はてなキーワード: 東端とは
1484年:コロンブス「ポルトガル王! 西に進めばインドに行けるんや! ワイの計算では可能なはずなんや!」
→ポルトガル王「うちはアフリカ探索が順調に進んどるし、東から行ったほうが有望そうやから却下やね」
1486年:コロンブス「スペイン王! 西回りでインドに行って香辛料貿易でがっぽがっぽ! どないでっか!?」
→スペイン王「ちょっと待っててな、いまイスラム教徒と戦うので忙しいんや」
1492年 スペイン王「イベリア半島からイスラム勢力を駆逐したった! 異教徒から金も奪ったからコロンブスに出資したろ!」
→コロンブス「サンキュー! ワイもスペイン王みたいにインドから異教徒を駆逐してキリスト教を布教したるで! 出航や!」
→コロンブス「苦しい航海の末にインドの島々に到達したで! サン・サルバドル島やイスパニョーラ島と名付けたで!」
ちなみに、当時の「インド」はインダス川以東のすべて、つまり南アジアだけでなく東南アジアや東アジアも含む概念だった。
コロンブスを含め当時のヨーロッパ人は、コロンブスが「南アジア」に到達したと思ったわけではなく、「東アジアのどこかに到達した」と考えていたのである。
1493年:コロンブス「スペインに帰ってきたで! ワイは英雄や!」
→スペイン王「おまえが見つけた土地はおまえに統治を任せるで! エンコミエンダ(委託)やで!」
→コロンブス「ほならすぐに出航するで! 今度はイスパニョーラ島に植民地を建設するために農民や職人も連れて行くで!」
→コロンブス「イスパニョーラ島に帰ってきたで! 原住民も働かせて街を作るで! 金や真珠もどんどん見つけたるで!」
1494年:スペイン王「西回りでアジアに到達した私らと、東回りでインド到達を目指すポルトガルが衝突したら困るなあ……」
→スペイン王「西経46度から東側の新領土はポルトガルのもの、西側の新領土はスペインのものっちゅうことでどや?」
→トルデシリャス条約締結
1495年:コロンブス「反乱を起こした原住民を奴隷としてスペインに送るで! 思うように金を採掘できてへんけど、それでなんとか補填できんか?」
→スペイン王「いきなり奴隷を送りつけてくるし、イスパニョーラ島から戻ってきた連中も文句言っとるし、向こうはどないなっとるんや」
1496年:コロンブス「スペイン本国でワイの悪評が広まっとるらしいで……いったん帰るわ……」
1497年:ジョン・カボット「伝説の島ハイ・ブラジルを目指して、イギリスから大西洋横断したら、新しい島に着いたで!」
1497年:ポルトガル王「西のほうでどんどん成果が上がっとる……俺らも早くインド目指さんと……!」
→ヴァスコ・ダ・ガマ「ほい、アフリカ周回してインドに到達したで!」
1498年:コロンブス「今回で航海も三度目やし、ちょっと探検したろ! おっ、植民地の南のほうになんや大陸があったで!」
1499年:スペイン王「なんかコロンブスが新しい大陸を発見したとか報告しとるけど……ちょっと見てきてくれへん?」
→オヘダ「私にお任せください」 アメリゴ・ヴェスプッチ「ワイもお供します」
→オヘダ「ブランコ岬くらいまで南下したけどこれ以上は無理やわ……いったん帰るで!」
1500年:ボバディージャ「コロンブスさん、ちーっす! スペイン王の命令で査察に来たで! うーん、残虐な統治をしとるなあ……アウトーっ!」
→コロンブス失脚
1500年:カブラル「ヴァスコ・ダ・ガマに続いて、ワイもインドに行くよう命じられたで〜!」
→カブラル「大西洋を西に流されて変な土地に着いたで〜! 未知の島っぽいからポルトガルの領土宣言するで〜!」
1501年:ポルトガル王「なんかカブラルが新しい島を発見したとか報告しとるけど……ちょっと見てきてくれへん?」
