はてなキーワード: 敬虔とは
いちゲーオタ中年男性のハートのど真ん中の最奥部に抜けないほど深く突き刺さった「テン年代ゲーム」10本をランキング形式で挙げていきます。お付き合いください。
のっけから「特別賞」から始めることをお許しあれ。ランキング発表後だと、1位よりもスペッシャルな空気を醸し出してしまいそうで。それを避けたかった。
でも、本作がとくべつな1本であるには違いない。だから悩んだ挙句の……「特別賞」。まんまでごめん。
個人的には『ノベルゲー」って昔からあんまやらないんです。ノベルゲーやる時間あったら小説を読むほうが(たいてい)有益だろう、という長年の思いこみ集積のせい。でも、『Doki Doki Liteature Club』は例外。ゲームらしいインタラクティブな要素があるわけじゃないのだけど、小説でもマンガでもアニメでもこの表現は絶対不可能。
本作の凄さについてはもはや語り尽くされている感があるし、強く深い思い入れを持っている方が世界中にいらっしゃることも存じておりますし、まだプレイしていない方のためにも、内容については何も言いたくない。
でも、これだけは言わせてほしい。
本作は「神は存在を愛している」ってことをギャルゲー/ノベルゲーのガワで見事に顕してみせた一大叙事詩である。ここには生があって、性があって、詩があって、死があって……愛がある。さらには現象学的「彼方」をも開示してみせる。
その(一見)破天荒、かつ強烈な内容に憤怒するかもしれない。ショックのあまりマウスを壁に叩きつけるかもしれない。号泣するかもしれない。戦慄するかもしれない。でも最後にはきっと宇宙大の愛に包まれる……絶対。
ああ、すっきり。
では、こっから心置きなく2010年代・心のベスト10を発表させて頂きます。
「……なんか妙に懐かしいな。子供の頃、お前と行った鵠沼海岸をまざまざと思い出したわ」
ゲームと本の山でとっ散らかった僕の部屋にやってきて、このゲームをしばらく遊んだ君は、いかにも重たいPSVRヘッドギアをつけたまま、そう呟いた。
僕はかなり潔癖症だから、君が顔じゅうに汗をたっぷりかいてることがひどく気になって、除菌ティッシュ片手にそれどころじゃなかった。
けどさ、あの頃君と一緒に見つめた空と海の青さに、まさかVRの新規アクションゲームの中で出会えるとは夢にも思わなかったよ。
ハタチん時、『スーパーマリオ64』を初めてプレイした時の驚きと、海辺で自分の子と君の子が一緒に遊んでいるのをぼんやり眺めてるような、そのうちに自分たちも同じくらい小さな子供に戻って、一緒に無邪気に冒険してるような……切なくて温くて微笑ましい気持ちがじわじわこみあげてきた。そのことに、僕は本当に心底驚いたんだよ。またいつでもやりに来てくれ。
「あー、なんかシャベル持ったナイトのやつでしょ。古き良きアクションゲームへのオマージュに溢れる良質なインディーゲーって感じだよね、え、あれってまだアップデートとかやってんの? なんかsteamセールん時に買って積んでんだけど、ま、そんな面白いならそのうちやるわー」
あなたが『ショベルナイト』をその程度のゲームだと思っているのなら、それは大きな大きな間違いだ。
プレイ済みの方はとっくにご承知と思うが、本作はレトロゲーもオマージュゲーもとっくに越えた、誰も登れない山頂に到達した類い稀な作品である。アイロニーと切り張りだけで作られた、この10年で数えきれないほど溢れ返った凡百のレトロ風ゲームとは、かけ離れた聖域に屹立してゐる。
そして3つの追加アプデ(大胆なアイデアに溢れた全く新規追加シナリオ。今月でようやく完結)によって、本作は10年代下半期にリリースされた『Celeste』や『ホロウナイト』の先駆けとなる、傑作2Dアクションとしてここに完成したのだった。さあ、ショベルを手に彼の地へ赴け。
このゲームの印象を喩えて言うなら、
久し振りに会って酒でも飲もうものなら、いちいち熱くてしつっこい口論になってしまう、共感と嫉妬と軽蔑と相いれなさのような感情を腑分けするのが難しいくらい綯い交ぜになっている面倒きわまりない幼なじみ、みたいな。
正直、ランキングにはあまり入れたくなかった。が、初プレイ時の衝撃をまざまざと思い出してみると、やっぱり入れないわけにはいかぬと悟った。
もし未プレイだったら、このゲームはできればPC(steam)でやってみてほしいとせつに願う。当方バリバリのコンシューマー勢なので、ゲームでPC版を薦めることは滅多にない。だが、コンシューマー機ではこのゲームの持つ「鋭利なナイフ」のような「最後の一撃」が半減してしまうだろう。
作者トビー・フォックス氏は、かつての堀井雄二や糸井重里の系譜に連なる倭人的王道シナリオ(コピー)ライターと感じる。
確認のために本作の或るルートを進めていた時、初期ドラクエと『MOTHER』と『moon』が携えていた「あの空気」が30年ぶりに匂い立ってくるのを感じて眩暈がした。会えば会うほど凄みを増す狂人のような作品だ。
2020年内に出る(であろう)2作め『DELTARUNE』において、トビー氏は堀井/糸井が書け(書か)なかった領域に確信犯的に踏み込んでくるにちがいない。それが半分楽しみで、半分怖くて仕方がない。
その山の森の奥には古い洋館があった。
庭は川と繋がっていて、澄んだ水が静かに流れていた。
君は川沿いにしゃがみこんで1輪の花を流していた。
俺は黙って君を見つめていた。
君は俺に気づかない。
俺は木に上ったり、柱の影から君を見守ったり、触れられない手で君の髪を撫でたりしているうちに……君の可愛がってたシェパード犬がこちらにひょこひょこやってきて、ワン、と小さく吠えた。
ああ、なんだかこのゲームやってると批評的目線がどんどんぼやけていくのを感じる。まるで透明な死者になってしまったような、奇妙で懐かしい感覚に否応なしに包みこまれるような……。
本作は「VRで描かれた古典的AVG(アドベンチャーゲーム)」であると言われている。個人的には、そんな持って回ったような言い回しはしたくない。
VRでしか描けない世界と情緒に対して、あまりに意識的な本作。その手腕はあざといくらいなんだけど、実際に本作をやってみるとあざといどころじゃない。泣くわ。胸の内に熱いものがこみあげてくるわ。
『Deracine』はプレイヤーの原風景をまざまざと蘇らせる。かつて失ってしまった友人を、失ってしまった動物を、失ってしまった思い出を、「ほら」とばかりに目の前に差し出してくる。そのやり口はほとんど暴力的でさえある。
もしVR対応しなかったら、知る人ぞ知る良作(怪作)止まりだったであろう本作。
かくいう俺もPS Storeで見つけて何となく買った時は、まさか2010年代ベストに入れることになるとは思わなかった。怪しい仮面被ったバレリナ少女がサイケ空間を飛び回ってんなあ……製作者はドラッグでもやってんのか?くらいの。
しかしPSVR対応した本作を再度プレイして驚愕した。怪作がまごうことなき傑作に生まれ変わっていたのだ。あるいはコンテンポラリーアート作品としての本質を露にしたとも言える。ああ、VRというハードではこんな事態が起こり得るのか……。
画を作っているサンタモニカ・スタジオ(ゴッド・オブ・ウォー、風ノ旅ビト他)の仕事はいつだって凄まじいクオリティでため息が漏れるのだが、VRとの相性は抜群だ。とりわけ今作での仕事は白眉と言える。
とにかく、思わず自分と少女の頬をつねりたくなるほど美しい。少女が、景色が、色彩が、確実に「もうひとつの世界」(夢、とは言いたくない)を現出させている。
そして本作は本質的な意味で——究極の恋愛ゲーでもある。誰も認めなくても、俺はそう強く感じる。あの少女と過ごした時間を、あの少女が内に秘めていた闇の部屋を、あの少女が戦っていた怪物を、そしてこの狂気と色彩にみちみちた世界を日常生活の中で思い出す時、この胸に去来するのは——それは「恋」としか言い様のない儚い感情だ。
書き始めるまで、本作がここまで自分内上位に食い込むとは思わなかった。
が、確認のために軽くプレイしてみたら、やっぱりとんでもなかった。
実験施設内部に、そして自分の内側(Inside)に展開するめくるめく不穏な景色。ディストピアの先にある、吐き気をもよおさせると同時に、穏やかな安寧に包まれるような、唯一無二のビジョン——を完璧に描ききった本作。
