はてなキーワード: 異質性とは
褒められたり認められたりするためにオタクをする、アイデンティティがオタクしかないという存在のイメージがどちらかというと、批判されてる側のオタク趣味が大衆化して群れるようになった有象無象のオタクが生み出した概念だからそうじゃないオタクにとっては何言ってんだこいつとなる
そうじゃないオタクはそもそもコンテンツにハマることで周りとの差異を認識して、他者との異質性や隔絶を感じることから自分ってオタクなんだなあと認識する段階を経ているので、評価、成功体験、アイデンティティという他者との関係や社会から分けられる属性を前提とした単語の全てにズレを感じるし、群れたり仲間と盛り上がるためにオタクであること、その中で成功するため?評価されるためにオタクである世界観が増田自身の吐露であるとしか感じられない
突っこんだら負け、そうはならんやろ、とかのキーワードで調べてるんだが、なかなかピンとくるものがない。
具体例を挙げると
・「気になりすぎて夜しか眠れない」
・「俺はこの手法で820万を140万にした」
・「まどかが変身するところまで見て」
・「見ての通り頭の良い奴だ」
こういうやつ
他に何かない?
【追記】
cider_kondo id:Re-KAmさんみて連想したが「止まった時計は1日に2回正しい時刻を指す」ってのは逆にある種の真理を指す言葉として使われてるよな。そういうのと増田が求めてるのって、どこがどう違うんだろうか?(曖昧な質問
うーん…どこが違うかと言われると難しい。時計の例も似てると思う。
前半より
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/06/post-12364.php
体罰の議論は悪く言えば物語的な説得に終始してしまうことが少なくないところ、この記事では体罰についての研究結果、それに基づいたアメリカ心理学会の声明、体罰に代わる指導教育方法の提示まであり、大変興味深く読みました。本発表の中から一つ読むならこれがおすすめです。
https://medium.com/@tumada/do-not-find-your-passion-a7b2f290b5a
「情熱を探そう」という指針への批判的検討を行い、「情熱ではなく、ちょっとした興味を見つけて、それを育もう」と呼びかけています。Web2.0時代への郷愁と共に読みました。続編の記事も良かったです。
iPhone等で使っているPocketアプリの読み上げ機能は未読処理の効率を大幅に改善してくれました。感謝。Pocketの同機能はiOSのそれよりも
・多数の記事を立て続けに読み上げてもらうことができる
・複数端末の連携が容易。スマホ、タブレット、パソコンから取り敢えずPocketにつっこめばいい
という点で優れています。
ただ、引用部分を2回読み上げる不具合(?)があり、治らないかなーと宙に念じています。
https://www.newsweekjapan.jp/yukawa/2019/02/50transtech-conference.php
悟りのような状態を「Persistent Non-Symbolic Experiences(PNSE、継続的非記号体験)」とし、その状態にあるという人たちに対してインタビューをした研究を大本とした記事です。通常の感覚と異なるPNSE状態の感覚の描写が興味深いです。さらにそれより考えさせられたのは、ブッダらの宗教家が仮にこの状態から教えを発したのだとして、その教えが常人とは異なる非人間的ともいえる程の感覚から出たものであることが知られないまま(PNSE状態の異質性の程度が認知されないまま)大衆に流布され、生きる指針とされているとしたら話が違ってくるんじゃないかという点です。そこに壮大なスケールのディスコミュニケーションがあるのではないか、とSF的な世界観の揺らぎを与えてくれたことに今年の大賞を授与したく存じます。
>エアプまるだし。
エアプ初めて聞いた。今調べた。まさに自分のこと。MMORPGはほとんど経験なくて、ドラクエXだっけ?をちょっとやってやめたくらい。
>「神話が語り継がれているのは普遍的な魅力があるから」というのと、「読者が英雄になりたい」論がまったく噛み合ってないぞ。
ここは確かに雑です。
主語が少し大きいかもしれないけれど、物語を読むときって何らかの形で、登場人物に自分自身を投影するということが起こるように思っています。異世界転生ものにしろ、神話・昔ばなしの英雄譚にしろ、何らかの形で感情委移入:投影が起こる。
神話の世界には自分を投影するというと誇大的になるかもしれないけれど、個人的な読書体験として、自分は王子でも何でもないけれども、ホメロスでもマハーラーヤナでも主人公に対するいくばくかの投影があったために物語を楽しむことができたのかなと思っています。勝手な想像だけど、ムラの長老がたき火を囲んで部族の子供たちに建国神話を聞かせるなんてイベントが、その時代には娯楽の一つであって、私がラノベを読むのと同じようなわくわく感を、その時代の子供たちも持っていたかもしれない、などと考えます。
物語を楽しむためには投影がなされる、その意味では神話もラノベも同じようであって、主人公への投影を容易にする点では、普通の人が転生して大きな力を得るという形式は、優れた構造といえるかなと思います。
>「異世界転生には神話類型が見られるから魅力的である」で済むところに、ゲーム云々を持ち出す必要があるか?
