はてなキーワード: シニカルとは
あるまとめ
https://togetter.com/li/1389648
その反応
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1389648
削除された言及
あいトリの問題については、本当に難しい。そもそももはや、こんな民度が低すぎる日本国内(あえて言っています)で「国際芸術祭」なんて開催できないということを証明してしまったようにも思う。
一言で言えば、格好悪い
政治的主張を込めた作品やイベント作っておいて、それへの世間の反応について、「芸術」という殻に逃げ込むなら、創作なんぞ辞めちまえ
向いてないよ
もちろん、今回展示された作品を「作った人」は逃げてない
でも展示したアホが逃げてる
表現の不自由が焦点で、それが含む主張の是非は問題にしていない、と
お前らが一番創作者に失礼だよ
な・ん・で・だ
芸術行為を行うこと自体に対して、あるいは芸術作品を鑑賞することにおいて、自信を無くしたり、シニカルになったりしないでほしい
じゃねぇよ
ズルは承知で先回りしていっておくと、この件については、私は正直ぜんぜん一貫していない(展覧会観てないせいもあるかもだけど、私自身、直接の関係者ではないけれども、やっぱり心理的に不安定なのだ)ので、一貫性は求めないでね。発言したことに責任は取らないということでは勿論ないけど。
駅で肩を突き飛ばされてもへなへなと笑って
ポジティブシンキングしないといけないから嘘だとわかっても前向きに取り繕って
そんなものが人生ならば今すぐやめてしまいたいのだがどう思うだろうか
我儘だ、とよく思う
当たり前に権利の主張を声高にする
傷つかないために決めた強すぎる自我の発露がたくさんあって
そのせいで疎まれたり嫌われたり距離を置かれることはいざ知らず
仲良くなるのは大得意
見限られるのも大得意
大丈夫大丈夫、来るもの拒まず去る者は追わないよ、っていうけれど
拒絶すれば寄ってくる?最初だけだよ。みんな本当は話せる僕を見てたじろいでいくんだ。
愛される真似をすればするほど、吐きそうになったのはいつからだろう。
前はうまく演技できたのにな、演技してもしなくても人が去っていくことは変わらないけど。
絵を描くことが好きだった。
でも誰一人、私の絵がほしいわけじゃなかった。
みんなそうだ。そうだけどさ。
若さ。女であること。望むコンテンツ。エロティシズム。いろんな理由から、邪に私の絵は消費される。褒めてくれるならなんだっていいよ。自暴自棄に陥ったらどんどん、空っぽになっていった。本当に好きなものを好きと言って否定されることが怖かった。
でも媚びたところで、結局何にもならなくて、私は社会の歯車として生きる一生のみを嘱託されてこの世に生れ落ちてきたのかと思うとこの上ない絶望に苛まれた。それはきっと、いい年してろくに恋愛もセックスもこなしてこなかった虚しさと、学歴すら擲った自分の愚かしさにある。その上まだ過去の虚妄に執着し美しい偶像をだれか一人に求めてはその個人を消費し、自分自身を優位化することでしか自我を保てない惨めさに打ち震える自己はなんて、なんて情けなく、醜く、地獄のような許されない存在なんであろうか。
私は私の作るものが全て大好きで、大嫌いだ。
正直、才能はないと思う。でもやりたい気持ちがあるから、ずっと下手の横好きを続けている。望まれない夢を描き続けている。「特別な何か」なんて幻想を諦めればすぐに普通に生きられるのに。でもそれはあまりにも、あまりにも苦しい選択だった。あの家に居続ける限り、家族はいつまでも優秀な私という過去の幻影に縛られ続けるだろう。私もその幻影を忘れることはできず、しかし生活を迫られるだろう。母親はこの盛大な自己矛盾を理解していながら、血縁という親が子供に振るえる最大の暴力でもって自己矛盾を正当化し続けるであろう。祖母は疲弊した私に思考停止を勧め、父は自立を促すであろう。最悪だ。本当に、最悪でしかない。
マジで何も面白くない。というか、自分の空っぽさ加減に虫唾が走る。結局言いたいことなんか何にもありやしないじゃないか。単なる幼児のわめきだろ、構ってほしいだけだ。構ってほしいと言って許されるのは一部の才能を持って生まれた人々だけだというのに。愛されるべく生まれ、生きるべくして生きている人々。素晴らしい。本当に最高のことだ。そういった人間を生かし、この世に少しでも美しいものを増やしていくことが、われわれ人間に課せられた最大の使命なのではないだろうか。これは嫉妬などではなく、本当に心の底から思っている。対して、、、、自分の無力さ加減はどうだ。もう自分自身にアイデンティティや価値を感じずに生きれるようになりたい。傷つくことに鈍感でありたい。自分自身は所詮この世を回遊するために与えられた必要最低限の肉体であり、利用されるべきコンテンツなのだ。
だれか一人に期待したり、何度も神を掲げたり、忙しすぎていやになる。
美しくなければ存在意義はゼロなので、こう考えてしまう限りは私は美しくあるための努力が足りないのだな。何でもできる人間になりたいが、未だ私にフィットした「できること」が発見できないのはどういうわけであろうか。
仕事にできるほどのことが何もないのに事務職で金銭を傍受しており、そしてまたそれがないと生命を維持できず、いつもなんだかんだ「本当にヤバイところ」には飛び込まずにのうのうと生活をしてしまっているのはどういうわけなんだろう。
インド哲学はこの世は全部幻だという、若き日のロバート・M・パーシグはそれに絶望して履修を停止したと自伝で読んだが、絶望しすぎた生活の中でその考え方に何度救われたことか。あ、これを教えてくれたのは私の随分と年上の友達です。優しくてスピッてて適度に狂ってて怖くて面白い人。近づくと逃げてくのに時々追ってくる謎なひと。でも、愛される人だ。いいなあ。私はいつになったら人に愛されるに足る人間になるのだろう。
もうちょっと学をつけて、自分を好きになれたときだろうか。母の言うように「女の子らしく」なれたときだろうか。初対面で大好きな音楽の話や、SF小説の話をしなくなったときだろうか。それはもう私ではない。
