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はてなキーワード: 共生とは

2015-11-29

4Pマーケティングミックスの要素

企業は以下の4Pを適切に操作して顧客にモノを売る。

いや、おかしいでしょ。なんでPlaceが流通になるの。なんとか頭文字を合わせようとしただけじゃないの。

で、さら顧客志向マーケティングミックスとして後に生まれたのが4C。

Consumer万能すぎでしょ。もっと狭い言葉を使おうよ。

サービスマーケティングミックスでは4Pに3つのPが加えられ、7Pになる。

Physical Evidenceが分かりにくすぎる。2単語になってるし。

さら共生マーケティングにおける4Cは上記の4Cとは違うとか、共生マーケティングの分野には7Cs COMPASS MODELなるものもあるとか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%9F%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0

7Cs COMPASS MODELが何を言ってるか分かる人います

無理やりかっこよく頭文字を合わせてなんの得があるというのか。

こんなことしているから、ビジネス寄りの学問うさんくさい金稼ぎの手段だという偏見が抜けないんだ。

2015-10-14

イケメンは、「イケメン」って仕事担当してる男だと思う

俺は、イケメンになろう、なぜイケメンけが得するんだ。って劣等感持ってたんだけど。

いま少し考えあらためた。

イケメンは女をとりこにして、風俗なりAVなり落とす。そうまでしなくとも、女の婚期をつぶして妥協させる。そういうのでできた成果物普通の男達が得る。

これを考えると、イケメン社会にとって、「女を倒す食物連鎖の1種」で、「イケメン」っていう役割果たしてるんだと思った。

  

ブサメンは、女から相手されないから必死努力して金を作る、社会を回す。つまり、そういう差別が間接的に社会を動かす原動力になっている。

ブサメンは、そういう働きをする「ブサメン」って仕事担当してると思う。

  

そう考えると、扱いの差が気にならない気がした。

俺は、俺の領分仕事をしているし、イケメンイケメン領分仕事をしているだけで。

研究者技術者仕事の分担みたいなもんだな。イケメンをうらやましがるのは、違うわけだ。

食物連鎖がまわらないと環境がぶっ壊れてみんなが死ぬ

からイケメンイケメン役割を果たすだけで、ブサメンはそれで不利益を受けても、ミクロはいやだが、マクロでは共生関係なんだなと思う。

2015-10-09

リア充オタクに反発を感じるオタクは、自分自分を惨めにしてるってことがわからないほど馬鹿なのかい

リア充オタク」を嫌悪する人たちの気持がよくわからない。

ソーシャルゲーム場合廃課金兵のプライドを支えるのはゆるくプレイする人たちだ。

彼らがいるおかげで、上位プレイヤーは400万人プレイヤートップという地位享受できるのだ。

彼らの廃課金のおかげでライトプレイヤー無料プレイできるし

ライトプレイヤーのおかげで廃課金兵たちはちょっとした俺SUGEEEを味わえる。共生関係だ。

しかし、オタクリア充オタクはどうもちがうようだ。

本来であれば、こういうライトプレイヤーはいってくることは望ましいはずだ。

こういう存在裾野をかため、自分たち地位を押し上げてくれるからだ。

しかし、オタクたちはリア充にたいしてコンプレックスを持ちすぎている。

リア充オタクという言葉今日ホッテントリしている記事に出てくる人たちの言葉を見てみよう。

http://alfalfalfa.com/articles/133722.html

http://hamusoku.com/archives/8993928.html

http://hamusoku.com/archives/8994409.html

http://tm2501.hatenablog.com/entry/otaku-toiu-gitai

なんだこの哀れな人達は。

リア充へのコンプレックスをむき出しにしている。

そんなにリア充羨ましいなら努力してそっち方向に行けばいいのに、

オタクにしがみついたまま、リア充を「自分たち土俵で」けなして満足しているのだ。

情けないにも程がある。そんなに自分に自信がないのか。

似非だとかヌルいとか言ってるけど当たり前じゃん。向こうはライトに楽しみたいんだから

じゃあオマエリア充のホーム側に乗り込んでいきなりすごいことできるのか?出来ないだろ?と。

その時に向こうが「ヌルい」だの「似非」だの馬鹿にしてきたらどう思うよ。 

オタクだとかリア充だとか関係なく人間としてあまりに器が小さすぎるし性格悪すぎるしキモすぎだ。

そのキモさを全開にしたあげく、自分たちガチオタクだって胸を張っているのだ。

ガチオタクってのはそういう器が小さくて性格が悪いことか?違うだろうに。

ほんっとに情けないな。

オタクバカにするギャルだとかリア充の人たちってオタクよりは心広いぞ。

結構無神経にオタクとかを馬鹿にしたりするけれど、いざ興味持ってそっちの世界に足を踏み入れようとした人たちを馬鹿にしたりはしない。

オタクみたいに興味持ってやってきたライトユーザーを「ヌルい」だの「似非」だの「にわか」だのいって馬鹿にしない。

親切にしてくれて、いろいろ教えてくれて、尊敬できる人がいっぱいいる。

それをなんだ、上の記事に出てきたようなオタクたちの情けないこと。

なんでそこまで自分を惨めな存在にしてしまうのか。

自分自分を惨めにしてるってのが全然かららないのか。


言っちゃ悪いが、お前らがリア充になれないのってヲタからでもなんでもなく単純にキモチワルイからだろう。

リア充ばかにしてる暇があったら、オタクどうこうよりその気持ち悪さをなんとかしたらいいのに。

オタクであることに自信があるなら、むしろリア充オタクにも親切にしてやれよ。

それで、そういうやつらから尊敬されてやる、って踏ん張れ。

どうせ馬鹿にされてるから馬鹿しかえしてやるっていう僻み根性で人に接してんじゃねえよ。

2015-09-21

安保法制民主主義とは何か?

もし、安保法制の中身に賛成でも手続きおかしければ反対して欲しいんですね。

今回は皆様も感じていらっしゃるように民主主義手続きが踏まれていないと思います

こういうとね、多くの愚かな政治学者を含めて「民主主義とは多数決からそれでいいんだ」と応えるかもしれませんね。

それが何故愚かなのかというとね、政治思想歴史を知らないからなんです。

それは具体的にはルソーによるロックの反駁として知られています

ルソーロック流のある種の代議制民主主義をこう言ったんです。

選挙ときだけ参加して、あとは奴隷になる仕組みだ」

ですので、代議制は必ず、デモその他に国民たちが絶えず参加することで補完されなければならないとされた。

まり民主主義とは何かといいますと「参加による自治」のことをいいます

まず、ここまでが前置きです。


分かっていただけましたか(繰り返しましょう)。

まず、民主主義本質とは「参加して、自治すること」です。

このルソーの反駁として知られる有名な議論も含めて、当初、民主主義は小さな規模で考えられていました。

ところが、アメリカのような大きな国が(あるいはヨーロッパ20世紀に大きな国になっていきますが)

出現したとき、考え出されたのが「共和」というシステムなんですね。

それは、民主主義的な自治のスモールユニット(小さな単位)が共生するため、

アメリカなら「連邦」を作る、

ヨーロッパなら(補完性の原則に基づいて)できるだけ下の単位で決め、できないことを上にあげていく、

そのように運営されている仕組みのことです。

民主主義とは「多数決”ではなく”」、基本的には「自治なのである」ということなのです。

もっと言えば、自治の本質とは「代議士に任せない」ということなんですね。

そういうことを知った上でモノを言っている人がどれだけいるのでしょうね。


また、そういったことについて考えてみると、日本おかしな仕組みで「党議拘束」というものがあります

これね、英語でいうと、これに相当する英語は無いんですよ。

海外では「無理やり党の決定に従わせること」という一文に置き換えられています

ひどいでしょう?個人がいくら公約したところで、その意味剥奪されてしまっている。

個人が公約するところが全く無意味になってしまっている。

さらに、国会審議の意味さえ失われる事態になっている。

党が決め、その党が多数を占めてシナリオを描いてその通りに進む審議に何の意味もないではないですか。

まるで国会には民主主義存在しないかのようです。


また、勘違いされている方が多いのですが、今回の法案自民党に利するところより官僚に利するところが多い。

官僚権限無限の拡大が疑われているのが国会審議で分かりつつあります

法案の中に歯止めとなる部分が無い、政府の思うままにことを動かせる内容です。

政府」というと一見すると安部政権であるように思われますが「そうではありません」。

政権はあるとき必ず変わりますしかし、変わら無いもの根底に流れ続けている。

それが「官僚機構」です。

官僚機構が(自衛隊安全確保基準も無いまま派兵ができようなっているなど)絶大な権限を得るような内容になっている。

それが今回の法案です。自民党はそうとは知らずに片棒を担いでいるに過ぎません。

安部政権自民政権がそのままならばいいでしょう。その権限の一部を彼らが行使できるわけですから

しかし、次はどこが政権を取るのかは誰にも分からないのです。

自民党安部氏を応援している方々は、そうした政権(たとえば民主党公明党)に、

そうした権限を与えても問題無い、とお考えでしょうか?

