はてなキーワード: 音楽評論家とは
曰く、YOASOBIのアルバムを聴いて「このビートの単調さと音色・音圧のショボさが世間で許容されてるのはちょっと信じたがたい」とのことだ。
実は私もこの評については概ね同意なのだが、考えをまとめるために「夜に駆ける」を題材に少しだけこのことについて書いていきたいと思う。
見当違いな点もあるかとは思うが、素人ながら20年以上音楽をやってきた人間の一意見だと思っていただけると幸いだ。あと、あくまで音に関する話だから、歌詞とかについては割愛。
●メロディについて
特に変なメロディだとは思わないけど、ドラマチックさには欠ける気はしている。目新しさも特にない。が、キャッチーではあると思う。冒頭とか思わず口ずさんでしまうインパクトはあるし。
●アレンジ面
正直ここが一番ツッコミを入れたいところだ。かの音楽評論家の言っていた「音色・音圧のショボさ」はここに主な要因がある。
無駄を省いた、と言えば聞こえはいいかもしれないが、多分Ayase氏はまだそこまでのテクニックを持っていないだけにすぎないのだろう。音の緻密さはなく、だいぶ荒削りだ。
キックは4つ打ちに重要なローのスピード感がいまいちだ。だいぶもっさりしているように思う。
ピアノのボイシングも工夫がない。低音で3和音を鳴らしているのは編曲の理論としてはあまり好ましくないし、それが結果的にピアノのローをEQでごっそりカットするということに繋がっている。
ギターについてはまぁ職人な立ち位置だなとは思った。サウンドメイクはもうちょっと頑張って欲しいけど。
全体の構成としてもだいぶのっぺりしていて、場面場面での厚みにあまり変化がないのが気になった。
●ボーカルについては
正直あまり印象に残らない、というのが個人的な感想だ。ややのっぺりした歌い方は最近のシンガーソングライター系のそれに感じたが、声に強烈な個性があるわけでもないのでそれが逆効果になっているように思った。
歌に表情をつけるためのテクニックがまだ途上なのかな、全体のサウンドがのっぺりしているのにボーカルものっぺりしてるから、いまいち曲に抑揚がないように感じてしまう。コンプがどうとかって話じゃないよ。それが私の感じた「つまらなさ」に繋がっているのかな、と思った。
●エンジニアリングについて
とにかく平面的で一直線上に張り付いた、奥行き感のないサウンドに感じた。レンジも狭いし。
デジタル系ビートにも関わらず、キックのボトムエンドの量感が感じられないのはかなり気になるところだ。4つ打ちなのにノれない…。
あと、とにかくピアノの音がパッツパツなのが気になりすぎる。曲調が曲調だからなのかもしれないけど、それにしたってそんなに音数が多いわけでもないアレンジの中でこんなにダイナミクスのない音にするのはどうなのかな、と感じる。
ボーカルもほやっとして抜けにくい声質だからなのか、パッツパツのしゃりっしゃりになっていて、もうちょいナチュラルに仕上げてもいいんじゃないの?っていう感想だ。
で、ここまでパッツパツになっていながらも、全体的に音圧感はない。
はい、ここで勘違いされそうな単語「音圧」が出ました。音圧っつーのはマスタリングにおける海苔波形がどうとかって話ではなく、一つひとつの音色がもつ太さやスピード感、ヌケ、煌びやかさのことだ。パワーというか。
全体的に音が細いんだよね。圧倒的な素人感というか、ちゃんと音作りしてないなーってのがすごく分かる。
で、ここまでいろいろ書いてきたけど、例のプチ炎上したツイートに関連して「スマホとかで聴いてる層をターゲットにしてるからそういう音なんだよ、そういうマーケティングなんだよ」という意見が見られた。
いや、違うでしょ。どう考えてもAyase氏が
「いいサウンドを知らない、いいサウンドの作り方を知らないだけ」
でしょ。
確かに彼が作る音楽を好んで聴く層というのは中高生が多いのは事実だ。そして当然高価なオーディオ機器など持ってはいない場合がほとんどだ。今の時代なら、スマホとワイヤレスイヤホンで聴くという人が多いだろう。
だが、だからといってそういった層が気づかないような部分のこだわりを捨ててしまうというのは、作品としての完成度を下がるだけでしかない。もっとも、この場合はそのこだわり方もまだよく知らない段階だと思うが。
私は「スマホ向けのサウンドに仕上げる」ということには普段から疑問を感じている。クリエイターたるもの「どんな環境で聴いても最良と思えるものに仕上げるべき」と考えているからだ。それに、スマホのフィルターに通してしまえばそれは勝手にスマホの音になるわけで。
過去の名曲をスマホで聴いたら、その魅力は劣化するか?そうではないはずだ。Steive Wonderの曲はグルーヴを失うか?浅倉大介のアレンジは煌びやかさを失うか?Dream Theaterのサウンドは分厚さが薄れるか?
