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2024-11-12

オレンジ色はなぜ橙(だいだい)色なのか、なぜ蜜柑色ではないのか、みたいな話の調べものメモを書きましょうね。

1862年文久2年)に堀達之助が編集した辞書であり、日本における最初英和辞書といわれている『英和対訳袖珍辞書』で「Orange」をひいてみる。

Orange, s. 橙柑橘ノ類

Orange, adj. 橙ノ

Orange-peel, s. 橙ノ皮

Orangery, s. 橙ヲ育テル園

Orange-tree, s. 橙樹

Orange-woman, s. 橙ヲ賣ル女

オレンジ以外の柑橘系の見出し語で見つけたものは以下となる。

Citrine, adj. 佛手柑又橙色

Citron, s. 佛手柑ノ類

Lemon, s. 橙ノ類

Lime, s. 黐石灰

Slacked lime. 消サレタル石灰.柑ノ類.菩提樹石灰ニテ肥シタル

Lime-tree, s.菩提樹.柑樹ノ類

Pomeron, s. 香リ良キ橙ノ類

Shaddock, s. 橙ノ類

なお余談だが、

Bergamot, s. 梨子一種

という見出し語もあったが誤訳だろうか?ベルガモットは梨ではなく柑橘という認識だけれど……。wikipediaによるとBergamotの語源は「トルコ語で「梨の王」を意味するBeg armudiが語源とする説が有る」らしいからそれが原因かもしれない。

さて、これを見ると「橙」と「柑」がはっきり区別して書かれているように感じる。

時代は後になるが1900年に書かれた『果樹蔬菜』には著者の私見ではあるが当時の柑橘類の分類が書かれていて興味深い。

皮が分厚く酸っぱい橙と、皮を手で向けて甘い柑は区別されていたのだろう。

オレンジ色に注目していく。この辞書ではOrangeではなくCitrineが「橙色の」と訳されている。

現代人の感覚だとCitrineはほとんど黄色に感じる。江戸末期~明治の人々の感覚でも同じだったのだろうか?

少なくとも『英和対訳袖珍辞書』が書かれた1862年前後では、ほとんど黄のような色も橙色表現していたかもしれない。

一つ目の根拠がCitrineのもう一つの意味、佛手柑(ブッシュカン)の色が黄色~濃い黄色ということ。

二つ目根拠1860年に書かれた『Familiar method for those who begin to learn the English language』という資料だ。

これは英蘭対訳のための参考書で、OrangeGreenyellowなどの他の色と並べられて書かれている。

この参考書単語の部を抜粋して対応する和訳を付記したのが1870年に書かれた『英吉利単語篇』になるのだが、そこでorangeという項は「orange」と「orange-yellow」という二つの項に分けて書かれている。

単なるorangepeachなどと並べて書かれ、色名の側にはorange-yellowが列挙されている。

このことから、当時のorange colour橙色はかなり黄色味が強かった可能性がある。

では、橙色が#f39800のようないわゆるオレンジ色になったのはいなのだろうか?

いったんここまで。

メモ

しかし「orange-yellow」の訳を橙色として、ふりがなに「カバイロ」(樺色、だいたい#C5591Aみたいな色)と書いてある資料1887年通俗英吉利単語篇』)もある。前述の論の反証だよね。