→ゴンサロ・コエリョ「私にお任せください」 アメリゴ・ヴェスプッチ「ワイもお供します」
→ゴンサロ・コエリョ「パタゴニアくらいまで南下したけどまだ陸地が続いとるわ……いったん帰るで!」
1502年:コロンブス「最後の出航やで! きっとパナマに海峡があるはずやから、そこを通って(南アジアの)インドを目指すで!」
1503年:アメリゴ・ヴェスプッチ「南の大陸を何度か航海したワイが考えるに、あれはアジアやないで! 新大陸や!」
1507年:ヴァルトゼーミュラー「うおおアメリゴさんすっげえ! アメリゴさんが言ってる新大陸を『アメリカ』と名付けたるで!」
→ヴァルトゼーミュラー地図に「四方を海に囲まれた南北アメリカ大陸」が描かれ、そのうち南アメリカ大陸が「アメリカ」と命名される。
アメリゴの説は広く受け入れられたが、南アメリカがアジアとは別の大陸だったとしても、まだ「北アメリカはアジアの東端である」という主張が完全に否定されたわけではなかった。
たとえば、同じく1507年に、コロンブスが発見したイスパニョーラ島と、東方見聞録に書かれた日本とを同一視するルイシュ地図が作成され、こちらもベストセラーになっている。
1511年:アルブケルケ「インドのゴアとマレーシアのマラッカ占領したった! 香辛料貿易はポルトガルの独占や!」
1513年:バルボア「パナマのあたりまで進出して植民地を作ったで! パナマを横断したら海があったで! この大陸は海に挟まれてるんや!」
1519年:スペイン王「ポルトガルが着々とアジアに進出してるやんけ! 私らも早よ西回りでインドに行かな!」
→マゼラン「ワイはポルトガルのマラッカ遠征にも参加した歴戦の船長やで! スペイン王のために世界一周を目指すで!」
1522年:マゼラン「ワイはフィリピンで殺されてもうたけど、部下が代わりに世界一周を達成してくれたで……ほな……」
→世界一周の達成
これによりアジアとアメリカが遠く隔たった別の地域であることが実証され、あらためてアメリカ大陸は「新大陸」と認められた。
南アジアや東南アジアといった本来のインドは「東インド」、南北アメリカは「西インド」として呼び分けられた。
「東インド諸島 / 西インド諸島」や「東インド会社 / 西インド会社」などの呼称はそれに由来する。
さらに200年後、ベーリング海峡が発見され、ようやくユーラシアとアメリカが完全に別の大陸であることが証明されたのだった……。
ネットでは広島風と関西風の支持者が白熱した論争を繰り広げていますが、ここで「福山風お好み焼き」の存在を指摘しておこうと思います。
この街はかろうじて広島県に入っているものの、実際は岡山の影響を色濃く受けています。
そのせいか、普段は広島っぽくないくせにカープが優勝したりすると「広島すげえええええ」みたいな雰囲気になります。
さて、福山市内にはお好み焼き屋さんがたくさんあるのですが、なんと、その多くで広島風お好み焼きと関西風お好み焼きを選ぶことができます。
しかも、同じトッピングであれば両者は同じ値段で提供されます。
関西風と広島風で同じ量のトッピングがされ、同じソースを使いまわすので、必然的に広島市内のお好み焼きよりもかなりボリューミーで味が濃くなります。
個人的にはこの"味の濃い広島風お好み焼き"がとても好きで、これを「福山風お好み焼き」と呼んでいます。
広島風と関西風のいいとこどりをした唯一無二のお好み焼きがここにあるのです。
今回の地震は能登半島の北東端の珠洲市付近が震源地になっていて、能登半島全域が被害を受けたが、一番甚大な被害を受けたのは珠洲市である。
しかしテレビやネットニュースを見ていても、輪島市の被害ばかりを取り上げているような気がする。
