はてなキーワード: 古墳時代とは
その前はジュラ紀麻雀(2億100万年前~1億4500万年前)
その前はペルム紀麻雀(2億9900万年前~2億5200万年前)
その前は石炭紀麻雀(3億5900万年前~2億9900万年前)
その前はデボン紀麻雀(4億1900万年前~3億5900万年前)
その前はシルル紀麻雀(4億4400万年前~4億1900万年前)
その前はオルドビス紀麻雀(4億8500万年前~4億4400万年前)
その前はカンブリア紀麻雀(5億4100万年前~4億8500万年前)
その前はエディアカラ紀麻雀(6億3500万年前~5億4100万年前)
その前は氷成紀麻雀(8億5000万年前~6億3500万年前)
その前は覆層紀麻雀(16億年前~14億年前)
その前は剛塊紀麻雀(18億年前~16億年前)
その前は冥王代麻雀(46億年前~40億年前)
地球が誕生した46億年前から宇宙に最初の恒星ができた133億年前には名称がないようなのでちょっと飛んで…
その前は暗黒時代麻雀(宇宙誕生後38万年~5億年〔133億年前〕)
その前はクォーク時代麻雀(宇宙誕生後10⁻¹²秒~10⁻⁶秒)
その前は電弱時代麻雀(宇宙誕生後10⁻³²秒~10⁻¹²秒)
その前はインフレーション時代麻雀(宇宙誕生後10⁻³⁶秒~10⁻³²秒)
なーーにが朝廷だよ
あと古墳作りまくるなよ
後の時代の奴らが困るぞ?ずっと残るんだそ、お前の墓が
あと朝鮮半島まで攻め込むなよ
日本列島だけにしておけよ、身の程知らずなんだよ
令和の時代までそれが影響してんだぞ
ややこしいんだわ、お前のせいで葬式も仏式がメインになってお金がかかって仕方ないんだわ
とりあえず◯んでくれ、ヤ◯ト朝廷
季刊誌「Yaponesian」第4巻なつ号
ことばめぐり
言語学は何ができるのか?
最初、この科研に参加した時からこの分野における言語学の貢献の可能性については疑問を感じていた。
文献や記録がない限り、過去の言語のことは知りようがなく、日本語については古事記・日本書紀・万葉集の時代(8世紀)以前のことは基本的にわかりようがないのだ。
卑弥呼や古墳時代の言語はもちろん、縄文などとなればもうお手上げである。
基本的に無文字言語で、現在の諸方言のデータしかないツングース諸語を専門にしている私は、内的再建に頼らざるを得ない面が多々ある。
しかし日本語とアルタイ諸言語の関係、のような巨視的なレベルでこの手法を使うことはまずもって無理だ。
ただ万葉集には東歌・防人の歌というものがあり、方言差の記録もある。しかも現代もなおその特徴を維持している方言がある。
そこで何とかならないだろうかと、去年の言語学会のワークショップのためにいろいろ勉強してみた。
そうしているうちに、言語学・日本語学側の問題点(偏見?)や視野の狭さというものにいろいろと気がつくようになった。
そしてそれに対してごく最近、これまでの殻を破った核心的な研究も現われてきた。このことについて以下に4つの問題点に分けて記す。
学生と話していると、中国には中国語、ロシア語にはロシア語、韓国には韓国語だけが話されていて、過去にもずっとそうだったと思っている者がたくさんいる。
方言も同様で、彼らは最初はもう日本全国ほとんど標準語なんだと思っていて、そこで青森や鹿児島の方言を紹介すると、今度は47都道府県に47の違った方言があると思い込んでしまう。
蝦夷征伐の時代、(アイヌだったのかもしれないが)蝦夷の人々とは通訳が必要だったのに、百済とのやりとりは全く通訳不要だった。
白村江以前、朝廷にとって朝鮮半島は取り返すべき本拠地で、他方東国は全くの異国の世界だった。
そういうことを考慮に入れていない日本語研究者の方がほとんどであると思う。
私も勉強してみるまでは、現在と同じように大河川の河口には広い土地があって、山国の日本にあってはもっぱらそこで大昔から稲が育てられてきたんだと思っていた。
しかし大河川の河口の平野はかつては治水がままならず氾濫すればすぐ水浸しになり、大湿地帯も多かったという。
さらに富士や阿蘇は噴火していたし、火山による黒ボク土は稲作に適さなかったんだという。
決して現在の水田地帯すべてに弥生人が広がって今と同じように稲作をしていたとは言えないのだ。
