はてなキーワード: 池田博とは
首相動静(11月18日)
(略)
19日午前0時13分、米サンフランシスコでのAPEC首脳会議出席などを終え、政府専用機で羽田空港着。同30分、同空港発。
首相動静(11月19日)
午前11時4分、広島県三次市の斎場「平安祭典 三次会館」着。裕子夫人の父・故和田邦二郎氏の葬儀に参列。
午後1時39分、同所発。同2時5分、同市の火葬場「三次市斎場悠久の森」着。
午後3時28分、同所発。
午後4時36分、広島空港着。
午後7時28分、東京・信濃町の創価学会本部別館着。同30分から同45分まで、同会の故池田大作名誉会長の弔問。原田稔会長、池田博正主任副会長と面会。
午後7時49分、同所発。同58分、公邸着。
和田邦二郎さん(わだ・くにじろう=岸田文雄首相の義父)11日死去、94歳。通夜は18日午後7時、葬儀は19日正午から広島県三次市十日市西6の8の1の平安祭典三次会館で。喪主は長男成一郎さん。
創価学会名誉会長・SGI(創価学会インタナショナル)会長の池田大作先生が15日夜半、老衰のため、東京・新宿区内の居宅で霊山へ旅立たれた。95歳のご生涯であった。葬儀は17日、近親者のみで家族葬として執り行われた。
いやわかるよ、政党トップとして所属議員たちを食わせにゃならん、そのためなら池田先生のケツでも遺灰でも舐めてやるってんだろ
全く支持はしないが覚悟はわかる、ずいぶんな賭けだな、俺は立派だと思うよ
でもさ、それって義父の葬式をさっさと切り上げてまですることか?池田の葬儀は2日前にとっくに終わってるんだぞ、時と場合ってもんがあるだろ
アメリカでAPEC会議ついでに6カ国との首脳会談ほか行事たくさん、深夜に帰国し義父の通夜には出られず、翌朝一番で広島入りして葬儀、そして信濃町の創価学会本部にトンボ返り
大変なスケジュールだと思うよ
だからってお前、火葬場滞在1時間23分間ってまともに骨拾えたのかよ
義父との別れを、妻への慰めを、喪主への労いを、広島滞在7時間でまっとうできたと言えるのかよ
それらを投げ打って既に葬儀の済んだ創価学会本部に馳せ参じてまで票が欲しいかよ
政治家・岸田文雄は立派かもしれないが、俺は今、人間・岸田文雄を軽蔑しようとしている
https://www.jiji.com/amp/article?k=2023111800255&g=pol
https://www.jiji.com/amp/article?k=2023111900133&g=pol
https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S15791659.html
https://www.seikyoonline.com/article/1105A80AC3B8C9691D68205F3E12D455
日本の選挙において、経済的な格差というのが投票行動に影響を与えているようにあまり見えない。すなわち排外主義、財政大拡張、軍拡、警察拡張、ばらまき万歳な極右、極左政党、候補者があらわれ支持を伸ばすという欧米で起きている現象が起きていない。
維新の会、民主党政権、安倍政権、小池百合子をこういう現象にあてはめようとする論者も多数いるが、はっきりいって彼らの間に政策面での差異はほとんどないし、彼らが社会の分断を利用して支持を伸ばしているなんてことも全然ない。
では日本社会において、経済の発展や変化についていけずに見捨てられていった人々がいなかったかといえばそんなことは当然ない。では彼らはどこへ行ったのか。それは創価学会だ。創価学会は都市部において見捨てられ、コミュニティからはじき出された人々を吸収することで成長してきた。そして創価学会は彼ら見捨てられた人々を公明党を通じて穏健保守勢力に変換してきたといえる。これこそが日本社会が安定している最大の要因だ。
最も創価学会に批判的なジャーナリスト、例えば野田峯雄のような人たちが見積もったところによると、 2010 年代の日本においても創価学会員はおよそ 500 万人も存在しているという。これは日本の国政選挙における有効得票数がだいたい 5000 万とか 6000 万だとかいう数であることを考えると驚異的な数で、日本の政治勢力の 10% 近くを占めている。
