はてなキーワード: 古木とは
古木麻呂さんのご自宅じゃないですか?
どうもこんにちは!
じいちゃんばあちゃん若返る の第一話を見て、どうしても突っ込みたいところを突っ込むので気が向いた人だけ読んでくれ。
漫画の方は今後買う予定だけど今月クレカの支払いがヤバいので来月以降の予定。
ちなみにこれは「こう書かなきゃ行けない」という話では無く、興味を持ってくれた人により深く楽しんでもらうための解説であるからして、そのつもりでひとつよろしく。
りんごは高木にあたるので、そのままにしておくと凄く大木になってしまう。すると作業性が著しく悪くなる。剪定、収穫、防除が難しくなる。
また、日の光が均等にかからないとまずいので、背が高くならないように、また横に向かって伸ばすように育てる。
そのため、上から見ると、枝が放射状に横に向かってにょろにょろと手を出すように広がっていく。
ただし、こうするとりんごの実がることによって枝が折れたりする。それを木の棒で支えている。これも作中で描かれているね。
じいさんばあさんが昔植えたという、そして黄金りんごを実らせた木がこれにあたる。古木に多い。
一方で、作中には、並木状になっているりんごの木があったと思う。これを「矮化栽培」という育て方だ。
先ほど言ったように、りんごというのはそのまま置いておくと大木になる。またコントロールが難しい。そこで、わざと大きくならないりんごの木を作って、それを高密度に植える育て方、それが矮化栽培だ。
りんごに限らず果樹は基本接ぎ木苗である。根っこの部分には生命力と根が強い木を台木にし、更にその上に目的の木を接ぎ木する。通常はそれだけなのだが、そのままでは大木になる。
そこで、根っこの台木の上に、一度矮台という大きくならない木を間に挟んで、更にその上に目的の品種を継いだ特殊な苗を使う。これを矮化栽培という。これによって木が大きくならずに育てる事ができる。
のだが、しかしこの矮化栽培も、だんだんと木が大きくなってきて、旧来型の丸木栽培に近くなっていく。こうして、並木のように並んでいる大きなりんごの木ができる。
じいさんばあさんは戦中派なので、最低でも90歳オーバーであることを考えると、ちょうどこの矮化栽培の普及時期に開拓をしていると思われる。
若返ったので、今後、じいさんばあさんは改植を進めていくものと思われる。
大きくなった矮化栽培は、矮化栽培のメリットがほぼ無くなる上に、丸木栽培よりも高密度なので丸木栽培のメリットも無い。と言う事で、通常は一定より大きくなったら切り倒してしまって、新しい苗を植える。この時に最新の品種を取り入れたりする。これを改植と言って、果樹農家は基本的に絶えず行っていく。
のだが、改植すると当然一時的に収入が減る。また高齢になってくるとなかなか未来の事を考えて行動するということができにくくなってきて、改植が進まない。
そこで、じいさんばあさんは大きくなった矮化の木を残していた(矮化栽培は枝を支える手を使うレベルまで育てるのは育てすぎ)と思われる。
が、若返ったので、この後は矮化栽培を進めていくと思われる。
さて、今の時代は、更に進んだ栽培方法がある。じいさんばあさんは、日本でりんご栽培が本格化するところ、その近代化を担ってきた世代である。当時最先端の技術を使ったベンチャー企業みたいなものだ。そう言う精神を持っている2人なので、今後は新しいことを入れていくと思われる。例えば以下の様な栽培方法がある
まず、OP 果樹農家が使うのは三脚なのだが、これが脚立になっているのは、おそらく参考になる品物が近くになかったからかな。
基本的に果樹農家が使うのは三脚である。足が多い方が安定するように思うかもしれないが、三脚の場合は3本目の足の位置を調整することで下が安定していない坂などでも安全に安定させる事ができると言う特徴がある。これが脚立の3本足だと、一本が浮いてしまうのだ。
日本では、伝統的に平坦な場所はコメまたは麦を育てる場所として使われる。そのため、果樹園は傾斜地にある事が多いのである。
りんごの栽培が本格化したのはここ150年ほどで、更に言うと戦後である。戦争から引き上げてきた人々が、食っていくために開拓をした土地にりんごを植えた所から本格化している。
