の改築でホーム中ほどから改札への通路を増設した。
出口は一緒だから一見無意味な改造だ。だが長い通路で吸収して階段の手前で滞留する客がホームに溢れるのを軽減する効果があるのだ。
新潟の神社で行きと帰りの初詣客がかちあって滞留状態になった。そこでやがて参道の石垣が崩れて100人以上の死者。
だが石垣だけに問題があったのではなくて、群衆密度が上がりすぎて路肩にせり出し崩壊したものと思われる。
これは一方通行にしていなかったのが主たる原因の例。
列車が遅延し、混雑が激化して日暮里駅の板張り跨線橋の羽目板が客の圧力に負けて崩壊。転落した客13人が電車に轢かれ8人が死亡した事故。
対面クサビ状態とボトルネックの混合と思われる。跨線橋の角に押し込まれた客が流れに戻れず圧力が高くなって壁崩壊。
雑踏事故じゃなくて暴動なのだが、国労動労の順法闘争の為にダイヤが大きく乱れてカチ切れた乗客が駅員をぶん殴る、電車を悉く破壊するなどで収拾が付かなくなって機動隊が動員されて鎮圧。
翌日から他の駅多数で度たび同じ暴動が発生する国電暴動となって東京はカオス状態に。
大混雑と電車がいつ来るか知れないストレスフルな状態の上にアナウンスもせずにいた為に乗客の怒りメーターがレッドゾーン振り切ったの原因。
なのでこれ以降雑踏では拡声器を使ってうるさい程に行列に関する情報を与えろというのが鉄則となった。
数年前に宇崎ちゃん献血ポスター騒動というのがあった。セクハラっぽいポスターを公益性が高い日赤が使うな!という騒動だ。
この騒動は一枚の写真から始まったのだが、このポスターが掲出されていた場所というのは新宿西口のJRと京王の乗り換え通路である。
ここには「新宿駅西口広場イベントコーナー」というのがあり、その対面に「新宿西口献血ルーム」があって、そこに掲出されたポスターだったのだ。
この「新宿駅西口広場イベントコーナー」だが、実はここは1992年頃まで工事用バリケードなどで塞がれた単なる閉鎖区画だった。
照明もなく、ホコリが積もったままで少ない資材が置かれただけの殺伐としたところで、居心地の悪い場所だった。
実はここが封鎖されていたのは「新宿フォークゲリラ」という騒動による。
ここが広くなっているのは1966年竣工の西口立体化時に地下広場として作られたからなのだが1969年に学生中心のベトナム反戦集会、新宿フォークゲリラが開かれ、機動隊が導入されて解散させれらた。この際、広場として整備されたものを東京都は「通路」に変更するという禁じ手も使用(通路=公道の占拠は道交法違反)。
そこに起きたのが国電暴動で、新宿駅でも暴動が発生。「別に反体制学生じゃなくても暴動起こすのかよ!」と頭を抱えた警視庁と東京都は、別にギター持って屯してた連中と暴動は関係なかったが、万一を恐れて乱雑にこの区画を閉鎖してしまった。
時代が下って最早反体制なども流行らなくなり、閉鎖区画のせいで逆に荒んだ状態になっている元地下広場の有効活用として即売会や催事場としての活用をするようになった。
初めはしょぼかったが、やがて政策アピールの掲示や地産フェアなど商売がうまくなり、綺麗な内装もされて有用なイベントスペースとなってきて人の流れも出来てきた。
そこで対面に献血ルームが出来る事になったわけ。
上記のように日本の警察は雑踏事故防止に関しては極めて有能なんだが、その反面「人が集まる事」を嫌いすぎるきらいがある。
広場否定論なんだな。あんまり人が集まるのを封じてしまうと今度は現在のロシアみたいな事になってしまう恐れもある。
で、最近だと東京駅や池袋駅西口、渋谷駅(予定)みたいにロータリーを追い出して広場を作るという方に行政の方がシフトしてきている。
そういう戦後史と行政史の果てに出来たのが「新宿西口献血ルーム」でそこに掲出されたのがあの宇崎ちゃんポスターだったってわけだ。
あの騒動は色々感情的過ぎたが、でも一方でその辺知ってるとアゴラの復活でもあったって訳なんだな。
という訳で、統率されない人間が大量に集合すると雑踏事故が起きるのはデフォルト状態で、警察行政が力を入れて制御してるから日本じゃ事故があまり起きないのだ。
インドネシアのは警察に問題があり、観客席に催涙弾を撃って視界が乏しくなった客がパニックになったらどうやったって雑踏事故になる。観客席は階段状でそこに下り階段があるという構造ゆえ先が見えなくなるから普段でも危険な構造なのだ。インドネシア警察は雑踏警備の監督指導などを普段からしていないのではないか?
1964年にペルーで同じように暴徒に催涙弾を打ち込んで300人以上が死ぬ事故があったので、そういう事例研究をしていないと思われる。
「警察が私らを人間扱いしていない」との被害者のコメントが報じられているが、インドネシア警察は人間扱いと同時に流体扱いをすべきだった。
車道を歩く奈良公園の鹿 一見無秩序に行動しているように見える奈良公園の鹿ですが、実はきちんと規則正しい生活をしています。まず日の出と共に餌場へ出勤。餌場というのはセンベイをくれる観光客がいる参道や公園内の草原です。ここで1日を過ごした後、夕暮れと共に泊まり場に移動して20頭前後のグループで夜を過ごします。ですから昼間鹿で賑わう参道も夜は鹿の姿は一匹も見られなくなります。
この泊まり場というのは動物達が寝る所で、通常自然界では捕食者に襲われる心配の少ない安全な場所が選ばれます。では奈良公園の鹿における泊まり場とは何所なのでしょうか?実は泊まり場は奈良公園の関係者達もよく把握しているわけではなく、おそらく公園内の人けのない静かな茂みと推測されています。その一方で「公道」を泊まり場としているグループもみられます(主に歩道で休むが中央分離帯で休む鹿もいる)。人や車が往来するのでたしかに外敵に襲われる心配は無いのですが、公道を泊まり場にしていることによって年間100頭もの鹿が交通事故に遭遇しているのです。また選挙やイベントの案内ポスターが食いちぎられるといった奈良ならではの被害も多発し、鹿の被害とは分からず警察が出動することもあります(たとえば人が選挙ポスターを破ったりすると罰せられます)。
奈良公園の主で天然記念物に指定されている鹿ですが、個体数はメスがオスの3倍近くあります。その理由は至って簡単でメスの方が長生きをするから。過酷な大自然とは環境が異なる奈良公園では鹿達も寿命を全うすることが多く、自然と長生きするメスの個体数の方が多くなったのだそうです。では奈良公園はオスにとってハーレムなのか?というと半分Yesで半分Noなのだそうです。これも理由は簡単。長生きするメスが増える=オバァチャン鹿が増えるということで、若いピチピチのメスが多いわけではないのでオスにとってハーレムとはいえないそうです。それに元来鹿は力の強いオス鹿が何頭ものメスを囲う一夫多妻制ですからメスの個体数が多い少ないにかかわらず強いオスはハーレムの王者となれるわけです。
奈良公園で亡くなる鹿は1年間で約360頭ほど(このうち100頭前後が交通事故による)。これらの鹿は公園内の鹿苑で火葬され鹿塚に埋葬されます。また毎年11月には鹿煎餅の製造業者らが参列するなかで春日大社の神職により供養され慰霊されるのだそうです。鹿とはいえ神様(春日大社)の使いですからちゃんと供養されているわけです。この鹿苑は公園内にありますので観光で訪れた際には一度訪ねてみてはいかがでしょうか?