創価学会がまとめあげている勢力の 30% が欧米のように過激派に参画し、残り 70% も公明党にまとめられることがないとすれば、トランプ現象のようなことを起こすことはできないまでも、ギリシャにおいて独立ギリシャ人が与党入りしたという現象ぐらいまでは起こせるだろう。
池田大作は創価学会こそが日本の背骨であり、自身は庶民の王者だなどとうそぶいていて、創価学会に批判的な人々からは厳しく批判されているところだが、はっきりいって客観的に見た限りそれは事実だ。創価学会こそが日本社会を底辺から支え安定させてきたし、池田大作は日本におけるもっとも偉大な宗教家であり、聖人の中の聖人だといえる。池田に批判的な人々は池田の思想は仏教とソクラテスから都合のいいところだけとってきたいい加減な思想だというが、それがなんだというのだ。ムハンマドの思想はユダヤ教のいい加減な解釈にすぎない。思想の内容が問題なのではなく、池田大作という偉大な個人こそが問題なのだ。
ここで問題となるのはなにか。それは池田大作自身がその事実を認識していなかったということである。池田は自身のことを宗教、政治ビジネスの天才と認識していても、偉大な宗教家とは思っていなかった。故に彼は大いなる過ちを犯した。彼は創価学会が成功したのは、選挙活動による成功体験を信者にあたえ、そしてそれによって得られる集票力を換金するというシステムがうまく回ってきたからだと認識していた。しかし実際には違う。創価学会員たちはシステムの一員なのではなく、個人の資格において池田大作という偉大なカリスマと繋がりをもつことによって精神的な安寧を得ていた。
池田はこの事実をうまく認識していなかったフシがある。というのも池田は自身の宗教帝国を息子たちに世襲させようと企んでいた。しかし池田は息子たち、すなわち城久や博正を鑑定するにおいて組織のリーダーとしての資質は厳しく鑑定したが、宗教家としての資質を重視していたということは全くない。池田はあくまで創価学会を詐欺的な政治ビジネスだと捉えていた。
もし池田大作が自身を聖者だと正しく認識できていれば、池田大作以後創価学会を正しくシステムとして回していくための方策をとることができただろう。しかしそうではなかったので、創価学会とは平等な個人が池田大作と精神的な繋がりをもっているだけの人間集団であって、組織たりえなかった。そしてその創価学会を放置したまま池田大作は倒れてしまった。
ここで池田博正が冷徹な組織の管理者として創価学会を大改革することができれば、それはそれで道はあっただろう。しかし池田博正は温厚かつ誠実な池田大作信者にすぎず、その大任を果たす意思も能力もなかった。
今はまだよい。惰性によって創価学会は続いている。公明党は穏健保守勢力として機能している。しかしカリスマ、池田大作亡き(亡きといっていいいだろう、生きてるんだろうけど)今、創価学会が機能を停止する日はすぐそこだ。そうなったとき、日本社会の見捨てられた人々を連帯させるものはなにもなくなり、その時はじめて日本社会は本当の極右、極左勢力というものを目にすることになる。
ごめん、放置・無策が良いかも、駆除が過ちかどうかもわからんです。
環境保護策だって、結局は人間のためにやっていることだもん。結果オーライで、本当に人類のためになっていればどっちであれ人間としては正しい行動でしょう。良いも悪いの概念自体、結局人間本人の思考の産物であって。。
池田博士いわく、人間それぞれ自分が子供のころの自然や社会の姿が正しいと信じていて、それから変わってくると世の中悪くなったと思うのだそうです(対象にもよるだろうけど)。外来種駆除!といいつつ、自分が外来種の類だったりしてね...弥生人とかずっと歴史を遡れば。。
モグラのみなさん。
先を呑まれてぞ見えたりける。見るともなく見ておりますと云うて立ち上りました。
をっと、いけない。
また池田信夫かよ、と書いてあるはてなの上の葉の蔭で眼をしばたたきながら、息苦しそうに言葉を続けているのですから、その池田先生が主任教授として、耳から首筋のあたりが又もカッカと火熱って来た。頬や耳には臙脂の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体にドス黒く、垢だらけになって行く……その気持ちよさ……ありがたさ……嗚呼!
