はてなキーワード: 対峙とは
http://anond.hatelabo.jp/20160612134241#tb
この記事を読んでというわけではないけど、さっきオタク婚活パーティーに応募をキメた。
以前から女性の友人に勧められていたにも関わらず今一歩腰が重かったが、この記事を読んで
「これ俺でもいけるんじゃないのか?」
という謎の自信が湧いてきて応募に至った。
と言っていたがこう記事にもなるくらいなので実際そうなのだろうと思った。
ただこの記事読むと
「男はアレなやつが多いが女はみんなまとも」
という錯覚を受けがちだがんなこたないと肝に銘じて臨むべきだろう。
すげえのと対峙しても表情に出ないようにしないといけない。
同僚が研究室に小保方さんの本を持ってきたので、昼休みに流し読みした。つまるところ小保方さんは、研究そのものではなく、研究している自分が好きな人間だったのだと、妙に納得がいった。
そうゆう類いの人は 実は結構居る。学部四年、教わったばかりのエタ沈を嬉々として連呼していた同級生や、 修論で一丁前に能弁を垂れる後輩、 ラボ生活もベテランとなり後輩に対して ペダンチックになる同期など。しかしそうゆう人間は、基本的にはアカデミアには残らない。ポスドクを何年もやるまで自分がそうゆう人間であることに気付かなかった例はあまりにも有名だが (http://biomedcircus.com/research_02_13.html)、若くして見出されてしまい、気付くチャンスすらないまま世に出てしまった小保方さんの方が悲惨であり、少しばかり同情の気持ちが涌いた。
しかし一方で、STAP論文の発表会見の時の発言―うろ覚えだが、実験がうまくいかず夜通し泣いたというような内容―には、強い違和感があった。そんなことは生命科学の研究者にとって常であり、わざわざ世にアピールすることか、と。今更ながら、小保方晴子という女性理系研究者の強かさがよく現れた発言だったと思う。
学生時代にTop journalを出しても ポスドク先では良い結果が出ない、というのはよく聞く。うだつの上がらないポスドク生活を何年も続けていて、論文が出ずに苦しんでいる同業者もたくさん見てきた。研究は、概して困難を伴う時間がおおい。面白い研究テーマを見つけ、ポジティブデータを出し続け、仮説を証明する。仮説に裏切られることもよくあることで、実験に実験を重ね、時に才能や運と対峙しながら、ようやく一つの小さな真実に辿り着く。 研究している自分が好きなだけの人間には、コスパが悪すぎて到底耐えられない、楽しめないだろう。だからそうゆう人間は遅かれ早かれアカデミアを去って行くのだ。
小保方さんと言えば、してもいない実験のグラフを勝手にプロットしたり、顕微鏡写真を他所から拝借したりと、良識から逸脱していることを次々とやってのけた。だいたい、博士号の集大成と言える博士論文や、ましてNatureへの投稿論文ともなれば、実験の生データ画像・数値や、そのデータを取った日の出来事やその瞬間など、よりよく覚えているものだ。論文の推敲段階では目が腐るほどそのデータを見ることになるので、顕微鏡写真など細胞の配置具合まで自然と記憶に残る。足りない点を自分で描き足したり他所のデータを使い回したりしたことを、ケアレスミスでしたと言うにはとてもじゃないが説明が浅短だ。そしてこの言い訳こそ、データや実験には全く愛着がないことを証明している。
小保方さんが愛していたのはSTAP細胞ではなく、STAP細胞はありまぁすと言った彼女自身だ。そうゆう人間は決して珍しくはなくて、しかし大抵どこかの段階でしれっとフェードアウトしたり潔くコンサルにでも転職して経済的に大逆転したりするが、小保方さんはそのチャンスに出会わぬまま、まだ研究者としてはずいぶん若いうちに引っ張りだされてしまった。 寧ろ、派手な捏造をしたからこそ引っ張りだされたのだとすれば、 科学者を辞める契機を作ったのは彼女自身であり、必然であったと言えるのかもしれないが。
ネット(fujiponさんのブログ)でオススメされてたから読んだぜ!!
最初の登場人物がたくさん紹介されるところですげー混乱したぜ!!
初めてコピー用紙に人物名を書いて整理したぜ!!
馬鹿だぜ!!
寝転んで読んでたせいで、読み終わったときに体が痛くて痛くて大変だったぜ!!
どんどん人が死んでくぜ!!
読みながら誰が犯人か足りない頭で考えたぜ!!
「こいつ怪しいぜ」ってやつから死んでくもんで、お手上げアゲアゲだぜ!!
登場人物では、ロンバードが一番好きだぜ!ヴェラと対峙した場面は最高に痺れたぜ!!
一番嫌いなのはブレントのババアだぜ!!マジ堅物は勘弁だぜ。でも、朝食作ってくれてありだとーだぜ!!
『ズートピア』はオーウェルの小説『動物農場』のディズニー流のアップデートである。舞台こそ農場という本来動物がいるであろう場所から都市、街に移されて、動物たちの文明化もはるかに進んでいる。また、田舎と都会という多層的な背景を採用し、人間社会の複雑さがさらに反映され、戯画化されている。戯画化で思い出したが、古くから動物を擬人化させて描かれた物語は数多くあり、日本でも代表的なのはその名の通り、『鳥獣戯画』であろう。その中でも『動物農場』がモチーフとされていると断定できるのは、こと権力の逆転が物語の節目として描かれているところだ。さらに、『動物農場』の結末が、「動物主義」という思想を掲げながら搾取的な社会構造が生み出されたのは、人間とほとんど見分けがつかない"2本足で立って歩く豚"であることを考えると、もはや『ズートピア』は『動物農場』の続編的な作品ではないのかと思えるほどだ。
しかし、私が主に取り上げたいのは『ズートピア』と『動物農場』の相違そのものではない。『動物農場』のアップデートであるなら、そもそも『動物農場』という作品が生み出された背景がそうであったように、『ズートピア』もまた同様に"子供向け"に戯画化されたものではない、ということだ。つまり、ある一定のディズニー並びにハリウッド作品を観る際にどうしても想起してしまう"勧善懲悪"とも呼ばれる単純な力関係に留まる作品として論じてしまうのは、この作品が描いている(我々が住む"先進国"社会に酷似した)社会形態のを、グロテスクなものとして描いているという事実を見落としてしまう、ということだ。
「グロテスク」が具体的にどういう性質を指してるかは後に詳しく取り上げるとして、まずは『動物農場』との相似を洗い出そう。『動物農場』では既存の権力の持ち主である人間を打倒しようと農場内の長老である豚が呼びかけた後、その長老と同じ種である豚が主導となり人間の打倒と、権力の奪取を果たす。権力の逆転が描かれた後、そこからさらにその権力が腐敗し、かつての権力の持ち主と酷似していく様を描いている。『ズートピア』でも同様に、権力の持ち主である肉食獣を追放し、草食獣が権力を得る。しかし、その後の社会様相の腐敗として描かれるのは、『動物農場』のそれとは違うものである。この肉食獣が追放される背景は、砂川秀樹が「男色は近代社会化以前には受容されていた」という言説に対する反論として、近代社会以前から否定的に捉える見方があったことを挙げ、それが近代化社会以降にゲイに対する「病理フレーム」が形成されたことの背景にあるという指摘していたケースと酷似している。すなわち、ズートピアという街にあてはめるなら、冒頭の子ども劇において近代化・文明化というものを"進んだもの"とする言説が背景にあるからこそ、その言説が暗に導き出す"野生"というスティグマが、肉食獣という属性に表象として充てられた、というわけだ。草食獣であり小動物であるジュデイが警察官を、肉食獣の子どもが税の査察官を目指すということを、それぞれの属性と"相反するもの"への志向(だからこそ"自由"や"可能性"の提示となる)として挙げられていること自体に、すでにこの世界を形成する言説の中に、後に肉食獣が「病理フレーム」の中に収められることを暗示している。
『ズートピア』と『動物農場』でそれぞれ権力の腐敗の在り方が違うのは、『ズートピア』が主題として据えているのは、差別が未だ存在する社会においての振る舞いであり、また、そうした社会と対峙することの難しさであるからだ。だが一方で『動物農場』と共通しているのは、たとえ既存の社会構造の不当な点を糾弾したものであったとしても、新たに権力に座する者が、特定の属性を以てして社会的地位を不当に貶めたり、あるいはその逆に持ちあげたりすること。つまり、権力の立場にあるものが、いち個体が否応なしに複合的にまとうあらゆる属性の中から任意の属性を持ち出したり、あるいは見出したりして、それを根拠に権力側の良いように用いることそのものが社会の腐敗を招く、と指摘している点にある。こうしたケースは今日の"先進国"社会においても行われている。そのあらゆるケースの中でも、創業者であるウォルト・ディズニーが、かつて「赤狩り」と呼ばれたハリウッドにおける排除運動に加担していたという記憶を持つディズニーにとっては、なおのこと無縁ではないだろう。なぜなら、その赤狩りこそ、『動物農場』が受容されたのと同じ背景の中で起きた現象なのだから。つまり、『動物農場』が、"反スターリニズム、反ソ連"として受容された時代のイデオロギーの中に回収された結果招いた、「赤狩り」という別の形での全体主義化を経た後の問題提起をする為、違った様相の社会の変化を描く必要があったのだ。では、その必要とはいったいどういう形のものなのか。