つまりあれよ、クリエイターたるものクオリティは追求し続けてほしい、という話だ。
じゃあどんな環境においても最高のサウンドに聞こえるようにするためにはどうするか?何よりもまず、作る人間がそれをしっかりジャッジできるモニター環境を構築する事だ。
Ayase氏の制作環境がMacBookにヘッドホン直挿し、というツイートがバズったことを知っている人は多いと思うが、私はそれを見て非常に納得した。
誤解してほしくないのだが、私は別にそんな環境で曲を作ることが悪いと言いたいわけではない。お金なければその中で頑張るのは当たり前だし。
ただ、もう一つ誤解してほしくないのは「いい曲を作るための環境構築にお金をかけなくても良い」というわけでもない、ということだ。
例えばいいオーディオIFやスピーカーを買うことによって、それまで聞こえなかった音が聞こえるようになる、というのは当たり前だがよくあることだ。私もそこまでお金をかけられているわけではないが、現時点でミドルクラスくらいのモニター環境は構築できているとは思うので、その実感は何度も味わってきた。
つまり「できることを増やす」ためにある程度投資した方がいいということだ。SEに置き換えれば、シングルコアCPUにメモリ2GBのクソスペPCじゃ仕事にならないのと似ていると思う。
ただまあ、直近のインタビューではある程度機材を導入したりしているような回答もあったので、これからAyase氏の作る音楽がどうクオリティアップしていくのかは…………別に興味ないか……。
私もそのうち気が向いたら「夜に駆ける」のアレンジでもやってみるかね。
ふわふわした夢を追いかけてこんな歳まで学部にすがりついてしまいました。
一般的に在学年限は8年までですが、自主退学して単位を引き継いで再入学すると年限が増えるというライフハックがあります。皆さんも試してみてくださいね。
いや、夢だったんですよ、大学教授が。「夢別名呪い」とはよく言ったもので。
現状卒業に必要な単位は9割程度しか取れておらず、本年が在学年限なので、4月から無職になる予定です。
ちなみに増田は高校も辞めてるので最終学歴中卒である。うける。
(この文章を書いている最中に複数の社会学者によるやらかしが発生しましたが、増田は冷ややかな目で眺めつつ、自分が好きなのは社会学じゃなくて100~50年前の社会学者が描いた原風景だったのかもなあと思いました。酸っぱいぶどうだろうとは思いますが)
というわけですので、どなたか増田のことを雇っていただけないでしょうか。
2年とすこし前までは豊田でノートパソコンの裏蓋をひたすらに開け続けるという仕事などをしておりました。光り輝くMADE IN TOKYOのラベルを豊田で貼り付けるのは最初ためらいを覚えましたがすぐ慣れました。
2年前からはキャバクラ(時給が良かったため)でボーイとして数店舗を渡り歩きました。パワハラ耐性はかなり高いです。駐車場に呼び出されてタイマン張らされる程度は日常のスパイス。
雇う側から見て心配になるのは、こいつに継続的な出社が可能なのかという点が真っ先に浮かぶと思われますが、多分大丈夫だと思います。豊田のバイトもキャバクラのバイトも当欠遅刻無しで3年ほどやれていました。
(仮に、仮にですよ。仮に本当にですね。そのバイトへの体力を。いやぁ、もう止めましょう、こんな話は。ボクは今、こうやって窮まっていることがね、全てなわけですよ。だからね、仮にとか、もしもとか、もう止めようじゃありませんか。)
こちらの希望としては、ライターや編集者などとして、フルタイムの正社員として働かせて頂きたいと考えています。もし仮に贅沢を許されるのであれば、社会学・(科学哲学含む)哲学・将棋・お酒・音楽特に日本語ラップといったテーマでも書かせて頂ければ何も不満はありません。
増田がこれらの職種を希望する理由は、それが私の能力をもっとも活かせそうだと考えるためです。下で改めて紹介いたしますが、大学の出席がピンチなときでも、つい書きたくなってしまう瞬間は多かったです。書くための生活の糧を書くことで得る、というのは一つの理想的構造ではないでしょうかl。
なお、日常的な英会話、ある程度専門的な英語の読解、ごく簡単なWebフロントエンド、簡単な作曲編曲、Adobe Photoshop・AfterEffects CS5での業務経験などのスキルを所持しております。
増田自身と希望条件の提示ばかりしていても仕方ないでしょう。まずは増田が増田に書いた増田のうち代表的な増田をざっと並べてみました。ポートフォリオってやつです。
https://anond.hatelabo.jp/20200419201827
https://anond.hatelabo.jp/20191103163514
https://anond.hatelabo.jp/20170503155706
https://anond.hatelabo.jp/20210120145245
https://anond.hatelabo.jp/20200822071725
https://anond.hatelabo.jp/20181005160437
フェミニズム寄りの社会学教授による、社会学の概念の誤った使用を批判した記事。
当時インターネット上ですでに批判は行われていたが、それもまた極端で誤ったものであったため、文献に当たり正確な批判を行った。
増田の長所として、「社会構築主義入門」「市民的公共性」あたりに顕著かと思いますが、難しいことをわかりやすく書く、というスキルが優れているのではないかと思います。あるいは将棋関係の記事のように、楽しいことをきちんと楽しさが伝わるように書ける、という点も挙げられるかもしれません。
その他の興味関心としては、バー巡りと日本語ラップあたりでしょうか。
バーは今のところアジアTOP10バーテンダー氏がいる店が行きつけ。好きなお酒はアードベッグウィービースティーとフェルネットブランカ。
https://open.spotify.com/album/3T3li6NVsoKTt41J2gDGOL
キャバクラでのアルバイトの先にあるチャンスを掴みたい、と言うリリック。
まあそのキャバクラ先月末で潰れちゃったんですけど。
従業員向けに「退職2週間前には申し出ること」と署名させておきながら、そっちが1週間で潰れるのはセーフなのか……。
近いうちに自主退学の予定ですが、当分は通じると思うので大学のメールアドレスを身分証代わりに連絡先としておいておきます。お気軽にお問い合わせください。
なお以下のメールアドレスにおけるやりとりは、絶対に両者の合意無く第三者に開示しません。増田に晒したりしません。
また、トラバブコメ等で「お前は増田にこんな文章書く前にこれやれ」「こっちに問い合わせてみたら」などのアドバイスを頂けたら幸いです。
(2021/2/7 15:00追記)
「書いたと主張する増田が本当にお前のものかわからない」というご意見を頂いたので、各増田の末尾にこの増田への誘導をつけました。
一度世に出てしまったものは、仕方がない、という概念を音楽評論家は持たない。
音楽評論家はビッグバンドやオルケスタティピカ、オーケストラ、アナログシンセサイザーの「膨れ上がったマッチョ」が大好き。
私はそうではない。
音楽業界は膨れ上がったマッチョとともにあったので、否定されて悔しいんだろう。
なんで否定するのか?
