はてなキーワード: 対峙とは
といろいろなレベルがある。だが問題は教員には今自分が直面したルールの壁がどのルールにあてはまるのかわからないということだ。
架空の例として極端なものを考えてみる。A大学のA部局が舞台だ。
15年前のA大学では、出張の報告を行う際に報告書には「○○月○○日 ○○時頃 ○○大学へ××先生と研究に関する打ち合わせ」と書くと共に相手方の名刺を添えて提出することとしていた。これは、名刺をもって相手と打ち合わせしたという証拠にするという理解のもとに行っていた。
だが、名刺だけでは打ち合わせ以前の名刺を添えることも可能になり、また、知己の相手から名刺をもらう手間もわずらわしいとの声が教員から大きいということで、10年前のA大学では出張の際に、大学のルールとして出張の報告を行う場合は、報告書に出張者がどこに行ったのかを、「○○月○○日 ○○時頃 ○○大学へ××先生と研究に関する打ち合わせ」のように簡単に報告するように変わった。
しかし、A大学のA部局では、8年前の内部で行う会計監査でカラ出張が横行していることがわかった。他の部局では行われていないこともあり、大学としてはA部局に改善を求めた。その結果、A部局では出張の際には相手と打ち合わせを行った証拠を必ず添付するようになった。それは相手の研究室のドアの写真でもよいし、相手方の近くまで行ったことを証明できる搭乗証明でもよいし、相手から打ち合わせをおこなったという日付入りのサインでも、とにかく証明できればかまわないということにしたが、実際の業務を行っていくうちに、「打ち合わせを行ったという相手の署名入りの証明書」を添付することに落ち着いていった。
2年前、全国的に研究不正が多発しA大学でも研究不正対策に乗り出した。その際、他大学では「出張報告に添付する書類の偽造」が基でカラ出張が行われる例が多くあることがわかった。そのためA大学で検討した結果「宿泊先の領収書(領収書が無い場合は宿泊を証明する書類)」、「電車等の搭乗券(搭乗証明書)」を添付することとなった。A部局ではこの扱いに従い「相手方署名入りの証明書」の添付を廃止した。
A部局ではある数億円の大型補助金が当たり、その事業の実地検査があった。その際、検査員より「実際に打ち合わせを行った証拠がない」という指摘があり、「補助金は大学ルールで執行することになっているじゃないか」と反論したものの「証拠がない」の一点張りであり、後日、証拠及び若しくは理由書を提出ということとなった。その旅費では十数名が百数件の旅費を執行していたため、全ての出張先に「打ち合わせを行ったという相手の署名入りの証明書」の作成を依頼し、証拠を集めて提出した。また、今後も証拠は提出するよう指導を受けた。
後々、他の大学でその補助金によるカラ出張が発覚していたため、検査員が厳しく対処したらしいという噂が流れた。
この実地検査を受け、A部局と大学は今後の取り扱いを相談したが、特定の補助金の実地検査によるものなので、全学ルールは変えることはせず、その補助金のみ追加で「相手方署名入り証明書」を集めるということになった。
A部局ではその補助金のみ、追加で書類を集めるようにしたが、その補助金の担当教員からいちいち取扱いが違うのは面倒くさいという抗議があったこともあり、旅費担当事務のBさんは自分の担当教員のほとんどがその補助金関係者(補助金8割、他2割)ということもあり、一律的に「相手方署名入り証明書」を集めることとした。
Bさんが親の介護の都合で退職することになり、他部局のCさんが後任に補充された。Cさんが引き継いだ時は(補助金5割、他5割)という担当であり、補助金と関係ない教員から「なんで「相手方署名入り証明書」が必要なのだ!!おかしいじゃないか」と抗議を受けた。
そして、その教員は河野ブログにローカルルールとして「出張の際に相手方署名入り証明書」が必要と書き込み、全国的にさらされた。
先週ラストに出てきた変態仮面(意訳)は・・・味方だった!!!
追手のリーダーvsビキニとレジスタンスリーダーの戦いに乱入してあっという間に追手リーダーを倒して、それ以外の追手も全部やっつけちゃう
ちょっと会話をすると「目の前に雪があったら雪玉を作る」程度の感覚で世界を寒くしたと言う
腕を切ってまで生きながらえていたことやその他もろもろの思いが去来し、アグニは呆然としつつも自然と思う
「こいつは今殺さなきゃいけない」
ついに出てきた真の敵!さあどうなるどうなる
おおいいじゃんいいじゃん面白くなってきた
こういうのでいいんだよこういうので
緩急あるからこそ今回みたいなのが映えてる?んなわけねーよ
私も普通じゃない。ぎりぎり普通のふり出来ているだけで、注意欠陥については思い当たる節ありすぎる。
とんでもないミスはまだないからいいんだけど。人に危害がいくのではと思ったらカウンセリング受けようとおもう。
ほんと悪い記憶ばかり思い出すのも悪い癖だわ。
勝手に決めつけている。医師の診断が・・・と突かれるとそうなんだけど、あとで自分から言い出したのが数人いるんだ。
健常者の単に周りを振り回すタイプとはまた違うんだ。そういう人とは違うなにかがある。
体の動作や会話の中とか。
自分で言ってくれた人の中にはちゃんと病気と向き合っていて、とてもいい関係が築ける方もいたんだ。
だからみんながみんなそうじゃない。
他人をカテゴライズしてしまう癖これはほかの人にも言われたしもっと反省します。
本当に自分の人格がおかしくなってるのは理解してる。倫理的にもおかしい。
それをわかっていても、うまくやってこれなかったのが悔しいしやりきれないし悲しい。
一度コミュニケーションが難しい相手とずっと対峙していたらアレルギーみたいになってしまったのかもしれない。
相手と一対一で接しなくてはいけなくなり集団から孤立し、周りからいろいろ噂をされたのが思春期にはきつかった。
その後、そういう方と出会う確率の高いところに身を置いていたから、いろいろあったわけだけど・・・。
人を叩くより前向きになるよう頑張ろうと思う。
相手の内に貯め続けた抑圧がついに破裂して私の頬を切り裂いた瞬間に感じた、あの胸の軋み、頭と身体に血が逆流したかのような感覚。
この断絶される瞬間を私は望んでいたのだろうと思わざるをえない高揚。
私が幸せにならないように行動を抑制妨害してくる自分が確かに居るのだと知覚する。
社会的にも家庭的にも破滅してしまったことだし、もう許して幸せにさせてはくれないものだろうか?