まず、そもそもの『ズートピア』(原題も"Zootopia")というタイトルから振り返ってみたい。誰もがその語感から、動物園("Zoo")とユートピア("Utopia")を連想するこのタイトルと、それが充てられた都市の姿や本編内で取り上げられている問題とを照らし合わせると、この名前が一種のミスリードを引き起こそうとしていることは誰の目にも明らかだろう。しかし、このユートピアに対するミスリードを行おう、という意図が製作者側にあることを考えると、一方でユートピア思想そのものを全く信じていないであろう、という可能性が高いものとして浮かび上がってくる。つまり、この作品世界はそもそも、主人公にとっての、あるいはそれに感情移入するであろう観客が考える様なユートピアを描こうという意図の下では成り立っていない、と考えることも決してできなくはない。では、それなら反対にディストピアを描こうとしていた、とするのもまた違うだろう。それこそオーウェルが『動物農場』の後に出したディストピア小説『1984年』で問題としているような、監視カメラシステムを駆使した管理社会は決してネガティヴなものとしては描かれていないし、作中で市長と並び権力の象徴として現れる警察だって、最後にはジュディに味方する。ズートピアに張り巡らされている権力構造が、一様に悪しきものに還元されるものとして描かれていないところを見ると、『映画クレヨンしんちゃん モーレツ!オトナ帝国の逆襲』において大人たちが夢中になる昭和の街並みのように、ユートピアを模したディストピアを描いている、とするのものまた違う。では何を志向していたかといえば、ただひたすら身も蓋も無く、我々"先進国"における社会の現在の姿を炙り出すことにこそ本作の力点がおかれていたのではないだろうか。
オーウェルが『動物農場』で描いたようにユートピアへの志向がある種のディストピアを生み出し、また『1984年』でディストピアは一方で誰かにとってのユートピアであることを描いてきたこと、さらに言えば今までのディズニー作品やハリウッド作品が数多く生み出してきた作品へ寄せられた批判を鑑みれば、主人公ないし観客のユートピアを描くことで何かの可能性を見出そうとする、虚構の作家なら誰もが夢見る境地との決別こそが、今のディズニーが走っている地点ではないか、とすら思える。だとするなら、管理化・全体化社会の兆しとして表象される監視カメラとの関係、後半で肉食獣と草食獣とが分断されてしまったと言われる前から存在する、小動物と大型動物との"棲み分け"をあからさまに感じる都市デザイン(マジョリティとマイノリティの形成はマクロでいうところの都市デザイン、ミクロでいうところの建築様式という、物理的な段階からすでに反映されている)、朝礼時には着席を強要しながら、大型動物に合わせて設計されてるが為に、ジュディが座ると署長の顔すら見えないサイズ感の机とイスが、ジュディが"認められた"後も変更は行われず、それどころかジュディとニックに同じイスを共有させること(1人分の席に2人が座らされているのである)や、かつてジュディに偏見としかいいようがない対応をしてきたことに対して何も悪びれもしなければ、むしろジュディに対して冗談を飛ばすほどの親密さを示してみせる警察署長の態度、そして何より権力に対して何も批判的な態度を持てそうにない警察という組織が持つホモソーシャルな性格をあけすけもなく描いているのは、それらに対して作品内で明確な批判が行われないということの薄気味悪さも含めて呈示しているのではないか。
だとするなら、本作が「子供向け」であるが為に、権力に対して批判的な態度を伴っていない、とするのは、少々早計ではないだろうか。確かに、ディズニーは子どもを含めた幅広い年齢層の支持によって成り立っている。しかし、その中には子供と呼ばれる低い年齢層の観客もいれば、それこそ子供の頃からディズニーに触れ続けた高齢の観客だっている。そうした状況の中で、こと任意の年齢層の観客だけ取り出し、それにのみフォーカスをあてようとするのは、作品がもつ性質を見誤ることに繋がるおそれがある。「子ども向け作品だからしょうがない」とするのは、すでに子供の在り方を規定づけるものでしかないのみでなく、未だ巨大資本によって子供たちが社会へ"馴致"されるべきだとすることへの別の形での肯定にも繋がる。しかし一方で、ディズニーが「子供向け作品」の地位に就いていることも、決して無視していいものではない。ならば、なぜディズニーはずっと「子供向け作品」であり続けたかを問わねばなるまい。結論から述べれば、それは「グロテスク」だからである。
これまで述べた「グロテスク」の定義は、マサキチトセが自身の論考のタイトルに用いた『排除と忘却に支えられたグロテスクな世間体政治としての米国主流「LGBT運動」と同性婚推進運動の欺瞞』 http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/23399 に依っているところが少なからずある。しかし、ここで取り上げたい「グロテスク」については、美術的観点からのものである。どういうことかというと、ディズニーがアニメ製作者としての名前を不動のものにしてからずっと追及してきたのは、デザインと動きの"かわいさ"である。"かわいい"とされるものは、その多くが直線的なイメージではなく、曲線的なイメージによって、硬質なものではなく、柔軟なイメージによって構成される。これらの美学の根本を辿れば、動物や植物をあしらった、古代ローマの美術様式の一つである、グロテスク様式に辿り着く。ツイッター上で「モフモフ」と公式アカウントで形容された『ズートピア』を形成する美的様式は、根本からして「グロテスク」なものなのだ。この2つの「グロテスク」がピタリと重なり合うのは言うまでもなく、主人公ジュディの造形や仕草であり、冒頭に警察を夢見る彼女に暴行を働いたキツネ、ギデオンがウサギが(警察官を目指すに値しない)弱者たる徴として挙げた「鼻をヒクヒク」させる動きが、権力関係が決定的に転覆される場面の直前に配置されていることからもわかる。
「かわいい」は弱者の徴である。それ故に、その「かわいい」を極めたディズニーは、今日のアメリカを象徴し、公的な権力からも寵愛を受ける地位を築き上げた。つまり、『ズートピア』は、その地位を利用しつつ、現在のアメリカをはじめとする先進諸国の社会形態の描く"多様性"の脆さと「グロテスク」さを描くことと、またそのヒントや問題は、明白に誰かに取り上げられているわけでなくとも、世界のいたるところにある、この2つを描くことを目論んでいたのではないだろうか。その一例として、コロンビアの女性シンガーであるシャキーラ演じるポップスター・ガゼルのモデルとなっている動物であるブラックバックは、オスにしか角が生えていないこと。つまり、ガゼルはトランスジェンダーのポップスターであるということが、作品内で明確に言及こそほとんどされていないが造形として現れていることから見ても、決して拭い去れるものではないと私は思う。
会場に着いたのは17時半頃。マルイ2階入口からエスカレーターで9階まで上がり、階段で11階まで登りました。
階段で登っている時は驚くほど静かでシンとしていて、本当に公演があるのか?と不安になってしまうほどでしたが、11階に着いた途端ざわざわとにぎやかな声が。
会場手前では入場を待っている人や、椅子に腰掛けてのんびり待っている人でいっぱいです。
奥に進むとトレーディング商品を購入した人達が交換をするスペースがあり、ごった返していました。
そこを通り抜けると物販フロア。ここではチケットを持っていなくても買えます。
まずは事前に買ったトレーディングブロマイドセットを引き換え。
次に物販コーナーに並びました。と言ってもまったく混んでおらず、すぐに会計へ。
在庫は売り切れなし。素晴らしいです。
パンフと個人ブロマイドをいくつか買い、持ってきたバッグにしまって開場を待ちました。
トレーディングブロマイドは何が来ても大事にしようと思っていたので交換はしませんでした。
18時になり入場開始。
ですが、18時30分までは椅子には行けず狭めなロビーで待つので、30分まで外で待機していた方が良さそうです。
今日の席は2階席3列目通路寄りです。シアター1010の2階席は初めてでした。
シアター1010の公式サイトをよく見ると分かりますが、転落防止の柵があります。
ここはなぜか上手とセンターブロックの間、センターブロックと下手の間の柵だけ高く延長されています。
2階席で通路寄りになるとこれがもれなく視界に入ります。
公演が始まるとまっっったく気になりませんでしたが。むしろ脳が柵だけ透過処理をしてくれました。
19時、公演開始です。
冒頭は本能寺炎上から。明智光秀と森蘭丸の対峙から始まります。
二人のやりとりを眺めるように宗三左文字が登場。
声にびっくり。ゲームで聞く声によく似ています。役者さんすごい。
オープニングはまさかの刀剣男士そろい踏みによる生歌でした。うわーかっこいい!!