SNSに美しいモデルがビフォーアフターの写真を載せたとき、よく「前のほうがかわいい」「前のほうがよかった」とリプライを送る人間たちのことを想う。本当にそうだというのなら、その時可愛いと言ってくれれば良かったのに。きっと彼らは彼女が普通の女の子だったころは見向きもしなかったに違いない。純粋に標準体型の女子を賛美し、きちんとパートナーとして選択するだけの度量があるならばすごい。本当に尊敬する。私は考えに考えた結果この世には美醜しかないという結論に至ってしまったから。美醜というのは顔かたちの美しさに限らず、その人の持つ輝けるばかりの才能や、声、スタイル、頭脳など、あらゆるもののことを指す。パーシグに倣うなら「クオリティ」だろうか。結局唯美主義に落ち着いてしまうのだ、空しくなるほどに。
もう携帯ゲームやオタク・コンテンツで思考停止して分かり合ったふりをするのには疲れてしまったから、私は今度こそ哲学と心中しようかな。本当に無理です。さようなら。音楽が理論化された数式でしかないなら、私は多分いま理解できない時点でたいして好きではないし、漢文と英語と思想を頭に詰め込むだけで救われた気になりたい。本当に仕事なんかやめてしまいたいよ、たとえ後がなくても。出来てしまうことは最悪だ。狂っているのに気づけないから。逸脱しているのにしていないよ、ってふりして生きるから辛いんだ。はみ出してしまうのだ。あなたのことが好きだという気持ちが最大にして最悪のノイズだから、どうか勉強して勉強して一般化することで濾過しきって永遠に浮かび上がらないように細かくして細かくして細かくして葬り去ってしまいたい。限界になって君に好きと言ってしまったことが、ものすごく汚くて情けなくてどうしようもないことのように思える。君がそばにいてくれないと辛くて気が狂いそうなのに、君にはきっと僕以外のほうが相応しくて、君自身もそれを渇望していて、だがしかし私は私にできる最大限の力でもってそれを捻じ曲げ君に愛されたいのだ。もう、それがかなわないのならこんな地獄のような生活に世界、どう期待して生きろというのだろう。調べたらユニテリアン教会だけは信仰できそうなので、私も私なりに信頼できる哲学の教会に身をおけるようにもっと思考を研ぎ澄ませたい。頼むから救い出してくれよ、知性の神様よ。もうこりごりなんだ。息が苦しいんだ。
この前渋谷で新興宗教に勧誘されたとき論破してやろうと思ったらまだキリスト教知識が薄くてできなくて、本当に惨めだった。こんなことではダメなんだ。ちょうどオウムが台頭していたころに生まれたから、幼少期はサリン事件の指名手配ポスターを目にすることが多くて、新興宗教に騙されたくなくて宗教学に興味を持ったんだろう?ああもう本当に情けないよ。生きているのが、つらい。
自分の実力はランキングで言えばこんなもんってのをなんだかゴールについたみたいな気分で自己申告しちゃってるけれど、結局その手持ちでどう生き足掻くかってのが本番だからなあ。なんかそういうこと主張するひとの書き込み読んでると、妙に学校の成績を主張したがるというか……。悩む暇ありすぎちゃうん?
どんな大企業だってひとつの部署やひとつのプロジェクト単位では多くて数十人程度しかコアメンバーにはならんのだから(それ以上の数をコアにしちゃうと意思疎通や運営の問題で破綻する)、そのコアメンのなかで居場所があればそれでいいでしょうに。
すげえ天才はたしかにこの世のどっかにいるけれど、現実はその時その場所にいる面子で戦線まわさなきゃならんのだ。俺の能力はこんなもんだよなあとかシニカル気取る兵隊は、とっとと管理職になって「能力足りなかろうが戦力少なかろうがやるんだよ」みたいなオーダーのなかで、自分のじゃなく他人の面倒みて欲しいっすわ。自分を憐れむほど悠長なことしてらんねーから。
『移動都市/モータル・エンジン』(以下、移動都市と省略)を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
120点ヤッター!バンザイ!。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。大満足なんではあるが、この大満足は極めて個人的な感情であり、しかもタイミングによるところが大きい(後述)。なんで皆様におすすめできるか? オールタイムズベスト的な価値があるか? といえばおそらくない。見なくて良い。
しかし一方で今じゃないと書けない評価もあると思うので、この記事はその辺について触れたいと思う。
当方は「パンフとか購入するくらいならもう一本別の映画見るわ教」の人間なので詳しいセールス文句は知らないのだけれど、スタッフ的には『ロード・オブ・ザ・リング』のスタッフが結集!とのことで、ほうなるほどと思って足を運んだ。どうでもいいけど、この映画、日本での広報に失敗してない?
んでもって内容なのだけれど、想像した以上にCGが良かった。「CGが良い」っていろんな方向性があるんだけど、一昔前の重要課題だった「嘘くさくない」とか「合成に違和感がない」みたいな部分は今やもうすでに解決済みであって、現在では「どれくらい見たことがないすごい景色を見せてくれるか?」ってとこが焦点だとおもう。
その点において『移動都市』は素晴らしかった。超巨大戦車じみた土台の上に一個の都市ロンドンが乗っかって、スチームパンクともレトロフューチャーとも言える鉄量にまかせてゴンゴンガンガン進みながら、その中には宮殿も大英博物館もあってゴシックな生活もあるってあたりが、もう、きゅんとくる。世界観の荒唐無稽さを、CGによる映像美と迫力で押し切るという、いわば「嘘の芸術」である映画のセンス・オブ・ワンダーが花開いていた。その点は二重丸。
アクションも、チェイス、市街戦、空中戦、焼け落ちる基地からの脱出、潜入、銃撃戦と各種取りそろえそれぞれにレベルが高く、十分以上に楽しめる。
一方で脚本は、まあ、悪くもないんだけど、そこまで良くもない。割りとありきたりな復讐劇で世界観とCGによる大美術とアクションに全ふりしたような映画ではあった。
登場人物も、主人公ヘスター・ショウ(母親を殺害された件をきっかけとする復讐者)とトム・ナッツワーシー(ヘスターに好意を抱き所属するロンドンを裏切って協力する史学者&飛行機乗り)は、内面的にも平坦でそこまで感情移入するってほどでもない感じ。
二人をお助けする女性賞金稼ぎのアナ・ファンのほうが汎アジアキャラ的なドラマをもっていて好感度高かったほど。
だいたいしめて90点くらいで、レイトショーで割引で見ると満足な映画というのが評価だろうか。
しかし!上記のような説明ではこの映画を120点評価した理由が全くわからないだろう。ここではそこを解説したい。