奈良公園に鹿が多いということは、その分鹿の糞も多いということ。この為、奈良公園では動物の糞を餌とするコガネムシ「フンコロガシ」がたくさん生息しています。彼らは大好物の鹿の糞を見つけると自らの巣穴に運び込みます。仮に餌として食べ残しても地中で分解され芝の肥料となり、その芝が鹿達の餌となるわけです。
餌が豊富な奈良公園では最大2㎝近くの大きさまで育ったフンコロガシも見られ、近年はこれらフンコロガシを観察するイベントも企画されています。このフンコロガシ達、さすがに参道など人通りの多い場所ではなかなか見ることができませんが、芝生エリアに行けば鹿の糞の周りに小さな盛り土のようなものがあり、それが彼ら達の巣なのですぐに見つけることができます。なお奈良公園ではこのフンコロガシ達のおかげで糞が素早く分解され、悪臭を放つことがないのです。
数珠を買ってアクセサリとしてつけるような人を理解できないなといつも思っていた
喪服って5万円するのかよと思いつつ、裾上げを待っていたら、「他にお忘れのものがないかリストがあるので確認されてはいかがでしょうか」と言われた
リストはお葬式出席の際に必要なものをまとめたもので、黒のネクタイ、ハンカチ、黒の靴下らと一緒に数珠が載っていた
そういや自分用の数珠なんて持ってないし、他で買う時間の余裕もない
まったく欲しいと思っていないが、斎場では持っているに越したことはないかと、人からどう見えるかの目を気にして購入した
紳士服屋で数珠買うくらいなら参道の土産物屋で買ったり、好きな石の数珠を買ったりした方がまだ思い入れもできるし、もっと安く買えたかもしれない
小馬鹿にしていたせいで数珠を選んで買うことができた機会を避けてたなと少し反省した
帰宅し、喪服を着て、数珠をパッケージから取り出して、亡くなった方は神道だと気づいた
冷静になって考えたら思い出せたかもしれないなと思いつつ、身内の不幸があって冷静なわけないよなとも思った
私は今日まで知らなかった。
アニソンでクラブダンスをする、つまりオタクがパーティーピーポーするという事だ。
野外とは何か?そのままである、みなぎったオタク達は外でオタ芸を全力で披露しているのだ。
知り合いに連れられて、私はそこに七時間いた。一曲も踊る事なく、ただ七時間。
実際、面白かったよ人間ウォッチング。彼らは真剣にオタ芸を踊り、真剣にアニソンを愛しているんだと外野の私にも伝わってきたが、彼らは余りにも特徴的すぎた。
知り合いへの語種として、今日のことは忘れないだろうし、鮮明に覚えておくために日記にしておく。
・会長
ただの一般参加者にも関わらず、踊りへの参加率は8割を超えていた50歳後半に見える男性。みていた限り、今日の参加者の中でも一番の参加率を誇り、七時間の内、五時間半は踊っていたと思う。同時に参加者の中で一番の権力を誇っていた。そんな彼の特徴は他の参加者に踊りを合わせないことである。オタ芸といえばオタクたちが一糸乱れぬ動きで腕を振るステレオタイプを思い浮かべるだろうが、彼は違う。圧倒的な曲の理解度で、子供を世話する歌のお姉さんのように小ぶりな動作で独特な踊りを披露する。ああいう人間が振り付け師になるんだろうかと心の奥底で考えていたところに隣の友人が、あれがパパイヤ鈴木?と聞いてきたので、とりあえずラッキィ池田と答えておいた。
・登山家
会長と同年齢らしき男性。会長の側近でもある。容姿は肌色のダウンジャケットにバケットハットと首からぶら下げた一眼レフカメラは完全に登山家の服装であったためコードネームは登山家である。朝11時の開始段階では、カメラを構えオタクを撮影していたために、運営の人間かと勘違いしていた。日も登り切った正午すぎに彼はダウンジャケットを脱皮し美少女Tシャツに変態を遂げ、お前もかブルータスと他人ながらに愕然とした。
・筋肉
ランニングTシャツにハーフパンツ、そしてランニングシューズと皇居にマラソン来たのかコイツと思った30代後半らしき男性。
筋肉と体幹つけすぎたためにオタ芸のキレがつき過ぎており、オタ芸がもはや別のナニカに出来上がっていた。
昭和の遺構のような茶髪長髪ロングにスプラトゥーンTシャツの30代風の男性。
非常に多くの小道具を持参しており、会長と登山家とよくソーシャルディスタンスをライン越えする小コントをよく繰り広げていた。
スプラシューターよりも強力な水鉄砲も持参していたがシオカラ節が流れることはなかった。
黒のゴスロリ服を纏った20代後半だと思われる女性。10名程度で構成された会長のグループに一人女性で参加していた猛者。
お願いダーリンという曲で、参加者がステレオタイプオタ芸を披露する中、一人センターで某Vチューバーの振り付けを完コピしており、オタサーのシンデレラだと直感した。
・横ノリ
縦ノリのフロアから怒られそうな横ノリをし続ける細身長身の20代男性。
参加した曲では大抵横にステップを踏み続け、その後ろ姿は完全にジョイマン高木であった。
・法衣
名前の通り、法衣をきてイベントに参加しており、手に持った日の丸柄扇子が活用できる時にしか参加してこない。畢竟、ステレオタイプのオタ芸に参加することはなく
低身長、小太り、メガネの30代男性。サンボマスター。嘘ですけど本当です。DJの前に立ち踊るオタクたちとは違い彼はDJの前に立ち、エアギターを引いてマスク越しに口パクで歌っていた。それっていいのかよ。
隣で女性オタク向けのコスプレイベントが行われていたために起こった乱入イベント。
ハイキューのコスプレイヤーが通りかかったところに、DJがハイキューの主題歌を流す粋な計らいをしたために謎のコラボが発生した。
オタクたちもオタ芸を控え、コスプレイヤーらの主題歌完コピ劇を眺めていた。現場は一昔前のニコニコ動画のような熱気で、大きな歓声に包まれていたが、後で考えると何だったんだあれは、と思わざるを得ない。
・チェリ男
ビジュアル系バンドでドラムをやっていそうな20代後半だろう男性。顔がライオンを具現化したか如く強面で、初めは心のうちでライオンと呼んでいたが、オシャレな服装に見えたTシャツの色が完全にチェリオ(飲料)の色で語感も良く、コイツはチェリオ、そうチェリ男だと確信した。
そんな彼もオタ芸はしっかりと踊る。
イベント自体は開催に尽力をつくし来年の開催も目指すべく、参加者に(主に会長の一座だが)ソーシャルディスタンスを守らせ、会場周辺での酒類をしっかりと注意喚起をした上で禁止していた。私は二度と行くことはないと思うが、今後もしっかりと続いていくイベントだと思う。