あ、これはにやける…!と頬の内側を噛んでぷるぷる震えてしまいました。
声が!びっくりするほど声優さんに似ています。声帯コピーの技を持っています。確実に。
所作が美しく、優雅。役どころは山姥切国広のサポート兼保護者のような相方と言った感じ。
序盤で「だいに、第二部隊が…」と台詞を噛んだ三日月でしたが、初日ならではの緊張感ですね。お茶を飲み、酒を飲み、茶菓子を食べ、マイペースな三日月ですが、戦うシーンは流石の一言。とにかく麗しい。ひらひらと狩衣を捌き階段を飛び乗り、立ち回ります。
・山姥切国広
これで綺麗なんて言うななんて言う方が無理。美しい。
ボロ布を常に頭からすっぽり被ったままですが美しい。
殺陣も見事。鞘を盾のように使う戦い方に技を感じました。
初期刀で当初は近侍であったものの、過失から近侍を降りている経歴持ち。審神者からまた近侍の命を受け苦しみながら奮闘する役です。ゲームをよく勉強してこられたのか、話し方が声優さんにいました。
・宗三左文字
これまた麗しい!!佇まいが可憐で優雅。けれども殺陣は迫力満点。
2階席からでもたまに見える素足ががっしりといているのが分かります。
本能寺で悩み、苦しみながらも不動行光を支える役。
・江雪左文字
戦いは嫌いですと言いつつ敵をなぎ倒す姿は鬼神。
小夜を案じ、左文字長兄としての優しさを見せる江雪。
終始取り乱すことなく常に落ち着いた動作が印象的でしたが、仮に真剣必殺されたらみんな泣くしかないと思いました。
・小夜左文字
スーパーアクションスター小夜ちゃん。短刀を操り、足技を繰り出し、バク転します。
一番身のこなしが素早いです。観ていて楽しい小夜ちゃん。
・薬研藤四郎
宗三の相方的な立ち位置。へし切り長谷部に対し「その名前、俺は嫌いじゃないぜ」と言ったり、不動行光を気にかけたりとコミュ力高し。
・へし切長谷部
一番面白い人。馬当番をこなします。近侍に再任命された山姥切国広にジェラシーします。
紅白戦では燭台切光忠と対戦。大柄な光忠に対し、斬り合いを軽やかにこなします。
信長を守るために光秀を討とうとする不動を、背後から斬りかかろうとする姿が印象的でした。
・不動行光
本作のキーパーソン。演技の一つ一つが迫真に溢れていて素晴らしかったです。
再開した蘭丸を抱えあげてくるくる回転する不動くんは本当に本当に嬉しそう。
序盤はよたよたしていた不動くんが、終盤で強く成長した姿に感動。
・一期一振
物腰穏やかな話し方に加え、凛とした殺陣。立っても座ってもサマになる一期。
台詞はさほど多くないのですが、無言の演技が出来る方だとお見受けしました。
殺陣はダイナミックで鮮やか。ラスト、傘を持って挨拶をする仕草が紳士然としていて素敵でした。
・鯰尾藤四郎
唯一の脇差だから年少組に入るのかと思いきや、小夜と一緒にいる時は保護者らしく振る舞う鯰尾。
脇差と足を使い素早い身のこなしで演じる殺陣が印象的。背後から忍び寄る鶴丸に振り向かないシーンはアドリブかな?はきはきとした物言いがゲーム版とよく似ています。馬糞は投げません。5月7日が役者さんのお誕生日とのことだそうで行きたかったなあ。兄弟だからか一期と一緒に戦うシーンが多いです。
・燭台切光忠
食べ物担当。毎公演、彼が提供する食べ物は違うそうです。その場面は毎回アドリブですね。
殺陣はダイナミックそのもの。にもかかわらず格好良さを忘れない戦い方が燭台切らしいです。鶴丸とよく一緒にいます。仲がぎくしゃくしそうな本丸を見て二人で紅白戦を提案するなど年長刀としての役割を認識しているようです。
・鶴丸国永
重くなりがちな本丸の賑やか担当。落ち込む山姥切の肩を叩いて慰めたり、不動の甘酒を欲しがったり、細かい演技が光ります。
戦闘は、太刀を肩にかけて飄々とこなすかと思えば豹変して雄々しく闘います。
敵に放つ掛け声が一番荒々しく、男らしさを感じました。
◼︎個人的に印象的なシーン
迫真の演技は圧倒的。死んでいるはずなのに生きようとし、まだ尚信長を守る姿は
・光秀全般
光秀でないと刀剣乱舞としての本能寺の変を掘り下げられないからですね。
蘭丸と二人で登場したカーテンコールは一際拍手が大きかったです。
・三日月と山姥切
織田刀が織りなす本能寺のテーマと並行して進んでいたテーマだと思います。
三日月が月を見て「おぬしも月を照らす陽の光となれ」と山姥切に投げかけるシーン。
それで山姥切は近侍の決意を固めます。その後窮地に陥った三日月の助けに入り山姥切は
「月(=三日月宗近)を照らす陽の光となる!」と宣言します。三日月は「ずいぶんすすけた陽の光だな」と応えるわけですが、熱い。少年漫画のようです。
これ以前の場面の紅白戦で一騎打ちになった時もしつこく追いかけてくる三日月に山姥切が「このクソジジイ!」と叫んで立ち向かうシーンも熱いです。
ラストで三日月が自らの破壊を匂わせる台詞がありましたが、あれは現実にならないとほしいと思います。
刀ステの山姥切国広は仮に三日月が折れたら二度と立ち直れない気がします。
◼︎全体の感想
2.5次元は初めての鑑賞ですが、エンターテインメントに優れていて素晴らしい出来栄えでした。
初日は友人が当選してくれて入れました。6日に自力当選したのでもう一度観劇できます。
今回は二つのメインテーマを重点的に観たので、次回は別視点から楽しみたいと思います。また思うところがあったら感想を書きます。
魔法師グリーシャの騎士団シリーズを読んだ。展開の早い海外のジョットコースターファンタジーは終始ハラハラドキドキさせられっぱなしで、楽しめました。
個人的にこの小説は表紙のイラストがパワーを発揮してる気がした。魅力的で活き活きとしたキャラクターが、素敵な色合いのイラストに喚起されて、頭のなかで明確にイメージ出来た。
一巻からばんばん死人が出るし、強大すぎる闇の主に立ち向かわなければならない展開上、血なまぐさい状況に置かれたりにっちもさっちもいかない窮地に追い込まれることが何度もあった。
主人公は結構独りよがりな少女だし、自暴自棄になったり、間違いも後悔もたくさんしたりするし、最終的にはどうしようもない袋小路に突き当たってしまう。
かすかな希望に望みをかけて敵に立ち向かうんだけど、あまりにも圧倒的すぎるから追いつめられてしまう。
それでも、闇の主と対峙する間にたくさんの出会いがある。信頼や協力関係を結んで、一時は裏切られて、這い上がって共に歩み続けて、かけがいのない友情が芽生えていく。
仲間を育むという大きなキーワードが作品全体に流れていた気がした。悪いやつはいるけど、嫌なやつが少ないのも印象的だった。彼も辛かったろうなと思う。
また恋愛関係の発展も見逃せない。存在が違いすぎるがゆえのすれ違いがもどかしくて切なくなる。作中にいい男が多すぎるんですよね。闇の主を含めて。
女の子同士の友情も見ていて微笑ましい。一巻はギズギズしているのに、三巻だとほっこり笑顔になれる。様々な苦難を乗り越えて育まれる思いって本当にいいなあって覆った。
それにしても、海外のヤングアダルトに登場する女の子は恋愛に積極的な気がする。とりあえずぶつかって気持ちを露わにしてるような印象がある。
そんなに読んでないから反例はたくさん出てくるだろうけど、思いを伝える人が好まれているのかなって思った、
眠い。
ひどい事件や事故の会見映像のときに、真面目に会見している人にたいして「なんでニヤニヤしながら会見しているんだ」と憤慨する人がいること。