おもしろくない。
そういう傾向は熟知していないといけない。
ふと評論家と一般人(含むオタク)の違いは何なのか、と言う疑問が浮かんだ。
専門知識をどこかで学んでいるわけでもないことも一緒。
かつて評論家は雑誌などに記事を書き、自分の評論を世に出していた。
一方、一般人は一部同人誌という形で評論していた人もいたが基本的に自分の評論を世に出す手法を持っていなかった。
炎上した宇野も確か元はロキノンの記者だったと思う。(名前を見た気がする)
ただ、今やSNSで誰もが発信することができる。
そしてSNSのつぶやきの方が雑誌の発信力より大きいのは間違いない。
国民総発信の時代に、評論家と一般人の間にこの違いは存在しない。
そして、評論家が1.で挙げた発信力を使うことで"見つかった"アーティストはたくさんいた。
何故なら評論家に評価してもらうよりtiktokでバズった方が売れるし多くの人に見つかるからだ。
また、そういうバズりに頼らなくとも、めざとい一般人オタクが才能を見つけ出し、SNSやブログで記事を書くことで見つかることもある。
というより、評論家は今何千万人といる一般人とどちらが早く才能を見つけられるか競争することを強いられているのだ。
勝ち目は無いだろう。
ただこれもどうだろう。今の時代、ブログやSNSで発信することを鍛えられている一般人もなかなか読ませる文章を書くようになったのではないかと個人的には思っている。
更に宇野のようにSNSに引き摺り下ろされた評論家の場合、たかが百数文字で表現する必要がある。
その文字数で文章力の差は出にくいので評論家を評論家最後の砦、文章力も役に立たない。
評論家はSNSなどネットに活動の場を移しているが、それは評論家と一般人の違いを無くし、自らを一般人に毛の生えた存在に貶める行為だと思う。自殺行為だ。
ただ、SNSを使わないと評論家としての自分が世間に見つからないことも事実だ。
SNSが普及し影響力を持った今、評論家はSNSで発信しないと評論家として生きていけない、ただSNSで発信することが自らの価値を貶めているという二律背反に苦しんでいるのではないだろうか。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 88 | 11378 | 129.3 | 44 |
01 | 69 | 6275 | 90.9 | 42 |
02 | 54 | 3948 | 73.1 | 50.5 |
03 | 38 | 6274 | 165.1 | 60 |
04 | 27 | 2258 | 83.6 | 62 |
05 | 17 | 2323 | 136.6 | 40 |
06 | 12 | 1632 | 136.0 | 96 |
07 | 40 | 3581 | 89.5 | 55 |
08 | 52 | 5460 | 105.0 | 37.5 |
09 | 90 | 12103 | 134.5 | 36 |
10 | 162 | 12094 | 74.7 | 40 |
11 | 161 | 15425 | 95.8 | 47 |
12 | 215 | 14145 | 65.8 | 32 |
13 | 175 | 17533 | 100.2 | 32 |
14 | 139 | 15361 | 110.5 | 40 |
15 | 130 | 18858 | 145.1 | 43.5 |
16 | 148 | 11391 | 77.0 | 46 |
17 | 137 | 14704 | 107.3 | 51 |
18 | 159 | 22715 | 142.9 | 38 |
19 | 159 | 16955 | 106.6 | 44 |
20 | 190 | 18613 | 98.0 | 40 |
21 | 128 | 18849 | 147.3 | 45 |
22 | 141 | 23033 | 163.4 | 38 |
23 | 219 | 21329 | 97.4 | 40 |
1日 | 2750 | 296237 | 107.7 | 41 |
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売れてることと質は比例しない例として、世界で一番売れてるラーメンが一番うまいラーメンなら「カップラーメン」がこの世で一番うまいラーメンになるという話がある。
「カップラーメン」は「美食」として語るものではないが「食文化」としては語るに値する。
その俎上にYOASOBIを乗せればYOASOBIは「音楽」として語るものではないかもしれないが「音楽文化」としては語るに値するのではないだろうか。
YOASOBIの音楽がどれだけ薄っぺらいものだとしてもそこには文化として受容されている現実があり宇野維正は音楽評論家としてその現実を適切に批評するべきではなかっただろうか。
ジブリ・村上春樹・鬼滅・エヴァに顕著だが、ある表現が売れまくって大衆性を帯びてしまうと作品に対する批評が無効化されてしまう問題というのはあると思う。
宇野は音圧戦争の帰結や現状まではわかってると思うよ。彼が根本的におかしいのはそこじゃない。
それを技術で解決したのがYoutubeとかSpotifyとかですね。彼らは音圧が高い曲の音量を下げて、他の曲との音量差を少なくしました。揚げ物使った弁当は弁当箱のサイズを強制的に2/3にするイメージですね。そうして消費者は錯覚に騙されず本当に美味しい弁当を選ぶことができるようになりました。めでたしめでたし。
ここはめでたしめでたしの終点じゃなくて、今も音圧戦争は形を変えて続いている。音圧が高い曲の音量を下げるのを「ラウドネス・ノーマライゼーション」という。配信系プラットフォームはそれぞれノーマライゼーションのアルゴリズム(主にはLUFS、聴感上の音圧を数値化するパラメータ)を定めている。そして音楽エンジニアリング業界は、この制約上限に抵触せずにどうやって聴感上「圧のある」音を出せるか、という一種のハックに向かっている。「測定結果が-14.0LUFSを超える楽曲は強制的に-14.0LUFSまで下げる」ということがわかっているなら、そのアルゴリズムを狙って作ればいい。
君は音圧戦争を生き抜けるか? 音楽ストリーミング時代のラウドネス・ウォー対策 (1/3)
配信時代の音楽制作〜ミックス、マスタリングの傾向と対策 – 今知るべき配信テクニック
音圧戦争から遠く離れてーラウドネスノーマライゼーションの誤解と意義
配信最適化はエンジニアリングやマスタリングだけでなく、基本的なビートの作り方にまで影響しつつあって、これなんかはテクノロジーが音楽を変えるという最新の事例といえるんだけど、それはともかくとして、この話は結局のところ「いまの聴取環境に合わせた、いまの流行り」でしかない。リスナーに目立つように、印象に残るように聴かせる最新のテクニックではあっても、音楽自体の構造が優れているか劣っているかという話とはほとんど関係ない。
ましてポップス=popular musicの一番の評価指標は「どれだけ売れているか」なのだ。現にバンバン売れている楽曲を捕まえてきて、その音圧が今時っぽいかどうかにケチをつける行為には生産性がない。よく繁盛してる飯屋で「店が汚い、食器が野暮だ、なぜこんなに客が入っているのか」と言ってるのに近い。クレーマーがどう言おうが、料理が美味いと思った客が多ければ店は流行る。音楽評論家を名乗るなら、今の技術的トレンドに沿っていない楽曲がなんでこんなに売れているか、という分析に傾注すべきだと思う。
音楽ジャーナリスト、YOASOBIについて「このビートの単調さと音色・音圧のショボさが世間で許容されてるのはちょっと信じたがたい」
https://togetter.com/li/1654398
これ、タイトルだけ見て「今更音圧……?まーでもそんなこと思う人もいてもおかしくはないな」と思ってスルーしてた。
で、さっきこの増田を見かけたので答えてあげるべく元ネタも読んでみた。
音楽評論家に聞きたいんだけど「ショボい音色・音圧」ってなに?