鴻池氏の言動に幾ばくかの逡巡が見られた方もいらっしゃるしょうが、実はそのあたりだと思われます

「最小限度基準」なども書かれておらず、「安全基準」も書かれていない。

権限ときの(誰が握るか分からない!)政権無限に使わせないための「歯止め」がない。

合理的判断して」など、ようするにとき政府総合的に判断する、と。どうにでもなる内容で書かれているのです。

今回、残念なことに「違憲かどうか」にかなり焦点が当てられてしまったが故に注目が薄いのですが、

違憲」をひとまず横に置いておいたとしても、「法律としてあまりにも問題が多い」んです。

ここで知っておいて頂きたいのですが、「一旦法律としてできてしまったら、それが取り消されない限り有効」です。

最高裁判所違憲判決が出されるか、次の政権が廃案にしない限り、有効であり続ける。

とうことは、次の政権官僚機構無限権限行使を許すことになる、ということです。

(続きはWEBで!)

日本は本当に民主主義の国なのか?」

http://www.tbs.co.jp/radio/dc/fri/

2015-09-19

gudachanに誹謗中傷される安倍ちゃん可哀想

移民推進

分化共生

都市部への利益誘導地方切捨て

公共事業の削減

憲法改正

gudachanが毎日のように書いてることを日本で一番推進しているのに

こんなにも酷い言われような安倍ちゃんは本当に可哀想

でもgudachanレベルの脳タリントップに居る日本国民が一番可哀想

入居前に分譲マンションを解約した話

5年前、入居予定だった都内マンションを解約しました。

いわゆる新築物件青田買いだったので本契約を済ませた後

で入居一ヶ月前というドタキャンだった為、当然手付で入金

したウン百万は戻らず水の泡となりました。

一生懸命に働いて稼いだお金ですし、今でも心情的には本当

にやりきれない気持ちもあります

分譲マンションを買うという事は、私達のような事もあるん

だと思っていただければ幸いです。


きっかけは本契約後に開かれた懇親パーティーでした。

不動産会社主催パーティーで入居後に同じマンションの住

民となる契約者同士の交流目的であり、同じマンション

一緒に生活を共にしていくであろう同世代の子育て世代がど

のくらいいるのであろうか等、私達夫婦もドキドキしながら

参加しました。

受付を済ませ入室するとテーブルが入居階毎に設定されてお

り、入居後のコミュニケーションを想定した席次となってい

ました。私達のテーブルに向かうとそこには高齢のご夫婦

その二人に挟まれる形で身体の大きい男性がいました。

少し身体を斜めにして身体を揺すったり手を叩いたり大声を

出して抑えられたりと、その男性が障害をお持ちであろうこ

とはすぐに分かりました。

私達のテーブルで若い世帯は私達だけで、あとの世帯も高齢

まではいかなくとも中高年以上のご夫婦でした。他階のテー

ブルには私達と同世代と思われるご夫婦も多数見られ、私自

身は「まあこんな事もあるかな」程度に考えていました。


しばらくして司会の方が音頭を取って乾杯をしテーブルごと

自己紹介をという流れになりました。

若いからどうぞと促され、無難挨拶をして妻のお腹には

赤ん坊がいること等を話しました。

次に席を立った中高年夫婦の方は少し片言の日本語挨拶

され、貿易お仕事をされているという中国の方でした。

お子さんはもう全員大学生中国大学へ行かれているとい

お話だったので、恐らくこのマンションも一括で買われた

資産家の方だと思います

次に挨拶に立たれたのが先の高齢夫婦でした。

「ああああかあかかかかか!!!!!」

奥様が立つと、隣の障害をお持ちであろう男性が突然大声で

叫び始め「だめ!○○ちゃんシーッ!シーッ!」などと必死

にご夫婦でなだめていたのが印象的でした。

まりにも大きな声だったので他のテーブルもみんなこちら

を振り返るほどでとにかく面食らったのを覚えています

○○さんはとにかくガタイが良く、恐らく身長は180位、

体格も柔道をやっているような大柄でした。

「息子の○○は少し障害があり、ちょっとわんぱくなところ

 もありますが、みなさんと一緒に楽しくすごしたいと思い

 ますのでよろしくお願いします」

のような挨拶をされた直後、突然その○○さんが隣の旦那

んを押しのけて私の妻に向かってバーっと抱きつく勢いで手

を伸ばし、思わず妻はのけぞり椅子から崩れ落ちました。

旦那さんが「コラ!○○!ダメ!」などと制止し、苦笑い

謝罪しながら「○○は小さい子供が大好きなんですよー」と

仰って、どうやら彼は妻のお腹を触りたかったようでした。

○○さんは押さえつけられても顔をブンブンふったり、何か

歌ったりテーブルを叩いたりしていました。

私は「困ります!」と強く抗議しました。知的障害をお持

ちの方への接し方としては間違っていたかもしれませんが、

まさかこのような事態に遭遇するとは思わずついカッとなっ

しまいました。そのあと妻は飲み物にも口をつけようとせ

ず押し黙っていました。旦那さんは○○さんを押さえつけな

がら苦笑いで何度も謝罪のような言葉を口にしていましたが、

何故か奥様は○○さんをなだめるだけで、全くこちらを位に

も介さなかったのを覚えています

その後は所々中国人のご夫婦中国語でコソコソお話をする

声が耳に残っただけで、後の自己紹介は全く覚えていません。


その後立食となり、私は同世代夫婦が多い場所に無理やり

妻を引っ張っていくような形で連れて行きました。

先ほどの私達のテーブルの騒ぎを見て私達のテーブルに近づ

こうとする人達がいなかったからです。

話こそ無難に盛り上がりましたが、「ああ、あの人がいたテ

ーブルの方ね」という哀れみというか少し距離を取ろうとす

視線は普段鈍感な私ですら感じたもので、こういった距離

感に敏感な女性である妻には相当堪えたようでした。

ふと私達のテーブルを振り返ると、中国人夫婦はさっさと

帰ってしまっており、先ほどの○○さんがサンドイッチやス

パゲッティーのミートソースボロボロこぼしながら食べて

いてその世話をする高齢のご夫婦の姿がありました。

時間パーティーは何とも言えない重い空気のまま終わり

ました。


帰りの車内。

妻は一言も口を利きませんでした。

正確に言うとそれから数日間口を開いてくれませんでした。

パーティーは日曜で翌日から仕事でした。妻はその時まだ

妊娠七ヶ月で産休も取っていない状況でした。

私は最後の望みをかけてずっと世話になった営業マンに部屋

を変えられないか必死に掛け合いましたが、他の部屋は完売

で仮に他の販売マンションを紹介するにしても解約は免れな

いという結論でした。パーティーでの出来事は営業マンもご

存知で、全く私達を引き留めようともせず淡々と現状出来る

ことを説明するだけだったのが印象的でした。

「解約しよう」

妻には私から打ち明けました。

確かに何百万も払った手付金が戻ってこないのは残念だけど

精神的な自由や安らぎはお金には変えられない。あのマンシ

ョンでの新生活に明らかな不安が見えてしまった以上、お金

犠牲にしてでも逃げようと。妻は泣きながら「ありがとう」

と口を開いてくれました。


解約なんて本当にあっけないもんです。

あんなに手取り足取り笑顔で私達をリードしていた営業マン

がピクリとも笑わない目で粛々手続きをすすめるだけ。

オプション改造分の違約を請求されたりしたらどうしようと

思っていましたが、手付を放棄するだけで解約となりました。

大変だったのはその後で、ギリギリすぎてその時住んでいた

賃貸を再延長出来なかった為、即決で入れる賃貸を探して急

いで引っ越したことです。

幸いなことにその引越し先に同年代夫婦複数いて、今で

は妻も娘もお友達と楽しく生活しているということが救いで

す。

私自身、自分が言うのも何ですが障害をお持ちの方やそうで

ない人も分かりあって生活していけると信じたいです。でも

妻や娘の事を考えると色々と考えてしま現実があり、今で

も5年前のあのパーティーが心に引っかかっています

それは失ったお金以上に、地域共生していく難しさを教え

てくれた忘れられない出来事でした。

2015-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20150906165220

感情抜きで」政策の面から安倍首相に反対する理由を考えるってのは、そもそも難しい話なんじゃないだろうか。

政治家に「正直さ」を求めるなんていうと青臭く聞こえるけど、彼のやり方はあまりにも強引で、誤りを指摘しても一切認めずに詭弁を弄するばかり。政治家なら皆、大なり小なりそういうところがあるけど、彼はちょっとそこが突出しすぎている。彼が信用されない理由というのは、実際これが主因なんだと思う。