これまでの日本語アクセント研究では、平安時代の類聚妙義抄(11c-12c?)に記されているかなり複雑な体系のアクセントに近いものが祖体系であると考えられてきた。
これには「理由なく分裂することは比較言語学の方法論上、慎まなければならない、だから複雑な体系こそ祖体系で、だんだん簡単になり、無アクセントは「なれの果て」である」という金田一春彦先生以来の考えが金科玉条のようにみなされてきた。
一方で文献のない時代の日本語の起源について、南方の言語(オーストロネシア)に北方のアルタイ系が被さったんだとか、インドのタミル語が関係あるとか、眉唾な説を怪しげな音対応で説明する者がいろいろあって、多くの日本語研究者は文献以前の日本語に心を閉ざしてしまったようだ。
そしてもっとも古いアクセントの記録(の一つ)である類聚妙義抄の体系がより神聖視されたようにも思う。
(中略)
ところがつい最近(今年の春の言語学会のワークショップ3で)、すばらしい発表があった。五十嵐陽介氏の「2音節名詞第4/5類に対応する琉球祖語B類は改新であるとする仮説」である。
これは本土と琉球で異なるアクセント類に分けられている諸語群について、それぞれの語群への分裂が①狭母音か非狭母音か、②かつて複合語であったか否か、という条件によって説明できることを提案したものである。
つまりは日本語アクセントにおける声調発生論がついに登場したのだ!! したがって祖体系はもっと簡単なものになる可能性が出てきた。
他の学問分野も多かれ少なかれ同じかもしれないが、言語学はますます細分化していて、扱う言語の違いよりも方法論の違いの方が大きな距離を感じるほどになっている。
そして、ある一言語しか扱わない、とか、文法、それも受身しかやらないとか、音声、それもアクセントしかやらないとか、そういう研究者も多い。
いわゆる蛸壺状態だ。しかし上記の五十嵐さんによるような研究成果はアクセントと共に子音や母音の配列や、語構成、琉球諸言語と本土諸方言の音対応などを総合的に考察していないと到達することはできない。
日本語学は寺村秀夫の出現で1970年代に活用重視の国語学から脱皮し、最近は琉球諸方言の「体系的」研究の進展などによって再び新たなステージを迎えようとしているように見える(、だといいんだけど)。
いいですか?
いいですか? 季刊誌「Yaponesian」第3巻ふゆ号がですね!発行されました!
http://www.yaponesian.jp/topic00251.html
素晴らしい!素晴らしいことです!
2020年以降、東アジアにおける古代ゲノム研究が次々に発表され、この地域における集団の形成に関する大まかなシナリオが描かれるようになっている。
縄文人のゲノムからは、彼らがアンダマンの先住民などと類縁関係を持ち、東アジアに展開した集団から早い時期に分岐したことが示唆されているが、報告によっては異なるルーツを示唆しているものもあり、確実な結果を得ることはできていない。
しかし、縄文人の起源を、二重構造モデルが想定する東南アジアとすることは、集団形成のプロセスを単純化しすぎていることも分かってきた。
一方、渡来系弥生人の起源に関しては、最近の研究では、稲作農耕民と雑穀農耕民が朝鮮半島に流入し、そこで在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合することによってあらたな地域集団が形成され、その中から生まれた渡来系弥生人が三千年前以降に日本列島に到達したというストーリーが提唱されている。
現状では稲作の起源地である揚子江中流域の古代ゲノムデータがないので検証はできていないが、渡来系弥生人の主体を、北東アジアの西遼河を中心とした地域の集団と考えており、二重構造モデルと概ね一致している。
また、二重構造モデルが予想する渡来系弥生人の寒冷地適応は、EDAR遺伝子の大陸北東部での時代的な変化によって説明できる可能性が示されている。
先史時代において、考古学的に渡来人がやって来た可能性が高いと考えられているのは、弥生早期前半、前期末の2時期、そして古墳時代中期です。
ここでは年代が変わらない古墳中期を除く弥生時代について、年代順ではなく渡海の可能性が高い順に説明します。