明治とかの輸入オレンジしわしわになっていて、皮の色はほとんど赤茶色だったらしいという未確認情報もある。これも反証になる。

橙色概念が生まれ最初期は黄色っぽくて、概念が普及するにつれて茶色みが強まったんじゃない?知らんけど。

・↑ありえなくはない。学術文脈以外で細かな色名が必要になるシーンは着物の色と絵画の色くらいしかない。当時の着物茶色灰色ばっかりだし

・↑これを裏付け調査がまだ出来ていないんだよな~

明治時代理科教育で分光を取り扱う際にorange橙色と訳したのが定着したようだ。

・↑「橙色が#f39800のようないわゆるオレンジ色になったのはいなのだろうか?」のアンサーはほぼこれでしょ、推測でしかないけど

明治後期には小学校の図工の時間カラーサークル概念を学んでいたらしい。その際に教科書には「だいだいいろ」と書かれている。

明治初期に数年だけ色彩教育を行っていたらしいのだが、そこではカラーサークルの赤と黄色の間の色は「柑色」「樺色」と記載された教科書もある(1875年『色図解 : 改正掛図』) 柑色には「だいだいいろ」とルビがあるようにもみえる 崩し字よめない……調べる事

英和辞書見出し語のorange橙色と訳されるが、和英辞書見出し語に橙色が登場するのはかなり後の時代

・「樺茶色」「鳶色」「柿色」「柑子色」「蜜柑色」「山吹色」「銅色」「飴色」「海老色」「渋色」などの見出し語はあるのだが…… 現代感覚だと茶色味が強いものが多い

・染色業界では「orange」を「樺色」と訳しているところもあったようだ(1895『染料乃栞』)(cf. 四十八茶百鼠)

大正4年(1915)と大正13年(1924)にオレンジ色流行色となった。おそらく化学染料の発展が影響 樺色、樺茶色はおそらくこれが決定打となり使用されなくなる

・冒頭に書いた「オレンジ色はなぜ橙(だいだい)色なのか、なぜ蜜柑色ではないのか」について言及してなくない?

・↑「オレンジ色はなぜ橙(だいだい)色なのか、なぜ蜜柑色ではないのか」のアンサーは江戸末期~明治の人はちゃん「橙」と「柑(みかん)」を区別していて、orange……いわゆるsweet orangeは皮が分厚く手で向けないから柑でなく橙の訳語をあてたからでファイナルアンサーじゃない?

・↑日本における果物類、柑橘類の歴史ちゃんと調べていないから、一応それを見てからじゃないとファイナルアンサーしたくない

・↑「オレンジ色はなぜ古い時代から存在する柑子色という訳語があてられなかったのか」のほうが問としてはいいかもしれん

児童向けクレヨンとかだと「オレンジ」でなく「だいだい」と表記されている率が高い

図書館に行って『日本の色彩百科 明治大正昭和平成』と『色の名前はどこからたか―その意味文化』を読むこと。

・この調べものは「現代においてだいだい色は外来語由来のオレンジ色と呼ぶことの方が多いのは何故?歴史をつぶさに追っていくぞ」の一環なのでまだ先は長い

・未調査:お坊さんの袈裟の色、あれは鮮やかなオレンジ色イメージがあるが色名、和名はついていたんだったか

・未調査サフランイエローインド国旗オレンジ色)は江戸末期~明治ごろの日本にないのかしら

・未調査:当時のにんじんかぼちゃの色をなんと表現していたか京野菜にんじん赤色かぼちゃ黄色な気がするけれど)

Twitterとかでイラストを描く人はWIPと称して描きかけイラストアップロードするが、調べもの日記においてもWIPと称して書きかけ日記アップロードしてよい。自由だ。

ライムが柑扱いされているのが腑に落ちなくなってきた、ライムって手で皮をむけないし酸っぱいよな……

実のサイズで呼び分けていた?うーん、当時の橙柑橘の呼び分けがどのようになっていたかを調べないといけない

「橙 柑 区别」でgoogle検索すると中国語圏サイトが沢山引っ掛かる 何かヒントがありそうな気配を感じる

『近現代英和対訳辞書における訳語変遷に関する研究─ ‘Giraffe訳語問題を中心に ─』という論文を見つけた

これを参考にして英和辞書をひたすら調べるのも面白そうだ

狭義のorangeスイートオレンジアマダイダイ(←未調査:この和名はいつ出来たんだ?)を指す

広義のorangeは橙柑橘類を指す(citrusよりも狭い範囲←この認識は正確?ちょっと怪しい)

