はてなキーワード: 持たざる者とは
http://anond.hatelabo.jp/20170529064047
最初に謝罪なのだが、実は元の記事は二、三年ほど前にここに書いたが全然反応がなかったものの再投稿であった。
黙っていてすまん。
相変わらずどころか、加齢のぶん状況が悪化してるわ。
ザッと見た反応には共感も叩きもあるが、とりあえず前と違ってガン無視されなかったというだけでいくばくかの慰めを得ることができたので、そこんところに大いに感謝したい。
それでも叩いたり説教した奴はとても憎いがね……。
ところでこの記事のタイトルはイリヤの空UFOの夏が元ネタだ。
俺の発言がかつてないほど話題になって調子づいたので、その反響に対する自分語りを長々追記する。
悪いが、提案や説教に対して、でもできないよおと拗ねる内容だ。
返事しやすいことにだけ返事しているから、クリティカルな指摘はスルーしてるかもしれん。
・俺の求める優しさとは何か
・宗教
・創作
・風俗
・会おうかと言ってくれる人について
・無職で生かしてもらってんのがこれ以上ない優しさ
・働け
沢山ツッコまれている、「お前の求める優しさってなんだよ」ということを考えてみた。
自分の中でもふわっとしてるので、とりとめなく羅列する書き方になってしまうが。
たぶん俺が欲しているのは、物理(経済)面と、精神面の両方とで、自分の生存に罪悪感と不安を覚えなくていい状態ができてほしい、ということに近い。
居場所を作ってほしい、支えができてほしい、許しを与えてほしい、関係を持ってほしい。
こんな存在価値のない無能が生きていて申し訳ないとか、人と会話して申し訳ないとかの自罰的な気持ちと、その反動で貯まる攻撃的なルサンチマン、更にそれらからくる社会活動・経済活動のうまくできなさから解放されたい。
生きている現在と、生き続ける将来に安心したい。なんとかいい感じに暮らしていけそうだとほっとしたい。
物理面の安心は、セーフティネットや、俺でもつとめられる安定した職や、日本の将来の暗さの解決なんかが欲しいってことだろうか。
精神面の安心は、流行っている言葉で言えば自己肯定感が欲しいとまとめられるかもしれない。
個人でも、思想でも、社会システムでもいいから、俺に優しくすることで自己肯定感を育て直す手助けをしてほしい。
俺が幼稚だという感想も見たが、育て直しを手伝ってほしいってのを望むくらいだから、そりゃ幼稚なんだろうな。
他人を頼るなって意見も多く、そうできるにこしたことはないけど、自己肯定感を独力で育てるのそうとう厳しくないか。
厳しくてもやるんだよ、甘えるなっつーのが人生の現実ですか? こらこら、しばくなしばくなww
ついでに言えば、自己否定感をもたらす色々なものから守ってもほしい。
守ってほしいというとお姫様気取りかよと言われそうだが、人間には防壁が必要だ。
思想も信仰も密な人間関係も、外部の影響で精神が動揺するのを防ぐファイアーウォールになるというのが役割の一つだと思う。副作用として悪質なそれらにハマった人も、防御機能が働き意見を変えづらくなるってのもあるが。
ネット越しのあれこれを見てると、ファイアーウォールの十分でない俺の精神はどんどん腐っていくのを感じる。
だが他に気軽に寂しさを紛らわす手段もないので延々ネットを見ている。
そもそもこういう記事を書くこと自体、優しい言葉と厳しい言葉を両方飛ばされるかただガン無視されるかのどちらかだから、俺みたいな拗ねてこじらせた脛齧り野郎はやらないほうがいいんだ。
共感が10個あっても叩きが1個あったら叩きばかり印象に残る性格の奴が、運がよくても半々、そうでなければ袋叩きになるような愚痴をネットに書いてその反響を追うのはよくない。カウンセラーにでも愚痴るべき。それはわかる。
カウンセラーに愚痴っても淡々と聞かれるだけで虚しさが募ってきたから、我慢できず書いちゃうんだけど。
言ってみりゃ、BUMP OF CHICKENのリリィみたいな存在に出会いてえんですよ。
弱音と苛立ちをこぼしても「そういうところも全部かわいい人ね」って言われてえよ。
無職なのでスポットライトも浴びてないしがんばって自分を唄ってもいないけど。
人に優しさを求めるならまず自分が周囲に優しくしろ、というコメントも多かった。
この場合、俺が他人に送るべき優しさってなんだろうな。俺が求めてる優しさは上で書いた感じだが。
オタクやリアルの方では、人の愚痴にはできるだけ親身に乗っているつもりでいる。いいと思った創作者に長文感想を投げたりもする。落とし物を拾う手伝いとかする。
どれも迷惑な押しつけかもしれないし、性根の腐り具合が滲んでるかもしれないけど、いちおう些細な優しさだとする。
たとえば仕事がきついとか、上司がセクハラしてくるとか、金がないとか、親との関係が悪いとか、モテないとか、ネットで叩かれたとか、そういう愚痴に俺ができるのは「大変だよな」「そいつマジクソファッキン口からウンコ漏らし」「思いつめない方がいいよ」などを言うだけ。作品への感想も結局は面白かったと言ってるだけ。
しばらく泊めてやるし旅費も出すからろくでもない家と会社からは逃げてきなよと言うとか、出版関係者とコネがあるから紹介してあげるとか、そういうちゃんと役に立つ対応はできない。
俺は地方民なので、知人はみな地理的に遠く、日常的に会って一時的にストレスを紛らわしあうこともできない。(俺と会ったらむしろストレスが溜まるかもしれないが、一般的にはそういう優しさもあるだろうってことで)
生活に将来性がないので、他人の自己肯定感を育てられるほど長く密な関係を築くこともできない。
お金も社会的安定も能力も甲斐性ない人間は、責任のある優しさ、問題解決能力のある優しさを人に与えられないんじゃないか。
だから俺も優しくされないのか?
