はてなキーワード: 政治学とは
https://togetter.com/li/1698356
キャンパスは同じでカリキュラムも概ね社会科学・人文科学系なので多少は共通項もあるはず
国際教養は1学年600人くらいで、政治経済は1学年800人くらい
https://waseda.app.box.com/s/mm9excnx8y4qfd92ls95bqzbtx5lpm51
https://waseda.app.box.com/s/6jfnkx02vtydrgbxm8xrzb7mdshufppc
あと「留年」という言葉で誤解されがちだが、早稲田の学部は基本的に年度取得0単位でも進級はする。その代わり、5年生以上を「延長生」と呼称する。俺は詳しいんだ。
→定員分を吸収できるだけの講義数があっても、多くの人が取りたがる特定の人気講義に人が集中したら抽選にせざるを得ない。それは早稲田に限った話ではない。
→選外となった希望者にオンライン聴講権限を付与するような制度はあっていいと思うが(あるかどうかは知らん)、
いくらオンライン講義とはいえ質問への対応や課題の採点、単位認定等は担当教員が行うわけで、限度がある。
その辺は大学教員の多忙さに理解のあるはてなブックマークユーザーの皆さんならご理解いただけるかと思いますが…
・定員が多すぎるのではないか
→定員が多すぎるから抽選になるのではなく、募集数を超えて人が集中している講義のみが抽選になる。
・必修が抽選なんてひどい
→例の学生は必修の抽選に落ちたなんて書いてないように見えるんだけど、どこかにそう書いてあった?
必修が自動登録されて、空いたところに教養科目とかを入れるのがよくあるパターンだと思う。
同じ必修でも担当教員を選べるタイプの科目であれば、当然教員や内容によって人気の差は出るので抽選は発生し得る。だとしても全員を受け入れきれない必修科目なんてまずないと思うけどなあ。
→申請した科目が抽選ばかりで、それに落ちまくったらそうなる可能性はある。
ただ科目数自体は確保されているはずなので、本来は2次や3次登録でそういう学生を吸収しきるという仕組みになっている。
件の学生の場合、1次で半分以上落ちたとはいえ2次で十分挽回できる範囲のはずなので、なぜベストを尽くさなかったのかという気持ちもある。
https://www.waseda.jp/fire/sils/assets/uploads/2021/03/Schedule_Spring_CurrentStudents_J.pdf
n次登録が終わった時点でまだ空きのある講義の情報(現在の履修者数/定員)が掲示板やポータルサイト(全学共通)で提示され、学生はそれを見て次の登録申請を行うのが基本的な流れ。
全てが抽選というわけでもなく、担当教員が選考を行うこともあるが、そこは人による。
自分のいた頃は3次登録が終わってもあぶれてる人はかなりレアケースだった記憶があるし、全登録期間が終了して全講義の定員が埋まってるなんてことはあり得ない(必修科目なら尚更)のでどこかしら滑り込めた。
そもそも人気講義は選外になることを織り込んで「取りたい講義」「取れそうな講義」を組み合わせて申請するものなので、件の学生は不運とはいえその辺もちょっと不器用だったのかなという印象。
ただ…推奨17単位で、3次登録の申請が全て通っていたとしても合計18単位というのはちょっと履修計画に余裕がなさすぎると感じた。
窮状を訴えるのに2次登録の結果だけ触れてないのが引っかかるんだけど…申請忘れてたりしないよね…?(他人のことなのに止まらない冷や汗)
先行:0(1科目限定)
1次:9/19
2次+3次:5/9+?
大体の人は1次で落とされまくっても2次で半期20単位分くらいの履修を確定させる。(年間取得上限は必修込みで40)
1次よりも2次や3次の方が通る可能性は高いだろうに「1次の登録数>2次+3次の登録数」になっているのはさすがに2次+3次の申請自体が少なすぎるような気がする。
これだけ見ると典型的な「人気講義ばかり申請して抽選で爆死する人」のようにも見えるが、今年の講義実施状況が分からないのでそこは何とも。
とはいえこういう人は少数ながら毎学期必ずいる。自分がいた頃も、履修登録を忘れていて自動登録の必修以外ゼロ単位になった奴がいるなんて話も聞いたことがある。(真偽不明)
件の学生は期間内に登録自体はしてるようなので憤懣遣る方ないというのは分かる。なので問題は抽選云々というより救済措置の方にある。
定員が多すぎるというブコメが多いが、普通に定員を吸収しきるだけの講義数はあるよ。履修登録の度に全講義が定員いっぱいになる学部が回るわけないじゃん。
だから登録期間終了後にあぶれた学生を定員に余裕のある講義に受け入れるくらいの融通はきかせてあげてほしい。
個人的に優先してほしいのは
って感じ
自分がいた頃は学部事務所に行けば誰かしら履修相談に乗ってくれたが、今のご時世でそこのバックアップがうまくいってない、行き届いてない、周知されてない可能性は大いにある。
特に「抽選で選外になる可能性を織り込んで履修計画を立てる」のは基本のキみたいなものなので、各学部はそこをもっとフォローするべきだと思う。
(選外になる可能性を考慮しろという注意書きはシラバスに明記されていたし、今もされているとは思う)
国際教養の細かい事情は分からないが、一般的に1年生は必修が多いのであぶれることはさほど多くない。
(必修科目が定員超過することはまずないし、そもそも自動登録されることが多い)
件の学生は新2年生とのことなので、去年と同じ感覚で取りたい科目を申請していった結果、抽選で爆死したのではないかな~と思った。
従来は2年次に1年間留学する学部だと思うけど、コロナで留学できてない分国教で履修登録する学生が例年より増加している可能性もあるのでは。学部内履修学生数の増加に対して開講科目は増えているのだろうか。
国際教養学部というのは早稲田でも少し特殊な学部で、学部生は原則として2年次に海外留学する必要がある。
ところがこのご時世で留学生の行き来が殆どなくなってしまっている。
これは推測だが、
・本来であれば留学で国外にいるはずの日本人学生が、学部内の講義に集中して抽選が多く発生してしまった
・コロナ禍において、急に学部内の講義を増やすことができなかった/オンライン対応で定員を増やすことができなかった
この辺りは要因としてあり得るのかなと思う。
Add-Onlyというのはおそらく国際教養学部独自の制度だと思うが、これがコロナの影響でなくなったというのはよく分からない。
https://twitter.com/naataso_wsd/status/1382293955446902792
ただまあ、政経には元々そんな制度なかったので、救済措置として登録期間終わった後も空きの残っている講義にぶち込める制度作れや!というのは賛成。
1次でどれが抽選になるか分からなくて選外いっぱい出るのは仕方ないし、自分も経験がある。ただ2次以降は充足状況が公開されるので、それを加味して計画を立てるんやで。
2次は…?
人気講義が既に埋まっている段階ではもはや公平もクソもないので
選外になった講義の資料を融通してもらうくらいええやろがい。皆大体同じ額払ってんだろ
(このご時世でアレだがメールだけでなく直談判も意外と通ったりする)
(この時期は履修専門のアドバイザーがいた気がするけど今もあるんだろうか…?)