https://anond.hatelabo.jp/20210119190456
アルバム通してちゃんと聴いた。この気恥ずかしさは嫌いじゃないんだけど、このビートの単調さと音色・音圧のショボさが世間で許容されてるのはちょっと信じたがたい。少なくとも家のスピーカーで聴く音楽じゃないですね
ええ……。元記事が何を言っているかはてなの人に分かりやすい話題で言うと「Webサイトを全部眺めてみた。この気恥ずかしさは嫌いじゃないんだけど、このデザインパターンの単調さとFlashも使っていないサイトが世間で許容されてるのはちょっと信じたがたい。少なくともFullHDで開くサイトじゃないですね」と2021年に言ってるような感じか。
ビートの単調さがダメって、お前2020ビルボード1位の前で同じこと言えんの?
https://www.youtube.com/watch?v=fHI8X4OXluQ
「音色がショボい」に関しては、字面だけ見たらまあ同意するよ。でもそれが「プリセット批判」in2021となれば話は別だ。
増田に音色がショボいがどういうことかを説明すると、一般的には「生録ではなく打ち込みの音色が安っぽい」というところを意味すると思う。昔のMIDIとかカラオケとか、あるいはスーパーでかかってるJ-POPのインストとか、音色がなんか「パソコンで打ち込みました!」「生の音じゃありません!」って感じしない?逆に最近のピアノだけで数万円数十ギガバイトするような音源だと、ピアノの鍵盤から指が離れるノイズまで拾っていたり、弦と弦の共鳴まで再現していたりして、生の演奏と区別がつかない。
そういう意味でYOASOBIの音色がショボいことに異論は無い。まあ、後ろの音をカットして極端に打ち込みっぽくしてる夜に駆けるのピアノに代表的なように、それはあえてやってることなのは明らかであるので、本人達はショボいの一言で済まされると嫌だろうけど。
し・か・し!この音楽評論家は「音色がショボい」をそういう意味では使っていない。「シンセサイザーのプリセットをそのまま使っている」ことをもってショボいと言っている。まあそれはいいよ。別に広辞苑に音がショボいの定義が載ってるわけでもないし。
し・か・し!2021年にそのことをもってアーティストを批判しているとなると正気か?という感じだ。さっきの例に載せきれなかったが、これは「bootstrap.min.cssを読み込んでる!手抜きだ!このサイトはショボい!」と言っているに等しい。いや、使い方次第だし、つーかそれ今時普通だし……という。
シンセサイザーに出荷時に登録されたプリセットそのまま使うのは手抜きであると考える人がいる(というかいた、絶滅危惧種)のはまあわかりますよ。でもね、2021年に「プリセットしか使わない曲が世間で許容されているのは信じがたい」とか音楽評論家が言っちゃうのは死ぬほど恥ずかしいことなのでやめた方がいいと思います(「プリセット~が許容されるのは嘆かわしい」というのだったら賛同はしないが理解は出来る)。
まずあなたは打ち込みJ-POPにそこそこ詳しい音楽評論家顔で登場していますけど、小室哲哉ってひと知ってます?ちょっとマイナーかな?多分知らないと思うのでただのリスナーの僕が評論家先生に説明してあげますが、「プリセットしか使わないでJ-POPで天下を取った男」です。小室はプリセットをほとんど弄りません。そのことを彼はインタビューで度々悪びれもせず語ってきました。
https://www.youtube.com/watch?v=LgBxze0ye94
これの30秒過ぎから、クラブ系の曲を作ったことがある人だったらフフッとなると思う。なぜならここで、Sylenth1というクラブ系で1番人気のシンセサイザーの、起動して一番最初に鳴らせるプリセットがそのまま使われているからです。他に90年代当時の曲でも、あのピアノはどのシンセの何番のプリセット、とか結構バレてる。本人も隠してないし。
と、いうわけで20年以上前にはもうプリセットまんま使いで天下を取った人がいた訳なんですよね。評論家さんはご存知なかったみたいなので今日は小室哲哉の名前だけでも覚えて帰ってくださいね。
で、別にプリセットまんま使いは新しいことでもないのだが、むしろ最近のトレンドだったりもする。海外アーティストのトラック(要するにソースコード)見てみ、やつらNexus(めっちゃいい音のプリセットが大量に入ってるシンセ、bootstrapのuiパーツみたいなもん)しか使ってねーぞ。
まーそんな感じなんで、2021年にプリセット批判は正直かなり何も知らないのがバレて共感性羞恥でキツいっす正直。
に、加えて音圧!2021年に音圧がない=悪いとかいう論をプロがぶつとは夢にも思わなかった。音圧戦争ってFlashのサポート終了より前に終了したぞ。それもまさかご存知ない……?