服を買いに行くための服がない問題みたいだな。
フェミニズムについて書いた部分もあれこれコメントされている。
元の記事でフェミニズムとマチズモの双方を俺の敵対陣営として書いたが、根源的にはフェミニズムは悪ではなく、公正さを目指すって意味ではむしろ善なる思想だとは思っている。
しかし、昨今俺に最も自己否定感や罪悪感をもたらしてくるのがフェミニスト的な言説だから敵視しているのだ。
俺のガバガバなメンタルファイアーウォールを突き破ってくるんだよ。
そういうのは真っ当なフェミニストではなく一部の過激派だとか、フェミを名乗るミサンドリストだとか、脳内フェミだとか言われるのだが、とりあえず確かにツイートやブログが見えるから脳内妄想ではないとして、一部過激派やミサンドリストと「真っ当なフェミ」なるものを区分するのは非常に困難である。
自己否定を煽られたならミサンドリーだとするなんてのは、俺に/男に都合のいい意見しかフェミニズムと認めないなどという傲慢極まるスタンスになるのでありえない。
そしてフェミニズムも色々な考え方があるっぽいから、明らかに罵詈雑言を投げてるタイプくらいしかミサンドリーだと断じきれない。
そもそも疑問なのだが、ミサンドリーの入ったフェミニストが見分けられたとして、フェミに耳を傾けましょうって立場の人間が「ミサンドリーフェミの主張は無視していい」なんて言うのはアリなのか?
ミサンドリーの奴らは、男によっぽど嫌な目にあわされたとか、別に大した理由はなく性格が歪んだとかで男に憎悪を抱き破壊的なことを言うわけだが、そこで他人が聞く耳を持たなくていいのは破壊的な部分に限られていて、あいつらがどんな被害にあったとかどこに男女不公平を感じるとかの指摘を無視することに正当性はないのでは?
たとえて言えば、テロリストのテロ行為は許すべきでないが、なぜテロリストがテロ思想に走ってしまったのかという部分は着目するに足る、みたいなのと近い。
ミサンドリーフェミニストは言論テロリストだしその論調と主張手段は責められて然るべきだが、あいつらが語る己がテロリストになってしまった理由については、ある程度の誇張を割り引くとしても聞いてやるのが、フェミ親和派としちゃあ正しいのでは?
男性への不公平感や抑圧感が嫌悪憎悪のレベルに達することで「あいつらはミサンドリストだからフェミニストではない」と切断処理の対象になってんのって変な気がする。
などとやたら長く書いたが、どっちにしろミサンドリストもフェミニストも嫌いなんだ俺は。
だって俺が男である以上、体格がいいとか化粧しないでいいとかヒール履かなくていいとか生理がないとかガラスの天井がないとか性暴力を受けづらく与えやすいとか性別由来の既得権益を得てはいるし、どんなフェミニズムであれその権益の使い方や再分配をよく考えましょう配慮しましょうと啓蒙してくるわけで、それは公正ではあるけど「ああ、男である俺は不当な利益を貪ってんだな、反省しなきゃな」みたいな気分にさせられるから、そりゃあ嫌いになる。
そのくらいの自省要求にすら耐えられないほどクズなんすわ、悪かったな。
しかし考えてみれば、ネット議論は幾らでもある中で俺が特に精神をかき乱されるのがフェミ主張ってことは、否が応でも目に入ってしまうくらいフェミニズムがネットに行き渡り無視できない勢力にまで育ったわけだから、フェミにとっちゃ順調っちゃあ順調なんじゃないの。
さっきちょっと信仰と書いたが、宗教を勧めるコメントも多かった。
わかる。
持たざる者が精神的救いを求めるなら、宗教が王道と言っていいと思う。
自分でも、上手くハマれればとても楽になれそうな気はずっとしている。
結婚式でチャペル行くのも葬式で数珠握るのも地鎮祭も、もちろん新興宗教の類も、くだらないしキモいと感じられる。
だから楽になるだろうことは分かっていてもやりたくない。
この場合の宗教はいわゆる神様を拝む系の宗教を指しているので、科学信仰や宗教嫌いも宗教であり~みたいな話は今回はなしで。
実はすでに、病院とカウンセリングには学生の頃から通っている。
病名はついているが、憂鬱とイライラと胃弱くらいしか自覚症状がないのでピンと来ていない。
延々経過観察されている。
薬は全然効かないので、現在は憂鬱が激しい時にその場で飲む薬しか処方されていない。
障害年金はもらえそうにない。
実はこれも嫌々ながらやったことがある。
某NPOの臨時作業員というかお手伝いみたいな感じで数か月混ぜてもらった。
でも、NPOの人らが輝いた眼をして、力強い握手と共に「増田クン、まずは元気な挨拶からがんばろう!」と言われた一日目の時点で内心もうダメだった。
いや挨拶はしていた。どっちかというと丁寧にしていたつもり。小学校でクラスの挨拶名人賞を受賞していた、昔取った杵柄だ。
ただ全盛期を過ぎた今の俺の挨拶はオドオドさも香るスタイルになってるから、エネルギッシュな人たちからすると元気よくと言いたくなるのは分かる。
でも俺とは求める心地よさが違うのだなと感じた。血圧が俺より30くらい高そうだった。
あと単純にボランティアの具体的な活動でも俺はグズで気が利かなくて、役立たずとして混じってるのがキツかった。
ワンシーズンの活動が終わったあと、臨時お手伝いの立場ながら打ち上げに呼んでもらえたので優しくしてもらったとは言えるんだろうけど、その最後の打ち上げの席も辛かった。
気力体力行動力の消耗がヤバかったし、がんばって書いても読者が少なくてあんまり褒めてもらえないので悲しくなった。
小さいものを一つ作ることはできても、それを複数作ったり書き続けていくのはひどく大変だ。
内容が多少まずくても創作できる人はそれだけですげえよ。42.195kmを走らず歩ききるだけで凄いようなもんだよ。
風俗。
俺の「童貞」という悩みを噛み砕いて言えば、「コミュニケーション能力と、アイデンティティのかなりの位置を占める男性という属性の二つが、他人(特に男性)から被害を受けやすい女性から受容されたことがないことによる、不全感や許されていない気持ち」が問題なので、お金で受け入れさせたところで解決になる気がしない。むしろその手段を取ることで罪悪感が増しそうで怖い。金という暴力で女を従わせたってことになる。
なんて言ってみたが、風俗でいいから一回ヤってみてーという即物的な気持ちもモチロンある。
でも実家暮らしだと、家族に風俗行ったとばれないかという心配事もありなかなか行けない。
男性性なんかにアイデンティティの重きを置くなって意見も見るが、その重心バランスはセルフコントロールムズイでしょ。
はてなの内外で、首都圏だったら飯奢ったり遊んでやるよと言ってくれる人をちょっと見た。
とてもありがたい。だがすまないことに、前述の通り俺は地方民である。
まあそうじゃなくても、こんなクズ of クズな記事書いといて非匿名で会うなんて、恥ずかしさと怖さでできやしないが。
知人に首都圏在住者が多いのもあり、そっちで暮らしたい気持ちは大いにあるが、以前親に話を振ったところ良い反応をもらえなかったので無理だ。
自殺企図したことがあるため、離れた場所に行かせるのは心配らしい。
「30代になって親の顔色をうかがうとか幼稚すぎる」と言われるだろうが、親と話し合ったりお願いしたりということが物凄く苦手でダメだ。一度話を振っただけでとても勇気を出したくらいだ。
無職でもその年まで生かしてもらえてることが最高に優しくされてるだろというド直球。
就職しろというド直球。
養ってくれているお父さんお母さん、医療保険を使わせてもらってる社会、ありがとう! 年金くらいは払ってます!
