はてなキーワード: 偶像崇拝とは
この時期になると駅には「初詣は〇〇へ」という広告が貼り出される。以前はそれを当然だと思ってきたが、冷静に考えればあのような広告は多様性に真っ向から反している、公共の場所に相応しくない広告である。
というのは、『多様性のある社会』が受け入れるべき人々の中には、
「偶像崇拝は間違っている」
「神社を見ると、『日帝による占領時代に神社参拝を強制されて辛かった』という話を祖母から何度も聞いたことを思い出す」
といった人々もいるためだ。
たとえそのような信念や信仰の持ち主であっても、信者を洗脳して高額な寄付をさせていたり、子どもに信仰を押し付け信仰の外との関わりを絶たせるようなことをしていなければ、当然に内心の自由・信教の自由が適用される。
それなのに駅のような不特定多数の人が利用する場に広告があるということは、「我々日本の宗教界や鉄道事業者は、そのような信念・信仰の持ち主には一切配慮しません」と宣言しているのと同じことだ。それは間違っている。多様性が求められる社会であるからこそ、公共の場所での表現はありとあらゆる属性の人が拒絶しない表現しか置くべきではない。
何も「初詣を禁止せよ」「神道や仏教を信仰するな」と言っているのではない。単に、「初詣の広告は公共の場所に相応しくない。ゾーニングした上で行うべき」と言っているだけだ。神社新報や月刊住職に広告を出す分には問題ではない。だから信教の自由を侵害するつもりはない。
えぇ…
ふとした興味で調べてみたら、数十年来の誤解が判明した。
近年、宗教的ジェネリックにハッピー・ホリデーと言われがちなクリスマス。
キリスト教のお祭りなんだから、主役のイエス・キリストが持て囃されるのはありそうな事じゃん。
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十字架に掲げて殺された
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要するにまたぞろシュワキマセリ(主は来ませり)的な誤解が元だと思ってたんだ。
だが調べたら全然違った。
サンタクロースのモデルはシンタクラースである。そのシンタクラースのモデルは「ミラのニコラオス」ではないかと言われている。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B9
おっさん誰やねん。
____以下、AIの出力_____
僕は電車を待って立ちながら、ソーシャルメディアを見てそんなことを考えていた。テキスト中心のコンテンツはなぜか傲慢なオッサンが多い印象がある。そのオッサンはこう書いているのだ。
頭の悪い人の定義は、頭が悪い自覚がない人で、しかも他人が自分よりも馬鹿だと思っている人です。オイラは自覚がありますけどね。
「あー!」と思わず声を上げてしまった。的を射ているように感じて余計に苛つくのだ。
...とそのとき、後ろからドスンと押されたような感覚があった。
「え?何?」
と考える暇もなかった。この駅で止まらない電車が勢い良く走ってきて、ぐちゃぁ、と僕はあっさり死んだ。
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ズズズ...「接続完了。今から、あなたにルールを説明します。」
何かが聞こえてきた。ここは...どこだ?どこという感じではないな。場所ではないのかもしれない。真っ暗で、意識はある。
「ルール2、過去に発言したことと矛盾することは実現しません。その場合、単に何も起こりません。」
「ルール3、発言内容そのものに矛盾がある場合、過去にあるかどうかに関わらず実現せず、何も起こりません。」
発言...ということは発言する能力はあるようだ。というか暗い。光があればな...