日本の農業は米を重視していて、それに適した所はほぼ開拓されていた。その残りと言うのは、傾斜地で水がなかったりとするところである。そこを開拓した所だ。
じいさんばあさんは戦中に生まれ、若い時期を戦後の混乱期を過ごした人たちなので、恐らく先祖伝来の土地よりも、自分たちで開拓した土地の方が多いと思われる。
ただ、聞くところによると、2人とも元々地元の豪農の生まれらしいので、そういう点ではあるのかもしれない。
全国から考えると比較的収益性が高く後継者も多い優良な事例が多い。また、じいさんばあさんは最低でも90歳と考えると、恐らく息子さんは定年直前ぐらいではにだろうか。
一緒に暮らそう、と言うよりも、どちらかというと定年帰農を考える話になっていくのが現実によくある話だと思う。
そうすると話が複雑になってしまうので、省略されたのだと思う。
が私です。
最初はアレが嫌いだと書いていたけど、何が嫌いかじゃなくて何が好きかで自分を語れよという名言に沿って、自分がどういう経緯で男性向けジャンルが好きになったのか語ろうかと思い直しました。
まず誤解を避けるために言うと、私は男性向けジャンルが好きだけど、その視点まで男性ではないと思っています。男性向けジャンルのヒロインが好きなのではなく、大抵好きなのは主人公の男性の方です。だから女の子しか出てこない系統の男性向けはあんまりです。ここら辺が分かって貰えるように語っていこうと思います。
私がオタクに転んだのはスレイヤーズにハマってからです。リナとガウリイの無茶する女の子とそれを見守る保護者男性という関係性がすごく好きでした。リナとの恋愛面については分かってるけどとぼけてるガウリイというのが私の解釈で萌えです。自己分析すると、そういう安心できる男性に好き勝手甘えたいという心理なのだと思います。
次にハマったのがTo Heartでした。マルチシナリオで泣いたのは当たり前のこととして、あかりをクリアするときの選択肢にすごくドキドキしたのを覚えています。幼なじみの彼女を、誰もいない自宅に誘うか否かの選択肢。いやこれは押すべきだろうと思って誘って、でもあかりは帰ってしまって、だけどパジャマを取りに行ってくれていたというのにもうドキドキでした。あれ、これは男性視点だな。まぁいいか。
その次はKanon。これは真琴シナリオが推しでした。少しずつ言葉を失っていく真琴と彼女に最後まで寄り添う主人公。いい。その一言に尽きます。
で、月姫は評判良かったもののコンシューマ版がないからスルーしてて、その代わりに空の境界にハマります。式がとてもカッコいいけど、幹也もなかなかの傑物ですよね。あの刃物そのものの式を受け止められる程の優しい人。でも、多分彼が本当にもう一度会いたいのは雪の日に出会ったあの人なのだと勝手に思ってます。
Fate/stay nightもコンシューマ版があったのでプレイ。全ルートクリアしたけどセイバールートでセイバーと士郎がラブラブしてるところが1番良かったです。ギルガメッシュがちょっかい出してくるあたり。
そしてEver17。これはもうシナリオがめっちゃ良かった。割と力技で持って行かれたところもありますが何言ってもネタバレでネタバレして欲しくない作品なのでここまでで。1番好きなのは桑古木だとだけ言っておこう。
そのあとは18歳もとうに過ぎPCも手に入れたので、装甲悪鬼村正に手を出しました。これもね、大傑作。もちろん1番好きなのは景明です。あんなに不器用な人、なかなか居ないよね。
で、今はFGOをプレイ中です。ぐだ子でプレイしてるけど、心は少年だなぁと思いながらシナリオ読んでます。ドクターロマンがとても好き。
とまぁこんな感じに男性向けジャンルを楽しんできたオタク女です。個人的には女性として男性向けを楽しんできたと思ってるけど、自分と同類だと思う女性には出会ったことがないので多分レアキャラだろうくらいのつもりでいます。レアキャラだろうけど、こういうオタク女もいますよーって自己主張したくなりました。
去る9月29日に 株式会社ラフィネ さん主催の南アフリカワインイベントに参加してきました。