忘れてはならないのは、これは野外で行われていたという事実である。家族連れや観光客で賑わう有名神社の参道でイベントで開催されており、目の前を通る子供達は、皆一様に怪訝な目でオタク達をみていた。隣の友人がこれがクールジャパンかね?と聞いてきたので、私はとりあえず、これはアビスだと返しておいた。
https://tetsudo-ch.com/5182813.html
”線路の南側に赤い鳥居がズラッと20本並んでいるのです。(航空写真で数えられます)踏切を渡った北側に粟津稲生(あわづいなり)神社という社があって、その参道を一畑電車が横切っているのです。鉄道ファンには有名なスポットらしいです。不思議なのは、この鳥居の東400mくらい離れた場所に立派な稲生神社社務所というのがあって、その横には大土神社という社があるのです。
「高浜駅から西へ向かうと線路に向かって赤い鳥居が続く参道が現れ参道を横切る形で電車が通過します。「粟津稲生(あわずいなり)神社」という社で、祭神は「倉稲魂神(うかのみたまのかみ)」、「稚彦霊神(わくむすびのかみ)」、「有気持神(うけもちのかみ)」で、伏見稲荷の分霊を祀ったと伝えられている。古くから衣食住の神として、また、治病・厄除けの霊験あらかただとして「粟津稲生」の名で知らています。」”
なかなかコレ!といった写真がないが
https://blog.goo.ne.jp/tibinekosan/e/17b1e41bfa0dfef255618e8dba689598
これの一番下や
https://marousagi.com/ichioshi/awazuinarizinjya-ichioshi
とか。
あと動画がいくつかある模様(未チェック)
以下雑語りです
https://bunshun.jp/articles/-/45917
一市民として悲憤慷慨を隠し得ない
駅周り30分ぐらい適当に歩いてあとはWikipediaの雑引用、かの文春の記者がやることですか?
だいたい駅の話から市の話に自動的にすり替わってるのおかしいだろ お前がやってること、山手線の内側を"ナゾの激坂地域"とか書いて結局目黒駅周辺の話しかしないのと一緒 わかる?
それに自由民権運動の話するならちゃんと自由民権資料館に行って話聞いて来いよ
※自由民権資料館 鶴川駅から徒歩25分。民権運動をテーマにした資料館はここと高知県の自由民権記念館だけ。和風な造りの本館は、民権志士が残した武芸道場を保護・改装したものだ。
文章を順を追って殴りますが、まずね、境川の話が「都県境」で終わるのがもったいなさすぎるんですが…
後々神奈川ネタ出すなら、かつて武蔵国と相模国の国境線が境川だったってところまでやるべきやろ
あとは
(・中世では現多摩市との境界が武相国境であるような認識があったが、太閤検地の際に完璧に河川が国境線になった)
(・検地以前は境でなかったので高座川と呼ばれていた)
までの情報があった方が良かった
・小田急線はもともと南町田や長津田付近を通る予定だったが、地主がゴネて町田を通った
・「デッキを抜けたら地下」な小田急町田の独特の駅構造は周辺の地形に関係している 境川の流域が狭く、川に沿って坂線がある
・"ただ絹の道があったから"発展したと思うな あれは浜街道(八王子と横浜をつなぐ道)沿道でありながら鎌倉街道沿道なので、東京湾に進む人の流れと相模湾・埼玉から来た人の流れが激突することになり、一躍巨大市場になったんだ 相模湾で捕れた魚を乾かしながら町田まで歩いた商人もいて、駅前に乾物屋が多いことのルーツはここにあるらしい(富沢商店ももともと乾物屋)
・絹の道の由来について語るなら、"ただの道を絹の道にした"鑓水商人の話も欲しいし、どうでもいいですが町田市には槍溝(やりみぞ)という希少苗字が残っています
あと民権運動や水源問題は町田が神奈川になった理由の本質じゃないだろ
多摩川・荒川流域じゃあないんだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
町田市以北の多摩地域のほぼ全域は多摩川流域(八王子、青梅、三鷹等)か荒川流域(東村山、清瀬、武蔵野等)に属します ところが町田市が擁する水系は境川・鶴見川の2系で、多摩川水系の河川はほとんど通っていません おかしいだろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!流域ごとに郡や地域を区切るなら町田は横浜市や相模原市の一部になって然るべきだろ
多摩川欲しさに東京府が三多摩を合併したのは事実ですが、併合してもなんもいいことない現町田市の地域1町4村まで神奈川県を追い出されたのは"多摩郡に属していたから"ですよ
②武蔵国である現横浜・川崎両市がなんか都心と分離され、神奈川県の枢軸になってしまった
インターネットは③を一生擦ってるってことにはよ気付け
※解説
①https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12203290882 ヤバイなこの回答者、郡史ガチ勢?これを見るに武蔵府中との結びつきって相当強かったんだな でも鶴川以東には国府の権力が及ばなかったのもなんか不思議ー
②https://togetter.com/li/1285652 と https://www.customs.go.jp/yokohama/history/hatten.pdf 神奈川県の成立理由はマジでごちゃごちゃしていて最悪だが、"なんかメッチャ白人(しろんちゅ)がいる嫌な場所"と"俺らの住まい"とをひっぺがしたかったという趣旨
中世のころ、武蔵府中から丘陵の壁を超えて「多摩」の使命を言いつけられたことに始まり→時は流れて近代、なんか横須賀にゲェジンが来たせいで江戸っぽくないところを別県にせざるを得なくなり→水源問題で都心と神奈川が大モメかました挙句過激派活動家が大暴れして「多摩(笑)」一帯が神奈川県を追い出された
もし武蔵国府が調布のあたりにできて鎌倉街道が東にずれていたら、もしペリーが江の島に来航していたら、町田はこんな「仲間外れの市」にはならず、"茅崎県"県央の凡庸な自治体になっていたかもしれないし、はたまた鶴見市や都筑市という巨大な自治体に包摂されていたかもしれないのだ
そしてその世界線でも、ろくでもないライターが「"ナゾの途中駅"本町田駅」とか書いちゃうだろうが、 でもその記事はここの日本ほど多くのpvを稼がず、トレンドにも載らずひっそりと埋もれていくんじゃなかろうか