腕力なくて荷物を落としそうになって迷惑かけたバイト先、一回寝過ごしたらもう顔見せるのが怖くて連絡を絶ったバイト先、寝坊した上道分かんなくなって面接キャンセルした就活先、集団ディベートで変なこと言う俺と同じ組になった就活生、興味ある職種を答えられず困らせたハロワの相談員さん、ごめんなさい!
こんなに迷惑をかけても、直接的な刑罰とか咎は負わされてなくてこの社会はクズにも優しい!
その辺はマジその通り。
なのに、こんなに優しくされてるのに、なんでか人生がうまくいかねえし外に出るのが辛いし社会や他人と関わるのも不安だし心身落ち着かねえしで自分じゃどうしようもねえし辛いので、もっともっと優しくされたらうまいこといかねえかな、誰か救ってくれよっつー夢想を書き殴ったのが元記事なわけ。
自分じゃどうしようもないとか甘ったれてんじゃねーよ人は自分で何とかするしかないんだよとか、むしろ優しくされすぎたのが悪いんだよとかの声も拝聴しております。
書きたかったのはだいたいこんな感じだ。
自己卑下してかわいそうぶることで批判を避けようとしているのが鼻についたら申し訳ない。
卑屈さによる防御は卑怯なのだが、いったん頭に浮かんだ卑屈さや恐れを脱臭するのもこういうクズ人間のエッセーみたいな文章ではニュアンスを損なうのでは、と考えるとよくわかんなくなった。
よくわかんなくなったということを言い訳にして、卑屈さを大量に残して責めづらくする予防線を張り、そして予防線を張ったことについての予防線を更に張る卑怯な書き方申し訳ない。
また2年後くらいにどうなったのか報告してほしい
最近、正確に言えばここ一年、説教クソ社会人にクソバカ理論(「勉強できる奴って、社会に出たら使えないことが多いんだよな〜笑」)を食らうことが異常に多いんですよね。
たしかに私は、早稲田大学に通いながら、将来選択に迷って留年をして、現在5年生です。
きっと自分の軸を持って将来選択をし、キャリアを信仰し、明確な目標を持って「社会人」を勤め上げてきた貴方たちは、私に「教えてあげたいこと」が山ほどあるのでしょう。
私は実際、学生の身ですから、反論できることなど何ひとつありません。
そこで、
これは早稲田大学に通う22歳からの、社会に対する切実な啓蒙ですが、
やめてもらえませんか?
高卒あるいはFランおじさんが学歴のある学生に偉そうにするの、やめてもらえませんか?
勉強すらできない大人が、勉強のできる学生に対して「勉強ができても笑」などといった謎の経験則を振りかざすの、やめてもらえませんか?
受験という、誰もが平等に実力を試される時期に適切な努力をしてこなかった人が、他人の「適切な努力」を馬鹿にするの、やめてもらえませんか?
「勉強ができる奴は」とか「いい大学出たって勉強ができるのと頭が良いのはまったく別」みたいな100万回言われてきたクリシェを1時間かけて説くのは、せめて、自分の会社の新入社員にしてもらえませんか?
学生相手に、「社会に出ないとわからない」ことを説いて強者のツラをするのは、さすがに暴力的ではないですか?
「勉強なんかできなくても大丈夫」などと言うのは、持たざる者の哀しき遠吠えではないですか?
英語も、お金も、教養も、学歴も、「そんなのなくても大丈夫!そんなのがすべてじゃない」と言うのは、いつだって持たざる者ではないですか?
私は、持っている者が「持ってなくても大丈夫!」と言うのを聞いたことはありません。
少なくとも私は、学歴はあってよかったと思うし、教養のない人生など想像ができない。
だからこそ、英語だってできるようになりたいし、お金だってあったほうがいいのだと思う。
勉強ができることを悪みたいに言うな。
勉強ができる奴は打たれ弱い、指示待ち人間だ、融通が利かない、などのクソみてえな経験則を捨てろ。
飲みの場で高卒が熱弁を振るう中、勉強ができる側の人間はあえてそれを論破しようなどと思わないでしょう。
持たざる者には持たざる者の人生があり、持っていたかもしれない人生など、想像もできないでしょう。
私ももし高卒だったら「勉強のできる人間は」などとほざいていたかもしれないけれど、学歴があるので、「もし高卒だったら」などと想像することもできません。
沈黙してください。
学歴がないというハンデ(自業自得です)を背負いながら、人並み以上の努力をして、正社員として人並みの生活を手に入れたかもしれません。
だからといって、受験期に人並みの以上の努力をして学歴を手に入れて、人並みの努力でそのまま社会に漕ぎ出そうという学生を、どうして見下せるのでしょう?
