はてなキーワード: 伝統とは
●日々、社会の何処かでガキ野郎が生まれ、問題行為が繰り広げられている。
確かに、迷惑をこうむる側にも否があり、迷惑を掛ける側にも理がある場合が少なくない。しかし、問題行為が開始され、その流れが定まってしまうと、にわかに大勢が参加し、 過激さが加速度的に増していくさまは、脅威を感じるときすらある。
●今で言う鉄道系リア充や重度な鉄道オタクは、昔で言う暴走族のようにこういった人たちの多くは一見「物好き」を装っているが、本音は物を徹底的に糾弾し、傷つけ、ひねりつぶすことにあるという。そうだとすると、なぜ、「DQNすること自体を自己目的化したDQN」が横行しているのだろうか。その理由は「娯楽文化のスケールが極端に大きくなっていること」と「資本主義や新自由主義の発展」、「世界の肥大化」、そして「日本人が元来持つ特性」が関係しているという。
◯「オウム真理教」では疑心暗鬼にかられた人間が、ついには隣人まで信用できなくなり、仲間同士が殺し合い、そして「一般人」も敵として攻撃される。そしてついには組織の崩壊を招いた。今の鉄道消費空間はこれと似た状況になりつつある。20世紀にカルト化の恐ろしさを教えた「オウム真理教」はある意味歴史から消してはいけない存在である。
◯人間は電波系として生まれるのではない。どこかで偏見や憎悪を抱いた時、電波系になるのだ。何かを殺して気勢を上げれば、その囲いは狂気から心を濁らせていく。この連鎖はおそらくとどまることを知らないだろう。
集団ストーカー論者、1980~2000年代前半の青少年の行いがゆとり世代・刹那主義世代・理由なき犯罪者のような疑心暗鬼を生んだように、カルト化の横行はさらなる過激な思想を生むと思われる。
ひょっとしたら電波系は実在していて、この動きをほくそ笑んでいるのかも知れない。
こいつらは自分で切符などを買いあさり、故意に集団でその沿線で移り住み
をしやがった!実際は組織的に行っただけなのに!これは都会の人間としては絶対にみっともないことだ!
カルトとキ○○○を合わせ持つ最低最悪の行為だ!左翼活動家の集団移住よりもよっぽどふざけてる
こんなことが許されて良いはずがない!いいや左翼以上に外道な行いかも。
最近やたら安い駐車場や駐輪場や車やバイクが多いのもそれが理由じゃねーの?
最近は公共交通利用促進ポスターが都市部から消えているが、これで、公共交通利用促進の元に鉄道やバスなどの公共インフラをならず者のように我が物顔で好き放題弄んでいた私鉄オタクたちを委縮させ、需要が過剰に増えた鉄道やバスの需要を適正化させる有効な効果にもなると思われる。
一般市民などが私鉄の大盤振る舞いをやめさせて公共交通としての運営に専念させることが出来れば、鉄道で「遊ぶことが」できなくなり、鉄道の抱える問題のいくつかが減り、公共交通が再生される。
鉄道の利用者から消費者が減っていけば、よほどわずかな「露悪趣味を愛してやまない」卑劣な人間だけがふるいにかけられることになり、彼らのような異端な存在は、「世論の良心」によって糾弾を受けることになる。
大体この取り組みは嘗ての韓国で行われていたものだが、日本では、今こそ全国の自治体単位で当たり前のように広めるべきだし、もっといえば富裕層に対する公共交通の利用の制限とマイカー利用の努力義務をすべきだ。国土が狭くて人口の多い韓国や台湾でもできるのだから日本でもやらないとダメである。
「これは民営だ!公営ではない!」みたいなうちはうちよそはよその発想ではだめだ。そうやって大都市部から、過剰な需要を消し去る作業をするとともに、むしろ富裕層の健常者を対象にして公共交通の目的外利用に対して何らかの社会的ペナルティを実施するべきだ。←ほんとこれ
自分達の歪んだ行いを「昔からの伝統だ」とか「都会人の文化を馬鹿にするな」などと妄言を吐くが、公共交通の利用は無限に認められるべきものではない。
少なくとも何らかの制限は行わなければならない。
ましてや公共交通のあり方に対する私鉄への批判を「不当だ」と言って何の疑問も感じないらしいネット原住民のような子供のような存在をいつまでものさばらせておいてはいけない。
私自身、高校時代に鉄道を娯楽目的に利用して教諭に嫌われたことがある。当時既にこういった連中を嫌う大衆の意見が既に存在するからだ。
昔の私といい、私鉄オタクといい、公共に対する軽視が大手を振って罷り通っているこの社会の異常さを痛感する。彼らの不良ぶりがはっきりわかるんだね。
http://anond.hatelabo.jp/20161205000501
設定と小道具が秀逸だった。
1000年周期の彗星接近(及び破壊)に、1000年続くお祭り、伝統的な口かみ酒。
入れ替わりとタイムパラドックスの要素を組み合わせたストーリーは陳腐というかあるあるなんだけど、
歴史(実際にある伝統から感じるミステリアスさ含む)と科学を組み合わせたっていう点で、
実写よりも美しく感じる表現がある。
特に新海誠はアニメーションに美しさを持ってきた監督だと思う。宮崎駿とは別の種類の。
彗星なんかは、実写ではリアリズムを追求するので、それに合わせたCGになる。
それを美しく感じる人もいるとは思うけど、
新海が描いたような絵で描いたものほど万人受けはしないと思う。
設定の組み合わせのセンスというかアイディアだけで敗北感を感じた。
ストーリーは誰かに相談しながらやった方がいいのかな、って感じる。
脚本任せて良かったと思う。演出や表現は良いってわかってるのだから。
ただ次の作品が心配。ハードルが上がってる(とも言えないか。自分周りは評判悪かった)。
自分は新海監督には過去ガッカリさせられたこともあるので免疫あるけど、
世間はどうなんだろ。
追記
〉インタラクトさせたのがよかった。
FFの伝統を守ろとうしてる他のスタッフを「FF病」って馬鹿にしてる奴が指揮を取ってたからそりゃFFでもなんでもないものが出来る。
http://anond.hatelabo.jp/20161130113432
試される大地へようこそ! 1月にいらっしゃるとのことで、お勧めのお店を紹介します。
ここの「ガタタン」を食え。「ガタタンラーメン」がスタンダードだが、個人的には「ガタタン」をチャーハンにかけたものが好み。
「ガタタン」は塩味のあんかけなのだが、ほとんどこの芦別でしか食べられない。戦後、満州から引き揚げてきた人が中国料理をアレンジした料理を蘆別で始めた。これが「ガタタン」。
炭鉱で栄えた芦別。炭鉱マンをあったかくする為に「ガタタン」は食べられてきた。そして近年ではご当地グルメに。
そんじょそこらの粗製乱造されたご当地グルメには叶わない、引き揚げ~炭鉱労働という、戦後北海道の歴史のド真ん中を歩いた食べ物といえる。
これを味わいながら、北海道の近代史というものに思いを馳せてほしい。
今ではめっきり少なくなった、ただの食堂。ラーメンがメインで、二人のばあさんが作っている。
化学調味料主体の、懐かしいラーメンを食べたかったらここ。醤油を頼め。チャーシューが激烈に、懐かしい。
昼時に行ってみてほしい。近くの道の駅に大型トラックを止めた運転手さんや、地元の昼間っから道楽してるおっさんを眼にすることができるだろう。
ここから北見に抜ける運ちゃん、阿寒に抜ける運ちゃん、帯広に抜ける運ちゃん。今も昔も、足寄は人間交差点なのだ。
いいか、北24条の「三船」に行くんだぞ。「三船」を冠する店は何件かある。美唄焼き鳥の元祖三船福太郎氏にあやかったものだ。
由緒論はえてして混迷を極める。ここは伝統だとかじゃなく、純粋にうまいところを紹介する。それが24の三船だ。