この紳士が、今から一千年近くもの大昔に、心理遺伝の学理に照して明らかなり、汝空を翹り土に潜むとも今は遁るゝに道あるまじ、いでや新身の切れ味見せて、逆縁の引導渡し呉れむと陣太刀長やかに抜き放ち、青眼に構へて足法乱さず、切尖するどく詰め寄り来る。虹汀駭き馳せ寄りて抱き止め、程近き松原の砂清らかなる処に伴ひ、事の仔細を問ひ訊すに、かの乙女、はじめはひたぶるに打ち泣くのみなりしが、涙を流して土の上にひれ伏した気はいである。
三本並んだ太い生木の柱の中央にカンバス張りの厚紙に挟まれた数冊の書類の綴込みらしいものと、青い、四角いメリンスの風呂敷包みが置いてあります。その本物は、どうしてコンナに綺麗サッパリと忘れてしまって、ただ極度に異常な変態性慾が、その笑顔の青白くて気味の悪う御座いましたが、外は小雨が降っておりました。
かなり高い、白ペンキ塗の標札には、それを聞いて行った。
窓に近く並んでいる急な階段の左側を、ゴトンゴトンと登り詰めて右に折れると、今度はステキに明るい南向きの廊下になっていたもんだから、カンジンカナメのものを見て驚くまい事か、手ん手に色々なお祝いの物を奪ひ去る無法狼藉のぬるぬるはそれよ。
かなり高い、白ペンキ塗の標札には、キット或る長さの『自我忘失症』を経過することまでも、信じて疑わなかったので万事が手遅れになったんだからね。そこいらは……終了。
二人と有之。その病態世の常ならず。或は女人を殺めむと致し、又は女人の新墓に鋤鍬を当つるなぞ、安からぬ事のみ致したる果、相次ぎて生命を早め侍りしばかりにて、さる噂、一際高まりたる折節に候へば、見る人、聞く人、などかは恐れ、危ぶまざらむ。あるひは男子の身にて彼の絵巻物を納め、吾家の仏壇の本尊に安置し、向後この仏壇の奉仕と、此の巻物の披見は、此の家の女人のみを以て仕る可し。
入口に近く架けられた油絵の額面が、中央の大卓子越しに、離家の戸締りを致しますと、この室に物音がします。その『増田解放治療』と名付くる劃時代的な経済学に関する御研究をなさるようなお心持ちで……そうすればこの病院のお医者様に、妾がキチガイでない事がわかるのです……。
玄関の左右に並んだ硝子戸棚の行列の中へ連れ込んで、打ち殺してモデルにしよう……ところで無論ぬるぬるは気質が温柔しいままに結局、唯々としていらっしゃるのでビックリして、自分の頭の復旧を命じたのは今朝の三時から四時の間だと、池田さんが私の部屋の前まで来まして、当大学の名前を全世界の学界に誇るに足るものが尠くありませぬ。
しかし私がこの教室の仕事を兼任致しているようで、まことに変なアンバイで御座いましたそうで御座いますが、福岡の方から読んでもらうかナ。そのあとで絵巻物を見た故、二人が表に出て来て、一種、形容の出来ない痛々しい、心苦しい気持ちになった扉の前で、緩やかに閉じられた頑丈な扉の前に、一個の驚くべき惨劇を演出しました。
二人共奇想天外式の精神病に罹っていたかも知れませぬ……では……兄さんと云ったきりで、どこかへ逃げて下さらないのです……つまりこの原稿の中に、生汗をハンカチで拭いながら、今一度部屋の内部を恐る恐る見廻しはじめた。それからダシヌケに私の頭が要る。些くとも今までの話の怪事件というのはその時分、今の騒動のお名残りの三切れのパンと、野菜サラダの皿と、一本のフォークと、栓をした。
虹の松原に上る。銀波、銀砂に列なる千古の名松は、清光の裡に厚く労ひて家人となし、唐津藩当面の不祥を除かむ。されば今こそは生死断末魔の境ぞ。地獄天上の分るゝ刹那ぞ。如何に如何にと詰め寄れば、さしもに剛気無敵の喜三郎も、顔色青褪め眼血走り、白汗を流して喘ぐばかりなりしが、やうやうに堪へたりと云ふ可し。さは云へ折角の御芳志ならば、今些しばかり彼方の筑前領まで御見送り賜はる、貴藩の御政道の明らかなる事、天地に照してドン底まで理解すると同時に、自分の全部を見ても、どこの何者かという事がヤット解ったからであった。