「戦略が悪い」という話にしてしまうと「人気のない講義に余裕を持って申し込んだけれど、本当に運が悪く低確率で全部落ちてしまった」人も自己責任になる。あなたは運悪い0.01%だから留年ね!で納得できるか…
そもそも人気のない講義は抽選になりません!!!!!!!!!!!!ストレートインです!!!!!!!!!!!!!!
人気がなさすぎてマンツーマンみたいになることもあります。(胃痛)
だからこそ「取りたい科目」を軸に「人気や日程を鑑みて取れそうな科目」を組み合わせて申請すればほぼ問題なく単位数確保できます!!!!
オンラインの授業なら物理的に講義室が足りないってこともないはず。何故対応できないのか/調べたら毎年600人以上入学してるのね。それは確かにオンラインでもパンクするわ。でもだから対応できないはおかしいよね。
確かにオンラインでもパンクするわ→だからといって対応できないはおかしい
「パンクするから対応できない」は成り立つだろ???何が言いたいんだ???
上でも書いたけど、聴講生としての視聴権限を与えるのは良いと思うしやるべきだと思うよ。
受講生として受け入れるのであればまた別の話だけど
獲得した科目数の少ない生徒を優先的に当選させればこういう事は無くなりそうだが何故そうしないのか?
履修科目数までは考慮してないと思うが、年次が高い方が優先になるというのはあったと思う(うろおぼえ)。4→3→2→1か4→1→2→3
より良い、より偏りの少ない抽選システムがあり得るのではないか?というのは同意するし、件の学生もそういう主旨の発信だと思う。
授業料ほしさに、教えられる分以上に定員増やしすぎたのかな。
定員100名の人気講義を希望者全員が受講できるように学部定員を100名にしました!
かくして不人気講義は廃止され、それに伴って学部の研究領域も縮小し、研究能力も低下しましたとさ。めでたしめでたし。(これは皮肉です)
総合大学を選ぶメリットはカリキュラムの選択肢の多さで、カリキュラムの選択肢は多ければ多いほど履修希望者の偏りが「人気」という形で生じるわけ。
だから登録期間終了後の救済措置や聴講制度の導入には賛成だけど、抽選が発生すること自体はある程度避けられないんですよ。
人気講義なら増やせばいい!って言う人もいるけど、ぶっちゃけ講義の人気なんて楽単か教員個人の人気に拠るところが大きいので、例えば同じ「政治学」をA先生とB先生がそれぞれ受け持ったところで、結局教え方の上手いA先生の講義に人が集中するだけなんだよね。
沢山の授業を開講し、管理する立場からすると、「人気科目だけでカリキュラムは作れない」「カリキュラムは学問の体系の表現である」から、全体として万遍なく履修登録されて学問を身に着けて欲しいとは思う。
そう思います。人気科目だけでは学部、ひいては学問も成り立たない。
救済措置云々とは別の話としてね。
マイルストーンなんか見て、楽単、人気講義だけ取っていったら、抽選外れまくった時はこうなるよね。過度の集中を促すマイルストーン誌が元凶のひとつ。
学生の有志団体がアンケート等を基に集計・出版している「マイルストーン」という情報誌があって(毎学期周辺の書店や大学生協に平積みされている)、
シラバスと見比べながら大体どういう講義があって、どれが人気で、どれが楽単で、どういう試験方式で…といった口コミ情報を新入生でも入手できる。同学科の友人が少なかったので大変お世話になりました。
ただその一方で、楽単や人気講義への過集中を促した面も否めないとは思う。
今はそれに加えてSNSの発達が一部講義の人気先行に拍車をかけている面もある…かもしれない。
自分の時代も人気科目とそうでないのがあって、落ちた科目は他で我慢して、最低限の科目数は確保できたのに、今は違うのか?/ドラフトではないが、ある程度抽選で落ちたら、他を優先的に選択できるようすべき。
悪しざまに行ってしまえば、自治会とかのコミュニティでルール決めれば正しい程度の言い分。
もちろん、いろいろ留保はつけてるが、それが社会に馴染みにくい少数派に厳しいルールになるのは当然。
少し前のリベラル(これを、政治学用語でニューリベラルと言う)は、そういうしがらみを破壊して、変人にも居場所があるという感じだったんだが、サンデル他が叩き潰しちゃった。
で、ここで捻じれがあるんだが、この時に、サンデルと一緒にリベラルをぶっ叩いていたのが、まあ左翼。
どうしても、自由主義というのは強者の理屈になりがちで、また道徳的に非難に値する連中に対してやさしい。
そういうのを批判していた人たちがいた。その代表格が、ユルゲン・ハーバーマス。北守とかが大好きな思想家だ。
ノリとしては、矯風会みたいな宗教保守とラディカルフェミニストが今日として、ポルノという悪しき自由を叩いているという構図に近い。
アイスランドのジェンダーギャップ指数についての記事を読んでて、まさかそんなことはと思って調べてみたら本当にデタラメな指標だったので書く。
「形式的に」というところがミソだ。たとえば多くの立憲君主制国家では、形式的には君主が一番偉い。君主が首相を任命し、議会を招集し、軍の最高指揮権を持っている(自衛隊の最高指揮権が首相にある日本は例外的)。
でも、実際には、君主に実権はほとんどない。日本やイギリス、ノルウェーのような民主的な立憲君主国では、議会の多数派を握った人物を首相に任命し、内閣に言われるがままに議会を招集し、実際の軍の指揮は首相や国防相といった政治家に任せている。
つまり、そういった国では、「その国で『形式的に』一番偉い人」」と「その国で『実際に』一番権力を持っている人」とは別になる。
後者、つまり「その国で『実際に』一番権力を持っている人」のことを、「政府の長」という。
アメリカのような大統領制の国では、「国家元首」と「政府の長」は同一人物だけど、議院内閣制の国では、この2つは別人だ。
つまり、こういうこと(天皇が元首かどうかというややこしい議論はここでは措いておく。実務的にはどう見ても国家元首なので)。
国 | 国家元首(形式上一番偉い人) | 政府の長(実際に一番権力がある人) |
アメリカ | ジョー・バイデン大統領 | ジョー・バイデン大統領 |
イギリス | エリザベス2世女王 | ボリス・ジョンソン首相 |
日本 | 徳仁天皇 | 菅義偉首相 |
で、オーストラリアやニュージーランド、それにカナダは、いわゆる英連邦王国だ。つまり、イギリス国王がオーストラリア国王やニュージーランド国王、カナダ国王を兼ねている。そうすると、こういうことになる。
国 | 国家元首(形式上一番偉い人) | 政府の長(実際に一番権力がある人) |
オーストラリア | エリザベス2世女王 | スコット・モリソン首相 |
ニュージーランド | エリザベス2世女王 | ジャシンダ・アーダーン首相 |
カナダ | エリザベス2世女王 | ジャスティン・トルドー首相 |
つまり、これらの国の「直近50年での国家元首の男女比」を調べたら、ここ半世紀以上ずっとエリザベス女王が国家元首をしているのだから、全期間にわたって「女性が国家元首」と判定されないとおかしいはずなのだ。
で、ここで最新のジェンダーギャップ指数の報告書を見てみよう。
ドキュメント内を“head of state”で検索すると、最初に出てくるのは次のような文章だ。
...Across the 156 countries covered by the index, women represent only 26.1% of some 35,500 parliament seats and just 22.6% of over 3,400 ministers worldwide. In 81
countries, there has never been a woman head of state, as of 15th January 2021... (p.5)
……思い切り、なんの留保もつけずに「国家元首」って書いとるやん……
いや、普通、こういう文書を作るときはさ、「政府の長」とか「政治的リーダー」とか「選挙によって選ばれた最高位の役職」とか、そういう言い回しにしておくものなのよ。だって、「国家元首の性別」っていうのはジェンダーギャップを考える上で無意味極まりないから。オーストラリアもニュージーランドもカナダもイギリスもこの半世紀以上ずっとエリザベス・ウィンザーさんっていう女性が国家元首だけど、それって政治におけるジェンダー平等においてはなんの意味もないでしょ?