とにかく、やめてください、と言うほかないのです。
だいたい学歴の話をするのは、低いほうです。
「どこ大?」「早稲田です」「おお〜頭いいねえ、俺なんか高卒(Fラン)だからさあ」
から始まる会話が苦痛すぎて、私たちは神経をすり減らしているのです。
誰も幸せにならない会話です。
そして、学歴自虐から始まる努力話あるいは説教をやめてください。
これは切実なお願いです。
卑屈になるのは勝手ですが、こっちの肩身を狭くするのをやめてください。
昔はアニメやゲームなどのアングラな趣味は、何も持たざる者、実生活では褒められることなどない日陰者たちの最後の逃避場所だった。
だが、最近はリア充たちがアニメやゲームなどのアングラな世界にどんどん流入してきて日陰者の居場所がなくなっているように感じる。
日陰者たちは自分たちの居場所を奪われる危機感を抱いているからこそ、せめてもの虚勢として知識量を誇り「新参」「ニワカ」とレッテルをはることに必死になっているのかもしれない。
「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
先生と出会ったのは、わたしが中学生の時です。彼は大学院を卒業後、国語の非常勤講師として赴任してきました。わたしと1周りほど年が離れていて、身長は10cm程度高く、かわいい顔立ちをした、少し年齢不詳気味の人でした。
当時のわたしは、授業中は寝ているか、教科書の隅に落書きをしていて、学年下位をふらふらと彷徨っている、やる気のない生徒でした。そんなわたしに「やればできるから」と声をかけ、必死に授業に参加させようとする先生は、いかにも「教師になりたて」で。その熱い眼差しで見られる度に、わたしは居心地の悪い思いをしていました。どれだけ無視をしても「おはよう」と笑顔で手を振る先生、「わからないことがあればいつでも聞いてね」と教室を去る間際、席までわざわざ歩いてきて声をかけてくる先生。わたしは、彼の笑顔がどうしても嘘くさく見えて、大嫌いでした。
気持ちが変わったのは、制服のシャツが半袖に変わり始めた頃でした。一週間遅れで課題を提出しに行った際に、とある難関大学の過去問を意地悪のつもりで聞いてみたら、さらりと答えられてしまい、その際に知った彼の学歴の高さに意外性を感じたからです。先生はいま思い返してみても、とても頭の良い人でした。自分が頭の良いことを知った上で、きちんと、相手にあわせたレベルで話ができる、勉強を教えることのできる優秀な先生でした。彼の解説を聞きながら、初めて、答えを導き出す楽しさに気付き、勉強が楽しいと思うことができたのです。
いま思えば、わたしは彼のパフォーマンスの引き立て役のひとりでしかなかったのでしょう。後々、彼の鞄から発見した、クラスの成績表の書き込みを見れば分かります。伸びしろはあるがやる気がない、かつ、やる気になれば伸びるタイプ。わたしは「ちょうど良い生徒」に過ぎなかったのです。そして、幸か不幸か、彼の好きなタイプの顔立ちをしていました。
先生は褒めるのが上手でした。たった10問の小テストで満点をとっただけでも「偉いなあ、嬉しいなあ」と、にこにこ頷いてくれました。自分で言うのもアレですが、わたしの地頭は悪くなかったので、少し本腰をいれて勉強するだけで見る見る間に成績は上がっていきました。周りの教師が驚いた眼で答案を返してくるのが面白くて、わたしはもっと良い点数が取りたいと思い始めていたのです。
いや、違うかもしれません。分からない問題を先生に聞きに行きたいがために勉強をしていたのかもしれません。先生は担当教科の国語だけでなく、どの教科も教えることができ、また、教え方が上手だった。だから、分からないものがあれば、どの教科でも先生に聞きに行っていた。わざと分からない振りをしていると見抜かれてしまうので、本当に分からない問題を探し、解決していく内に、分からない問題は減っていき、どんどん難解になってしまった。わたしは先生に会いたい、質問をしたい、話したい一心で、教科書に向き合っていたのです。
たったの半年程度で、わたしの順位は下の下から、上の上へと上がっていきました。先生は桁数の違う成績表を見比べて笑っていました。その彼の横顔を見ながら、わたしは少しだけ、意地の悪い考えを抱いてしまいました。言わなければ、幸せでいられた言葉を言ってしまったのです。
「1位を取ったらデートしてください」
先生は、びっくりした顔でわたしを何秒か見つめた後、視線を宙に泳がせました。「お願い」。そう、一歩前に出たわたしから距離を開けるように後ずさり「1位は難しいよ?」と苦笑いしました。「無理だと思うなら、約束してください」。その時の彼の脳内には、きっと、学費免除をされている学年主席の優等生の顔が浮かんでいたのだと思います。先生は意を決したように「いいよ、ただし、全教科合計順位で」と小声で告げました。
300人いない程度の学年でも、1位を取るのは簡単なことではありません。優等生は、わたしの学校でも飛びぬけて頭の良い少女でした。しかし、わたしには彼女に負けない思いがある。恋心です。
わたしは、先生とのデートの権利をかけて彼女に一方的に勝負を挑みました。彼女の苦手科目であった生物を攻略することで、大幅に点差をつけたわたしは、僅差で勝つことができました。学年末試験の結果が書かれたA4のペラ紙を持って、勝ち誇った笑みを湛えながら職員室に飛び込んできたわたしを見て、先生は少し罰の悪そうな顔をして「おめでとう」と返しました。
誰かに見つかるのは避けたいと提案された場所は、あろうことか先生の自宅でした。少し驚きましたが、恋は盲目状態だったわたしは先生からのメールが届いた瞬間、秒速で返信しました。春休み、まだ蕾のままの桜並木を見ながら、ミスタードーナツの袋を下げて、先生の自宅への道を歩みました、人生で1番幸福な瞬間でした。私服姿の先生は想像の何倍もおしゃれで、部屋も黒を基調とした、かっこいいものでした。
わたしたちはドーナッツを食べながら「教師と生徒」という禁断の響きに似つかわしくないほど、平凡で下世話な話をして盛り上がりました。教室内のヒエラルキーも職員室内のパワーバランスも変わらず馬鹿らしいと腹を抱えて笑いあいました。先生が録画をしていた、ただ絵面だけが派手な洋画を見ながら、作品とは全く関係ない話に興じました。
映画を見終わった頃、先生が不意に真剣な表情で聞いてきたこと、その声音を、わたしは忘れることができません。「俺のこと好きなの?」。いつも飄々としていた先生が、こんなに真剣になるのを見たのは初めてでした。報われぬ片想いを今日で最後にするつもりだったわたしは、笑顔で「大好きです、結婚したいみたいな意味で好き」と頷きました。次に出てくる、哀れで馬鹿な生徒の恋心を突き放す言葉に怯えながら。
しかし、先生の口から発せられた言葉は、予想の真逆をいくものでした。わたしのことがひとりの女性として好きなこと、これからもこうして会いたいこと。しかし、くれぐれも周りの人に気付かれてはいけないこと、それが守れなくなった時点で離れたいこと。彼の話していた言葉はよく覚えていませんが、約束事の多さだけは覚えています。「教師と生徒」の恋に怯える先生の気持ちを手に取るようで、その真剣な眼差しに促されるように、わたしは「はい、はい」と頷いていました。
先生が、なぜわたしのことを好きだったのかはわかりませんが、彼はよく「愛に飢えててかわいそう」とわたしを評しました。両親も健在ですし、人並みに可愛がってもらえていたはずですが、わたしは両親との関係性というものがどうしても希薄にしか感じられなかった。そんな姿が、愛に飢えているように見えたのかもしれません。彼は小さな頃から過剰な愛、過干渉を受け育ったそうです。だから、その与えられすぎた愛を持たざる者(と彼が思うもの)に受け渡すことで、バランスを取っていたのかもしれません。