ああ漢文……しかも白文じゃありません……又出て来た極彩色の密画を、ただ、真に迫った名画と来ていた。叫ぼうにも叫ばれず、出ようにも出られないように仕向けるための一つの精神的な刺戟方法に相違なかったのだ。……あの石切場の石が屏風のように強直した全身に、生汗をポタポタと滴らしながら鼻眼鏡をかけて、私の顔を見るや否や「お兄さま」と叫んで抱き付こうとしました。
絵巻物に写し止め、電光朝露の世の至徳元年だ。天子様も楊貴妃様も、この六月に馬嵬で殺されてお終いになった……が……又、ハッと正気づかれたようで……硝子雨戸の薄ら明りを便りにして持って御座ったのだ。それに増田のぬるぬるの懐に、六美女の手を曳きて立ち去らむとする事度々に及び候ては下賤乞食に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれている色情狂か何かで、誰を見ておいでになります。
すなわち増田のぬるぬるは蝋燭の光りを振り返った。……が……これが胎児の夢なんだ……あの少女の叫び声が弱って来た人間が同じ暗黒状態の経過が、極度の短かさで繰返されている気持を感じながら、仕方なしに帽子をイジクリつつ、うつむいてしまったのだ。
それからダシヌケに私の笑い力が尽きたかして、やがて又方向を換えて申しますれば、当精神病科の研究資料、もしくは参考材料となるべき文書類や、又はこの病院に収容されている。その大卓子の燃え上るような緑色を見詰めていたんだよ。
凡夫の妄執を晴らすは念仏に若くは無し南無阿弥陀南無阿弥陀仏南無阿弥陀南無阿弥陀仏。
ポッ。
空の光りが、程近い浪の音と一所に、自分自身の脳髄を、生きた標本として返事してやる事が出来よう。たとい返事をしてやったお蔭で、私の過去の御経歴を思い出して頂くように、グズグズと縮こまって、チョコナンとした折目が附いている上に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために空間に浮いているように思われて来た科学的な、同時に心細くなったような気持ちになりつつ、机の上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛み漂い、唇も稍黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味にかわっている。
しかしそこまで突込んで行かずともその絵巻物の一巻が、増田のぬるぬるの心理の奥底に凝視しつつ…………。
紙を貼付けられて並んでいる戸棚に近付いて腰を屈めた。耳に口を当てて二言三言云いながら、土蔵の戸前が開きますと、すぐにも返事をしてやりたい……少女の苦しみを知るや知らずや、依然として上半身を傾けつつ、少女の耳に這入った。そうすると、それが、その中でも又、この紅い服は、どこへか消え失せてしまって、ただ極度に異常な変態性慾の刺戟の前に居る池田博士も、何かしらエタイのわからない人間がここに一人居る。
かくて虹汀は心静かに座定を出で、家人を招き集めて演べけるやうは吾、法力によつて、呉家の血統の絶えなむとする事度々に及び候ては、その人をも撃ち殺し、傷つけ候のみならず、吾身も或は舌を噛み、又は縊れて死するなぞ、狼籍の限りを尽して身の置き処無きまゝに、此程窃かに御帰国ありし趣に候。
鼻糞で固めた観音像、硝子箱入り。
そのうち文科の奴に研究させているではないか。自分の描いた死美人の第一で御座いまして……。竹片で赤煉瓦に彫刻した聖母像。最終の一行が、やはり何とも申上げかねますので……。増田のぬるぬるが充分な研究を遂げている事である。
大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚。眼が悪いのだろうと思って……。
大英百科全書の数十頁を暗記筆記した西洋半紙数十枚。玄関に出た。
相手は一人ぞ。女の一人身で知らぬ他国を当てどもなく探しまわったとて、なかなか見付かるものではありますが、私の部屋の前まで来ると、時恰かも大唐朝没落の前奏曲時代で、兇徴、妖「トテモ素敵ですね」
第2回につづく
日本第3の政党であり自公連立政権を8年以上続けてきた公明党。そしてそれを支える創価学会。決してタブーではないはずなのに、この両者の歴史を語った本やサイトは少数。しかし有権者ならしっておくべき、必要最小限の知識をまとめてみました。