加えて彼は極端に右寄り日本には右翼もいれば左翼もいるし、また中道の人もたくさんいて、それぞれに考え方が異なるけれども、好むと好まざるとに関わらず共生していかなければいけない。

例えば、中曽根元首相も同じように右寄りな考え方だったけど、彼には「左にもウィングを伸ばして」支持を拡げようというバランス感覚があった。しかし、安倍首相はどうもその辺が飲み込めていないようで、今や左翼を完全に敵に回してしまっている。国内のそれなりの割合の人を敵に回してしまうというのは、首相としては決して賢いやり方ではない。不支持敵対は別物でしょう。

政策云々というより、その辺の拙さではないかと。

日常系としての『がっこうぐらし!

がっこうぐらし!原作コミック(1~6巻)を読みました。

アニメ版とは別物ですね。

日常系作品にちょいとホラー要素を加えたのがアニメ版だとすれば、原作コミックほとんどホラーです。

それと、ただ怖いだけじゃなくて、批評性の高い意欲作です。

日常系とか空気系と呼ばれる作品群をハッキリと否定しています

エヴァ旧劇なら庵野オタクたちのことを「気持ち悪い」と言ったのと同じです。

まどマギ劇場版新編なら、ラストで「自分勝手ルールを破るのって、悪いことじゃないかな」とまどかに言わせ、ほむらが創った心地よい虚偽の日常批判しているのに相当します。

作中、登場人物たちは二者択一を迫られ続けます

学校を出ること(卒業)、あるいはそのまま学校に残り続けること、どちらかです。

"巡ヶ丘"学院という名前場所のものが、終わらない、居心地の良い、都合の良い、フィクションの中にしか存在しない日常メタファーです。

最終的に、学園生活部のメンツ卒業すること(現実直視すること)を選びます

とりわけ丈槍由紀の成長は顕著で、ハッキリと夢想に別れを告げ、夢想彼女を守っていた周囲に感謝の意を示します。

と、ここまでが1~5巻までの概要です。

6巻では舞台学校の外に移ります

うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で言えば、ハリアー友引町を脱出するところです。

エヴァTV版なら、シンジ他人を受け入れるところです。

エヴァ旧劇なら他者アスカ)を望み、LCLから人間の姿に戻るところです。

まどマギ新編なら、魔女ほむら結界を破るところです。

ただ、揺り戻しがあるのですね。

嘘でも良い、安心できる妄想の繭に守られていたいという願望が再び頭をもたげてきます

1~5巻では由紀が繭の中に逃避していたのですが、今度は若狭悠里が繭の中に潜り込み、由紀と同じ道をなぞってしまます

一番現実に向き合っていた悠里の退行は象徴的です。

セカイ系の隆盛後、日常系流行り、まどマギで一旦は日常から脱出したのですが、また日常に戻った漫画アニメ消費者自身なのです、悠里は。

一度は他者を望んだものの、やっぱり怖くてアスカの首を締めたシンジ君そのものです。

デビほむが創った新しい世界を半ば受け入れてしまう、まどか以外の魔法少女たちとも似ています

7巻以降はどうなるんでしょうかね。

おそらく日常現実の間を振り子のように揺れ、最後曖昧な位置で静止して終わるのではないでしょうか。

うる星~』は友引から脱出できたかどうか分からないまま幕を引きました。

エヴァ旧劇でも、新しい世界シンジアスカ共生できるかは未知数なまま終劇を迎えます

まどマギ新編でも、ほむらは「いずれあなたまどか)は、私の敵になるかもね」と言っています

日常系作品への批判は、クリエイター自己批判のものです。

縮小再生産で似たような作品ばかり作っていて良いのかという反問です。

劇場版けいおん!で既にその兆しは見られました。

唯たち4人はしきりに「高校卒業しても、今までのような毎日が続くかな?」と自分たちに問いかけ続けます

もちろんずっとクローズド学校生活がっこうぐらし!)が続くわけはなく、社会に対してある程度開放的であらざるを得ない大学けいおん!はすぐ打ち切りになりました。映像化もされていません。

まんがタイムきららは自ら日常系の潮流を作り、その流行に乗りつつも、自分たちがまずい方向に進んでいることが分かっているのでしょう。

がっこうぐらし!原案を、まどマギ制作に関わったニトロプラス作家担当していることはとても示唆的です。

日常を超えたところに、私はサブカルチャー成熟を期待しています

2015-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20150717142218

そのようなことを、武田邦彦さんと近しい池田博士という方が、ネットTVで話していたな。

そもそも、日本列島の固有種なんてフキとかそんなもんくらいで、いま日本にあるほとんどがどっかから外来種なんだとさ。

外来種最初大暴れするけど、ほうっておけばだんだん共生しだすらしい。変に排除しようとすると、抵抗してきてかえってこじれる。

ウシガエルニジマスなんてのも、近年来日した外来種代表だってさ。

2015-06-22

実写化アレルギー」と呼ぶのは狭量。

やあクソムリエこと、元増田だ。

今回も結論から言えば

スギ花粉にすぐ反応してクシャミばっかりする人たちに、私は心底うんざりしているのだ」

ってのは、ちょっとどうかと、俺は思う。

ソムリエという職業について。

ヒドイ自称をしてるが、俺は映画ドラマエンターテイメントが好きだ。

(作品を貶すよりも)鶴を見つけたと叫ぶ方が有意義だと思ったから、そうした。

批評家から酷評されようがファンからブーイングを受けようが映画館に足を運ぶのは、そこに輝きがあるからだ。

例えば昨今のイカ人気に便乗するなら「ザ・ビースト/巨大イカの逆襲(1996)」というパニックムービーがある。(日本では劇場未公開・TV公開)

娘に海の無慈悲さを説く主人公である父親には(ゴジラ作品に通ずるような)自然への畏敬がある。

ただ、有り体に言ってジョーズの何番煎じかの作品で、秀作とは言えオススメするのは難しい。

しかし、単なるパニックムービーに深みを与える演技を魅せた主人公William Petersenは、

CSI:科学捜査班(2000~)」でギル・グリッソムを演じ、ハリウッド殿堂入り果たしている。

まり、どんな作品にもそこに関わった人間の思いが込められているし、

駄作と酷評されるような作品にも、愛と信念を持って臨む人間が居る。

映画には人生を変え、夢や勇気を与えてくれる力があると思う。

しかし、時間は有限だし、丁寧に観る人ばかりでは無い。

slinky_dog_s11さんに対する返信

こちとら最初から「何が(何を持って)成功か失敗か」という話はしていないんですよ。論点分かってくれ。 /この人のように実際に観てから言ってる人には何も言うつもりはないんです。

id:slinky_dog_s11

十分に論点理解した上で書いたが伝わらなかったのは俺の力不足からだろうし、

これが個人攻撃に見えてしまったり、曲解した上で叩いているように見える可能性もある。

ので、ゴリッとidを入れておいたので、不愉快に思ったら手数をかけるが削除申請して欲しい。

  • 「実写」なんだから違って当然。細かい差異をアゲツラウのは見てて不愉快
  • 実写化」に即応しすぎ。実写化された「後」に反応しても良いはず
  • そういう風に騒ぐ人が「本当に嫌い」

少なくとも「自分の好悪」であると主張しているのは、俺は好ましい態度だと思う。

からこそ、共通点を探ろうとブログを読み(slinky_dog_s11さんの好きであろう)ゴジラシリーズを週末かなり観た。(正直キツイ時間かかった……)