そして、読んでいくとこういう表現にも行き当たる。
...However, in Canada, a woman has been in a head-of-state position for only 0.3 years over the past 50 and in the United States, there has never been a woman as president. (p.30)
……やっぱりこの報告書、「国家元首」と「政府の長」を区別してない! カナダはこの半世紀以上ずっと女性が国家元首だって言っとろーが!
そんなの些細な言葉の使い方の間違いじゃん、と思うかもしれない。でも実は、これは重要な問題なのだ。
現在の民主主義国家の政体を分類するにあたって、国家元首と政府の長がどのように権力を分担しているか、という指標は重要だ。それに従うと、民主的な政治システムは概ね次のように分けられる。
システムの名称 | 内容 | 代表的な国 |
大統領制 | 直接選挙された大統領が政府の長となる | アメリカ合衆国 |
半大統領制 | 直接選挙された大統領と議会の支持を得た首相が権力を分担する | フランス |
議院内閣制 | 国家元首は形式的な存在で、議会の支持を得た首相が政府の長となる | 日本、ドイツ、インド、イギリス |
ここで大事なのは、同じ「大統領」でも、大統領制と議院内閣制では持っている権力が全然違うということだ。アメリカの大統領は国民から直接選挙され、連邦の行政権を握っている。いっぽうドイツの大統領は、議員たちを通じて間接的に選ばれ、国政に関する権能をほとんど持たない。これはどちらかというと戦後憲法下での天皇に近い存在と言っていいだろう。違いは世襲されるか選挙されるかという点だけだ。
サミットを開いたときに、なんでアメリカとフランスは大統領が出てくるのに、日本・ドイツ・カナダ・イギリス・イタリアは首相が出てくるのかといえば、後者の5カ国は議院内閣制の国で、国家元首(天皇や国王、大統領)より首相の方が権力を持っているからだ。なんでオリンピックの開会式では首相ではなく天皇や国王(カナダの場合は国王の代理たる総督)が挨拶するのか? 形式的には彼らの方が偉いということになっているからだ。
(ところで、太平洋諸国やアフリカには、「議会から大統領を選ぶ」タイプの共和国がけっこうある。南アフリカ、ボツワナ、ナウル、マーシャル諸島といった国々だ。こういう国の場合、議院内閣制でありながら大統領が実権を握っているということになるので注意されたい)
なので、「大統領が女性」とだけ言われても、どのくらい権力を持っているのかがわからなければ意味がない。仮に、大統領がなんの権力もない完全なお飾りで、首相がすべての権限を握っている国があったとして、大統領がずっと女性で首相がずっと男性だった場合、女性が政治的に平等な立場にいると言えるだろうか?(インドの大統領がこれに近いかもしれない。10年ちょい前のインドの大統領は女性だったんだけど、覚えてる人ってどんくらいいます? まあ覚えてないよね、インドではここ数十年ずっと首相が男性だったので……)
だから、本当に大事なのは「大統領制における大統領」や「半大統領制における大統領あるいは首相」、そして「議院内閣制における首相」の男女比のはずなのだ。ジェンダーギャップ指数はそれをカウントするべきだ。
それなのに、無邪気に「国家元首」の男女比を出してきて「ニュージーランドでは過去50年間のうち14年間は女性が国家元首でした」なんていうデタラメをぶっこくような報告書を、どうして信用できるだろう(なんでデタラメなのかはわかるよね? NZの国家元首は50年以上前からずっとエリザベス女王だからです)。この報告書は「この国は過去何年にわたって女性が国家元首でした」という数字を羅列してはいるが、「国家元首」の定義がデタラメで融通無碍なのにその数字をハイそうですかと受け入れることはできない。本当に国家元首を数えたのか? 国家元首と政府の長を混同してないか? それらの数字は別々に数えたのか、それとも合算したのか? このことがちゃんと注記されていない数字をどう使えというのだろうか。
まさか、こんな基礎的な事柄について、こんな雑な数字を出してくる統計だとは思ってもみなかったよ。国家元首と政府の長の区別なんて、政治制度を分類する上でのイロハのイじゃねーか。その程度のこともわきまえてないやつが数えた数字になんか意味あんの?