>「異世界ものが下敷きにしているMMORPG」?SAOからの流れでMMORPGの要素が一部に取り込まれているだけで、ジャンル全体に言えるような傾向ではまったくないが?
ジャンルもすべて把握しているわけではないので、この界隈の知識不足は否めないですね。
語りたいこととしては、異世界転生ものへの批判対象の一つである、「スキル、レベル、ステータス」といったモチーフのことです。これらはMMOでないRPGに起源があると思いますが、異世界転生ものが量産される背景として、MMORPGで主人公になれないユーザーのフラストレーションが、少なくとも初期にはあったと思っています。SAOはMMORPRGの要素が取り込まれているというよりは、MMORPGを題材そのものとして取り扱っているように思います。
なぜゲームを持ち出す必要があるのかというと、まさしくご指摘の通り、エアプな私が、ゲーム的な異世界転生ものをそれなりに楽しんで読んでいる傾向があるからです。MMORPGへのフラストレーションが著者の動機にある(あった)と考えているのに、フラストレーションを持つほどにMMORPG親しみを持たない”エアプ”の自分が、そこそこ異世界物を読むのはなぜなのか?それは、異世界物がライトな消費物としての、物語であったとしても、何らかの普遍的な構造を持っているのではないか?という疑問がエントリーの原点になっているからです。
>つか異世界ハーレムで挙げるべきは異類婚姻譚よりマレビト信仰だろ。異類婚姻譚を挙げるならモンスター転生などを挙げるべきだろ。
マレビト信仰も、場合によっては異類婚姻譚の亜型ととらえることはできるかもしれません。
https://www.jiu.ac.jp/files/user/education/books/pdf/833-56.pdf
モンスターのような外形上明らかな異質性を持つ”異類”でなかったとしても、異世界ものでは異世界を訪れており、そこで生活している人を転生以前の世界と変わらぬように描いていたとしても、構造上は、転生者にとって異類であると思います。
>まあ結局は後知恵の辻褄合わせとしか思わんがな。
おっしゃる通り。異類婚姻譚をもちだしたのは、神話類型に寄せるためのこじつけ感は否めませんが、ハーレム展開とまでいかなくても美しい異性と結ばれたいという構造はやはり神話・昔ばなしと同根と思えてしまいます。
>次はロクに研究対象も読まずに文学論モドキを騙る馬鹿がなぜ出てくるのか分析してくれよ。
jungianでもないのに、神話類型を持ち出して、文学論もどきを語っても、ちゃんと読んで批評してくれるからです。ありがとう。
いただろうか?