だから答えるよ
未だに何もわからない
飽きたんだよ
お前らが同じ話ばっかりして肝心な要点を見過ごしてるから不快なんだってば
それにステレオタイプで地域を語るのは地域差別となんも変わらんだろ
(前に町田関連のネタツイを自称リベラルに共感RTされたことがあったけどすごい嫌だった いかなる差別にも屈しないなら町田は東京都って言えよ、民主政治が大好きなら民権運動によって東京都に移管された街に最大限の敬意を払ってくれよと思った)
本当に町田が好きなんだったら、インターネット雑語りをやめて、今日から町田にちゃんと向き合え
ネタで町田を神奈川扱いするならテコンダー朴みたいに歴史的経緯を全部踏まえてやれ 憶測で物事を語るな
あと神奈川県に接する駅といえば町田駅だけじゃなくてつくし野駅も鶴川駅もそうです
にしてもこのブロガァーみてぇーなライタァーは駅前で何を見たんだ?日本初の車いす用バスを見たか?町田街道の向こうに佇む広大な谷戸(注)を見たか?谷底の美術館の収蔵品を調べたか?ジョルナのエレベーターのボタンを押したのか?何もしてない
これをポジティブにとらえると、読者にもっと町田の魅力を探させる余地を与えてくれたってことになる
だからどうか、ここから先はスマホの前のみんなに、町田駅や"町田市"を回ってほしい
限界逆張り地理オタク御用達・源流と坂と県境のテーマパークとして、町田市は今でも多くの廃人を寄せ付けている
町田市は本当にすごい 今や小平にも及ぶブルーベリーの産地だし、南町田にはケンタッキー食べ放題店舗があるし、堂之坂公苑は誰も来ないのに水琴窟があるし、玉学には赤瀬川原平の家も残ってるし、白洲次郎の別荘で食べるオムライスはマジでうまいし、つくし野の急坂はどこまでも続くし、小野路宿里山交流館は江戸末期の旅館を改装した建物だから木造で落ち着くし、野津田の山はクソでかいし、相原にはおいしい卵屋(カトウファーム)とアイス屋(東京みるく工房ピュア)があるし、本町田には北条時行の戦った合戦場があるし、リス園の近くに井の頭公園みたいなでかい池があって夏になると隣のちっこい池でメッチャ蓮咲くし、多摩境には都内唯一のストーンサークルがあるし、大泉寺は谷戸の底にすっぽり収まった寺で春になると桜が参道に咲いてめちゃ綺麗だし、恩田川の桜はもっと綺麗で目黒川より混んでないからいい写真撮り放題だし、木曽町の地名の由来は一般通過木曽義仲
とにかく春先にあの戸場谷戸を尾根の上から見渡した時の、菜の花畑や一本立ちの桜や小さな白いトラック、別の尾根が続いている光景は言葉を失うものがあったから、一緒に行こう。
お前は町田を待ってないかもしれないけど、町田はお前をいつまでも待ってるから。
【あとがき】
https://twitter.com/pededeck/status/1246422466135617537 ←これはインターネットで見つけたわかり手
注:谷戸は谷の一種。底が平たい。上から見るとUの字になっている。海進によって土砂が堆積し、このような平底になったようだ。あきる野の横沢入や稲城の上谷戸は有名。
追記 こんなにたくさんの人々のブクマと注目を集めることができて光栄です。卒論も町田のことで書こうと思っていたので、励みになりました。町田地方史研究会のおじちゃんたちに比べたら、自分は町田について本当にニワカで、話せることも少ないけれど、精進しようと思います。
喉元すぎれば…っていうやつで、もう冬のマジで陰鬱な感じとか、夜が早くてイヤなところとか、天気の良くなさとか、ガチの寒さとか、そういうところが頭から消えつつあり、いいところだけが思い出される
一人で、雪がギリ降らないくらいの微妙な天気の中、けっこう坂がちな住宅街を歩いたような記憶がある
実際には多分歩いてないんだけど、そういうイメージが確かにある
いや 晴れてた気がしてきたな 晴れてたことにしよう
冬に晴れたとき特有の、あの寒さと開放感がすごいアレ アレのなか、一人歩いていると、実際は車の走行音とかがけっこううるさいんだが、なんだかめちゃくちゃ静かなような気持ちになる
知らない住宅街、人間は確かにいるんだけど、本質的にはかなり孤独じゃないっすか
そういう孤独さと、冬の寒さと、空の開放感、静かさ、その辺が混じってえもいわれぬ感情を生むのであった
そんで、これはマジの記憶なんだけど、そういえば大晦日にひとり電車に揺られて京都・清水寺に行ったことがあったなあ!
人々がガヤガヤしてるなか、あの有名な舞台まで登ったら、ちょうど日が沈むくらいで、妙に人だかりができてるのでなんやなんやと思ったら、よく考えてみると初日の出に対応する最後の日の入りなわけで、あらいいじゃないと思って、写真の一枚でも撮ろうかと思ったらもう完全に沈んでいて、なんつうか、その冴えない感じが一年の締めくくりにちょうど良かった
帰り道、参道の坂道にある土産物屋で何を思ったか抹茶ソフトクリームを買ったんだった
うまかったけど、クソ寒くて、食えば食うほど身体が冷えて、味はわかんなくなるし鼻水は出てくるしでかなり辛かったな
でも、あれはやっぱりいい体験だった と思う
秋〜冬に、一人で、見切り発車で出かけて、全てアドリブで、寒い〜!帰りてえ〜!寂しい〜!と思いながらウロつく
アレがまたやりてえよ
夏、暑すぎてウロつく気になれないんだよな
秋〜冬よ はやくこい
コンコンコン!
私を捕まえて!
キツネさんが油揚げ好きな理由あながち間違っていない理由私知ってるわ。
ってことなの。
でね、
私のおばあちゃんの家は土間があって、
あんまりしょっちゅう荒らされているってことは無かったんだけど、
人が少ないときにこっそり忍びこんできて、
で私は美味しく仕上がっただいたいの場合は
2日目の方が美味しいお味噌汁に限ったことの話しではないんだけど、
だいたいの食べ物は作った2日目の方が美味しかったりするわよね。
でね、
その2日目のお味噌汁を私は楽しみにしてまた温めて食べようと思ってフタを開けたらビックリ!
そこに私はトイレの神様の歌ってる人が
なぜかお婆ちゃんと小さい頃暮らしていたって歌詞とは全然違うんだけど、
私は一時期空き家になったおばあちゃんの家に住んでいたことがあって、
そのすっかり賑やかさが欠けた私ひとり暮らしのそのおばあちゃんの家。
まあ話を戻すけど、
油揚げのコクに引かれたのかしら?
私もお味噌汁作りがまんざら上手に出来た具合キツネさんにも喜んでもらえて嬉しい限りよ!