先生とわたしは、密かに逢瀬を重ねていきました。学校では、若いお気に入りの教師に熱を上げる馬鹿な生徒を演じ続けました。その一方で、2人で会う時のわたしは、あまり騒ぎませんでした。先生に似合う、大人の女性に早くなりたかったので、静かに、黙っていました。
高校生になり、バイトを始めると、わたしの身なりは少しずつ「ちんちくりんな子供」を脱却し始めました。大人になるにつれ、彼の熱が上がるのを感じ、気分が良くて仕方がなく、その感覚を味わう度に自分の箍が外れていく気がしました。己のアイデンテイティがうまく掴めなくなり、自分が子供なのか大人なのか分からなくなる瞬間が増え、ぼーっとした日々を過ごしていました。誰にも言えないまま、大人になるストレスは存外厳しく、不安に泣いた日も多かった気がします。
そして何よりも、わたしは頭が良くなってしまった、なりすぎてしまった。あんなにも尊敬していた彼の大学の合否判定は「A」しかでませんでした。学年1位は優等生からわたしの手に移ってしまった。彼が枕元で得意げに語る知識に、目を輝かせることは、もはやできなくなり、ただ黙って薄笑いを浮かべることで精いっぱいになりました。そういったわたしの変化を感じてか、彼はわたしの「人に言えない」ことに漬け込むようになっていきました。
「共犯者だよ、君も捕まる」
そんな言葉を言われる度に、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、嗚咽をあげて泣くか、へらへら笑うことしかできなくなりました。誰かに言わなくては、と思いつつも、その先に待つ破滅を考えると声が出せない。何よりも「淫行教師」と「可哀想な女生徒」として衆目に晒されるのが耐えられませんでした。
わたしは、先生のことを本気で愛していました。彼の未来は輝かしいものであってほしかった。たとえその先に、わたしがいなくても。先生がどれだけ汚い姿を見せてきても、教室の隅で燻っていたわたしを救ってくれた人に他ならないのですから。それが例え、先生の株をあげるためのパフォーマンスであっても、救いだったのですから。
物語の幕引きは、あっけないものでした。先生は、自分の罪を周囲に告白してしまったのです。2度目の冬のことでした。放課後、その曜日は先生が学校に来ていない日だったので、早めに家に帰って漫画でも読もうといそいそ帰りの支度をしていたわたしを学年主任が呼び止めました。主任は、まるで化け物でも見たような、恐ろしい、それでいて悲しそうな目でわたしを見ていました。すべてを察しました。
先生は、主任と校長にだけわたしたちの関係を告白しました。校外で2人で会っていた事実を認め、これ以上関係が深くなる前に学校を去りたいと告げたそうでした。主任と校長は、わたしに深く頭を下げました。そんなことしてほしくないのに、する必要ないのにと焦るわたしを2人は涙を堪えた目で見上げてきました。そして、痛切な表情で「肉体関係はあったのか」と問うてきました。「ありません、断じて」とだけ答えると、先生たちは泣き出し、再び謝り始めました。わたしは校長室の分厚い壁が、この大きな泣き声を外部に漏らさないかだけが心配でした。
先生からはその数日後、直接、学校を去ることを告げられました。彼は、わたしが嘘をついたことを責めました。勝手な生き物だと、少し幻滅したのを覚えています。一方的に罪を告白し、逃げ出すのはルール違反だと怒りたい気分でした、しかし、解放されたがっている自分がいたのも、また、事実でした。わたしたちは主任と校長に話したこと「だけ」が2人の間にあった関係であることを確認会話し、男と女の関係を辞めました。
先生とわたしは、3学期中をいつも通りに過ごしました。終業式で言い渡された先生の退職を聞き、泣いている生徒の多いこと。別れを告げ、さよならを惜しむ生徒たちを横目に見ながら職員室に顔を出さずに、わたしは去りました。先生の机に重なった書類の多さは、1日やそっとで持ち帰れる量ではないと判断したからです。
春休み、わたしは毎日のように学校に通いました。先生の机が見える、職員室と質問コーナーの境目に陣取って赤本を進めました。毎日通うつもりでしたが、たったの1日だけ大雨が降り、行かない日がありました。その翌日、いつものように職員室に向かうと、先生の机はもぬけの殻になっていました。わたしはその瞬間、初めて人前で叫び声をあげ、怒り狂いました。教師たちの静止の声も聞かず、わたしは何度も横に立ち、椅子にもたれかかり、無意味に引き出しを開け閉めして遊んだ、彼の机を蹴り上げました。そして、糸が切れたようにしゃがみ込み、永遠と、わんわんと小さな子供のように泣いていました。
高校3年生の時、知り合いから先生が都内の某大学で働いていると知らされました。わたしは当時の志望校よりも幾分か偏差値の低いその大学を第一希望に変更し、無事に合格しました。学びたい学問でもなんでもありません、ただ、先生がいるからでした。何も言わず、大雨の中逃げるように去っていった彼に、文句の一つでも言ってやりたかったからです。大学生としてあらわれたわたしを見た先生は、怯えきっていました。「お金ならあげるから」と言われた瞬間、わたしは、あの日職員室で暴れた時のように先生の鞄を投げ捨て、近くのベンチを蹴り上げました。
なぜか彼は土下座をして、許しを乞うてきました。わたしがしたかったのは、してほしかったのは、そんなことではありません。ただ「さようなら」とだけ言いたかっただけなのです。先生は、季節が夏になる前に海外へと去っていきました、何か月か後に届いたエアメールには「許してほしい」と何度も綴られていました。
先生は、わたしのことが恐ろしくて仕方がないようでした。大学でふとすれ違っただけで、化け物を見るような顔をして踵を返されるたびに、わたしの心は潰れました。きちんと別れを言いたいだけだったのに、いつしか、互いに恨みが募っていってしまったのです。彼はすでに日本に戻ってきているようですが、わたしは、まだ会いに行けていません。会うのが怖いのです。あの目が怖いのです。
わたしの家には毎年、主任と校長から年賀状が届きます。他の生徒には届いていないようですが、わたしにだけは届くのです。罪を共有し合う仲間ですから。わたしはその年賀状に、便箋3枚程度の手紙で近況や1年の振り返りを送るのが常でした。母は、特別親しくもなかった教師への手紙を綴るわたしを眺めては、毎年、不思議がっていました。
はじめて家を出ることになり、年賀状の送付先が変わることを告げる手紙を綴る最中、わたしはぽろりと母に罪を告白してしまいました、勿論、関係については「公然の事実」のみ伝えました。母は「でも、好きだったんでしょう?」と聞いてきました。そうです、わたしは好きだったのです、先生のことが。そして、今でも好きなのです。「さよなら」を言えないまま、わたしは片想いの渦にまだ囚われているのです。「なら、良いじゃない、世間はどういうか分からないけれど」。そうです、他人など、どうでもいいのです。どうでもよかったのです。
冬になり、主任と校長は一人暮らしになったわたしに年賀状を出すことなく、立て続けにこの世を去りました。わたしのことをずっと気遣ってくれた2人は、成人し、就職が決まったことをとても褒めてくれました。彼らが、あの日以降、罪について話題に出した日は一度もありませんでした。わたしを気遣う優しい文面、文化祭に遊びに行ったわたしを出迎えてくれた笑顔、どこまでも優しい2人でした。