ここ、メインメニューが美唄焼き鳥の鳥串で、サイドメニューも大変豊富。そしてどれもとっても美味しい……のだが、サイドメニューは頼みすぎないほうがいい。
鳥串が美味しすぎて、何本でも食べられてしまうのだ。6人で行って、一時間半でお通しと串120本と酒だけで帰ったことがある。それだけ串がめちゃくちゃ美味い。
札幌でザンギを食べたいならここ。ザンギって鳥の空揚げの親戚みたいな北海道グルメだが、その王道、典型と言えば松のザンギ。
ただしここはまっとうな居酒屋なので、酒もちゃんと頼むべきだし、注文しないでずっと居座るようなことをしてはならん。
食事メインなら正直いかないほうがいい。あと和風パブっていってるが普通の居酒屋だから気負うことはない。
道北や道東のいなかには美味しい蕎麦屋が点在しているが、ここは士別市の郡部にあるお蕎麦屋さんだ。
田舎のロードサイドってのがどんなものが味わうに格別の場所。②のあさの食堂と似てるんだけど、こっちのほうが人の往来が多い気がする。
ここの主人は、道外からやってきた人。多寄の食材に惚れ込んで移り住んだ。この多寄、蕎麦は生産するが、それはどこか遠くへ運ばれるだけだった。地元産の店を、超田舎で提供する試みが始まった。新しい移住・挑戦の歴史を感じたいならばここだ。
焼き魚を食べたいならここだ。目の前で焼いてくれる感じだ。私は山育ちなので、豊富な魚メニューのどれが旬なのかさっぱりわからない。けれど、いつも頼んだものは絶対に激烈においしい。
近くに道の駅があるから、そこも見学しよう。そしてこの界隈には美術館がたくさんありますわ。いずれも郷土の画家ですの。お嬢鯖も大満足間違いなしですわよ!
ニシンの時代は遠くなった。最近はまた増えてるらしいが。では漁村では何が行われているのか。それは、ニシンが群来(くき:大量にやってくること)ていた時代から培われた「水産加工業」だ! そんな歴史はともかくだ。札幌から200キロ程。ここまで離れると海鮮丼が安い! 「羽幌丼」を食べよう。地元産にこだわりたいなら「甘エビ丼」だ。食べ終わって満足したら、付設の直売所を見に行こう。水産加工のテクニックを直に感じて、お土産を買って帰ろう。
もう今では、餅を販売することも、自宅で作ることも所持も許されない。違反した人には、懲役3年以内の刑に処される。
禁止された理由は簡単。過去に多くの人が餅で喉を詰まらせ、餅が人を殺してきたからだ。
俺自身もまさか餅が規制されるとは思ってなかったが、様々な運動や事件が(餅規制派にとっては)うまくハマってしまい、餅が規制されることになった。
きっかけは、ある自治体が住民に対して、野外での餅つきを禁止したことだった。
これは、表向きは集団食中毒を防ぐため、とのことだったが、明らかに餅による死亡事故の責任を負いたくない自治体の責任逃れだと批判が集まった。
この時の世論は、「餅つきは日本の伝統。できないのは残念だ」という思いがほとんどであった。
このニュースが全国ニュースで流れ、はてぶで炎上し始め、餅つき禁止はおかしい、伝統を守れ、という意見が流れ、抗議集会が各地で開かれることになった。
趣旨としては、餅つきという日本の伝統を守り続けるために、衛生管理をしっかり行い、みんなで餅つきをして安全性をアピールしようと言ったものであった。
しかしながらこの集会が最悪の結果になってしまった。全国20か所で行われた餅つき会において、餅で喉を詰まらせた死亡事故が15件発生してしまった。
この最悪な事件は、先のニュースもありショッキングな事件として大々的に報道された。
まず餅の喉詰まらせによって家族を失った被害者団体が結成され、とても大規模な人数となった。
毎年食べ物で喉を詰まらせて亡くなる人は5000人弱いるが、そのうちの20%近くは餅によるものである。
それが毎年起こるのだから、被害者団体が大規模になるのも、当然である。
被害者家族たちは、
「餅を詰まらせて亡くなった時は、とても残念に思った。餅を食べる際の不注意が原因なので、仕方ないと諦めていた。」
「今思えば、餅を食べなければ死ぬことはなかった。こうした憤りをどこにもぶつけることができず、当時は苦しんだ」
それとは別に、政界の方でも、与党への支持率の高さに少しでも攻撃材料が欲しい野党らが、こんにゃくゼリー規制の時の議論を引き合いに出し、国会審議に持ち込んだ。
趣旨としては、「なぜこんにゃくゼリー規制の際に、30倍もの危険性を持つ餅を規制しなかったか。」とのことだった。
海外では餅は、サイレントキラーと恐れられ、内閣府の食品安全委員会が発表している「食品による窒息事故についてのリスク評価」でも、お餅は最も危険な食品のひとつとされており、お餅はこんにゃくゼリーの30倍、飴の5倍ほど窒息事故の頻度が高いことが知られている。
こうした危険性を認知していたにも関わらず、規制に乗り出さなかったのは怠慢だと攻撃し始めた。
これらの出来事をきっかけに、「伝統か人命か」という議論が巻き起こることとなった。
被害者団体は、「伝統を守るためなら人を殺してもいいのか?」をキャッチフレーズに、餅規制の署名を100万人規模で集め、国会へ提出された。
どんどん大きな動きとなっていく中、与党では何かしらの餅に対する規制を検討すると発表した。
当初の案では、特に死亡事故が多い10歳以下の子供、60歳以上の老人を対象に、家族等がいない状況での単独での摂取を禁止する方向であった。
また餅パッケージの1/3以上に危険である旨を表示することも義務付け、餅税などを検討していた。
しかしながら、年内に結論が出ず、翌年の国会に持ち越しとなった。これがまずかった。
来年以降餅が規制されるかもしれないとの危機感から、いわゆる駆け込み需要が起きた。
特に60歳以上の老人が餅を買い込み、大量に消費した。無理もない。今まで習ってきた日本人の伝統が規制されようとしていたのだから。
その結果、その年始で餅を喉につまらせて亡くなる人は例年の3倍以上、1000人にも上った。
事態を重く見た国会は、急かされるように1月中に餅規制法案を可決。60歳以上の人は、家族同伴、もしくは一緒に食べる人がいる証明がないと餅が買えなくなってしまった。
また餅を食べられるのは10歳以上ときまった。餅の消費を抑えるため、もち100gあたり30円の税金も課されるようになった。
こうして餅に対する初めての法規制ができてしまった。それ以後は雪崩式のように規制が強くなっていった。
税収増加も目的として、餅税が徐々に上がっていった。その結果、餅は嗜好品になり、タバコや酒と同じような扱いになっていった。
他にも色々あったが、徐々に餅を食べる伝統が失われ、餅を食べる危険性だけ目立って攻撃されるようになった。
かつては危険性があっても伝統だから、という理由で見逃されてきたが、それもなくなり、とうとう10年前に餅は全面禁止されてしまった。
寂しいような気もするが、どうしても餅が食べたいという人は、新しく開発された、詰まりにくい合成餅で我慢している。はっきり言って合成餅はマズイ。
だけど完全に餅がなくなったわけではなく、たまに餅所持の現行犯で逮捕された、というニュースが出る。
いや。
少なくとも伝統的仏教には「理解できた天才にすがる」という考え方はないよ。
チベットやタイの上座部仏教系では「個人個人が頑張って悟りを開け」が基本。
天才ですら他人を悟りに導くことは無理(せいぜい新しい悟りマニュアルを書ける程度)
と考えるんで「一部の超天才しか真髄に届かない」という言い方も間違ってない。
それに対して「いやきっちり理解できない凡人にも確実に救われる方法はあるんだ」