そもそも『移動都市』の世界観は、現在の文明が大戦争でほぼ滅んだアフターホロコーストな地球である。大量破壊兵器メデューサで欧州は完全に壊滅して、泥炭じみたぬかるむ湿地の広がる大荒野になってしまっている。そこではもはや土地に根付いた生産をすることは不可能であり、都市は「移動都市国家」としてそれぞれが巨大陸上兵器になりつつ、荒野をさまよって、より小さな移動都市を鹵獲して、食料や燃料や労働力(そこの市民)を略奪して暮らしているのだった。
今回映画『移動都市』の主役都市とも言えるロンドンは、その中でもかなり大きなものであり、旧時代の文明研究をして工業力を維持しつつ、小都市を略奪して巨大化しているっぽい。
ロンドンはどうやら物語開幕直前にドーバー海峡を渡ったようで、欧州東部の小都市国家郡にたいする略奪旅行にでる。わーお!プレデタージャーニー!これを市長は「都市淘汰論」とかうそぶいて正当化する(ダーウィニズム! キタコレ)。
この時点で映画開始から10分もたってない。すごいよロンドン。めっちゃゲスじゃないですか。
移動略奪都市ロンドンは「移動派」を名乗っていて、一方で、ユーラシア大陸当方には「反移動派」がいて、これは旧来の都市運営のように普通に地面に都市を作って周辺で農耕しているらしい。映画後半になるとそっちにもカメラが行くんだけど、緑豊かな自然を復興している。
東へ向かうには要所となる渓谷があり、そこに東部の「反移動派」たちは「盾の壁」なるものを築いていて移動略奪都市の侵入を拒んでいる。この「盾の壁」と移動略奪都市ロンドンの大戦争が映画のクライマックスだ。
物語中では明言してない(してるわけがない)んだけど、この「移動派」の移動略奪都市ロンドンって、もう、完全に植民地主義なわけですよ。
巨大な鉄の破砕口で逃げ惑う小移動都市を捕捉してバリバリ噛み砕き、そこの住民たちを「強制移住」させて「ロンドンへようこそ!あなた達には住居と仕事が提供されます!」とか放送しちゃってるけれど、そういうひとたちは都市最下層の労働者タコ部屋みたいなところに押し込んで働かせている。
そういう小移動都市を奪って「燃料一ヶ月分の足しになるか」とか市長は言い放つし、ロンドンの公園テラス(周辺の荒野が見える)では、ロンドン上級市民が鈴なりになって、(おそらく東欧の貧乏な)小移動都市に銛を打ち込んで串刺しにして鹵獲するシーンとかで「うぉおおお!!ロンドン最高!!」「やれー!やっちまえーー!!」「貧乏人を奴隷にしろ!」とか大歓喜なんですよ。
もう、このシーンだけで興奮してしまう。
まじか。スタッフまじでこの映画作ってんのか? っていうか原作小説からこれかよ。パンクだな。
しかもそのうえ「反移動主義者どもは盾の壁などをつくって我々を干上がらせるつもりだ!けしからん!奴らの土地を奪うぞ!!決戦だ!!」「うぉおおお!ロンドン!ロンドン!!」とか言い始める。
これだよ。これこそが大英帝国だよ! 大英博物館はそうやって鹵獲した貧乏都市に残されていた旧時代の文明異物を収集して飾っておくとか説明されて、「わかってるよこの作者ぁ!?」ってなるなった。
んでまあ、そうやってね。植民地最高!労働力は移民(白目)でOK!上層部では光降り注ぐ庭園とヴィクトリアンなライフスタイルで下層はスチームパンクな労働者で身分が違うからろくな会話もできません。みたいなロンドンが、最終的にはコテンパンに負けるんですけどね。
原作者フィリップ・リーヴはイギリス出身なんだけど、自虐っていうかシニカルな笑いが凄まじいな。まさにこのシニカルかつブラックな笑いがこの映画の加点理由であって、だめな人には全くダメだし、歴史的な経緯がわからないと小芝居に意味が無いとも言えるし、そういう意味では難しい映画かもしれない。でも、めっちゃパンク。
まあそういう感じでゲスなダメダメさを楽しむ映画ではあるんでが、日本の場合はさらにボーナスがあって、それはイギリスがただ今絶賛ブレグジットに関するgdgdの真っ最中であって、過去自分がやった鬼畜所業を再確認中だってことですよね(欧米での公開は去年なのでそこまでタイミングドンピシャじゃなかった)。
イギリス人「だってイギリスはイギリスのものなのに政治の中枢がEU本国側にあるなんていやでしょ?」
みたいなことを思い出しながら『移動都市』を鑑賞のは最高に贅沢だと思うのですわ。メイちゃん首相もだんだん顔が怖くなってきたし。『移動都市』みたいにEUぶらり旅で離脱できるとええな。
周りも結婚してるから結婚みたいな感じで結婚を目的化してしまうと結婚の本質を失う。結婚とは愛の完成を二人生涯を掛けて求めていくこと。したがって細かな意見の相違に怯むということは、愛し愛される段階にない。
2019/01/30
いや本当に真面目に言っておきたいんだけど
結婚を「愛」だとか思ってる人が居たらそれは間違いだから早めに性根を直して欲しい。
はてなというのはそれなりに酸いも甘いも噛み分けた客層の落ち着いたサロン(高齢化限界集落の婉曲表現)だと思ってたが
なんでこんな少女漫画読みすぎた中学生女子みたいな見解が1位になってるの。
そういう種類のものではありません。
むしろ毎日壊れていったり何かの切っ掛けでいきなりダメになったりするというのが絶対の法則です。
毎日新たな気持ちになり「今日一日は上手くいった」という感覚でやっていくものです。
細かな意見の相違が目に入らないとか、相手があまりにも常識外れなのに気にならず燃え上がるとか、
それは熱病であって理性ではなく、一事的な異常状態に過ぎません。
眞子様だって3年後なら「なんだよあの男やベーよ」とお気付きになります。
愛情深い人というのは客観的に言ってまともな性格ではありません。
「愛があるから目を瞑れるの」というのはだらしないとしか言いようがない性格であり、退廃的な人付き合いです。
愛し愛されて居なければ一緒に生活出来ないとか
愛がなければ細かな意見の相違を処理出来ないとか、
そのだらしがない性格の方をどうにかしようと思えないのか。
人間が生涯をかけて完成を目指すべきは
物に動じない理性と人格の完成、
愛に依存せず人と何の問題もなく付き合えるような智慧の完成だろう。
結婚は愛であって、愛でもなければ他人との細かな意見の違いを容認出来ない・すべきではないという了見、
この邪悪な了見こそが既婚者をどこまでも苦しめており、独身者を生涯独身へ遠い込んでいる。
https://anond.hatelabo.jp/20181201024136
多くは中途入社だが、最近は新卒も入ってきている。割合は10対1ぐらい?