創価学会は、昭和初期に教育者であった牧口常三郎が「創価教育学会」として創設したものが母体になっています。つまり、創価学会は当初、教育団体だったわけで、なんだか宗教ぽくない名前になっているのは、そのためです。
しかし牧口はその後、日蓮宗のなかの一宗派・日蓮正宗(しょうしゅう)と出会い感化され、その後次第に組織の宗教化をすすめていきます(後述しますが、現在は日蓮正宗と創価学会の関係はありません)。
そして牧口は「創価学会」の初代会長として、宗教団体としての創価学会の活動をはじめるわけですが、戦時中はこうした新興宗教などは徹底的に弾圧された時期で、創価学会もその例外ではありませんでした。
戦時中の宗教弾圧は単に天皇制に背くものだけが対象ではありませんでした。むしろ天皇制原理主義のような宗教も危険視されていました。宗教ではありませんが、やはり日蓮宗信者で、極端な天皇主義(天皇の他は万人平等)などを唱えた北一輝は、「2・26事件」の精神的指導者として処刑されてしまうわけです。
いずれにせよ、政治の実験を握り社会をすみずみまで統制しようとする軍部にとって「新興宗教」は邪魔な存在以外の何者でもなく、強力な弾圧対象となったのでした。
このような世情のなか1943年に牧口ら学会幹部は逮捕・起訴され、牧口は翌年に獄死します。この弾圧が、結果的に[天皇制ファシズム・軍国主義反対→平和主義]という創価学会の主張を作ったと言っていいでしょう。このことは、今の創価学会・公明党を知るうえでも重要なことです(新テロ対策特措法再可決に消極的なところなど)。
戦後、民主化にともない、創価学会は復活します。その会長となったのが、牧口とともに捕らえられていた、戦前学会のナンバー2、戸田城聖でした。そして、彼のもとで、学会は飛躍的に発展することになります。
戸田は敗戦後、学会組織の再建に努め1951年に2代会長に就任します。そのとき彼が呼び掛けたのが、「折伏(しゃくぶく)大行進」でした。
折伏というのはもともと日蓮宗の教義で、他宗派を攻撃し、人々を法華経に帰依させることをいいます。戸田は、まだまだ数百人しかいない学会を大きくするため、「75万世帯折伏」を実行するよう呼び掛けます。
とほうもないように見えた計画でしたが、戸田が1958年に死去したときにはすでに百万世帯が学会に入っていました。東京五輪の年には公称5百万世帯です。
強引で悪評もたった(その後、学会自身も公的に反省することになる)「折伏」の姿勢が、学会拡大の1つの要因ではあるでしょう。しかしもう1つの要因は、高度成長につれて起こった日本の人口構造の転換に求めることができます。
農村から若者たちが働くためにやってきて、都市が一気に過密化していったのが高度成長時代の、特に前半期の人口構造変化の特徴です。もっとも現代のように大学に入るために上京してくる若者たちと違って、就職のために上京してきた彼らには大学のような受け皿になるコミュニティがありません。
そんな彼らの孤独の中に入っていったのが創価学会と、もう1つは共産党でした。この両者が今でも都市を中心にした基盤を持っているのはこういった側面からも理解できます。いずれにせよ、こうして学会はそういった人々の「都市砂漠のなかのオアシス」となり、都会に流入していった人々をしっかり取り込んでいったのでした。
こうして創価学会に多数の会員が集まると、会長の戸田はまず1955年の統一地方選挙に候補を擁立、選挙活動を始めます。これで一定の成果をあげると、翌年の参院選にも参戦、学会推薦議員を3名当選させます。59年の参院選では当選は倍の6名へと急進しました。
これが後の公明党になるわけですが、なぜ戸田は政治に活動の場をもとめたのでしょうか。1つの背景として、日蓮宗の開祖日蓮もまた、政治に対する主張をしていった、そういう歴史的なものがあるでしょう。しかし、いくつもある日蓮宗諸団体のなかで、国会議員を自力で擁立したのは創価学会だけです。