さくらももこ氏の訃報を聞いてふと気になったが、どうにも思い出せない。学齢で言えば小学1、2年生の頃だが、どちらかというと幼い頃は『なかよし』に夢中になっていたような気がする。
当時の『りぼん』は、『なかよし』に比べて恋愛要素の強い作品が多いイメージだった。とは言え対象年齢的には、自分のような田舎の女児がぼんやり理解してドキドキできる程度の、恋の入口やもどかしさを描いた作品が多かったのだと思う。
言わずもがなの「ちびまる子ちゃん」と「お父さんは心配症」である。
私は、ひたすらに「お父さんは心配症」の父・光太郎が怖かった。ハイテンションで誌面の中を飛び回り、典子への行き過ぎた愛情から北野くんとの恋愛どころか自分自身まで自虐でぶち壊しまくる光太郎が、ひたすらに怖かった。ページを開きたくなくて、作品ページをホチキスで止めていたかもしれない。他の怖い本はそうしていたから。
逆に「ちびまる子ちゃん」は癒しの作品だった。恋愛ものに息切れした女児のオアシスのように、まる子はただただ普通に、家族と友人と、そこで暮らしていた。あるあるネタと少しだけ古い時代背景と共に、穏やかに、時にシニカルな空気を携えて、毎月私の所へやってきた。
そう、「ちびまる子ちゃん」は連載時に既にレトロだった。私の知っている人気アイドルはヒデキではなく光GENJIだったし、百恵ちゃんは引退していた。アニメ放送を母と見ながら解説を受けるまで、私の中でヒデキと西城秀樹は繋がっていなかったし、百恵ちゃんはまる子が憧れる女の子のままだったのだ。
「お父さんは心配症」の異質性が『秩序の破壊』だったとすれば、「ちびまる子ちゃん」のそれは『虚実を織り交ぜた過去』だったと私は思っている。
乱暴な括りだが、私にとっての当時の『りぼん』作品は、基本的には未来を指向した現在進行形のものだった。ドジで失敗ばかりの現状であっても、これから自分はどうしたいか、どうなりたいのか、主人公は常に考え続ける。人の自然な成熟過程をなぞり、周囲の支えを受けながら、成功も失敗も糧にして成長していく。
そういう理想の学園生活がキラキラと眩しく、同時に私にはどこか息苦しかった。
「今よりももっとかわいくなれる」
その語尾に、私は「…なくてはならない」という言葉を感じ取っていたのだと思う。
作品世界に憧れることと、自分の身に置き換えることは決してイコールではないのだが、拙い想像の中であっても「私はこうなれないだろうなあ」と諦めることは、大人になった今思うより苦しかったのかもしれない。
前述の時代背景と共に、まる子が作者の子ども時代をモデルにしているということは知っていた。つまり、すでに「結末が確定していること」であり、「私ではないひと」の話だった。
まる子も成長し、恋愛や友人関係や自分のコンプレックスに深く思い悩む日が来るのかもしれない。しかし、それは永遠の小学3年生の「ちびまる子ちゃん」のまる子には当てはまらないし、モデルとなっている作者はマンガ家という進路を選択済みなのだ。
私は、まる子でもたまちゃんでも丸尾くんでも花輪くんでもはまじでも永沢でも藤木でもなく、ただの読者として、安心して「ちびまる子ちゃん」を楽しむことができた。
勿論リアルタイムで読んでいた小学生時代にこんなことを意識していたわけではなく、単純に『りぼん』の中で一番楽しんで読むことができた作品だったのだと思う。
クラスのどのカーストの女子でも「ちびまる子ちゃん」は必ず読んでいた。あの頃の共通言語になっていた作品の代表格だった。
その後私はくるりと掌を返し、破壊度の増したあーみんギャグに恐ろしい程はまった。「こいつら100%伝説」は現在も本棚に置いてある。「ちびまる子ちゃん」はもう手元にはないが、「心配症」の方のまる子×心配症コラボの掲載巻は実家にあると思う。
成長していく私は、いつの間にか自分がまる子ではないことに安心するだけでは物足りなくなってしまったのかもしれない。けれど、久々にニュースで見た「ちびまる子ちゃん」の表紙には、やはりとてつもない懐かしさと安心感があった。
そして散々言われているが、彼女の初期エッセイは最高に面白い。読書慣れしていないひとに「おすすめの本は?」と聞かれた時に挙げる1冊に必ず含めていた。
私にとってさくらももことは、この4000バイト強の文字の分しか接点がないひとではある。
しかし、訃報を聞いて、居ても立ってもいられず匿名アカウントを取るおばさんを生み出してしまう、そういうひとだったのだと思う。
「おかしい」という言葉が示すように笑いというのは異質さから来ている。「ふつう」とのずれが笑いを生み出す。しかし、異質すぎるものは笑えない。理解や想像を超えてしまうからだ。そこに抱くのは恐怖という感情になる。一般的な人がスナッフビデオやネクロフィリアにおかしみを見いだせないのはそのあたりにある。
翻って淫夢の話である。淫夢が流行る、笑いになるというのは、ゲイ行為が「ふつう」ではないという認識がもたらすものにほかならない。しかしまた同時に、ゲイ行為が恐怖の対象になるほど異質なものではないことも示している。淫夢の笑いは、日本人が同性愛に対する差別を克服していく進歩の過程でうまれたものだ。
差別は異質性から生まれる。女性専用車両が差別だと言う話が噴き上がるのも、結局は男女の異質性に基づくものだ。そもそも痴漢という行為が異質性に基づいている。また多くの人がこの話題に言及したくなるのも、異質性からくるおかしみが人を惹きつけているのだとも考えられる。