って違う違う、
別にこの話しは誰かの作った話じゃなくて、
初稿もしくは一稿目は本当に、
どんだけー!って感じで
そのときの編集者さんに油揚げではお話があまり可愛くありませんね。
そうですね!油揚げを買いに行くのを手袋を買いに行くって話しにしてはいかがでしょうか?って
新美南吉さんと編集者さんの間でそんな押し問答があったかどうだかわからないけど。
消去法よ。
具の美味しいものを嫌いな物を避けていたら油揚げしかなかったって言う話でもあるし、
逆に言えば、
キツネさん食べられるものが油揚げしかなかったって切ない台所事情だったのかも知れない。
そう言う思い出とともに今日も私はお揚げさんのお味噌汁を作るのよ。
今日も美味しく出来たわ。
でね実際伏見稲荷の総本山である大伏見稲荷に一度行ったことがあるんだけど、
リアルに生身の油揚げがどーんとあちらこちらに供えて置いてるから
普通に袋から出ている油揚げがダイレクトにお社の前にお供えしてあるからね。
絶対あれキツネさんが食べに来る前にカラスさんがさらっていきそうで
上を見上げたら結構カラスさんがキラリと目を光らせて油揚げを狙っていたわ。
でも大伏見稲荷の周りには、
雀は焼いているお店はたくさんあるんだけど。
でもあの雀さんも気の毒よね。
焼かれても食べるところの身が小さいから実際のところあんまり美味しくないのかも?
ただならぬ異様な雰囲気よ。
なぜここは雀さんを焼いて提供しているのかってことを知りたいわ。
つくづく雀さんが気の毒でしかたないわ。
話をまた戻すけど、
油揚げを買いに行ったの、
いつもとは違う店員さんでなんかちょっと変だなって思ったけど、
油揚げはいつもと一緒で買えたからよかったと思ってお味噌汁を作ったの。
ゴンおまえだったのかー!って
新美南吉さんの有名なキツネさん三部作の一作目の「手袋を買いに」と二作目の「ごん狐」が一度に押しかけてきたようで、
もう一度言ったのよ。
ゴンおまえだったのかー!って
まるで猿の惑星で新しい惑星にやっと到着だー!って思ったらなぜか戻ってきちゃってた!てへ!って話しのオチとまったく一緒で笑っちゃったわ。
と言うことで
私は海老フライを念力で飛ばせるようになるための訓練に戻るわね。
うふふ。
ちゃんとした小岩井生乳なまにゅう100%ヨーグルトのご案内でした。
エロいのじゃないのかよって
私はあのヤシの木だとか信号とかバスとか山とかをクリックする人間性クイズをと思ってたけど
普通のヨーグルトのことだったのでそりゃそうよね!って思っちゃいました。
牛乳はその高い栄養価から牛のミルクと呼ばれているにも通ずるところがあるわね。
ちぎり葉っぱウォーラーよ。
これはオススメです!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
埼玉県民になったらショッパーを読みなさい
元大宮市民だけど、今の時期だとイチゴの地元販売所探すと楽しいよ
地元のお母さんたちの間で、ネットには載ってない口コミでのイチゴ販売所ある
そのせいか、グーグルマップで検索できない販売所に人殺到してるよ
他には大宮だと市民の森(イベント時オススメよ、コロナ終わったら行ってね)とか、
他の人も言ってたけどコクーンシティとか(フライングタイガーよく行く)
氷川神社の揚げ饅頭とか、市民会館そばのコーヒー屋とか(超お気に入り)、
大宮公園のにおいがスゴイ無料の動物園とか(コロナで開いてなかったらごめん)
競技場のあたりに夕方行くと犬の散歩スポットでめちゃくちゃ犬と遊べたり
○○○○の焼肉屋とか●●の焼き鳥屋とか浦和のイタリアンとか(すべて予約必須)
上尾の激安でうまいカレー屋(大宮周辺実はカレー屋が多くてうまい店多い、駅からは遠いので車必須)
吉見の百穴は夏めちゃすずしいとかね
とかね、もしリアル知り合いならお勧めしたいところいっぱいある
なら高崎線沿線の焼肉屋ぜひ探してみて! おしゃれカフェとかもめちゃ増えてた(2年前の帰省時の話)
散策するなら氷川神社の参道(確か日本一だか、関東一だかの長さ)をぶらぶらするのいいよ
帰りに、氷川神社でお水もらって帰るのおススメ(コロナだからやってないのかな)
少し遠いけど、イオンレイクタウンとかあとは大宮市場で肉買ったり
個人的には大宮ソニックシティの1階だったかのホテルロビーにあるカフェで
外見ながらお茶するのが好き
本来、こういった投稿をすることは心憚られるものではあるのですが、
宿に対して過度に中傷する事を私は望んでいませんので、何卒そこはご配慮のほどお願い致します。
日光金谷ホテルを知らない方にお伝えすると、
東照宮など世界遺産のある栃木県日光で、一番有名なホテルです。
現存する日本最古のリゾートホテルとよく言われる格式高いとされるお宿です。
ずっと憧れのホテルでもありました。
日光は数回訪れた事があるのですが、神橋の先の歩道から洋風建築のホテルを見上げながら、
「いつか絶対行ってやるぞ」なんて事をずっと思い続けていました。以前より強い幻想を抱いていたんです。
まず宿に着いてチェックイン。
コロナ対策もあって健康状態や海外渡航歴、鼻水や咳などの風邪症状がないかなどのチェックとサインを求められます。こんな世の中ですし仕方ありません。
有名な金谷ホテルのパンやお土産を買おうと売店に向かいました。
財布や口座の残高なんかを気にしながら、何を買おうか?なんて悩んでいると、引くくらい大きな咳の音が。
「ゴホゴホ…ゲホゲホ…ゴホッ」
こんなご時世で怖いなぁ…どんなお客さんなんだろう…
マスクしているとはいえ流石にこれだけの咳をしていると、このご時世恐怖です。
結局、3000円分のホテルクレジットは食品で無いもので済ませ早々とその場所を立ち去る事にし、
楽しみにしていた金谷ホテル特製のパンやケーキ等は買わず、部屋に戻ることにしたのでした。悲しい。
客側には検温やチェックリストへの署名などを行うにも関わらず、スタッフ側はどうなってるのか…
旅の高揚感は一転してホテルへの不信へと変わるのでした。
追い打ちをかけたのは客室内のトイレでした。
客室内のお手洗いの便器には以前宿泊された方が残したであろう大便の跡がくっきり残っていたのです。
このコロナ禍において衛生面への配慮は最大限行われるべきであり、
当然ですが格式高い日光金谷ホテルにおいてトイレの清掃が出来てない事なんて想定など出来ている訳もなく、
便を足す前に気づいた茶色い跡に脳みそが追いつかず、便意を忘れ何回も振り向いてしまいました。
気がつけば夕食の時間。
フレンチの料理では豚のソテーと牛のステーキを選択する事ができます。
味はそれでも絶品。
やっぱり一流のホテルのディナーは違うな。