(できることなら、失ってしまった社会的地位や家族を再獲得したい。幸せになりたい。)
(ああでも、マイナスから立て直すというのは酷く面倒だよね。頑張りたくないから壊したくなかったのに。)
自分で自分の足を引っ張るという性質は、弱者の“言い逃れ”のための衝動だとか。
確かに、“私の妨害をしてくる私”とのバトルを最重要問題にしているうちは、頑張らないと掴めない理想の幸せ獲得へ立ち向かわない言い訳になる。
誰からだろうと全ての電話に出ないし、全てのメールを読まない・返さないから、「あなただけ特別無視している」のではないのだと言い逃れしている。
(しかし実際のところ、電話やメールなどの予告ナシに他者から切り込まれる行為に対して、めちゃくちゃ磨耗疲弊するという部分はある。)
『逃げ恥』原作の「なんだか 俺はいつも逃げている」からのくだり、すごく好きなんだよね。身に染みた。
(女だけども、感情移入自己投影するのは圧倒的に平匡さんの方で、みくりちゃんは理想の王子様に見えている。)
私だって、もう戻りたいよ。(でもどうすればいいかわからないんだ)
教会とかで懺悔をすることで、自罰衝動が癒されることもあると聞く。
試す価値あるのかなぁ…という考えを今こうやって増田にぶつけてる。
涙が流れるほど心震えるのは、“正しいこと”が肯定されるシーンと、美しい男性が自意識拗らせて破滅する物語、に触れた時。
“正しいこと”を正しいと認め合うことってさぁ、仕事してるとびっくりするほど少なくない? 私が働いていた環境下がブラックばっかりだっただけかな?
なんかもう生活しているだけで恒常的に信念とか倫理観とか自分の柱を削られまくっていたんだろうね…
綺麗事が王道歩いてる職場って何系に多いの? 転職するから教えてほしい。
美しい男性が自意識拗らせて破滅するっていうのは完全に自己投影の道ずれ慰めだよね。
(文字や絵のイケメン描写よりも、現実の美丈夫が演じている方がたぎる。)
彼らの嘆きがすごくよくわかる。わかるからこそ、“美しい彼らでさえも”救われないということに癒される。私たちの敵はこんなにも強大なのだと(だから負けても仕方がないのだと)。
たぶん女性の物語では駄目なんだよね。破滅する女性では“私の道ずれ”ではなくて私自身とイコールになり、ひとりぼっちになってしまうから。
ねぇ、私はただ、私が考え得る最善な行動をしたいだけなの。
それを自分自身に阻害される・阻害したいという衝動を消去したいだけなの。
どうすればいいの?
まあこの時期はもう募集終わってるところがほとんどだと思うが、お正月の巫女のアルバイト。
これは学生の応募がほとんどであり、さらに言えば、学生にとってはバイト先で痛い目見るのも社会勉強の一環とは思うんだが。
まあ神主様はとっても優しいので書いてあげよう。と思う。
<< 巫女バイト応募時の心得 >>
1:まず何で給料がクソ高いのかよく考えましょう
基本的に、巫女の正月バイトに出す給料というのはかなり高い。正月しか来ない一見さんに払う給与と考えるとさらに高い。
で。
お正月で。神社で。巫女の恰好して。ニコニコ笑って。参拝者にお札だのお守りだの渡すだけで。
一万もらえる。
常識的に考えてないわなあ。
そんな美味しい仕事をわざわざ学生に分け与えたりはしないわなあ。
無論、ひな壇芸人のような、並んでニコニコ笑っている若い女が境内の景色に欲しいからってわけでもない。
(正月にデカい神社の境内で巫女が大勢ニコニコしてるのがずっと伝わってきた伝統だからそうしているだけだろ、と言われれば確かにそうなんだが)
じゃあなんで給料がクソ高いのか。
皆が寝ている時間や年明けを祝ってパーリーしている時間に目ん玉おっぴろげて波打つ参拝者の群れと対峙し、朝が来るまでひたすら紙幣と神札類を交換し続ける過酷なお仕事だから給料クソ高いのです。
2:アルバイトに応募する時は連絡先を伏せず、ハンドルネームではなく本名を名乗りましょう
ここまでくるともう社会常識の話になってくるんだが、社会に出てない学生に社会常識持ってないのかよお前と言ってもしょうがない。
ちょっと話を聞いてみたい、詳しく話を聞いてみたい、そんな軽い気持ちで応募窓口に接触してくる方も大勢いらっしゃいます。それはいい。
話を訊いて大丈夫だと確信したら改めて個人情報を開示したい。そういう慎重さもこの現代社会をサバイバルする上で素晴らしい姿勢だと思います。
でも具体的な話を聞く段階なら連絡先くらいは伝えましょう。こちらから連絡できません。
ハンドルネームを名乗るのではなく本名でお話をしましょう。アナタのお名前呼べません。
だから別にいつも最後まで喋らなくても、周囲の人々はアナタの意向を察して先回りして対応してくれます。日本人はとっても親切。
でもお正月の神社にはいろいろな人が来ます。普段神社に来ない人も来ます。
要するに、上品で親切で敬意と謙譲を忘れない、普段神社に来るようなタイプの人々…それ“以外”の層も来るという事です。
参拝者相手に限らず、職員間においてでも、つまらない些細なコミュニケーション不足が致命傷となり得る状況があっさりと巡ってきます。
報告連絡相談はし過ぎるくらいで丁度よく、態度ははっきりしっかりと、言葉や台詞はちゃんと最後まで喋る。