そもそも音圧が何か分からない、あるいは最近の音圧事情が分からない方に説明します。CDとかの場合、入れられる最大音量ってデータ的に決まってるんですよね。弁当箱の容量と思ってください。で、人間って大きい音の方がいい音に錯覚してしまうんですよね。弁当のカロリーが高いほどジャンクに旨く感じてしまうと思ってください。そうなると弁当箱にいかにカロリーを詰め込むかという戦争が始まりますね。
音圧が高い曲の例
https://www.youtube.com/watch?v=e-IWRmpefzE
このあたりの話は「音圧戦争」とか「海苔波形」とかでググってもらえればいいんですけど、決まった容量の弁当箱に詰め込めるだけ詰め込むと色々犠牲になるように、音楽でも音質が犠牲になっていました。
で、それを技術で解決したのがYoutubeとかSpotifyとかですね。彼らは音圧が高い曲の音量を下げて、他の曲との音量差を少なくしました。揚げ物使った弁当は弁当箱のサイズを強制的に2/3にするイメージですね。そうして消費者は錯覚に騙されず本当に美味しい弁当を選ぶことができるようになりました。めでたしめでたし。というのが去年一昨年あたりまでのあらすじなんですけど、評論家さんご存じない……?で、去年あたりはその音量を下げられる中でいかに上げ底とかで消費者を錯覚させていくかとか、あるいは消費者の側で「ここ10年くらい揚げ物ばっかで飽きたから煮物とか逆に今新しい気がするわ」とかムーブメントが出てきてるのも、これもご存じない……?たとえば最近Youtubeとかで80年代Citypopとか流行ってるのはその流れもあります。
総評:あの音楽評論家の言っていることは無茶苦茶なので理解できないのが正しい。増田は悪くない。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
音楽ジャーナリスト、YOASOBIについて「このビートの単調さと音色・音圧のショボさが世間で許容されてるのはちょっと信じたがたい」 - Togetter
音楽素人の素朴な疑問と思ってもらいたいんだけど、音色にショボいとかあんの?
どんな音色もみんな違ってみんな良いんじゃないの?
YOASOBIの音色の「ショボさ」というのはどういう部分に起因しているんだろう?
「その楽器の弾き方を変えることで生まれる音の違い」みたいな意味とがあるのではないかと思うけど(それとも無いのかな?)
プリセット音がどうこうというのは前者の話なのかな?
様々な楽器を使ったオーケストラの音楽よりもギター一本で弾いた音楽のほうがショボい?
あと音圧ってのもよく分かってなかったけど、基本的には「音量」とイコールでいい?
「最大音量と最小音量の差を少なくした上で平均音量を上げること」みたいな感じで理解したけど。
となると「音圧がショボい」というのは「音量が小さい」という話なのかな。
でも、音圧って上げれば上げるほど良いってわけでもないだろうし。
最近は、textを扱うどこのサーヴィスでも「お金があればこれができた」と「お金があればここに行けた」のオンパレードである。日本も本格的にこの文句が踊るようになってきた。大学入試に関する限り、あと30年ほどはこの文句はどうやっても消えることはないだろう。
明治維新によって、日本にもヴァイオリンやピアノの演奏会が始まりつつあった時も、聴衆のほとんどはこのように感じていたのだといわれている。しかし、当時の日本人は、西洋との格差を感じつつも、西洋文化をかつての中国のように否定はしなかった。明治を抜けて、大正や昭和の時代になってさえも、首都圏に限ってはゴドフスキーやプロコフィエフも来日した。アンリ・ジル=マルシェックスも来日し、ストラヴィンスキーを日本初演して帰っていったことは梶井基次郎の「器楽的幻覚」でわかる。海外との絶望的な生活水準格差を感じつつも、「格差を感じるのでこの作曲家は嫌だ」ということを日本人は言わなかった。追いつけ追い越せなので文句は言えなかった。「名人芸を披露したところでは客が拍手をした」としっかり、プロコフィエフも日記に書いており、日記に何でも付けた彼のことだからまるっきり嘘ではないだろう。
令和はどうだろう。
田舎や地方ですらもピアノや電子オルガンによる教育が浸透し、ポップカルチャーの中のピアノがニコ動ですらもキーワードになり、挙句の果てにはどこの大学にもピアノクラブがある。ジナステラのピアノソナタ第1番は東大生によって日本初演され、リゲティの練習曲集第2巻は元京大生の手によって日本初演された。昭和の田舎のサルとゴリラが動物園で騒いでいた時よりも、平成期から令和期にかけての状況は良いではないかという主張をする者さえいる。しかし、今の東京藝大ですらもレベッカ・サンダースやオクサナ・オメルチュクを招聘できるほどの体力はコロナ禍で残されていないだろう。
アカデミアの中核が、「格差を感じるのでこの作曲家は嫌だ」と言い出しているのである。
はっきりと、「お金があればこれができた」と「お金があればここに行けた」が飛び交うのは名古屋だといわれている。何の同人イベントを行っても成功しない名古屋。名古屋人は受験勉強には強くても、ほかがさっぱり、というのが平成の常識であったが、令和になったら変わるのだろうか?愛知は平成期にオーケストラを4つも持っていたが、戸島美喜夫にオーケストラ曲を委嘱することはほとんどなかった。単に、個人の怨嗟で終息するのなら問題がないのだが、同調圧力とでもいうのだろうか、市民のまとまった声になるのだといわれている。
かつてストラヴィンスキーやメシアン、ブーレーズをCIAが支援していた(グリフィスのModern Music And Afterを参照のこと)昭和期の日本では、海外からようこそいらっしゃいましたという敬意で満たされていた、と、されていた。事実は実は違っていた。招聘して喜んでいたのは首都圏の身の回りだけで、田舎と地方はそのような情報すら一切入手できなかった。田舎では、ピアノを床に置くスペースで演奏会を行う風習すらない。つまり、ベートーヴェンの「熱情」すら生で聞く演奏会がない。地方ではラヴェルのスペイン狂詩曲すら聞けない。これが1980年代の日本であった。
2020年代の日本は、主に田舎や地方の居住者によって、格差が証言されることが増えた。まだまだクラシック音楽や現代音楽を専攻する人間に向かって「金の無駄遣いだ」と言葉の暴力を用いる偏見は残っているが、奨学金で600万円も借金する学習障碍者が増えたおかげで、音楽のアカデミアに集う人間への攻撃は減った。もう、音楽のアカデミアで勉強する人間よりも、ほかの人間のほうが金を使うことは珍しくなくなった。中学の勉強で躓くと、地方ならあっという間に私大文系コースだろう。そちらのほうの教育が高額になってしまうのである。
こうして、底辺が教育費で底上げされ、アカデミアへの偏見は全体としてへっているというのに、アカデミア自らが「格差を感じる」ので大物の招聘が少なくなっているのである。かつてはジャンカルロ・カルディーニだろうが、ヘルベルト・ヘンクだろうが、ティニー・ヴィルツだろうが昭和の日本では交流会と称して招聘ができたのである。ところが、1990年代からなぜか変わってきた。「インフルエンザで休みます」というファックスを送付したのはハンス=ユルゲン・フォン・ボーゼであった。各種イベントに「非来日」という書き添えが加えられることが多くなったのである。日本の経済難を指摘する音楽評論家は多いが、ただ単に個人を招聘することくらい地方自治体でもできる。地方自治体が、「もう知的に進化することを放棄」したのが目立って増えたのが1990年代であった。
知的な格差は自己責任になってしまったのである。1980年代の昭和の時代まではこうではなかった。知的な格差を埋める人材が山本直純や芥川也寸志のようにいた。田舎や地方の教育は相変わらず公立に丸投げで、大卒組と非大卒組でしっかりと会話が分かれていた。「お金があればこれができた」という声があっても一瞬で黙殺できた。女性はまだ一方的に男性に殴られ、中傷されていた。殴られた現場を見ているので間違いがないのである。東京が黙殺すれば、それが常識にすらなったといえば言いすぎであろうか?