そう思っていた矢先、出てきたのは豚の料理。
これには流石の私 も
「違います、私は牛のステーキを頼みましたよ」と咄嗟に声を出すと、
「只今お作り直し致します。しばらくお待ち下さいませ」と豚の料理を下げていきました。
謝りの言葉は無いんや…
謝罪もないまま10分程その場で、ステーキ用に取っておいた付け合せの焼きたてのパンも冷め、食前酒のワインも減る中で、
一人で机の上で携帯を弄る自分の姿がとても惨めに映って、涙が出そうになりました。
10分後「申し訳ありませんでした、牛のステーキになります」とようやくの謝罪と正しい料理をお出し頂きましたが、
もう味なんかわかりません。
心が冷めているのですから。
その後も、気になる事はいくつかありました。
楽しみにしていたホテル自慢のバーは緊急事態宣言で休止中のため、
せっかくのリゾートホテルでも夕食後は何もすることがありません。
ルームサービスを頼もうとするも、夕食が終わる時刻(19時半)には終了しているようでした。
せめて瓶ビールくらいは頼めても良いのでは?とも思うのですがね。
いや、1階よ?w
あなたが今いる、そんなに広くないこのホテルの、それも1階ですよ?w教育どうなってんの?w
「一緒に探すのお手伝いします」
なんて言われて、乾いた笑いが込み上げる。
イベントの日払いバイトでも、もっとちゃんとしてる気がするんだけどなぁ…
酔って忘れられたら良かったのに。
翌朝の朝食。
水を注ぐときの勢いが強い。
このオムレツをずっと食べたいと憧れてたのに。
チェックアウトを済ませお金を支払いホテルを出る帰途、思わずそのレシートを投げ捨ててしまいました。
(ポイ捨てしてごめんなさい)
こんな事なら旅行なんかしなきゃ良かった。
こんなホテルに3万円も支払う虚しさに耐えきれなくなりそうでした。
憧れのホテルに泊まれるんだ、そう思うとその前の週は一週間ずっと浮かれていました。
期待値が高すぎたのかもしれません。
正直、自分ひとりで金谷ホテルの通常料金を出すのは厳しい身分で、緊急事態宣言で安くなっていたからこそ泊まった、泊まれたというのはあります。
普段の半額程度で泊まったのですから、宿のほうも最低限の人数で、最低限のサービスしかしない(できない)という理屈も脳では理解はできます。
それでも一泊一人3万円という金額は、僕のような貧民にはとても大きくて、
自分は、ご多分に漏れずコロナ禍の影響で仕事も色んな苦しい事がたくさんあって、
それに重なって今年に入ってツイてない事もいくつか重なったし、定期預金も満了になってお金も少しはできて、誕生日も近いし、立春だし(?)
心機一転、少しでも気分を晴らして頑張っていこう。
そう思ってこの旅行に行くことを悩み、決めました。
(近い人に基礎疾患持ちの人がいるので旅行に行くことに罪悪感さえあり、直前まで悩みました。)
ホテルの接客態度からは、おもてなしの心が感じられませんでした。
そんな印象を受けました。
最近のツイてなさ、色々な苦しい日々も相まって
厄払いもお願いしておけばよかったな。
気分が乗らず、元々予定していた中禅寺湖や華厳の滝方面への旅程はキャンセル。
予定より4時間も前倒しをしたスペーシアで日光から出て、浅草で安酒を飲んでベロベロで帰りました。
帰ってきたら愛用してたワイヤレスイヤホンも無くなってました。ツイてないな、俺。。。
◎最後に
職場の人に話したところ、匿名でこちらに投稿すべきだと言われたので投稿することにしました。
今現在、苦情のメールの返信が遅いことも現在進行形で納得はいってないけど、起きた事はもう仕方ないです。
これから、他の人がこんな目に遭わなければいいなって思ってます。
緩和策は多々考えられるので、ここでは極論に近い対策を挙げています。他にもこれが危ないとかもっと良い対策があればぜひご紹介くださいね。
普段会わない偉い人や同じ職場でもあまり会話しない人と話す機会もあるでしょうから飛沫喰らうこともあるでしょうし、飛沫が降下した食品を口にしてしまうかもしれません。
忘年会でウイルス貰って帰省して地元に拡散、地元でウイルス貰って新年会で拡散、どちらのシナリオもあり得ます。
深刻な感染状況の地域から他の地域へとウイルスを拡散させることもあるでしょう。
特に長距離・長時間の移動であれば、その道中で感染してしまうこともあるかもしれません。
数十分や数時間と並んで参拝するのは屋外とは言え飛沫喰らうこともあるでしょう。飛沫は前方だけではなく横方向にも拡散します。かと言って他人に無言待ち行列を強要することはできません(今年はマスクをしていないとか大声で長時間喋っているとかで小競り合いが起きるかも知れませんね)。
堂内に大人数を収容して一定時間を要して行われる形式の護摩にもリスクがあると考えられます。大人数が大声で喋るわけではないという意味では、満員電車が本当に安全なのであれば護摩も似たようなものかもしれませんが、たとえ出入り口を解放したとしても換気能力は窓を開けて走行中の電車より劣ると考えられます。
退屈した子供がそこら辺のものをベタベタ触ったその手で、参道の出店の食品を食べて感染することもあるかもしれません。そして家庭内感染からの新年会で他地域へ拡散というシナリオもあるでしょう。
帰省した家族が居なければ普段と大した差は無いかもしれませんが、大皿料理は直箸によるリスクと飛沫が料理に降下するリスクが高まります。
自分や誰かの命を賭けてまで正月に挨拶に来いって強制する神様なんて居ないし、毎年恒例だからとか、正月だからを理由に今それを絶対にしなければならないなんてことは殆ど無くないですか。
これからずっとお先真っ暗という訳ではなく、海外ではワクチン接種が始まっていたり、明るい話題もあるのですから、今しなくてもいいことは数か月くらい先送りしてもいいじゃないですか。
と言っても、あれはいつ行ってもできる体験という訳ではなく、天候不順時限定である。
2年ばかり前のゴールデンウィークの最終日の事だった。
時期的に江の島は滅茶苦茶混んでいた。
どれくらい混んでたかというと、江の島の裏側から表側に出ている船が、乗船まで3時間待ちだったくらい混んでいた。
江の島の参道(というのか)は、せいぜい100mかそこらしか長さが無いくせに、そこを歩いて抜けるのに1時間かかるとアナウンスされていた。
それくらい混んでいた。
午後、島の裏側まで歩いた我々は、当初船で戻るつもりだったが、あまりの待ち時間に諦めて歩いて戻る事にした。
江の島は小さい島だが、船を使う以外で裏側まで行こうとすると、一度山の頂上まで上らなければならない鬼畜構造だ。
正直、一度上って裏側に下り、再び上って帰らなければならないのは疲れるが仕方ない。