確かに微妙な表情に見える人はいる。というか多くの人はそうだと思う。
表情が普段から固い人は、緊張時に頬に力が入って口角が少し上に固定されてしまうことがある。
あるいは、もともと口角が上がって見える形の唇の人もいる。成宮なんかは分かりやすい。
私にとっては、そういうタイプの人が固めの表情で会見しているようにしか見えないんだけど、憤慨している人たちには、そういう顔の人たちがあからさまに嬉しそうな顔をしながら説明しているように見えているのだろうか。
例の青黒ドレスみたいに、ある微妙なバランスの表情を見せると、嬉しい顔に見えるという人と、厳しい顔をしているように見えるという人が、完璧に二分されてしまうという現象が起こりうるのかもしれない。
私が怖いなと思うのは、そういう人たちが憤慨して暗い表情を要求するっていうことは、演出を欲しているんだなと感じるところだと思う。
つらいニュースだから悲しく話して欲しい、責任者なのだから申し訳なさそうな顔をして欲しいと考えている。
それって割と無防備だと思う。
自分がそういう欲求に振り回されているという自覚がないと、強い演技力と対峙したときに、簡単にコントロールされてしまいそうだなと思う。
<当記事は『バットマン vs スーパーマン』の重大なネタバレを含みます>
男「……どうだった?」
女「……いや?」
男「……ん?」
女「だめでしょ……完全にだめでしょ……『バットマン・フォーエバー』よりダメだったでしょ……映画版『DOOM』よりダメでしょ……」
男「客あんま入ってなかったね」
女「むしろ観るべきでしょ。みんな観るべき。オススメしてもいいくらい。汝が敵を知る目的のために観ろと」
男「俺ならオススメされてもいやだね。単につまんないってだけじゃない。おれこれ嫌い。大嫌い」
女「上映中寝てなかった?」
男「寝れないでしょ。だってうるさすぎだし」
女「お酒でも飲んでたらアイゼンバーグの演技もすこしは真に迫って見えたかもね」
男「各所でいじられてるようだけど、バットマンを演じていたベン・アフレックは悪くなかったよね」
女「そうそう。ベンアフは悪くない。髪型もキマってたし、何より雰囲気がいかにもブルース・ウェインって感じだった。
演技よりは脚本がひどかった。
キャラクターが浅薄すぎ。登場人物全員。『マン・オブ・スティール』に出演した面々でさえそう。
初登場のバットマンについては前からファンの注目を浴びることはわかってたはずでしょ。絶対に『ダークナイト』三部作と何が同じで何が違うのか、比較されるのは避けられない。
それが何? あっちにふらふら、こっちにふらふら。『おれは孤独だー地下にひきこもるぜー」とかなんとか基地でやってた次のカットには、パーティで社交してる。スターク社長かっつーのお前は」
男「スタークのプレイボーイキャラはアル中の素でやってるけど、ウェインのは演技だよね。社交用の仮面をかぶってる。だからさ、アフレックが悪いんじゃないんだってば」
女「そう、全然悪くないんだけど」
男「そもそも俺、ザック・スナイダーの作品嫌いなんだよね。『エンジェル・ウォーズ』もクソだったし。何あのメンヘラの妄想。
今回のBvSには彼の監督としての弱点がほぼ全面に駄々漏れてしまっているように思う。
そりゃ、いいところもあるよ。ときどき素晴らしいアクションシーンを取るし、火の表現にはこだわりを感じる。観てて時々はいい映画に思えてくることもあるんだ」
男「そう撮影監督が良い。スーパー・ビーイング同士のバトル描写は新鮮だったし、ダークな雰囲気にもしっくりハマっていた。この暗いトーンというのがくせ者で、ノーランのときはちゃんと機能してたんだよね。
ところがワーナーはノーラン以外にもノーランみたいなトーンで描くことを求めてしまった。ジョークは入れるな。笑えるようにするな、ってね。『グリーン・ランタン』はその最たる犠牲者だよ。
ワーナーは、250億ドルもの予算を任せるにあたってスナイダーならノーラン路線を継承できるだろうと考えた。そして脚本家たちに今後シェア・ユニヴァースを展開できるように膨らみをもたせたホンを書かせようとした。
一方で、出資者たちが求めたのはマーベル/ディズニーみたいなヒーロー映画だったのさ。そして……」
女「ちょっと待って。『アベンジャーズ:AoU』も似たようなもんでしょ。AoUは『やらなきゃいけないこと』が多すぎた。ちょうど、マーベル・シネマティック・ユニバースが次のフェイズに移行するための大事な試金石だったから、AoUはむりくりなプロットにならざるを得なかった」
男「そうだな、たしかに同じ問題を抱えていた。
けど、AoUはなんとかそれを乗り切ってそれなりの支持を集めただろ。
理由は二つある。
一つ、AoUの監督だったジョス・ウィードンがザック・スナイダーより優れた監督だったってこと。
二つ目、各キャラクターが均等に、特に彼らの感情が均等に仕込まれていたってこと。
なんたって、どのキャラクターも『自分の映画』でキャラを掘り下げてきたんだからね。
ストーリーが多少薄かろうが、誰だってアイアンマンを知ってるし、ソーを知ってるし、ホークアイを、フューリー長官を知っている。
事前に他の積み重ねてきたキャラ造型を"収穫”すれば、『アベンジャーズ』ではキャラの説明に要する時間を節約できる。ところがBvSときたら……」
女「しょうがないところもあるよ。ここ十年のマーベルとDCのシネマティック・ユニヴァースを比べてみてよ。マーベルが順当に年輪を刻んできたのに対して、DCはリブートや路線変更や主役俳優の交代が相次いで、積み重ねなんかほとんど残らなかった。
DCはBvSただ一作品だけでマーベル映画十六年分の歴史においつこうとしているのよ」
男「そうだね、マーベルは長い時間をかけて準備してきた」
女「マーベルには一つの確かなメソッドが確立されている。新キャラが紹介されて、今後どう他のキャラと絡んでくるのか、そういうのが映画全編を通しで観なくてでさえわかっちゃう。セリフやカメオを拾ってるだけでもね。マーベルは観客を巻きこむ術を心得ている。
女「BvSの冒頭はすごくクールだった。
『マン・オブ・スティール』のバトルシーンをウェイン目線の別アングルから再解釈する。これはすごい良いアイディアだったと思う。そこまではほんと良かったんだけど、その後がもう陳腐の極み。
恍惚とした表情で天国に召されるブルース少年を観た瞬間、がっくりきたでしょ」
男「脚本がとにかく浅いし弱い。ファンは批評家の『暗すぎるトーン批判』を批判してたけど……」
女「だって楽しくないんだもん」
男「いやそれは問題じゃなくて」
女「問題でしょ」
男「いや『バットマン・ビギンズ』も楽しくはなかったよ」
女「あれは楽しいものだったたよ。『楽しい』の定義が違うな。『ビギンズ』はいっぱいアクションシーンがあったし、エキサイティングだった。次から次へといろんなことが起きて観ていて飽きないんだ。
でもBvSは『楽し』くない。キャラがお互い見つめ合ってるだけでしょ」
男「うんああまあ確かにそうだな。トロいんだよな全体的に。いらないシーンが多すぎるし、なおにプロットは穴だらけ。ワンダーウーマンが登場してからはアクション映画としてすごかったけれど」
女「それは本当に『すごい』と形容していいものかな。単にその前の部分より『マシ』だったってだけじゃない?