だもんで例示としてあげるのはローランド・エメリッヒ監督Godzilla(1998)にするが、

俺は、パニックムービーとして良く出来ていると思う。ジャン・レノも良い味出してるし。

しかし、「ゴジラ」ファンがこれを「ゴジラシリーズ」として認めるかは、意見割れると思う。

ゴジラ(1954)にある自然への畏敬や人間社会への風刺はホトンド無いし、

フォーマットとして確立していたゴジラvs怪獣という点も無く、独立している。

そもそも、それまでのゴジラの造形からまりにもかけ離れている。

こういったハリウッド化が何度も繰り返され、slinky_dog_s11さんの好きなゴジラ特撮が、

そうではない別ものとしてハリウッド化が何度も何度も繰り返し為されていたとしたら、

ハリウッド化!」に対して「もう止めてくれ!」と叫ばないだろうか。

それを、「ゴジラを見ていないし思い入れも無い人」が「ハリウッド化に騒ぐ特撮クラスタは目障りだから止めろ」と言ってきたら、

ゴジラ好き」達は、素直に「次こそはという可能性もあるから黙って待つか」と思えるだろうか。

実写化」は本質じゃないし、「差異を叫ぶ」のも本質じゃない

そもそも「実写化」というのは別に本質じゃない。次元を超えるせいで、単に目立つだけだ。

例えばリメイクリブートコミカライズノベライズもっと言えばアニメドラマシリーズものだってそうだ。

第三者が別のキャンバスを持って現れ、横で少し真似た絵を描き始めた

http://blog.goo.ne.jp/yukks453145/e/12eb31fc9d5080c07c838ef6fb4ea238

slinky_dog_s11さんも書いてるよな。的確な比喩だと思う。

自分の好きな絵の名前で「これこそが名画でござい!」と模写を披露してるのを、見るわけだ。

その模写は、原作の絵を知っている人間が見ると、とんでもない模写なワケだ。

もしくは、「トンデモナイ描き方を始めた」ように見えるワケだ。

でも、ソレ(実写版)は、間違いなく作品群の一つになる。

例えば最近だと寄生獣(2014, 2015)があるな。放射性廃棄物を使った演出で、一炎上あった。

個人的にはね、ミギー阿部サダヲの名演とか、寄生獣を実写で見られたというワクワク感も無くは無い。

でも、あの映画があると(あった事実は消せないよな)「寄生獣っていうのは、ああい思想作品なんだ」として記憶される訳だよ。

主人公寄生する謎の生物であるミギーもさ、「なんかヒョウキンなバケモノが腕についてんな」という評価になるわけだろ。

人間から見たら冷酷な(でも事実を言ってるだけの)ミギーに対する違和感嫌悪感、そこからの「共生」みたいなものは読み取れないわけだ。

漫画を読んだら判るはずの良さが、映画を観た人には伝わらない。

観た人に演繹されて「ああ、原作もこういう作品なのね」と思われると想像して当然だろう。

そして、そうなるであろうという不信感・違和感が、「止めてくれ!」と叫ばせるわけだ。

「ここが違う」「そこが違う」として細かな差異をアゲツラウってのは、本質じゃないと思う。

それは「不安だ!不信感がある!」という違和感を上手く言語化できないだけじゃないかと、俺は思う。

しろ初期の段階で騒ぐべきなんじゃないの?

俺は、初期の段階で騒ぐのは良いことなんだと思ってる。

少なくとも、熱心なファンが居ることは伝わるわけだし、プレッシャーもかけられる。

島本和彦みたいに「原作を変えたんだから、実写も変えろ!」みたいな面白しなくても、伝わる可能性がある。

  1. 実写化進行中の、作品完成前
  2. 実写化が終わり、公開中
  3. 公開が終わった後

騒ぐタイミングって、上記の3ヶ所しかない。

そして、この中で、作品がより良くなる可能性があるのは1番しか無い。

から、「実写化!」にファンが即応して「マジかよ!」と叫ぶのは合理的だ。

実写化」への嫌悪ではなく、「邦画界やテレビ局への不信」なら、最初に叫ぶべき

俺は、ブコメでも言及されていた「るろうに剣心(2012)」を邦画と呼ぶのには強い抵抗がある。

るろ剣に関しては語りたいことが山ほどあるが、本筋ではないのでここには書かない。需要も少ないだろうしな)

それぐらい、「邦画」界や「ドラマ」界隈ってのは特殊で、ハッキリ言って漫画アニメ実写化するには向いてないと思う。

からこそ、Twitter等でファンの声を製作者側に伝えられる機会があるなら、もっともっと騒ぐべきなんだと思ってる。

そして、そういうファンの存在を「受け入れがたいので目を背ける」コトが出来ずに「本当に嫌い」として黙れというのは、狭量じゃないかな。

http://anond.hatelabo.jp/20150619121107

(※追記:Twitterみたら個人攻撃しか見えない感じになってたので題名修正。あと、ゴジラ24本観終わったので、残り6本のはずだが近所でレンタルしてねえ……)

2015-06-15

http://togetter.com/li/834710

つい最近隣接分野でこんなやりとりがあったけど結局真摯に文献提示しても「気にいらねーから読まない」って態度とるのはなんなんですかね。

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20150208/p1

このエントリで触れた、同性愛病理化の歴史についての主なソースは、風間孝&川口和也著『同性愛異性愛』(岩波新書)です。平易で、かつ情報盛りだくさんで、いい本ですよ。おすすめ

http://kyoumoe.hatenablog.com/entry/20150209/1423489280

文献に関してですが、トランスジェンダーの方の意見ブクマにありました。

はてなブックマーク - 「どこかの同性愛コミュニティからノーマル差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記

岩波新書同性愛異性愛を推奨みたいだけど、あれはひどかった http://blog.goo.ne.jp/kuborie/e/0bf72de60958fb338400532e9a3d73e9 読む価値まりなし。少なくとも絶対に読み返さないと思って、無償で人にあげた

またこういう意見もありました。

はてなブックマーク - LGBTの方に質問です。「異性愛ノーマルと呼ぶこと」及び「同人

LGBTの方に質問です」ってところでカチンとくる炎上案件。十把一絡げにすんな/言葉でいちいち目くじら立てないけど、この質問の仕方はダメよ。まず、Tの人はノンケだってことに留意すべきですねー。

この質問にT、トランスジェンダーが含まれているのは

「どこかの同性愛コミュニティからノーマル差別的だ』っていう意見が出てきてるわけじゃなく」? デマを流さないでくださいよid:kyoumoeさん。 - みやきち日記

ノーマルカップリング」「ノマカプ」「NL」などの語について、ブログだってTwitterだって批判しているLGBT当事者はいっぱいいるよ。id:kyoumoeさんの特殊アイに、そういう意見を極力見ないようにする回避機能がついてるだけなんじゃねえの。

という意見確認のためですが、それでも批判が出てきます

LGBT」という表記一つでこれほどの意見の相違が出てきます

考え方というのは千差万別であり、ある1つの意見が必ずしも全員にとって有益なわけではないのです。

ということで文献に関してはこちらで適当なのに触れることにします。

議論踏み台として提示された文献を自分吟味もせず他人書評に乗っかって価値が無いと切捨てて見せてるわけですよ。

これは個別問題ではないと思うなあ。

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20150210/p1

最後に、同性愛イシューLGBTイシューを本当に「わかりたい」と思っていらっしゃる方々のために、おすすめ書籍リストを挙げておきます。カーリル | 日本最大の図書館蔵書検索サイト等で探してみられてはいかがでしょう。本は怒らないし冷静だし、情報量も多くて、うちのブログなんかよりよっぽど有益ですよ。

同性愛異性愛』(風間孝&川口和也岩波書店)(レビュー

『図解雑学 ジェンダー』(加藤秀一 他、ナツメ社)(レビュー

『<同性愛嫌悪ホモフォビア)>を知る事典』(ルイ=ジョルジュ・タン編、明石書店)(レビュー

LGBTってなんだろう?--からだの性・こころの性・好きになる性』(藥師実芳 他、合同出版)(レビュー

ステレオタイプ社会心理学 偏見の解消に向けて』(上瀬由美子、サイエンス社

セクシュアリティ多様性を踏みにじる暴力虐待』(アムネスティ・インターナショナル編、現代人文社)

同性愛者における他者からの拒絶と受容』(石丸径一郎、ミネルヴァ書房

差別共生社会学』(井上俊 他、岩波書店

差別論 偏見理論批判』(佐藤裕、 明石書店

『Biological Exuberance: Animal Homosexuality and Natural Diversity』(Bruce Bagemihl、St. Martin's Press)(レビュー

『Homosexual Behaviour in Animals: An Evolutionary Perspective』(Sommer, V. & Vasey, P. L. 編著, Camblidge University Press)(レビュー

It Gets Better: Coming Out, Overcoming Bullying, and Creating a Life Worth Living』(Dan Savage & Terry Millor [編]、Dutton)(レビュー

※上記おすすめ書籍リストは今後随時更新していきます。(最終更新日2015年4月11日

2015-05-23

イルカ漁の是非について

イルカクジラを捕ったり食べたりするのはダメだ。」

という主張の妥当性についてモヤモヤと考えてみた。



知能による線引き

食べる/見世物にするということを、「人類自身の都合で自由に扱って良い」と解釈して、人類自身の都合である種を自由に扱って良いかどうかは、その種の知能によって線引きされると仮定してみる。

妥当そうな理由を考えるとすると、「知能の高い種は後々人類対話して共生することになる可能性があるので、禍根を残さないようにしよう」ってことかな?