もっとも可能性が高いのは前期末の前4世紀前葉で、中国東北部に起源をもつ燕の鉄器や韓半島の円形粘土帯土器が出土するようになることをあげられます。
弥生最初の鉄器は炭素量の高い鋳造鉄器で、鋳型に融けた鉄を流し込んで作る斧を代表とします。
鋳型の構造からみて、韓半島ではなく中国東北部の燕系のものである可能性があります。
また、円形粘土帯土器もやはり中国東北部に出自があることが指摘されていますので、韓半島南部だけではなく中国東北部から人がやって来ている可能性を指摘できます。
クマネズミやハツカネズミは有史以前の人類のユーラシアの移動に随伴することで現在の地球レベルの広範な分布域を手に入れた。
これらのネズミ類の歴史を辿ることは文字に記されていない人類の移動の歴史を知ることでもある。
このことを今から50年前に想起した国立遺伝学研究所の森脇和郎(もりわきかずお)は世界各地から野生ハツカネズミを収集し、米川博通氏とともに遺伝子の解析を行った。、北方系亜種のMUSはイラン北部の起源地より、1)中国西部の砂漠地帯(15000年前)、2)黄土高原(10000年前)、3)中国東北部(7000年前)、4)朝鮮半島(5300年前)、そして、5)日本列島(3000年前)へと順次東方移動したことが示唆された
本講演では、大陸から稲作を携えてやってきた渡来系弥生人が、1)どこからやってきたのか、2)どのくらいやってきたのか、という問いに対する知見を、最新のゲノム解析の結果を踏まえて一般向けに紹介しました。
渡来系弥生人の遺伝的構成についてはOsada and Kawai(2021)や機関誌Yaponesian3巻はる号で詳しく解説しているのでご一読いただけたらと思います。
Hanihara(1991)では渡来集団が東シベリア、中国東北地方およびモンゴルの集団と形態学的には似ていたと述べられています。
これまでのいくつかの東アジア現代・古代人のゲノム解析から、渡来系集団は現在の北方系東アジア人集団に近かったという結果が出ており、この予想と概ね一致します。
本講演ではさらに、考古学や言語学的証拠も考慮に入れ、3500年前ごろに遼東半島近辺に居住していたが紅山文化の中心地からは外れたひとびとが、稲作とともに朝鮮半島を南下してきたのではないかという仮説をあげさせていただきました。
次にふたつ目の疑問、どのくらいやってきたのか、という問題について、Hanihara(1991)で用いられた手法を使い、より新しい歴史人口の推定値を用いた結果を発表いたしました。
Hanihara(1991)では、日本列島の人口が弥生開始期に約7.6万人、古墳時代の終わりに約540万人という推定値が用いられています。
埴原先生は、この値をもとに計算された自然人口増加率が年あたり0.43%である、という値がありえないほど高いと考えていたようです。
この前提に基づき、Hanihara(1991)では、どれくらいの渡来人が来ればおよそ1:9である縄文:弥生の遺伝成分を説明できるかというシミュレーションを行っています。
驚くべきことは、埴原先生が当時の形態データから推定した1:9の混合率という推定値が、現在の全ゲノムを用いた推定値とほとんど変わらないことです。
渡来人和推定の方法も比較的単純でありますがエレガントなものとなっています。
年あたりの大陸からの移入数を一定と仮定したモデルでは、毎年約1500人、およそ1000年の間に約150万人が渡来し、自然人口増加率が0.2%であれば日本列島における人口増加量の説明がつくという結論に達しています。
本講演では、Hanihara(1991)の方法に基づき、歴博による新しい年代観やより新しい人口推定値を用いてその評価を行いました。
たとえば、弥生の開始期を更に600年古くすると、1500年の間に人口が59倍に増加したことになります。
その場合、年あたりの移入数の推定値は約1000人と減りますが、1500年の間には約146万人と、埴原先生による推定値とほとんど一緒になります。
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http://www.yaponesian.jp/topic00251.html
素晴らしい!素晴らしいことです!