バイトだから問題ないと思って責任感のない仕事をするのは別に構いませんが、もらう高い給料分くらいの責任感は持って働きましょう。
4:アナタがどれだけ巫女服が似合うか、どれだけ有能かに神社は一切興味ありませんが、アナタが時間通り出てきて求められた仕事をキッチリこなす事にはとても興味あります
巫女服風コスプレ画像。いりません。(←これから応募しようというバイト先の人間全員をコスプレと暗に切り捨てていくスタイル)
一般的な営利業務におけるアルバイトの募集に対してそれらのアピールは価値あるものなのかもしれませんが(…そうか?)、神社には必要ありません。
大昔から毎日毎日、決まった時間に決まった事を決められた通りに行い続ける神社において。求められる人材とは、まず決まりごとに従う人間です。
指示をよく聞き、決まりごとには従いましょう。
5:思い出ジャンキーにはならないでください
“このアルバイト経験はきっと、いい思い出になるはず”。 その志望理由だけを武器に正月という怪物と戦い抜こうとするのは、ちょっとつらいと思います。
“せっかくの珍しい経験だから、何かを持って帰らねば”。その意識高さが生かされるのは恐らく、もっとゆとりある忙しくない職場であるかと思われます。
業務に集中しきれない余念が渡し忘れや勘定ミスを生み、何よりもアナタの思い出をだいなしにしたり、意識高いアナタの自己評価に傷をつけたりします。
思い出はずっと後になって振り返った時に遠くから綺麗に見えるくらいでちょうどいいのです。目の前の業務に集中しましょう。
いや、本当に色んな人が来るもんだ。
今朝、起きて鏡を見たら、目の周りが青く腫れて、ほうれい線がくっきり、顔が丸く、疲れた顔の中年のおばさんがいた。
41歳の私。
ほんの1週間ほど前は
目の周りは腫れておらず、ほうれい線も薄く、顔もしゅっとしていて、疲れた表情はなかった。
ここまで変わってしまったのは、夫のDVが原因です。
全身あざだらけになり、肋骨が3本折れるまで殴られて精神をやられ休む暇も考える暇もなく
ただひたすら子どもたちや今後についてあちこち奔走し
それでも食欲だけは失ったら最後だと思い、半ば自暴自棄で食べまくっていた
その結果がこれです。
DVで歩くのもやっと、骨折もしてるから、走るのはおろかワークアウトもできず身体は衰える一方。
……と、昨日までは自分に自分で同情し、仕方がないよ、今はしょうがないと言い聞かせたのですが
それすら馬鹿らしくなりました。
諦めたのではないのです。
逆です、完全に逆。
DVに負けない。(あ、もう次やられたら死んでしまうので法的処置を進めている最中です)
人のせいにしない。
1週間で変わったものなら1週間で取り戻せるはず。
鏡を見た時は
ダイエットを開始したのが今年の2月。
とにかく充実していた日々から一転
また、どこにでもいるような、いや、もっと、見た目も心もだらしないこきたないおばさんに戻ってしまった。
悔しい。
悔しすぎる。
見た目では、きっと私以外の人はわからない程度の変化だけど
この、元に戻った身体がとにかく嫌だ。
変わります。
というか、また元に戻します。
1週間で。
決めました。
ちきりんの
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20161017
を見て、じゃあ政令指定都市はどうなっているんだと単純に疑問に思い調べてみた。
政令市名 | 市長名 | 生年 | 回数 | 経歴 |
---|---|---|---|---|
網掛け= | 女性市長 | 70歳以上 | 5期以上 | 中央官庁出身 |
札幌市 | 秋元克広 | 昭和31年 | 1期 | 市職員 |
仙台市 | 奥山恵美子 | 昭和26年 | 2期 | 市職員 |
さいたま市 | 清水勇人 | 昭和37年 | 2期 | 県議会議員 |
千葉市 | 熊谷俊人 | 昭和53年 | 2期 | NTT、市議会議員 |
川崎市 | 福田紀彦 | 昭和47年 | 1期 | 県議会議員 |
横浜市 | 林文子 | 昭和21年 | 2期 | 日産、ダイエー |
相模原市 | 加山俊夫 | 昭和20年 | 3期 | 市職員 |
新潟市 | 篠田昭 | 昭和23年 | 4期 | 新聞記者 |
静岡市 | 田辺信宏 | 昭和36年 | 2期 | 市議会議員、県議会議員 |
浜松市 | 鈴木康友 | 昭和32年 | 3期 | 衆議院議員 |
名古屋市 | 河村たかし | 昭和23年 | 2期 | 衆議院議員 |
京都市 | 門川大作 | 昭和25年 | 3期 | 市職員 |
大阪市 | 吉村洋文 | 昭和50年 | 1期 | 弁護士、市議会議員 |
堺市 | 竹山修身 | 昭和25年 | 2期 | 府庁職員 |
神戸市 | 久元喜造 | 昭和29年 | 1期 | 自治(総務)官僚 |
岡山市 | 大森雅夫 | 昭和29年 | 1期 | 建設(国土交通)官僚 |
広島市 | 松井一實 | 昭和28年 | 2期 | 労働(厚生労働)官僚 |
北九州市 | 北橋健治 | 昭和28年 | 3期 | 衆議院議員 |
福岡市 | 髙島宗一郎 | 昭和49年 | 2期 | キャスター |
熊本市 | 大西一史 | 昭和42年 | 1期 | 商社、県議会議員 |
こうして見ると、中央官庁出身者は20人中3人で多くはない。全員中国地方近辺というのは偶然か。