例えるなら、「黒人白人の都合で奴隷として扱ったのはマズかった。彼らは対話可能な存在だった。同じ過ちを繰り返さないようにしよう。」という考えを種を超えて拡張すると、イルカクジラが当てはまるということか。この例えは微妙というか黒人立場からすればアウトだけど。。

「何百年待ってもイルカクジラ対話できるようになんかなんねーよ」って話もあり、無視して良いのかという気もするが、「対話は無理でもパートナーシップを持つことはできるんじゃね?」という感はあり、地上におけるヒトとイヌ関係ぐらいは持てるような気もする。イヌを食べる人々もいるが。。



文化による線引き

食べることに限って考えれば、「なんかしら食わんといかん。それは人類に限らないし、これはしゃーない。」って話はあり、その視点では種を区別せず何でも食べるのが最も正しいのか?。知能によって区別するなんてそれこそ差別!。なのか?。え?じゃあ人間も含む?。

飢えた地域もあるものの、人間同族も含めて何でも食べないと種を維持できない状態ではないので、なんらかの線引きを行うに至ったのは自然なように見える。とすると、その線引きはそれぞれの文化によってそれぞれ独自に決定される?。とすれば鯨漁イルカ漁に対する批判異文化への無理解とみなせるのか。


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おれのアタマじゃ結論出ないので、倫理学専門家に説明してほしいなあ。


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2015/05/24 19:45 追記。

書籍を紹介してくださった ChieOsanai さんとブログまで書いてくださった DavitRice さんには感謝です。

DavitRice さんのエントリ

http://davitrice.hatenadiary.jp/entry/2015/05/24/110640

とりあえず「動物から倫理学入門」伊勢田哲治ポチったので楽しみに待つという状態。

個人的には DavitRice さんの説明に納得感があり、「もうこれで良いわ。受け入れた。」などと一瞬思ったが、先を急ぐのも危険なので本を読んでまた考えるということで。

DavitRice さんの説明で一点モヤったのは

”「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張が「イルカ以外の動物頭が悪いから殺しても良い」という主張を含意しているわけではない”

の部分で、

”「イルカは頭がいいから殺してはダメだ」という主張は「イルカ以外の動物頭が悪いから殺しても良い」という暗黙の主張を含意せざるを得ない”

とはならないのかな?という点。これはおれの理解に抜けがあるのか。論理学とかの出番なのかな。まあ、本読んだら納得できる説明があるかもしれないので、後々ということで。


ブコメでは文化的背景や感情ベースとした素朴理論が多い印象で、この件についてはそうした論も排除される必要は無いよなー。という感覚

これが素朴理論を背景としたヒトという種の中で線引きを行うような話なら即刻排除される必要があるだろうけど、アニマルライツ(今日知った言葉だ!)については、ある程度の多様性が認められても良いんじゃね?みたいな。動物愛護団体の人からすれば「ざっけんな!」って話だろうけど。


一方で、文化をまたがって統一された規定を設けようとして、それぞれの線引きに乖離がある場合、「え?じゃあどっちに寄せるよ?」って話にはなるわけで、アカデミアから裏付けがある方が強いのは仕方ないのかなあとも。とはいWAZAJAZA は雑すぎだろ。。


以上は現時点での個人的見解です。本読んでまた考えます。みなさんありがとう

2015-04-17

黄泉がえれ!はてなしぐさ

はてなしぐさ」ってなんだろう?

「手斧磨き」「ブコメデマおしえ」「プリントアウトすすめ」といったネットワークしぐさを身につけたはてなの人々は、お互いを慈しみ、支え合い、平和で豊かな生活を送っていました。しかし〈大災禍〉のさなか、匿名掲示板民の暴走きっかけに、各地で燃え上がった特定祭りによってはてな民虐殺アーカイブの多くも失われてしまいました。今、本当のはてなしぐさを知る人は少ないのです……。


はてなの人々が育んだはてなしぐさは、良きネット民としていかに生きるかという行動哲学であり、人間関係を円滑にする共生のティップス・ライフハックでもありました。はてなしぐさを学び身につけることで、精神と身体を健康に保つことの大切さを知り、周りの人たちを幸せにしながら笑顔の絶えない生活を送ることができます


やってみよう!はてなしぐさ

はてなしぐさがどんなものかわかったかな?では実際にはてなしぐさを体験してみましょう!


■ つたえしぐさ・よみしぐさ

相手を思って伝えた言葉でも、小さなすれ違いから互いに傷つけ合うこともある。どうしたら自分の気持ちを相手に伝えられるの?どうしたら相手の気持ちが分かるの?はてなの人たちはいつもそのことを考えながらネットに向かっていました。

〈手斧磨き〉

ひとりよがり言葉を何度も繰り返すより、正確な言葉一刀両断するように伝えることがお互いの幸せにつながる。言葉に出す前にどれだけ深く考え抜いたかを一番大切にしていたはてなの人たちの間では、手斧のように磨かれた言葉けが飛び交っていたんだ。

〈不達あやまり

自分の考えていたことと違った受け取り方を相手にさせてしまったときはてなの人たちはそのことを反省して「上手く伝えられなくてすまん」と謝ったんだ。自分から先に謝ることで相手の気分も和み、コミュニケーションを円滑にする効果もあったんだよ。

〈はてみんアイ〉

自分視点からは見えないことでも、相手の視点に立って見つめ直すことでたくさんの気づきが訪れる。日本の伝統的な盤ゲーム将棋プレイヤーが行っていた、相手の肩越しに盤面を見つめ直した様子になぞらえたはてなしぐさだよ。相手の気持ちを理解しない人には、「はてみんアイをしてみましょう」とみんなで声を掛け合ったんだ。

エスパー利かす〉

どんなテキストでも、まずは本文を最後までしっかり読み込む。はてなしぐさの鍛錬を積んだはてな民の中には、言葉言葉あいからテキストに書かれていないことまで深く読み取れるようになった人もいたんだ。普通の人から見るとまるで超能力のように映ることからはてな民テキスト読み取り能力は「エスパー」「エスパー利かす」と呼ばれました。


ブックマークしぐさ・スターしぐさ

一般の人でも不適切情報アクセスできた成時代ネットワークでは、はてな民たちが付けていたソーシャルブックマークコメントが、望まない接触を予防するためのリスク判断に役立っていたんだ。また、コンテンツブックマークコメントに「はてなスター」が付けられることで、信用性はより正確になったんだよ。

ブコメひとめ〉

暴力的で不健全情報で身体や精神を傷つけないために、コンテンツを見る前にひとめブックマークコメントに目を通すことは、はてなの人たちにとって当たり前のしぐさになっていたんだ。実際にコンテンツを見たあとは足りないリスク情報を補い合って、正確性や有用性を高めていたんだ。

ブコメデマおしえ〉

曖昧情報源を元に不安を煽ったり甘い響きの嘘で人を騙していても、「嘘は嘘であると見抜ける人でないと難しい」とも言われていた当時のネットコミュニケーションでは、デマも個人のスキル判断するしかなかったんだ。情報一次ソースを見つけて誤りを指摘するスキルを「ソース力」といって、ソース力の高かったはてなの人たちは、デマを見つけると丁寧にブコメで指摘し、正しい情報流通させることに貢献していたんだ。

〈ほほえみスター

はてなの人たちは「ほほえむ気持ちで☆を付けよう!」と心掛けることで、スター価値を高めていこうと考えていました。☆がたくさん付いたコメントはたくさんの人を笑顔にできたコメント。☆がたくさん増えたら笑顔もたくさん増える。そう考えて実行していたはてなの人たちは、コメントに付いた☆を見つけるとそっとほほえんだといいます


■ 思いやりしぐさ

テキスト読み取り能力の高いはてなの人たちは、言葉の先には生身の人たちの生活があることをいつも感じていたんだ。書き手の身体や精神の状態が優れないことがわかったときには、その人が健康人間的な生活を送れるように、できる限りのアドバイスを送っていたんだよ。