その一方で日本語で「オレンジ」というと狭義のスイートオレンジ(甘橙)のみを指すことが多い

色名のorange訳語で「橙の色」となるか「橙柑橘類の色」「(橙以外の例えば)蜜柑色、柑子色」となるかどっちに転んでもよさそうな時期が江戸末期~明治期にあったような気配を感じている

その歴史の流れを追うのが楽しい

2024-06-10

anond:20240609163552

『處女』大正3年12月


過去の女より』宇佐美米子

N様、私は今日、貴君がお帰りに成ってから、静かに今日一日の貴方の態度から延いて、今迄の貴方の総てを色々に考えながら、此の手紙書き初めました。

そして私は心から貴方のある落ち着いた馴れた恋を呪わずには居られなく成りました。

貴方はせいぜい接吻の後でさえ、お上手に正確に笛を奏でられました。

私は貴方の其の健全ハートを、涙ぐんだ目を以って凝視て居りましたのに、貴方の笛の音は何の感じも無い様に益々さえて、少しの乱れも少しの慓るえもありませんでした。

私の目からは止めどなく苦しい、悲しみの言葉が流れ居りますのに、貴方の指は面白そうに転々と動いておりました。

そして笛を止めた貴方は、直ぐと二階へ上ってXと話を致しました。

平気で高笑いをしたり、冗談を云ったりして居る貴方は、実に何と云う恐ろしい方でしょう。

私と同じ様にXをも愛す事の出来る貴方は、ほんとに寛大な情に厚い方とでも申しましょうか。私は貴方の其勇気と冷静な態度とに敬意を表しましょう。

貴方は恋には盲目でなければならぬと御仰いました。他に盲目を望む貴方は、同時に其を鑑賞遊ばす位置をお望みなのではありますいか

過去に色々のローマンスを有する貴方は、現在の恋に対しても、冷静に客観するだけの余裕を持って居らっしゃいます

そして過去のそれと比較し、相違の点を見出して鑑賞して居らっしゃるのです。

若しそれが貴方に取って、何よりも楽しい喜こばしい事ならば、私も甘んじて貴方過去の一部を彩る材料とも成りましょう。

けれども貴方は恋に対して余り技巧を用いすぎます貴方が恋を美化し、詩的に見てお楽しみになると云う事は、誠に結構な事で御座います

けれども現在貴方の恋の対象物は、甘い言葉を一途に真に受ける程、初心な感情一方な女ではありません。

私は貴方の蜜の様な言葉を落ち着いて理性を以て判断して見た時に、何処迄が真実で何処迄が技巧を用いて居るのか迷う事があります

そう云う時に私はいつも、貴方過去を考えます。幸いにして私は貴方過去を或る程度迄、可也存じて居りました。

私の手には指にあまる、女の名が数えられます。而かもそれには、皆ある甘い貴方の蔭がうつって居ります

今迄、散々繰り返して来た甘い言葉を、再び私の前で繰り返して居ると思うと、私は貴方のして居るお芝居が、如何にも気の毒な空々しい物に思えて参ります

全く貴方は女に対しては優れた或る技術を持って居らっしゃいます

其の優れた技量に魅せられ、其の手に乗った私は、又貴方がそういう方だと意識しながら引き込まれて行った、私は全く馬鹿で御座いました。

意気地なしでも御座いました。けれども私はいつ迄、馬鹿な私では居りません。

から、ほんとに心から、もう貴方が嫌に成りました。

技巧的な貴方言葉や、恋馴れた貴方の態度に対して、真実要求して居た、馬鹿な私はもう過去の女になりました。

貴方の思って居らっしゃる様な、快楽の為めにする恋のお相手は、真平で御座います

涙のない、不真面目な虚偽な恋には、私はもう堪えられません。

貴方は今迄の様な恋をおつづけに成りたければ、貴方の持って居らっしゃる優れた舞台の、役者を取り替えにならないと、もう面白い芝居は打てますまい。


浮気しとるやんけ。

『處女』大正4年新年


出戻りの此のつらき姉の居る家に何故われの帰り来しか