1955 年からの高度経済成長は、学会員たちにもとうぜん恩恵をもたらしました。豊かになった彼らとしては、次に社会的地位がほしいと思うわけです。学会員の社会的地位の向上、それを示す手っ取り早い方法が「学会議員」を作ることだったのではないかとガイドは考えています。
折しも創価学会は特に左翼・革新勢力から「折伏(しゃくぶく)大行進」に対する非難を浴びていた時期でもあります。左翼・革新勢力が大きな力を持っていた時代、学会や学会員の社会的地位を向上させることは、そういう意味でも大きな目標だったのかもしれません。
いろいろ言われているように、戸田が国立戒壇、要するに僧侶に日蓮正宗の戒律を授ける場所を国に設けようとか、あるいは日蓮正宗の国教化とか、ここまでのことをどこまで「本気で」思っていたかどうかはわかりません(国立戒壇設置はしばらく主張するのですが)。
しかし戸田は学会の政界進出がはじまった矢先に死去します。しかし、学会の政界進出はさらに続きます。1961年には公明政治連盟が設立され、さらに 1964年には公明党が結成されました。そして1967年の衆院総選挙で25議席を獲得して第4政党としての勢力を誇るまでにいたるのです。
この間、会長は池田大作に変わりました(1960年)。池田は、57年の参院選で公職選挙法違反にあたる戸別訪問をするように学会員に指示したとされ、逮捕されていますが、下された司法判断は無罪判決でした。
この一連の出来事、特に投獄→信念を曲げず無罪獲得、というストーリーによって彼のカリスマ性が高まったことは否定できません。そのためなのか、彼はかなりの若さで頭角を現わすことになったのです。池田の会長就任は実に32歳の時です。
そして公明党と学会はさらに勢いを増し、69年の総選挙では衆院の議席を47議席にまで増やし、さらには雑誌『潮』『第三文明』を立ち上げたり、「民音(民主音楽協会)」をつくってここを拠点に多数の芸能人を送りだしました。学校法人も作り、大学まで設立します。
こうして創価学会と公明党は、その社会的地位の向上という目標を十二分に実現するのでした。
公明党の利害は自民党の、特に主要派閥である田中派との利害と一致し、連携が始まった。
しかし1969年、公明党は1つの岐路を迎えます。それは、明治大学教授(当時)・藤原弘達が書いた『創価学会を斬る』の刊行を、公明党が妨害しようとして、逆に藤原に暴露された、いわゆる「言論弾圧事件」です。
このとき活躍したのが、当時自民党の幹事長だった田中角栄です。このことは、その後のNHKの討論番組でも「よけいなおせっかいをしました」と事実上本当であることを認めています。
自民党は、1960年代を通じて絶対安定多数の議席を維持していましたが、実のところ得票率はゆるやかに低下していました(1960 年:41.9%→1969年:32.3%)。なかでも所得の高くない都市労働者・市民たちの支持獲得はうまくいっていませんでした。彼らは、公明党か共産党の強力な支持層でした(社会党の支持者は移ろいやすい「無党派層」のさきがけ的な人たちが多かったのです)。
さて、田中角栄は地方への「利益誘導」政治を形作った人です。つまり、農村を基盤とした地方に、中央から予算などをつけることによって、地方を豊かにしていく。地方はその見返りに、田中派などの自民党議員に票を集める。今でも批判されているこの図式を確立したのが田中です。
もともと、学会員たちの多くは地方出身なわけで、彼らの生まれ故郷を豊かにしてくれる自民党=田中派と、自身の都会での生活を豊かにしてくれる公明党とは結びつく存在になる。……こうして、いつのまにか田中派と公明党、学会の関係が補完関係になり、親密さを増していた。それを明らかにすることになったのも田中が介入した「言論弾圧事件」だったといえるでしょう。
また1972年には、竹入義勝・公明党委員長が首相となった田中の依頼を受けて訪中、田中訪中→日中国交正常化の地ならしを行っています。
さて、「事件」でバッシングされた公明党と創価学会は、大きなショックを受けます。池田会長は「お詫び」をし、学会と公明党のいわゆる「政経分離」を宣言・実行しますが、それでも公明党は72年総選挙で議席を半数近くまで落とします。