〈向いてないつたえ〉

はてなの人たちが見つけた多くの気付きの中に"不幸を回避してより豊かな人生を送るためには、その人に合った生活スタイルを選択することが大切"というものがあります。生きづらさを訴えるテキスト出会ったときには、その原因となっている無理や過剰を見つけ出して、「あなた○○向いていません」と伝えてあげたんだ。

プリントアウトすすめ〉

当時はまだセラピーを受けないまま心的外傷を負ってしまったり、精神的に大きなダメージを受けた状態でネットワークコミュニケーションをしていた人も多くいました。テキストエスパーしてそのことに気付いたはてなの人たちは、症状の現れたテキストプリントアウトして、すぐに専門の心理カウンセラーに見せることを勧めたんだ。身体と精神健康を保つことの大切さに気付いていたはてな民ならではのしぐさだね。

くねくねしぐさ〉

くねくねしぐさ」は、自然発生的にたくさんの人が話し合い、一つのことに対して多様な議論が生まれる様子をあらわした言葉です。ときにそれは、はてな全体を巻き込んだ大きなうねりになることもあったんだよ。また、同じ思いを持つ人たちが実際に集まりはてなコミティセッションが開かれることもありました。そこではどんな発言もほほえみながらみんなで受け止め、力を合わせて問題の解決をめざしたんだよ。


迷惑ネットしぐさ

みんなで使うネットワーク空間からこそ、他の人が嫌がるようなしぐさは控えよう。迷惑ネットしぐさに出会ったはてなの人たちは、すぐやめるようにみんなで声を掛けたんだ。

脊髄コメント

テキスト最後まで読まず、タイトルや始めの数行だけ読んで反射的に書かれたようなコメントは、「脊髄コメント」といって嫌われたんだ。特にテキストタイトルだけ読んで反応してしまコメントに対しては、「本文だいじ」といって、もう一度しっかり読み直してコメントすることを勧めていたんだ。

主語かい

[アーカイブから復元中…]

〈あやまったら負け〉

[アーカイブから復元中…]

リソース泥棒

わたしたちはみんな、ひとりひとりが社会にとって重要リソースはてなしぐさの実践から身体と精神、そして生命の大切さを知っていたはてなの人たちは、断りなく相手を傷つけることを何より嫌っていたんだ。健康への配慮に欠けた食事や喫煙などの悪習慣も「リソース泥棒」といって、きつく戒めていたんだ。


はてなしぐさ おわりに

〈大災禍〉の際に起こった特定祭りは、様々な能力に秀でたはてなの人たちを狙った、逆恨みにも似たおぞましいものでした。ネットワーク上に記録されたはてなしぐさに目を付けられ、はてな民たちは徹底的に虐殺されたといいますアーカイブ執拗破壊され、その難を逃れられたのは卓越したエスパーを発揮したごく一部のはてな民だけでした。


はてなしぐさは〈果無草〉とも書き、途絶えることなく続く思想生命理想を表した言葉でもありますはてなの人たちが残したはてなしぐさは、今と比べて不完全だった社会システムの中でも公平性他者への思いやりを手放さず、支え合いの中で共生していくために生み出された、慈愛に満ちた行動哲学だといえます

私たちアーカイブ復元とともに、数少ないはてなの人たちから聞き取りを続け、今も色あせることのないはてなしぐさを黄泉がえらせることで、平和笑顔の絶えない社会の実現を目指します。

2015-03-28

http://anond.hatelabo.jp/20150328140234

これから少子化中国から移民が望めないとなると、

から日本人口を支える可能性がでてくるのは、人口出生率も大きい東南アジアイスラム圏だな

本格的にここらへんの人たちと共生することを考えるのなら

同性婚より先に一夫多妻日本に組み込むかどうかを真剣に考えなきゃいけない事態になる

例)家族も一緒に移民したいんですけどお母さん4人いるんですがー

http://anond.hatelabo.jp/20150328123354

その通り。あなたの考え方の論理的帰結憲法改正、というか憲法の位置づけを含む国家観そのものおかしい、という主張になる。

憲法を始めとする日本国法制観そのものおかしい」という前提に基づけば。あなたの主張は間違っていない。

ただ、日本国憲法最高法規とする日本国法制というのは「あるべき社会の形を国家規定するという考え方」に基づいていないのだ。

(そしてあなたの考え方は国家規定せよ、だろう)

現代日本法制観というものは(非常に西欧的な社会なのだが)国家社会が切り離して考えられていて、ある意味国家がなくても社会は成立する」という「イデオロギー」が前提としてある。

国家とその法制度は「国家がなくても成立しうる社会」というものにおいて「国家があった方がよりましな部分」に社会がその権限を仮託して成立しているという考え方だ。

従って主はあくま社会、そしてその構成員である市民であり、国家は従。だからこそ国家最高法規である憲法というものは「国家権限の及ぶ範囲規定する」ものとして書かれている。

別にこの日本国法制自体は、単なるイデオロギーであって正しいとする根拠は無い。だが、

子孫を残すことは社会を維持するための最低限の条件であり、これに寄与しない人間寄与する意思のない人間を、共生する意思があると見なせるか否か。そこから考え直さないといけないんじゃないのか?

という根本的な問については、この主張の正否以前に、そういった「根本的な社会のあり方を国家規定しようということ」自体日本国法制観ではout of scopeだ。

2015-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20150325023346

愚行権定義だとか、公共の福祉抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態人間社会契約することで社会が成立するだとか

そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ

出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所

Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった

そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた

結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった

人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした

もちろん、アニメというのは個性能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものから仕方ないし当たり前だ

人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する

からこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ描写必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ

さて、細かい経緯を描き並べる

適当に拾い読みしてくれれば良い

碇シンジが首を絞めた理由としては、ここを参考に所が大きい

碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシジレンマになっている状態だ

自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である

精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり対象愛、つまり他者他者として認め愛そうとはできない部分だ

(つまり自分を愛していて、安定しているか他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)

旧劇における結末は、どのようなものだったか

描写としては「碇シンジ他者存在必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう

すべてを一つにしてしま混沌を母的な存在とするなら、自己他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である

父的側面の足りない碇シンジ自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する

(なお、旧劇の該当シーンで地球細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想自分は持っている)

人と他者が分離すれば、そこには常に自己愛の危機がある

ATフィールド訳語絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである

人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない

しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?

碇シンジは旧劇終盤でアスカの首を絞めた

それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している

からアスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した

ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する

さて、旧劇における首絞めの理由共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った

(例として、新劇・破における碇シンジ自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)

そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程結論は間違いだったのかと思った

シンジデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった

そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した

結論から言えば、人は完璧世界(他者が居らず、自己愛けが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ

坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである

生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない

そこまで考え、旧劇における結論他者存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った

碇シンジ他者を認めつつあり、自分葛藤自分なりに処理していくことができるようになるだおる

しかし、その過程にてエラーがあった

碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった

復活したのはアスカだけである自分は思っている

あの世界では、もう生きようと思っても生きられない

さらに言えば、その過程碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界人間の救いを奪ってしまった

そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ

そういう結論から碇シンジ内面が何の関係もない他者人生世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない

いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い

現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界他者が壊れないのと別に

セカイ系においてはそうした葛藤世界他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしま

ある意味で、作品世界全部が主人公と一体化しており

それはその作品世界主人公が神になり、幼児的な万能感を得ているような感触を受ける

からこそ、最初エントリでは「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」と書いた

2015-03-02

http://anond.hatelabo.jp/20150302120207

外国人が住めないような家賃地価の高い場所に住んでる人達は、

外国人共生しなくて済むためにそこに住み続けてなきゃいけないわけだから

貧困層じゃなくてもコスト負担してるだろ。

外国金持ち安心安全のために高い金払って高級住宅街に住んでるのと一緒。

多文化共生コストを払うのは貧困層だけ

日本語英語も解さないような外国人が、いきなり隣に越してくるリスクがあるのは貧困層だけ。

ある程度カネも学もあって、日本語はわからなくても英語が話せるような人たちと上手くやれたからと言って、

私たち外国人対話して共生できてるのに、対話もせず拒絶するのは偏狭」みたいな事を言う奴は、

自分の住む地域で、日本語が通じない人たちが多数派になる怖さを理解できてない。

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.15 『そして、ひとりぼっちふたりが残った』

■本文。

 最終回だというのに最初からくどい話になるのだけど、インターネットなどのメディアが、世界が一体化したかのような幻想を生み出す一方で、野放図に拡大される情報社会が、心の繋がりを裁断し続けている。断片的な情報を追いかけることに躍起になるあまり、多くの価値観ジャンル求心力を失った。例えば、メディアミックスにしても、それぞれがジャンルという枠による秩序を持っているからこそ、混淆することに意味があったし、一体化の幻想自体が、[かつての全能感]を取り戻すための侵略に他ならない。そして、互いの領域侵略した結果、秩序という枠組みが曖昧になったことで、インターネット上では無制限肥大した自意識が互いに衝突を起こしている。情報という麻薬に蝕まれ中毒患者は絶えず全能感と無力感を往復しているが、目の前にある荒んだ光景認識することができない。