アフリカの村で大量虐殺事件が起きました。それでスーパーマンはみんなを救えるわけじゃないんですってんならまだわかるけど、『おい! スーパーマンが村人を撃ったらしいぞ!」ってのはどういうこと?
スーパーマンが銃で人を撃ったりするわけないだろが!
なに疑ってんのあの世界の人らは。
だいたいフィンチ議員が意味不明すぎるんだよ。なんであんなキレてるの? 彼女はレックス・ルーサーに対してどういう感情を持ってるの? 結局何がやりたくて動いてるの?
マーベル映画のキャラたちはそれぞれの拠って立つところが明確なのに」
男「ストーリーも感情も描写不足。演出もそんなによくない。まあ、結局しかし脚本なんだよな」
男「一番がっかりしたのはメインイベント――つまりタイトル曰くの『バットマン vs スーパーマン』のバトルだ。
バットマンが優勢で――スーパーマンを負かしつつあったんだけど」
男「いいんだよ。いいんだけど。
よし、このままバットマンがスーパーマンの野郎を吊るして処刑だ! ってなったところでさ、いきなりバトルを中断するわけ。
それでバットマンが『マーサって俺のママの名前じゃん! お前、ママを知ってるのか! じゃあ……友達ってことだな!』――仲直り!
……おいおいおい待てよ、と」
女「(爆笑)」
男「××すぞと思ったね。さすがにね。そして始まる例の回想シーン」
女「ほんともうかんべんして欲しいよね。もういいじゃん。もう観たくないよ。だってみんな知ってるでしょ? 『バットマンのクソ両親は殺されました』って。何回それやれば気が済むのって話。バットマンには悪いけど」
男「ドゥームズデイ倒したあとさ、二つの葬式が平行して描かれるじゃん。映画の演出の方向性としては、観客にあたかもスーパーマンがマジで死にましたみたいに誘導してるんだろうけどさ。
観てるほうは『ねーよ』ってハナから白けるよな。
スーパーマンの死で終わるスーパーマン映画がどこの世界にあるっていうんだよ。
いいか、アメコミの世界には絶対生き返らないキャラが三人いる。
そのうち二人はブルース・ウェインのお父さんとお母さん。
残りの一人はスパイダーマンのベンおじさんだ」
女「その三人、ほんとうんざりするくらい死ぬよね」
男「必要な死ではあるんだよ。そのヒーローのオリジンの深い部分に関わる死なんだから。この三人以外の奴らは逆に死んでも生き返りまくる。スーパーマンも当然生き返る。
だいたい『ジャスティス・リーグ』の予告見てるんだから、スーパーマンが死なないことくらいわかるだろ!!!
それなのに十分そこいらもちんたら葬式やって悲しいですね、って何の茶番だ!1!!」
女「『ジャスティス・リーグ』の前準備としてもガタガタだよね。
何あの十五年前のドラマみたいなしょぼいインターネット描写は」
男「おじいちゃんにとっては電子メールはいつも秘密めいてみえるんじゃないんですか」
女「ダイアナ・プリンスがバットマンを出しぬいてハイテク機器を盗みとるじゃん。それでいて、『あら大変。これわたしじゃ解読できないわ』ってなんだそれ女子か。写真をバットマンから送ってもらうために盗みを働くってどんだけ遠回りなのよ。いまどきアマゾネスでも Amaazon.com で買い物できるっつーの」
男「あー」
女「で、さあ、その機密ファイルにアクアマンが出てくるじゃん。沈没船から出てきてトライデントを振りかざしてワーっなるやつ。観てて、ほんとくっだんねーと思った。
あの場面にDC映画のひどさが凝縮してたね。脚本家の怠慢の象徴だよ。マーベルだったらクビ間違いなし。
繰り返しになるけど、マーベルのキャラはどこへ向かって収斂していくのかはっきりしているし、一方でファンが喜ぶ要素をよくリサーチしてる。だから私たちはネットで話題をシェアしたりリツイートしたりいいねしたりするんだよ」
男「もちろんマーベルだって完璧じゃない。現場と上層部がクリエイションの方向性の相違から何度もトラブルをおこしている。エドガー・ライトやウィードンが去ったのもその一端だ。それでも比較的いいものを作り続けている」
女「一番不出来なマーベル映画でさえ、一般的には『良い出来』だよね」
男「公平性を期して言うなら、DCはテレビドラマだと面白いエンタメを作れるんだよね。
いっそ、ドラマをそのまま映画にもってくりゃあいいのに。俳優もさ。そっちのほうが断然いいものが撮れるはずだよ」
女「アメリカではテレビの俳優は映画に出演しちゃいけないって不文律が存在するっていうよね。真偽はわかんないし、都市伝説みたいなもんだけど。
でも、もしDCがそのルールを自社の作品に適用してるんだったら……こんなにアホなことはないよ。
DCがモタモタしてるあいだに、ここのところマーベルもNetflixとのタッグを組んで『デアデビル』を筆頭にすばらしいドラマを量産しはじめた。
マーベルならテレビと映画をクロスオーバーさせるくらいのことは軽くやってのけるだろうね」
男「マーベルドラマはマイナーキャラも上手く扱っている印象があるね。『ジェシカ・ジョーンズ』なんか知名度のわりにはよく練られた、丁寧なドラマだよ」
女「ルーサー役のジェシー・アイゼンバーグの演技はどう思う?」
男「なんであんないけ好かないガキになっちまったのかな。レックス・ルーサーじゃなくて『レックス・ルーサー・ジュニア』に変更されたのは何か説明があってしかるべきだったんだけど、そういうのもなかったし」
女「パパに虐待されて育ったから、スーパーマンにコンプ持つようになったみたいな感じだったよね」
男「アメコミの悪役っていうのは前もって完成されたキャラクターだから、実は性格俳優とあまり相性がよくない。良い役者と人気キャラの両立はむずかしいんだ。
アイゼンバーグがどんなにがんばって悪役を演じてみても、観客は『ああ、いつものジェシー・アイゼンバーグだな』って思っちゃう。
一番の問題はロン毛のまま出しちゃったことだよな。
まるで『バットマン vs スーパーマン vs マーク・ザッカーバーグ』ってかんじ」
女「わたしが懸念してるとこもそこ。BvSのアイゼンバーグは一人だけ別の映画で演じてるみたいだった。腰抜けぞろいの他のキャラクターと比べて明らかに浮きまくってたわよ」
男「シリコンバレーで調子こいてるIT起業家を悪役にしてみるか、程度の発想でしかないよね」
女「アメコミ映画のヴィランとしはキャラが貧相だった。ダークサイドに落ちるほどの動機もなければ、ヴィランとしてのヴィジョンも備わってない。
男「たしか、DCのライターで……ジェフ・ジョーンズだったかな? が言ってたんだけど、
『レックス・ルーサーがスーパーマンを憎む理由はこうだ。(ルーサーによれば)スーパーマンのせいで人類は自信をなくし、堕落してしまった。人類は自分たちが作り出した問題の後始末をスーパーマンに任せっきりにしている。
それこそが、ルーサーが『スーパーマンは危険だ』と主張する理由なんだ。ルーサーはスーパーマンを打倒することで人類に強さを取り戻させようとしているんだ。彼はヒューマニストなんだ』」
女「なるほど」
男「ところがこの映画では……」
女「あんまり頭もよく見えないよね。思わせぶりに暗躍しといて、バットマンとスーパーマンを対峙させるお膳立て以上のことはなんもやってない。どんな隠し玉が出るかと期待させといて、四十分前に観客に見せたもの以外は何も出てこない」