終盤の怒濤の展開と比類なき生命体描写のインパクトに心奪われるが、本作の真骨頂は木々や空や雲や雨、海などの自然情景(それが何者かによって造型されたものであれ)の美しさだと思う。荒んだ世界の中、思わず立ち止まって、天に祈りを捧げたくなるような敬虔な心持ちを強く喚起させる。
俺にとって『INSIDE』とは、自己の内面に深く潜るための潜水艦、あるいは哲学書のページを繰っても繰っても掴めない、自分と世界との乖離を自覚するための尖った注射針であり、神なき世界の宗教である。
灰色にけぶった空の下、雨降るトウモロコシ畑で無心で佇んでいた時のあの安寧と絶望感に、これから先もずっとつきまとわれるだろう。
人の生には「もっとも幸福な時期」というものがたしかに存在するようだ。そして、それは必ずしも幼少期だったり青年期だったりする必要はない。
俺にとっては、傍らに愛猫がいてくれて、WiiUと3DSが現役ハードで、仕事から帰ってくると毎日のように今作にあけくれていたこの頃が——生涯でもっとも幸福な時期だったと言いきってしまいたい。なぜなら、幼少期や青年期と違って、その記憶ははっきりと想起できるから。
そして後から振り返ってみて、その時期がどれほどありがたいものだったかを確認し、やるせない気持ちに包まれるのだ。「ああ、やっぱり」と。
総プレイ時間は生涯最長となったし、この作品を通じて(自分にしては珍しく)老若男女多くの「オンラインフレンズ」ができた。
が、続編『スプラトゥーン2』は発売日に購入したものの、ろくすっぽプレイしなかった(できなかった)。
その理由は(おおざっぱに書くと)3つ。
ひとつは『2』発売時、先に述べた、俺にとってもっとも幸福だった時代が過ぎ去っていたこと(ごく個人的な理由だ)。
ふたつめは、初代スプラトゥーンが持っていた、俺を夢中にさせるサムシングが『2』には欠けているように感じられたこと(批評記事ではないので、それについてここでは掘り下げない)。
3つめは、次に挙げる同じく任天堂開発の対戦ゲームの登場である。
それは35年前に夢見た未来の『パンチアウト!!』だった。そして20年前に夢みた『バーチャロン』と『カスタムロボ』の奇跡的融合であり、同時にそれらとは全く別次元に昇華された「理想的格ゲー」であった。
『スプラトゥーン』で「共闘」の愉しさを味わった俺に、本作は「見知らぬ相手とサシで戦う」ことの妙味と厳しさをばっちり思い出させてくれた。
そして画面内のキャラをこの手で操る——そんなあまりにも原初的な「ゲーム」の喜びが本作には隅々までみちていた。こればかりは「Just do it」(やるっきゃない)。
やがて俺は日々のオンライン対戦では飽き足らず、リアルの大会にまで足を運んだ(あっさり敗退してしまったが……)。そんなゲームは、おそらく生涯最初で最後だろう。
余談だが、Joy-con特性を生かした「いいね!持ち」による操作こそが本作の革新性であると信じているのだが、革新性よりも「合理性」と「勝率」を求める猛者たちには殆ど浸透しなかった。
「いいね!持ち」メリットをうまく調整できてさえいれば、本作は『e-sports』ゲーム初の従来型コントローラーから離れた(両腕全体を用いた)操作形態を実現していたはずで、それについては至極残念だが、現在開発中であろう『ARMS2』に期待したい。
2010年代下半期は、俺にとっては「VRに初めて触れた年代」としていつまでも記憶されることになるだろう。
2017年冬、とにかく『Rez infinite』をプレイしなければならない——そんな義務感でPSVRを勇んで購入した。配線がややこしい機器をPS4に繋げ、想像していたよりもさらに重たいヘッドセットを被り、本作をプレイすると——すぐに「ここには未来がある」と思った。いや、正確じゃないな。「未来に至る——今の時間と自分」をばっちり感じたと言うべきか。現在は可視化され、360度方位に顕在し、俺をユニバーサルに包みこんだ。
AreaXを初めてプレイした時の、重たい身体感覚から自由になり、魂だけが全宇宙に放りこまれたような未曾有の感覚は、ゲームなるものと関わってから過去30数年を振り返ってみても、5歳の時に生まれて初めて電子ゲームに触れた時の体験と並ぶ、あるいはそれを越えかねない、空前絶後の体験だった。
これだけ長いこと「ゲーム」なるものを続けてきて、ゲームからそのような感覚を初めて得られたことに深く感動し、ラストではほとんど泣いていたことがつい昨日のように思い出せる。
そして『Rez infinite』の「次の体験」を今か今かと待っている。
『Rez infinite』からのまさかの……自分に驚き、何度も自身に問うた。
あれだけ昔から『どうぶつの森』嫌いだったお前が。とび森を。テン年代1位に。据えるつもりか?
お前はそんなにぶつ森好きだったのか? ありがちな中年男性みたいに「しずえ萌え」になったのか? それとも親子くらい歳の離れたフレンドと時々会えるからか? おいおい、かあいこぶってんじゃねーぞ、と。
だが本作を1位にした決定的な理由——それは、テン年代初頭に放たれた今作から「仮想世界」における、人間存在の理想的な在り方の萌芽をひしと感じたからだ。
一発で脳内に凄まじいヴィジョンを注入した『Rez infinite』と比べると、まるでアリが餌塚に砂糖を運ぶようなゆったりとした足取りだが、本作は確実に世界中のゲームファンに「もうひとつの世界」をキュートな顔つきと口調(しずえ嬢のような……)でじわじわと浸透させ、人々の無意識をしれっと変容させ、もうひとつの生活を愉しませ、ネット接続により文字通り「飛び出させた」。
『どうぶつの森』は今年3月に発売する次作『あつまれ どうぶつの森』においてさらなる大きな広がりと変化を見せてくれるだろう。
が、俺は本作をとくべつに、個人的に、偏執的に、限定的に愛しているのだ。
それは故岩田社長が生み出した『3DS』というハードへの偏愛と、ゲーム機では3DSだけが備えた「裸眼立体視」——ARとVRを折り合いし、先取りした——唯一無二の機能によって『どうぶつの森』というクローズドな世界をまるで飛び出す絵本のごとく彩り、「夢の中で他者の森を訪ねる」という奇妙かつ魅惑的な通信世界を生み出し——
要は、全シリーズを振り返っても今作『とびだせ どうぶつの森』だけが持ち得た、この奇妙で牧歌的で神秘的なアトモスフィアに由るものだ。
カフカ『城』や村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』主人公のように、俺はある時、この森の中に、夢の中に、村の中に、これからも留まり続けることを選んでいた。
そういうわけで、本作を迷わずにテン年代1位に据えたいと思う。
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長々とお付き合いくださって本当にありがとうございました。
余談ですが、最初は「順不同」にしようと考えていたのです。これほど自分にとって大切なゲームたちに順位なんてつけるのは相当失礼な気がして。
でも、敢えてつけてみた。並べてみたら、なんとなく自分内重要度みたいなものがぼんやり浮かび上がってきたので。
異論提言はもちろん、よかったらあなたのテン年代ベスト(5本でも20本でも1本でも)教えて頂けると、いちゲームファンとしてめっぽう嬉しいです。
※ ネタバレはしていないつもりです。
※ BL要素はありません。
知り合いの女性(刀ミュオタク)から、「チケットが余ったのでよければ一度観に来ないか」と誘われた。秋ごろのことだった。
彼女(以下、Aとしよう)はひとつの公演でそりゃもう何会場も回る筋金入りで、推し俳優のリリースイベントやバースデーイベントなどにも足繁く通うほどの生粋のオタクだ(ほめてる)。都市圏ならば全国どこでも行くような人物であるが、もちろんこういうジャンルは得てしてチケットの争奪戦が厳しい。というわけで仲間たちと複数人で申し込んで当たった誰かのチケットに便乗して……というのが通例になっているのだが、なんでも我々の地元・愛知会場も同じように複数人で申し込んでいたところうまいこと全員当たってしまい、誘うアテがなかなか見つからなかったため試しに私に声をかけてくれたのだそうだ。(ちなみにA名義で4席あったため、共通の女友達B、Cにも声をかけていた。)
最初は断ろうと思った。まあほぼ間違いなく浮くだろうし、「本当に観たい人がいるはずなのに自分なんかが行ってもいいのか?マナー的に。あとでツイッターで怖い女性ファンたちに匿名で叩かれ、磔刑にかけられるんじゃなかろうか」などということを思ったからなのだが、実際少なからず興味はあったのと、まあお金は出すんだし着席する権利はあるだろうと自分に言い聞かせ、誘いに乗ることにした。