輪島市は観光地として大変有名な輪島朝市の朝市通りが燃えてしまったので、輪島を訪れたことのある日本全国の人達が一番関心を持っている場所だからだろうか。
ビルが倒壊した光景も、テレビや報道写真としてインパクトがある。
輪島市の次に取り上げられやすいのは、震度7を観測した志賀町と、和倉温泉などがある七尾市だろうか。
震度7のインパクトは大変大きいし、近畿地方の人たちの御用達温泉地である和倉温泉のある七尾市は注目されやすい。
定期的に北海道の広さを舐めんなって話題が上がってるけど、鉄道で旅をすると無茶をしながら北海道を回れるから、舐めた北海道旅行ができるからオススメ。なにせ、鉄道の強みは寝てれば着くことと、時間が正確であること、そして特急なら割とスペースに余裕があること。移動中に北海道グルメが楽しめるのも強いぞ。
ちょうど「HOKKAIDO LOVE!6日間周遊パス」というJR北海道のフリーパスが安価でまた発売されてることだし、2年前にこれを使って北海道旅行したときの工程を書くから、まあ参考にしてくれ。
Peachで関空から釧路空港への便があるから、それを使って初日はまず釧路へ。前述のフリーパスは買った当日は使えない注意。
釧路湿原の観光がこの日の目的。昼は和商市場で勝手丼を食い、夜はスパカツを食う。
ノロッコ号はまあまあ混むから、釧路湿原は細岡展望台で観光するんじゃなくて、バスで釧路湿原展望台へ行ったほうが良かったかも。
釧路駅前の寂れ具合はガチのマジでやばくて、駅前で時間を潰すのが結構大変だった。
花咲線に載って根室へ。電車に乗ってる人はほぼ釧路から根室まで通しで乗る人ばっかりで、途中に本当に何もないことを思い知らされる。
途中、浜中町の駅でルパンのパネルを眺めつつ(時間待ちで数分間止まることも多いので、一旦駅に降りることもできる)、3時間ほどで根室へ。そして1時間バスに乗って、納沙布岬へ。
納沙布岬から北方領土まで一番近いところでは3.7キロほど。普通に肉眼で見えるし、国境の最前線であることを思い知らされる。
あとは最東端の駅の東根室駅を見たり、エスカロップを食べたり、タイヨーで焼き鳥弁当を買ったり、街中をうろついて明らかに生えてる雑草の種類が関西とは違うなと思うなど、五感で根室を満喫して、花咲線で釧路へ戻る。
なんとか座れたが、結構混んでる。立つ人も出るほど。間違いなくフリーパスのせいなんだろうけど。よく晴れていたから車窓から見る釧路湿原や、網走の手前のオホーツク海が本当に綺麗だった。
網走といえば、監獄ということで、監獄の博物館、本物の監獄、あとオホーツク流氷館に行く。
監獄の博物館は広く、見どころも多いので最後に回したほうがいい。出るタイミングがわからなくなる。
駅のそばのコンビニが潰れてて、晩御飯の確保に困った。前もって準備しておいたほうがいいかも。駅前にはすき家もあるので、北海道らしくない晩飯を食って、特急に乗って旭川へ。
旭川から特急宗谷に乗って稚内へ。そして稚内からバスに乗って、宗谷岬へ。
その後はノシャップ岬の方に行っても良かったが、南稚内駅辺りで市街地を練り歩く方を選ぶ。歩いてると思ったが、意外と稚内って栄えてる。ゲームセンターや、大きめのスーパーもあったし。稚内駅には映画館も併設されてるから、娯楽は案外充実してそう。
富良野線に乗って、ファーム富田へ。ラベンダーの時期とは微妙にズレていたので、臨時駅のラベンダー畑駅がなかった。だから、中富良野駅で降りて歩く羽目になるんだけど、何せ旭川へ折り返すの電車が1時間10分後、そして中富良野駅からファーム富田まで1.7km。その電車を逃すと2時間後まで来ない。