中途採用はしょっちゅう行っており、業務の内容や雰囲気などは部署や上司によって大きく異なる。しかもコロコロ変わるので1年前と大きく違うってことはザラ。もし内部にコネクションがあるなら必ず確認することをおすすめする。
無理ならガチャ。ただし一度入ってしまえば、評価が人並み以上なら社内異動は入社よりもはるかに楽だし、情報収集もしやすいので、一度入ってから希望の部署に異動するルートはおすすめ。もちろん最初の部署でそれなりに評価される必要があるけどね。
外人部隊な部署だと公用語は英語だし、日本人しかいない職場もいくらでもある。その場合でも最低英語のツールや簡単なメールが読める(みんなWeb辞書使ってた)のは必須。これくらいはできないと仕事にならない。自分でもとりあえずコミュニケーションできる程度に書けると尚可。これはエージェントとかに聞くと教えてくれると思う。ここでミスマッチが起こると採用しても意味がないから。
日本人しかいない系の部署で英語の聞く・話すでコミュニケーションが取れるレベルだとかなり重宝される。仕事のアサインも変わってくるので、評価・昇進などにかなり有利。
電話会議で海外とのやり取りがあるポジションだと、相手の性格などにもよるけど面と向かって話すより難易度は高い。早くYoutubeみたいにリアルタイムで字幕生成して欲しいと思ってた。
英語学習は英語クラスとかオンライントレーニングとかもあるし、何より仕事や外国人の社員が一杯いるから実地で使える場面がいくらでも作れるのが良い。積極的に使っていけばガンガン鍛えられる。入社当初は初級クラスの英語クラスに入れられてた人が電話会議を単独で回すレベルになってたりした。
中途で日系企業だと平~主任クラスで入社した場合、職種にもよるが大体以下の感じ。
基本給500-800万円 +株200-400万円
株は年2回の現物支給なので、ストックオプションみたいに値段が多少下がっても価値があるのは良い。確定申告が必要になるのはめんどくさい。最初の1-2年は株に相当する金額を一時金として貰い、2-3年目から株での支給が始まる。営業系は部署によってはコミッションもあるけど詳細は知らない。
給与は職種と職位によってテーブルが決まっている。テーブルの金額そのものも毎年多少変動はするようだが、大きな変化はあまりないはず。年1回の昇給は基本雀の涙。大きく昇給するのは採用時の給料が安すぎて調整が入ったときか、昇進候補として高評価をされているとき。大半の社員は1-3%程度の昇給率が多い。これ以下の時は逆に低評価の可能性あり。
ちょっと前までGAFAの株価がイケイケだったので、株を200-400万円分として年始に株数が決まっても、もらう頃には勝手に増えてるというのが当たり前だった。今は調整局面ぽいので今いる人はどう思ってるんだろうな。
同じ職位でもマネージャーになる、異動により職種が変わると昇給チャンス。事務系より管理系、そして開発系が給料はよい。
もちろん最大の昇給チャンスは昇進。課長クラス以上は以下の感じ(上の方は想像&人による差が激しいはず)。課長とか言ってるけど必ずしも管理職ではなくピン芸人もいる。上に行けば行くほどほとんど管理職だけど。
基本給800-1200万円 +株300-500万円
基本給1200-1800万円 +株500-1000万円
総額2000-4000万円ぐらい?
雲の上過ぎて不明。億とか?知らんけど。
計算してもらえばわかるが、基本給1000万円でも1.5%の昇給だとたったの15万円だけ。同じポジションに居続けると基本的に給料は殆ど変わらず、待遇を大きく変えるには異動か昇進がほぼ必須。
部署やポジションによる差が大きい。不夜城チックなところもあれば、18時前には誰もいない職場もある。正直ガチャ。
自宅勤務やフレックス、有給、子育てなどによる変則勤務(8時に出社して16時に一旦帰って家から数時間仕事するとか)はかなり寛容。
外資の方針として使えない人材は切るという目標があることが多いが、その上には日本の法律があり、ガンガン切るのは訴訟リスクがあるため無理。まともな部署・上司ならそれなりに救いの手を差し伸べてくれるはず。それでも無理ならそもそもミスマッチだったか、本当に能力不足かどっちかだ。
元の投稿のようにセクハラなどの瑕疵があった際には容赦ないのはホント。一般社員にはいいことだけどね。
同様に職場などによってかなり変わる。ガチ日本企業的な宴会芸とか用意しちゃうノリのところも無くはない。基本的にはドライな傾向はあるし、上記の部署でドライな関係を貫いてもそこまで孤立しないと思う。
なお、GAFAクラスだと同僚に滅茶苦茶優秀な人がいたりして圧倒されるがすごく勉強になった。そういう人とコネクションができるのもメリットだね。
日本企業と比べて本気で会社の理念とかスローガン的なものを上から下までしっかり活用している。GAFAぐらいだと具体的な理念とかはいくらでも見つかるので、本気で共感できるならきっと合うと思う。
日本企業だと大半はシニカルな態度か無視だと思うけど、外資だとそこは本気でやれる人じゃないと出世できない。ここは好きなポイント。
語学力なんてなんとかなる。
先の保証がないのは日本企業だっていつ倒産するかわからないから一緒。
それなら自分がやりたい仕事がそこにあるならチャレンジすべき。
僕はもう日本の大企業には戻れないな。外資か、スタートアップで企業文化が合うところじゃないと無理だと思う。それくらい日本の特に古い、大きい企業とは格段に違った。
いただろうか?