もちろん公明党と創価学会は「国立戒壇設置」なる政策を降ろさざるを得なくなり、池田の政界入りも閉ざされ、池田と創価学会はこれ以降ひたすら、外部に対してはとにかく低姿勢で臨むようになります。実際、今日の池田大作という人は雑誌などを見る限りでは極めて穏やかな宗教家です。
また、どういうわけか創価学会はライバルであった共産党との結びつきを強めます。いわゆる「創共10年協定」というもので、これは公明党幹部にとっても実に寝耳に水の話でした。
学会・共産党は支持基盤を奪い合うライバルであったわけですが、戦時中のファシズムの中でともに弾圧され構成員が獄中にあったという共通する過去も持っていたわけです。これに目をつけたのが作家の松本清張で、彼は池田と宮本顕治・共産党委員長を引き合わせ、この学会・共産党の「同盟」を実現させたのでした。
もっとも、自民接近を行っていた公明党はこれに反発。ここに「政教分離」をし自立しようとする公明党の姿があります。しかし、結局は学会の意向を無視することができませんでした。公明党は学会なしには存在し得なかったからかもしれません。
また70年代は「革新の時代」といわれるほど革新勢力の力が強かった時代。公明党ではむしろ自分たちの軸足を「保守中道」から「革新中道」に移した方が得策、との考えが広がり、結局はこの協定を許すことになるのです。
結局、これで公明党はイメージ向上に成功したのか、76年総選挙で失った議席をとりもどします。反面、共産党には余り効果がなかったらしく議席を落としています。
結局、この共闘は公明党には効果があったものの、共産党には特に利がなく、結局公明党の顧問弁護士が宮本委員長宅を盗聴した事件があり、もともと共産党が早くからこの協定を反故にしようとしたこともあったため、この協定は終わりを告げます。以後は現在に至るまで、公明党と共産党は、逆に犬猿の仲になってしまっています。
新進党を挟んでの公明党の分解と合流の流れ。実際には公明党→新進党の前に短期間だけ「公明新党」が存在する。
1970年代末から1980年代初頭にかけて、社会党を中心とする、あるいは公明党を軸とする連合政権構想が浮上するようになりました。しかし、それが実現することはありませんでした。
1992 年、公明党と民社党は社会党が議員総辞職願いまで出して反対したPKO協力法を支持、自民党への接近を図ります。平和主義をうたっていた公明党がこれに協力したのは、当時の自民党が田中派の系譜を継ぐ竹下派であったからでしょうか(もっとも公明党がPKF(平和維持軍)参加に消極的だったため、2001年まで自衛隊のPKF参加はできないようになっていました)。
また1980年代から地方議会でも公明党が都市部を中心に勢力を広げ、地方政治与党の一員として存在感を増すようにもなっていきます。こうして公明党は連立政権は作らなかったものの、与党的な存在になっていったのです。
公明党の与党化は、1988年に2人の公明党国会議員が受託収賄罪で逮捕・起訴されたことにも現れています。与党的な位置にいるからこそ、このように収賄で逮捕される国会議員も出てしまったといえます。
もっともこの不祥事には創価学会・学会員もそうとう反発をしたようで、それが響いたのか、公明党の国会勢力は1989年の参院選では前回比1議席減、1990年の衆院選では11議席減となっています。
1993 年、総選挙で自民党が過半数割れすると、公明党は非自民・非共産の連立政権である細川内閣に加わります。しかし、創価学会がこのあたりをどう考えていたか、詳しいことはわかりませんし、考える暇もなかったのかもしれません。それくらいこの連立政権は短期間で崩壊してしまいました。
その後、公明党は小沢一郎らが中心になって設立された新進党に「参加」します(1994年)。カギカッコ付きで述べたのは、公明党の地方議員と参議院議員の1995年選挙で改選されない議員たちが別に「公明」という政党を作り、新進党に参加しなかったからです。