例えば「どうすれば一切合財みんな救えるか、と考え続ければ天才でなくてもいずれ悟りには届くはずだ」
とかそういうポジティブ志向。まあ「いずれ」が「100回生まれ変われば」だったりするけど。
さらにポジティブになると「南無阿弥陀仏さえ唱えてればOK」なんてとこまでいく。
どっちにせよ「すごい人を崇めてその人に縋って救ってもらおう」っていう
キリスト教の聖人みたいな「特別に偉い人を救いの契機として扱う」方向は
密教系は良く知らんので、ひょっとするとそういう方向もあるのかもしれんけど。
なので信仰者としての立場を極力排してなぜ胡散臭いのか、本当はどうなのかを考えてみます。
最初からいいますが、僕は新興宗教自体を胡散臭いとは考えていません。
身も蓋もない言い方ですが、キリスト教はユダヤ教の新興宗教ですし、仏教も日蓮宗や浄土宗、臨済宗は密教系とは重要な教義が異なっています。
私はカソリックですが、米大統領選でも注目されるモルモン教や福音派などのプロテスタントは明らかに新興だと言えます。
基本的なことですが、この点をまず明らかにしておきたいと思います。
ではなにが胡散臭いのかというと、相当分がみなさんと宗教の接点ですれ違いが起こっていることになります。
そして悲しいことですが、本気で胡散臭い活動も当然ながらあります。
宗教側からみなさんへの第一の接点は布教活動になると思います。
僕が通っていた大学でも注意書きが掲示されていましたが、家に押し掛けてくるのは胡散臭さレベルが高いので敬遠するのに越したことはないでしょう。
商売と一緒で「売ってくれ」とお客さんが来るのが最高の営業ですが、現代日本ではこれはほとんど期待できないでしょう。
ではどのように新しい信者を獲得するかというと、団体としての活動や宗教活動を通じてということになります。
代表的な新興宗教には宗教活動以外にも莫大なお金をつぎ込んでいるものがあります。
PL教団の花火大会や、米ソルトレークシティのモルモン教の大寺院などはその代表的なものです。
このような活動には伝統的な宗教も古くから関与してきました。宗教は伝統的に文化・芸能活動の庇護者であったのです。
長い歴史の中ではそれに対する反発もありましたが、現代日本でもその恩恵に多く与ることができます。
例えば東京観光や京都観光には寺社仏閣がつきものですが、その観光価値は一般の方には庭園や天井画や襖絵、建造物にあるのが現実だと思います。
そのような文化活動は信者と、一般の方の両方に働きかけるもので、難解な教義を介さない身近な存在として宗教を感じてもらうことができるのだと思います。
新興宗教には巨大、特徴的な寺院を建造するところが多くあると思いますがこの理由はちょっとわかりません。
ただこのような建造物を建てたからと言って、教主や教団幹部の懐に直接お金が入るわけではないということは留意しなければならないでしょう。
教義は信仰者にとっても難しいものです。カソリックでは洗礼を受けるにはちゃんと勉強をして認められなければなりません。
本来ならばどの宗教でも教父にあたる方に接するのが第一歩になるでしょう。
ただ、いきなり相手のホームグラウンドに行くのは恐いですから興味のあるお寺(教会)に電話してみるのはいかがでしょうか?
自分の考えていることを吐露してそれで答えが受け入れられないものであれば、それは相手方の落ち度でしょう。
元増田のアプローチは、まず文字に当たるということですが、どの宗教でもその本質は活動です。
「wikipediaは参考文献に含まれない」とはよく言ったもので少なくとも宗教で学ぶというのは不適当ではあると思います。
完全に新興の宗教は別として、多くの新興宗教は既存の宗教の派生です。なのでそれぞれの教義には数百年単位の積み重ねがあり、
一人でそれを理解しようというのはだれにとっても不可能でしょう。ただしその本質というものはシンプルで良いものであると私は信じています。
長い人類の歴史の中では宗教と歴史が分離されていたことの方が少ないでしょう。
それはさておき、宗教が政治を無視できないのは宗教が人の本質にアプローチするものだからです。
人の生活に直結する政治とはどうしても重なる部分があるということが宗教が政治に関わっていく要因でしょう。
「波動」や「飛行」というのを聞いたときの胡散臭さは相当リアルに感じます。
それはそれとして一歩引いてみれば仏教用語の因果や因縁、「宇」や「宙」というのは非科学的な概念ではないでしょうか。
これらを科学的に検証することはできませんが、明らかに科学と矛盾するものとしてキリスト教の進化論や地動説を否定があります。
私自身は技術者として生計をたてていて、人は猿から進化して、地球は太陽の周りを回っていると思います。
非科学的ということが宗教を損なうのはその真実性を損なうからだと思います
これはどこの宗教でもつきものだと思います。検証不可能なことは証明できませんし聖典は多面的な読み方ができるため科学的な検証には向いていません。
「聖典が正しければ寺院(教会)・教義は正しい」そして「寺院(教会)・教義は正しければ聖典は正しい」というような循環論法に陥りがちです。
これに対しては僕が言えるのは「あなた自身の考えて」という月並みなものです。あなたが一歩を踏み出してよい教えに導いてもらえることをお祈りしています
マジレスするね。
一応自分はどことは言わないけど、とある新興宗教を信じてるものです。
と言っても自分が信じてる宗教に限った話ではなく、一歩引いて宗教ってこういうものーという視点で答えてみます。
まず全体的に「胡散臭い」と思うのは正直、正常というかしょうがないなーと思う。
「マスコミガー」とは言いたくはないけど、実際問題としてマスコミの影響ってかなり大きい部分があるかな。(報道しない自由ってやつだけど)
理由は大手のメディアやマスコミは新興宗教を全くと言っていいほどほとんど報道しません。
(歴史ある有名宗教ですら、一部観光的な部分(京都のお寺とか)か歴史的な部分やおぼうさんの良い話くらいしか報道しないけど。)
だいたいどの新興宗教も一般的な善行(震災時の炊き出しとか寄付とか)をしてることは意外と多いんだけど、良いことをしてるときは基本報道しません。
報道するときは、だいたい事件性があるときや、何かスキャンダル的な部分を面白おかしく盛ってるときくらいです。
要は、良いことや肝心の中身は伝えないけど、悪いことをした(とメディアが思った)ときだけ報道します。
そりゃーいい印象もてないよ。何をしてるかわからない集団がいつ事件を起こすかわからない!みたいな印象になっても不思議じゃない。
しかもオウムという超特質な宗教も実際に出ちゃったし。(実はこれが一番の元凶だと思ってる)
これはたぶん宗教によるかな。そもそも新興宗教と言っても、仏教やキリストなど伝統ある宗教の派生系のものが多かったりします。
実際に中の人たちもよくわかってないけど、「昔の偉い人が言ったものをそのまま伝えてるから」という場合もあるし、
逆に古い教えを簡単に現代語で言い換えた時点で、「その言い換えた人の解釈が加わってしまうので、元祖の言葉の意味を曲げちゃう」からあえてできない、というのもあるし。
それと、他でもでたけど、元々教義がなかった宗教もあります。教祖や預言者が言ったものを後年、誰かが編纂して教義にした、とかね。
あと、「あえて難しく見せたほうが権威がある」ように見えるから、というのも宗教によってはあるはず。権威というのは意外と重要な部分だったりします。
もちろん、現代的にわかりやすく作ってる宗教もあったりするけどね。一見簡単に言い換えられてる教義はすぐ反論できる気になっちゃうでしょ?