さくらももこ氏の訃報を聞いてふと気になったが、どうにも思い出せない。学齢で言えば小学1、2年生の頃だが、どちらかというと幼い頃は『なかよし』に夢中になっていたような気がする。
当時の『りぼん』は、『なかよし』に比べて恋愛要素の強い作品が多いイメージだった。とは言え対象年齢的には、自分のような田舎の女児がぼんやり理解してドキドキできる程度の、恋の入口やもどかしさを描いた作品が多かったのだと思う。
言わずもがなの「ちびまる子ちゃん」と「お父さんは心配症」である。
私は、ひたすらに「お父さんは心配症」の父・光太郎が怖かった。ハイテンションで誌面の中を飛び回り、典子への行き過ぎた愛情から北野くんとの恋愛どころか自分自身まで自虐でぶち壊しまくる光太郎が、ひたすらに怖かった。ページを開きたくなくて、作品ページをホチキスで止めていたかもしれない。他の怖い本はそうしていたから。
逆に「ちびまる子ちゃん」は癒しの作品だった。恋愛ものに息切れした女児のオアシスのように、まる子はただただ普通に、家族と友人と、そこで暮らしていた。あるあるネタと少しだけ古い時代背景と共に、穏やかに、時にシニカルな空気を携えて、毎月私の所へやってきた。
そう、「ちびまる子ちゃん」は連載時に既にレトロだった。私の知っている人気アイドルはヒデキではなく光GENJIだったし、百恵ちゃんは引退していた。アニメ放送を母と見ながら解説を受けるまで、私の中でヒデキと西城秀樹は繋がっていなかったし、百恵ちゃんはまる子が憧れる女の子のままだったのだ。
「お父さんは心配症」の異質性が『秩序の破壊』だったとすれば、「ちびまる子ちゃん」のそれは『虚実を織り交ぜた過去』だったと私は思っている。
乱暴な括りだが、私にとっての当時の『りぼん』作品は、基本的には未来を指向した現在進行形のものだった。ドジで失敗ばかりの現状であっても、これから自分はどうしたいか、どうなりたいのか、主人公は常に考え続ける。人の自然な成熟過程をなぞり、周囲の支えを受けながら、成功も失敗も糧にして成長していく。
そういう理想の学園生活がキラキラと眩しく、同時に私にはどこか息苦しかった。
「今よりももっとかわいくなれる」
その語尾に、私は「…なくてはならない」という言葉を感じ取っていたのだと思う。
作品世界に憧れることと、自分の身に置き換えることは決してイコールではないのだが、拙い想像の中であっても「私はこうなれないだろうなあ」と諦めることは、大人になった今思うより苦しかったのかもしれない。
前述の時代背景と共に、まる子が作者の子ども時代をモデルにしているということは知っていた。つまり、すでに「結末が確定していること」であり、「私ではないひと」の話だった。
まる子も成長し、恋愛や友人関係や自分のコンプレックスに深く思い悩む日が来るのかもしれない。しかし、それは永遠の小学3年生の「ちびまる子ちゃん」のまる子には当てはまらないし、モデルとなっている作者はマンガ家という進路を選択済みなのだ。
私は、まる子でもたまちゃんでも丸尾くんでも花輪くんでもはまじでも永沢でも藤木でもなく、ただの読者として、安心して「ちびまる子ちゃん」を楽しむことができた。
勿論リアルタイムで読んでいた小学生時代にこんなことを意識していたわけではなく、単純に『りぼん』の中で一番楽しんで読むことができた作品だったのだと思う。
クラスのどのカーストの女子でも「ちびまる子ちゃん」は必ず読んでいた。あの頃の共通言語になっていた作品の代表格だった。
その後私はくるりと掌を返し、破壊度の増したあーみんギャグに恐ろしい程はまった。「こいつら100%伝説」は現在も本棚に置いてある。「ちびまる子ちゃん」はもう手元にはないが、「心配症」の方のまる子×心配症コラボの掲載巻は実家にあると思う。
成長していく私は、いつの間にか自分がまる子ではないことに安心するだけでは物足りなくなってしまったのかもしれない。けれど、久々にニュースで見た「ちびまる子ちゃん」の表紙には、やはりとてつもない懐かしさと安心感があった。
そして散々言われているが、彼女の初期エッセイは最高に面白い。読書慣れしていないひとに「おすすめの本は?」と聞かれた時に挙げる1冊に必ず含めていた。
私にとってさくらももことは、この4000バイト強の文字の分しか接点がないひとではある。
しかし、訃報を聞いて、居ても立ってもいられず匿名アカウントを取るおばさんを生み出してしまう、そういうひとだったのだと思う。
※以下の文章を書いた人間は、2018年の夏のある日、何者かに連行されて戻ってきませんでした。多分どこかの留置所で鼠に囲まれて暮らしているんだとおもいます。
オリンピックを2年後に控えた平成最後の夏を送りながら、なぜオリンピックに向けて気持ちが盛り上がらないかをつらつらと考える。
こういった大きなイベントに無邪気に期待を寄せられなくなってしまった原因のひとつは、純粋にイベントの本旨を楽しめなくなったためだ。オリンピックはその事前準備で、政治的な思惑に翻弄されまくりすぎた。復興五輪だと言い出したのは誰だったか、今となっては定かではない。復興に手を貸してくれた世界に復興の状態を知ってもらう、興味を持ってもらうということ自体は素晴らしい。しかし、例えば小池百合子氏の、長沼ボート場を巡る一連の経緯を見ると、うんざりしてしまうのだ。
頭の黒い鼠とは何かを調べると、こんなのが出てくる。インターネットは便利だ。
曰く、食物などをかすめ取る身近な人をネズミにたとえた語、物がなくなった時に、身近にいる人間が盗んだのだろうということを暗にいう言葉だという。
都民は失った。オリンピックの時に輸送を担う大動脈となりうるはずだった環状二号線の輸送能力とか、元から安全性には問題がなかった豊洲ブランドの安全イメージとか、年間200億円に上る市場移転延期経費とかを。そして何より、もっと健全な都政というサービスを受けられるはずだった2年間を。怪我の功名的に交政審の優先して整備されるべき6路線が整備されることになったのは皮肉だ(こんなのいままでだったら都が基金を積み立てるなんてあり得なかったが、彼の方が手柄を焦ったがために成立したように見える。早速8号線に江東区が食いついているし)。
そろそろ都民は気がついていいと思う。ていうか気がついているか。