宇佐美米子東京


離婚してないか

2024-05-21

正常独身青年先祖戸籍を取り寄せる

アブスト

 結婚の見込みがない29歳正常独身青年が、ご先祖様に申し訳ないという気持ちから先祖戸籍請求した。6市町から31通の戸籍謄本を取り寄せ、Excelにまとめた。戸籍制度の変遷や行政区画歴史を知ることができ、何故か海外移民歴史にも繋がり、祖父母との会話のきっかけにもなった。独身暇つぶしにはもちろん、子供自由研究にもおすすめであるかわいいの子と新戸籍編製したい。助けて。

背景・目的

俺が末代だ(誤用)→ ご先祖様に申し訳ないにゃあ → そもそも先祖って具体的に誰やねん → そうだ、戸籍、取ろう

 ワイ、29歳素人童貞自分は子孫を残せないかもしれないというぼんやりした不安がいよいよ現実味を帯びてきた今日この頃。親にも祖父母にもご先祖様にも顔向けがきぬと思った時、はて自分先祖ってどんな人たちだったんだらうという疑問が湧いてきた。祖父母に聞いてみても、こんな先祖がいたという話は出てくるがそれが自分にとって何にあたる人なのか(曾祖父?曾祖母?高祖父?)が分からない。墓石や位牌を見てみても名前戒名と行年が分かるだけ。家系図なんて高尚なものもなし。というわけで、先祖戸籍、取り寄せてみました。

僕はどこから来たのか、僕は何者か

 僕は埼玉まれ埼玉育ち、岐阜県在住29歳素人童貞工場勤務現場労働限界サラリーマン父親次男地元山口県母親は次女で地元栃木県、そんな2人が地元を捨てて東京大学出会い埼玉で僕が爆誕したってわけ。親の背中を見てすくすく育った僕は当然のように親元を離れ、縁もゆかりもなかった岐阜で働き、親に会うのも年1回、これが因果ってやつです。

How to 戸籍請求(※2023年版)

 さて、いざ戸籍請求しようと思っても、やり方もようわからん。こういう時はとりあえずググる。ふむふむ、直系尊属戸籍なら請求できる、と。まずは自分とか親の戸籍を取って、そこに親の名前と前の戸籍本籍地が書いてあるから、親、その親、そのまた親って遡っていけばいいわけか。同じ市町村内なら先祖戸籍をある分だけまとめて請求も出来るんだな。自分本籍地父親実家にあることは以前に住民票取った時にわかってたから、山口県役所まで行かなきゃいけないのかなと思ってたけど、どうやら郵送でも請求できるらしい。これはありがたいね。で、必要ものは、と……、まず請求書か、これはあとでコンビニプリントだな(プリンターなんて持っていない限界独身青年)。本人確認書類免許証でいいな、これも後でコンビニコピー。返信用封筒切手は買ってこなきゃ。あとは手数料を、定額小為替?、何だこれ、ていがくしょうかわせって読むのか?郵便局しか入手できないし、貯金窓口って平日16時までしか空いてないのか、これは面倒だな……。

 実際の手続き市区町村サイトにやり方書いてあるんで、それを見れば誰でもできます。面倒だったり時間がなかったりする人は司法書士とか行政書士かに依頼したらやってくれるらしいよ。僕はコミュ障からそっちの方が面倒なので1人でやった。手続き関連で意味わからんのは定額小為替。読み方もわからんくて、僕は最初郵便局の窓口で「ていがくしょうかわせください」って言って小恥かいた(ていがくこがわせ)。これは要するに戸籍の発行代を、現金は郵送できないから代わりに為替で送るってことなんだけど、小為替の額面にかかわらず1枚の発行に200円の手数料がかかる(2022年までは100円だったらしい)。200円の定額小為替1枚にも200円かかるし、750円定額小為替5枚で1,000円の手数料だよ⁉ 平日の昼間になんとか時間作ってるのにこんな手数料取られるの、ほんとアホらしい。オンライン決済に対応してくれ。社会人時間と金を返せー。北方領土も返せー。