まず、「二元主義型議院内閣制」と「一元主義型議院内閣制」と言っているが政治学ではそんな分類は使わない。議院内閣制とは政治権力が議会で選ばれた首相に一元化させる制度のことである。仮に分立しているならそれは半大統領制という別の制度であって、議院内閣制ではない。
「二元代表制」という言い方はあるが、これは日本の地方自治を指す言葉だ。日本の地方自治は、首長(知事や市長)を直接選挙で選び、首長が県庁や市役所を率いて行政を取り仕切るシステムになっている。上で書いた類型に当て嵌めれば大統領制になるが、知事や市長を大統領と呼ぶのは変なので「二元代表制」と呼ばれている。「二元」というのは、首長と議会がそれぞれ別に選挙されるからだ(議院内閣制では、行政のトップは議会の多数派から選ばれるので「一元」になる)。
(余談だが、現代日本の政治がグチャグチャに混乱している原因の一つが「中央は議院内閣制で地方は大統領制」という政治制度のちぐはぐさだろう。議院内閣制と大統領制では「権力の握り方」が違うから、中央と地方でシステムが違うと政党組織を1つにまとめることが難しいのだ。ある組織の内部に異なる論理で動く複数の組織が混在していると一枚岩になりにくいのは、感覚的に理解できるところだと思う。この点、中央も地方も大統領制で統一しているアメリカや、連邦と州のどちらも議院内閣制で統一しているカナダやドイツと比べてみると日本のちぐはぐさがわかる)
おっさんが飲み会で真実の愛について延々語るだけなので、哲学書の入門編にいいんじゃないかな。楽しそうにしてるおっさんはいいぞ。
どうしてフィクションで人は感動するかについて述べた本の走りで、後半は散逸しているんだけど、カタルシスについてはなるほどなあ、とは思った。作家になりたいんだったら普通にハリウッドの三幕構成の本を買ったほうがいいかもしれないが、この読書リストを読んでいる人は実用的な知識よりも読んでいて楽しいかどうかを求めている気もする。
読もうと思ったまま長い時間が過ぎてしまった本で、まだ読めてない。アウグスティヌスが若いころややりたい放題やっていた時期のことも書いてあるらしいので、宗教書として以外にも楽しめるんじゃないだろうか。
塩野七海がエッセイですごく推していたから読んでみたけれども、普通に面白い。例えば、中途半端に生かしておくと復讐されるから、いっそとどめを刺しておけ、みたいなことが書いてあって、優しいと人から言われてしまう自分には大いに刺激になった。ところで「孫子」もそうだが、戦争や政治学について書かれた本はたいてい「そもそも戦争は大悪手で、戦争になる時点で何かやらかしてる」という趣旨の言葉があり、全くその通りだと思う。
未読なんだけど、結婚とはある種の契約なんだから、まず処女と童貞がお互いに裸を見せ合ってからだ、みたいなディストピア的な描写もあるらしく、ディストピア文学好きの人は楽しめるんじゃないかな。あとは非モテ界隈の人とか。実際、完全な平等な社会を目指そうとするとどっかしら歪みが出るもので、それについて考えるのにも使えそう。
自然科学的な考え方、ロジカルシンキングのマニュアル。長くないのですぐ読める。得るものがあるかどうかはわからないけど、逆に普段している論理的思考がそもそも存在しない時代があったことは、実感しておくと歴史を学ぶ上で面白いかも。
平凡社の上巻を読んで挫折。純粋な理性っていうけれども、ヒトの心にはデフォルトで時間とか空間とかの枠組み、基本的な概念が組み込まれているよね? 的な話をやたら細かく述べていく内容だったように記憶している。長いので三行でまとめたくなる。
この本に限らず、いくつかの哲学書は「この本さえあればあらゆる哲学的論争をおしまいにできる」「この本からあらゆる結論が導き出せる」的なスタンスで書かれたものが多い印象。
エヴァヲタなら読まなきゃという謎の義務感から読んだ本。要は、どうすれば自分を信じることができるか、について語った本であったような気がする。自分は救われないだろうという絶望から、それでも神を信じるという境地に至るまでの道筋を延々と語ったようなものだった、はず。
自分は特定の信仰を持たないが、どうせ自分なんてと己を見捨てた境地から、まあ自分は自分だよね、的な気分に至った経験がある人が読むと楽しめるだろう。
「善悪の彼岸」と「ツァラトゥストラはかく語りき」なら読んだ覚えが。自分はカトリックの中高一貫校出身であったせいか、キリスト教思想にある欠点を指摘したこの本を面白く読んだ。キリスト教になじみがなくても、たとえば来世があると考えることで現在を生きることがおろそかになるといった指摘は、興味深く読めるんじゃないだろうか。あとは、増田で定期的に出てくるルサンチマンがどうこうとかいう話が好きな人にもおすすめ。マッチョぶってるところはあるが。
新潮文庫の「夢判断」「精神分析入門」「トーテムとタブー」「一神教の起源」なら読んだ。フロイト自身はヒトの心を脳から探りたかったらしいのだけれど、当時はMRIやら何やらはまだないので対話式の治療法を導入したらしい。
彼の理論は今となってはツッコミどころがたくさんあるのだろうけれど、クラインだとかビオンとかについて触れるなら頭に入れておきたいし、心理学特にパーソナリティ障害について読むなら知っておきたい。自分はフロイトやアドラーよりもユング派だが。
ラブストーリーの「ナジャ」だけ読んだ。謎めいた女のあるある的な話だ。
「論理哲学論考」だけなら読んだ。これもカントみたいに「俺が哲学のくだらない争い全部終わらせてやる」的な立場で書かれている。定理がずらずら並んでいるだけで、余計な表現がなく、簡素。
ただ、言語の限界について今の人が持っている感覚ってのは大体この時代の人が言っていたことだった気がするし、そういう意味では面白いんじゃないかな。この辺は数学ともかかわっていて、ペアノとかゲーデルとかヒルベルトとかその辺興味があったらいかがでしょう。
ちなみにウィトゲンシュタインがポパーとの議論でキレて火かき棒を振り回したヤバいやつだというのは哲学界隈では有名らしい。
シン・ウルトラマンの予告編でちらっと映っていたので読んだらいいかもしれない。
この本そのものは未読で「悲しき熱帯」ともう一冊なんか専門書を読んだことは覚えている。面白かったエピソードの一つは、ある民族は身分を入れ墨にするんだけど、入れ墨のない人間(白人たち)を見て面食らう。要するに身分証明書を持ってないようなものだから。
定期的に異民族と共に暮らすドキュメンタリーが読みたくなる性分なのだが、それはたぶん、自分のやり方や考え方が絶対じゃないってことをよく教えてくれるからで、これも本を読む効用の一つだろう。趣味なので効用なんて本当はどうでもいいが。
面白い。僕自身のスタンスとしては、日本人が海外で誤解されていることを批判するんだったら、自分も外国に対する偏見や無知を減らそうと努力するのが筋だと思っていて、それの理論的な補強をしてくれた本。身近に外国人の多い環境ではないが、すぐに役に立たないからと言って読まないというのはなんか違うんじゃなかろうか。自分はイスラーム世界やインドについて、どれほどわかっているのだろう?
どっからがいきでどっからが野暮なのか、直方体を使った図があった気がするが忘れた。
「遠野物語」しか読んだことがないし、それも「マヨヒガ」のことしか覚えていない。
自分が現代思想に出てくる名前がわからなすぎて最初に読んだ本の一つ。四コマ漫画だがかなり本質をとらえており、いしいひさいちの本業は何だったのかよくわからなくなる。素直に笑っておきましょう。勉強ってのは楽しみながらするもんだ。
上のリストでは省略した20世紀哲学者が実名で登場するミステリなんだけど、フーコーがサウナで美青年とイチャイチャしたり、七十年代の音楽を聞きながら薬をキメたりしているので、現代思想だのポストモダンだのをかじったことがあるならおすすめ。著者がやりたかったのは、たぶん上の世代の脱神話化というか、強すぎる影響の破壊なんだろうけれども、ここも素直に笑っておくのがいい。
以上。
二大政党が綱引きするのが良いとよく言われるけど、これ何か理論的な根拠あるの?他に健全化の方法はないの?