オリンピック施設の見直しや、豊洲の市場の移転の一連で「支持率」とか「イニシアティブ」とか「期待感」とかっていう名前の”利権”をむさぼっていたのは誰なのか。そしてむさぼり尽くした挙げ句に後に残った膨大な敗戦処理をひっそりやり過ごそうとしているのは誰なのか。見せ方だけで国政に打って出ようとし、あまつさえ自民党の寝首すらかこうとし、さすがにそれはけっちんを食らって以来イメージカラーと称する緑を封印し、ギトギトしたイメージを払拭することに必死で、2020年に再選を狙っているのは誰か。
これの1:48からの顔面演技がとても好きで、シニカルな笑いをウィスキーの肴にしている。
こういう顔面芸でコトを進めるのではない、重厚で落ち着いた人が知事にならないだろうか。都道府県の政策遂行こそ、地に足の着いた住民本位のものであって欲しい。そういうのを見て国政が襟を正すくらいの、粛々とした都政運営であって欲しい。
そういうファンダメンタルな部分がしっかりしていて初めて、都民はオリンピックに無邪気に期待できたりするのではないだろうか。
小池氏の政策の特徴のひとつはイメージ戦略が幅をきかせることである。イメージ戦略も、確かに重要だろう。しかし小池氏のはイメージ「だけ」戦略ではないかと首をかしげるものが多い。ボランティアのユニフォームがダサいからもっと格好良くします、とか、&Tokyoは意味わからないのでTokyoTokyoOldmeetsNewにします、とかは、舛添前知事のカラーを消し去るためとしか意義が見いだせない。実際、ダサいといわれるボランティアのユニフォームは新デザインと併用で継続使用しているし、TokyoTokyoについては意味不明度合いでいうと&Tokyoとどっこいである。首都大学東京については石原慎太郎のネーミングセンスが悪いのはわかるが、それを変えろと言い始める時点で同じ土俵に乗った愚策になるという感覚がない。というか前の知事がやったことの色消しに躍起になるところが、そういうレベルで勝負していることが透けて見えて、心胆を寒からしめるのである。前政権の政策の否定はトランプ大統領の十八番だが、あちらは内容に賛否があるとはいえ公約の実施である。翻ってこちらは実施の意味がよくわからない。東京さくらトラム?都電荒川線で良かろう。そんなものに一体、いくら予算を割くつもりか。
小池氏が展開するイメージ戦略で個人的に最悪だと思っているのは、氏自らを指して女子呼ばわりすることである。首都のトップに君臨する首長が自らを指して女子呼ばわりとは、悪い夢である。一回ジェーン・スーに3時間くらいぶっ続けて説教されるといいと思う。そしてそれを氏のお好きなニコニコ動画で流してみればいいのではないか。自民党に代表される旧弊にいじめられ、ガラスの天井に阻まれるかわいそうな、しかしそれに負けない女子、小池百合子66歳。サリーちゃんやメーテルのコスプレもしちゃう(これについては、体制側がカウンターカルチャーにすり寄るナンセンスを指摘したいが、本旨からそれるのでやめる)。
強権発動して見せしめに部下や先達の粛正をするあたり、独裁者のよくあるスタイルである。どうせ強権を発動するのであれば、今時の民主主義的なやり方では速成が無理な都市改造を広域にするのが良かろう。狭域でデベロッパーがどや顔して整備する拠点開発に蹂躙される東京ではなく、広域で東京都ならではで推進できる内容を実施してみるのはいかがか。独裁者がトップに立ってきれいになるのは街並みと軍服くらいしかないのだから。でも小池氏は多分、しない。そこまで腰の据わった政策論を持っていないのだから。だって鼠だし。コスプレが好きな氏のこと、ミッキーマウスになれば見栄えも受け入れられやすいかも。あ、女子だからミニーマウスか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/kido-ari.hatenablog.com/entry/2018/07/19/222200
このエントリ増田ブックマーカーが中心だけど、よくスター上位で見かけるアイコンとか印象が強いブックマーカー集めました。
言わずと知れた光属性で死んじゃう人。個人的にアンデッド1224さんと呼んでる。
ブコメ上位率高い感ある人。やさしい。アイコンはアラレちゃんの帽子についてるやつなのかな。
顔が怖い。なんなんだ。ブコメ数そんなに多く無いのに顔が怖いので印象に残っちゃう。おもしろブコメが多いのに顔が怖い。
アリさんカワイイよカワイイよ。最近めっちゃ見かけるようになったのでヒアリかも知れない
よく見るし結構古くからいる感が。アイコンfeita氏に作ってもらったそうで、遺志を継いでいるのかも知れない(死んでない。トラディショナルなブコメが多い印象
よく見る。アイコンが謎、歯みたい。ほにゃっとしたブコメが多い印象
目が光るにゃんこ、と認識してたら目は光ってなかった。シニカルなブコメが多い気がする。
ブクマ無茶苦茶多いしよく見る。アイコンは電子誘導の何かで、そういうなにかなんでしょう
ニュースとか時事ネタで見かける三日月お姉さん。面白いブコメも多い。
モフモフ社長。全然モフモフしてない。自己主張激しい人なんだろうなと言う感じ(←悪口じゃないよ)。
女性の顔出し珍しくね?本人の顔なのか知らんけど。ブコメは柔軟で元気な感じ。
増田発掘委員会(なんだと思う)のサバカリさん。アイコンは歴代カワイイ。ブコメは短い文が多い。
サングラスの人。ブコメで見かけると「あっサングラス!」とギョッとしてしまう。ブコメはバランスよく普通なんだけど
個人的に泣き餅さんって読んでる。餅がないてるみたいに見えるよね?ブコメはトラディショナルな感じ
攻撃的なせいか本人のブコメのブコメは不評な意見が多い。花が咲いてる木のアイコンだと思ってたら子供のケツであった
言わずと知れたダジャレ先生だが最近少なくね?ブクマ数は無茶苦茶多いので多分岡三マンだと思う
昔からいる感。アイコンカワイイくて〜〜だよ、って口調柔らかいけど時々辛口。
大仏さん。めとろだけにレトロ感あるアイコン。ブコメ短文が多い気が。〜〜ではという提案の口調が多いのでは
個人的に犬だと思ってたら猫がひっくり返っていたアイコンだった。超絶古参で生き残っているということからどういう人物かは自ずと分かるであろう