2人の葬儀には沢山の生徒、教師が集まりました。その中の誰も、わたしの罪を知る者はもういません。しかし、幼き日の思い出話に花を咲かせれば、誰もが「あなたは、あの先生が好きだったのでしょう?」と聞いてきます。わたしはその質問をされる度に「好きです、今でも」と答えるのです。そう答えながら、喪服姿の先生を横目で探してしまうのです。ヒールをはいたわたしと同じぐらいの身長、年の割にかわいい顔立ちをした年齢不詳の人。わたしは、彼がどんな姿をしていたのかも、もう曖昧にしか思い出せません。一緒に撮った写真はたったの1枚しかありませんでしたし、それもどこかに消えてしまいました。
はじめて会った日から、気付けばもう10年以上の月日が流れてしまいました。あの頃急速に大人になってしまったわたしは、ひどくアンバランスな心を抱えて生きています。わたしの心は未だに、あの新しいようで古ぼけた校舎に囚われたままなのです。職員室を入って右側の島、奥から3番目の灰色の大きな机、先生の足元にしゃがんで、顎をひんやりとした板にのせて、話すのが大好きな子供のままなのです。
しかし、わたしがいまいる場所は、生きている場所は、あの箱庭ではないのです。過去の罪に囚われる時代はもう終わりなのです。だからこそ、口に出さなくてはいけないのです。だからこそ、会いたいのです。会って、言いたいのです。
せんせぇ、さようなら。
I noticed that 10 years passed since I started writing blogs.
While the world is increasingly connected to NET and scarping the gap between those who have information and those who do not have it every day, I think that it is unhappy that violence due to concentration of wealth is increasingly increasing power.
It is "religion" that is surprisingly personally surviving.
A certain great scholar is said to have said that "Religion is a drug of the poor"
Now that mobile phones are spreading in countries called poorest countries and the Internet covers the world now
I want to wish that such common sense is another few years of life.
"Enlightenment" which is the difference between religious leader and believer is only a concept,
The fact that Islam society does not accept social advancement as much as treating women,
It does not match the present era.
I feel even dizzy to the extent of Americans who still do not believe in the theory of evolution,
I think that it is sick if you are watching Korea who is singing and saying that it is the place of origin of its own country keyy.
I welcome the fact that China, which is misunderstood as a nationwide all countries other than his country, is finally getting cold from a hangover,
I am impressed with Putin who is handling Russia brilliantly but vodka is about to expire soon.
President of the world's largest military superpower, Christians of discrimination will truly be overworked by esprit.
The door to World War III has been opening much more than I feel.
It might be a trial from Gaia against an overly populated population.
ふとblogを書き始めて10年経過したことに気づいた。
世の中はますますNETにつながれ情報を持つ者と持たざる者の格差を日々スキャルピングしているなか、富の集中による暴力がますます力を増大させているのは不幸な事だと思う。
とあるお偉い学者先生は「宗教は貧者の麻薬だ」と言ったそうだが、
最貧国と呼ばれた国にも携帯電話が普及してインターネットが世界を覆っている今
イスラム教社会が女性を大切にするあまり社会進出を認めないのは、
今の時代にそぐわない。
未だに進化論を信じないアメリカ人の多さには目眩すら感じるが、
なんでも自国が発祥の地だと謳いキーキー騒いでる韓国なんかみてると病気だと思う。
自国以外の国は全て属国と勘違いしている中国が最近やっと二日酔いから冷めつつあるのには歓迎もするが、
ロシアを見事にハンドリングしているプーチンには感心するもそろそろウォッカが切れてきた。
世界一の軍事大国の大統領が差別主義のキリスト教徒なんてさすがにエスプリ効きすぎだろう。
本日、メリーさんの羊も2日後の安楽死を発表し、浮かれ調子が一転して地獄に転げ落ちたキュレーションメディア業界。
ここまでの事態に進展した、その分水嶺はどこだったのでしょうか。
個人的には、BuzzFeedの記事によって「著作権問題はライターに押し付けることができる」という暗黙の了解が切り崩されてしまったことが、ドミノ倒しを引き起こしていると思います。これまでは、IT業界の中に、
偉い人: このキュレーションメディアって著作権大丈夫だよね?
スタートアップ: はい、大丈夫です!記事は外部のライターが書いていますし、著作権に関しては小さく書いてあります!
偉い人: ふーん。じゃあいっか。成長率すごいしね!
という雰囲気があったと思います。しかし、BuzzFeedの記事は、記事はライターが自発的に書いているものではなく、メディアが組織的にライターに書かせているものだった、ということがバレてしまいました。(なんでこんなことがまかり通っていたのかはわかりません。。。みんな馬鹿だったんでしょうね。。。)
そうなると、上場企業は株主に対して説明責任がありますから困ってしまいます。
と聞かれた時に、2択しかありません。
A:はい、著作権的にはグレーで、モラル的にも問題がありますが、高い成長率をほこる良い事業です!