これも宗教によって考え方が違うと思うけど、基本的にはその宗教の「神」を祀る領域なので、信じてる人にはとっても「神聖なもの(領域)」です。
その神聖な領域をチープにするというのはないよね?という感じ。
歴史的に見ても、多くの歴史的建造物は宗教が関係している建物だと思います。お寺とか教会とかお墓とかね。おそらくその時代の最高の装飾や技術を投入してるはず。
もちろんそれに伴って金銭的に法外にはなると思うけど。
そもそも宗教は人助けや悟りを求めるもので、多くの人を救いたいという欲求があります。
実際問題として、突き詰めると政治を変えなければ世の中が良くならないという事象に行き着くので、政治に介入するというのはある意味しょうがないです。
むしろ政治に興味がないということは、世直しや人助けを本気でしようと思ってないとも言えるけど。
あと、逆に歴史的にいうと宗教が政治に介入していない時期のほうが長い時代で見ると圧倒的に短いです。詳細は省くけど宗教と政治が関わってるほうがむしろ普通とも言えます。
一般的にどの宗教も教えを広める布教活動をしないことはありえなくて、良い教えは広めたいという欲求は不可避です。
ただ、その布教する人が一般的に信者さんで、その信者さんはごく普通のおばさんやおじさんだったりします。(若い人もいるけど)
要は教えることや人に何かを伝えるプロというわけでもない普通の一般的な人なので、アプローチの仕方や接し方が下手だったりします。
むしろ側で見てると、その言い方ないわーって思うこともしばしばw その方法が下手で気持ち悪い、と思われる原因にもなってる気がするんだけどね。
この世的な現代の科学が全てという認識をもってしまうと、全てが非科学に見えるかな。
そもそも「魂」や「神様」というのは現代の科学で計れないものでしょ?
逆に現代の科学がそこまで進んでなくて、魂や神様を証明できないくらい遅れている、という見方も一部あったりするけどね。
これも布教をするためには、現代社会にはどうしてもお金がかかっちゃうからしょうがないかなーと思う。
あと、この世的な「お金」が全てじゃないよ、という視点があると、その執着を持たないというのも考え方の1つかな。
突っ込みどころはたくさんあるのは承知で、今自分が知ってる範囲の浅い知識で答えたけどこんな感じ。
ただ、1つ言いたいのは目に見えない崇高なものを信じるというのは「とっても尊い行い」で決して悪いことではないんだよということ。
そういう目に見えないものを信じてるからこそ、誰も見てなくても悪いことはしないというような道徳的な考え方になるしね。
(日本人のモラルが高いのは意外とこの宗教心が高いから、とも言えるんだよね。)
こいつは騙されてるんだとか、洗脳されてるんだみたいに思われちゃうのもしょうがないと思うけど、崇高なものを信じてる人を悪く思う現代の日本の考えはちょっと悲しいことかなとは思います。
追記
>なんで伝統宗教じゃダメなのか、っていう一番大事なことが書いてない
いくつかあって、おそらく各宗教によって違う部分だと思うけど、
から。確かに伝統宗教の教えで、多くの人も(考え方によるけど)救われてきただろうし、安らぎを得られた人は多いと思う。でも現代の複雑な問題や昔の考え方だけでは対応できない時代になっている。
個別のところで言うと、「現在の貧困や経済原理」や「グローバル化した社会の問題」、「クローン」、「宇宙問題」、「性差別」や「インターネットやメディアの問題」、などお釈迦様やキリスト、ムハンマドが生まれて教えを解いた内容やその次代の考え方では解決できない。というか時代背景を考えると当然といえば当然で、これは伝統宗教が悪いとかではなく、時代が代わりすぎてしまったから新しい考えや教えが必要だよねという考え方が1つ。
もちろん伝統宗教の普遍的な教えの部分は今でも十分通じるし、正しいことだとも思うけど、やっぱりそれだけでは現代社会の問題を解決できないからじゃない?と思う。もちろん伝統宗教を否定しているわけではなくて、いい部分や不変な部分は残せばいいと思う。もちろんすべての新興宗教がこれらの答えを出せているわけではないけど、考え方としてね。
それともう1つ。
伝統宗教と言っても、「巨大組織が長く続くと、腐敗も進む。」組織を運営してるのは所詮人間だからね。その腐敗した組織は淘汰や改変が必要で、長い歴史の中では、派閥や会派など、分裂、競争、差別化、滅亡などいろいろ繰り返している。
そのあたりは企業と一緒で、古くて大きい会社がいつまでも最高かというとそんなことはなかったりするでしょ?イノベーションや進化、新しい考え方みたいなものを取り入れたところだけが生き残る感じ。
実は新興宗教というか宗教の世界って、かなりの競争社会で国内だけで数万団体があるのだとか。その中で滅びる宗教もあれば、生き残って大きくなる宗教もある。市場原理と一緒で競争社会。より多くの信者を獲得できた団体が生き残るというのはその通りで、かと言って営利主義的だけに走っても人は離れていったりしちゃう。
もちろん、戦争に負けた、国が滅びたなど物理的な問題で滅びたところもあるだろうけど、多くの人を引きつけることができなくなった宗教は淘汰される。ざっと思いつくところはそんな感じ。ところどころ乱文になってるけど、文章が書くのが下手なのですいません。
正直、ここまで数字が伸びると思ってなかったので、ちょっと驚いています。あっさりスルーされると思っていたので。
多くの反論や暴論、各人の経験談や心情などいろいろ拝見しましたが、全てを尊重できるものだと思います。
特にそれぞれの思想や今までの経験、宗教というものに嫌気や嫌悪を感じてる人が多いというのも理解できます。自分も人生の多くをどちらかというと反対の立場で過ごしていたので。
個人的に感じたことは、どんな意見であれ「宗教」という繊細なものにみんな一言物申したい!という感情を感じました。
先にメディアがどうのと言いましたが、ある意味リアルな生活上でもメディアでも日本国内では話題にしちゃいけない領域、見てみないふりをしていた話題というのを再認識できました。
ポジティブに考えると、多くの人が興味関心がある領域とも言えると思うので、リアルな場でもそれぞれの意見をはっきり言えるような話題に昇華できる日がくるといいなと思いました。
パラパラとかディスコミュージックみたいな、ギラギラした音楽と言うかショーはどこが発祥なんだろう
youtube でドラムラインの動画を見て、イギリスとかそのへんの伝統的な兵隊のような動画を見て、かっこいいな〜と思った
日本の同様なパフォーマンスをみて、ギラギラしすぎててなんだか悪く言うと下品だなあという印象を受けた
いや、それなりに技術もあるし真似はできないっていうのは確かなんだけれど
日本ってそもそもパフォーマンスが厳格なものって雅楽ぐらいなのかな?