だから、駅からファーム富田までひたすら早足、ファーム富田でも早足、帰りも早足。まあファーム富田では20分は楽しめたと思う。ラベンダーの時期じゃないから、ラベンダーはほとんどなかったけど、それ以外の花も多いから、見どころは多い。
昼からは有名な旭山動物園へ。有名なだけあって、見ごたえがあり、夕方まで4時間くらい入り浸ってた。頭上をペンギンが泳ぐ、展示が凄い。
あと、園内が広いこともあって、動物の臭いをあまり感じさせないようになってると思う。
特急北斗の始発に乗って札幌から函館へ。札幌⇔函館って、札幌⇔旭川くらいの距離感と思ってたけど、倍以上かかる。直線距離で結ばれてるわけでもないからね。
まずはラッキーピエロを昼めしを食って、ハセガワストアで焼き鳥弁当を買う。根室で買ったタイヨーの焼き鳥弁当と違いがあるのかはわからない。
五稜郭やトラピスチヌ修道院なんかを観光して、「函館どつく」という関西人なら「え?」も思うような駅を見つつ、夜は函館山で夜景を見る。
朝は函館朝市で食べて、土産に海産物を買う。土産屋よりは安かった。
再び特急に乗り、最後の目的地の室蘭へ。最終日は函館と新千歳空港の間ならどこで良くて、登別や旅行中に宣伝を散々見た白老のウポポイ辺りと迷ったけど、地球岬の景色がキレイと聞いたので室蘭へ。
地球岬行きのバスは無くて、坂の下にある地球岬団地までしかバスが通ってない。そこから坂道を15分も歩くのはかなりキツかったけど、景色がたぶん旅行中に見た中で素晴らしくキレイだったから大満足。
室蘭には母恋という駅があり、そこの駅弁が旨いと聞いていたけど、売り切れで買えず……。室蘭駅の近くにあるスーパーで遅めの昼めしを買って、再び特急へ。そして新千歳空港からPeachに乗って関空へ帰る。
悪いけどあなたの言ってる事は全部間違ってる。
そもそもアメリカはウクライナの件に介入しようとは思ってないんだよ。アフガン撤退見ても分かるように、もうアメリカが世界の警察官をやる時代じゃない。「参入する」と言っていれば抑止力になったかもしれないけど、そもそも抑止する意向ではないし関わりたくないという話な。
アメリカとロシアはヨーロッパと大西洋を挟んで距離的にもかなり離れてるし(モスクワとワシントンDCの話な。アラスカとロシア東端は近い)、別にロシアはアメリカを攻撃しようとしている訳でもない。ロシアと事を構えても第三次世界大戦が起こるだけで誰も得しない。だから経済制裁だけなの。
地理的、人種的、宗教・文化的など様々な要因が複雑に絡み合って、東アジアってのは
「(聞き分けが良くて、従順で、忍耐力が強い、政府にとって都合の)良い大人」の比率が
その他の地域に比べて多いんだろな。もちろん中韓や台湾にもその傾向はある。
そん中の最東端で外界と分断された島国となりゃ、その傾向も極まってくるわけでさ。
結局、その「(聞き分けが良くて、従順で、忍耐力が強い、政府にとって都合の)良い大人」達の持つ右に倣えな習性やそこから
自然発生的に生み出されてくる同調圧力に頼りきった、いわば自動運転的で場当たり的な政治運営しか経験してない国・政府だから、
ガラパゴスルールの範囲外から何かとんでもなく大きな外的圧力が加わった瞬間に理性が秒で崩壊してしまうんだろうな。
ま、竹槍でB29落とそうとしたり、前途ある若者に爆弾括り付けて敵の軍艦に投げつけてた頃と何も変わってないんだよ。
増田が列挙したコロナ周りの施策は、第二次大戦中の施策と同じくらい非論理的で荒唐無稽で無秩序、筋の通ってないものばかりだ。
この国はずっとこのままだよ。原発が吹っ飛んだら、バケツで上から水掛けただけで何か成し遂げた気になっちゃうような、そんな国だ。
https://anond.hatelabo.jp/20201010223042