天候が曇りで、どうにも雲行きが怪しかったから、というのも理由の一つだが、この判断は結果的に正解だった。
あの時、船を待つ判断をした人達はその後の夕立でズブ濡れになっただろう。
その日も帰りに汗を流すために、当初から江の島スパを利用する計画だった。
江の島スパ(正式名称:江の島アイランドスパ)は、料金は通常の温泉や銭湯よりお高めである。普通で3000円以上する。
しかもゴールデンウイークで特別価格だったため、なおさら高かった。確か4000円くらいしたはず。
高いだけあって設備や広さは通常の温泉より1ランク上であり、通常の温泉施設がエコノミークラスだとすると、ビジネスクラスくらいの余裕があった。
通常の男女に分かれる温泉部分のほかに、水着を着る事で入れる混浴部分があり、
その中には半露天の洞窟風呂や、露天プールやらプールサイド的な、まあなんやかんや「外」の海に面したロケーションがある。
ついでに、値段が高いせいで、利用をためらう人が多いらしく、外の歩くのもままならないギュウギュウ詰めとは別世界のように広々していて、客の半分くらいは外国人旅行客だったと思う。
我々が入館してほどなく・・・30分くらいしてからだろうか、江の島は夕立に見舞われた。
我々はタッチの差で事無きを得たのだが、これがまー最高だったのだ。
雨がドバドバ降ってたので、屋外のプールサイドみたいな施設は利用できなくなったのだが、
我々は、他の外国人観光客の人達とその洞窟風呂につかりながら、外の海に降り注ぐ雨を眺めていた。
気が向くと洞窟から出て行って、温泉の水面に波紋を散らす雨に頭を打たれながら露天のオーシャンビューに浸った。
正直、雨の中でみんなで温泉に入りながら海を眺めるのがこんなに楽しいとは思わなかった。
目の前には湘南海岸が広がってるわけだが、時折その海面を魚が跳ねたりしていた。
そのうち雷が鳴りだした。
はっきり言って露天風呂のオーシャンビューは視界が広い。晴れてれば富士山まで見えるらしい。
その広い視界の中、遠方の海上や陸上の山の方角に稲光がバシバシ光った。
ひっきりなしに海の上に落ちる稲妻を遠く眺めながら、我々は温泉に浸って雷鳴を聞いていた。
やー、最高だった。
多分、あの時一緒にいた観光客の江の島好感度はMAXまで振り切っただろう。
(一方、そのころ島の裏側で船を待っていたであろう人達の好感度は神のみぞ知る)
サウナに入ったり、ジュース飲んだりして時間を潰し、もう辺りも暗くなりかけた頃、我々は施設を出て帰路についた。
その時もう雨はやんでいた。
またあの体験ができるなら、4000円は全然惜しくないのだが、よく考えるとタイミングがかなり難しい。
「もうすぐ夕立が来そうだな」くらいのタイミングで行って、運が良ければ体験できるかも、というレアなイベントだ。
そんなわけで、今日みたいに天候不順な日が来ると、
二十三時過ぎ、ホテルを出て近所にある和食さとへ向かった。道中、大通りをまたぐ信号を待つ間に何となく周りに目を向けると左方のフェンスに簡易な近隣の地図が括られている。近くに池がいくつもあるようだ。興味を惹かれたので食後に出向くことにした。地図を眺めつつ待つも一向に信号が変わらない。押しボタン式だった。ボタンを押ししばらく待つがやはり青にならない。車の通りが収まっていたので無視して渡った。
和食さとでは刺身と天ぷらといくらかの小鉢のついたようなセットを食ったが大して美味くもなく、胸焼けに似たような妙な不快感が残った。
店を出て先の地図の記憶を頼りに池を目指す。時折地図アプリを参照しつつ最寄りの池を目指すとすぐに着いた。四方を柵で囲まれ、セメントで岸を固められた、実用を旨とした何の風情もない水たまりだった。過度な期待をしていたわけでもないので、特段失望もなくしばらく柵に肘をついて暗いばかりの水面を眺めた。
次の池を探して再び地図アプリを開く。目についたのは一つの長方形の区画で、短辺に平行に三等分すると、端の三分の一が池で、残りは陸になっており、碁盤の目に道が走っている。また道の周囲が緑色で表されていることから樹木が茂っていることが窺われる。最も目を惹くのは池の中央に浮かぶ円形の陸で、そこへは陸から小路が一本延びている。いかなる場所だろうかと地図をよく見れば霊園だという。深夜に何の縁もない自分が訪ねるのも罰当たりな気がしたけれども、近隣の住民に迷惑のないよう静かに立ち入る分には問題ないだろうと自分を納得させ墓地へと向かう。
その区画の境界まで着いたが周囲にはフェンスが張り巡らされており入れない。どこかに切れ目はないかと沿って歩くうち、フェンスに括られた地名表示板を見つけた。ここは月輪(つきのわ)だという。
この名前に触発されて月を見る。今夜は多少雲がかかっているけれども月は八分以上満ち、月明かりを確かに感じる。この優れた月の晩に月輪で池と共に月を眺めるのは非常にふさわしい気がして、池への期待が一層高まった。しかし一向にフェンスの切れ目は見つからず結局フェンスに沿って立つ人家に突き当たってしまった。どうにか入れないか迂回路を探すが地図を見る限り確実に入ることのできそうな場所はあれど、霊園を跨いだ対角側にあり遠い。そこまで行くのは面倒だが、諦めるのも早い気がして、回り道しつつ再びフェンス沿いへと歩き戻るうち気づけば他の池の近辺まで来ていた。その池の名を見ると月輪大池とあり、名前から言ってこちらの池の方がよっぽど立派そうなので、霊園の方はやめ、こちらの池に向かうことにした。
その池は名に違わぬ立派な池で、近くまで寄ると鳥居が目に入った。その上部に掲げられた文字を見れば龍王神社だという。龍と池という組み合わせが不穏で、気味は悪いが入って見ることにした。鳥居をくぐると白い石の敷き詰められた参道が長く伸び、道の両脇には石灯籠が一列ずつ密に立ち並び、周囲の闇の中でそれらのみが微光を発するように浮き上がっている。それは幽玄さを感じさせるものではあれど古典的な怪談の舞台のようでもあり、すっと背筋が寒くなる思いがした。足を踏み出すと砂利は一歩一歩が僅かに沈みこむほどに厚く、粉を纏う玉砂利を踏んだときのあの軋む感覚が足の裏を伝わった。参道を歩む途中振り返ると、石灯籠の列が遥かに見え、正面を向き直るとやはり前方にも石灯籠に縁取られた道が長く続く。私は明らかに恐怖を感じた。それでも時折振り返りつつ歩みを進めた。
やがて参道が果て、二つ目の鳥居に辿り着いた。それをくぐり、二、三歩進み周囲を見渡す。正面には拝殿があり、周囲は薄く木々で覆われており暗いが、左方の木立の隙間からはわずかに月明かりが漏れ、その先に池が垣間見える。目が慣れるまで待とうと立ち止まって周囲を見ていると、突然右方から微かにふうふうと浅く早い吐息のような音が聞こえた。慌ててそちらに目を向けるが何もいない。そこには背の低い茂みがあり、その陰に何らかの獣でもいる可能性は否定できないものの、茂みの大きさからいってあまりありそうもない。微かな音だったから幻聴かもしれない。ともかくしばらくその方向を睨んだ後、気にしないことにした。