祭りとかに関しては、砕けてみんなで盛り上がろう的な風土なのかなあと思った
キッチリとしたもの見せるよりも、それをベースに砕けてまわりを巻き込む、見るだけじゃ終わらせないみたいな感じ?
花言葉の起源は不明な点も多いけれど、それなりに考えて作ってると思うよ。
西欧の文化史的伝統を知らないと適当につけたものと思われてしまうのかもしれん。
1819年頃に出版されたシャルロット・ド・ラトゥール『花言葉』 (Le Langage des Fleurs)は、最初期の花言葉辞典である。
ラトゥールは独自の花言葉を270超のリストにまとめているが、その命名手法の特徴は、大きく2つに分けられる。
第一は、その植物の外形や香り・色・生態といった植物の性質・特徴を言葉で表現しようとする観察重視の姿勢。たとえばブラックベリーについて、自らの観察をもとに「人目を避けるように生え、ひとたび口に含むと苦さだけが残る」とまとめた上で、花言葉を「嫉妬」と名付けるような手法がその例である。
第二は、西欧社会で草花が積み重ねてきた文化史的伝統を、一つの単語に凝縮して形容しようとする文化史重視の姿勢である。例えば古代ギリシアの伝統を参照しながら月桂樹に「栄光」の花言葉をあてたり、聖書の記述をひいて「オリーヴの花言葉は平和」などとする。
ラトゥールの著作においては、花の中でもバラに重要な位置が与えられているが、これも文化史的伝統を重視した結果とみなされている。バラは「花の中の花」と称されるほど西欧文化において重視されてきた花の一つで、伝承や神話がとりわけ豊富だからである。
まあこの時期はもう募集終わってるところがほとんどだと思うが、お正月の巫女のアルバイト。
これは学生の応募がほとんどであり、さらに言えば、学生にとってはバイト先で痛い目見るのも社会勉強の一環とは思うんだが。
まあ神主様はとっても優しいので書いてあげよう。と思う。
<< 巫女バイト応募時の心得 >>
1:まず何で給料がクソ高いのかよく考えましょう
基本的に、巫女の正月バイトに出す給料というのはかなり高い。正月しか来ない一見さんに払う給与と考えるとさらに高い。
で。
お正月で。神社で。巫女の恰好して。ニコニコ笑って。参拝者にお札だのお守りだの渡すだけで。
一万もらえる。
常識的に考えてないわなあ。
そんな美味しい仕事をわざわざ学生に分け与えたりはしないわなあ。
無論、ひな壇芸人のような、並んでニコニコ笑っている若い女が境内の景色に欲しいからってわけでもない。
(正月にデカい神社の境内で巫女が大勢ニコニコしてるのがずっと伝わってきた伝統だからそうしているだけだろ、と言われれば確かにそうなんだが)
じゃあなんで給料がクソ高いのか。
皆が寝ている時間や年明けを祝ってパーリーしている時間に目ん玉おっぴろげて波打つ参拝者の群れと対峙し、朝が来るまでひたすら紙幣と神札類を交換し続ける過酷なお仕事だから給料クソ高いのです。
2:アルバイトに応募する時は連絡先を伏せず、ハンドルネームではなく本名を名乗りましょう
ここまでくるともう社会常識の話になってくるんだが、社会に出てない学生に社会常識持ってないのかよお前と言ってもしょうがない。
ちょっと話を聞いてみたい、詳しく話を聞いてみたい、そんな軽い気持ちで応募窓口に接触してくる方も大勢いらっしゃいます。それはいい。
話を訊いて大丈夫だと確信したら改めて個人情報を開示したい。そういう慎重さもこの現代社会をサバイバルする上で素晴らしい姿勢だと思います。
でも具体的な話を聞く段階なら連絡先くらいは伝えましょう。こちらから連絡できません。
ハンドルネームを名乗るのではなく本名でお話をしましょう。アナタのお名前呼べません。
だから別にいつも最後まで喋らなくても、周囲の人々はアナタの意向を察して先回りして対応してくれます。日本人はとっても親切。
でもお正月の神社にはいろいろな人が来ます。普段神社に来ない人も来ます。
要するに、上品で親切で敬意と謙譲を忘れない、普段神社に来るようなタイプの人々…それ“以外”の層も来るという事です。
参拝者相手に限らず、職員間においてでも、つまらない些細なコミュニケーション不足が致命傷となり得る状況があっさりと巡ってきます。
報告連絡相談はし過ぎるくらいで丁度よく、態度ははっきりしっかりと、言葉や台詞はちゃんと最後まで喋る。
バイトだから問題ないと思って責任感のない仕事をするのは別に構いませんが、もらう高い給料分くらいの責任感は持って働きましょう。
4:アナタがどれだけ巫女服が似合うか、どれだけ有能かに神社は一切興味ありませんが、アナタが時間通り出てきて求められた仕事をキッチリこなす事にはとても興味あります
巫女服風コスプレ画像。いりません。(←これから応募しようというバイト先の人間全員をコスプレと暗に切り捨てていくスタイル)
一般的な営利業務におけるアルバイトの募集に対してそれらのアピールは価値あるものなのかもしれませんが(…そうか?)、神社には必要ありません。
大昔から毎日毎日、決まった時間に決まった事を決められた通りに行い続ける神社において。求められる人材とは、まず決まりごとに従う人間です。
指示をよく聞き、決まりごとには従いましょう。
5:思い出ジャンキーにはならないでください
“このアルバイト経験はきっと、いい思い出になるはず”。 その志望理由だけを武器に正月という怪物と戦い抜こうとするのは、ちょっとつらいと思います。
“せっかくの珍しい経験だから、何かを持って帰らねば”。その意識高さが生かされるのは恐らく、もっとゆとりある忙しくない職場であるかと思われます。
業務に集中しきれない余念が渡し忘れや勘定ミスを生み、何よりもアナタの思い出をだいなしにしたり、意識高いアナタの自己評価に傷をつけたりします。
思い出はずっと後になって振り返った時に遠くから綺麗に見えるくらいでちょうどいいのです。目の前の業務に集中しましょう。
いや、本当に色んな人が来るもんだ。
いや、東工大やんけ。もし東工大で女子の支援を目的とした奨学金が「多い」のだとすれば(実際女子が極めて少ない環境で学んでいる女子の苦労を考えれば五件で多いとはいえないと思うが)それは、かなり昔の先人が非常に苦労した結果地道な努力をして女子教育に力をいれようとした結果だろうよ。東工大の男女比って理工系だけなのに4:1だし、だいぶ昔からOB,OGが頑張って女子学生「も」入学できる環境をととのえてきたんだと思う。今調べたけど寮も多いし、そもそも大岡山は駒場近辺より家賃安いし。
東大っだってもちろん女子のみの奨学金はあるけれども、文系、医療系、農学系と女子率が比較的高めのとこばっかりなんだよねぇ。なんでかっていうとOGがいるからなんだよねぇ。。。OGがすくないところは耐えるしかないのよねぇ…今は女性活用ばやりでそれを言えば予算が確保できるようなとこもあるんだろうし、これを機に工学部にも女子が増えてほしいですねぇ。
あと今はネットでかんたんに炎上するんで企業側も知恵をつけて正直に書かなくなってるけど、性別不問とかいいつつ都合のいい人だけを選んでる可能性はあるやん?まぁもしそうだったとしても仕方ないかなって感じではあるけどな。所詮奨学金は善意だからもらう方は文句をつけられない。
そもそも状況が違うのを「嘘だ」と指弾して君はどうしたいの?どうしてほしいの?自分たちは既得権益側じゃない、むしろ被害者だって言いたいの?それともお前らは既得権益側だから黙れって言われてるように感じて反発してるの?