ラフィネさんは南アフリカの生産者のワインを多く扱う都内のワインインポーターです。今秋、日本でRugby World Cup 2019が開催されることから大会観戦を兼ねて南アフリカの8生産者に来日していただき、日本各地でイベントが開催されました。このうち6生産者に今回限定のスペシャルワインを造っていただき、RWC(Raffine Wine Collection)として6本セットで販売、今回はその記念イベントでした。各ワイナリーがスペシャルワイン1種+通常のキュヴェ1種を出典、もちろん生産者ご本人とお話しでき、またお料理や素敵な記念品もついてくるという大変豪華なイベントでした。
バーデンホーストのアディさんのYuuuuupppppaaaaaa!!!で乾杯!からスタート。
ラフィネさんのFacebookにテクニカルの詳細が載っていますので詳しくは是非そちらもご覧ください。
A.A.Badenhorst (Swartland)
・Raffine Wine Collection by A.A.Badenhorst
パールドバーグのエイトケイクという単一畑からのシラーズ100%を全房率100%で醸したキュヴェ、無濾過無清澄。シラーズ100%のキュヴェを造るのは初めてとのことでした。イメージとしてはイエローラベルのシラーズ単一品種版でしょうか。果実味がピンと張ったエネルギーに満ち溢れている液体ですがあからさまに濃厚!というわけではなく、非常にクリーンでエレガント。言葉尻からの印象ですがシラーズ!というよりはエレガント系シラーの美質を存分に感じさせてくれました。他の単一シリーズもそうなのですが、ご本人からは豪快な印象を受けるのにとても繊細に造られているなーと思います。
・Ramnasgras Cinsault 2017 (double magnum bottle)
先日のワインショップでの試飲会でもいただいたキュヴェですがこちらはなんと3Lのダブルマグナム、軽々と持ち上げてらっしゃったのがすごい!前回同様にハーブ、スパイスの香りとジューシーな果実味、土のニュアンスがバランス良く融合した素晴らしいワインでした。
Alheit Vineyards (Hermanus)
・Raffine Wine Collection by Alheit Vineyards
2015年ヴィンテージからリリースしているLa Collineと同じ畑からのセミヨン(+セミヨン・グリ)100%、通常版との違いは最上部の区画からのみ造られていること。全房率100%。La Collineがリリースされる前はセミヨン・グリ主体でスキンコンタクトをしたAllow Heartというキュヴェでリリースされており、Allow Heartの再現としてスペシャルワインが出てくるかなーなどと勝手に妄想しておりましたがLa Collineのスペシャル版として造ったとのことでした。La CollineはAlheitの上位レンジであるシングルヴィンヤードシリーズ唯一のセミヨン単一(他は全てシュナン・ブラン)ということもありふくよかさが印象的なのですが、今回のRWC版は区画を上部に限定することで酸やミネラルに伴う骨格をより強く感じることができる大変気品にあふれたキュヴェとなっていました。
・Cartology 2017
アルヘイトと言ったらカルトロジー、ヴィンテージは昨年リリースされた2017年です。冷涼系グレートヴィンテージということもありリリース当初は酸とミネラルがぎっちり詰まった印象でしたが、それらが徐々にほぐれつつも非常に美しい味わいでした。
Sadie Family Wines (Swartland)
・Raffine Wine Collection by Sadie Family Wines