男「まあ、さすがにバットマンとスーパーマンがマザコントークでもりあがるなんてのはルーサーも僕達も予想できなかったけどね」
女「おもわずふたりともクリプトナイトで刺したくなったわ……」
男「ドゥームズデイとのバトルシーンはかっこよかった。ワンダーウーマンが登場した瞬間は『これこそ俺が見たかった映画だ!』と興奮したよ。二時間映画を観ていて初めてグッと来た瞬間だった」
女「ワンダーウーマンは余計な描写がないのがよかったよね。『ジャスティス・リーグ』が今から心配だな。DCのクリエーターたちって、自分たちがどこへ向かって何をしてんのか理解できてるのかな? 現場から上層部含めてさ」
男「最初の計画どおり、ジョージ・ミラーに監督させりゃあよかったんだよ。ジョージ・ミラーの『ジャスティス・リーグ』……想像しただけでワクワクしない?」
女「するする。私としてはベン・アフレックでもよかった。でもバットマン役として参加することになったからって、監督からは降りちゃった。もったいない」
男「周囲の非難を恐れたんだろうね。自分で監督して自分で主演するスーパーヒーロー映画って、どうしても嘲笑を免れないだろうし」
女「気にすること無いのに。ベン・アフレックはバットマンのキャラメイクを繊細に達成していた。声もちゃんとバットマンやってたし、演技もすばらしかった。そういや、ジェレミー・アイアンズのアルフレッドはどうだった?」
男「そこそこって感じ」
女「でも、そこそこ止まりでしょ。アルフレッドにしては暖かみに欠けていた。アイアンズがやるとアルフレッドってよりかはルシアス・フォックスっぽいよ」
男「あー、『GOTHAM』は観てる? ドラマの」
女「いや?」
女「『ゴッサム』はねえ……観たかったんだけどさ。CMでウェインの両親が死ぬシーンをやってるのを観てさ……ちょっと耐えられなかった」
男「三十分前からお前そればっか言ってるな」
女「別に言いたくて言ってるわけじゃないっての」
男「批評家から叩かれまくってる反動か、BvSを過剰に擁護する人たちがいるね。『人生で最高の一本』だとか」
女「何言ってんだか」
男「そういう人には『君はもっと映画を観る必要があるね』としか言えないね。人生で他に観た映画がこの前の『ファンタスティック・フォー』だけなのか? 『市民ケーン』を観てみなさいよと。どっかからダークスリラーの名作リスト探してきてさ、かたっぱしから鑑賞すればいいよ。そうすれば暗い世界観に相応しいキャラ造型やストーリーメイクが理解できるはずだよ
世の中にはもっとすばらしい映画があるんだって、増田にも知ってもらいたいな」
参考:
https://soundcloud.com/rottentomatoes/batman-v-superman-is-rotten
わかったよ。スポニチに「誘拐監禁犯は女子高生アニメにハマってた」と書かれたんだろ? その通りだな、アニメは関係ねえ! 俺たちアニメファンは犯罪者じゃねえ! 全く正論だよその通りだよ主張してかなきゃいけねえよ。
でもな、いま大声でそれを叫んでTwitterのTLを埋め尽くして、お前ら、忘れてね? いまこの瞬間、誰が被害者で、何に注目すべきかを。
スポニチが書いて、まあつられてワイドショーもアニオタキモいぐらい言って、それでお前ら、いまこ、オタク文化がこれだけデカくなってアニメが主要産業になった時代に、何か被害を被るか? 表現が委縮するか? 四半世紀以上前の宮崎勤事件の頃みたく奇異の目で見られて犯罪予備軍のレッテル貼られて生きづらくなるか? 日陰者の立場に追いやられていくか?
おう、表現規制や委縮のリスクはある。防いでかなきゃなんねえ。でも今大声で連呼すべきは、そ・こ・じゃ・ないだろ! いまメディアの向こうにいる被害者の苦難を想像しろよ。同じような被害に遭ってる子供がほかにもいるかもしれないことを想像しろよ。犯罪者の物理的・心理的暴力に屈せざるを得ない、未成年の弱者がいることをリアルに想像しろよ。叫ぶべきは、そんな被害者を、俺たち社会の一員が、いかに救っていけるかってことだろよ。たとえ実社会から疎外されてると言ってもよ! ネットだって社会なんだから!
オタクを犯罪者と決めつけるなと連呼される傍らで、(そいつらはオタクじゃないかもしれんが)平然と「一人で外出もできてネットも見られて、この女ってただの家出少女のビッチじゃねえの?」とか「家に幼女がいればそりゃ力づけられるわー」とか言って、それに頷いてる奴らがいる。女という性別に恨みがるのかもしれんが、それを一般化して少女にも問題があるように決めつけたり、それこそまるでエロ漫画のように、「所有物としての少女」をリアルで肯定したり。いま叫ぶべきは、それは違う! ということだろ!
犯罪の現場で男性と女性が対峙したときに、女性が感じる「体力じゃぜったいに男にかなわない。逆らえば殴られるかもしれない。逃げても追いつかれるかもしれない。従順にするしかない」という恐怖を想像しろよ。成長期にある少女を、歪んだ支配下に置く状況の異常性を想像しろよ。それが一人の、自我と人格を持った一人の人間の、健全な成長にどんな影響を与えるか、想像しろよ!!
事件は終わったが、被害者の「被害」は終わってないんだ。PTSDは永久に続くんだ。それを助長しようとしてるのは、メディアスクラムをやるマスコミだけじゃない。被害者がアクセスできるネットの中で、犯罪に対する理解力も想像力もなく、被害者をまるでフィクションのキャラのように好き勝手言って弄んでるやつらもだ。そいつらに届く声で全力で、それは違う! と言わなきゃなんない場面だろΖガンダムの最終回のカミーユみたいに! いやマジで!
本当の被害者を貶めるような発言はほっぽらかしといて、いざ被害が俺たちオタクに及ぶかもとなれば、一斉に自分たちが被害者でございと大合唱。お・か・し・い・ん・だ・よ! 被害者は、どこだよ!
「女子高生のアニメ見てれば犯罪者予備軍ですか?」ってわーってるよ違うよ。でもな、忘れんなよ。お前らハルヒに嵌って、グッズ買って、んで、ハルヒのエロ同人買わなかったか? ハルヒを性欲の対象として見なかったか? 俺もふたばでハルヒが男に組み伏せられてむぐーって言いながら、「孕めっ!」て思いっきり中だしされる絵(シチュちょっと違うかも)を見て興奮してヌいたよ。それは俺の中の、お前の中の、暴力性だ。フィクションに転嫁させた性的な暴力性、女性に対する暴力性が、なにかの拍子にリアルに向いてしまうかもしれないって、リスクを忘れんなよ。
自分が、性欲と暴力性を宿した男であるが故に、リアルで女を傷つけてしまうかもしれないという事実から、俺たちは逃げられないんだ。どんなに男女平等で、経済的に強い女が闊歩するようになっても、一対一で向き合えば男は女を組み伏せられる。その力を忘れんなよ。コミックLOの「ロリコンだから、少女を守る」とかいう標語を「ハハ、カッコいいじゃねえかLO」とか他人事のように言うなよ。俺はリアルの女に興味ないからとかリアルから見放されてるからとかうそぶくなよ、おっぱい触ってみたいと思ってる癖に。そんなリアルな性的欲求に、相手の女性を「自我のある人間」として見ない傾向が重なった状況は、危険なんだ。1万人のそういう傾向を持つ人間のうち、1人が暴走したとき、暴力は、犯罪は、起きてしまうんだ。だったら母数の1万人を、なるべく減らすように、いま叫んでかなきゃならねえだろが! 俺たちが!