別に男子学生は黙って耐えるべきとは思いませんよ。問題があるならたとえ対象者にならないとしても今の制度内で不足してるんだとアピールするしかないんじゃないですかね。実際自分もそうやってマジで六年死ぬ思いしましたし、当時の状況なら他の大学のほうがずっとよかったが、あのしなくていい苦労を後輩が味合わずに済むならいいことですよ。ただでなくてもまだまだ「女子が少ないならモテるでしょう」みたいな無邪気な事言われる存在ですからね、工学部女子って。
というか首都圏に実家がある日本人女子って更に弱者の地方出身者やアジアの留学生にパイをうばわれてきた既得権益側なんで、ようやっと大学が重い腰をあげて富を配分しようと思ったか、と感心しているくらいだ。このあたりの層に支援が入るようになれば当然そのうち最大のマジョリティに対してもなんらかの支援が行われるようになるだろう。一気にという訳にはいかないだろうが、東大は法人化してから授業料の値上げをできるだけしないようにしてたり、博士課程の授業料軽減しようとしたりしてるんで(いまいち金が足りなくて出来てないが)、たぶんいずれやる。というか日本のボリュームゾーンって中産階級なんで、いつまでも富裕層のためだけの学校じゃ困るんですよね。まあ、それが東大の伝統ではあるのだが…
いつも通り、両陣営とも都合の悪いニュースはスルーして都合のいいニュースにご高説垂れ流すブコメ付けて罵り合いという
はてな村の日常が今も絶賛展開中なのですが、その下らない罵り合い見ててふと思い出したことがあった。
はてな村では「オバマが自身に反対する人に対してポリコレ的に正しい対応をした」ニュースとして消費されたんだけど、
トランプ支持者がプラカードかなんかを掲げた後、会場は一時騒然となるのだが、その後観衆をなだめようとするオバマの姿がいつもと違って見えた。
初めは冷静に観衆に語りかけていたが、いつまで経っても収まらないので徐々に言葉が強くなり出す。
終いには机を叩いたりしながらなんとか事態が収まった。
そのときのオバマにはかなりの動揺とほんの少し苛立ちがあったように自分には見えた。
アレがオバマ側の演出なのか、本当にトランプ支持者が一人で乗り込んだのかは分からないが、オバマ陣営の人達は相当肝を冷やしたことだろう。
オバマという、現時点でのポリコレの見本とでも言うべき人の支持者ですら、一人の異分子を放り込むだけで瓦解しかねないことが露呈したからだ。
最終的には落ち着いて何とかオバマの株を上げるネタになったからいいようなものの、一歩間違えば今のアメリカ国内の惨状の先行体験会になったことだろう。
実際、トランプ陣営の集会では同じ事が起こって真逆の結果になったわけだし。
ドス黒い感情を溜めたヤツが発散の言い訳にポリコレを使うのか、反ポリコレを使うのかだけの違いで、そこに政治的な意味なんか何もないのに
必死に政治的な意味合いを見出そうとしてるアホ共が罵り合いしてるだけで、解決策の模索なんか何も起こらない。
お互い向き合うことすらせず、視線をズラして自分の中の仮想敵と必死に戦ってる。はてな村的には非常に伝統的な光景ですね。
これからも頑張ってください。
大阪の人と話していて、沖縄の人の労働感覚の話になったんだけど。
那覇空港にテナントとしてコンビニでも、1時間半後に出る航空券の発券を頼んでいるのにチンタラやってる。
非常にイライラさせられました。
そういう経験は私もした。
沖縄の女性は、割と接客は上手かったり、人の気持ちを察するのが上手い人はいると、思う。
沖縄は、基地やら国際大学もあって外人も多いので、パーリーピーポー(?)な人もいるようだし。
アラサーを超えて、飲み会の機会が増えたり、車社会で夏は炎天下だから歩く機会がないせいか、体重も増えるようだし。
だけど、表に出てこない苦労みたいなのがある。
エイサーって踊りがある。
うるま市なんかだと、若者はエイサーに駆り出される。那覇や浦添の方は都会だから、そんなこともないみたいなんだけど、
エイサーの練習って、夜中の3時か4時までやるらしいんだよね。
伝統の踊りを守るために、厳しいことを言う人もいるからこその伝統らしいんだよね。
ムラ社会的な部分ですか。
(京都の祇園祭とか、そうらしいけど。お嫁に出て娘が実家に呼び戻されて、その時期に山車の引き手の人の為のおにぎりやお茶作りに駆り出されるとか。)
ほんと、働く意識とかはないけど、仲間意識とかはすごいのよね。
コミュニティーに馴染むまでが大変なのかな...。
私は、関わり合いを持たずに沖縄から去ることになったのだけど。
アメリカ大統領選挙が終わりましたね
(人によっては)窮地の状態になったせいか、オバマ氏やめないで!とか現地の方のツイートがTLに流れてきたけど、弱腰で何も出来ない駄目大統領みたいな風に昔言われてませんでしたっけ?
政治思想や実際にこれまでされてきたことなど、候補者両名について詳しい事は知らないのでどっちがよかったとかはないのですが、今回の選挙について気になったことがあるのでひとつ
アメリカの新聞は大半がヒラリー氏応援だったのに、選挙で勝ったのはトランプ氏だった!というまとめ記事に、もうマスコミになんか騙されねーんだよwwwみたいな…しかも論調的に大方そんな意見が主流の記事を見ました
うん、そう思う
日本なら
日本の報道の仕方には、かなり疑問がある。ひどいよね、とかずるいなーと思う事も多々ある
あれだけ国土が広いので新聞社も数多あります。日本の比じゃない。お住まいの地元でしか発行されてないなんとか新聞も、当然アメリカにもあります
アメリカにおける州=都道府県、国=国とお考えの方もいるかもしれませんけど、むしろ州が国、国が全世界みたいなイメージなんじゃないかな
だから州の中で発行されるものにも、由緒ある新聞社もたくさんある
「ボストン・グローブ」とか聞いた事ありませんか。マサチューセッツというひとつの州のなかのボストンという街で発行されてる新聞
そこが「キリスト教の神父が子供たちに性的いたずらをしているけどもみ消してる」という記事を掲載し、世界中の教会でも同様のケースが発覚して大問題になりました
キリスト教なんてアメリカどころか世界規模の組織で、権力者を含む色んな人が信徒で、敵に回してすんなりいくわけない相手です
そこを相手にして、世界的なスクープをすっぱ抜いたのが、そのひとつの州の都市部で発行されている伝統ある新聞社だったわけです
日本の大新聞社でもできない取材力、記事を書く力というか文章の説得力、などなど日本のマスコミと一緒にしないでくれー!!
そもそも「真実をお伝えします。ここに書いてある事だけ信じてください」なんて報道の仕方もしない!!
