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長谷川豊による「自業自得の透析患者は殺せ!」との一連の言説からの炎上が、
イケハヤのエントリが提示した「あるべき倫理観」によって収束解消されてってる気がする。
けど、あんな御為ごかしで溜飲下げてる阿呆は運動と瞑想と睡眠と野菜とPCの電源落とした後にモニタ映る怪物との対峙が足りない。恐ろしい恐ろしい。げに恐ろしきは人の心。ああ今はスマホか知らん。靄靄するので書き出す。
長谷川の繰言もイケハヤの戯言も個人の責任論に終始している。本来いま議論し深めるべきは、来るべき苛烈な負債処理社会に向かう再分配制度の再設計、人命尊重至上主義からのその基盤となる思想、そのパラダイムにシフトする方策なのだろう。一連の話は関連するがまずはさておき。
それにこの文章は腐れトマトの与太の与太っぷり、味わい深さについて口上を述べるなんていう霊媒師の譫言だ。
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” いやいや、そりゃあ、卑怯者はいるでしょう。当たり前です。この世から犯罪はなくなりません。”
まず、犯罪者と卑怯者は違う。これ混同すんのは真の与太者の思想だ。
元エントリを要約する。
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卑怯者はいる。けれど、「その人が弱者であるかどうか、卑怯者であるかどうか」は判断できない(他人からも自分からでも、)
だから、人々の倫理観を高めるべき。それは他者に対する疑念を捨て、他者を信頼すること。
「大半の人は正しく行動している」と信じることで、自分自身も正しい行動を取るようになる。
「みんなズルをしている」と考えている人は、当然ズルをしたくなる。
だから、ぼくらはまず、信じなければならない。
不正をする人がいても、ほとんどの人はそれを正しく、望ましく利用している、のだと。
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自分でも他人からでもその人=自分が卑怯者かどうか判断できないっていう考え方ね。
「その人」とは「自分」と交換可能じゃなければまずおかしい。ここでもう自分だけ特別なのか?
・自分からも他人からもその人または自分が×か○か判断できない、
もしくは、
・自分からも他人からも、その人または自分は×あるいは?、/じゃなければ○。
間違っているかどうかはわからないのに、正しいかどうかだけはわかる。現代詩かよ。
で、この「大半の人は正しく行動している」の「正しさらしさ;正しさみ」を判断している主体は誰?
これは、「大半の人は“ボクにとって正しいと思える”行動をしている」という程度の意味だ。
あるいは「みんなは、ボクから見て正しいと思える行動をしているなあ」って、阿が取れたら呆者だ。
ボクにとって正しいと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとって正しいと思える行動を取ることは容易い。
ボクにとってズルと思える行動をみんながしていると信じるならば、ボクにとってズルをするのは容易い。
お前はどこからどのようにその価値判断基準を得てきたんだよ。社会から、自分なりに、だろ。
だから大体において自分は正しいわけだ。なのに、差異があり、衝突もある。おかしいな、自分は正しいはずなのに。当たり前だ。みんな自分なりに様々な文化社会から得てるんだから。
みんな違うのです。なので絶対的な正しさはないのです、だから「自分からも他人からも価値判断されるものではないです」などと言うのは誤りだ。それは社会上、相対的に決まる。たとえば法律がある。人がどう思うかによる。
(アプリオリかどうかとかは知らん。;
このひとつの人間の心理、思考回路は、拙筆にも矛盾なく親しく感じられる。私はこの心理を、日常生活においてはあなたや、誰にとっても矛盾なく親しく感じられるものと思っているが、厳密には誰かにとって矛盾なく親しく感じられない可能性があることは理解している。)
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たとえ、「ボクにとってさえ本当はズルいと思える行動」があっても、他人によってそれがズルかどうか判断される意味はなくなる。
また、ボクに良いこと・自然なことと思えることこそ、他人にとっても良いこと・自然なことだと思えるようにならざるを得ない。
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ここで正しいとか間違ってるとかいうのは、人間社会での価値の判断だ。それは単純な話、みんなが間違ってるって言ってれば社会通念上の間違いだし、みんなが正しいって言ってれば社会通念上正しいってだけの話だ。
自分にとってどんなに正しいと主張しても、その社会において認められなければ間違いとされるし、自分にとってどんなに間違ったことだと主張しても、その社会において認められなければそれは正しいとされる。Xはなんでも良い。論理の式が真理なだけだ。
自分の価値判断は自由だし誰にも侵されない。考えてるだけなら自由だ。でも、文章をはじめ、行為にしたとたんに何らかの、他者からの評価、価値判断は免れ得ない。
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懸命な諸氏にあられては既にお気づきのように、紐解けばこれまでの、逃亡トマト師への批判と齟齬ないだろ。で、お前らも揃いも揃ってサイコパスか。って言いたいためだけに書いてる。
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ほとんどの人が「それ」を、自分にとって正しく、自分にとって望ましく利用しているはずだ。
自分にとって正しくなく、自分にとって望ましくない「それ」の利用が不正と思えるだけだ。
たとえば「それ」がなされなければ死ぬというとき、「それ」が自分にとって正しくないことだ、なんて言えるだろうか。
現に制度が整備され、第三者によって利用が認められ、「それ」なしでは自己保存本能が侵されるときに、「それ」を断てるだろうか。
そこに「卑怯者」はいない。社会通念上の価値判断を外してただ個人の生存から見るならば。
そうなったらみんな同じだよねと。
どんなイメージを持つかは自由だけど、基本的にはただ待ってるだけで自分の存在が脅かされるときに、何もしないで待っていられるのは、そりゃ馬鹿か釈迦か瞑想のし過ぎのどれかor全部だ。
誰もがみな生きることに必死だ。必死で生きてるんだから。必死なのに生きずにはいられないんだから。
死にたくないんだ、より生きたいんだ、卑怯もクソもあるかよ。使えるカードはみんな使うよ。
要するに生存競争なんだからと。それを敷衍してけば、バレなきゃなんでもアリだ。捕まらなきゃいいんだ。バレてもゴリ押せば勝ちだ。大義名分の下に持てる力全て使ってこの先生きのこるんだと。
だから、誰かに対して、あなた方だけはどうぞご遠慮くださいなんて言い出す奴は、お前こそ御免下さいだとよと焚べられるのも当然の流れで。
じゃあどうするのか?爺婆が自分で自分を火に焚べるのをまだかなまだかなって夕ご飯よろしく待つか。あるいはカタワらもまとめて誰かが知らぬまに処理してくれるのを見て見ぬふりするか。とりあえずどう考えても自業自得っぽい麻薬中毒者はガンガン殺してもいいかな。もちろん人殺しはどんどん死刑にしよう。「私達」が安心して生きられるようになるまで、どんどん減らそう。
ね、だいたいそんな感じで人類は衰退するんじゃないかな。トランプが勝って、核もまだいっぱいあるし。おそらくそのほうが最適なのかもね、地球全体にとっても。
自分で自分を制御できないんだから、AIに操作してもらい、バランス取ってもらうのが最後の頼みの綱ではあるよね。環境に適応して増殖し始めちゃって自分達では止められないんだもん。ライフゲームよろしく、絶妙なバランスを、自分たちの手だけで構築できるなら良いけど、どうやら無理っぽいし。ホーキング博士やイーロン・マスクが恐れてるのってそういうことだと思うけど、もうそれ以外に方法がない。自分だけ助かる方法なんてないし、結局みんな死ぬんだから、まあ、それでいいんじゃないかな。