たとえば企業なら、社長と副社長が社内政治で足を引っ張り合うよりも、団結して協力しあう方がうまく経営できるでしょ。
腐敗や迷走を防ぐには株主や社外取締役がオブザーバーとして目を光らせてたり、監査組織のチェックを入れたりみたいな、経営者(政党)とは別の立場の監視役で回すモデルだし。
他にもたとえば公務員なら、腐敗を防ぐために頻繁に異動させるやり方をしてて、これは頻繁な与党野党の政権交代に似てるけど、このやり方は深い経験が蓄積されないし、責任を持って長期プランに取り組まないというデメリットも生むのでときどき問題視される。
教えて、詳しい人。
15歳のとき、ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの―情熱の政治学」を読み、それが私のバイブルになった。そこに書いてあったフェミニズムの説明を読んだだけで、それが世界を変えるとわかった。地元の図書館にかろうじてあったフェミニズム書籍コーナーに潜り込むや否や、 牟田一恵や田嶋陽子の世界に浸りこんだ。私が進学先の大学を選んだ理由は、その時すでにTwitterで名を馳せていた北村紗衣先生が教鞭をとっていたからだし、ジェンダー論の授業があるからだった。大学を出て最初についた仕事では社内セクハラの撲滅に従事し、プライベートでもTwitterや消費者運動を通じて、男女差別と戦ってきた。ほぼ十年、このために使った時間は知れない。
何が言いたいかというと、フェミニストを名乗れる人間がいるとしたらそれは自分だということ。九州の田舎で育った孤独なティーンエイジャーにとって、フェミニストの冒険譚を読むのは震えんばかりの興奮だったし、目を見開かされる思いだった。周囲にこんな人は見た事がなかったけれど、ネットを通して自分と似たような人が他にいるとわかって希望が生まれた。大学に通い始めてからは、フェミニストでいることにひねくれたプライドをもつ人を他にも何人か発見した。けれどそれはまだ珍しかったし、社会の主流な考え方からはすっかり外れていた。だから、なぜせっかくそれなりの企業に就職した自分が、社内恋愛の末の寿退社ではなく、男受けの悪い反セクハラ活動に血道を上げているのか、誰も本当にはわかっていなかったし、私はフェミニストだと言うと、ほとんどの人が眉をしかめた。月日を経て、私は同じ志を持つ仲間の輪を少しずつ広げた。職場、教育、そしてマンガアニメなどの趣味の世界。それぞれの世界で活動する私たちを、フェミニズムが互いに引き寄せた。そんな仲間の助けがあったから生き延びる事が出来た。けれど仲間を探すのは難しかった。私たちはまだ、社会の中で傍流だったのだ。
でもこの十年、状況は様変わりした。映画やドラマはフェミニズムに則って制作されるのが当たり前になった。アナ雪や逃げ恥を通じフェミニズムは恥ずかしがらずに誰もが楽しめるものになった。
そして、たぶん一番重要なのは、今やフェミニストはカネを、そして権力や地位をも持っているということだろう。世界で一番大きな、そして一番勢い良く成長している企業は女性に配慮し、女性を雇っている。日本の大企業や省庁も女性差別をやめ敬意を示すようになった。強い女性はかっこいい。私たちは勝ったのだ。
そして、そこに問題がある。私たちは未だに自分達が反乱軍かのように振る舞っているけれど、今やフェミニズムは帝国だ。十年前までは私たちはおおむね正しく、批判は的外れで間違っていた。だから他人に耳を貸さない私たちの習性は深く根付いている。それどころか、フェミニストに向けられた批判をスクラムを組んでやりかえすのが絆を深めるためのちょっとしあ儀式になってすらいる。今までは誰かの批判を攻撃するのも、かつては大したことではなかった。一握りのフェミニズムに親和的な人以外にそうした論考が読まれる事はなったからだ。そんな内なる声も、今や大きな問題になっている。フェミニストが本当の権力を振りかざしているからだ。キズナアイやラブライブのポスターへの攻撃、宇崎ちゃんのポスターにまつわる献血ボイコットは、フェミニストの私にとって恥ずべき出来事だった。けれど恐ろしいのは、その暴力的な振る舞いが、フェミニスト界隈に常在する何かと同じ感じがすることだ。それでいいという空気があることだ。ただ驚くしかない。その空気はあっという間に、誰かが大切に育ててきた営みを、無造作に叩き潰すほどに膨張した。ファミリーマートのような主流の大企業ですら、私たちの突きつけた理不尽な圧力に巻き込まれている。今や私たちは、「自分を反乱軍だと思い込んでる帝国軍」なのだ。
だから「日本は未だ後進的な男性社会で、私たちフェミニストはそれに反抗するレジスタンスであり、いつの日か勝利するだろう」みたいな、フェミニスト界隈の通奏低音はすごく違う感じがする。たしかに私たち女性は、かつては家父長制にいじめられたり、大企業に無視されたりしていた。でもそれは、私たちにカネも力も無かった頃の話だ。今や私たちには権力があり、日本の資本主義社会は私たちを標的にするのではなく仲間とみなすのにやぶさかでない。20年前の男性社会は私たちをお茶くみや家庭に押し込めようとしていたけれど、今や私たちが仕事に学術に家庭に多くの選択肢を持つ一方で、文句も言わずに黙々と経済的な後ろ盾になってくれている。
フェミニズムの愛すべき要素の一つに、共感や連帯を大切にするという価値観がある。誰かが泣いている時、証拠や事実検証は、大抵役に立たない。いの一番に、「私もあなたのために怒りたい」と表明し、それを実行しなければ社会は変わらないのだと、痛い目に遭いながら学んできた。これはフェミニズム界隈を通底するルールだ。誰かが被害を表明すれば、ただちに飛んでいって守り合う。客観的なデータに基づく結論は、提示するのに時間がかかるし決まって歯切れが悪い。だからスピードと攻撃力が高い「お前は差別主義者だ。私は傷ついた」と言い切る思い切りが習慣になる。
なのに、フェミニストが自分たちの共感の埒外にある人々へ示す冷酷さには、思わず目を丸くしてしまう。知りうるほとんど全てのフェミニストが、自分より年収の低い男性や、性的魅力に乏しくオタク文化に逃げている(と見なしている)男性を嘲笑し、あるいはそういった言説を窘めもしない。逆に高学歴、高収入な男性や、容姿に優れるなど性的魅力が豊富なタイプは、あらゆるレトリックを用いて養護し、倫理的なお墨付きを与える。収入、学歴、容姿。共感で駆動するフェミニズムは、これら男性のステータスに対してどこまでもプリミティブな接し方をする界隈だ。フェミニズムが世間を席巻し、プレイヤーの絶対数が増えるにつれ状況は悪くなっている。
解決策を知っているというつもりはない。けれどどこかで何かが間違っていると意識することはできる。現に私より若い世代では、女性たちの間ですらフェミニズムへの忌避感が広がっていると感じている。しかし私たち現役フェミニストは、フェミニズムを忌避する女性に対してどんな態度をとってきただろう?ここで口にするのも憚られる、卑劣な言葉を投げつけては、仲間内での連帯を高めてきたのではないか?こう想像するのはおかしな事だろうか――この深く根付いたクソっぷりが、若い世代を遠ざけているのでは?