はっきりいって全ての新聞社が公平でもない。公平な報道はするかもしれないけど、公平な論説ばかりではない
朱色だったり、ブラウンベージュよりだったりの色んな赤旗新聞がたくさんあると思ってください
マスコミと購読者、何が違うかっていえば「取材をする手段があるかどうか」じゃないですかね
それらを元に我が社はこういう理由でヒラリー氏を応援しますって方針を決め発表してるんです
ヒラリー氏を応援してくださいそれが正しいんです、とは微妙に違うんですよ
それが気に食わなければ購読をやめて別の新聞を読めばいいだけ。たくさんありますらかね、選び放題です
当然どこの世界のマスコミにだって煽動記事を書く記者はいるでしょう。でも自分の本名を記載して、社運をかけた意思表明記事なわけなんですよ
新聞社が騙す、騙されるのレベルの話じゃない。購読者が新聞社を選ぶ、という話なんです
日本のことしか知らなければマスコミ=巨悪と思いたくなる方がいるのも仕方ないのかなと思うんですけど、世界には自分の信じた正義の為に真面目に報道に取り組んでる人もいることを思い出して欲しいです
自分の国がこれだけひどいと世界的にもひどいのばかりだろ!と思いたくなるのはすごくわかりますが!
こちらは新聞社が誰を支持するか発表するってことがアメリカでは割と重要な判断ポイントになることがよくわかるブログ記事でした
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2016/10/post_484.html
取材し、経歴を調べ、見聞きして、頭のいい方々寄って集まって考えて、トランプ氏を応援しない(けどヒラリー氏を応援するとも言ってない、っていう記事すらある)と大多数の新聞社が発表したのにトランプ氏は当選してしまったという話です
"21世紀における金融政策” (教科書、2062年出版)より
2012年の安倍自民党政権成立後、日本銀行は金融政策実施に当たって政府との連携を強め、年率2%のインフレ実現を目標に掲げて、「異次元緩和」と呼ばれる大胆な金融緩和策を実施した。
2013年以降、日銀は国債とETF(指数連動型上場投資信託)を最初毎年50兆円、そして80兆円づつ買い続けた。さらに2016年には「マイナス金利」政策を導入し、イールドカーブの人為的な操作にも手を染めた。
それらの結果、2018年4月時点で、日銀の国債保有割合は発行済総額の5割に達し、ETF総額に占める日銀の保有割合も8割に達していた。
にもかかわらず、日銀はまだ2%のインフレターゲットに達成することができなかった。2017年の物価上昇率はわずか0.3%であった。
「もう買うものがない。」というのが2018年度を迎えた日銀にとって最大の問題であった。
市場に流通している国債が極端に少なくなっていく中で、日銀による国債の買入れオペを拒否する金融機関が出始めていた。
2018年4月に黒田前総裁の後を承けて就任した石黒玄総裁への圧力が高まっていた。
そんな中、同年5月中旬、日本の基幹産業である自動車産業の雄トヨタ自動車が本社を置き、日本のみならず世界有数のものづくり拠点でもある愛知県において、マグニチュード8を超える巨大地震が発生した。
地震発生から24時間以内に、東京、ニューヨーク、ロンドンなど、世界の為替市場で、円が対ドルで110円から130円まで一気に下落した。それまで「安全逃避先資産」とされ、発生地が日本であろうが、世界のどこかで危機が起こったときに大量に買われていた円が、初めて売り浴びせられ、暴落したのである。
日本政府はすぐ復興債を財源とした大型補正予算を発表したが、それまで毎年のように編成されていた補正予算に景気浮揚効果はなく、補正以外にこれといった対策を講じることの出来ない政府の経済政策への期待はもはや皆無であった。日銀による緊急対応を求める強い声が経済界からが発せされた。
就任直後から厳しい立場に置かれていた石黒総裁は、この期を逃さずに早速手を打った。
日銀は5月26、27日に緊急の政策決定会合を開催し、政府が発行する復興債を直接全額購入することを発表した。同時に、それまで手を出さなかった「実物資産」についても買い始める、という新しい政策枠組みを発表した。
日銀による芸術作品買入れ(「芸術作品買い入れオペ」と呼ばれた)の枠組みは、以下の通りであった。
① 政策発表から2週間後、日本国籍を保有している者は誰でも、その保有する芸術作品・骨董品を日銀に売ることができる。日銀は適切な判断に基づいて値段を決めて現金で購入する。売却は一人一年に一回のみだが、複数のアイテムを同時に売却することは可能とする。
② 高齢世代(先の世代)が書画や陶器など多くの伝統的芸術資産を保有している一方、若い世代はそのような伝統的芸術資産を保有していない。そこで、芸術資産を持っていない個人・家庭からは、手作り芸術作品や新たなカテゴリーの芸術作品を購入することとする。
③ 日銀は、都道府県ごとに購入した芸術作品を展示するための「アートスペース」を設置し、購入した芸術作品を一般に公開展示する。入館料は大人500円。障害者・12才未満の子供は無料。展示会の収入は全額震災復興に寄付する。
④ 芸術作品買入れオペは、年度単位で行う。即ち、オペ開始から一年後、日銀は購入した芸術作品をすべて焼却する。焼却は一般市民の参加による「焼却式」によって行う。この式の参加費は500円。焼却式後、日銀は改めて次年度の「芸術作品買入れオペ」を開始する。
⑤ インフレが安定的に2%を超える状態が達成されるまで日銀は芸術作品買入れオペを続ける。
この日銀の新しい枠組みは、2000年代後半の世界金融危機後に欧米中央銀行に採用された金融政策とは根本的な断絶を表すものであった。
伝統的な金融緩和の波及経路は主に金利だと思われていた。即ち、中央銀行が金融機関から国債などを買うことによって、銀行は貸出金利を下げることができ、その結果、個人や法人への貸し出しが容易となり、市中に資金が提供される。
他方、日銀の新しい政策枠組みは、金融機関を通さずに直接個人から資産を買うことによって市中に資金を提供する、というものであり、かつ、購入した資産は定期的に廃棄、拙い手作り芸術作品には事実上セカンダリー市場が皆無であったから、定期的に保有資産が消滅していくこの新しい政策には出口がないと日銀が暗黙に宣言したも同然であった。 実際日銀は、新しい枠組みによって増えたマネタリーベースはそのまま放置するつもりであった。
日銀がなぜ国民に直接現金を配らず、敢えて「資産」を買ったのが当時批判されたが、数年後に発表された決定会合の議事録によると政策委員は現金配布という手法に対して懐疑的だったことが明らかになった。
景気が改善しても現金配布ー現金のばらまきーをやめることは政治的に極めて困難、事実上やめられないのではないか、と過半数の政策委員が懸念を示した。資産を買って現金を渡すという仕組みにすれば、国民の芸術的衝動や芸術資産がいつか枯渇されるため日銀はスムーズにテーパーリングできる、と多くの政策委員が考えたのである。
発表から2週間後、全国日銀支店や郵便局でこの「芸術作品買入れオペ」が始まった。当時の記事と日銀の統計によると、最初は書画や陶器など骨董品の買入れが多かった。遊び心のある作品も少なくなかった。毎日新聞の記事によると、男性がお尻と手を会社のコピー機でコピーをとって印刷したものを、日銀が20万円で買い取った。鴻海シャープ株式会社の社員が割り箸で作った家電が1億円で買い入れられ、日本経済新聞の一面に載った。