多いのは地方議員(6人)と自治体職員(5人)で合計すると過半数だ。
やはり地方の行政組織や選挙(政治)に密着しているのは強みなのだろう。
民間企業経験者は5人(うち2人はその後、地方議員経験あり)、女性は2人と、
ちきりんの言う「改革派」市長ばかりではないだろうが、都道府県知事と比較してみると概ね、
・若い
・期数が短い
・中央官僚は少ないが、政治・行政出身が多いことは変わらない。
というのは確かだ。
この結果として、非都市部と比べて、住民が利益を受けているのか、不利益を受けているのか、
あるいは、中央と対峙しているのか、そうではないのか、といったことは、よく考えてみると、
とても面白いのではないだろうか。それに、各都市の構造も一様ではない(大阪市と浜松市では中枢性が違いすぎるように)。
また、都市の中の都市である、東京23区の首長の経歴がどうなっているのかも、調べてみると興味深いだろう。
ぜひ誰か調べてみてほしい。
厳密にいれば匿名掲示板は便所の壁などではない
それは利用者の認識がもはや匿名掲示板を便所の落書きという認識から
ステマやマッチポンプの戦場であるという認識の方が大きくなっていってるからだ
インターネット黎明期はそれこそネットと現実は切り離されていたし、
今みたいに行ったところのない場所をGoogleマップで覗いてみるなんてことはできなかった
だが若い世代からは急激にネットと現実の境界線はどんどん薄くなっていっている
その一環としてSNSや匿名掲示板は便所の落書きとしての立場を放棄し
より旨味のあるステマや広告の温床としての役割を、現実の看板の役目を引き継ぐことになった
勿論、今でもそういった金銭や承認欲求を満たす場所として利用していない人にとっては
ただし、今バズることを意識した場合、便所の落書きらしからぬ受け手を想定とした書き方、
とても酷いものだという話をした
その気配りや配慮の無さを察したからこそ年齢による人生経験も恐らく少ない、
もしくは交流が無いために精神的な大人になり損ねたのではないのかという判断をした
それを踏まえたうえでお前に匿名掲示板を使う適性としては、
本質的な使い方、所謂自分をさらけ出す場として書きたいことを人目を気にせず書きなぐる場として、
利用した方がまだ同じ目的で利用しているユーザーからの同意や反響が得られると考えたからだ
勿論反響自体を目的とすると先のいった傾向と同じテクニックばかりを覚えたクズになる
そうではなく自分の内面性と対峙するためのソースとして他者からの視点や意見を取り入れ、
それを繰り返すことで内省は成熟に至り、他者を介在せずとも自己肯定することが可能になる
俺自身としてもそういったタイプのユーザーが増えた方がバズり狙い見え見えのクッソつまんねえ日記を読まされるより100倍得だ(ノーデータ)
それよりも俺のチンチンの形について聞いてくれ!と言わんばかりの勢いのある日記が読みたい
決して男が好きなわけではない
誤解ないように
――
長谷川豊による「自業自得の透析患者は殺せ!」との一連の言説からの炎上が、
イケハヤのエントリが提示した「あるべき倫理観」によって収束解消されてってる気がする。
けど、あんな御為ごかしで溜飲下げてる阿呆は運動と瞑想と睡眠と野菜とPCの電源落とした後にモニタ映る怪物との対峙が足りない。恐ろしい恐ろしい。げに恐ろしきは人の心。ああ今はスマホか知らん。靄靄するので書き出す。
長谷川の繰言もイケハヤの戯言も個人の責任論に終始している。本来いま議論し深めるべきは、来るべき苛烈な負債処理社会に向かう再分配制度の再設計、人命尊重至上主義からのその基盤となる思想、そのパラダイムにシフトする方策なのだろう。一連の話は関連するがまずはさておき。
それにこの文章は腐れトマトの与太の与太っぷり、味わい深さについて口上を述べるなんていう霊媒師の譫言だ。
――
” いやいや、そりゃあ、卑怯者はいるでしょう。当たり前です。この世から犯罪はなくなりません。”
まず、犯罪者と卑怯者は違う。これ混同すんのは真の与太者の思想だ。
元エントリを要約する。
~~
卑怯者はいる。けれど、「その人が弱者であるかどうか、卑怯者であるかどうか」は判断できない(他人からも自分からでも、)
だから、人々の倫理観を高めるべき。それは他者に対する疑念を捨て、他者を信頼すること。
「大半の人は正しく行動している」と信じることで、自分自身も正しい行動を取るようになる。
「みんなズルをしている」と考えている人は、当然ズルをしたくなる。
だから、ぼくらはまず、信じなければならない。
不正をする人がいても、ほとんどの人はそれを正しく、望ましく利用している、のだと。
~~
自分でも他人からでもその人=自分が卑怯者かどうか判断できないっていう考え方ね。
「その人」とは「自分」と交換可能じゃなければまずおかしい。ここでもう自分だけ特別なのか?
・自分からも他人からもその人または自分が×か○か判断できない、
もしくは、
・自分からも他人からも、その人または自分は×あるいは?、/じゃなければ○。
間違っているかどうかはわからないのに、正しいかどうかだけはわかる。現代詩かよ。
で、この「大半の人は正しく行動している」の「正しさらしさ;正しさみ」を判断している主体は誰?