 まあそんなことは置いといて、戸籍請求の時に用意しとくと便利なもの挙げときます。①プリンター: これがないと請求書の印刷とか本人確認書類コピーとかでいちいちコンビニに行かなければいけなくなる。行った。必要項目さえ書いてあれば手書きの書面でもいいらしいんだけど、今時そんな人なかなかいないよね。②角形2号封筒: 請求書発送と返信用として同封する分で結構使う。③A4クリアファイル: 封筒に入れる書類クリアファイルに入れる、これ社会人常識ね。え?ギリギリ働けているだけの無能社会人面してんじゃねえ?いいいいイキってすみません

戸籍の、種類

 戸籍には、3つ種類がありまして、戸籍に除籍に改製原戸籍、この3つなんですが、まあ大雑把に言ってしまえば生きている戸籍と死んだ戸籍旧版戸籍って感じです。先祖のことを知りたいのなら、とりあえず全部1通ずつ請求すればオケ現存している先祖戸籍は全部手に入れてやるくらいの気持ちでいきましょう。請求理由家系図作成のためって書いておけば、まとめて請求もできます

 戸籍はこれまで法改正によって6種類の様式が作られていて(明治5年式・明治19年式・明治31年式・大正4年式・昭和23年式・平成6年式)、現在入手可能で最古のもの明治19年式。ここまで遡れれば、だいたい江戸後期生まれ先祖がわかります。そして、さらに遡りたくなります、なるんです。ところが、明治5年はいわゆる壬申戸籍ってやつで、新平民とか元穢多とかの表記があるらしく、昔の差別ガーって五月蠅かった奴らのせいで見ることができない。これ、完全に国民知る権利侵害じゃね?今の法律だと直系尊属戸籍しか請求できないんだし、見せてくれたって何の問題もないよね。まあそもそも部落差別がどうとかいう話がまず胡散臭すぎるし(職業差別なんか?地域差別なんか?血統差別なんか?)、そんなもん現代存在しないやろ。解放同盟とか、差別反対って叫んでる連中が日本を歪めてるって、こんなとこでもわかんだね。みんなも部落探訪、もとい曲輪クエスト©鳥取ループ)してこ♪ 楽しいよ!

この本籍地はどこなんだ?

 で、戸籍請求して特に不備がなければ、1週間程度で返送されてくる。僕は最初戸籍をまとめて請求した時、想定よりも枚数が多かったので小為替が足りず、追加で小為替を送ることになった。小為替は多めに用意しとくのがヨシ。

 ここから自分先祖戸籍の話。父方の実家山口県田舎で、江戸時代からそこに住んでいたと聞いていたので、1回の請求で割と簡単明治19年戸籍まで入手することができた。しかし、よく見ると本籍地表記現在のものと違っている。もちろん市町村合併が何度かあって〇〇郡〇〇村とかが今と違うのはわかるんだけど、番地が全然違うのだ。今の番地が「〇〇番地」なのに対し、明治19年式では「第△□番屋敷」になっていて数字も違う。調べてみると、現在本籍地地番記載しているが、明治19年式の段階では地番とは別の壬申戸籍編製時に家ごとにつけた屋敷番号というものを載せているらしい、ということが分かった。そしてややこしいのが、地番屋敷番号は全く対応していないようなのだ。その辺は地域差もあるみたいで、近代化の過渡期って感じのカオス面白いですね。まあ現代でも住所表記は複雑で統一されてないし、そんなもんか。もしこの明治19年式の期間に先祖転籍していたら、以前の本籍地現在でいうどの場所にあったのか、地番対応していないのでちょっとやそっとじゃわからないらしい。僕も詳しくはないから、知りたい方はググってみてくれ。そう思うと、父方の家が江戸時代からずっとそこにあるというのは、運がよかったのかもしれん。