思っていた以上の数のコメントをいただけてうれしい。
アドバイスや、配慮が足りなかったところを踏まえて動いてみた。
心療内科の予約は、妻との同意のもとで取ったのが、後になって行きたくないと言い始めた。
話を聞くと、主に次の2点が理由のよう。
・今こうなっているのは、性格ややる気の問題だから、産後うつで片付けたくない。
・過去、入社時にメンタルを病んで心療内科通院経験があるが、その時全然よくならなかったから、今回もダメだと思う。
1点目については、産後うつは気合根性で何とかなるものじゃないと話したが、あまり納得できていなさそう。
2点目は、前回と状況、病院が違うから一回行ってみようよと言ったものの、こちらもあまり納得いってない。
心療内科はハードルが高いから、婦人科や、担当の保健師さんに相談するのはどうかと勧めてみた。
しかし、どちらも人が合わないとか理由をつけて、嫌だと言っている。
他人の手を借りずに自分で立ち直りたいという気持ちがありそうなので、増田でおすすめされた認知療法を調べてみることにした。
本を買ってみて一通り読んでみると、まさしく妻が現在陥っているものの考え方を変えていく内容であると感じた。
素人が手を出すのは危険という意見もあったが、一か八か、本を渡してみることにした。
余計なお世話かもしれないけど気が向いたら読んでみてと伝えて、妻は受け取ってくれたが、まだ読んだ様子はない。
送り迎えは妻にお願いしているが、日中は妻の一人の時間ができている。
これで少しずつ回復してくれているようには見えていた。
一人時間は十分にあるということなので、たまには夫婦二人で出かけてリフレッシュしようということになった。
上司に嫌味を言われながら有休を取った。マジこの上司はめんどくさくて大いに不満があるが、ここでは省略。
子ども連れでは行きにくい、前々から行きたかったスポットに行こうと決めて、お互い楽しみにしていた。
有休前日、保育園から「子どもが熱を出した」と電話がきたのだ。
病院に連れて行くと、ただの風邪ということでそこまで心配は必要なさそうでひとまずは安心。
しかし、翌日の有休取得日も熱は続き、保育園をお休みしなくてはいけなくなった。
当然お出かけ計画はパー。
子どもはかわいい。ほんとうにかわいいが、しんどい。まったく悪くないんだけどね。
妻も私も、子供の世話をしながら、もやもやして一日を過ごした。
今は、妻の母親に来てもらうことを提案している。義母も用事があるだろうし、遠方だから呼ぶのも少し気が引けるが、
妻は今のところ来てもらうのは賛成とのことだ。
ちなみに私たち夫婦は関東の東端。妻の両親は関西の西端。私の実家は北陸。
実家が遠いこともストレスの原因なら仕事辞めて引っ越そうかとも思うがどこがいいのか見当がつかない。
それはさておき、義母が来ることで立ち直るきっかけになってくれればいいのだけど。
書いていて思ったが、病院行かないと根本解決にならない気もしている。
普段は賢くて面白い妻なんだけど、心を病みやすい性格みたいなので、今後のことも考えてなんとか解決しておきたい。
私自身も、余裕がなくてイライラして、冷静に対応できない時が増えてしまっている気がする。
このままだと、お互いダメになる。
どうにかしないといけないけど、どうしたものか。
なんか最近たまに新着エントリーとかに上がってきてブコメでつっこみたいけどコメント非表示でできない。
北海道には、丸餅がない? 雑煮もない? - 日本の最東端で暮らしています
確かに北海道は、今から200年ぐらい前から多くの人が移住し始めたようなので、北海道独自の雑煮文化というのはないことも納得できます。
アイヌと琉球の歴史と文化はこの人の中では存在しないことになってる。