これは、「大半の人は“ボクにとって正しいと思える”行動をしている」という程度の意味だ。
あるいは「みんなは、ボクから見て正しいと思える行動をしているなあ」って、阿が取れたら呆者だ。
ボクにとって正しいと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとって正しいと思える行動を取ることは容易い。
ボクにとってズルと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとってズルをするのは容易い。
お前はどこからどのようにその価値判断基準を得てきたんだよ。社会から、自分なりに、だろ。
だから大体において自分は正しいわけだ。なのに、差異があり、衝突もある。おかしいな、自分は正しいはずなのに。当たり前だ。みんな自分なりに様々な文化社会から得てるんだから。
みんな違うのです。なので絶対的な正しさはないのです、だから「自分からも他人からも価値判断されるものではないです」などと言うのは誤りだ。それは社会上、相対的に決まる。たとえば法律がある。人がどう思うかによる。
(アプリオリかどうかとかは知らん。;
このひとつの人間の心理、思考回路は、拙筆にも矛盾なく親しく感じられる。私はこの心理を、日常生活においてはあなたや、誰にとっても矛盾なく親しく感じられるものと思っているが、厳密には誰かにとって矛盾なく親しく感じられない可能性があることは理解している。)
――
たとえ、「ボクにとってさえ本当はズルいと思える行動」があっても、他人によってそれがズルかどうか判断される意味はなくなる。
また、ボクに良いこと・自然なことと思えることこそ、他人にとっても良いこと・自然なことだと思えるようにならざるを得ない。
――
ここで正しいとか間違ってるとかいうのは、人間社会での価値の判断だ。それは単純な話、みんなが間違ってるって言ってれば社会通念上の間違いだし、みんなが正しいって言ってれば社会通念上正しいってだけの話だ。
自分にとってどんなに正しいと主張しても、その社会において認められなければ間違いとされるし、自分にとってどんなに間違ったことだと主張しても、その社会において認められなければそれは正しいとされる。Xはなんでも良い。論理の式が真理なだけだ。
自分の価値判断は自由だし誰にも侵されない。考えてるだけなら自由だ。でも、文章をはじめ、行為にしたとたんに何らかの、他者からの評価、価値判断は免れ得ない。
――
懸命な諸氏にあられては既にお気づきのように、紐解けばこれまでの、逃亡トマト師への批判と齟齬ないだろ。で、お前らも揃いも揃ってサイコパスか。って言いたいためだけに書いてる。
――
ほとんどの人が「それ」を、自分にとって正しく、自分にとって望ましく利用しているはずだ。
自分にとって正しくなく、自分にとって望ましくない「それ」の利用が不正と思えるだけだ。
たとえば「それ」がなされなければ死ぬというとき、「それ」が自分にとって正しくないことだ、なんて言えるだろうか。
現に制度が整備され、第三者によって利用が認められ、「それ」なしでは自己保存本能が侵されるときに、「それ」を断てるだろうか。
そこに「卑怯者」はいない。社会通念上の価値判断を外してただ個人の生存から見るならば。
そうなったらみんな同じだよねと。
どんなイメージを持つかは自由だけど、基本的にはただ待ってるだけで自分の存在が脅かされるときに、何もしないで待っていられるのは、そりゃ馬鹿か釈迦か瞑想のし過ぎのどれかor全部だ。
誰もがみな生きることに必死だ。必死で生きてるんだから。必死なのに生きずにはいられないんだから。
死にたくないんだ、より生きたいんだ、卑怯もクソもあるかよ。使えるカードはみんな使うよ。
要するに生存競争なんだからと。それを敷衍してけば、バレなきゃなんでもアリだ。捕まらなきゃいいんだ。バレてもゴリ押せば勝ちだ。大義名分の下に持てる力全て使ってこの先生きのこるんだと。
だから、誰かに対して、あなた方だけはどうぞご遠慮くださいなんて言い出す奴は、お前こそ御免下さいだとよと焚べられるのも当然の流れで。
じゃあどうするのか?爺婆が自分で自分を火に焚べるのをまだかなまだかなって夕ご飯よろしく待つか。あるいはカタワらもまとめて誰かが知らぬまに処理してくれるのを見て見ぬふりするか。とりあえずどう考えても自業自得っぽい麻薬中毒者はガンガン殺してもいいかな。もちろん人殺しはどんどん死刑にしよう。「私達」が安心して生きられるようになるまで、どんどん減らそう。
ね、だいたいそんな感じで人類は衰退するんじゃないかな。トランプが勝って、核もまだいっぱいあるし。おそらくそのほうが最適なのかもね、地球全体にとっても。
自分で自分を制御できないんだから、AIに操作してもらい、バランス取ってもらうのが最後の頼みの綱ではあるよね。環境に適応して増殖し始めちゃって自分達では止められないんだもん。ライフゲームよろしく、絶妙なバランスを、自分たちの手だけで構築できるなら良いけど、どうやら無理っぽいし。ホーキング博士やイーロン・マスクが恐れてるのってそういうことだと思うけど、もうそれ以外に方法がない。自分だけ助かる方法なんてないし、結局みんな死ぬんだから、まあ、それでいいんじゃないかな。
その中のインタビュー記事を読んでいて、ふと感じたことがあるので増田に書き残しておきたい。
新海誠は、アニメ業界出身の監督ではない。手探りでアニメを製作してきた人間である。
これまでの作品のスタッフに、アニメ業界出身者がいないわけではない。
しかし、今回の「君の名は。」では、作画監督に安藤雅司が起用されている。
彼は、スタジオジブリ出身のアニメーターで、いわばアニメ業界の保守本流に属している人間だ。
安藤に対するインタビューの中では、「インディーズ」という単語が度々登場する。
曰く、「君の名は。」は、新海誠がインディーズからメジャーに至る転換点である。
安藤自身は、「君の名は。」の持つインディーとメジャーの二面性に、クリエイターとしての面白さを見出していたようである。
しかし、インタビューの端々に、新海誠がアニメ業界出身ではないことに起因する苦労が見えていた。
新海誠は、アニメ業界の保守本流、メジャーと対峙して、どんな気分だったのだろうか。
私は、安藤や田中のインタビューから、彼らの新海誠に対する「上から目線」みたいなものを感じてしまった。
こいつはアニメがわかってない、みたいな。
それは新海誠の出自を見れば当たり前であり、単純に経験不足であるから仕方がないものでもある。
もちろん、そのことが新海誠の価値を下げるものではないと、安藤と田中は述べている。
しかしなぜだろう、「君の名は。」において、新海誠だけ、一人浮いて見えてしまうのだ。
日本を代表するアニメーター軍団は、新海誠を遠巻きにして眺めている。
旧知のスタッフは、その後ろで新海誠を不安そうに見つめている。
神木きゅんは、狂信者のように新海作品の魅力を語り続け、川村元気が無言で頷く。
興行収入が増えれば増えるほど、なぜか切ない気持ちになってしまうのだ。
私の中の「新海誠」は、この狂騒の中、寄る辺なく漂うしかないのであろうか。
唯一の安息は、雲のむこう、約束の場所にしかないのかもしれない。
追記:
id:cider_kondoさん。確かにそうですよね…。なんというか、新海さんもまさかで安藤さんが作画監督をやってくれるとは思っていなかったのではないかとも思ったり。
id:fusanosuke_nさん。安藤さんから見たら確かにそうなんですが、新海ファンとしてはなんか悔しくなっちゃうんですよね。
id:sgtnkさん。それはすごいですね……。
id:ustamさん。星を追う子供も嫌いじゃないんですけどね……
id:liatris5さん。新海さんも新海さんなりに苦労しているので、本職の方に悪く言われるのは悲しいところですよね。