 他にも、高祖母家系明治19年戸籍で、「〇〇郡〇〇浦」という、「町」でも「村」でもない表記のものがあった。町村制明治22年施行から、それ以前の藩政時代表記が残っていたのだろう。これまた過渡期って感じでたまらぬ。こうなると郡制とか府県制とか市制町村制とか、行政区画歴史についても、わたし、気になります状態。心の中のえるたそが犬みたいに瞳を輝かせて迫ってくる。やれやれ、僕の頭脳はほうたるだからね、手短にね、やっちゃいましょうかね(Wikiを読む)。

Excelにまとめたよ

 そんなこんなで、クソ労働により病みそうで病まない少し病んでいる状態になりつつも請求粛々と進め、とりあえず6市町から31通の戸籍を入手した。ある程度集めたところでExcelにまとめる作業に入り、そちらの作業の方に時間がかかってしまってまだ先祖戸籍すべては請求できていない。単純に高祖父母の代まででも2^4=16家系あるからね、というのは言い訳ですごめんなさい。今のところ、一番遡れた人が高祖母祖母にあたる人で文政3年(1820)生まれさらにその1代前の両親まで生年月日は不明ながらも名前は判明した。やろうと思えば200年くらい遡れるんやな。

 戸籍には生年月日や出生地婚姻などによる入籍・除籍日、死亡日、死亡地などが載っているので、ひとまずExcelでまとめてみた。眺めてみると、子供が早くに亡くなっていたり、夫と死別して出戻りしていたり、養子を迎えたり、韓国京城で死んでたり樺太真岡で死んでたりアメリカで死んでたり、戸籍から見えてくるものなんてその人の人生のごくごくわずかな部分にすぎないけれど、だからこそいろんな人生があったんだなと想像ちゃう。それに対して僕の人生……。もうずっと静止期、Stationary phase。Log phaseが一瞬すぎたんよ。いや、まだ長すぎるLag phaseの途中って可能性もないことも……ないか

戸籍から見えてきたこと①

 戸籍で父方の方を辿っていくと、長男がずっと(途中養子を挟んでいたが)家を継いでいて、一方母方の方を辿ると四男の四男の長男みたいな感じで家を継ぐという感じではなく、そこは対照的だなという感想をまず持った。自分アイデンティティはやっぱり父方の方にあるけれど、自分自身の境遇次男長男です)を思うと、母方の方にも親近感が湧く。故郷を離れる、離れざるをえない人生というものに。特に母方の方は、一度栃木県を離れて北海道に渡ってからまた栃木に戻ってきており、中には樺太に渡って真岡で死んでいる親族もいて、これはおそらく長男家系じゃなかったか移住したのだろうと思う。真岡なんて真岡郵便電信事件しか知らなかった地名だよ。こんなところで樺太と繋がるとは思わなかった。戸籍だと直系しか辿れないから、祖父母兄弟とか曾祖父母兄弟とかの傍系がその後どうなっていったのかまではわからないんだけど、自分自身が親元を離れていて昔の次男三男みたいな生き方をしているので、そっちの方も気になってしまう。それでも、おそらく当時の人たちには生まれ故郷という感覚はあったんだろうなと思ってて、自分なんかはもはや故郷存在しなくていつか故郷に戻るみたいな感覚が全くないので、故郷が欲しい帰る場所が欲しいと思ってしまうんだけど、これはないものねだりだよね……。強く生きていくしか、ないね……。