2020年以降、東アジアにおける古代ゲノム研究が次々に発表され、この地域における集団の形成に関する大まかなシナリオが描かれるようになっている。
縄文人のゲノムからは、彼らがアンダマンの先住民などと類縁関係を持ち、東アジアに展開した集団から早い時期に分岐したことが示唆されているが、報告によっては異なるルーツを示唆しているものもあり、確実な結果を得ることはできていない。
しかし、縄文人の起源を、二重構造モデルが想定する東南アジアとすることは、集団形成のプロセスを単純化しすぎていることも分かってきた。
一方、渡来系弥生人の起源に関しては、最近の研究では、稲作農耕民と雑穀農耕民が朝鮮半島に流入し、そこで在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合することによってあらたな地域集団が形成され、その中から生まれた渡来系弥生人が三千年前以降に日本列島に到達したというストーリーが提唱されている。
現状では稲作の起源地である揚子江中流域の古代ゲノムデータがないので検証はできていないが、渡来系弥生人の主体を、北東アジアの西遼河を中心とした地域の集団と考えており、二重構造モデルと概ね一致している。
また、二重構造モデルが予想する渡来系弥生人の寒冷地適応は、EDAR遺伝子の大陸北東部での時代的な変化によって説明できる可能性が示されている。
先史時代において、考古学的に渡来人がやって来た可能性が高いと考えられているのは、弥生早期前半、前期末の2時期、そして古墳時代中期です。
ここでは年代が変わらない古墳中期を除く弥生時代について、年代順ではなく渡海の可能性が高い順に説明します。
もっとも可能性が高いのは前期末の前4世紀前葉で、中国東北部に起源をもつ燕の鉄器や韓半島の円形粘土帯土器が出土するようになることをあげられます。
弥生最初の鉄器は炭素量の高い鋳造鉄器で、鋳型に融けた鉄を流し込んで作る斧を代表とします。
鋳型の構造からみて、韓半島ではなく中国東北部の燕系のものである可能性があります。
また、円形粘土帯土器もやはり中国東北部に出自があることが指摘されていますので、韓半島南部だけではなく中国東北部から人がやって来ている可能性を指摘できます。
クマネズミやハツカネズミは有史以前の人類のユーラシアの移動に随伴することで現在の地球レベルの広範な分布域を手に入れた。
これらのネズミ類の歴史を辿ることは文字に記されていない人類の移動の歴史を知ることでもある。
このことを今から50年前に想起した国立遺伝学研究所の森脇和郎(もりわきかずお)は世界各地から野生ハツカネズミを収集し、米川博通氏とともに遺伝子の解析を行った。、北方系亜種のMUSはイラン北部の起源地より、1)中国西部の砂漠地帯(15000年前)、2)黄土高原(10000年前)、3)中国東北部(7000年前)、4)朝鮮半島(5300年前)、そして、5)日本列島(3000年前)へと順次東方移動したことが示唆された
本講演では、大陸から稲作を携えてやってきた渡来系弥生人が、1)どこからやってきたのか、2)どのくらいやってきたのか、という問いに対する知見を、最新のゲノム解析の結果を踏まえて一般向けに紹介しました。
渡来系弥生人の遺伝的構成についてはOsada and Kawai(2021)や機関誌Yaponesian3巻はる号で詳しく解説しているのでご一読いただけたらと思います。
Hanihara(1991)では渡来集団が東シベリア、中国東北地方およびモンゴルの集団と形態学的には似ていたと述べられています。
これまでのいくつかの東アジア現代・古代人のゲノム解析から、渡来系集団は現在の北方系東アジア人集団に近かったという結果が出ており、この予想と概ね一致します。
本講演ではさらに、考古学や言語学的証拠も考慮に入れ、3500年前ごろに遼東半島近辺に居住していたが紅山文化の中心地からは外れたひとびとが、稲作とともに朝鮮半島を南下してきたのではないかという仮説をあげさせていただきました。
次にふたつ目の疑問、どのくらいやってきたのか、という問題について、Hanihara(1991)で用いられた手法を使い、より新しい歴史人口の推定値を用いた結果を発表いたしました。
Hanihara(1991)では、日本列島の人口が弥生開始期に約7.6万人、古墳時代の終わりに約540万人という推定値が用いられています。