id:mementm0riさん。そうなんですよね。これまでの新海さんを見てるので余計に。細田さんも素敵ですよね。
ゲームというのは、
がそもそも食い違っているという問題があり、これをうまく帳尻をあわせないといけない。 GTA 4 では厭世的な主人公が設定されたがみんなは別に厭世的なプレイがしたいわけではないので、キャラクターのロールとプレイスタイルが全然あってないみたいな問題が発生した(一方 GTA 5 では三者三様のキチガイを主人公にすることでこれがある程度解決した)。 Fallout 4 の最終 DLC は自分で復興させた文明を自分で破壊する狂人にならざるをえない展開で批判を集めた(個人的な意見としてはショーン死んで狂ったみたいな世界観でプレイしたらヌカワールドは最高と思う)。
ポケモン BW ではポケモンを使い捨てにする N とポケモンと主人公は対峙することになるが、ゲームバランスがかなり難しいので自分も N 同様にどんどんポケモンを使い捨てにして周囲にうまく湧きが設定されているポケモンを捕まえまくらなければならないし、あまつさえ最後に手に入れた伝説のドラゴンはサザンドラにぶっ殺されることになる。
CoD:BO はこういう問題が以下の方法で綺麗に解決されている
ようするに、本来傍観者であるはずのプレイヤーの視点が、ハドソンという形でゲーム内に挿入されているから自然な形でゲームの中に入りこむことができるし、ダルい部分がカットされるストーリー的な理由もセットされている。
その上で更にストーリー上の工夫として
という要素を挿入することで、ゲームのプレイヤーが抱きがちな「主人公はなんでこんなもどかしい判断をするんだ」という違和感を、ジェイソン・ハドソンの違和感としてゲーム内に挿入し
という要素があることで、ゲームの主人公とは実は誰か別の人に操作されているに過ぎない、という問題すらストーリーの要素として消化される(であるからこそラストシーンでのメイソンのセリフに魅力がある)。
ゲームのゲームならではの制約をそのままうまくストーリーに生かしているこんな感じのゲームが他にもあればやってみたいので教えてほしいです。おわり。
って思いついた話。
夏コミも無事に終了したため「シン・ゴジラ」を鑑賞してきました。
ゴジラ氏をはじめとする個性の見える怪獣達に親しみを持っていました。
(当時はモスラが可愛くて好きでした)
更に同時期、我が家でフル稼働していたSSソフト「ゴジラ 列島震撼」をプレイしていたことにより、
私の中のゴジラ氏はすっかり愛着のあるキャラクターと化していました。
※「ゴジラ 列島震撼」…SS向けに1995年に発売されたRTSであり、自軍であるGフォースの兵器を用いて都市部に現れる怪獣を殲滅していくゲーム。
ちなみに難易度が糞高い。基本、複数の怪獣が出てくるステージは怪獣を同士討ちさせることに全力を注ぐプレイが必須。
世間では蒲田くんだなんだと呼ばれて人気の第二形態、あれ普通に恐ろしかったからね!
(しかし早くも二次創作にキャラクター化して落とし込まれる様に日本のオタクのたくましさを垣間見ました)
恐竜とも水生生物ともつかない見た目にエラから露出する赤い中身。
そんな得体のしれない生き物が血を流し、更に大きく進化していく。
最終形態を見たときには絶望しかありませんでした。勝ち目ないじゃん!私アイドル辞める!
今回のゴジラ氏は今までよりも身近な、より現実的な脅威として私達の前に立ちはだかったのです。
さておき、私エヴァも好きなんですね、腐女子的な要素を抜きにしてもすごく。
リアルタイムでは見ていなかったんですが、やはりそこは社会現象。
深夜の再放送などで目にする機会が多く、旧劇場版(区別のため、あえてこう表現します)の
TV版放送のときから新劇場版が上映される今の間にネットなどの情報網も発達し、
隠されていたメッセージや設定など、語り尽くされている感こそありますが
それを置いてなお今も人々の心を捉えて離さない作品だと感じています。
私自身漫画を描く人間なんですが、エヴァのカット割りや間のとり方などの作品に流れるリズムは
今でも参考にしています。
今回の「シン・ゴジラ」、ネットでも様々な方が仰っていますが、
シーン一つ一つの割り方やBGM、果てはヤシオリ作戦への流れ方など
ちゃんとゴジラという枠組みなんですけど、庵野監督の作品に落とし込まれている。
見方を変えれば公式の超金のかかった二次創作との解釈もできてしまうんですが、
多くの人を巻き込んだ一流のエンターテインメントであることは間違いありません。
日本映画の到達した「点」を目の当たりにできたことを幸せに思います。
ゴジラとは綾波レイなのではないか、という妄想、もとい仮説です。
無口で感情に乏しいという日本美少女界のテンプレートを不動のものにしたレジェンド。
彼女は劇中で主人公のシンジと触れ合うことで人間らしさを見せ、
かと思えば新旧劇場版では世界をヤバイ状態に落としこむお茶目さんです。
ミクロな部分で語ると旧劇場版の人がLCLへと変わっていく描写が有名でしょうか。
あの刹那の彼女は、人類それぞれの一番想っている相手へと姿を変えました。
そのキャラクターはシンジはじめ劇中の登場人物、そして庵野監督、
果ては我々観客の望みによって変化し、確立されているように感じるのです。
ゴジラは私が生まれる前から恐怖の象徴として、人類に対峙するものとして、
あるいは正義のヒーローとして、そのかたちを様々に変え今も愛され続けています。
その我々の望みを吸って息をする、ある種世相を反映するあり方に
私は綾波レイと同じ血が流れていると感じたのです。
恐らく今回のゴジラ氏もそうで、あれはきっと我々が望んだ姿なのです。
そしてこれからもゴジラ氏は我々の望みによってその姿を変えていく、
そういう生き物なのかなと。
どんな結末であっても受け止めるのはもちろんなんですが
なかなか希望の持てない現代社会で揉まれる腐女子は思うんです。
考えが浮かんだときはやばい!天才だ!と思ったんですが文章にまとめるとそうでもありませんでした。
お付き合いいただきありがとうございます。熱量を吐き出す場所がほしかったんです。
最後に、多大な熱量でこの作品を生み出してくれた庵野監督には本当に感謝です。
新作のヱヴァンゲリヲン、ご健在のうちに世に出していただければ嬉しいです。
どれだけでも待たせていただきます。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。
当時は慣れない土地で一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。
ドロドロしたものや葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的に被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。
今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。
そしてブログに文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。
その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定な身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベートの人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。
特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。