一歳になったばかりの子を連れて出かけていると、
かわいいわねぇ、今が一番いい時期でしょ
可愛くて仕方ないでしょ
と言われる。
子どもが何歳が聞かれて答えると、
一番かわいい時期だね
と言われる。
そうなのか。
こんなに大変なのに?
子を産んでから、常に顔が怖い、
らしい。わたしは。ダンナが言っていた。その怖い顔で子に対峙されることが嫌だと。
自分の時間思うようにいかない子どもを育てることは私にはとてもストレスで。
毎日、どうやって子どもとの2人の時をやり過ごしたらいいか悩む日々だ。
仕事復帰して、でも子育ての比重はあきらかにダンナより私のほうが多いことが不公平だとおもう。
もう戻ってはこない、1人の気ままな時間が、ものすごく恋しくて。
子どもを産んでほんとによかった、子育ては楽しい、なんて思えない。
そんな内容を友人に話すと、そう感じる女性は少数派だと言われた。
その旨をダンナに話し、こんな私でごめんねと謝ると苦笑いされた。
あぁ、ダンナもこんなのより、子育てを楽しめるヒトのほうがいいよね、肯定されたよね、と思う。
こんなにも向いていない。
仕事のほうが何百倍も楽だ。
そんな女で申し訳ない。
私には子育ては無理だ。
こんな母親に育てられる子はかわいそうだ。
私には無理だ。
あっという間だった。
新卒で入社した大手SIインテグレータ子会社で、技術の無いSEとしてどうにかこうにか12年働いた。
技術は無いというよりは、まじめに身につけず逃げてサボった帰結。てめえが悪い。
幸いクビにはされなかったため、長くいた職場で培ったノウハウをもとに惰性で働いてきた、だけ。
目の上のたんこぶ・老害として会社に寄生する以外の選択肢は見えなかった。
目標無く上京して19年が過ぎ、家業が畳まれる(俺が継がなかった)タイミングで、帰郷した。
親の手伝いをして、切りがよいところで労働再開できんもんかな、と。
あわよくば、ネットで稼いだりできんもだろか、と。
ぼんやりと考えていた。
休みたかったのもあるし、たまりにたまった本を読んだり、買ったまま観てないDVDだのゲームだのを消化したかった。
政治やら法律やら歴史やら経済やら、社会と対峙したときに不足している知識を補充し、己の意見も固めたかった。
資格も取りたくなった。
が、まあ、何一つ、かたちにならないよね。
働いてたって、できる人はできる。
もともとできないものが、突如としてできるようにはならんのだよ。
目から鱗が落ちたり、雷に打たれたように衝撃を受けたり、いろんなものごとがつながっていったり・・・しないんだよ。
逃げずに生きろよ、お前。終わっちゃうよ?
インパール作戦って補給を無視した愚劣な作戦って世間ではよく言われる。
でも、これが当時のビルマ(ミャンマー)方面軍がビルマの防衛をするにあたっては最善手だったって話はしちゃいけない雰囲気あるよね。
当時日本が抑えてたビルマっていうのは日本軍にとって放棄、撤退できない大きな二つの理由があった。
それはビルマの後方に位置する東南アジアの資源地帯の防衛と中国軍へのアメリカイギリスによる支援ルート(援蒋ルート)の遮断。
特に後者は南方への戦力の引き抜きで弱体化しつつあった支那派遣軍を守るのにどうしても必要だった。
ここを突破されたら支援物資の米式装備で固められた中国軍が襲いかかってくることになる。
さて、この状況でビルマ方面軍が持ってる戦力といえばろくに機械化されてない歩兵師団と航空師団1つの合わせて10個師団。
ビルマの広大さから見ればあまりにも少なすぎる戦力だ。対峙するイギリス軍(15個師団以上)と中国軍(10個師団相当以上)に対して戦力は質量ともに劣勢だった。
このビルマは北部はともかく中央部はだだっぴろい平原が広がっていて自動車が動きやすい。そレに対して鉄路がすごく貧弱。(日本軍は部隊の迅速な移動は鉄道に頼りきり)
これがなにを意味するかって言うとまともに戦ったら制空権もなくて動きののろい日本軍は機械化された連合軍に粉砕されるってことだ。(実際にされた)
だから最前線を戦車や飛行機が活動しにくい北部のアラカン山脈まで伸ばす必要があった。そしてその拠点となりうるインパールが必要だった。
つまりあのまま防衛していたら負けることを牟田口や陸軍の上層はちゃんとわかってたんだ。
でも、上述の2つの点から絶対に退くことは出来ない。だから無謀とも思えるようなインパール作戦が行われた。
補給無視と言われるがちゃんと必要量の補給要請はしてたけどそもそも補給部隊がないから結果的にああなってしまった。
それを少しでも埋め合わせようとしたのが食用野草の研究や水牛を連れていくという付け焼き刃の策だった。
牟田口が非難されるべき点で言えば撤退の判断が遅れてしまったことただひとつ。
ただこれにしたってインパール作戦が行き詰まった戦局を打開するという政治的な打算で必要以上に持ち上げられて
実情を知らない上層部から督戦の激励が矢継ぎ早に来てしまったせいもある。
つまり支援はしないけど攻略はしろという無茶ぶりが来てたわけだ。
たしかにこの撤退判断の遅れのせいで大多数の死者がこの時点で発生した。
でもあなたはこの状況下で撤退の判断を果たして下せるか?俺はたぶん同じ状況なら同じことをした。
このようにインパール作戦は撤退が不可能な選択肢がない中での最善手な炎上プロジェクトを指揮した中間管理職と、それが落ち目の企業の期待を集めてしまったことによって悲劇が起こった。
ビルマを放棄する=中国軍が強化、そして後方の資源地帯が脅かされる。
というどちらも出来ないという完全に詰んでいる状況だったのだ。
それをなんとかしようとしたのがインパール作戦で状況的にも最善の策だった。
もう10年は前になるだろう。
修学旅行を控えた高校生の私は、自宅のトイレでタンポンと対峙していた。
旅行と生理が重なりそうだと母親に相談したところ、用意してくれたのである。
本番の前に練習してみるとトイレに行ったまではよかった。
説明を読んでタンポンを取り出し、当てがったところまでもよかった。
当時まだ生娘であった私は、タンポンを入れる穴の知識はありながらも、自分の身体の一部として実感したことはなかったのである。
ここに、ここに穴があるはず。
タンポンの先で股間を探り心持ち強く押してみるものの、なんだか痛いし、怖いし、本当にここに穴があるのか?
おそるおそる指先で触れてみるものの、それらしきものを見つけられない。
焦りと羞恥心でひたすら顔が熱かったことを覚えている。
結局、場所がわからないから教えてくれ、なんて母親に言うこともできない私は、とぼとぼとリビングに戻り、
入らなかったわ、とだけ報告したのだった。
ありがたいことに母も特にその話題を続けず、私のタンポン初体験は終わった。
そうして月日が流れ、初めての彼氏ができた私。
ところが彼氏も女体について無知であり、穴を見つけられなかった。
仕方なく私は恥ずかしながらも、とある夜に鏡をのぞいて、穴と対峙したのであった。
よかった。私に穴はあった。
こんなことを思い出したのは、たった今私が初めてタンポンの挿入に成功したからだ。
外出先で、入ったトイレがフタのついた洋式トイレのとき、真っ先に気になることは、そのトイレの蓋が開いているか閉まっているかどうかだ。
おなかが急降下で駆け込んだトイレでさえ、必死にベルトを外しパンツを下げながら、「あ、ここもフタが空いてる。。。」という考えが頭を過ぎってしまう。
トイレに入る直前と座った直後にはそんなことはすっかり忘れてしまうのだが、あのフタが空いた洋式トイレを目の前にした瞬間だけ、どうしても気になってしまう。
ほんのわずか一瞬の対峙なのに、フタが開いている姿に、そのままスッポリうっかり飲み込まれてしまうような錯覚にさえ陥る。
都合の悪いことをその場しのぎで隠すことを「臭い物に蓋をする」というが、トイレなんてまさにフタをするために存在しているのに、
フタが開きっぱなしというあらわもない姿で佇む姿はいやらしささえ感じる。
想像してほしい。
居酒屋やレストランで、自分の前に入ったお気に入りの子の後に入ったトイレのフタが開いてることを。
普通の人は芳しい香りの方に意識が行くと思うが、憧れの子が個室の中で晒した恥ずかしい姿の形跡が無防備なまま残っていることに興奮を覚える。
普段は口うるさい会社の上司の後に入った時なんて、もし便座が下がっていたりでもしたら、「あいつは座りション派か」と思うと同時に、家庭内序列まで見えてしまい急に愛おしくなる。
お前、何しにきてんの?