南アフリカワイン界の大御所です。白のブレンドで公式からの引用ではシュナン・ブラン26%、ルーサンヌ16%、ヴェルデーリョ15%、コロンバール9%、セミヨン9%、パロミノ9%、グルナッシュ・ブラン8%、ヴィオニエ4%、クレレット・ブランシュ4%と多数の品種がブレンドされています。土地の表現と古木に拘りのある生産者ですが、樹齢5年程度の若木のイタリア・ギリシャ系品種が入っている、ワイナリーとしても極めて試験的なキュヴェのようです。酔っぱらいながらのメモですがアサンティコ、カタラット、フィアーノ、グレロ(グレーラ?) が入っているとのこと。公式記載品種のシノニムとかでしたらすいません…。これらの品種が古木になった時にワイナリーの新しいページを刻んだら素敵ですね。ベビー・パラディウスのイメージとのことですが、よりスパイシーでビビットな印象を受けました。若木のブドウが使われていることからの先入観もありそうですが。もちろん暴れるようなことは無く、非常に綺麗な造りで熟成した姿が非常に楽しみです。
・Columella 2017 (double magnum bottle)
赤のブレンドのフラッグシップであるColumellaの最新ヴィンテージ、しかもダブルマグナムです。エレガントながらも濃厚な果実味に浸れる素晴らしい造りです。ワインだけで満足できる度の高い一杯。
・Raffine Wine Collection by Crystallum
クリスタルムのピノ・ノワール上位レンジであるマバレル、キュヴェ・シネマ、ボナファイドを1/3ずつブレンドしたスペシャルキュヴェ。この字面だけでも心が躍ります。全房率はマバレル10%、キュヴェ・シネマ50%、ボナファイド60%とのことですのでシネマはホール・バンチ版ではなく通常版由来と思われます。1/3ずつというブレンド比率ですが、色々と試した上でこの比率が一番しっくりきたとのことで個人的には偶然の神秘性のようなものを感じてしまいました。おそらくマバレル由来の透明感のあるアタックから充実した果実味、コクと旨味からの満足感、美しい余韻への一連の流れが一切の継ぎ目・ストレス・違和感なく展開される完璧なバランスでした。
・The Agnes Chardonnay 2018
シャルドネの2種あるうちの下位レンジ、先日入荷したばかりの最新ヴィンテージです。乾燥した2018年の性格を反映した凝縮感のある味わいです。酸や骨格は2017年の方が豊かである印象ですが優劣というよりは性格の違いを楽しむ、あるいは各個人の好みによる程度の違いと考えます。上位版であるクレイ・シェルスは今年の分をまだ飲めていないのでどんな感じになっているか気になります…。
・Raffine Wine Collection by Rall Wines
ピケニルスクルーフの単一畑のグルナッシュ100%。全房率50%、無濾過無清澄とのことです。このメンバーの中からグルナッシュ100%で思い出すのはサディのソルダート、ピノ・ノワールと間違うほどの繊細でエレガントな造りですが、こちらはもう少し果実の充実感に寄っておりグルナッシュのイメージにより近い印象でした。一方、けして派手ではない綺麗な造りで、静かな波打ち際の漣のように寄せては返す旨味がじわじわと長く続く静謐な美味しさ。Rall AVA Grenache noirと勝手に名づけたくなりました。
・Rall Red 2016
こちらはおなじみのバランスのとれたローヌ系品種のブレンド赤(シラー70%、サンソー15%、グルナッシュ8%、カリニャン7%)で、よりしっかりと力強さを感じされる明朗な美味しさが印象的でした。
◎ソーン・ドーターズ(ボット・リヴァー)
Thorne&Daughters (Bot River)
・Raffine Wine Collection by Thorne&Daughters
スワートランドにあるパールドバーグ(現地の言葉で馬の山という意味らしい)の畑のシュナン・ブラン、セミヨン、セミヨン・グリのブレンド。公式情報だとセミヨン66%、シュナン・ブラン34%とあります。セミヨンとセミヨン・グリの比率も聞いておけば良かったと反省。パールドバーグは風化した花崗岩質の土壌で、良い古木のブドウ畑が沢山あるとのことです。馬と聞くと今回も出ていたRocking Horseが思い起こされますがこちらは使い古しの樽で娘さんのために作った木馬が由来でありたまたまとのこと。一条の光がすっと通るがごとくまっすぐと背筋が通った味わい、もちろん単調ではなく果実味や複雑さも備えていてそれらを酸がぐっと引き締めている感じでした。フォーカスが絞られ、はっきりとした輪郭が掴める!