自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。
ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログに文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。
社会と対峙するつもりでブログに文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分が自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界に対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。
当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境や社会を糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。
あのときはブログに文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。
あるいはブログに文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義な行為であるかのようにすら感じていた。
それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。
当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境や社会にあるのだ、と決めつけていた。
そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。
今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界と自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。
社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。
そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実に自分の身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものからは乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。
現実に自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。
そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的な衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能な怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。
そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。
一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。
当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分を世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。
どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。
けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。
どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。
いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。
だから、あぁそうだ、自分はたまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。
以前、3日に一回程のペースでブログを書いていた時期があった。
当時は慣れない土地で一人暮らしを始めた時期で、その時に書いていたのは自分のなかのドロドロしたものや、自分の中で処理しきれない葛藤を書いていた。
ドロドロしたものや葛藤と書いたが、要は自分の置かれた境遇に対して一方的に被害者面をしながらひたすら周囲への恨みつらみを書いていた。
今思い返すとその時の自分は、自分の身の周りを取り囲む環境や、さらにその周りを取り囲んでいる社会というものを、何か得体の知れない怪物のようなものだ、というイメージで捉えていた。
そしてブログに文章を書くことで、その怪物とどうにか闘っていくのだ、と当時の自分は考えていた。
その後所属する組織が変わることで、社会から隔離されたような不安定な身分から、それなりに安定した社会的身分を得ることが出来て、プライベートの人間関係でも新たな要素が加わったりするなど、公私ともに安定した生活を得ることが出来たが。その一方で、ブログを書くという習慣はその頃から無くなった。
特に大きかったのは、プライベートできちんと話を聴いてくれる人が出来たことで、それ以来ブログを書きたいと思うことはほとんど無くなった。
自分が何かを悩み始めれば、電話なりLINEでいつでも聴いてくれる人が出来たので、1人で悶々としたものを内に抱え続ける必要が無くなった。
ただそれだけの話なのだが、当時の自分、血を滲ませるようにブログに文章をつづっていた当時の自分はそれを聞いて納得するだろうか。
社会と対峙するつもりでブログに文章を習慣的につづり続けるという行為は、公私の生活が安定し始めた途端に消滅してしまったのだと当時の自分が聞いたらきっと、じゃあ自分が自分なりに誠実に書いていたそれらのものは一体何の価値があったのだ、と感じて悲しくなったり、社会的身分が安定して私生活が充実したからといって、ひとりで世界に対峙する思考を捨ててしまったお前は腰抜けだなどと今の自分のことを責めるだろう。
当時の自分は、周囲への怒りを原動力にして自分を取り巻く環境や社会を糾弾し続けることが状況を前進させるのだと思っていたし、それが社会にとっても有意義なことだとさえ思っていた。
あのときはブログに文章をつづることがいずれ、この境遇から少しでも自分を進ませることにつながる、と考えていた。
あるいはブログに文章をつづることは、このクソ現実を変えるための有意義な行為であるかのようにすら感じていた。
それは有意義もなにも、自分が辛いのはこの世界を作ったお前らのせいだ、と自分が苦しいのを自分を取り巻く環境のせいにすることでしかなかったのに。
当時の自分は、自分が辛い状況に置かれることになった大本の原因は自分を取り巻く環境や社会にあるのだ、と決めつけていた。
そしてそういう思考の枠組みが、単なる思い込みであることに気がついていなかった。
今振り返ると、当時の自分は、自分を取り巻く世界と自分自身とを対立させてしか物事を考えることが出来てない。
社会vs自分、という構図でいつも物事を考えていたし、その二項対立に固執していたのだと思う。
そしてその二項対立から導き出される「社会」というものは、現実に自分の身の回りを取り囲む、顔の見える範囲での人との関わり方というものからは乖離した、自分の頭の中だけで作り出されたものだった。