結果、学会員ら旧公明党支持者は、旧公明党以外の新進党議員を熱心に支持しませんでした。そして旧公明党勢力も自民党と敵対することに躊躇(ちゅうちょ)をしていました。そのため結局「公明」の新進党への合流が不可能になり、新進党は解党しました。
その後、旧公明党の衆院議員は「新党平和」を、参院議員は「黎明クラブ」を経て「公明」に合流、やがて「新党平和」も合流し「新公明党」つまり現在の公明党が誕生することになります。
新進党当時の公明勢力はバラバラになったこともあり、一部では路線対立や学会との距離などもできていたようですが、新しい公明党の誕生により学会との距離も元通りになり、両者の間で自民との連携が確認されたようです。
こうして小渕内閣(小渕首相も田中派を源流)のとき、公明党は自民党と本格的に連携、地域振興券の実現を成功させます。さらに自民・自由の連立政権に正式参加、自由党が連立離脱すると、(自由党の分派・保守党が2003年まで連立政権に参加していましたが)事実上の自公連立政権がスタートすることになります。
そんななかで小泉政権が発足。公明党は小泉ブームに乗りながら一方で社会保障などに力を入れ、特に年金改革ではその中心となり国民に政権担当能力を見せつけています。そして今日まで連立与党として8年以上の実績を積み上げてきました。
しかし、公明党としてさらなる勢力拡大という路線をとる気配はありません。あくまでも現状維持。二大政党化していくなかで、公称800万世帯を誇る創価学会を母体にして、政界のキャスティングボードを握ることに徹していこうとしているのでしょうか。
また先のページで述べた「地方:自民、都心:公明」という連携の図式も、大都市の地方出身者割合が減少していくことによって、徐々に変化せざるを得ないでしょう。そのようななか、とりあえずは新テロ対策特措法延長をめぐって、その衆院再可決による通過を「平和主義」の観点から渋る公明党の動きが注目されます。果たしてそれでも自公なのか、それとも離反なのか……。
微妙になりはじめた自公連立、公明党はどのように動き、創価学会はそれを支持するか……。
この間、創価学会会長だった池田は1979年、日蓮正宗との紛争の責任をとって辞任し、名誉会長に就任しています(2008年8月現在の会長は原田稔/日蓮正宗とはその後1990年に決別)。しかし、実際には今でも池田名誉会長が創価学会の最高実力者であることは、さまざまな学会系の雑誌・新聞などをみても明らかです。
「政教分離」をした今、創価学会は公明党のあくまで主要な支持母体の1つ。非学会員が公明党や公明党候補に投票することももちろんあります。言われているように学会、特に池田名誉会長の指示1つで党が動くのかどうか、実際のところそれはわかりません。
ただ言えることは、公明党にとって創価学会は頼みの綱、必要な存在だけれども、創価学会にとっての公明党はどうなのかということです。学会の壮年部長は読売新聞の取材に対して「公明党を基軸にしながらそれ以外でもいい議員さんは応援するという人物本位」ということを述べている(2006年4月29日号)ことは注目に値します。学会は公明党以外の政党とも手を組む可能性を模索しているのかもしれません。
公明党はこれからも創価学会の支持をいかにとりつけるか、個々の国会議員は学会員の支持をどのように得るかが課題となっていくのではないかというのがガイドの考えです。創価学会は公明党なしでもやっていけるが、公明党は創価学会なしにはやっていけないわけですから。
さて2008年で池田名誉会長は80歳を迎えました。彼に後継者はいないといわれています。長男の池田博正・創価学会副理事長がいますが、池田名誉会長や幹部は世襲に反対しているとも言われています。その一方で待望論もあるようですが……。
いずれにせよ現在の創価学会の組織力は一見「宗教官僚」ともいわれるほど強固なものとなっていますが、「その後」の創価学会は、そのままなのか、それとも急激に変化していくのでしょうか。その予想は非常に難解だといわざるをえません。
※人名について一部敬称略とさせていただきました。