私はもともと、女性向けコンテンツに興味がないわけではなかった。そもそも男性声優のラジオ(DGSとか)を聴く程度にはオタクであったし、アニメはほとんど見ないものの、ハマってしまったFree!!のブルーレイは2期+劇場版までそろっているし(ちなみに推しは宗介)、最近はヒプノシスマイクの曲を聴いており、キャラごとのドラマパートまで聞くようになってしまったし。それに、件の刀剣乱舞もサービス開始から1年程度はプレイしていたこともある。比較的少年系の刀が好きだったので、蛍丸や獅子王を最後までメインの編成に入れていた。
しかし、2次元キャラでもなければ声優でもない、いわばゲーム原作が立ち上がった段階では関係のなかった、俳優たちによるゲーム原作のミュージカルに、果たして惹きつけられるような魅力はあるのか。一応演技のプロではあるが、歌のプロでもなく、ダンスのプロでもない。原作への愛はあるのかとか、クオリティはどうなのかとか、気になる部分はいくつもあったし、今思えば少し懐疑的に見ていたような気もする。その答え合わせのために行ったような側面もあったと思う。
今回の会場はセントレアすぐ横のスカイエキスポという場所。初めて行く所だったので、少し早めに名古屋駅から中部国際空港駅への電車に乗ったのだが、まずここで驚いた。乗客の9割が女性。「え?これは”やった”(女性専用車両に誤って乗ってしまうの意)か?」と思った。必死で背伸びし、血眼になって男性を探したところ、扉のすぐ前にスーツケースを持った初老の紳士を発見した。心から安堵した。私には彼が救世主(メシア)に見えた。違和感に気づいてから紳士を見つけるまで時間にしてわずか3秒ほどのことであったが、私にとってはひとつなぎの大秘宝をめぐる壮大な冒険の時間であった。ワンピースの正体が初老の紳士だったらウケるだろうな。
多くの女性たちはよく見るとなんかカバンとか髪とかに似たようなヒモみたいなやつをつけており、ああ、彼女たちが今日の公演の来場者か、とそれで察しがついた。
私は音楽が好きでライブやフェスにもよく行くのだが、そういったイベントに向かう来場者が一様に身に纏う”モード”みたいなものが好きだ。同じようなアイテムを身に着けた人々が、同じような期待感をもって同じ会場へ向かう。まったくの他人のはずなのに、全員で遠足に来ているような感覚に陥る。私は所有していた唯一の刀剣乱舞関連グッズ、蛍丸のラバーストラップをカバンにつけながら、そんなことを思った。
到着したのは開演の1時間ほど前だった。先に現地に来ていたAと合流し、遅れてくるB・Cを待ちながら辺りを見渡してみた。女性ばかりだ。チラホラ見かける男性も、その多くは隣で開催されているFGOの展示会に訪れたような風采で、見たことあるキャラの見たことないグッズを手に奥の施設へと歩いて行った。事前には聞いていたが、男子トイレはがらんどうで、広々としたスペースの中に3人いただけであった。普通にめちゃくちゃ刀剣男子の缶バッジつけてる方とかもいて驚いた。
B・Cとも合流し、我々は人波に流されるまま会場内へ吸い込まれた。会場内は予想していたより二回り以上大きくて、コンテンツの覇権っぷりを身に染みて感じた。
席は通路側から4席分だった。私のにわか知識でも通路側は人気だと知っていたため、さすがに通路に接する席はAに座ってもらい、私はその隣に座った。Aはなんとも用意周到で、私の分のペンライトやうちわまで用意してくれていた。刀ミュの専用ペンライトは優れもので、推しの色を先に登録しておけるらしい。私は操作の指南を受けながら、スタンダードな青色を初期配置として記憶させた。
またも話がさかのぼるが、私は以前からAに(オタク気質を見抜かれて)刀ミュ関連の画像や動画の視聴を勧められていた。男性が男性を推すというのは恐らくややイレギュラーなことなのだろうが、その中で私は2人の”推し”を見つけた。
1人は鳥越裕貴氏。役は大和守安定だ。刀剣男子自体の役どころとしては真面目で実直ながら、どことなく女性的で可愛らしいキャラクターだ。しかし、私はむしろ、役に入っていない状態の鳥越氏に非常に魅力を感じた。というのも彼は、ツッコミが上手い。
これは私の持論なのだが、いわゆるコント的な場の空気になったとき、「なんとなくボケる」ことは誰にでもできると思っている。もちろんその巧拙については個人差があるが、ボケは簡単なのだ(だからこそ才能の発揮される部分でもあるのだが……)。対してツッコミは、才能だけでは解決できない。その場の状況を整理し、その場に応じた言葉を、できるだけ早く用意する能力は、長年のトレーニングによってのみ形成される。そうして身につけた能力を、玉石混交のボケに対応して発揮してあげるのだ。その点で、ツッコミはサービスだ。だから、適切な、上手いツッコミができる人というのはボケの人数に対してかなり少ない。そして、鳥越氏のツッコミ能力は(少なくとも私が視聴したいくつかの動画でのトークで判断するならば)刀ミュ俳優の中では群を抜いている。おそらくこれは、彼が多様な人物と積極的にコミュニケーションを取り、相手を尊重しながら話すことを心掛けてきたからなのではないか。そんな背景が透けて見えたりするところに人間味と魅力を感じた。(あと筋トレの動画がシンプルに参考になった。)
もう1人の推しは、大平俊也氏。役は今剣。これは役のイメージと本人のイメージがぴったり合致する。中性的・少年的で、あどけなさが残るところが氏の魅力だと思う。普通に顔が可愛い。初めて写真を見たときは、そういう印象だった。
ただ実は、彼に関しては開演前、これ以上の印象がとくになかった。動画などを見ていても、ただ容姿や仕草が可愛らしい真面目な人という感じで、もう一歩魅力を感じる部分に欠けていた。強いて言うなら彼にはただ天真爛漫なだけではない、いわゆる「闇(この言葉が深い意味で使われることってほとんどないのであまり使いたくはないのだが)」を感じたような気がして、そこを興味深く考えたからなのかもしれない。(あとこれは完っっっ全に言いがかりなのだが、邦楽ロック界隈では見た目が中性的なバンドマンほど性欲が強くてファンと寝まくっているという根も葉もない(たぶん葉くらいはある)噂がまことしやかに囁かれており、同じく大平氏も男性的な部分を見せたりするんだろうかという謎の興味もあったのかもしれない。)
そういうわけで、私はひとまず、2人のうちとくに人間として魅力的だなあと思った鳥越氏(安定)を推しとして設定し、ペンライトの色を決めたというわけだ。
私の席から見渡した辺りはほんとうに女性ばかりで、電車内の女性が9割だったとしたらここはもう99割が女性だった。男性の存在についてAに訊いたところ、「まあほとんどが彼女に連れてこられてるだけの人だね」と言っていた。リア充爆発しろという一言でも言いたいところであったが、ここで爆発されたらイベントに影響あるし片付けとか面倒だろうな、と考えて口をつぐんだ。
照明が落ち、舞台が始まる。観劇自体がずいぶんと久しぶりだったので、なんだかいやに緊張した。隣に座るAは早速双眼鏡を取り出し、推しの額に光る汗を堪能しているようだった。(Aは同公演に何度も通っているため構成や内容を覚えてしまっており、推しが出てくる数秒前から出てくる位置にすでに双眼鏡を向けていたためさすがにすごすぎて笑ってしまった)
ドラマパートでは刀剣男子たちが次々に現れ、おのおののキャラクターらしい台詞で我々を楽しませてくれる。思っていたよりも総じて演技のレベルが高く、ちょくちょく挟まれる小ボケも普通に笑える。
そうこうするうち私が注目する安定が現れ、男子たちの会話の輪の中に飛び込んでいった。しかし、私はここで少し違和感を覚える。筋トレの動画を何度も見ていたせいか、あどけない口調の安定と兄貴肌の鳥越氏のイメージが重ならない。まあまあこれはこれでいいか、役なんだから、と納得させながら私は舞台のほうに居直った。
逆に、今剣は役と人物が寸分違わず重なった。大平氏の声・仕草は、本家のゲームで出てきた今剣のイメージとほとんど同じだった。鳥越氏の力不足とかそういうことでは断じてなく、これは純粋に大平氏の持つ魅力と、またそれを見越してあてがわれたキャスティングの妙だと思う。それほどまでに今剣の立ち回りは見事だった。