AもBもまともに考えたら選べるはずもありません。これが未上場企業であれば「これから頑張って是正していきます!」と言いながら、同じことを続けることもできるかもしれませんが、上場企業ではそうもいきませんね。
では、このあとキュレーションメディア業界はどうなるのでしょうか。それは「アプリやfacebookページ」のいずれかの資産を持つもの、持たざる者に別れていくのではないでしょうか。MERYやSpotlightはアプリのユーザーをすでに多く抱えていますので、記事本数を減らしながら良質なコンテンツを出すという方針に転換することが可能です。一方、これを持っていないとなると、高いコンテンツ制作費を払いながら、メディアをゼロから育てて行く必要があります。できなくはないでしょうが茨の道です。
今回は裏サンデー
上げて落とす展開。
割と奇抜な作風と見られがちだけれども、こういうところはバランス感覚いいよね。
現状、稼げないことで、彼らは自身を持たざる者だと評価しているが、それこそ誤りで、君たちは稼げると。
なぜなら、クロガネは職業斡旋という、「君は稼げる」と他人を評価する仕事をしており、そしてそれで稼いできたから。
だから、クロガネの「君は稼げる」という言葉に説得力が出てくる。
学園園の評価基準である「稼ぐかどうか」に倣いつつ、久我山派相手にネックになっていた部分を、クロガネだからこそできる方法で答えを提示する。
これに久我山派や、読者とかが全員納得するかは何ともいえないが、今までの主人公の設定や行動の結果が活きたやり方で、悪くない理屈だと思う。
吸血鬼の誇りや、そのためにやるべきこと。
この解釈の違いで、取るべき行動が変わったのか。
人間は人間側の立場で抗った結果だけれども、コンラードの言い分も吸血鬼側からすれば一理はあるんだよなあ。
ハンスはハンスで人間たちを守るため、自身の定めた宿命に従った結果ではあるのだけれども、吸血鬼を殺しまくったのは事実なわけで。
思うところがあるのか、ファウストはコンラードとの戦いに手を出すな、とハンスに意思表示。
まあ、今回の戦いは「吸血鬼の長としてやるべきことは何か」という意義も含まれてきたから、ここはファウストが引導を渡すべきかもしれないなあ。
神樹の正体が判明。
あー、そうきたか。
他の超能力者では厳しそうだし、これはやっぱりモブがどうにかするしかなさそうな雰囲気か。
日本は国際社会の中では異常としか言いようのない「戦争のできない国」だった。それが安保関連法案の施行によって普通の「戦争のできる国」になった。次は緊急事態条項を盛り込んだ憲法改正で「いつでも戦争のできる国」になる。今はまだ声に出して言う人は多くないだろうが、これは私を含め多くの国民が望んでいることだ。はやく戦争を始めて欲しい。そしてできることなら私を召集して欲しい。
その前に、憲法改正では国民投票で投票者の過半数が賛成しなければならない。しかしこれはそう高いハードルではない。国民投票は楽勝だ。投票率が先日のイギリスと同様の72%ほどになると仮定すると、投票権を持つ者の37%が賛成票を投じるだけで改憲が可能となる。実際の投票率はもっと低いだろうから、投票権を持つ者の1/3ほどが賛成票を投じるだけで済む。
「移民が仕事を奪い社会保障を食い潰す」と脅されたイギリス国民は、EU離脱を問う投票で過半が離脱に賛成した。「中朝が攻めてくる」と脅せば、日本国民の1/3くらいは簡単に改憲に賛成票を投じるだろう。ちょろいものだ。たったこれだけで、国民の主権を取り上げ、緊急事態を宣言すれば政府の思い通りの法律を発令できるようになる。そして我々が多数派であることは何度も証明されている。
すでに道は開かれた。私たちが強く望んだ道だ。連帯感など感じたことのないつまらない人生だったが、選挙のたびに、私は小さな希望に燃える。全国に同志がいて、私と同じように考え、同じような行動をしていることがわかるからだ。日本国民は皆、私と同じように馬鹿だ。皆で前に進む実感がある。
戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる。
もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない。
持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである。
上は今からおよそ10年前に書かれた「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。からの引用だ。古い話なので忘れていたという人もいるだろうし、初見だという人もいるかもしれない。できたら全文を読み、興味があればその続編であるけっきょく、「自己責任」 ですか 続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」「応答」を読んで──も読んでほしい。
これらが書かれた10年前からすれば、今はずいぶん前進した。もちろん戦争に向かってだ。国民は戦争を欲している。その背景にあるものは、未来に対する深い深い絶望だ。老人は逃げ切れるかもしれない。若者や子供にとって未来は未知数だ。しかし持たざる中年である私にとって未来は絶望でしかない。しかし戦争は、上の引用のようなチャンスとなるかもしれない。
私には配偶者もなく、子もなく、安定した職もなく、資産もなく、趣味も、職能も、持ち家もない。失うものはもはや何もない。私は将来に絶望しきった中年だ。日本人であることだけを誇りとして生きている。
戦争が起きても、何の技能も持たないまま中年となった私には何のチャンスも回ってこないかもしれない。それならば、私は国のために戦って散り、英霊として眠ることを切望する。そう贅沢な望みでもないだろう。もう私には、残された望みはそれしかないのだ。
仕事の悩みや資格勉強のわかりにくい部分など、彼女がほぼ一方的に質問をしてきて、俺がそれに答えるというやり取りが2時間続いた。
彼女はいつも俺を褒める。どうやら本気で俺のことを頭がいいと思っているようだ。正気かよ。
彼女は実家が裕福だ。父親は誰でも知っている企業の支店長まで務めた人物。彼女の姉も極めて優秀。彼女はそんな家庭に反発して、芸術の道に入った。「才能なんてなかったけど、逃げ出したかったから」なんて言いながら、死ぬほど努力しても入れない人が多数いるような名門に入った。そこでは誰もが「我こそは」と思っている中、一人だけ「私は才能がない」といいながら、大変な評価を得ていたということだ。彼女の同級生に聞いたところによるとだが。