アイコンかわいい感があるけど噛みつき屋さん。口が無いけど。口悪いけど流れにカウンター入れようとしてる感あるので意外にバランス見てるのかもしれんが見てないのかも
ビオレの人。ブコメ上位にいる事が結構ある。ブログでは何故か婚活を一生懸命していて面白い
顔
時事ネタでよく見かける。可愛いアイコンだけどきっとおっさんなんだよなーと思ってる
セルフブコメスターの人。毒舌キャラで行きたい感があるのだろうけど今ひとつキレが鈍い。精進して欲しい
以上、みんなこれからも頑張れよ
2016年末にリリースされた「二人セゾン」は、アイドル素人の俺の絶妙な隙間に入り込んできた。
ストリングスの効いた美メロの4つ打ち、制服姿のアイドルたちのコンテンポラリーなダンスフォーメーション、湾岸都市の無機質さに対比する彼女たちの笑顔。
それまで持ってきたアイドルへのステレオタイプが崩れていった。
俺の彼女らへの感動がピークに達したのは不協和音のカップリング「エキセントリック」のMVを観た時だった。
普通/エキセントリック の対比に苦悩する主人公を謳う内容の楽曲。
「僕は普通と思ってる みんなこそ変わり者だ」のタイミングで彼女らのダンスは紛れもなく「エキセントリックな集合体」を表現し、結局主人公や周りの人間らは見方によって普通にもエキセントリックにもなれてしまうという非常にシニカルな内容になっていた。
ここまでシリアスな内容を表現できる10代20代の女の子がいることにただただ脱帽する限りだった。
そしてバラエティに出演すれば素朴な笑顔ややりとりを繰り返のがまた彼女らの魅力だった。
しかし2017年末の紅白出演から、俺の中で何かが変わっていった。
共演する内村光良が真顔で心配するほど平手友梨奈の限界を過ぎたパフォーマンス、終演直後の一部メンバーが倒れたことは切実な他のメンバーの切実な表情を切り取った写真とともに速報された。
限界ギリギリで頑張っている少女性、俗な言い方をするならスポ根的な、そういう少女たちのアティチュード。
これは確かにアイドルにおいてとても話題になるし、アイドルを推す側にとっても「あの子たちが頑張っているから推せる」というモチベーションに一番つながる。
俺自身が多少ならずともパフォーマンスする側に立っていた人間だからこそそう思うのかもしれないが、演者が舞台上で倒れるなどあってはならない。
そして運営からはいくらかのお知らせがあり、一部のメンバーからのブログやインタビューで「もう大丈夫です」といった内容の告知があり、この件は収束した。
2月に初めて全握に参加した。
昼ごろのミニライブ終了後、屋外に3時間待機してレーンのメンバーふたりに対して計6-7秒程度の握手。
わかったのは想像以上に画面で見る本人らより実物はとてもかわいかったし、きれいだった。
ただそれ以上のことは特に感じられず、メンバーらを見世物のように感じてしまい、もう全握には行けないような気がした。
あの場に行って感じたが、いろんなものが過密化していて、それでいて握手して直接会っているにも関わらず結局メンバーとなにかコミュニケーションがとれているというわけでもない。
夥しい数の観客がいるのに、この中の一体何人が本当にメンバーとコミュニケーションがとれたのかと思うと、ひどく虚しい環境のように感じられた。
そしてまた俺自身のそういう過熱しすぎた環境に加担してしまっているとかと思うと、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
その帰路で、たまたま当日向かいの会場で行われていたももクロの有安卒業ライブの待機列との熱量を、どこか羨ましく思う自分がいた。
そしてほか数人のメンバー欠席のままワンマンライブやフェスへの出演。
その度に聞こえてくる「不在のメンバーがいても素晴らしいパフォーマンスが繰り広げられている!」という賛美の声。
そうだけどさ、そうじゃないんだよ。
全員選抜でずっとシングルリリースしてきて、21人でずっとやってきたんじゃん。
それでてメンバー足りなくてもすごいって、休んでる方も出てる方もどんな気持ちなんだよ。
それでも色んな意味での「運営」は滞りなく続いていくの、本当になんなんだよ。
21人がちゃんと健康に活動を頑張っている姿が好きだったんだよ。
それこそ二人セゾンのあの笑顔が見たいんだよ。
聞いてほしい。
はてなー達の思考や言動は、次の2項3軸、計6つに分けられると思うのだ。
偽 ⇔ 真
悪 ⇔ 善
醜 ⇔ 美
これらを順に説明したい。増田であれ、ブクマカであれ、おおむねどの項目にも思い当たる人間がいることだろう。
はじめに「真」なるものの対極を考えよう。すなわち「偽」である。
あなたが他人を「偽」に導く傾向があるならば、あなたはソフィスティカルなのはの一派に属する。
あなたは圧倒的な説得力と拡散力を持って、嘘の情報を流通させることができる。
嘘の内容は、人や社会の行く末を左右する重大なものかもしれないし、身の回りの出来事のレベルに留まるかもしれない。
注意しなければならないが、本来ここに分類されるのは、意図して人を騙す者のみである。しかし「真」なるものを志向していても技術が不足すれば容易に「偽」に転じてしまう。
あなたがどの立場であろうと、何をもって真偽の判断を下すのかは慎重に考えるべきだ。
あなたがこの立場にいるならば、真理を主張するためには相応の技術、忍耐、慎重さ、そして誠実さが必要であることをあなたは知っている。
荒唐無稽な意見を見ても傾聴せよ。正しいのは相手の方かもしれない。
不快な放言を投げかけられたら自省せよ。あなたに見えていない真実を相手が見ているかもしれない。
あなたの考えが論理的であればあるほど、第三者からの攻撃には弱くなるだろう。それが論理の本質である。
真理に至れるのは、自身のその弱さに、そして弱いままで居続けることに耐えられる者だけなのだ。
それは利得のためかもしれないし、偽善者の自己欺瞞を白日の下にさらすため、あえて露悪的に振舞っているのかもしれない。
あるいは、純粋な復讐心に突き動かされているのかもしれない。はたして、苦しみに満ちたこの世の中で悪意を抱かずにいることは可能だろうか?