正面の拝殿に参拝し、木立の隙間から池の方へ抜けようとそちらに向かうと、途中に小さな社があった。そこにも参拝した後、岸へと抜けた。月輪大池は非常に大きく、正面を向くと視界に収まらないほどの横幅がある。奥行きは向こう岸一帯が闇に融けているためはっきりとはしないが、その先にある人家のシルエットの大きさから推するに、それほど深い訳ではないだろう。それでも立派な池だ。月は私の背面にあり先ほどよりもやや濃く雲に覆われ、ぼやけていた。月と池を同時に眺められないのは残念ではあるがしばらくそこに佇み、交互に見た。そろそろ戻ろうと思いつつ、ふと脇に目を遣ると池を跨いで石灯籠の列が見えた。またあの道を行くと思うと気が進まない。「行きはよいよい・・・」などとふざけて呟き、気を紛らわせつつ帰路につく決心を先延ばしにしながら周りを見渡していると岸に沿って道が伸びているのに気が付いた。先を覗くとずっと続いており、先には低い丘とその上には東屋が見える。そちらから抜けることにした。
東屋まで行くと、隣接して高いフェンスで囲まれた芝生のグラウンドがあった。無論人はいない。グラウンドへ入りずんずんと歩く。微風が吹き抜けている。中央辺りで芝生に触れると僅かに湿り気を含んでいるが濡れるほどではない。尻をついて座り、月を眺める。月は一層雲に覆われ今や輪郭も寸断され最早奇形の灯が天に浮かんでいるばかりだ。明瞭に見えたならばどれだけいいだろうと思いつつ、眺めているとしかしこの月も美しく見えて来、私は今更になって朧月なる観念を再発見したのだった(*1)。普段酒を飲まないけれども、この時ばかりはあたりめでもつまみながら飲めたらどれだけ気分がいいだろうかと感じた。準備をしてまた来るのを心に決めた。
ひとしきり眺めた後、地図で帰り道を探す。グラウンドの逆側から抜け、道路を下りつつ戻る道を見つけた。グラウンドを抜けると、公衆便所があり煌々と光を放っていた。少し尿意はあったがまだ余裕があるためそのまま過ぎた。淡々とホテルへと向かう。
しばらく歩いたのち尿意が強まってきた。近くに便所が無いため立ち小便も考えるが違法なので出来る限りは避けたい。しかし同時に私が立ち小便をしたところで、ばれる筈もなく誰が咎めることができるだろうかという不敵な気分もあった。歩き続けるうち住宅地の間に公園を見つけた。それは家屋の列と列の間に取り残された三日月状の領域に造られた小さな公園で簡易な遊具が並んでいる。ここの公衆便所を使おうと外縁に沿って歩きつつ中を伺うが見つけられない。どうやら無いらしい。私は憤慨した。便所のない公園などありふれていることは承知しているけれども、わざわざ今現れなくてもいいだろうと怒りが湧き、本来ならば便所のあってしかるべき空白に、あてつけに尿を撒いてやろうかと考えたが、この静寂の中放尿すればそれなりに音が響くに違いなく、周囲の住人に聞かれることを考えると不安になり止した。私の尿意は限界近くまで高まっていた。地図アプリを見るとまだ二十分以上は歩かなくてはならない。どう考えてもホテルまでもつとは思えないが、ともかく足を進めると、見覚えのある道に出た。行きに通った道だ。記憶を辿ればこの先は道路や建物が立ち並ぶばかりで立ち小便できるような茂みはない。一度足を止める。地図アプリを見るとすぐ右に行けば公園があることが分かったので、歩道脇の草むらを横切り、駐車場を過ぎ、公園へと向かう。この公園は先のとは異なり、庭園やら広い芝生やらがある大規模な公園だった。どこに便所がありそうか見当もつかないが、ひとまず建物が目についたのでそこへ向かった。しかしそこには施錠された建物があるのみで便所は見当たらない。建物に挟まれた道の奥へ行くと芝生が敷いてあり、奥に池、周囲には植え込みがある。この植え込みの陰で済まそうかと考えながら歩いているとある看板が目に入った。曰く、「山の神池では釣りをしないでください」。なんという名前だろうか。信仰心のない私でも山の神を冠する池で立ち小便をするのは流石に気が引けた。道を戻る。もう限界が近く、考える余裕もない。諦念が私を支配した。自らの限界、ただそればかりのためにどんな平行世界においても便所の存在しないような場所を私は尿で汚すのだと、敗北感を感じつつ、間近の立ち小便に都合のいい場所を探して歩くうち、左手に蔦で上方が覆われたプレハブが現れ、「公衆」の文字が目に入った。慌ててその文字の続きを追うと、蔦で部分的に隠れているけれども確かに「トイレ」の文字が続いていた。降って湧いたような都合のいい便所に驚いたが、ありがたく使うことにした。入り口のドアには窓がついており中は真暗だ。スライドドアを開き、中をスマートフォンのライトで照らすが照明のスイッチは見つからない。もしや時間帯によっては電気がつかないのだろうかと不安を感じるも、これ以上我慢できないので闇の中でも済ませるつもりで足を進めるとカチとスイッチの入る音がし、灯りがついた。人感センサーがついていたようだ。無事に用を足した。非常な安堵を感じ、軽快な気分でホテルへと帰った。
風呂に入るなどしつつ明日のことを考えた。出来れば龍王神社を改めて太陽の下で見たい。しかしすでに四時近くになっている。明日のチェックアウトは十一時までで、今から寝るとなるとぎりぎりまで眠ることになるだろう。午後のバイトを考えると十二時頃には瀬田を出なくてはならず、一時間で往復するのは不可能なので恐らくは無理だろうと諦め半分で床に就いた。
翌朝九時過ぎに目が覚めた。まだ眠気はあり、もう一寝入りしようとするも寝付けない。それならばということで、龍王神社を見に行くことにした。
日の光の下では龍王神社はありふれた田舎の神社だった。あの幽玄さを湛えていた石灯籠は改めて見れば妙に小綺麗でそれ故安っぽさを感じさせるもので、大粒の玉砂利に思えた敷石は粒が大きめのバラスに過ぎなかった。しかし歩き心地さえ違って感じるのは不思議だ。昨日は沈み込むようにさえ感じたのが今や普通の砂利道と変わらない。あれだけ長く感じた参道も晴天の下では容易に見渡すことのできる程度のものだった。再び拝殿とその脇の社を拝み、木立を抜けて池の岸へ出る。昨日は闇に融けていた向こう岸も、今や明らかに見え、昨日よりもずっと小さな池に見える。しかし僅かに波打ちつつ光を反射する湖面は凡庸ではあれど清々しく、美しくはあった。
(*1 実際には朧月は春の月に対してのみ言うらしい。)