埴原先生は、この値をもとに計算された自然人口増加率が年あたり0.43%である、という値がありえないほど高いと考えていたようです。
この前提に基づき、Hanihara(1991)では、どれくらいの渡来人が来ればおよそ1:9である縄文:弥生の遺伝成分を説明できるかというシミュレーションを行っています。
驚くべきことは、埴原先生が当時の形態データから推定した1:9の混合率という推定値が、現在の全ゲノムを用いた推定値とほとんど変わらないことです。
渡来人和推定の方法も比較的単純でありますがエレガントなものとなっています。
年あたりの大陸からの移入数を一定と仮定したモデルでは、毎年約1500人、およそ1000年の間に約150万人が渡来し、自然人口増加率が0.2%であれば日本列島における人口増加量の説明がつくという結論に達しています。
本講演では、Hanihara(1991)の方法に基づき、歴博による新しい年代観やより新しい人口推定値を用いてその評価を行いました。
たとえば、弥生の開始期を更に600年古くすると、1500年の間に人口が59倍に増加したことになります。
その場合、年あたりの移入数の推定値は約1000人と減りますが、1500年の間には約146万人と、埴原先生による推定値とほとんど一緒になります。
崇神天皇が「実在した可能性のある最初の天皇」って言われてるけど、やっぱ初代って継体天皇でしょ。
BC37年頃 高句麗が成立
近畿地方を中心に銅鐸、西日本に青銅製武器形祭器による祭祀が行われる。
階層の秩序化すすむ。
関東地方や東北地方南部に縄文時代の一墓制である再葬墓が見られる。
北部九州では甕棺墓が盛行し、その中の一部のものが多くの前漢鏡を副葬する。
8年 前漢の滅亡
25年 後漢の成立
147年頃-189年頃 倭国大乱
220年 後漢の滅亡
239年 邪馬台国の卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う
248年頃 女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる
266年 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)
日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。
316年 西晋が滅亡
空白の4世紀
463年 吉備氏の乱
457年-479年(日本長暦) 雄略天皇 考古学的に実在が実証される最古の天皇
479年 星川皇子の乱
大王クラスの大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。
日本では倭国の古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方とヤマト王権中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われる。この世紀の倭国は朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王が東晋から南朝にかけての江南の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国正史の記述に残されており、倭の五王として知られている。
507年-531年 継体天皇
527年 磐井の乱
531年-535年 安閑天皇
538年 仏教伝来(552年説あり)
536年-539年 宣化天皇
539年-571年 欽明天皇
572年-585年 敏達天皇
581年 隋の建国
585年-587年 用明天皇
587年-592年 崇峻天皇
それまでのヤマト王権の王統嫡流が断絶し、誉田別尊大王(後の応神天皇)五世の子孫とされ越前と近江に地盤を持ち尾張連草香の娘を妃としていた男大迹王(後の継体天皇)が、大伴氏、物部氏、巨勢氏らにより畿内に迎えられて前王統の手白香皇女を皇后に迎え、治天下大王として擁立される。やがてこの継体系の王家は新興の蘇我氏と結びつき、武川鎮軍閥系の政権によって大陸が華北の再統一から南北朝の統一へと向かう中、前世紀の「倭の五王」後に途絶えていた活発な東アジア外交を再開する。