 そんな現代において、旧来の世界観回帰すること=思考停止による癒しが唯一の自己防衛手段となっているケースは多い。そして、箱庭のような偽物の原風景に引きこもることで、飽くなき侵略=拡大する欲望を抑えている。自己言及的な表現を頑なに拒むのも、居場所を自壊させてしまうことへの潜在的な恐怖があるからなのだろう。そして、マッチョイズムとフェミニズムの対立から零れ落ちた層を汲み取る為に、ポルノメディア特異点……ポルノメディアから遠く離れたポルノとして、美少女ゲーム存在している。マッチョイズムにせよ、フェミニズムにせよ、その論理自身セクシャリティ現実恋愛セックスを前提としているが故に、現実虚構を対比し優劣を決定する方向性結論を出してしまう傾向が否めない。例えば、フェミニズムの功績としては、男女の恋愛関係におげる規制緩和自由化が挙げられるが、同時にそれは恋愛における自由競争を生み出したと言えるし、当然、自由競争から弾き出された恋愛弱者も多く生み出すことになった。ちなみに、この構造は、フェミニズムインターネットに置き換えれば、情報弱者を生み出す構造と同じになるのだが……。

 美少女ゲームポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分他人]という基準駆動している傾向がある。言い換えれば、自身セクシャリティに対する意識希薄であるが故に、全くの異物としての他者(異性)を認識することが難しく、自己の延長としての他者という方向性で純化されているのだが、同時にコミュニケーションを崇高化し過ぎるという弊害も見られる。その弊害が悪化すると[引きこもり]に繋がっていくのだけども、ユーザーの大半は普通に社会生活を送っている。理由は色々とあるだろうが、スピリチュアリズムに似た信仰システム機能を、美少女ゲームが持っていることも挙げられると思う。

 そして、セクシャリティに対する意識希薄である=前時代であるために、恋愛至上主義的な表現が勃興した。例えば『ToHeart』や『ONE』で描かれるセックスあくまで婚前交渉であって、娯楽としてのセックスではない。娼婦素人娘が厳然と分かれていて、素人娘と付き合う時は必ず結婚が前提になる時代価値観無意識のうちに再現されているので、『Kanon』に至っては、名雪シナリオ以外ではセックスすることを選択しなくてもトゥルーエンドに到達できる。それは、セックス結婚後に初めて行うもの考える人々が未だそれなりの割合存在していたということだろう。だから美少女ゲームの一部は厳密な意味でのポルノメディアから離れつつある。風俗産業二次元版としてのポルノではなく、結婚相談所二次元版としてのポルノメディアなのだと考えれば分かりやすいのかも知れない。

 さて、現代物語メディアの多くが単独で成立しにくい原因の一つに、経済テクノロジーの発達に伴い、物語の消費スピードが飛躍的に加速しているという状況がある。または、物語がパーツ単位解体された結果、秩序を維持できなくなっていることに起因する。物語ジャンルとしての秩序を失い、単なる情報集合体として氾濫した結果、その多くは誰もが知っている[お約束]と呼ばれるものになってしまった。そして、[物語を読む]という行為目的が、疑似体験を介して思索することではなく、氾濫する情報収集し続け、酩酊状態に導いて思考停止することに変質してしまった。同時に、ゲームというプラットフォームから発信される物語が、作者の意志によって導かれる連続体としての表現ではなく、ユーザー自身が演じる舞台……遊戯空間としての情報集合体スタイルを変化させつつある。

 つまり他人の波瀾万丈な人生を追体験するのではなく、原風景としての平穏日常を演じる媒介として機能しているケースが増えているのだ。原風景楽園志向が悪い訳ではないのだが、美少女ゲーム遊戯空間として完成するにつれ、文化的伝統回帰するルートとしての側面は失われつつあるように思う。

 例えば、他者との関わりは、現実世界他人社会といった抽象的な意味で捉えられがちだが、過去から連なる歴史的蓄積という視点存在する。おそらく『ONE』が特徴的だったのは、『ToHeart』で確立された偽物の原風景楽園を[かつての全能感]を補完するシステムとしての機能面だけではなく、過去価値観レプリカと捉えた上で、同時に時間的意味での[他者]を再現しようとしていたことだ。一見ToHeart』の二番煎じと思われるような構造に[過去との接続]という要素を加えたことによって、ノイズ判断される危険性を孕んでいながらも、過去現在を繋ぐ連続体=物語として作られた『ONE』が成功を収めたことで、物語に対するニーズが未だ潜在的に存在していることを証明している。

 また、『Kanon』や『鈴のうたう日』では、胎内回帰であるために閉塞へ陥りがちだった楽園志向を[共生と循環]という方向へ発展させているし、『フロレアール』『とらいあんぐるハート2』『デアボリカ』といった作品も、それぞれの方法物語表現としての美少女ゲームの可能性を拡げている。そして、そういった作品が予想外な場所から出現する限り、筆者は美少女ゲームユーザーであり続けると思う。

あとがき

 本当はこれから出るゲームを取り上げて、今後の展望を書くつもりだったんですが、本業以外の分野を未来予測するのは、やっぱり難しいので、普通に連載の総括という感じになりました。

 とりあえずは療養しながら、積みゲーの数々をクリアしようかと思っております。そういう訳で、今後は体調と相談しながら、不定期で登場するかも知れません。どんな形になるかは今のところ、分かりません……って、別に打ち合わせもしてないので(笑)。あと、FAKEOFFICEのホームページに、このコラムバックナンバー順次再録していく予定です。こちらも体調次第ですけど……まあ、そういう訳で一年ちょっとの間、どうもありがとうございました。

2014-12-31

http://anond.hatelabo.jp/20141230220123

http://anond.hatelabo.jp/20141230113642

↑の元増田です。

残念ながら、(営業実態酷似しているかもしれないが)エレファントジャパンさんは件の会社とは無関係と思われる。

自分が働いていたところの系列の見分け方としては

・挙げられているように中二っぽい名前(蒼、雫、響等。しかしそれも古い店舗では当てはまるも、新しい店舗では例外となる。)

・コース料理が魚メインの鍋

居酒屋カラオケ居酒屋メニューに単品、コース共に肉料理が鶏のから揚げしかない。

(焼肉店の営業もしているようだが自分は詳しく知らない)

・決して首都圏に位置する他県に店舗展開していない

(この見分け方は自分が辞めた1年前の時点での話になってしまうが、大阪名古屋を除いて埼玉千葉でも営業するといったことは考えられない。)

ということが言える。

海野屋が自分が働いていたところの系列だというのは、メディアで取り沙汰されていた店舗一覧の画像に、かつて予約画面で見たことのある店舗名が入っていたこと、社長として挙げられている人間店舗幹部として視察に来ていたこから判断した。