現実に自分の周りにいる、顔の見える人たちとの関わり方に対して責任を果たそう、という考えを持つことは無かった。
そして現実に実際の人々と関わりを持つことを避けてきたために、自分の頭の中で「社会」というものは、ひたすら暴力的な衝動に突き動かされて自分のことを搾取する理解不能な怪物のようなものだ、という考えばかりが占めるようになった。
そもそも当時置かれていた環境は、今思い返すと、そんなに思い悩んで苦しむようなものだったのかすら怪しい。
一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に状況を悪化させていただけだったように今は思える。
当時の自分はどうしてそこまで頑なに自分を世界から切り離して物事を考え続けていたのだろうか。
どうしてそのような二項対立は公私の生活が安定することでいとも簡単に消し去ったのか。
けっきょく私は、自分の周りの世界に対して、どうして自分の欲求を満たしてくれないのだと怒っていただけなのだと思う。
どうして自分の欲求に沿った環境を用意してくれないのだ。どうして皆もっと私に構ってくれないのか。そう思っていた。
いくつかの偶然と幸福が重なって、私のその欲求のいくつかは叶えられた。欲求が満たされない頃は赤ん坊のように泣き喚いて不満を表明していたが、腹が満たされオムツを替えられると、また母の胸の中ですやすやと眠り始めた。
だから、あぁそうだ、自分はたまたま幸運が重なって、母乳で腹を満たされ湿ったオムツも変えてもらえたから、それで泣き喚くのを止めただけなんだ。
「うるさい、余は初陣であったのだぞ」
「はいは一回にせぬか。だいたい左翼に比べて右翼がふがいないのが――」
「まあまあ、そのあたりで……」
地味な増田家(五)の当主が最高司令官と軍師の言い争いを止めた。
彼がいたことに驚いて、二人は口をつぐむ。増田家(五)の当主は汁をおかわりした。
増田連合軍は敵味方あわせて三十五万の大合戦に敗れたが、そこからしぶとく反撃を開始した。
気がつけば、北の増峠は増田騎馬軍団に封鎖され、西は増田軍の本隊が、南は後衛部隊が何とか押さえている。
敵にゆいいつ残された東は増田島の脊梁山脈とその麓にうずまく樹海であった。
増田騎馬軍団は愛馬を屠って生肉を食べる状態になっても戦い抜き、北方異民族の連絡や離脱を阻止した。
南の後衛部隊も同様であり、彼らは補給線に繋がっているだけ抵抗が容易かった。
いわば増田連合軍は「常山の蛇」となり、増田騎馬軍団が叩かれれば本隊と後衛部隊が、
後衛部隊が叩かれれば本隊が、本隊が叩かれれば後衛部隊が味方を援護した。
そして、異民族軍が入り込んだ樹海の中には緒戦で追い散らされた武熊たちが巣くっていた。
蛮族は獰猛な熊たちに急襲され、眠れない夜をいくつも過ごした。
「やっぱり武熊は頼りになるのう」と手のひらを返す増田もいたが、
増田の誇る忍者たちもこの「狩り」に投入された。増田家(四)の軒猿たちもおり、オールスター状態である。
ある日、薄暗い森の中、武熊さんに出会った侵略者は恐ろしい恐ろしい勢いでしとめられていく。
「を書くを書く」
発泡する元ソースにはバミューダトライアングルにおける魔の海水のごとく浮力がない。溺れる蛮族は沈んでいった。
その隣では蛮族が熱湯落ちして煮られていた。
野営地を小さなかわいい影が走り回っていた。気がつくと、蛮族は寝首を掛かれ額に「うんこ」と札を付けられていた。
瞳を閉じた忍びが突撃してくる蛮族の前に立ち、至近距離で不気味な目をかっと見開いた。
目が合った敵の動きは硬直し、忍びが呪文を唱えると、一枚の何事か書かれた紙切れに化けてしまった。
ブチの忍犬は茂みに武熊たちを集めて語った。
「この円い鳥たちはな、みなワシが描いたのじゃ(手裏剣ください)」
興奮した武熊たちは習合すると合体して熱い鳥になり、羽ばたき一つで異民族を吹き飛ばした。
七連手裏剣と山彦手裏剣から逃げる蛮族の前に全裸の小僧があらわれた。
「けいお、しっこうする!!」
その忍者の姿は見るたびに次々と変わり、本性を確かめるすべがなかったが、忍者としては普通だった。
ある場所では夏なのに完全凍結した蛮族の死体が大量に発生した。
「うーむ、ふーむ」
「にゃにゃにゃにゃなーん(ご主人様の顔なんてもう忘れたのにゃーん)」
探検隊をも壊滅させる力をもった熊猫部隊は、その熊猫の一匹に数えられただけでも二百匹を超えた。
彼らは第六指で異民族をつかんでは投げつかんでは投げしていった。
その忍者は増田忍者には珍しく五方手裏剣ではなく、四方手裏剣を用いた。
いや、よく見るとそれは十字の切れ込みが入った乾物であった。
「たべものをしいたげるな!」
メガネをかけた好青年が木の陰から蛮族をみつめていた。みつめ続けていた。
「20162016!」
好青年がどこまでも追いかけてくるので、蛮族の世界はいつしかモノクロに染まった。
「~~」
「忍者検非違使です。本来、忍者の呼称が現れるのは近世になってからです。軒猿も同時代資料では言われていません」
森から延々と引き出される北方異民族の死体をみて、床几に腰掛けた当主のひとりがつぶやく。
匿兵衛が答えた。
「増田島におけるいくさとは本来このようなもの。それでも上様方はもっと御覧になりたいと仰せられるか?」
アルファマスダたちは揃って首を横に振った。
別の場所では女神?が現れていた。彼女は低音から高音までノイズのない深みのある声で言った。
「ぼいんは必要ないのです」
パァアアアアと光が異民族たちに突き刺さり、ヒンニュー教に改心した彼らは増田軍に降伏した。
「神だ!神が降臨された!!」とカラトラヴァ騎士団は大騒ぎした。
その時、増田左混はめずらしく言葉の通じる蛮族と対峙していた。
「俺は降伏しないぞ」
傲然と胸を張る敵を左混は一喝した。
「武装をつけようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない」
合戦から六日目に、晴れ時々鯖が降った。傀儡使いのまじかる系軍師はそれを吉兆と占った。
事実、北方異民族は完膚なきまでに壊滅したのだった。増田領(一)の奪還がなされるのは、一月後のことである。
自意識過剰の金髪縦ロール忍者は化粧に二年五ヶ月、自画像の角度とかの調整に一年が掛かってしまったため、参戦が間に合わなかった。
みやこで同時代史料「遊戯日記」を書き続けている公家は、伝え聞いた密林での戦いを以上のごとく記した。
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http://anond.hatelabo.jp/20160621021245
次回
彼バツ一子持ち(40代後半)
私バツ一子持ち(アラサ―)
「君と一生一緒に生きていきたい」と言われ 年甲斐もなく浮かれた。(あほ)
ところが先日
「籍は父親が死んでから入れよう。親父が生きてるうちは内縁関係でお互い労わり合っていこう」と。
「は?内縁の妻?」
ま・じ・か
彼曰く、実家とは疎遠で極力関わり合いたくないのと 実家と揉めるのが面倒だということ。
あのな
父親じゃない男と子供(娘10歳)を同じ屋根の下に住まわせる程、こちとら母親としての良心は崩壊しちゃいねーんだよ!
再婚でもそこは慎重にずっと考えて 迷ってたのに、内縁の妻かよ!
お前、どんだけ男としての心意気がねーんだよ。
これから先、世知辛いこの世の中をどうやって戦っていくんだよ!
お前がその姿勢なら こちとら協力しようがねーぞ?
第一、それ只の同棲じゃん!
それなら 今、母子で普通に暮らしていけるから そのままでいいよ。
子供にとっても 父親以外の男と暮らすストレスないだろ?(再婚の父でもあるだろうに)
彼に対する怒りもあるけど
仕事仲間から「お前は仕事と子供の為に生きた方が幸せになる」という言葉を噛みしめて
内縁とか ふざけんな!