東京の地盤沈下は進んでいた。杉浦の解析入門を一行も理解できない東大生が増えたのは1990年代であったと聞いている。このことは、当時東京から遠く離れた私の耳にまで風のうわさで入ってきたので、結構有名なことだったのだろうか。1990年代、東京はもうどうしてよいか、さっぱりわからなかったのではないか?知的な格差を埋めるために行った政策も、ほとんど功を奏さなかった。作曲のコンクールもかつては30分も自由に書けて3管編成で30段以上で攻めることができたのに、少しづつ演奏時間とオーケストラの規模の縮小が始まっていた。「お金がないので、この編成で我慢しといてね」とアカデミア自らが言う羽目にまでなった。
そのうち、NHK電子音楽スタジオというものがなくなった。ドイツもアカデミー・シュロース・ソリチュード・マスタークラスがつぶれた。今、知的な格差を埋める国家プロジェクトといえばIrcamのCursus1か2ではないだろうか。「あとは自分でやっといてください」と教育者が放言するのである。これも、誰かが言った現場を目撃した。ネット時代なら、この男は失職したのかもしれない。
私はそのような教育者の怠慢があっても、なんともなく一冊づつフルスコアを図書館で文字通り「積んで」勉強したのでノーダメージなのだが、私のような人間がほかにいるのだろうか?他の人間は憎悪と怒りで満たされ、やる気をなくすのではないか?教育者が、これに気が付いたのはここ数年であろう。性差という観点から考慮すると、女性への人権向上が始まったと同時に、日本国内ではアカデミアの怠慢が始まっている。これは女性の手によってアカデミアのレヴェルが下げられたのではない。なんと、女性に気持ち悪がられるのを男性が恐れ、知の最先端を放棄しているのが東京なのである。
今最先端のピアニストと作曲家って誰なんだろう。そういう会話はもう日本では行うことは不可能である。できるのはドイツとオランダくらいか。アカデミアの中核にいる男性を、赤の他人の女性が難なく受け入れるということはきわめて難しい。首都圏人同士だと、女性から難なく受け入れたケースがあるのは知っているが、これが首都圏と地方人だとそうではないことがほとんどのはずである。首都圏の人にとって、首都圏以外の人間がアカデミアに乗り込んでくるのは、本音では嫌だろう。それと同じことが男女関係にも及ぶ。アカデミアに触れた男性を赤の他人の女性が受け入れるということなどあるのだろうか、という問題は、今後切実になってくると思われる。これは男女を逆にしても成立する。田舎と地方では「アカデミアに触れた男性は、一般女性と会話が合わないので気持ち悪い」「アカデミアに触れた女性は、一般男性と会話が合わないので気持ち悪い」というのが真相ではないのか?
そんなことはないという日本人は多いだろう。しかし、少子化と出生数が裏付けている。後進諸国ではアカデミアと大衆が切り離されているので、日本や韓国のようなタイプの急激な人口減などという問題には遭遇していない。しかし、日本を含む多くのヨーロッパの国々は「お金があればこれができた」と「お金があればここに行けた」が盛大に飛び交って少子化しているのである。フォーミュラ1のアレクサンダー・アルボンは、莫大な資金援助で一年半だけレッドブルに乗ることができた。リオ・ハリヤントですらマノーに半年乗れた。「お金があるのでこいつはドライブできる」という声はタイ人やインドネシア人からは聞かれない。タイは確かに少子化したが、まだまだアカデミアと大衆は交わらない。交わらない国家から刺激的な作曲家が次々と出てくるのは、性の限界を示している。交わった国家だけが衰退しているのである。
最近渋谷系ってワードを音楽雑誌とかその辺の論壇でよく目にするようになったけど、2年前の花澤香菜のアルバムで既にその辺終わってんじゃねーのって思った。
まあ花澤香菜の作家陣は渋谷系かっていうと違う気もするけど。そもそも渋谷系の定義自体めんどくさいところあるので彼らも渋谷系ってことにする。
んでまあここのところ渋谷系ってワードをよく出すようになった界隈ってのはアイドルの楽曲派な人たちっていう印象なんだけど。
「アイドルばかりピチカート」とかいうカバーアルバム出したりとか。
他にもそんな有名じゃないアイドルが渋谷系っぽさをアピールしてるような感じのが結構ある。
んでこの辺のシーンの中心ってのはたぶんNegiccoなんだろう。
なるほど確かにNegiccoには渋谷系の人たち、それも花澤香菜とは違って「元祖」な人たちも参加してる。
んでまあNegiccoがまるでポップス界の最先端かのような書き方されたりしてるところあるんだけど、もうこの路線花澤香菜でやったじゃん、って少し思うところもある。
Negiccoのプロデューサーであるところのconnieも花澤香菜のアルバムに影響を受けた旨の発言してるしね。
作家陣も少しだけ被ってるしね。
んで当の花澤香菜はというと新作「Blue Avenue」でもう渋谷系飛び越えてニューヨークシティポップスとかやっちゃってる。
それがミュージックマガジンのクロスレビューで誰だか忘れたけどオッサンが偏見まみれで2点とか付けてたりするんだけども。
まあそれはそれとして、今の渋谷系再評価の流れって花澤香菜のアルバムがわりと重要な位置にあるような気がするし、しない気もする。
それとは違ったところで、アイカツ!の曲も妙に渋谷系なところある。
「fashion check!」とか「恋するみたいなキャラメリゼ」とか顕著。