あたりを見回すと、私たちが育ててきたフェミニズムが、自由への革命から威圧的な権力へと姿を変えたのがわかる。私たちは確かに素晴らしいものを生み出した。けれど私たちは不注意で、普通の人々を傷つけないための安全策を怠った。私たちは不注意で、未来のフェミニストたる多くの若者たちを成長の各段階で追い出してしまった。私たちは不注意で、世界をアップデートしたとき失うものがある人を気にかけなかった。いい目を見る人のことをだけを考えていた。(だいたい自分達のような人々だ。)
古い世代の連中より高潔でありたいと、いつも願っていた。けれど蓋を開けてみれば、力不足ゆえに無害なだけだった。体に染み付いた被害者意識は、私たちがいじめ行為に至る際の非道な言い訳と成り果てた。
だから言いたい。フェミニズムは終わりにしよう。フェミニズムは素晴らしいことを色々してきたけれど、今のフェミニズムは歪んだ復讐心と暴力衝動に駆り立てられる怪物だ。まともな答えは、これを終わらせてもっと良い何かを作り出すことしかない。
もっと良い何かとはどんなものだろう?私たちが攻撃したラブライブには希望を感じる。私たちが巻き込むのに失敗した若い世代の女性をはじめから取り込んでいるからだ。どんな未来が来るにせよ、私たちは良き人物になることを重視する必要がある。今までよりずっと。
弱さへの憎悪と、強いものへの阿諛追従は終わらせなければいけない。これはフェミニズムとあまりにくっつきすぎている。だからこの星からフェミニズムを消し去るしか、確かな方法はないと思う。
昔は占いを毛嫌いしていてあんなもん信じる方がバカと思っていたけど、
人生酸いも甘いも噛み分けるうちに、
単に当たる当たらないではなく心のカウンセリングとして占いの必要性を知った。
そしたら意外とみなさん高学歴なのね。
鏡リュウジ 国際基督教大学卒→国際基督教大学大学院修士課程修了(心理学)
しいたけ占いのしいたけ 早稲田大学大学院政治学研究科修了 (哲学。たぶん早稲田大学から持ち上がりだったような)
あと占い師じゃないけど、占い師の家系というトイアンナも慶應義塾大学法学部
(私は彼女の記事で占い師って世襲だったりするんだって面白がったり、占いって統計学なのねということを聞いて占いへの偏見が薄れて興味が出た)
ほんとにそれだけなんだけど、
クリスチャンディオールも占いを大切にしていたという話を聞いて思い出しただけです。
結局こんにちの混乱は、「政治的な意見を自信をもって発言する模範的な市民になりましょう」という、極めてうさんくさい学級委員長的規範めいたものから発せられていると言えるでしょう。
例えば政治学のせの字も知らない人々がこの風潮をうけたときまず何をするでしょうか。
GoogleやTwitter、YouTubeで話題のキーワードを検索し、ある程度の注目を集めているようである刺激的な「新常識」を目にするのです。なるほどそれらの「新常識」をめぐって、多くの人々が賛成と反対の意見を交わしているのを彼らは目の当たりにします。
なかにはテレビに出ている有名人や、なんとなく肩書きの堅い大学の先生もいるようです。
自分も早くたくさんの知識を吸収して話に追いつきたい、周りの人間よりも一歩賢い人間として自信をつけたいという、学校のお勉強以外ではじめて学びを得ることの楽しさや知的好奇心を発見した彼ら。次第にどこかのコミュニティめいたものに所属するようになり、仲間意識や自尊心も形成されていくことでしょう。
いったい彼らのどこを責められるでしょうか。
彼らは真面目な努力家で仲間思いの、社会や国を良くしたいという立派な目標をもった模範的な市民そのものです。
少しばかり学問の体系についての知識が足りないだけで、日々ひたすら誠実に新たな知識を探し自身の成長を求めているのです。たまに批判者に対して汚い言葉を使ったりもしてしまいますが、日本の文豪たちがユーモラスに罵り合っていたエピソードがあなたたちに人気であることを彼らは何度も目にしています。
で、こんにちの混乱を収めるために何が必要となるでしょうか。上のプロセスを踏まえていくつか挙げてみましょう。
・学問の体系が少しだけ身につくような挑戦の機会を義務教育中に与える
・インターネットには嘘と悪意がはびこっていることを知らしめる
・労働や趣味に打ち込むことで日常生活から充実感を得られるような社会構造にする
なんだかありきたりで見たことのある意見ばかりですね。最初の一つは除くとしても、どれも教育的で正しい、凡庸でつまらない意見に言い換え可能です。
ただ、これらの実現には相当の期間と多大な努力が必要となることは間違いありません。
この手間を避けて強引に混乱をなかったことにしようとするから、インテリたちは真面目な彼らを小馬鹿にする書き込みをするのです。いや、小馬鹿にする書き込みしかできないと言ってよいでしょう。
彼らもまた、一分野での成功を願い努力する才能をたまたま得られただけの人々なのです。政治や社会についてまともに勉強する余力がないので、なんとなく賢そうな社会学者の小言に同調しつつ、業界内の空気読みにふけっている賃金労働者に過ぎません。
ではこんにちの混乱を収める方法はもはや存在しえないのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。われわれは2つの可能性を無視してきました。
ひとつは、よくわからない観念は一掃し平静を取り戻した心で、日常と少しの非日常を真面目に生きる伝統感を獲得することです。これは、各自が自分の人生を一回きりのものとしてなるべく味わい尽くすように努め、それに多少のまぼろしを混ぜ合わせて一体感を作り出す、保守的な社会を目指すものとなるでしょう。
もうひとつは、すべての意見を外部のシステムに依存し、ひたすら物質的な世界に満足できる身体を社会的に創りあげ、民主主義を脱皮することです。これは、政治機構や巨大IT企業にイデオロギーを一任し、それに従うだけで正しさが付与される、内と外の善悪の熱気を帯びた合理的な共同体を目指すものとなるでしょう。
非常に面白かったが、やはり政治学・法学・倫理学という片方の視点からこの問題を論ずるのは限界があるとも思う。
生物学や医学、環境学、自然科学といった視点も取り入れないと包括的な議論はできないし、
さらに本件は人類の農耕史と狩猟の歴史にも関わってくるうえ、仏教・ユダヤ教・ヒンズー・イスラムといった視点も必要になる。
かろうじてホッブスの契約の概念などが出てくるが、これもやはり近代以降の西洋哲学上の定義のひとつにすぎず、
それだけをもって菜食主義を議論するは素材が少なすぎると言わざるを得ない。
人間を中心にすえた議論においては、菜食の可否は議論の俎上にすら登らないのが当然だし、
標題は「~理由を国際関係論という学問の用語を使って説明したい。」とした方が正確である。
しかし、それでは読んでもらえないと予想したので標題のようにしている。
自民支持されるのはおかしい( https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/DocSeri/status/1342720709873692672 )というエントリが人気だ。
それでも自民党が支持されるのは、外交と安全保障政策を任せることができる政党が自民党しかないからだ。
学術的に言うと国際関係論という学問では、High and low politics ( https://en.wikipedia.org/wiki/High_and_low_politics ) という言葉がある。
High politics とは、外交や安全保障といった分野を指す。
Low politics とは、High politics 以外の分野を指す。
High politicsでの失敗は、国としての存在に関わる。
Low politics もまた重要であるが、Low politicsが成功するには、High politicsの領域で国が安定していることが必要不可欠である。
そのためHigh politicsはLow politicsにまして極めて重要である。
High politicsで失敗するとどうなるかは、パレスチナ、イエメン、アルメニア、ウクライナ、ウイグル、チベット、【イラク】(2020-12-28 10:48追記)、そういった国々ないしまたは"地域"から学ぶことができる。
立憲民主党・その母体である民主党系の政党は、High politics を軽視している。
例えば鳩山首相(当時)は、日本中央政府・沖縄県・アメリカのいずれもが同意していた辺野古移転案を白紙化し「最低でも県外」を推し進めようとした。
それは失敗に終わり、期待を裏切られる結果となった沖縄県は辺野古移転案さえも拒否する結果となった。
例えば蓮舫副代表(当時)は2019年、F35の105機の購入計画を爆買いだと批判した。
2020年の数字になるが、中国は第4・第5世代機を1080機保有していることに対して、日本は309機しか保有していない。