考古学の発掘研究によればこの世紀の半ばになって日本列島での鉄鉱石からの製鉄遺構が初めて出現する。同時期に大陸では倭国が弥生時代以来鉄素材の供給源としていた弁韓の後身加羅諸国が新羅に併合されている。
前世紀に九州などで造られ始めていた古墳の横穴式石室が全国規模で普及する。
この世紀の後期になると畿内では前方後円墳がつくられなくなり、前方後円墳の伝統を保持していた天皇陵含む大型古墳も渟中倉太珠敷大王(後の敏達天皇)の陵墓を最後に以後方墳となる。関東でも群集墳が盛んに造られるようになる。ヤマト王権中央、さらには地方首長の統治下でも仏教の導入が進行し、前方後円墳と結びついていた首長祭祀は以後氏寺における仏教儀礼が担うようになる。
593年-628年 推古天皇
603年 冠位十二階を制定
618年 隋の滅亡、唐の建国
629年-641年 舒明天皇
642年-645年 皇極天皇
645年 乙巳の変
645年-654年 孝徳天皇
646年 大化の改新
655年-661年 斉明天皇
660年 百済滅亡
663年 白村江の戦い
668年 高句麗滅亡
673年-686年 天武天皇
3000年前に朝鮮半島から日本へ到達したとして白村江の戦いって西暦663年やで。1500年以上も違う時代の出来事をくっつけてどないすんねんな。
この中の古墳人ってのが朝鮮半島南部、伽耶・任那諸国にルーツを持つ集団なんやね
そもそも現代日本人は列島の先住民系と渡来系が混血して誕生したって説は、1994年に埴原和郎が提唱した二重構造モデルに端を発しとる。
これが論文やな。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1993/102/5/102_5_455/_article/-char/ja/
日本列 島の最初の居住者は後期 旧石器時代 に移動 して きた東南 アジア系の集団で, 縄文 人はその子孫で ある。弥生 時代 になって第2の 移動の波が北ア ジアか ら押 し寄せたため, これ ら2系 統 の集団は列島内で徐 々に混血 した。
埴原は渡来人は単一のグループで、その時期も一度と思っとったんやね。
がしかし、これはどうやら間違っとったらしいっちゅうのが2010年代の研究で分かってきた。
もちろん「先住民系と渡来系が混血して誕生した」ってのは変わってへん。しかしこの渡来系というのがどうやら遺伝的にも年代的にも二つに分かれるというのが分かったんや。
これは国立遺伝学研究所とか国立科学博物館の研究のおかげやな。
日本人の「完成」は古墳時代だった? DNAを分析、ルーツに新説 https://www.asahi.com/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html
まあ興味あったら http://www.yaponesian.jp/ を読むんやな。
発言者:遠藤光暁、青山学院大学教授、中国語音韻史・方言学、アジア地理言語学
児倉徳和、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授、ツングース満洲語学
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福井:ただ日本語と唯一関係があるかもしれないと思っているのは、河野六郎先生や李基文先生など多くの方が扱ってきたいわゆる高句麗語あるいは濊語、つまり旧高句麗地名から推定される言語で、それが日本語に近いというのはほぼ間違いない。最近は伊藤英人先生も注目すべき発表をなさっています。
遠藤:ええ、だからこのヤポネシアゲノムプロジェクトでも日本以外の言語学的証拠で一番確かな根拠は、いわゆる「高句麗」地名だと狙いを定めて、初年度から重点的にやっています。実際にはたぶんそれが全体として「高句麗語」を反映するというよりも、倭人が半島部で先住民として当時になるとモザイク化して居住していて、倭系の地名を残したとか、そんなイメージではないかと思うんですけど。
福井:そうですね。それを河野六郎先生がはじめて歴史的な資料の中に出てくる濊人の言語ではないかということを言い始めた。その一番きっかけとなった大きな証拠は、もともと朝鮮で日本人のことをなんと呼ぶかというと、jej(예)ですね。これが「濊」の字音(jej)とまったく一致します。その一方で、日本人の呼称は普通は倭人の字音「倭(waj)」となるはずなんですが、中期朝鮮語の資料の中ではそれではなくて、jej(예)と呼ばれている。そこから発想されたのかなと思うんです。