僕はこう言う「光が欲しい」
すると、あたりに光が満ちて、光と影からなる広い部屋になった。部屋の中で座っている自分がいた。
(なるほど、こりゃうかつに発言はできないな...そうだ、こうしよう)
「発言したことがダイレクトに実現するのではなく、このスマホに録音したことが実現してほしい」
さっきのルール説明した人の声がない。「おーい!」部屋の中で声がやたらと響く。
そうか、録音してみればいいんだな。そういって録音機能を立ち上げた。
このスマホの存在は僕にとって重要だ、と直感した。そして3つの録音を追加する。
「スマホがどのようなことがあっても壊れたり傷がついたり破損したりしないようにしてほしい」
すると、スマホは「ゔぉおおおおん」という音を上げて宙に浮かび上がった後、空中でくるくると勢い良く回転した。そしてゆっくり僕の手元に降りてきた。
「じゃあ、試してみるか」
そう言って僕はサイコロの録音を削除した。目の前にあったサイコロは音もなく消え去った。
「なんでもできるじゃないか!これじゃ天地創造もできちゃうんじゃなかろうか?...いや、なんのために天地創造なんてするんだろ?地球にいた頃って楽しかったっけ?」
思い出してみれば、地球は僕にとって良い場所でもあり、嫌な場所でもあった。社会の闇に目を向けなければ割と幸せに暮らすことができた。でも一歩闇を見ると、隠された汚い部分がたくさん出てくる。身近なところから言うなら、ホームレスを人間扱いしない都会人、プライバシー侵害を当たり前のようにやる広告業者、反応が欲しいという虚栄心のために過剰演技をする気取ったクソ女、動物をおもちゃ扱いするペットビジネス。もっと広げるなら、戦争、飢餓、環境汚染などいろんな闇がいくつもでてくる。
と僕は不思議に思った。こういうときに、正しい宗教を信じていればもっと確かなことが言えるんだろうけど、僕が住んでいたのは偶像崇拝で狂ってしまった極東だからなぁ。
ではこう考えてみよう。僕以外の人は全員が哲学的ゾンビで、僕だけが意識を持っている。そのような世界の存在意義はなんなのか。意識のないロボットみたいな存在と会話したり遊んだりして、楽しいんだろうか。いや、人間と区別がつかないなら楽しいんだろうけど、でもその世界は僕のためだけの世界になってしまって、せっかくの「願いを叶える能力」が無駄になるような気もする。
「願いを叶える能力で自由意志や意識のあるたくさんの人間や、その人間たちが住む世界を創造することに、何らかの意義があると言えるのだろうか」
ただ僕は可能性を追求したいなとも思った。つまり無限種類の世界が相互干渉することなく存在する可能性だ。そして僕はスマホに機能を追加して、僕が住める世界に自由に移動できるのだ。
「しかし...」僕はふと思った。例えば善人を地獄に送るような世界もあり得てしまう。これは倫理的に許されるだろうか?
「神はただ一人しか存在しない。偶像崇拝は良くないね。僕が神のフリをするなんて罰当たりだ。僕が与えられた能力でできるのは、僕自身が楽しむことであり、他の誰も傷つけてはならない。」
このルールはいつでも消せてしまうが、とりあえず安全装置にはなるだろう。
さて、僕はこの空間を楽しみたいのだが、どうすればよいだろう。
「たとえば、哲学的ゾンビの美人を呼び出してイチャイチャするとか?意識がないなら倫理的に問題がないのではないか?」
衝動に負けて録音を追加した。
「目の前に、僕がいた世界のアイドルの山田花子の哲学的ゾンビが出現し、僕の言うことを聞いてくれる」
と、やはり言ったことがそのまま実現したのだ。
「あれ、私は一体...ここはどこ?」
「僕とセックスしてよ」
「わかりました」
そういうと服を脱ぎ始め...あとは何があったのか想像してほしい。
「ふう、こんなことして、僕は一体なにが面白いんだろう?」
「私のことが嫌いになったんですか?」と山田花子が言った。
「いや、射精後だからこその発言だよ。こうすればいいんだ。録音。僕は性欲を持たない存在になる。録音。僕は見た目がカワイイの男の娘になる。録音。目の前に鏡が出現する。」
僕から性欲がなくなり、目の前の山田花子に性的魅力は感じなくなった。鏡を見てみると男の娘になっていたが、性欲がないので興奮しない」
「うーん、楽しみが主観だとしても、やっぱ男の娘になったら嬉しいとか、そういう感覚を味わってこその楽しみだし、感覚を奪うってのはやっぱナシがいいかもね。人間として自然な感覚を楽しみたいんだ。」
「整理しよう。僕はもともといた世界の闇の部分が好きではなかった。でも、人間として自然に楽しみたい。ところが、人間というのは僕がいた世界に存在した生物だから、僕がいた世界または近い環境でなければ楽しめないかもしれない。」
確かに、感情や本能や感覚など、そういうものを操って人間とは別の存在になることもできるだろう。でも僕は人間が良いのだ。
結局、なんでもできる能力が与えられたとしても、僕はそれを使いたいとは思わない。今、このくだらない空間にいる記憶を消して、地球、あるいは地球に近い環境で生まれ変わって、人間として普通に人生をやり直そう。でも闇や苦しみの部分にはあまり深く関わらないような人生がいいから、そういう設定にしよう。