NHKスペシャル「感染はどこまで拡がるのか」(2月9日 21時〜)を観ました でも不安が高まっただけ 新型コロナウイルス肺炎 - 日本の最東端で暮らしています
せきエチケット知らないのは現代日本人として常識がなさすぎる。もう10年以上も啓発活動続いてんだぞ。
韓国人が日本統治時代に抱く感情について考えてみたのだが、占領期~50年代の米軍の振る舞いについて日本人が抱く感情がそれにかなり近いのではないだろうか。
良く知られていることではあるが、敗戦後の日本には現在の沖縄のように米軍基地があちこちにあり、各地で米軍兵士が軽ふざけで日本人を殺害していた。
そのような時代背景を無視して、アメリカの会社が敗戦直後の日本を美化したゲームを売り出したらムカッとする日本人も出てくるだろう。
いま韓国で怒っている人たちがいるのはそのような理由からだと思う。
1957年(昭和32年)1月30日、薬莢を拾う事を目的に演習地内へ立ち入った日本人主婦(当時46歳)に対して、主婦の背後から第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード三等特技兵(当時21歳、イリノイ州オタワ出身[1])がM1ガーランド装着のM7グレネードランチャーで空薬莢を発射し、主婦が即死する事件が発生した。目撃者の証言から、ジラードが主婦に「ママサンダイジョウビ タクサン ブラス ステイ」と声をかけて、近寄らせてから銃を向け発砲した可能性があることがわかると、アメリカへの批判の声が高まり社会現象となった。
当時茨城県にあったアメリカ軍水戸対地射爆場(現・ひたちなか地区)から離陸したL-22連絡機が上昇せず、滑走路東端から500mはなれた道路を自転車で走行していた親子に機体が接触し、母親(当時63歳)は胴体を切断され即死、息子(当時24歳)も腹部に重傷を負った。
この異常な離陸についてアメリカ軍側は異常高温による熱気流が原因の不可抗力による事故であるとした。しかし、地元ではアメリカ軍のパイロットがわざと低空飛行を行い通行人を驚かしていたことが度々あったと主張し、今回の事件は同様なイタズラをしようとして不幸な結果を招いたとしていた。
事件は1958年9月7日に起きた。狭山市などにあった米軍ジョンソン基地(78年返還、現在の航空自衛隊入間基地)で、警戒監視の任務に当たっていた3等兵=当時(19)=が基地内を通過する西武池袋線電車に向けて発砲。1両目に乗っていた武蔵野音楽大の男子学生=当時(22)=が被弾し、死亡した。3等兵の名から「ロングプリー事件」と呼ばれている。
私は昔から自分の名前が好きになれなかった。黒須。闇を匂わせるその名字は男子の揶揄いの対象となり、その内クロという渾名が付けられた。
白河はそんな私とは対照的で、いつも太陽のような微笑みを浮かべている。
黒は、白と交じり合う事が出来ない。寄添いはしても近付き過ぎると互いの色を浸食してしまう。ありがちな話だが私はそれを恐れた。
私は働いた金で小さなバンを買った。チャコールグレーの車体は陽光を眩しく照り返す。一度の給油で行ける所まで行った。時には海岸線沿いを無心で走った。日没が訪れ夕食の支度をする為に人々は街へ帰っていく。私はといえば途方もなく自由だった。そこは日本最東端の岬、浜に聳え立つホテル群の窓から灯りが漏れていた。水平線の彼方に沈む夕日を見ながら、地球に果てはない事を知る。
不意に、白河の事を思い出した。高校時代、小説を見せ合っては感想を述べ、編纂したものを部誌に寄稿していた。彼女の文体は美しく怜悧だった。責任感の必要な仕事を任されるのも大体彼女だった。
我々は、全く正反対の性質を持ちながらも未だ郷土に縛られていた。