・Rocking Horse Cape White 2017
ワイナリーの看板的な銘柄でステレンボッシュのルーサンヌ&クレレット・ブランシュ&シャルドネ、パールドバーグのシュナン・ブラン、フランシュックのセミヨンと南アフリカ各地からのブドウをブレンド。もとの造りに加えて2017年というヴィンテージもあり酸がしっかりした綺麗な味わい。
お料理は鮨3軒、天ぷら1軒、焼鳥1軒、焼肉1軒、肉レストランのカレーをケータリングとこちらも豪華。スペシャルワインを一通り味見した後にあまり考えずにケータリングスペースに入ってしまい初手で〆カレーを選ぶことをしでかしつつ大変堪能しました。
・バーデンホーストでgrilled beefに合わせるならばシラーとサンソーのどちらが良いかお聞きしたところ割と悩んだ後でサンソーとのお返事。
・サディ・ファミリーでColumellaにgrilled beefはどうか?とお聞きすると肉はいらない。ワインだけでOK!!と言われました。確かに…!
・白身主体の鮨を片手にRocking Horseもらいに行ったところvery nice for SUSHI!!と言われました。
・カレーがスパイス感あるのにワインを全く邪魔しない…。じっくり煮込まれた肉カレーの旨味とRallのRWCスペシャルのしみじみとした旨味を堪能しました。
・マグロとCrystallumのRWCスペシャルの組み合わせが完璧。
・天ぷらとAlheitのRWCスペシャルの組み合わせが完璧。
生産者の方々との交流、ワイン・料理の美味しさ、大変貴重な経験ができた素晴らしいイベントでした。
生産者の皆様、料理人の皆様、運営のラフィネの皆様への最大限の感謝を!!
そして一週間たった今もそれぞれの味わいを思い出しつつセットの追加購入をどうするか悩む日々です…。。。
劇場版ポケットモンスターセレビィ(2001)を今更みました。
セレビィがどうとか言う前に、ジブリの〇〇に似てるなあと思ってしまう自分にがっかりしました。
セレビィの森に入ってく古道のような古木のトンネルは千と千尋の神隠しのトンネルに見えるし
命の湖はシシガミの森の湖はに見えるし
傷ついたセレビィを癒す金色の光は風の谷のナウシカで王蟲がナウシカを癒すシーンに見えるし
ロケット団の悪役がセレビィを操り攻撃させるときの動作とセリフはクシャナが巨神兵に「薙ぎ払え」と言っているシーンに見えるし
セレビィがツルに絡まって苦しんでいるのはラピュタの飛行石を守る木の根に見えるし
私は既に知っている作品の似たシーンを思い出し、「このシーンに似ているなあ」と思ってしまう
東京といえば真っ先に浮かんでくるのは、むかし住んでいた山手線内側のアパート(マンションという名前だったが4階建てのそれはその前後に住んだアパートと何ら変わりなかった)の管理人をやってたばあさんだ。管理人と言いながらたぶんそのマンションを立てたのはばあさんで、つまりは東京土着の地主だ。だが、ばあさんからはそんな裕福な雰囲気は一切漂ってこなかった。土建関係の仕事を一家でやっていたからそこそこ儲け話もあったと思うのだが、それ以上に出来の悪い孫達の持ち出しが多いようだった。
このばあさん、戦後の復興期に男どもに混じって現場で叩き上げてきた強者で、30年前の当時でさえ、真っ昼間からもろ肌脱いで船に入れたセメントを捏ねている豪の者だった。垂乳根が丸見えでも気にしないで、通りがかりの私に「おう!」とか声をかけてくる。こっちはビビってしまって声も出ない。