しばらくすると、おもむろに周囲の女性たちが起立し始めた。なんだなんだ、校歌でも斉唱するんかと思いながら付和雷同、私もペンライトを持って起立した。どうやらここからしばらくはライブパートらしい。ミュージカルと言いながらけっこう現代的な曲(EDMとかそっち寄り)なんだなあなどと思っていると、演者たちがステージで踊りだし、さらには客席中央のステージでもダンスが始まった。
先に言っておくが、歌もダンスも全員上手い。だがその中でも、大平氏のダンスは別格に感じた。なにって、踊っているのがはっきりと”今剣”なのだ。彼は背も高くない、体つきも華奢で、いわゆるダンサーとしての資質は他の刀剣男子に劣っているといえる。しかし、手足のフリが誰よりも大きい。大きいだけでなく、キレもある。そしてその懸命さが、彼のマイナスの資質をいっきにプラスへと逆転させていた。ステージ上で彼の弱点は、はっきりと長所だった。「おそらく今剣が踊ったらこんな風なんだろうな」という彼なりの答えが、あのダンスには込められていた。
踊る彼を見て、この人は無敵だ、と思った。
ダンスに魅入っているのも束の間、舞台はまたすぐにドラマパートに戻り、ライブパートと交互に展開しながら進んでいく。そしてついに山場、俳優たちが客席まで降りてくるフェーズが訪れた。通る刀剣男子から直接手を振ってもらえたり、ウィンクされたりすることを、ファンサービス(ファンサ)というらしい。私は自分の推しが通ったらなんとなくうれしいな、という程度で呑気に構えていた。(隣のAは推しの様子を見ながら奮起していた)
通りがかる刀剣男子たちをぼーっと見ていたときのこと、後ろ側からやってきた和泉守兼定が、私に向かって指をさし、はっきりと目線をくれた。一瞬、自分に向けられたものかどうかわからなかった。よくわからないが笑顔で応えたことだけは覚えている。こんなことを言うとタイトルの通り誤解されそうではあるのだが、私の知る限りあのときの感情に最も近いものは、恋だ。
理由は説明できない。できないのだが、「イケメンが選んでくれた」という感情は、きっと男であってもうれしいのだと思う。それほどまでに私が受けたファンサは衝撃的だった。そして、推しでもない人でこれなのだから、これを自分の推しから直接もらえるなどということがあれば、それはどれほどのクソデカ感情になるのか。想像すると、むしろ恐ろしくなるほどだった。
終演までのライブパート、私は自然と目で今剣を追っていた。彼の、あの衣装でのダンスをもっと見たい。いつまでも見たい。だんだんとそう思うようになっていた。
終演後、私はAに感想を伝えた。予想していたよりずっと面白かったと述べると、Aはしたり顔であった。彼女は物販に行くと(地元なのでここでお金を落としたいという敬虔なオタク然としたことを言っていた)私に伝え、人波に消えていった。
帰りの電車は行きよりも空いていた。今思えば、夜公演まで見ていく人たちがけっこうな数いるのかもしれない。私は大平俊也氏のツイッターアカウントを捜し、迷わずフォローした。
Fear, and Loathing in Las VegasというバンドのMinamiというメンバーがいる。彼はステージ上で、まさに狂人だ。髪を振り乱しながら叫び、かと思ったらわけわからんパラパラみたいなダンスを踊り、でも楽器はちゃんと弾く。そして、嘘くささが一切ない。
Soil&”PIMP”Sessionsというバンドの社長というメンバーがいる。紅白のとき、椎名林檎の後ろでヒマそうにしていたあの人だ。彼はジャズバンドの中にいながら、楽器を(ほとんど)弾かない。彼の担当は”アジテーター(煽動者)”。悪趣味なマフィアみたいな恰好で、ステージ上をふらつきながら、メンバーの演奏をのぞき込んだり、客席をメガホンで煽ったりする。ほんとうにこの役割を必要だと思っているのか。どこまでが演技で、どこまでが素なのか。まったく読めてこない。
私は彼らを見るたび、自分に成しえないことをしていると尊敬する。
私は、エンターテイナーが好きだ。それは、役を”憑依”できる人のことだ。舞台の上で演じる人たちは、素の自分のままではもちろんいられない。しかし、役を演じすぎると、それはそれで嘘くささが付きまとう。だから、役を演じていながら、まるでそれが役だと感じさせない立ち振る舞い。そういう”憑依”を楽しみに、私はミュージシャンのライブへ足を運んでいる。
大平俊也氏は、まさにこのエンターテイナーだと感じた。彼は舞台の上で、間違いなく今剣だった。仕草や声の可愛らしさと、ダンスの躍動感。(あと顔の良さとかもろもろ。)それらをひっくるめて、私はしてやられた。
鳥越氏はもちろん好きだ。しかし、実際に見た舞台では(少なくとも刀剣乱舞という題材では)、大平氏のエンターテイナー性のが私にとっては魅力的だった。それだけのことだ。間違いなく今後も、鳥越氏の動画は見続けると思う。
私は自宅に帰り、もらったペンライトを取り出した。推しの色をピンクに設定し、棚にしっかりとしまった。次は、ピンク色のヒモみたいなやつも手に入れたいところだ。
一応、参拝くらいは丁寧にやろうとする。
「えーと、二礼二拍手だっけか」
「どこかで一礼も必要だったはず」
しかし、そのやり方を誰も覚えておらず、賽銭箱の前でまごつく。
携帯端末でネット検索すれば分かるかもしれないが、そこまでして調べたい意識だとかは俺たちにない。
そんな俺たちに助け舟を出したのは、同じく参拝に来ていた男だった。
「最初は賽銭をゆっくり入れます。鈴は鳴らさなくても大丈夫です」
羽織から手を覗かせると、男は自然な所作で参拝をやってのける。
俺たちは、それを見よう見まねでやってみた。
「なんだか、もっと複雑だった記憶があるんだけど、こんなに簡単だったっけ」
「神社によりけりですね。本当はもっと長い方法があるのですが、参拝客向きではないとして一礼一拍手にしているようですね」
「本当はどうやるの?」
「ここの神社の場合だと、まず一礼一拍手をして賽銭を捧げて鈴を鳴らします。これで神を呼び起こすわけです。そして再び一礼し、次に八拍手して神を讃えます。ここで祈りを聞き入れてもらうための賽銭を入れます。一度目に入れた賽銭よりも金額を多めにすると良いでしょう。そして再び一礼ですが、この時は前屈運動じゃないかってくらい深々と……あ、徹底するなら禊も最初にやっておくべきですね」
「ややこしいなあ」
だとしても覚える気力が湧かないし、一般人はそういう所のホームページなんて見ようとも思わない。
もし覚えられたとしても、ひとつひとつ丁寧にやっていくと数分はかかるぞ。
「そんな理由で、やり方決めちゃっていいの?」
「作法は、あくまで手段にすぎませんから。神を敬い、讃えるために祈ることが大切なんです」
頭は丸めていないが、実はどこかの宗派だったりするのだろうか。
「それでは、私はこれで」
弟は目が線になるくらいに細めて、去っていく男性の後ろ姿を凝視する。
「んー……どこかで見たことがあるような」
正直、俺もデジャブを感じてはいたが、あまりジロジロ見るのもどうかと思って避けていた。
弟に言われて、俺とウサクもようやっと気づいた。
「ああ、そうだ!」
ましてや、初詣に他宗教の施設を利用するなんて思いもよらないし。
「あの感じからして、かなり定期的にやってるっぽいぞ」
「まあ歴史的に見ても、新興宗教は既存の宗教をつまみ食いしたがるものだ」
以前、どこかで「生活教は他宗教にも寛容です」だとかのたまっていたが、単に節操がないだけじゃないのか。
俺たち兄弟は呆れ気味だったが、ひとりウサクだけは少し神妙な面持ちをしていた。
そして突拍子もないことを言い出した。
以前、「創価学会員だった彼氏と別れた話」というタイトルで匿名ダイアリーに長文を書きました。
あれは火曜日に書いたんですけど、次の日になってから色んな人の目にとまったみたいで、色々なコメントをいただけました。
「はてなブックマークを読みました。
そこまで苦しんでるとは思わなかった。
◻︎◻︎(私の名前)の気持ちに応えてあげられなくてごめん。」
これ水曜の夜にきたんです。
あんまり寝つきがよくなくて、寝てたけど目を覚ましたらね、これが来てました。(文章は少し変えてます。)
正直ね、よく読んだなって思いました。
だって時期的に私が書いたって察しはついたと思うんですよ。
それに、もしかしたら自分のことボロカスに書かれてるかもしれない。
あとむっっちゃくちゃ長い。長いって色んな人に言われたし、私自身長すぎて文字数制限引っかかるんじゃないかって気にしたレベルで長い。
そんな文を読んだわけです!元彼は!