遠藤:それが現在の中国の東北部、古い時代の「夫余」の地域あたりまでJaponicで解ける地名があると以前から言われています。
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風間:2つほどあります。別に私が言い出した事ではなくて、以前Vovinさんらが日文研から刊行した日本語の系統についての本にも書かれていますが、日本語は昔はもっと孤立語的なタイプだったとする説です。先ほど遠藤先生は中国語などと比べると日本語は全然違ったタイプの言語であるとおっしゃっていましたが、日本語は昔はもっと孤立語的なタイプだったとする説を考えていく必要はあると思っています。昨日も木部先生がおっしゃっていましたように、古代日本語の語はほとんど一音節です。一方、母音の数は現在よりおそらくもうちょっと多かった。助詞自体にも個別の声調があって、現代のテ形のテの部分などにも独自の声調があった。つまり膠着的ではなく、文法要素も独立した語の性格を持っていて、孤立語的だったということです。助詞や助動詞には自立語起源で説明されるものがかなりたくさんあり、声調があって単音節、という事になると、まるで孤立語的であるということになります。
風間:はい、今まさしくその歴史時代の日本語の事を考えなくてはいけないんだと思います。それを考えるとやっぱり孤立語だったという可能性についてよく検討していくべきではないかと思います。
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遠藤:文献言語史的な証拠から言うと日本語はせいぜい1500年前ぐらいしか遡れないですね。あるは『魏志倭人伝』とかの頃ですよね。高句麗とかいろんな北方民族の記録については中国側の正史などの東夷伝とかもありますが。考古学の方からするともっと古い情報がわかって、宮本一夫先生の説によると、まず日本語を話す人たちが朝鮮半島に入ってきて、そのあと朝鮮語を話す人たちが現在でいう中国東北部から朝鮮半島に入ってきた、といったことが先史時代に起こっている可能性があるので、そうすると日本語や朝鮮語やツングース語を話す人たちっていうのは中国の東北部で先史時代に非常に密接な接触をしている可能性があることになりますね。われわれは普段そういうことを考えないんですけど、そういうのはどうでしょう。かのアルタイタイプ諸語のTurkic、Mongolic、Tungusic なども地理的な分布範囲が歴史時代・先史時代ともかなり移動しているんじゃないでしょうか。
福井:考古学との関わりという意味ではやはり今後参考にすべきところはいろいろあると思います。昨日の私の話だと主に韓国語から日本語への借用ということを中心にお話ししましたけど、まあその逆の場合もありうるわけで。日本と朝鮮半島の間で考古学的な遺物が共通している場合があります。これは歴史学の人から聞いた話ですけれども、例えば日本式の甲冑が韓国のある一部の地域でかなりたくさん出てくるとか、その時期そのあたりで接触があったということは明らかであるし、前方後円墳が朝鮮半島でも見つかっていて、それは歴史をやっている人たちからするとむしろ日本から渡ったものではないかという説もあります。
遠藤:古墳時代ぐらいになるとそういう方向もあるみたいですね。遺伝学的な根拠からしても半島南部のところで縄文のDNAが見つかったとかいうこともあります。しかし、文献言語史で考えるくらいのタイムスパンだと日本列島には既に日本語が入っていて朝鮮半島は朝鮮語が優勢であってツングース語はシべリアから中国東北部にいた、といった現代の状況を投影して考えがちですが、もっと全然違った居住地域で一緒に雑居していて遥かにドラスティックな言語接触を考えてもいいんじゃないかってこのプロジェクトに入ってから思うようになりました。言語学的にそれを証明することは非常に難しいと思うんですが。語族単位でやっていると非常に細かい違いが目に入ってくるかもしれませんが、もっと大きいアジア全域といったマクロな範囲で見るとやっぱりアルタイタイプ諸語の共通性が際立って見えるんですね。
.....