その近所の魚屋で、よく100円のアジのひらきを買った。その魚屋、その周辺の高級住宅の御用聞きで経営を立てていて、別に100円の干物など売る必要はなかった。一心太助のように「今日はタイのいいのが入ったからお持ちしましたよ」みたいに訪問してはその場で「お造りにしましょう」と包丁さばきを見せる。そういう仕事なのに、律儀に店の前でアジのひらきを干していた。私はその100円のアジ以外買ったことはなかったが、よく「これもってきなよ」と、それ以上に高級なオマケを付けてくれた。
秋に早朝の公園に行くと、銀杏を拾いに来ている人を見た。毎年来るのだそうだ。古木となった銀杏の木と同じくらいむかしから、ずっとその公園には銀杏を拾う人がやってくる。
私にとって東京とはそういうところだ。おしゃれな街でも夢が詰まった街でもない。土着の人々がむかしからの暮らしを立てている場所だ。そこに通りすがりとして、私のようなよそ者が数年とか10年とか、あるいは数十年とか一生とか滞在する。その通りすがりが、いつかは東京の一部になるのだろう。
そうやって街は続いていく。
http://www.city.osaka.lg.jp/yutoritomidori/page/0000174249.html
細かいことは直に読んでもらえばいいので特に言わないが、少し書いておきたい。
最初に、市長とその周辺の人たちが何を考えているのか、手短にまとめておきたいと思う。
まず、大阪府市の負担軽減を視野に入れた、文楽に対する姿勢の見直し。たとえば橋爪紳也顧問が、
と書き、あるいは池末浩規参与も、
大阪市としては「文化財保護」に与する必要はなく、市が出金するとすれば、それは市民や来街者、観光客から見て魅力になっているような文楽に、必要かつ可能な範囲で援助をするというものになるはずです。
と書いているように、大阪府市としては文化保護名目での補助はしない、ということだ。(ただし、国が負担を認めるまで育成費用の補助4000万程度は出すそうだ)
そして、
再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する
と参与も書いているが、観客動員に一定の目標をおき、その達成のためより効果的なプロデュース・マネジメントが必要であるからそのために改革をしようとなる。
この点については実は私も同感で、文楽を全体として統括的にマネジメント・プロデュースすることができてないのではないかという不満は以前から感じていた。それに、どうしてもお役所仕事なのでスマートとは言い難く、大阪弁で言えば「もっちゃり」した感じにならざるを得ない。
さらに技芸員の意識改革を促している。旧来の殻に閉じこもっていてはダメではないかというわけだ。「意識改革」の具体的な中身としては、ミニ公演などのプロモーションはタダでやるべきなんじゃないのかとか、もっと観客の声を聞くべきだなどなど。
あるいはメールで技芸員の公務員化について触れられているのももっともなところで、たぶんこの辺りの感覚は長年のファンをやっている年寄りなら分かると思うし、東京歌舞伎座近くの某所で同様の会話をして嘆きあったりもした経験が私にはある。
つまり、全ては、
今回橋下市長のリーダーシップのもと、文楽は「無形文化財として淡々と維持する」(旧来の考え方)ものから、「再び市民に受け入れられる芸能となるべく積極的に活動する」(新たな考え方)というものにシフトしようとしているところです。
という参与の意図に集約されるのであって、これは賛否様々な意見があるところではないか。
私は、過去、文楽劇場に足しげく通い、図書閲覧室へもよくお邪魔をして勉強させてもらい、職員の方々にも大変にお世話になった経験を持っているけれども、文楽に関しては非常に悲観的な立場をとっている。