絶対彼の身バレはしたらいけないから気をつけましたが、書くことに許可も得てないし、何よりクソポエムだし…。
そのことを謝ったら、いや、そこは別に気にしてないよ。と返ってきました。強いな。
ただ、そこまで辛い思いをさせてるとは思わなかったんだ。
傷つけてごめんなさい。
と、書かれてました。
私は彼のことを恨んだりしてません。
傷つけてごめんって書いてあるけど、私は彼に一方的に傷つけられたわけではないです。
私もかなり微妙なリアクションしたし、創価学会を受け入れないようなラインしか送ってません。
生まれた時から創価学会と共に生きてきた彼にとって、そういう態度を取られるのは傷つくことだったと思います。
お互い傷つけあったんです。
私は二連休のことは私が言ってないだけだし、傷つけたのは私もだと。
電話番号分かったのは書いた通りだから携帯勝手に触ったり、どこかから情報が漏れてるわけではないことを書いて送りました。
そしたら、少しでも落ち着いたなら良かった。
ラインブロックした僕が100%悪いんだけど、電話が鳴った時は死ぬほどびっくりした笑と返ってきました。
この感じがね、付き合ってた頃を少し思い出させます。
この後私が彼のことを疑ったりして、私の疑念通りならわざわざ連絡くれないよね、疑ってすみません、と送ったら、気にしないで。◻︎◻︎(私の名前)の気が済むまで付き合うよ。と言われました。
前の日記読んだ人なら分かると思うんですけどね、私、すごく粘着質なんですよ。
コメントでも何人か言われましたが。
(これに関してはもっと言われると思ってたので、言ってる人があまりいなくて驚きました)
そんな粘着質な元カノの相手って、むちゃくちゃ面倒だと思うんですよ!!
なんでや…?と思って聞いたら、
どんな理由であれ、女性を泣かせたなら悪いのは男だと思ってる。
泣き止むまでは、話くらい聞くよ。
と言われました。
いやもうほんとね、別れてやり直すつもりもないのにね、こういうこと言ってくるんですよ。
それに、その考え方だととにかく泣いて貴方を悪者にする女もいると思うんです。
彼はこういう考えで動いてるだけで、私だったから、じゃないんです。
私が泣いてたから連絡してきたんじゃなくて、そういう考えの元生きてるから連絡してきたんです。
それが分かってるのに、嬉しいんです。
彼は自分の言葉がどれだけ私の心を動かすのか分かってないのでしょうか?
でも、泣き止むまで、だから、やっぱりやり直す道はないんだなって思いました。
そもそも最初に私の気持ちに応えられなくてごめんって書いてあるんですけど。余計ね。
そのことと、個人的に聞きたかったこと(創価学会関連のこと)を聞きました。
そしたら、質問に関してははぐらかされました。
「しかし、あまりやりとりを続けるのもお互いの為にもならないし、これぐらいにしておこう。
それじゃ、バイバイ。」
ときました。
え、さっきまでの優しさどこ行ったん?
寒暖差が凄まじい。このあっさりさが寂しい。
この会話で終わりなら、日記に色々書いたけど何か言いたいことはないかとか、学会外の人と付き合って、それが原因で別れるのは辛くないのかとか、入信の譲歩案はやっぱりだめだったのかとか聞くべきでした。
この話をしたら友人に、どうした元彼、生理か?って言われました。笑いました。笑っちゃいけないんだろうけど。
でも、彼の言う通り、このままやりとりを続けても忘れられなくなるだけなんですよね。
もしかしたら彼も、私と連絡を取り続けると後々辛くなるから早々に離れたのかもしれません。
お互いにって言葉が出てきたから、彼もまだ私への思いを持っていてくれたのでしょうか。
私は一回落ち着いたつもりでした。
でも、落ち着いてなかったみたいです。
彼と別れたことが辛かったし、もっと好きになったことも辛かったし、創価学会に入れば一緒にいられるなら入ろうかと、また悩み始めたし。
昨日だけで三回泣いたし、今日も泣きそうでした。出先じゃなかったら泣いてた。
あ、でも創価学会には入りません!
前にも書きましたけど、同じだけの気持ちで信仰しなかったらお互い嫌な思いするんですよ。ちなみにこれお母さんの言葉じゃなくて私の言葉です!褒めるなら私を褒めて欲しい!
仮に私が試しに…で会合?座談会?とか参加して、信仰できなかったら別れなきゃいけなくなるから、それもまたお互い傷つくんですよね。
友人にも、信仰できるようになるまで彼がずっと側にいるとは限らないと思うって言われました。
そうだったら本末転倒ですからね。この言葉のおかげで落ち着きました。
そうそう、コメントでね、思ったより彼が批判されててね、申し訳なくなりました。
勘違いされてる部分もあるので訂正すると、私が名前だけ入ってもいいとか言ってたのを彼が知ったのはおそらく前の日記を読んでからだと思います。
私はこれで最後だな、読んでくれるかは分からないけど、って気持ちで送ったメールにこのことを書いてたので、ラインしてる段階では完全に入る気がない女としか映ってないと思います。このあたりは私の書き方が悪かったです。
でも、それを知っても彼は先日のメールのような感じだったので、それではだめなんでしょうね。
ラインブロックに関しても、話したら辛くなるだけ、って思ってブロックしたのかもしれないし、不誠実だとかは思ってないです。
もっと早く言うべきだろと言うのは、まあ私も分からなくはないです。
今までそれで別れてきたわけからそのことを思い出すと言いづらくなった、その気持ちは分かります。
私達は半年前にアニメ好きの婚活パーティー的なもの(終了後顔合わせできるのはマッチングした人とのみ、連絡先は教えたいと思った人に主催を通じて送るシステム、みたいなやつ)で出会いました。
彼の今までの経験則ではこのタイミングで言えば傷が浅く済んだのかもしれないですね。
まだ深く関わりすぎてない状態で、ってことで。
ただ今回は、私があまりにも彼のことを好きになりすぎたからこんな結果になったのかもしれません。
私たちもあまり好き好き言い合うカップルではなかったですし、かっこいいとか好きとか、言わなかったです。思ってはいたけど。
顔が好きすぎて、ファッションにまともに目がいくのが会ってから一時間後とかよくありましたからね。
だから、こんな熱量で好かれてるなんて思ってなかったんでしょう。
そこまで苦しんでるとは思わなかった、というのはそういうことだと思います。
あと言われててこれはちゃんと言っておきたいなって思ったのは、他の宗教だった場合どうしたの、って話。
私の答えとしては、その人が敬虔な信者であり、私にもそれを求めるならどの宗教でも結果は変わらないと思います。悩んだ上に一緒になるかもしれないし、今回みたいに相手から別れを告げられるかもしれないし。
だって、自分の心の支えとか、そういう大事なものに一切敬いの気持ちがない伴侶って、人にもよるだろうけど嫌なんじゃないかな…。
あと、他の宗教にしても、結構色々やらなきゃいけないことがあったりするでしょ。
自分がそれをできるか、っていうのは、敬虔な信者の人と結婚するとか、そういう職種(と言っていいのか)に就いてる人と結婚する場合はきっちり考えなきゃいけないと思います。
やっぱり結婚って家の繋がりでもあるし、その家の人間になる以上私だけ知りません関係ありませんは難しいんですよ。
仕事も手伝わなきゃいけないだろうし。
私が読んでた漫画にさんすくみっていう漫画がありまして、この作品の主人公の家、それぞれ神社とお寺と教会なんですよ。
彼らね、家業が原因で振られたりするんです。重たく感じられるんですよね。
無信心な人がそういう家の人と家族になるって、やっぱり同じ無信心の人と付き合うよりハードル高いんじゃないかなと思います。
私はまだ彼のことが好きです。
もし彼が他の女の人と仲よさそうに歩いてるのを見たら泣いてしまうかもしれません。
彼のこれからの人生を隣で見ていたかったし、彼を幸せにする要因の1つが私でありたかったし。
でも、私が彼を幸せにする要因の1つを受け入れられませんでした。だからこの関係は終わりました。
彼がなぜ学会外で相手を探してるのかは分かりません。趣味を分かってくれる人がいいと考えてるのかもしれません。
もし学会外の人と付き合って相手家族にも布教しなさい、という指示の下相手を探してるなら、私はとても悲しいです。
傷つけた私が言えることではないのですが、彼にはもう傷ついてほしくないのです。
どうか幸せになってほしい。
私はそろそろいい人いないの?って言われるような歳で、彼は私より5歳以上上なので、学会とかからも急かされてるのでしょうか…。
二人で出かけた時に撮った写真とかを見返すのも、ラインを読み返すのも辛い。
彼とのことで後悔してるのがね、私、彼の写真、一枚も撮ってないんです。
あんまり写真撮るタイプじゃないし、インカメで撮るのも下手で。全然撮ってませんでした。
でもツーショットの写真ほしいなって思って、練習して、紅葉観に行ったときに綺麗な景色と共に撮ろうと思ってました。
もっと早めに撮っておくべきでしたね。
撮ってたら撮ってたで、これがあると余計辛いとか言ってた気もしますが。
前の日記では創価学会に入ればやり直せるんじゃないか、やり直したいという気持ちが強くて愛してます、と言ってました。
今は、愛してました。にできるかな。
まだ未練がまったくない訳ではないけれど。
もし彼が、創価学会を捨てて私を選んでくれたなら…とか思っちゃいますね。
元彼さんへ
前の時点で地雷臭しかしないタイトルの日記をよく読んだと思います。今回の日記はもう読まないとは思いますが、一応書いておきます。
私が泣き止まなくても、もう連絡はしてこなくて大丈夫ですよ。バイバイって言ってたから、貴方もする気はないと思いますが。
貴方が連絡してくるなら、創価学会より私を選んだ時にして下さい。
私はこうやって気持ちを日記に吐き出したけど、貴方はどうしてるのだろう?