どちらかといえば、あなたの拠り所はあなた自身の中にある悪意であり、それをぶつける相手を具体的にイメージしているわけではないことが多い。
ただ、あなたが好むと好まざるにかかわらず、あなたの悪意は周囲に伝染し、永遠に新たな悪意を生み出し続けるだろう。
しかし場合によっては逆説的に、同じ苦しみを持つ人を慰める結果となるかもしれない。
あなたのあらゆる行動が、そしてあなたが取らなかったあらゆる行動が、常に無数の可能性を生み出し続け、あなたはそのすべてに責任を持とうとするからだ。
善悪の判断は何よりも難しい。あなたは悪を滅ぼすことこそが善だという考えに与するかもしれない。
あるいは、悪の敵は別の悪だと考えて、ひたすら悪から距離を置こうとするのかもしれない。
場合によっては、あなたはあえて深く考えず、ただ素朴に善くあろうとするだけかもしれないし、それが多くの人を元気づけ、本当に世の中を善くするかもしれない。
人をあざ笑ったり馬鹿にしたりすることを是とするあなたは、シニカルなのはの一派だ。
エビルなのはと異なるのは、相手の醜さと愚かさを強調し、相手を否定し不快にさせることを最も重視するという点である。
あなたの攻撃は的確に相手の精神と発言力を削り、場合によっては再起不能にし、ひいては社会をも動かすかもしれない。
あなたがこのような行動に出るのは、あなたの信じる正義のためかもしれないし、他の理由かもしれない。
あなたの言動は多くの人間の気持ちを代弁することとなり、非難と同時に多くの支持をも集めるだろう。
また皮肉や罵倒の技術を高めた者同士の口論は、一種の高度な格闘技の様相を呈し、見る者に活気を与えることになるかもしれない。
感傷を、情緒を、時にはユーモアを、快く美しい言葉を紡いで歌い上げることだ。
真偽や善悪がいったい何になるだろうか。よしんばそれらが重要だとしても、それはあなたの仕事ではないのだ。
美しければそれでいい。
その美しさは力となり、様々な効果を生むかもしれないが、それはまた別の話である。
以上の分類は、複合・派生・細分化によって新たな分類を生み出しうる。エコノミカルなのは、テクニカルなのは、フィジカルなのは、などが代表例だろう。
他にも、ケミカルなのは、トロピカルなのは、マダガスカルなのは、なんてのもいるかもしれないが、このへんの人達の行動原理は不明である。
さて、いうまでもないことだが、もっとも知名度が高いのは「リリカルなのは」である。検索すれば分かるだろう。
しかし実態が知名度に追いついているとは到底言い難い。過去に栄華を誇ったかもしれないが、それは過去であり、今ではないのだ。
今こそ、リリカルなのはの再興が待ち望まれているのではないだろうか。それなくして、未来は暗い。
お分かりいただけただろうか。
(追記)
「それぞれに理由がある。」というブコメがうれしかった。大喜利要素で茶化しちゃったけど、ほんとはこれを言いたかった。(「偽」の項の理由がちょっと足りなかったのは失敗。)あとリリカルなのはが好きなのは本当です。
今回は少年ジャンプ+
プロットも、登場人物たちの展開する理屈やセリフもろもろが、実にありきたり。
前向きにみるなら、奇をてらわないプロットだからこそ、より作家本人の地力が色濃く出ているともいえる。
コマ割、構図、セリフや文字の配置、1ページにおける情報量のバランス感覚、どれも高い水準だと感じた。
模範生的な出来だと思う。
展開や世界観自体はバカげているものの、メインテーマがプロットと一貫しているので話は分かりやすい。
家族という、いわば小さな社会組織の中で法(ルール)というものをシニカルに描きつつも、それ自体の大切さと意義を描いている。
画風は古臭いというか、そもそも上手くないけれども、テーマとそのプロットの見せ方はハマっている。
コマ割はやや杜撰なところもあるけれども、構図は悪くないと思う。
アップデートをテーマに、概念を超越してギャグをどんどん展開していく。
そのギャグもどれも小粒ながら、ちゃんとネタとしてしっかりしている。
面白さは、個人的に大賞の作品と大差ないと思ったけれども、こちらは大喜利の延長線上みたいな、ストーリーの希薄性が明暗を分けたかなあって印象。
ストーリーがほぼない分、本作のギャグがハマらなかったら評価すべきところがほぼないのと同義だからね。
ああ、これは大賞とるよなって思った。
でもストーリー自体が表面的には真面目だから、感動が笑いを生むっていう循環が良くできてる。
明らかにふざけたことを真面目にやっている世界観なのに、時おりマトモなことを言う登場人物たちは、それだけでギャグとして機能している。
テレビはまだ面白かった。特に夜のフジテレビはカノッサの屈辱とか。当然番組のサイトに対して、歴史的検証の違いに突っ込むつまらない真面目なブコメもあったけど、企画に乗ってぼけて盛り上がるブコメもあったし、togetterや、まだ人気があった2chのスレもよくはてブトップにあがってた。
印象的だったのは、フーコーの振り子をボディコンギャルと一緒に一晩中流し続けてた番組。内容のシュールさもさておき、ブコメに地球平面説ユーザが湧いてきて、炎上会場が増田に移って、最終的にはコリオリの力を説明するため、地球は平面だが自転しているというナイスな着地を見せた。いま考えると、着地点まで計算した上での高度な釣りだった気もする。
同じ夜でも、外に出れば、まだクラブとはあまり言わなかった、いまでいうディスコが六本木やベイエリアではたっぷり楽しめて、黒服チェックを通るためみんな必死でバイトしてコムサやコムデギャルソンやビギとかデザイナーズをマルイで買い漁ってた。古着屋も市民権を得始めてたけど、当時メルカリやゾゾがあれば助かっただろうなー。とはいえバイトの時給も高かったし、扶養はみ出ないように店長に退職金扱いで貯めてもらったり、家庭教師とかやれば月に20〜30万は固かった。はてブに出てくる話題はどっちかというと真面目なこういう方面の話かな。
なので、いざ就職しちゃうと毎月の手取りが逆にがくんと落ちちゃうのがありがちだったけど、当時の新卒就職状況はおそらくいま語ってもなかなか理解しづらいと思う。
月に二回ぐらい、玄関にでかくて重いダンボールが勝手にドスンと届く。中身は、いろんな企業からの会社案内がうず高く積まれたもの、そして会社見学申込みハガキの束が何個か。千社規模の、紙の情報の塊だ。持つのがしんどいほど重い。だいたいはろくに見ないでまるごと捨てるのだが、捨てるのも一苦労だ。ひたすら届いた箱とか、おもしろいパンフをツイートしてた奴もいて、その手のネタのまとめも乱立してた。
そんなノリだから、単にタダメシを食いに、あるいは先輩から金一封とともに頼み込まれて、会社見学会に行って席で寝ていれば、高級ホテルのディナーに、記念品詰め合わせに、ごちそうさま放題だった。もらったものは途中で開けてみて、ほとんどは駅のゴミ箱に捨てちゃってたけどね。
そういうインスタやまとめに、たまに企業の人事がキレて、さらにまとめられて炎上して、ブコメも山ほど付いてたけど、シニカルなものは少なくて、炎上にのっかっての盛り上がりがほとんどだったと思う。やっぱり世の中が豊かなほど、人の気持ちも豊かでおおらかだからね。