文楽はもうすぐ死に絶える。事実、文楽協会ができたころ、「文楽という芸は苔むした立派な梅の古木のようなものであって、じきに枯れる運命だが、無様な姿で枯らしてしまうのは忍びない。だから、せめて姿かたちはそのままに美しいまま死んでもらおう」という発想が背景にあったように記憶している。
文楽というのは本当に維持が難しい事業で、語り一つとっても、過去と現在でこれだけ音楽環境が変わってしまうと、語りを成立させる音感がまるっきり違ってしまう。成長してから訓練でどうにかなるレベルの問題では、おそらくないはずだ。もちろん、浄瑠璃を理解するための前提知識なども違う。
だから、近い将来、死亡宣告を言い渡す時期がくるし、税金を投入するならなおさら、本物・本格の保存が不可能になったときに、とっとと文楽の維持なんぞやめるべきであり、それこそがこの偉大な芸の先人たちを辱めない、唯一の道だと、私は思う。
その意味で、安易に文化を守れ伝統を守れと言ってみたり、反橋下の立場からついでに文楽を守れと言ったりする人たちとは、私は全く異なる。税金を投入する以上、真に偉大な芸としての文楽の古格が維持されなければならないし、それが無理なら文化だろうが伝統だろうが、潔く捨ててよい。今に生きない伝統など意味はない。本当に感動的な人形浄瑠璃は、過去の記録映画となって保存されている。無意味に惜しむ必要も必然性も、どこにもない。
逆に言えば、まだ今の年寄りの技芸員が生きている間、なんとか細々とでも古格が出来ているならば保存するべきであって、それは与えられたミッションが達成されているとして認めればいいんだろうと思う。
観客が入るか入らないかは、この際どうでもよい。文楽は昔から客の入らない芸で、貧乏話極貧赤貧エピソードに事欠かない。問題は本格ができるかどうかだ。それに尽きる。
そこで、大阪市のプロジェクトに話を戻すと、これをそのままやると、もちろんマネジメントの改善など賛成できる部分もあるのだけれども、人形浄瑠璃の中身そのものに大きな影響を与えると思う。
ある大物タレントさんが、これまた大物歌舞伎役者に歌舞伎に誘われて歌舞伎を観に行きましたが、つまらない、分からんと言ってすぐに帰ったそうです。その歌舞伎役者さんは、この大物タレントさんにどこがつまらないのか、どこがダメなのか必死になって聞き出し、これまで自分では気付かなかった新たな視点での指摘事項を改善しつつ、歌舞伎の面白さを説き続け、誘い続けたそうです。この大物歌舞伎役者さんは、観客からの厳しい指摘が公演を面白くする一番のカギと言われています。
全くその通りで、歌舞伎ならこれでいい。だから歌舞伎はどんどん変質していった(いっている)し、古格を守ることはそもそもできず、またそれで構わない芸能だという一面がある。
わざわざ語り手である太夫と三味線弾きの前に毎日座る客というのが大昔はいた。誰が出てきてもとりあえず批評批判する怖い客として知られ、しかし語り手も三味線もこういうお客を大事にしたらしい。
今でもこの種の客気質は、こと大阪の年寄りに関する限り健在で、今の源太夫が綱太夫のころ、あるお爺さんが私に、
「織太夫でまだ若かったころは将来どんなもんになるかと思てたけど、綱太夫はホンマあかん。感動がないわ」
と言い、また、文楽の人間国宝としてたびたび言及される住太夫についても、
「もう限界やっちゅうのは本人がよう分かってるやろ、あの年やし」
と言いきっていたものだ。あるいは別のお婆さんは、
「綱太夫の発声は変や。高音に行くと喉がつまってくる。あんな語り方はあらへんよ」
とばっさり批評したものだった。ちなみに、この綱太夫はその後人間国宝になってしまうわけだが。
そういう厳しいことをいう熱心なファンがいたからこそ、この芸に携わる人たちは鍛えられていったわけだ。