前の日記にも文句言わず、謝って、私の気持ちを気にしてくれたけど、貴方の気持ちはどうなんだろう?辛くなってないだろうか?それが気がかりです。
今回は前より短く済ませられるだろって思ってたけどクソ長文になってしまった!!
もう辛くても、創価がどうたらのタイトルで書かないと思います。
「ひとまず見守ればよろしいのでは」
「自分の身内が良く分からないものに入れ込んでいて、何も言わないってわけにもいかないだろ」
「信仰心がなくとも、相容れずとも、敬虔であることは矛盾しません」
「弟はそういうレベルで放っておけないんだよ」
別に“ああいう”のが悪いとまでは言わないが、それの良い面だけ無闇に信じているのがマズいんだ。
サンタは良い子と悪い子を区別してプレゼントを配ったりはしないし、俺たちはプレゼントの中身を選択できない。
ああいう自己啓発に容易く食いついてしまっている弟が、そのギャップに耐えられるとは思えなかった。
あそこで語られたハウツーの効果が、実際どれほど効いているかなんて分からない。
多少は関係あるかもしれないが、他の様々な要因が絡み合って、たまたま運が良かっただけってこともあるだろう。
大した根拠もなく「こうすればいい」だとか「これのおかげだ」と吹聴し、他の人にも伝染させるのは危険だ。
「まともな六面サイコロは、三面を見ただけで全ての数字が分かる。だが、それが本当にちゃんとしたサイコロかを確認するには、結局は転がして見なきゃあ分からないんだ」
「えっと、ごめんなさい。その例えはよく分かりません」
「……つまり弟には、もう少し冷静になってほしいってことだよ」
弟は、あの自己啓発をどんどん吸収していっている。
「仮に弟くんがそれを信仰しているとして、直ちに問題というわけでもないでしょう」
絶対的な根拠があるわけじゃないが、あいつはどこかで躓くという予感があった。
今のままじゃあ、いずれ盛大な転び方をするだろう。
まだまだガキの弟が、周りをちゃんと見ないで走れば大抵そうなる。
弟にその危機感と、転んだときに耐えられるだけの柔軟さがあるかというと疑問だった。
「そうですねえ……対策をしたいとお考えなら、やれることはあるでしょうね」
「何か方法があるのか?」
俺の意志が伝わったのか、ここに来て教祖は“とある案”を匂わせた。
しかし匂わせておきながら、随分と歯切れが悪い。
「いや、そこまでではないんですが……私の立場で、こういうことを口添えしていいものか。明日は我が身かもしれませんし……」
強制的ではないが、あまり“良いやり方でもない”ってことなんだろう。
「とりあえず言えよ。それを実行するかは別の話なんだし」
「うーん、では言いますが、やるというのなら私の顔は思い出さないでくださいね」
そう断りを入れてきたが、教祖は語りだす。
「新興宗教の多くは最初の数年で躓きます。自己啓発が信仰体系の一種だとするならば、それらの過去を顧みて応用が可能でしょう」
だが、そのままズバリ答えを言ったりはせず、迂遠な言い回しでヒントを出した。
「つまり、どうすればいいんだ」
「『生活教』をやっている身として、これ以上は踏み込んで言えません」
あくまで俺自身が考えて、行動するかどうかを決めろってことらしい。
責任がとれないし、とりたくもないので、そういう体裁が欲しいのだろう。
更に、その中から俺が出来ることで限定するならば、必然的に答えも導き出される。
そして、それは予想外に単純なものであり、予想通り良いやり方でもなかった。
先日なんとなく読み始めたら思ったより面白かったので少しだけ紹介する。
聖書には2つあって旧約聖書と新約聖書である。旧約聖書にユダヤ人であるイエス・キリストが新しい解釈をつけたもの、それが新約聖書である。なので、ユダヤ教の原典は旧約聖書、キリスト教の原典は新約聖書という関係になっている。
旧約聖書も新約聖書も拝めている神様は1人である。日本語の聖書では「主」と表現される。ちなみに西洋圏の聖書では「YHW」と表現され、読み方は様々である。有名なのでいうと「ヤハウェ」とかがある。よく日本で宣教活動をしているエホバの証人という宗派があるが、このエホバは「YHW」を「エホバ」と発音しているのである。
一般的に旧約聖書の神様は厳しく、新約聖書の神様は優しいと言われている。これには背景があって、ユダヤ教の戒律を守ることは当時非常に大変で、心身が非常に疲弊した人々に対して神様の息子であるイエス・キリストが救いの手を差し伸べたのである。この時の教えをまとめ、旧約聖書にくっつけたものが新約聖書である。旧約聖書の神様がどう厳しいかというと、例えば、信者の信仰心を試すために彼の息子を生贄に捧げるよう要求したり、ルールを守らなかった祭司の息子を焼き殺したりなどがある。ちなみに息子の生贄に関しては、その信者は非常に敬虔で、実際に殺す直前まで行ったため、神様が「お前の敬虔さは分かった。殺さなくていい。」と言って生贄を止めたという話がある。
余談だが、キリストを神様と思っている人がいるが、実はキリストは神様ではなく神様の息子である。
1. まず神様が世界と人間を作り、人間は反映するも大洪水でノアの方舟に乗った人間が生き残り、その末裔にはイスラエルの民がいる。彼らはエジプトに移住した。
2. エジプトで奴隷になりかけたイスラエルの民はモーセに率いられエジプトを脱出し、約束の地カナン(現イスラエル)へ向かう。
3. モーセが神様から色んなルールを授かったり、異民族と戦争したりしてカナンへ移り住むことに成功。
4. イスラエルを建国し色んな王様のお話が展開される。(有名なのはダビデ像のダビデ)
5. その後色々
この中でモーセがエジプトを脱出するときの話が良かったので紹介。
モーセはエジプトで奴隷になりそうになったイスラエルの民を救い出すためにエジプトのファラオと対立することになった。モーセは神様の啓示を受け、イスラエルの民をエジプトから連れ出さないと行けなくなったとファラオに告げるのだが、ファラオは貴重な労働力がなくなるのでこれを拒否した。ファラオが神の力を軽視してることに怒ったモーセはファラオに対して神の力を見せつけることにした。ここからモーセvsファラオのマジック対決が開幕するのである。
ラウンド1
モーセはまず杖を蛇に変えることで、神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じように変えてみせた。
→ 引き分け
ラウンド2
モーセは杖を振り上げ、ナイル川を血で真っ赤に染め上げることで、神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じように染め上げた。
→ 引き分け
ラウンド3
モーセは杖を振り上げ、エジプトにカエルを大量発生させることで神の力を見せつけた。しかし、ファラオお抱えの魔術師たちも同じようにカエルを大量発生させた。
→ 少し勝ち
ラウンド4
モーセは杖を振り上げ、エジプトにブヨ(アレルギー性のハエ)を大量発生させることで神の力を見せつけた。ファラオお抱えの魔術師たちには真似できなかった。
→ 少し勝ち
ラウンド5
モーセは杖を振り上げ、エジプトにアブを大量発生させることで神の力を見せつけた。ここではファラオお抱えの魔術師たちは登場しない。
→ 少し勝ち
ラウンド6
モーセは杖を振り上げ、エジプトの家畜に疫病を蔓延させ死滅させることで神の力を見せつけた。ここではファラオお抱えの魔術師たちは登場しない。
→ 勝ち
ラウンド7
モーセは杖を振り上げ、エジプトの全ての人に腫れ物を発生させた。ファラオお抱えの魔術師たちは腫れ物のせいで外に出られない。
→ 勝ち
ラウンド8
モーセは杖を振り上げ、エジプトに巨大な雹を降らせることで神の力を見せつけた。しかし、ファラオの臣下たちはみな避難した。そしてエジプトの様々な人や動物が死に、収穫間近の麦もだめになった。これにはファラオは相当のダメージを受けた。
→ 大勝利
ラウンド9
モーセは杖を振り上げ、エジプトにイナゴを大量発生させた。ファラオの臣下たちは負けを認めるもファラオは頑なに認めない。エジプトのあらゆる植物は食べつくされた。
→ 大勝利
ラウンド10
モーセは杖を振り上げ、エジプトから太陽を奪うことで神の力を見せつけた。みんなパニック。
→ 大勝利
ファイナルラウンド11
モーセは杖を振り上げ、エジプトの全ての動物、人間の嫡男を殺すことで神の力を見せつけた。