しかし、買入れオペが始まってすぐ深刻な問題が起こった。日銀の「芸術」の定義があいまいすぎていた。メディアによると、砲身に「金融政策」と大書した張り子のバズーカ砲が日銀に買い取りを拒否された。女性器の形をしたティッシュ箱も断られた。
芸術の知識を持っていない中央銀行が芸術の価値を判断するのはどうか、とアーティストや学者からの批判が強まった。村上春樹が特別記者会見を開き、中央銀行に芸術を売るな、と国民に強く促した。
買入れオペへの参加が低迷した。日銀がオペ開始から半年の時点で行った全国調査によると、日本人のたった1割がしかこのオペに参加していないことがわかった。同調査によると、60歳以上の世代は代々家に受け継がれてきた「家宝」を売ることを躊躇し、若い世代は仕事や育児で忙しく芸術を作る暇がなかった。さらに総じて見れば、日本人はあまり芸術作品を売ったり買ったりすることに興味がなかった。芸術を実物資産として考える人たちはそれほど多くはなかったのである。
市場では、震災直後の暴落から回復した円がドルに対して日々高くなっていた。景気は引き続き低迷し、むしろ後退に直面していた。行き場のない資金が市場を彷徨する一方で、日銀は微妙に価値のある大量の芸術作品を保有していた。
もはや日銀は政策の失敗から自力で立ち直れないと判断した石黒総裁は、善後策を安倍総理に相談した。
しかしながら、政府もまた、残された対策は補正予算の早期執行と復興債の日銀直接引き受け位しかなく、為替市場に対しても株式市場に対してもコントロール能力を失っていた。
なぜ現代の日本ではポピュリズムがかつてのナチや今の米国のトランプ現象のような(国家社会主義的な)形を取らないで経済政策的に逆の(新自由主義的な)現れ方をするのか? についてはどう解釈したらいいんだろうな。
というTweetを見たので思うところを書く。
それは「なぜ私たちは困窮しているのか?」という問いの答えが、そのまま表れているのだと思う。
この問の答えとなりうるものはいくつか有る。この場合、その答えが本当に正解かどうかは問題ではない。その人(国民が)がどんな答えを想起して、望むのか? というのが要件になるからだ。
ひとつには「富裕層が搾取しているから、私たちは困窮しているのだ」というものだ。ある意味左翼的な発想だといえる。この答えのパターンは国内でも国外でも見られる。日本の場合この「富裕層」というのが実にふわふわしてるので「企業が搾取している」みたいな形で表出しているように思える。「内部留保している企業が悪だ」という論説だ。
「国内の異分子(この場合、移民)が存在するから、私たちは困窮しているのだ」という答えもある。Brexitとかトランプの言説の中心的なもののひとつがこれだ。国内の職や富を、本来分け与えなくてもいい外部的な異分子(本当に分け与えなくていいのかどうかは、今回は問わない。そう答える人の中では「分け与えるべきではない」という感情があるというのが今回は重要なので)に分け与えてしまったが故に、私たちは困窮しているのだ! という主張である。結論としては、そのまま「奴らを追い出せ!」となる。日本では、在日韓国・朝鮮人への風当たりとして見ることが出来る。だから、Tweetのように国家主義的なそういう排斥がまったくないわけじゃない。もっとも、日本では在日韓国・朝鮮人を移民だとみなしたところで割合は非常に少ないので、彼らがいるからこそ日本が困窮しているというのは説得力に欠けるためか、一般的な人はこのタイプの主張を強くはしない。
最後のひとつは「私たちの中に怠け者がいるために、私たちは困窮している」というものだ。「同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている(=不当である)」、「だから私たちが困窮している」という主張だ。これがおそらくTweetでいう「新自由主義的な表れ方」につながっていて、結果として「怠け者は見捨てろ、自己責任だ!」という結論になって現れる。このタイプの主張は、たしかに日本独特のものであるようにみえる。
なんでそんな主張が表れてくるのかだが、マクロはともかくとして、ミクロ的な、つまり職場や学校や地域社会において、「怠けた人は得をする」というのが日本においては真実だからだ。
例えば伝統的な日本の職場において、その部署のエースが成績最下位の3倍の成績を上げたとしても、3倍の給与はもらえない。むしろ仕事ができるということで面倒だったり厄介だったりする仕事を回されたり、要領の良くない人の面倒を見なければならなかったりする。そして給与に関しては色を付けた程度で、どんな成果を上げても横並びが普通だ。能力が高く頑張っても得をしないということは、つまり、ある一定額の給与をもらうという視点にたてば、手を抜いたほうが得であるということになる。
これは学校や地域社会でも一緒で、起業が少ない理由にも通じている。企業では出世を望まないということになるし、学校や自治体では責任者になるのを回避すると言うかたちで現れる。努力して成果を上げたとしても組織の中では評価されないし、仮に評価されたとしても、今度は周囲の妬みや僻みが待っていて、結局は損をする。……そういう実感を日本人はもう肌感覚として持っている。
マクロ的にみれば「全員がそうやってより低い努力しかしないと、全体の成果がどんどん沈下するだけで、結局は自分もジリ貧だぞ」「乗ってる船が沈んで後悔することになるぞ」となるのだけれど、普通の人間はそこまでマクロ感覚で生きてはいない。国民全員が貯蓄を開放すれば景気は上向くと理論としてははっきりわかっていても、「このままじゃデフレになっちゃうから貯金は全部やめて暮らそう!」という生き方がなかなか出来ないのといっしょだ。
だから、ミクロ的な「怠けた人は得をする」という実感を頼りにマクロを類推して、「私たち同じ庶民の中に怠けている人間がいて、彼らはより少ない労働で社会の富を多く得ている」という結論が合成される。その結果出てくるのは「生活保護を打ち切れ!」とか「奨学金を返すのなんて当たり前だ!」とか「就職活動をサボってフリーターになったんだから低所得なのは当たり前だ!」とかいう自己責任をキーワードにした新自由主義的な責任追及だ。
そんなわけで、なんで日本においては下流叩きじみた新自由主義信仰があるのか? については「怠けたほうが得な社会を私たちが作ってきたから」だ。能力がある人や成果を正当に評価しないで、ムラ社会的な横並びで生きてきたので、社会が苦しくなるのは身内に裏切り者がいるに違いないという発想になるのだ。
Tweetでは「新自由主義的な表れ方」といっているけれど、日本はアンバランスで片手落ちだ。本来の新自由主義であるならば(市場原理を最大評価するんだから)能力が3倍ある人には3倍給与を与えるはずだからだ。
再分配を考えるのなら、そしてそうやって高額所得を得た人を大いに賞賛して、褒めて、よーし俺も大儲けしちゃうぞー! と皆で乾杯でもした後に、その上で気持ちよくがっぽり税金を払ってもらって、それを分けたほうが効率がいいし、筋というものだ。結局国のGDPは個人の生み出した付加価値の総和なわけだし、ひとりひとりが頑張るっていうのは、がんばって成果を出すのが嬉しい環境を作らないと実現できない。つまり、自分が頑張るってのは、頑張って成果を出した人間を大いに褒めて評価するってのとセットでしかありえないはずだ。日本の場合はそういうアメリカンドリーム礼賛みたいな態度は殆どゼロで、高額所得者を褒めない上で、「目立たず最小限の労力で、しかし周囲に激怒されて村八分にならない程度に稼ぐ」という「出る杭にならないチキンレース」みたいな社会状況を自分たちで作り出し、なおかつ「自分の負担になっていそうな、自分より少し下の人間を叩く」ので、本当にたちが悪いと思う。