基本中の基本。一つの集団を形成するために、一つの信仰を共有できなければ、それは味方とは言いがたい。
また、無能な味方を排除する際にも、一言「背信者」「背教者」とくっつけるだけで、あっという間にオサラバできる、大変に素晴らしい戒律である。
これまた基本。モノをあがめるようになると、命よりもモノが大事になるため、集団が生き残るにはモノをあがめるより言葉をあがめないといけない。
ここからが、集団に害する無能を見分ける機能に深く関わっていく。
恐ろしいことに、ユダヤ人の祖先はやたらめったら権威を振りかざすやつが味方にいてはいけないということをン千年前にすでに喝破している。
休めるときに休めないと、休んじゃいけないときに休まなければならなくなるため、こういった人間が味方にいるともしものときが怖い。
家庭環境がゴタゴタしている味方なんてのは、どんなに有能であったとしてもいずれボロが出るという話。
当たり前。でも、別に生存競争を否定するわけではなく、実際、ユダヤ人は決してホロコーストされ続けるような弱い集団ではなく、普通に、神の名の下にジェリコの戦いで住民の虐殺を行っていたり、数回にわたって行われた中東戦争で圧勝していたりする。もっとも、味方を殺すような存在が集団内にいていいわけがない。
昔も今も、恋愛というやつぁ人間関係のゴタゴタに直結するものであり、そういった感情を上手く制御できない連中を身内に飼ってしまうと、後々面倒なことになるという話。
これも当然。しかし、味方うんぬんという話以上に、敵に対しても同じである。これは、敵でも第三者でも、恨まれて当然の行為を禁ずる大変重要な話である。そして、そもそも、身内に泥棒がいたら全ての信用が失墜する。
同上。身内に嘘つきがいて、周囲の人間に信頼してくれとお願いしても、それは無理てえものである。
宗教が集団の話なら、これは世間の話。なんやかんやでアホみたいに利益ばかり追い求めれば、それは恨みを買う要因になるわけで、隣近所とゴタゴタ起こすやからを身内に入れてはいけないという話である。
やけに生活観のあふれるユダヤの十戒と比べて、キリスト教の七つの大罪は、完璧に戦時中、もしくは争乱に特化したつくりになっており、飢饉や疫病、戦争といった中世暗黒時代のかほりあふれる、無能な味方の割り出し方法となっている。
主君、および味方のトップ以外、戦争中、最も忌避すべき味方の第一位。自分が世界の中心と思っている味方が多くなればなるほど、作戦の遂行能力及び継戦能力の維持が難しい。
これまた、戦争中では忌避したい味方。戦争ではなくて、個人を見るようになってしまうと、徐々に大局観が失われていく。
喜怒哀楽の一つの感情であるため、これはいたし方ない部分もあるにせよ、これを抑えられる味方についていきたいのもまた事実。
これは、戦争以外の全ての生活においても言える話。怠惰な味方と一緒に成功を得るには、戦場以外の場所ならば普通の味方の4倍以上の努力が必要になる。これがもし戦場だったら、味方の怠惰のおかげで真っ先に最前線に送り込まれる。
これも戦争も含む全ての生活において言える話。もう一個、もう一人、もう少しという感情を抑えなければ、戦場では無様な死に直結し、商機では大損に突撃することになり、特に飢饉の場合、集団全体の死の可能性が高まる。正直なところ、飢饉の場合は、強欲な人間は殺されても仕方がなく、実際にそういった排除の論理は多くの民話に残されている。
これは、完璧に飢饉に関する集団内の排除の論理に直結する。いくら才能にあふれ、カリスマがあり、集団内に良い影響を与えたとしても、飢饉の際に暴食する人間は、集団全体の死に関わるため、やっぱり殺されても仕方がない。むしろ、飢饉などという非常事態に、才能やカリスマ、良い影響などといった話はまったく関係はなく、いかにして全員で耐え忍ぶかが重要になるため、耐え忍べない連中はどうしたって排除される。
上記のように、無能な味方には様々な要因が存在するが、基本的にたった一つの要因しか持ち合わせていないなんて話はまず無い。むしろ、2つも3つも悪徳やら罪を持ち合わせているような場合が多い。しかし、世の中は大変に困ったもので、七つの大罪のほかに七つの美徳と呼ばれる有能な味方の条件に合致する要素があり、そういった要因が複雑に絡まりあって人間が出来ている以上、そういった複雑な連中をいかに上手く制御していくかが、上に立つ人間にとって必須の技術となる。
忠義、希望、勇気、純潔、慈愛、純愛、友情、誠実、知識、正義、分別、節制、貞節、自制、寛容、勤勉、忍耐、親切、上品
・・・七つどころの騒ぎじゃない。けれども、一応、全て過去に七つの美徳に含まれたことのある要因である。ちなみに、味方が持っていて果たして有能かどうか微妙な要素もいくつか見え隠れするけれど、逆に言えば、それに反する悪徳を有していたら、とてもじゃないが目も当てられないという話がほとんどであるため、希望や純潔、上品といった要素が含まれるのも仕方がない。