戸籍から見えてきたこと②

 父方の方は父方の方で、明治から大正時代アメリカに渡ってアメリカで死んだ親族が2人もいた。で、調べてみると山口県は全国でも5指に入る移民送出県らしい。有名なのは周防大島屋代島)からハワイ移民で、島には日本ハワイ移民資料館もあるよ。行ってみたいね海外移民歴史については、詳しくはググればWikiとかも出てくるし(Wikiの「広島県人の移民」の項目は読み応えあった)、興味ある方は調べてみてほしい。実際、父方の実家から瀬戸内海を挟んで周防大島がよく見える。でかい。一時期周防大島出身民俗学者宮本常一の本を読んでいたことがあって、そこに宮本常一父親明治27年にフィジー出稼ぎに行く話が出ていたので、まあ島と本土の違いはあるとは言え、あの辺一帯に外に出ていく気風みたいなものがあったのかなと想像してる。こんな感じで、家系っていう私的ものから歴史に繋がるのも面白いですな。

祖父母に報告です

 ここまで調べたことを表にまとめて、父方の祖父母に見せてみた。よお調べたのおって言われました。

  「この人はアメリカに渡って、稼いだから家を建てちゃるけぇって言っちょったけど、向こうで喧嘩を止めに入って死んじゃったんよ」

  「このおばあさんは酒造の娘でのぉ、気位が高い人じゃった」

  「このおじいさんは働かん人だったみたいでねぇ、田んぼを売っちゃって大変じゃったんを○○さん(息子)が頑張って立て直したんよ」

 (方言ネイティブじゃないのでうろ覚えで書いています

 あとは祖父が実は山口ではなく東京で生まれて幼少期は東京暮らしていたり(当時は東京東京市)、祖母京都で生まれていてそれが実は自分大学時代下宿していた場所の近くだったり、なんてことも初めて知って、いろいろと話せて楽しかったです。

今後の展望

① 引き続き戸籍請求:多分まだ結構取り寄せられる戸籍が残っているので、続けていこうと思う。古い戸籍は廃棄している自治体もあって(実際にもう無いですって3件ほど言われた・昔は除籍後80年経過したら廃棄してもよかったらしい・今は150年)、あれはとても悲しい。1回広島市請求した時に無いですって言われたので、もしや原爆のせいか⁉と思って調べてみたんだけど、戸籍疎開させていて無事で、単純に大正3年以前に除籍された戸籍を廃棄してだけでした。貴重な資料なんだし、廃棄せずに何とか残せんかったんかな。

② 昔の住宅地図を見る:せっかく先祖本籍地を集めたので、古い住宅地図本籍地がどういうところだったのかを見てみたい。複写したい。でも住宅地図図書館でも禁帯出で、地域図書館とか国会図書館とかの現地に行かないと見ることができないからな……。やるか――住宅地図複写旅――。

菩提寺過去帳を見せてもらう:これもいつかやってみたいね

終わりに

 実際にやってみて思ったけど、これ、中学生自由研究かにいいんじゃないかな。役所手続きして、資料集めて、整理して、発表用にまとめる。広げようと思えば家制度とか行政区画とかの歴史にまで広げてレポートにもできる。祖父母との会話のきっかけにもなる。お子さんがいる方、おすすめですよ!もちろん子供もつ見込みのない独身暇つぶしとしてもかなり面白いと思う。まあ、休日に何してるの?って職場で聞かれたとき先祖戸籍集めてまとめてますって答えたらちょっと引かれたけどね。そもそも休日が少なすぎて疲弊して遊びにも行けんのじゃこのクソ会社がコラ。でも一人、この話に食いついてくれた女の子もいたので、あわよくばお近づきになりたいよ。一緒に新戸籍編製しませんか?住宅地図複写デートとかどうですか?もちろんオシャレなカフェとか映画館とか夢の国かにも行きますから。高いご飯も奢りますから自分、やれますやらせてください。使うあてもないのにNISAで順調に積み立てられていく資産、何も積み上らない人生、虚しい。寂しい。一発やるまで死ねるか!!!

 
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