風間:もう1つ目についてお話しするには今日はもう残念ながら時間が残っていないと思います。先の話の続きですが、やや推論の上での推論ということになりますが、孤立語だった日本列島の言語を話していた人々を大陸から来た別の集団が征服して、それが上層言語となり、下層言語は孤立語なものだったけれども、最終的に日本語がSOVで膠着的なアルタイ型の言語の文法のタイプに再編成されたという可能性はあり得ると思います。
遠藤:縄文語(諸語?)が孤立語タイプで基礎語彙がそこから継承されて、弥生時代に大陸から入ってきた膠着語タイプの言語によって文法が組み替えられたというわけですか。私などは『三国史記』で半島・大陸部にJaponic地名が存在するということからして、むしろ日本語が半島とか大陸にあった時代に非常に密接に接触するチャンスがあったのでは、という仮説に傾いているのですが。
風間:大陸で接触してから列島に入ってきたということでもいいとは思いますが、その支配者層はそれほど多くの人数でなかったとしてもかまわないと思います。
遠藤:漢語について言うと、遣隋使や遣唐使が行って、ごく少数のエリートが本をもってきて、仏典も含めてずっと勉強していく過程で日本列島を舞台として日本語の中の漢語の中の比率が増えていくわけですよね。そういう事は文化語彙については英語などでもギリシャ語・ラテン語・フランス語が大量に入るといったことは起こりますが、言語の中核的な部分で民衆の言語まで浸透するためには、そういう文化的な学習だけじゃなくて日常的なレベルで普通の庶民がバイリンガリズムとかの状態になっていないと、そういう風な組み換えは起こりにくいんじゃないでしょうか。あるいは完全に支配者の言語に取って代わられる例っていうのは中南米のスペイン語とか枚挙にいとまないですけど。
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風間:ゲノムをはじめとする他の学問分野での推定とどのような関係にあるのかはわかりませんが、言語学的シナリオとして唯一あり得ると考えられるのは、日本語が孤立語のタイプから現在の膠着語的なタイプへと、何らかの理由で変化してきたという可能性ではないかと思います。それを示唆するような痕跡的特徴は日本語にある程度存在するのではないかと思います。その中でも一番問題になるのはアクセントもしくは声調と呼ばれる現象、さらにはその両方が日本語にあるということだと思います。ただ、アルタイ諸言語がどの言語も弁別的なアクセントを持たない、ということもあり、私は日本祖語は無アクセントの言語だったのではないかという仮説に深く関心をもっています。山口幸洋さんをはじめとする何人かの研究者が提案されている仮説です。
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木部:これから先は想像の世界ですけども、古くは日本列島各地に今の大和ことばではない言語、何語であるか分からないような言語が日本列島にいっぱいあって。
木部:縄文時代、縄文語かもしれない。それが無アクセントであったという事はあり得るとは思います。そのあと、大和と琉球の共通祖語、日琉祖語が上にかぶさって、元の言語は日琉祖語に取り替えられたけれども、アクセントにはサブストレータム(基層語)としてもとの無アクセントの特徴が残った地域があって、現在、各地に点々と残っているということはあるかもしれません。元々、声調の区別をもっていなかった言語が新しい言語を受け入れたときに、アクセントの区別をしなかったという事はあると思います。無アクセントの言語がアクセントのある言語から借用語を取り入れるときに無アクセントで取り入れるという事はよく起きています。
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遠藤:それで、九州の無アクセント地域と二型アクセントの境界線のあたりにABOの血液型の境界線がひかれるんですね。A型は瀬戸内海から関西にかけて特に多くなって、その周りに別のタイプがあって、その境界線がちょうど無型アクセントになるあたりなんですね。それから他にも斎藤先生のおっしゃる三段階説または内なる二重構造、イエナのマックス・プランク研究所の人は新幹線モデルといっていましたが、関西から山陽新幹線がはしっている辺りから九州にかけて、身長が高くて、首と胴体の比率が7頭身に割合近いといった形態的な違いもあるそうですね。それで、服部四郎が『アクセントと方言』の中で、北九州の辺りから関西にかけて移住が起こったかもしれないと書いていますね。もしかしたら朝鮮半島からも繋がっているかもしれず、弥生人が北九州にもたらした日本語はアクセントをもっていたが、周辺部ではアクセントがなかったとかいったことがもし想定できるとしたら風間先生とか狩俣先生とか、もっと早くは山口幸洋が言っているようなこともあるかもしれませんね。つまり、一言語内部の比較言語学的な考察からすると対立が少ないところは分化条件が与えられない限り必ずや合流を経たとせざるを得ないので、ウルトラCのような離れ技として民族的ないし言語的なsubstratumを想定に入れないとダメになりますね。ヤポネシアゲノムが始まる2年前までは我ながらこんなことを言い出すなどとは思いもよりませんでしたね。もう40年ほど前から日本語の系統論っていうのは、本当に危ない分野なので手出しせずに実証的な研究に没頭すべきだと考えてきた世代なので。