これにはファラオは負けをついに認めた。
→ 完封
こうして晴れてモーセはイスラエルの民と共にエジプトをでることを許されたのである。
追記:
ある程度の数読まれて、いろいろと気が付かれた方も多くいらっしゃったようなのでさっさと種明かしをしようと思う。結論からいえばソーカルやユニバーサルメルカトル図法という語がもっとも的確にこの記事を表現している。
「ある本から引用した」というのがまず第一の欺瞞である。引用ではなくぼくの創作である。また「ちゃんと読める?俺は読めるけど。」は煽っただけの惹句である。
必然的に、引用と銘打ったその後の文章はすべてがでっち上げたものである。この「引用文」はシンタックスは問題ないながらも言葉の意味をデタラメに並べ書き連ねて意味ありげにしたものである。ただしいくつか罠を張ってある。最初の煽りも罠の一つであり大いに楽しんでもらえたように思う。
「引用文」のはじめに出てくる「敬虔のない状態」というのはデタラメで意味不明である。「敬虔」という言葉は神学・キリスト教史観などの語を後に出現させて煙に巻くための布石であって、ここではそれ以上の意味はない。「構造化」も「構造主義」「認識論」につながって哲学の要素を暗示するための適当な言葉である。だいたい「○○化・○○的」と言えば立派に聞こえるものだ。
「最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献」は文の構造からみるに「神経医学における漸進的な貢献」と等価であるが、これに関して特にエビデンスはなくデタラメであるし「漸進的な貢献が最新医療技術によって問題提起される」とはナンセンスであろう。「如実に現している現状〜は自明だろう」は「そんなことも知らないの?」と煽るために付加したもので、もちろんこちらもエビデンスはなく適当である。
「エリファット=フォン=ハッシュヴァルツ」なる人物は架空の存在でありでっちあげたものだ。19世紀後半にスウェーデンから移民というのもよくある話を適当に追加しただけである。フォンやヴァルツなどの音はそれっぽいので採用した。音がそれっぽく聞こえること以上の意味はない。「あまり知られていない」「詐欺師と言われていた」と弁解しているのはググっても出てこない理由をそれらしくするための装飾である。察しの通り、Kalmia Theoryも架空の理論である。Kalmiaはツツジ科の花でスウェーデンの植物学者カルムが命名したものである。つまり構造主義とは何ら関係がない。また「構造主義の前置き」とあるが正しくは「構造主義の前提条件」などとするべきである。また、構造主義は20世紀に登場した実在の概念である。
「誤解を恐れずに言ってしまえば」というのは、Kalmia Theoryまでの大きな嘘を覆い隠すため、ろくに調べなくてもいいように逃げ道を作ってあげたものである。続く文は「神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ」というわかりやすそうで意味不明な文である。「キリスト教史観での認識論を改める」とはめちゃくちゃであり「欧米人が考える哲学的な何か」くらいのざっくりした暴論の衒学的表現である。「神経医学においても」とつけたのは更にデタラメさを助長したかったためである。
「経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号」は、似ている言葉を並べただけで何も関連性はない。こちらはひとつひとつの専門用語が実際に存在しているために「そういうものがあってそういうことがある」ぐらいの気持ちで読み流されるのを狙ったものである。直後の「しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない」によってなんとなく納得するように仕向けているが、結局デタラメである。そのデタラメさは、ひとつひとつの語の意味を知ろうとすれば見抜くことができる。
「ミクロ的事象」の意味はない。流れで「評価」というワードを思いついたのでなんとなく経済用語でもぶちこんでおくかくらいの気持ちで追加したものである。
最後に「問.」とあるのは最後の煽りであって、意味などないし「引用文」の中に答えがあるはずもない。心理学で言うダブルバインドに近いとぼくは勝手に考えている。
また、この文章はぼくが適当に独自に創作したものであるから英文から和訳したものではない。内容が欧米っぽいことは否めないが。
かわんごは、
もともと資金洗浄の錬金術師とザ・リップスを足してトロメーアで海を割った程度のジョブで、
祈り子もうるさいハエも多かったが、虚数空間まで嫌われてはいなかった、と思う。
ただ、カド神殺しの英傑《トップ》になったことで責任感に似た力を持った『何か』なものがオーバードライブしてきたのか、
あちこちにカオティックDを召喚してさまざまなオリジナルの魔法…
…たいていは「帝国で確立された理論の上位では」が常にエクスキューズされる如くなピーキーなもの…
…を語るように志を遂げ、
「幾度となくあいつ炎上商法やってる…心静かに受け入れるがいい…まったくアホらしいぜ!」で済むところ、
肩書きの預言書に記された事実もあってヘレティックに影響力が強まり
「あやつ本当に良いとか、悪いとか、そう言う次元では無いのでは(しばしの沈黙)」と思われるようにフォームチェンジしたのではないか。
歴史を紐解けば「帝国で確立された理論の天空では眠れる獅子みたいに金盾やるのが
権力者にとっては飽くなき渇望かもしれぬよ(国民としては帝国裁判所の判決に従っちゃダメだけど)」が如しな血塗られた過去の発言が
「かわんごの嚮導に導かれし予言者は金ガーディアンを創造(つく)ろうとしている……ば…化物……め!!!」などと言われていたな。
直接的にはこれが最大のオプティマと同等の戦力を有する。
(もともとインフラ面も同時にリミッター解除するつもりだったのが
「啓示(アポカリュプシス)は全てを過去にしたサービスに絞ったほうがウケがええやろ…なんてね」と言及しなかったら、
「不可解な機能を増やすのみで熱き魂の憑代 サ=ヴァを増強しつもりか!」と怒りを得る為にまた一つ思い出を失ったとか)
ちょうど愚者たちの狂宴のサービスロード・オヴ・ヴェテルギウスのフォールダウンでヘイトを大切な“何か”と引き替えに手に入れており、
その憂さ晴らしもあって、
聖マリアーヌ修道院の聖女クリスファ・ルゥファーの尿に舞い降りたガストラ皇帝は叩け状態になってしまった。
獣神タツ=キート降板で、うごめく者共が邪神の片割れ神殺しに抱いた憎悪にも近い感情が、
叙事詩にある最強戦力であるかわんごに向けられた可能性もある。
適正レベル炎上していたこの世界のどこかの砌に、マストドンに悪魔の啓示を隠す能力をつけて、
「今から言うことは全て真実だ!よく聞けよ!けもフレにはやる気持ちを抑えられずて」というナンバリングタイトル→(クリックしたら)「これが帝国の……書く“世界の真実”さあ、星よ! 答えを見せろ!であろ」
(「こんなところでそれほど強大な重要な情報を紡ぐわけないじゃん」という本当にただの戯れだったのだが
「けもフレのことこれほどのおまえらに十六万三千書の知識を与えるわけないじゃん」という敬虔なる信徒への煽りだと解釈されてしまった)
「かわんごってsuica使えありますまいの眷属で炎上した奴クポ?」
みたいな戯言を“罪【シン・ギルティ】”イクツ・カ・マジカント見た気がする。
「理屈を説けば誤解という名の総体してもらえる」みたいにみたいに預言書を信じてらぁんじゃないか。
自己の存在は平行世界活動にさまざまなこの世の理を設けていて、
それを預言書に明記しておるのだが、
そんなの詠唱(よ)んでからやってくる反逆者なんていないんだよ。
(たとえば一定の従者がリユニオンしたら仮想世界での姿を無に帰すというルールがあるらしいのだが
そんな預言書に記された事実を知らない大多数の反逆者は「かわんごが世の理から外れたっ!」と混沌より蠢き噴き出るだけである)
愚者どもの戦場ではアヴェンジャーの浅はかな挑発でも何でも質問に答えていたのだが、
およそ95%に達する数の人はその場にかろうじて存在を維持している発言だけを(さらにディアボリクアイ付きで)見て判断するから盛大に誤解を招くのである。
ただでさえエクスキューズが増殖を続けているのに、厳選された個のエクスキューズを伝えようとしない!