なお、会長ベジタリアンを気取って居酒屋店舗では全面肉料理禁止という営業スタイルを取っているが、本人はもちろんバリバリ肉料理を食べている。

前のトラバに書いた「社員バイト全員共生参加のプロレス大会」では、プロレスを始める前に屠畜の映像が流され、いかに肉食をすることが悪いかを説いてくる。

「営業上仕方なく魚を提供している、できれば魚も殺したくはない」「全国の捨て犬、捨て猫を拾って、無人島で暮させたい(ただし世話はしない)」とは会長K内談である

2014-10-09

「読解力」の終焉と新時代の幕開け

近頃盛んに聞くのが「読解力」という言葉である。いわく、今の時代読解力は大事だよと。

翻ってネットでは相手の読解力を非難する声が多く聞かれる。これに不自然さを感じる向きも多いであろう。

そもそも以前から「読解力VS文章力」とも言うべき対立は存在した。「お前の文章下手すぎ。日本語でおk

「いやお前の読解力がなさすぎ。日本人か?」などという実にくだらない争いがちょっと油断すると勃発するのが近年のネット社会である

しかし、私に言わせればそんな対立など時代遅れも甚だしい。時代に取り残された過去遺物である

私見では読解力という言葉は近年ますます意味をなさなくなっているのではないかと思うのである

それは読解力を測定しようとすると文章力問題が切っても切り離せないからというのもあるが、そもそも読解できるのは

文章の前提知識の有無に大きく依存する。しかるに、万人にフェアな読解力の測定など土台困難というものだ。

そうなのだ所詮は、読解力などというもの通俗的な用語にすぎないのだ。そもそも、読解力よりも一般化した概念

である「頭の良さ」というのも甚だ曖昧概念であることが、昨今の知能研究で具体的に明らかになりつつある。

世間でいわれる頭の良さとは、常識的シチュエーション常識的な反応を返せるか、そのことを言っているに過ぎない。

数学の難しい問題を解く」といった常識外のシチュエーションなど関係ない。数学のできる奴なんかよりは、

算数暗算ができる奴のほうが余程「すごーい」と女の子から賞賛される。それが悲しい現実なのだ

所詮はそういう常識的観点から頭の良さが判定されているにすぎない。これを「ファッション知性」という。

読解力も同じことで、「ファッション読解力」が世間では試されているにすぎない。いや世間だけではない。

学問世界での読解力も、また学問世界での常識というものがあり、それを満たしているか判断される。

決して学問という高尚な世界から、読解力も高尚に測定されるというわけではない。これを常識相対性ということができる。

しかし、幸いなことに、文化相対主義なんて古めかしい理論を引っ張ってくるまでもなく、

常識相対的だというのは我々の新たな常識となりつつある。これも時代の流れというものだろうか。

LINEを始めとする新時代コミュニケーションツールは、我々の情報環境に新たな複雑さを付け加えた。

結果、若い世代人間ほど複雑に入り組んだ人間関係の中で、うまく常識を使い分けてやっていく術を

身につけている、という奇妙な逆転現象が生じ始めている。新世界において読解力は所詮それぞれの

コミュニティに応じた空気を読めるかという能力に過ぎないことが理解されるようになった。

新世界では、自分所属しているコミュニティ空気を一通り理解できるだけでなく、所属コミュニティ

がどんどん流動していくので、その都度新たに加入したコミュニティ空気を読めることが求められる。

流動性のない「棲み分けから流動性ある「棲み分け」へ。我々日本人生活環境は、

いよいよ多民族国家アメリカにおける多文化共生に近づきつつある。

2014-10-06

[]

高橋紀世子君 これもこの間と重なって大変恐縮なんですけれども、私はこのことは大変大きな問題だと思っておりますし、どうしても共生社会にとって一つの大きな要素だと思っておりますのでしつこく言わせていただきます

 今までの歴史といっても、歴史をひもとけば女性天皇になったこともございます私たちは、やはり精神的に男女平等だと、そういうことが大変大事だし、共生社会を進めていくにも男女がそれぞれ役割を持って平等に働くということが大事だと思います。そのときに、天皇制がそれとまるきり違うやり方でやっているということは、私は、私たち国民に対して暗い影を落としているというか、不安定要素になっていると思いますので、またぜひお考えおきください。

 それからまた、天皇人権というと大変恐縮ですけれども、天皇は退位できません。どんなに望んでも退位することができません。それは皇室典範に、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、」「皇室会議の議により、前条に定める順序に従つて、皇位継承の順序を変えることができる。」、つまり皇室会議をしなければ天皇は何の理由があってもやめることができないということなんです。

 これは天皇人間ですから天皇人権にかかわる大きな問題だと思っておりますし、そのことはやはり天皇自身が望まれときは退位なされるようにした方がいいと私は思いますけれども、いかがでしょうか。

政府参考人羽毛田信吾君) 現行の皇室典範が御指摘のように天皇意思によります退位の制度を認めていないということはそのとおりでございます

 そういうふうになっておりますところのゆえんのものは、一つには、退位を認めるということが、歴史上いろいろ見られましたようないわゆる上皇でありますとか法皇的な存在というもののある種弊害を生ずるというおそれがありはしないかということ、それから、必ずしも天皇自由意思に基づかない退位ということの強制があり得るということです。

 いろいろ政治的な思惑の中でそういうようなことが起こるというようなことがありはしないかということ、あるいは天皇恣意的に退位をされるというようなことになりはしないかというようなことを懸念をいたしまして、そういったことを挙げて、天皇地位を安定させるということが望ましいという観点から退位の制度を認めないということに現行法なっておるわけでございます

 そういった皇室典範制度の制定当時の経緯というものをやはり踏まえていかなければならないと思いますし、さらに今、先生ちょっとお挙げになりましたけれども、天皇に心身の疾患あるいは事故があるというような場合につきましては、現在国事行為の臨時代行でありますとかあるいは摂政制度が設けられておりますので、そういった事態の起きました場合にはそういった対応をする制度もあるということを考えますと、現在の段階で退位制度を設けるというようなことについては私ども考えていないところでございます

第153回国会 共生社会に関する調査会 第3号

平成十三年十一月二十一日(水曜日

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/153/0035/15311210035003c.html

2014-07-28

原発賠償業務の概要実態

私は福一原子力災害の賠償業務に携わっている。本エントリーでは賠償業務の概要実態について書きたい。

賠償の流れ

被災した個人・法人へ『請求書冊子』が東電から送付される。被災者はその請求書冊子に必要事項を記入し、領収書決算書を添付して東電に送り返す。

請求書冊子の返送先は大手町東電オフィスになっているが、実際に書類が届くのは東京ビッグサイト近くに建つ『有明セントラルタワー』だ。

請求書冊子は有明セントラルタワーに届くと、開封・書類の仕分け裁断・スキャニングされる。電子データ化するのだ。書籍自炊想像してもらえれば当たらずといえども遠からずといったところか。

作成された電子データサーバーに保管される。

審査業務は有明門前仲町ヤマタネビルで行われている。専用ネットワークを通じてサーバーアクセスし、電子化された書類をパソコンの画面で見ながら審査を行う。

審査が終わり、東電責任者が判をつけば被災者にカネが振り込まれる。

以上が賠償の大まかな流れだ。

賠償業務に関わっている法人

表向きは東電が賠償処理をやっていることになっているが、実態は異なる。

まず賠償業務は『トッパン・フォームズ(以下、TF)』という凸版印刷関連会社に丸投げされる。ちなみに東電は『随意契約』でTFに仕事を任せている。どれだけのカネ(出どころは税金電気料金だ)がTFに流れているかは分からない。

さらにTFはJ-SCubeとアデコヒューマントラストヒューマンリソシアに業務を投げている。除染作業が二次三次に投げられるのとそっくりだ。

電子データ化済みの書類は寺田倉庫管理する保管場所日通が運んでいる。システムの構築・管理テプコシステムズ日立システムズだ。

賠償業務に関わるこれらもろもろの会社東電では『協力会社』と呼んでいる。

賠償業務の末端で働く私でさえ、これだけの会社が関わっていることを知っているのだ。きっと、震災特需うまい汁を吸っている企業もっとあるだろう。

賠償業務の実態

もうあまり仕事はない。震災から3年以上経っているのだから当然だ。むしろ今も賠償業務が続いていることに驚くべきだ。

実際に請求冊子に手を触れる・目を通す人間だけでも数千人規模(間接業務を含めるともっといる) しかし、大半はすることがなく遊んでいる。

工程ごとによって忙しい『曜日』は異なるのだが、最も忙しい日でも1日3~4時間程度しか働いていない。1~2時間しか手を動かさない日も多い。

どの工程拘束時間は1日9時間で、その分の給与は支払われているのだが、暇でぼぉっとしている時間の方がずっと多い。

時給1000~1500円で働くバイトも、東電・協力会社正社員も暇を持て余して雑談、私語で時間を潰している。

ちなみに有明セントラルタワーでは24時間体制で賠償業務をやっている。仕事がないのに『夜勤』で深夜に働いている者が多数いるのだ。

仕事を『増やす』ため、TFは意味不明組織改変、請求書処理手順の変更を繰り返している。東電も請求書のフォーマットをころころ変え、そのたびに人・組織システムが変わる。煩雑な作業が増えることはあっても、減ることはない。

賠償業務が長引けば長引くほどTFを始めとする企業は儲かるし、東電は賠償責任果たしている『ポーズ』ができる。国民のカネでWin-Win共生関係を築いているのだ。

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