そもそも曲作ってるMONACAという音楽制作集団がそれっぽいところがあるんだけど、それだけじゃなくて、様々なジャンルの曲を女児に触れてもらおうっていう方針がすげえ良い。
メタルとかロカビリーとかジャズとかフュージョンとか裾野が広いのがたまらん。
Negiccoのプロデューサーであるところのconnieもアイカツ!は好きみたいだしね。
Negiccoも花澤香菜もアイカツ!もわりと近いところに音楽性がある気がするんだけど、この3つのファン層ってあまり被ってない感じ。
アイドルとアニメってすごい近いような気もするのにね。アイカツ!なんかそもそも歌ってるのがアイドルのたまご的な人たちだし。
まあ結局何が言いたいかっていうとアイドル好きもアニソン好きも音楽評論家もみんなアイカツ!見てください!って話と、ミトも来たんだからそろそろ沖井礼二あたりもアイカツ!曲書いてくれないかなって話だ。
音楽評論家の宇野功芳に「メータ(注:インド出身の指揮者)のブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」という言葉がある。
その言葉にならうのであれば、本作を過剰に批判する側にも、称揚する側にも、「ヱヴァンゲリヲンはそういうものなのだ。知らなかったとは言ってほしくない」の言葉を添えたい。
「Q」はアップデートされた「エヴァ」であるから「旧作の狂気が帰ってきた」と称揚する評は間違っている。「意味がわからない、映画としての書法をなしていない」との評価も間違っている。
その言葉は伊達ではなかったと、冒頭シーンで感じないものがいればそれは不感症なのだ。
あの冒頭シーンを見てこの作品を全否定するその神経が分からない。
状況の分からない空間戦闘からNノーチラス号の発艦シーンまでの息詰まる緊張感と圧倒的なヴィジュアルにため息をつかないものがいるとすれば、それはブーレースの演奏するマーラーを前に「精緻にすぎる」などと見当外れの批判をする童貞クラヲタのようなものだ。
圧倒的な美しさ、スタイリッシュさ、その疾走にはに頭を垂れるしかない。涙は追いつけない。
参照される古今東西の映像作品の断片に庵野の美意識が振るわれ、結晶として屹立するその様はベルント・アロイス・ツィンマーマンの音楽を思わせる。
あるとすれば、脚本、演出による。
いくつか代表的なものあげてみよう。面倒なので3点に絞る。
1.いみがわからない
私も意味がわからなかった。もう自己パロディとしか思えないほどのとっちらかった謎、伏線、設定に呆然とする気持ちはわからないでもない。
しかし、こうした要素は「わからない」ことも含めて、自らを「サービス業者」と規定する庵野の「サービス」であり、そのインタビューにもあるように「酒のツマミ」として楽しむべきものなのだ。すでに2ちゃんには解釈をめぐりいくつもの「名解釈」が登場している。そこにエヴァの本質はないのでその解釈論争の成立自体「そういうもんだ」と楽しむのが正解だ。「しらなかったとは言ってほしくない」
だいたい、我々が生きているこの世界自体、意味がわからないだろう。
2.登場人物の行動に整合性がない
そうだろうか。ある程度登場人物のおかれた状況に寄り添って、「補完」すれば整合性は保たれてはいないか?たとえば「破」で「行きなさいシンジくん」と煽ったミサトが「Q」で別人のように冷淡だというのも「ミサトの14年間の辛苦」といったものを忖度すればあながち整合性がとれないわけでもない。
だいたい、我々が生きているこの世界の人物自体、行動に整合性がないだろう。
3.リアリティにかける
ゲンドウと冬月の「二人のネルフ」はどんな金で動いてるんだとか、吹きっさらしのグランドピアノがなんであんなに綺麗なんだよ普通弦さびるだろとか、まぁ分からないでもない。
しかし、エヴァとは「私小説」なのだ。プライベートフィルムにおいて、美意識と表現される「わたくし」の前に「世界」のリアリティはある程度犠牲になるのだ。
つーか、あの廃墟、ぐっとくるじゃん。それでいいんだよ。
だいたい、我々が生きているこの世界の自体、リアリティがないだろう。
どこ見てんのかね。この「狂気」は完全に「作った狂気」だ。綺麗にまとまりすぎているし、旧劇場版のアドリブ奏法のようなどこに行くのかわからない狂気ではなく、計算された狂気だ。
「序」と「破」をいったんたたき壊すための仕掛けであり、旧劇場版の「狂気」に魅せられて未だに90年代から一歩も動けていないものへの「釣り針」だ。
この作品は「シン」へのかけ橋である以上、注意すべき点は以下の3点に絞られる
・旧劇場版とほぼ同じ立ち位置にいる「無限に後退していくシンジ」をQで再度設定しながら、決定的に違うのは旧劇場版のシンジの周りにはダメな大人と壊れたアスカしかいなかったのに、新劇では導き手としてのアスカとマリが設定されていること。
・旧劇場版で「鬱シンジ」を否定し、「序」、「破」で設定した、ポジティブな「シンジさん」(セカイよりもポカ波を選んだシンジ)も「Q」で全否定したこと。
・露悪的な破壊の中で、通奏低音のように「やり直し」「成長と大人になること」「社会とつながること」を流していること。
上記を踏まえると、庵野<旧劇場版で引導を渡したはずの「エヴァ」に依存するヲタク>をもう一回、別のアプローチで説教しようとしているように見えて仕方ない。ヒントは同時上映された「巨神兵、東京に現る」に流れていたようにも思える。
我々は上記3点の「伏線」に「シン」でどうオトシマエが付けられるのかを見守るべきであり、やはりつまらぬ結論ではあるが、それまで判断を留保すべきなのだ。