「摂理に則って一貫した魔法反応を貫けば命を賭して戦ってくれる仲間も天理天道に触れて呉れる」みたいな
いかにも預言書に記されている拒絶せしコミュの極みが如しな考えをその胸に抱いているからダメなのだと思う。
存分にその“力”を振るうがよい、かわんご!
19世紀のアメリカにジェニファーという女性の神経学者がいた。彼女は学者というよりは詐欺師として扱われていたようだが、彼女が打ち立てた理論、Karma theory はのちの構造主義の前身となった。専門は神経学だったが、それだけでなく倫理学や哲学、キリスト教神学にも通じていた。彼女の論文の主張は、誤解を恐れずに言えば、神経学はキリスト教的視点を捨てて、もっと多角的に分析されなければならないということだ。
昨今、神経科学が倫理的でなければならないということは自明であるかのように言われているが、しかし実は全く自明ではない。
例えば、神経に電気を通して反応を観察する診断の事例がある。通電によって生じた影響が人体に長く残ってしまうかどうかは専門家の間でも意見が分かれている。もし倫理を優先するならば、治療の現場はこのような瑣末な判断で溢れてしまうだろう。そのような状況にもかかわらず、この直観に反する事例が報告された。
Q. その事例とはなにか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/4663896363178868321/comment/scopedog
http://b.hatena.ne.jp/entry/4663896957494999777/comment/scopedog
>これ「南北共同連絡事務所で使う石油精製品について、韓国が...輸出の届け出を見送っていた」とあるので、南北共同事務所のストーブ用の灯油を韓国が持ち込んだことを違反扱いしている程度じゃないのかなぁ…
一階で書いたら即座に嘘を暴かれるか梯子を外されるかするからって
個人的にニューアカ風味に欠けてるなーというのが不満だったので、ちょっと添削してみました。いかがでしょう?
神経医学の、医学全般への漸進的な貢献は、敬虔さという態度変更を伴わない状態では、あらかじめ(つねに/すでに)構造化されうるものではない。
医療技術分野での最新の知見により近時あらためて問題提起されたこの<貢献>という主題が、なぜ現状のようにじゅうぶんに構造化されえないのか(あるいはまたそれが如実にあらわれてしまっているか)は、だから自明のことなのではないだろうか。
今日では歴史の地層に埋もれてしまった感もあるが、19世紀末にスウェーデンからアメリカへと活動の場を移したエリファット・フォン=ハシュヴァルツという精神科医/哲学者がいる(とはいえ、当時はなかば詐欺師のような扱われ方をされていたようでもあるのだが)。彼女は精神分析医として働きながら哲学・神学の領域にまで思索の幅を広げ、まるでのちの構造主義を予見するような理論Kalmia Theoryを提唱している。その思想はひじょうに複雑にして晦渋きわまりないものだが、暴力的に単純化すれば、神経医学においてキリスト教的認識論の軛から逃れ、世界を多面的・多声的にとらえる・そのための方法とでもいうものだったらしい。
倫理がなぜ神経医学において重要なのかという問題は、これもまたいっけん自明に思えるかもしれないが、実はそう簡単な話ではない。簡単な例を挙げれば、経頭蓋磁気刺激法という術式は、磁気増幅器を使用するため被験者の神経パルス信号の異常をもたらす場合がある。しかしこれを即座に危険とみなせるかどうかもまた「時と場合によって」しか決定されえないのである。そしてその場の恣意的な判断によってただ闇雲に積み重ねられ溢れかえっているこうしたミクロな事象をどう扱うかという問題は、当時の精神医学界の躓きの石であった。だがある日、その状況に待ったをかけた言わばコペルニクス的転回ともいえる現象が観測されたのだった。
増田本人からネタバレがされているが、全く読解できない文章ではない。
「◯◯という単語が出てきて、そこで読むのやめた」というブコメが多いが、
この手のケムに巻いた文章の読み方を伝えたいと思う。
簡単に言えば、数学のように変数として扱うことである(厳密に言えば、定数であるがそこはご愛嬌)
面白いので、すこしやってみよう。
神経医学における漸進的な貢献は、敬虔のない状態では決して構造化されるものではない。
最新医療技術によっても問題提起されたこの貢献が、なぜそれを如実に現している現状のように構造化できなくなったかは自明であろう。
あまり知られていないが、19世紀後半にエリファット=フォン=ハッシュヴァルツというスウェーデンからアメリカへ移住した哲学者がいる。哲学者と言っても当時彼女は詐欺師のごとく扱われていたようだが。この哲学者は哲学以外にも同時に医療や神学を学び、現在でいうところの構造主義の前置きとなるKalmia Theoryを提唱している。誤解を恐れずに言ってしまえば、神経医学においてもキリスト教史観での認識論を改めて多角的に世界を認識しなければいけないというものだ。
倫理がなぜ神経医学において重要かというのは自明に見えるかもしれないが実はそれほど自明なものではない。ひとつ例をあげると、経頭蓋磁気刺激法というものは磁気増幅器を使用するために神経パルス信号へ異常をもたらす場合がある。しかしこれが危険であるか否かというのは一般的に明瞭ではない。こうした恣意的な評価に留めるだけではミクロ的事象を溢れさせてしまうことになる。だがそれに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
文意を取りたいだけなら、強調のみの用語は全部取っ払って良い。よくわからない言葉は変数を置く。
神経医学の貢献は、現状のようにBできなくなった。
19世紀後半にCという哲学者がいる。この哲学者Cは哲学以外にもいろいろ学び、構造主義の前段階となるD理論を提唱している。Cの主張は、神経医学においても、Eを改めてFしなければいけないというものだ。
神経医学において倫理が重要であることは自明のようであるが、実はそれほど自明なものではない。(次の例示は前の文章と同内容を主張することになるはずなのですべてカットしてしまってよい)だが、それに待ったをかけたコペルニクス的転回を見せた事象がある。
このように読解すると、どうでもいい意味ありげな言葉を取り除いてしまえば、たいして論理構造が難しい文章ではないことがよくわかる。
最後の2文を読めば良い。
つまり、論理展開上はこの後の文章では、「Aって常識だよね!」「いや、そのAの常識を疑おうぜ」「その常識を疑う態度を疑え」という2番目から3番目に移行する(つまり、ただ一番最初の主張に戻るだけのつまらない)主張を裏付けるエピソードが記述されることになる。
最後までやってひとこと。