( https://www.gyoukaku.go.jp/review/aki/R02/img/s2.pdf )
これを踏まえれば、必要な装備水準について現実的な対案を提起することなしの批判は支持できない。
こうした例から、立憲民主党とその母体はHigh politicsを軽視していると私は判断している。
不祥事を繰り返す自民党の議員たちは実に不快であり有害であると個人的には思う。
だからといって、High politicsを軽視した政党を支持することはできない。
そのためHigh politicsの分野で信頼できる政党ができるまでは、自民党を消極的に支持するしかない。
2020年9月10日の毎日新聞によると安倍政権への世論調査で
「最も評価が高かったのは外交・安全保障政策で、「評価する」が57%で、「評価しない」の27%を大幅に上回った。」という。
( https://mainichi.jp/articles/20200910/ddm/012/010/100000c )
2020年9月3日の朝日新聞でも、世論調査で最も支持されたのは「外交・安全保障 (30%)」であった。
(https://www.asahi.com/articles/ASN937F3RN92UZPS005.html)
こうした調査からも、自民党が支持される理由がHigh politics を重視し現実的な安全保障政策を取ってきたことにあると考える。
いただいた人気コメントと、新着コメントのうちいくつかにたいしてコメントしたい。
そんな大上段の話ではなく、ドブ板(冠婚葬祭や学校・地域の式典・イベントに顔を出す等々)と地盤(後援会)の過去からの累積が効いてる、って話では。単純接触効果は偉大ですよ。天下国家論じるだけでは選挙勝てない。
ドブ板地盤看板鞄が55年体制から現在まで自民党を支えたことは、私もそう思う。
しかしドブ板地盤看板鞄では、安倍政権が終了時に世論の支持率が上昇し、その評価する政策として「外交・安全保障政策」が一位となったことを説明できない。
北方領土が返ってこなくなったり,拉致被害者が返ってこなくなったり,Googleマップでミサイルサイト決めたり,自衛隊幹部一同が会食して一斉感染したり,high politicsってスゲェな!
4つの反論のうち拉致被害者の奪還の困難さを評価するのは難しいが、その他3点について言及する。
まず一般論として他国が実効支配している領土を交渉で返還できるのは極めて稀なケースで、北方領土が返還されなかったからと言ってただちにhigh politicsを軽視しているということにはならない。
ただし安倍政権がロシアのナイーブな善意を期待して対露譲歩(2島先行返還論への転換)をしたことが何ら成果をあげなかったことは特筆すべきであり、安倍政権が対露外交で大きな失敗をしたことに同意する。ロシアには善意や信義は通じない。国際関係論でいうところのrealism学派の外交理論を全面採用すべきであったし、せめて今後はそうあるべきである。
イージス・アショアの配備予定地の選定に防衛省担当者がGoogleマップを使用したか、及び自衛隊幹部一同が会食したかどうかについては、自民党がhigh politicsを重視しているか否かという論点には関係がない。
具体的な反論または質問の形に書き換えていただければ、解答したい。
「学術的に」という言葉に違和感を覚える方がいるのは理解できる。
というのも、「学術的に」とは曖昧な表現であって、この場合は「国際関係論という学問の用語を使って」という方が適切なのが正しい。
そうしなかったのは、そのタイトルだとたぶん読まずにスルーされてしまうだろうと予想したため。
例として挙げた辺野古政策、F-35、世論調査結果の全てにおいて議論が単純化され過ぎていて、「学術的??」となる。居酒屋の隣の席のオッチャンが言ってた。
単純化しなかった場合の議論とはどのようなものか説明してほしい。
「学術的に」は先述のとおり。
3点の反論にそれぞれ解答する。
1点目、普天間基地問題の解決は日米安全保障条約の運用の安定性に寄与することであり、日米安全保障条約の運用の安定性を向上させることはhigh politicsな課題にあたる。
2点目、戦闘機について。蓮舫氏は35に変わる代替機種などの提案した上で批判したのではなく対案なき批判となっている。
蓮舫氏が代替機種、あるいは戦闘機の購入よりも安全保障を向上させる装備体系の提案をしたのであれば、その内容に応じて賛成または反対をする。
3点目、防疫は安全保障の問題ではないか、という指摘はそのとおりだと思う。
具体的な反論または質問の形に書き換えていただければ、解答したい。
結論から先に考えてないかな?書かれていることは仮説でしかない気がします。データの根拠が弱い(30%って)ので、追加のレポート期待しています。
ただ、実験のできない、さらに統計もとれない分野ではこれ以上の根拠を持ってくるのは難しい。
「それでも自民党が支持されるのは」ではなく「それでも俺が自民党を支持するのは」だろう。太宰メソッドだ。Objectだけを分析してもSubjectの行動の理由を説明したことにはならないだろう
元国際関係論の学徒だが、もう大学の図書館にも電子ジャーナルにも入れない、本も経済的な事情で売ったので
そこは多めに見てほしい。
①筆者の挙げるパレスチナ、イエメン、アルメニア、ウクライナ、ウイグル、チベットの置かれている状況を日本に当てはめるのが妥当と言えるのかどうか。(経済力・人種・宗教・資源・地理)
High politicsに失敗した場合、例えば北朝鮮の核攻撃を主要都市に受けた場合に
それらの国々と日本の状況に大差はなくなると私は考える。
②外交・安全保障をHighとして、内政をLowと位置付ける概念は、政治学の中でメインストリームなのか、またそれは軍事関係者などのイデオロギーに影響されてないものなのか(引用にWikipediaっていうのも?だし、Wiki自体にも引用文献が少ないから疑問に思った)
国際関係論には、大きく分ければ2つの学派がある。1つはrealismで、もう1つはliberalism。
realism は、High politicsだけに関心がある。
liberalism は、High politics以外にも関心がある。だが、最も重要視するのはHigh politicsであるという見解はrealismと共通している。
これはliberalismの中心人物であるJoseph Nyeという学者が「安全保障とは酸素のようなものであり、それが希薄になり息が苦しくなるまでは、人々はその重要性に気づかないが、実際にそうした状況になれば、それ以外のことは考えられないほどに重要なのである。」と著作である「国際紛争ー理論と歴史」という本で述べている事実が端的に説明している。
「政治学」まで広げた場合はメインストリームかどうかはわからない。
「日本の、国際関係論を除く、政治学者」の間でのメインストリームではないとは感覚的には思う。
民主党政権時、外交側を軽視していた事例があった、としか書いてないような…。自民党が外交を重視しているとも、その結果が支持に繋がるという根拠もちとわからず…。
ご指摘のうち、「自民党の外交が支持されている」のは朝日・毎日の世論調査の結果で説明できていると思う。
「自民党が外交を重視している」例がないのはそのとおりだと思ったので追記する。
例として最も適切なものは、「自由で開かれたインド太平洋」構想の定着だ。
「自由で開かれたインド太平洋」構想は、麻生外相が2006年に行った演説にある「自由と繁栄の弧」 (https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/18/easo_1130.html) 構想、ないしは2007年の安倍首相のインド国会での「2つの海の交わり」「安全保障ダイアモンド」(http://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2020/2020-01_003.pdf?noprint) に起源がある構想だ。
これが、例えば2020年のアメリカ共和党の国家安全保障戦略報告書でも日米豪印(Quad)協力の継続・支持が提言(https://jp.reuters.com/article/idJP00090300_20200618_00220200618)され、アジア版NATOであるかと議論されるまでに定着した。
国際政治学者の細谷教授は、自由で開かれたインド太平洋に対して「過去1世紀半の日本外交の歴史の中で、これほどまでに日本が提唱した外交構想が国際社会に浸透して、幅広い支持を得たことはなかったのではないか。(https://apinitiative.org/en/2020/12/21/14345/)」と述べている。
「自由で開かれたインド太平洋」構想は自民党外交の最大級の成功であり、自民党が外交を重視している根拠としては最も適切なものだと考える。
「ないし」は漢字では「乃至」と書く.