しかし、そういう耳も目も肥えた客の厳しい意見と、観客動員を増やすための批判は異なる。観客動員を増やそうとすると、中身が変質して古格が維持できなくなるのは、火を見るより明らかだ。そこで上演されるものは、300年続いてきた人形浄瑠璃ではない、何か別のモノだろう。
実際のところ、今でも中身は変質している。例えば、もっとも重要な場面を語る「切場語り」を今やっている人たちのあと、一体だれが後を継げるのだろうか。おそらく、有資格者は誰もいない。
あるいは、今は文楽を「見に行く」というが、そもそもは「聴きに行く」ものであった。人形浄瑠璃と単なる人形劇は違うが、視覚の刺激に慣れた現代の観客にとって「見る」を重んじた方がはるかに分かりよくなっている。
その他、細かい部分で古格と言えるものが本当に継承できるのか、できていたのかどうか、はなはだ疑問だ。
とはいえ、それでも歌舞伎とは比べ物にならない程度に本格の古格を守って来たのが文楽であって、それはかつてある歌舞伎ファンが文楽を見て「古いのが残っていていいなぁ」と言ったように、もう比較にならないと思う。
そこに、この大阪市のプロジェクトとなると、人形浄瑠璃は完全に変質してしまう。本当に守るべき古格は、もうどうでもよくなってしまうだろうし、決定的に死んでしまうだろう。
と書くと、やや刺激的かもしれないが、なんのことはない、文楽の死なぞ最初から知れたことであり、それがちょっとばかり早くなるに過ぎない。「苔むした立派な梅の古木」がもう枯れると、知れ切っていたことなのだ。
このプロジェクトを書いた池末参与は善意に違いないし、文楽の再興が魅力ある観光都市としての大阪にとり大きな資源だと考えているはずだ。また、文楽に携わる人たちも、継承にはチャレンジや変化が必要だとする人たちも少なくないだろう(私は、文楽がいろいろなチャレンジや、同時代に観客に受け入れられる努力もされてきたこともまた知っている)。
よく分かる。
もしこのプロジェクトをそのまま実行するならば、人形浄瑠璃・文楽という看板は取り下げてもらいたい。
300年続いた本当に偉大な、世界のどこにも負けない本物の芸は死に、何か別の人形劇、「文楽のようなもの」が続いていくことになるだろう。そこで「人形浄瑠璃・文楽」の看板を掲げることは、ウソだし、なによりも文字通り命を削ってこの芸に打ちこんできた偉大な先人たち、まさに大阪の先人たちに対する侮辱に他ならない。
この人形劇を観光資源としてどう活用したって構わない。だけど、文楽はもう死んだことを認めてほしい。いや、認めるべきだ。そうして、過去のものとなった文楽の真の偉大さだけは、せめて守ってほしい。それだけが、せめてもの私の小さな希望だ。
(追記)
以下は私のTwitterアカウントなので、もしご意見などがあれば、ぜひ遠慮なく私に書いていただきたいと思う。文楽は私にとってただ好きというだけでなく、重いものでもあるから。
https://twitter.com/#!/SignorTaki
モズの早贄をご存知だろうか?
モズという鳥が、カエルやトカゲなどを木の枝にさしておいて、保存食にするといわれている。
だが実際はそのまま食べられなかったりして、木の枝にカエルなどが刺さった状態で発見されるというわけだ。
それはとても大きなカエルだった。ウシガエルほどの30cmぐらいのサイズがあっただろうか。
葉がすべて落ちたとても大きな古木にカエルがまるでモズの早贄のように枝々に実っていた。
実っていたというよりは、ひもののように干されていた。
内蔵をひらいて魚の干物のように干されていた。
ボクはそれを地元の漁師の案内で見学に行ったんだ。どこかの村の風物詩らしい。
漁師は聞く。
その真意をはかりかねて、次の言葉をまつ。
「もしー、亀に餌をやったらわしはお前さんを逮捕しなきゃならんのだ。」