しかしもう私は白側の人生に寄せるつもりはない。いっそ更に深みを増した色へと変化したかった。車を振り返る。手に入る筈だったもの、手に入れたかったもの、様々思い出されるが今は手となり足となるこれ一つで十分だ。行ける所まで行ってそれから考えればいいとすら感じる。迷いが出るとすればそれは途方もなく自由だからなのだ。
選挙権年齢が引き下げられ、今回の参院選から18歳以上が投票できるようになりました。
自分の一票が選挙に与える影響と投票に行く手間を考えたら、合理的に判断し投票に行かないという選択をするというのが「合理的無知」といいます。簡単に言えば、「行ってもムダ」という考えですね。
そんな合理的判断をする割には、「私は雨女だから」や「私が応援すると負ける」とは発言して、どんだけ影響力をもってると思ってるだか・・・、そんな人ほど「私なんかが行っていいのか」と思わず、その根拠なき影響力をもって投票すべきである。
民主党が政権をとった時に、ついに私たちの声が政治を動かしたんだと思った人はたくさんいたんだ、まー結果的に失敗だったけど・・・。
イギリスのEU離脱も多くの国民がどうせ残留と思って、懲らしめるために離脱票に入れたら、本当に離脱票が残留票を上回ってしまった。こういう二択選挙だと一票も重みが増すのだろう。
投票に行くのが面倒というのはある、インターネット投票できるのであれば、
どこにいても投票できるのに。インターネット投票はとりわけセキュリティ上の理由からなかなか進まない。
開票時間の大幅な短縮や人件費の削減、疑問票や無効票が出ない、自分で書くのがむずかしい障害者も代筆なしで投票できるなどのメリットは大きい。
日本の地方選挙では電子投票端末を使った選挙を行われたことがあるが電子投票端末は投票所に置いてあるので、そこに行く手間がある。
インターネット投票は、エストニア(ヨーロッパの北東端にある小国)で国民にデジタルIDカードを配布してあり、2,048ビットのデジタル暗号化ソフトを通して、市民は自分の家の広間で快適に座ったまま投票を行うことが可能だ。日本もマイナンバー制度により、出来る準備の下地はできつつある。
頑張って投票所に行ったとして、周りも見渡せば投票するのはじいさん、ばあさんばかり見ることになる。2014年選挙では70代が72%、20代は29%なのだからそうなるであろう。(今回の選挙年齢は18歳に引き下げも若者の投票率アップが目的)
政治家は票になる高齢者への政策を充実させるようになり、票にならない若者への政策は後回しにされやすくなる。「保育園落ちた日本死ね」記事も話題にはなったが、若者の政策は反映し難いのが現行の選挙制度上なのである。
これから少子高齢化社会では有権者全体に占める高齢者の割合が大きくなり、逆に若者の割合は小さくなる。これが世代間格差を助長させる要因となり、年金などの社会保障問題は先送りされ、将来の財政上の負担はかさむことになる。つまり現在の選挙制度のままでは将来世代に不利な状況を生んでしまう構造が出来てしまっているわけだ。
では、年齢階層別選挙区のようなのを採用して「20歳未満の子供をもつ親に2票を与える」「一つの選挙区を『老年区』『中年区』『若年区』にわけてそれぞれ同数の定数を配分し、投票率の差をなくす。20歳未満の『子供区』を設け、この分の選挙権を親が行使」というように差をなくせばいいと考える人達も出てくるわけですね。
しかし、民主制では自然法の下、権利や平等が保障されていて一人一票もその一環として保障されている。一人が一票しか無く誰かが2票3票何て有ったら平等≒民主主義の概念が存在しなく成るんだよね。
自分達の世代にとっての利権だけでなく、将来を担う世代にとっても、利益になる政策が考えられる仕組みをつくることが必要だよね。