「……といった感じで弟の奴、これくらいの大きさの本を1000円で買わされてやんの。返品しようと次のセミナーに出向いたら、言い包められる始末」
それを提起したことについて、俺の価値判断が含まれているのは否定しないが。
「なんだと! そんな自由気ままに生きたがる人間ばかりになったら、この社会は崩壊するぞ!」
「えー、確かに上等じゃないかもだけど、そこまで目くじら立てることっすか?」
「へえ、子供にそんな本を買わせるのか。ブログのネタに使わせてもらおうっと」
だが、俺がどう考えているかなんて、この際どうでもいい。
問題にならないことを問題にして、それを解答して喜ぶのは出題者だけだろう。
だが出題さえしておけば、後は各々で勝手に悩んで勝手に答えてくれる。
そうなった時点でしめたものだ。
そんな具合に、俺は周りの知り合いに話していった。
「言ってることは、とにかく“自分の好きなように、楽に生きよう”って感じでさ。しがらみとかガン無視だよ」
それを聞いた人は、また別の人に話すという連鎖が発生し、見知らぬ人たちにも伝播していく。
こうなったら、たちまち波紋は広がり、それが収まらない環境ができあがる。
数日後には、町中で毎日、どこかの誰かが某セミナーの是非について語っている状態になった。
「んー、そういうのに子供まで巻き込むのはどうなんでしょうね」
「だが成人してたらOKかっつうと、それはそれでどうかと思うぞ」
これが俺の狙いだった。
その流れまでコントロールすることはできないが、それは正直どちらでもいい。
「最近、あの自己改革セミナーやってるとこ見ないね。受講者も見かけなくなったし」
「そりゃあ、最近“あんな調子”だったからな。この状況でやり続けるのはツラいだろう」
物議を醸したことで、あのセミナーをやっていた男や、その受講者の肩身は狭くなっていった。
実際の是非はともかく、その窮屈さに耐えられなくなれば萎縮していく。
風の便りで、あのセミナーは主戦場を変えて色々やっているらしいが、この町に来ることは二度とないだろうな。
「なんか追いやられたみたいで可哀想だな。別に悪いことしているわけでもないのに」
「じゃあ、誰が決めるんだよ」
「そんなの俺の方が知りたい」
もし知っていれば、こんな謀略に頼らなくて済んだ。
というより、身内が巻き込まれてなければ今回の件は無視していたに違いない。
あれの何がダメだったかなんて、俺だって本当のところは良く分かってないんだから。
「そういえば弟よ、あの本はどうするんだ? 返品は難しそうだが、持っておくのか? 捨てるのか?」
「捨てちゃダメだよ。中古ショップで売らなきゃ。100円もしないと思うけど、ハムカツの足しにはなる」
この頃には、弟の言動もすっかり元通りになっていた。
有り体に言えば「飽きた」ってことさ。
いずれこうなるんだったら、かかずらう必要はなかったかもしれない。
結果として、俺も「考えすぎていた」ってことなんだろう。
「じゃあ、その本を売った帰りに、あそこのハムカツを食うか」
「え、奢ってくれるの?」
「なんでだよ」
これが、この話の顛末だ。
だが、もし変わるのが簡単だったのなら、それは元に戻るのも簡単だってことだ。
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