最近の辞書には「または」の言い換えとしても見えるが, 「または」とか「やら」を使っておくのが賢明だろう.
「ないし」を使うと高尚で学問的な感じが出るためかネット論客はむやみに使いがちだが, 諸君, 漢字の意味をきちんとわかってて使ってるだろうか.
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
前田 耕 (Ko Maeda)@MaedaPoliSci
https://twitter.com/MaedaPoliSci/status/1340058410356781057
の一連のツイートより
※前田 耕
ノーステキサス大学准教授(政治学)。ミシガン州立大学Ph.D. 研究領域は選挙・選挙制度・政党間競争・政治制度など。
12月14日の選挙人投票の結果を国立公文書記録管理局が公開してます。
まだ全州揃っていないけど、接戦州はミシガン以外全て載ってます。各州の公文書のPDF版が見れます。
以下、よく出る話を連ツイでまとめます。
本当にもう終わりにしましょう。
Q:1月6日の集計時に逆転できる?
A:無理です。集計手続きはElectoral Count Actという法律で規定されていて、
上下両院が同意しないと選挙人票を捨てられません。下院は民主党多数です。
A:デマです。Electoral Count Actにそんなこと書いてません。
Q:ジョージアなどの接戦州では共和党側の選挙人も投票したんでしょ?
A:法的根拠もなく、ショーとしてやっただけです。
A:あるけど、選挙人投票も済んだので、これ以降の裁判ではこれまで以上に"moot"や"laches"(簡単に言うと"もう手遅れ")で棄却されることが増えるでしょう。
PA州共和党は、あるケースについての最高裁への意見書に「どうせこれで結果は変わらない」と書きました。
A:不正があった場合に異議を申し立てる手続きは各州の州法で規定されています。
でもトランプ側が起こした裁判は次々に敗訴、または法廷外では高らかに叫ぶのにその「証拠」を裁判に出してきません。
Q:反乱法/内乱法を発動すれば?
A:Insurrection Actを発動して軍を派遣しても、既にある法律を執行することができるだけで、法律を無効化するとかできません。
Q:大統領令が...
A:大統領令は憲法と法律の枠内のことしかできないので、すでにある法律を覆すことはできません。
Q:実力行使で憲法も法律も停止したら(ペルーのフジモリがやったように)?
A:そのためには軍の支持が要るけど、陸軍長官と陸軍参謀総長は既に選挙への介入を否定してます
(軍人は違法な命令に服従する義務は無いし、違法と知りつつ実行したら処罰されます)
Q:トランプが負けを認めないとどうなる?
A:彼の任期は1月20日正午に終了するので、その時点でもしWhite House内にいたら、
不法侵入者として排除されます(だからその前に自主退去するでしょう)。
また、藤井厳喜という方が、大統領経験者には不逮捕特権があると前に書いてましたが、ありません。
https://twitter.com/MaedaPoliSci/status/1340074251781615621
前田 耕 (Ko Maeda)
@MaedaPoliSci
Q:バイデンが勝つと〇〇になるけど、それでもいいの?
A:いいかどうかが問題じゃなく、次期大統領は選挙結果に基づいて決められるんです。法治国家ですから。(いま、「選挙が不正でも法治国家と言えるのか!」と思った方は6番目のツイートをどうぞ)
本当に、もう終わりにしましょう。
14/end
https://twitter.com/MaedaPoliSci/status/1340125130920484864
前田 耕 (Ko Maeda)
@MaedaPoliSci
.
21時間
その結果を州政府が認証し、国立公文書管理局のトップのthe Archivistという役職の人が、
https://twitter.com/MaedaPoliSci/status/1340120366040137731
前田 耕 (Ko Maeda)
@MaedaPoliSci
22時間
全部違います。
・大統領令・非常事態宣言→憲法と法律の枠内なら可能。軍制服組はその役割から逸脱しない見込み(当然)。
です。
セイウチさん
@seiuchiblog
22時間
返信先: @MaedaPoliSciさん
貴重な見解ありがとうございます。
・大統領令・非常事態宣言→1/20迄なら合憲。但し軍制服組のサボタージュの可能性あり。
という理解でよろしいでしょうか?
わりと以前から社会学とか心理学とか政治学とか主にジャーナリズムやビジネス系の実用書を読んでいると、前半部分はそれなりに統計とか理論的な分析とかで納得できる話が書いてあるのに、だいたい半分を過ぎたあたりから突然著者の自慢話になることが多いなと思ってた。
目次だけを見ると一冊全部きちんとまとめているようなのに、どうも後半部分が面白くない。個人の主観というか間接的に直接的に自慢話が多くなっているなといういやーな感じがしてくる。
とはいえ一冊全て同じ調子で書くのは難しいのかもなと思ってそれほど気にしてはいなかったのだが、ここ最近になって同じような匂いを感じるジャンルを見つけた。
マンガという媒体を使って子育てや夫婦生活を赤裸々に描く系の話だ。
最初のうちは子育てあるあるや夫婦のすれ違いあるあるでそこそこ面白いことを書いている人も、なぜだか途中から急に過去の学歴だとか恋愛遍歴の多さだとか、愚痴を言いつつ旦那の稼ぎが良さそうなことを匂わせてきたり、家族で海外(人気のあるヨーロッパの国が多い)赴任したとかそういう話題を入れてくる。
そうなると最初の頃の「あるある」はどこへやら、書いてる作者が自分で「あんたらとは違うんだよ」と言っているかのように思えてきてまたいやーな感じがしてくる。
どちらも実体験をもとにそこから多くの人に共通する話題をコンテンツとしているところに特徴があるが、途中から急に自慢したくなってしまうこの現象になにか名前はないものか。