http://anond.hatelabo.jp/20101118233618
某所で海外ネタ系サイトの暴れ牛と呼ばれていたSankaku Complexが初音ミクがらみでウィリアム・ギブスンに噛み付いていた。
http://www.sankakucomplex.com/2010/11/18/william-gibson-not-impressed-by-hatsune-miku/
ギブスンのツイートを紹介し、彼がミクに「奇妙なほど感銘を受けなかった」うえに「夢中にもならなかった」と指摘。彼のフォロワーも「決して熱狂していない」と批判している。
それを受けてコメント欄も沸き立っている。そこで出てきたのが、ツイッターのギブスンはハッカーが化けた偽者説、ギブスンはツンデレ説、老いた説、映画シモーヌの方が好きだ説、実は日本嫌い説などなど。それ以外にも「ギブスンってどこのどいつだよ」「音楽評論家じゃね」「ギターのギブソンを作ったのと同じヤツなのか」「で、結局のところrezってどういう意味なんだ」「ファ*ク」など、言いたい放題になっている。
もちろん「彼ほど80年代に将来を見通した人物はいない」と擁護する声もあるんだが、全体に言えば圧倒的に否定の声が多い。日本側でギブスンをありがたがる声が多かったのに比べるとえらい違いだ。多分、日本側の方はSFの大御所の名を知っている中年が多く、Sankaku Complexに集まっている連中は「ギブスンなんぞ知らね」という若者ばかりなんだろう。
でも、あっさり切って捨てるようなギブスンの発言に対する初音ミク・オタクの反応としては、正直Sankakuの方が普通なんじゃなかろうか。ギブスンというだけで平伏してしまう日本側の反応は、いささか情けないというか拍子抜けである。
重なってきたよ。
本日は売れないミュージシャン兼音楽評論家Aさんに現代の音楽シーンについて語ってもらいます。
では。
インタビュアー(イ):現代の音楽シーンについてどう思われますか?
A: どう? どうもこうもない。なっとらん。
イ:は?
イ:どういうことでしょうか?
A:私の音楽は世界基準を元に作っている。それが認められないというのは日本がおかしいのだよ。
イ:(ちょ、なんか流れが怖いぞ方向を変えねば)
は、はあ。では話題を変えまして。現代の音楽シーンをにぎわしているGIRL NEXT DOORについてどう思われますか?新人ながら先日オリコン一位を獲得しております。ボーカルのかわいさとダンスの切れが特徴かと思いますが。
A:は?あの頭の長いボーカルがかわいいなどと目が腐っているのかね?盆踊りのようなダンスを素晴らしいなどと思うはずが無い。もっと音楽を勉強したまえ。
イ:(お、おい全否定かよ)
え、え、えーとでは東方神起はいかがですか?イケメンに4人のハーモニーが特徴的かと思われますが。
A:は?整形ボーカルグループがどうしたって? 売れてるとはおかしいな。所詮AVEXの自社買いと工作員の仕業であろう。もっと音楽を勉強したまえ。
イ:(何これ陰謀論?)
A:ああ、そうだな。陰謀めいた物を感じるね。みんな音楽の勉強がたらんのであろう。そうこの音楽を聴きたまえ。これは良いぞ。世界基準だからな!
は、はあなんとなく良いような気がします。
A:気がするではない!良いんだよ!もっと音楽を勉強したまえ。音楽を。では私の音楽も聞きたまえ。
イ:(はあ、なんだろうかこの押し売り展開は)
んー。良いんじゃないですかね。
A:良いんじゃないですかじゃない!良いんだ!君はほんと音楽を勉強した方が良い。世界基準は最高!それに従った私の音楽も最高なのだよ!
イ:(はあ、何だこの人世界基準の単なるうけうりじゃないのかしら?)
そうなんですか。はい。
興味がある方は、すべての記事に眼を通しましょう。
ここにもJASRACの問題に関する記事が多数あります。
学習参考書なんかは、中身を見ずに買うとえらいことになります(あと、漫画は中身を見ずに買うとエロいことになる可能性があります)。本がほとんどなかった戦前は、教授が訳書を学生に読み上げていく、という感じで授業が進んでいったように、本は貴重なものであり、著者は尊敬の対象でした。しかし、出版技術が進歩した現在、そんなこと言っていられるでしょうか?私が何冊つまらない本をつかまされたかわかりますか?
日本の一団体が海外の企業をつぶせると思っている時点で、アウト!どれだけ傲慢なんでしょう?
「名古屋市などの社交ダンス教室7件を訴える。」という記事の後日談となる「著作権料気にせずレッスンしたい ダンス音楽CDの自主制作相次ぐ」という記事の中にて。brain-boxさんによるはてブコメントからの情報です。ソース元が削除されていますので、信憑性の薄い証言ですが、これが事実ならとんでもない話です(まあ、産経が元記事らしいので事実でしょう)。
Youtube代表者との会合を終えた後、話した言葉。殴り合いになるとしたら、仕掛けるのはどちらが先なんでしょうか?
私たちに出来ることは、ただ愚痴ることだけ。このことからも、彼らがいかに傲慢かがわかります。
そもそも、どうして私的録音から課金するのでしょうか?しかも、徴収されたお金は、ちゃんとアーティストの方々の下に向かっているのでしょうか?理解に苦しみます。
ソース元は削除されている模様です。もう仕事をやめているのに、賠償請求……。どれだけお金をもらえば気が済むのでしょうか?
ある種仕方のないことかもしれませんが……。しかし、この団体は本当に人々の不幸のために働きますね。
日本の恥を晒すだけですよ。
協会