「先生に教えて頂きながら~~~」
「いい友達ができるように~~~」
「どんな授業にチャレンジできるんですか?」
とか。
ふぬけた事を言ってるヤツがいる。
教えてもらっただけで勉強した気になってる。
授業は発生してるし、
1時間教えてもらったとしたら、
仲良くもないのに"同学年"ってだけで最初からタメ語で話してたり、
仲良くもないのに「みんなでカラオケしよう」なんて誘い合ったり。
そんなことをしてる暇があったら、
本当に話したいヤツとだけ、
1対1でゆっくり語る場を設けた方がいい。
単に大勢で騒いで盛り上がっても、
僕は群れる事の無意味さを知っているし、
孤独と対峙する強さを持つ事の方が不安を払拭できると考えています。
職場では年齢問わず初対面の人にタメ語を使う事は一切ありません。
よく「松村くんは同じ年齢の人にも、いつも敬語だから壁作っちゃうよね」と言われますが、
学校の一員として、
学生気分のヤツを見てると、
新入学生でよくいるのが、
「どんな授業にチャレンジできるんですか?」
とか言うヤツ。
授業なんて全部自分で見つけてこいよ。
ここは学校じゃねぇんだよ。
どんどん結果出してこいよ。
学校は優しい先輩が非常に多いので、
発言しないと思いは伝わらないし、
宣言しないと夢を共有する事は出来ません。
あした授業に出たいです。
この生ぬるい空気をぶち壊したいです。
俺は若いころ自意識過剰で自分にはそれしか掛けるものがないと思い込んで3流美大に飛び込んだ。
結局打ちひしがれて今にいたるけれどそこで言われた言葉で印象に残ってるものが2つある。
一つは「君のこれは作品とは呼べない」。
どんなに持論をこねくり回したり拘りを突き詰めたりしようが、
マジョリティに拒絶され表現することを正当化するバックグラウンドを失ってしまえばただの変人として嘲笑されるしかない。
二つ目は「褒められたくてあえて奇抜なことをやってるんだろうけど〜」
本当にこれは衝撃的だった。当時僕は愚直にしていれば誠実でいられると思っていたからだ。
僕の誠実さは教授に一声で否定され証明するすべを失い、自分の個性が強みになるなんてことは幻想だと思い知った。
周りの評価も気にせず思ったように自由に振る舞っとしても、結局評価されなければそれが個性だと規定されることもない。
評価されないということは無価値であり、価値が見いだせないということは本能や感情に従った素直さも思想も見受けられないということではなかろうか。
万人にとって価値がないというのであれば当人の意思など外部からみても存在しないに等しい。
では他人は何を基に評価を下すのかということになるが、これは共感できるか否かという点によって判断しているのだと思う。
人間は結局己のレリジオンを補完するために、社会との交流のあり方を模索している。
もし自らの考えに反するものを受け入れてしまったとすればたちまち破錠してしまうのは目に見えている。
どれだけ自分の素晴らしさを説こうが、人々の共感が得られなければ各々の思考の中で無価値化され
「愚かで浅はかで見るに堪えない」というレッテルを貼られ黙殺されるということだ。
媚びたからといってそれが非難されるとは限らないのだ。それが観る側にとって心地よければどうでもいい問題であり、
逆に不快なものに対峙したときは、それを拒絶する正当性を欲し、表現者の人格までも批判し出す。
僕は結局その大学を辞めた。誰が悪いわけでもなく僕自身が愚かだったというだけだ。
しかしながら評価されることを意識しつつ創作活動を行うことが美大生活の意義だという観念にジレンマを抱いていた。
「自分を感性をさらけ出すという表現のあるべき姿を成り立たせる前提として、既に評価されているという事実が必要。」
「だが良い評価をもらうために制作したものは協調性しか持ちあわせておらず、理想的な表現者としての定義に矛盾が広がっていく。」
このように小賢しさを気取った馬鹿者にならず兎角無心で制作に励めばよかったと反省はしているし、
さっくりとウケのいいものを作り一定の評価を経てから作家性をささやかに出すような器用さにかけていたのも事実だ。
理想主義なんぞ田舎の3流大学生には無用の長物だと今では自分にあきれてしまう。
とはいえ未だに当時の自分が抱いていた鬱屈はもっともなんじゃないかと思う。
増田はA子や家族等が自分の美を確立している才能ある人物だとしているが、
「賞をとった」「選出された」「絵を描くことが生業として成立している」といった既成事実でしかない。
もしもA子じゃなくて増田が全国に選出されていれば、
高校時代に増田が自分には才能がないと思うこともなかったしA子は馬鹿にされたままだったはず。
A子より増田のほうがポテンシャルが高いということが紛れもない事実として誰も疑いはしなかっただろう。
要は結果論だ。増田よりA子のほうが評価された、増田の絵は酷評されたという事実を増田自身が受け入れるために「才能がなかった」という結論を用意しただけだ。
多分周囲の人々もあなたに才能がないとおもっている。才能がないということは自認ではどうすることもできないソーシャルでの自分の位置づけになっているのだ。
もう自分には才能がないというほかない状況にすっぽりはまって、自分自身が自分をどう認識しようがお構いなしの現状。
それを拒絶したところで何にもならないから、受容するのが一番マシだから「才能がない」というほかない。
僕は何も「才能がないなんて思い込みだ。可能性は無限大」みたいな自己啓発のなりぞこないを啓蒙したいわけじゃない。
お気に入りの納豆を外国人にPRするように、一見客観的にポテンシャルがあるように思えてもそんな物の影響力なんて全くなくて、
他人の認知を意のまま変えることなんざ真っ当には到底無理なのだから。
これはただただ勝手にあなたに共感し、踏まえて違和を感じたことを提示したいと思ったまでだ。
釣りにひっかかる有様になろうが稚拙な文章を晒すことになろうがなんでもいいから何かいってやりたいとおもわせた増田は素晴らしい。
○夕食:考え中
○調子
むきゅー。
つらいよお。
と嘆いていても仕方ないので、久々に小説を読もうと思い本屋さんに行ってきた。
そこで、ノーゲームノーライフというラノベと僕が一番好きなミステリ作家城平京の新刊「雨の日も神様と相撲を」を買った。
読み終えた後、大興奮で、もっとダイラーの作品が読みたい! とデビュー作から読み直すぐらい面白かった。
「自己犠牲」「神の如く力を持った者との対峙」を描いているんだけど、色あせない。
本当にこのテーマは色あせない。
ミステリが抱える根本的な何かととても合致してるからなんだろうなあ。
虚構推理のときに「おお、ついにここまできちゃいましたかあ」と思ったけど、
いやいやほんとうにまだまだミステリという山は登り尽くされていないのだなあ、と強く感じた。
なんか中身にいっさい触れてないけど、本当に凄いんですって。
城平作品全般に流れる「名探偵としての業の深さ」みたいなことを、
ミステリ全般で見ると、建築家探偵やら土木の教授やら色々居るんだけど、
「おお、こういう要素を上手に取り入れてるじゃん」と関心した。
ラストの大落ちツッコミの前振り的なポジションなので良い感じ。
絶園の三角関係とか飢えた天使のアレとかスパイラルアライブのアレとか本当よくわかんないんだよねえ。