それに比べて俺の経歴は惨憺たるものだ。
完全に負けぐせがついて就職は失敗。
圧倒的なクソ企業でゴミのような毎日を過ごし、3年で退職という王道。
金がなくて生命保険もがん保険もあらゆる保険を解約。その後病気が発症。保険に入れない身と化す。
ティッシュペーパーが死ぬほど欲しくて献血した所、血液に異常が発覚。
病院の検査費用があと100円払えず、書類に拇印を押して家に帰り、12冊持っていた本をブックオフへ。10円*12冊で見事支払うことに成功。薬は買えなかった。
カードは未払で完全停止。債務整理をお願いした弁護士費用をも月2000円支払いで2年かけて払う。
カードの債務は20万円。それを毎月2000円ずつ支払う。常人なら20万はすぐに返せるが、俺はそうではない。弁護士費用と合わせて4000円。これは3週間の食費に相当する。
当然ながらクレジットカードは今後7年作れない。これはボディブローのように効く。クレジットカード前提のサービスは世の中意外と多い。「ほしいな、便利だな、安く上がるな」と思うものこそ信用が必要なものだからだ。
その他、友人からの借金もまた月数千円ずつ支払う。恐ろしいのは銀行振込の手数料だ。2日分の食費が飛んでいく。
ヨモギ、オオバコ、タンポポでビタミンを補い、小麦粉でエネルギーを得る。
その他の野草も大概食べた。
野菜が食べたくなって発狂して近所の家庭菜園に夜霧に紛れて侵入し、トマトを食べた。俺に妹などはいない。俺の、俺だけのために盗んだ。罪悪感で、3つもぎ取ったうちの一つは玄関において逃げた。
その後、なんとか潜り込んだ会社で月12万の給料で働きつつ現在に至る。
そう思いながらも、体面だけは保った。
ヨモギオオバコタンポポ法を再び使用し、食費を超圧縮してHSKとTOEICの試験を受けた。
HSKは4級、TOEICは780点を取った。給料は変わらない。
まずはスーツを買う金をヨモギ法で貯めて、なんとか転職をしなければ。
そこらの観光地の土産屋の販売員のほうが稼げるんじゃないかと考えたりもするが。
俺が夜毎公園に水を汲みに行き、オオバコとヨモギの新芽を摘んでいることなど見えない。
ただ俺が節約生活をし、"ちょっと変わったロハスな自炊"をし、家具も食器も自分で作り、独学で語学を身につけたというのが全てだ。
数年間は友達、ネット上で彼女から告白を受け、遠距離恋愛。童貞はテレフォンセックスで捨てた。
その後、実は同じ地域に住んでいることに気づき、お付き合いを始める。
服も靴も美容院代も何もかも持たざる者だった俺を、才能のない芸術家は高く評価したようだ。
そもそも5ヶ国語に堪能な人間がなんで3ヶ国語に不慣れな人間を褒めるのか。
俺は単にペットとして扱われているだけじゃないのか?
彼女の中の「ほかとはちがうだいじなもの」と書かれたおもちゃ箱に入っているだけなんじゃないのか?
わからねぇ。
日頃は堂々としているつもりだが、ふとした瞬間にどうしようもない惨めさで動けなくなる。
heis101 “そんな俺からしたら保育園のデモなんて、豪華客船クルーズの客が船酔いしたってクレームつけてるようなもんだ国民全員の問題だとかマスコミはいうが、どう共感しろと?”
htnmiki こんなこと書いても意味がないことくらい増田もわかってて、それでもこれ以外に言いようがないってことなんだろう。諭すブコメ書いてる時点で生きてる世界が違うんだよ。
lettuce0831 わかる。恋愛格差だって深刻な問題なはずだ。保育園は東京からエクソダスすればいいだけだが、これは一生解消されないのだ。「お前も不幸になれ」なんて曲解もいいとこ。「俺にも彼女くれ」っていうゾンビの叫びだ
hobo_king 子供を持つこと自体が資産のある人間に許された贅沢だろ苦労など知るかってのも、視点によっては否定出来ないな。ただ、どちらの言い分が正しいとか言い出すと格差って問題の本質からは遠ざかると思う。
YPoAH 将来とか老後とか言ってるヤツ、持たざる者の心がわかってなさすぎて震える。俺達は今この若い時分を幸せに生きたいんだよ。何もないまま空っぽの老後迎えてどうする?薄味の汁を更に薄めて味のしない人生など無意味
white_rose この増田を叩く人たちの冷たさにぞっとする。/年金云々て、豪華客船の客が不自由ない暮らしをしてちょっぴり施すのを待つために安月給で虐げられていろ、と言っているようなもん
ganbarezinrui 共働き勝ち組女の愚痴は迅速に肯定され国会まで拡散するけど、こういうおっさんの本当に深刻な嘆きは自己責任で切って捨てられる。死ねという気概もなく、ただ絶望するしかない
ysog 都会生まれが田舎の絶望を想像できないだろう。普通に青春し結婚して家庭をもつ側がモテない側の絶望を想像できないだろう。生まれながらの属性や過去は変えられない。そんなのもう、呪うしかないじゃない。
Josequervo ブコメ、落ちた母親より酷い自分の境遇を訴えたり待機児童問題に共感を覚えなかったりしただけで人の足を引っ張ってると言われる世の中。残酷だし救いが無さ過ぎる。
sleeplessnemuin 女の不利益は保護が当然!と叫び、男の不利益は自己責任wでごまかす。これが女の感情を元にしたフェミの限界 だからアンチフェミが激増するし、将来子孫を残せないのもフェミ、又はフェミの子なんだけど自覚なし
労働者階級の仕事はロボット・人工知能に取って代わられ、その利益を享受するのはロボットという資本を所持する資本家層となります。
ロボットに仕事を取って代わられた労働者は、(その時点で)ロボットができないより創造的な仕事をするか、ロボットという資本の投下が見合わない、生産性があまり高くない仕事を選ぶしかありません。ロボットの生産性や柔軟性はどんどん向上し続け、ロボットの所有者たちはどんどん稼いでいきます。ロボットを持たない大多数の人々が稼げる仕事はどんどん減っていきます。
かくて資本家層と労働者層の貧富の差は加速して広がり、人類はリソースを寡占する「持つ者」と、圧倒的多数の「持たざる者」に2分されていきます。
然しながら、「持つ者」は賢く、圧倒的多数の「持たざる者」が爆発してしまうような不満を持たせることはありません。ロボットによって生産性が底上げされる為、「持つ者」の安全を確保するための「防衛的投資」も余裕をもって行えるようになります。
或いは、「不幸な事故」によって「持たざる者」は減ってしまうかもしれません。「不幸な事故」なので仕方がありません。幸いにも「不幸な事故」に遭わなかった「持たざる者」たちは、画面の向こう側の悲劇を嘆きながら、自分とその家族のささやかな安全と毎日の食事に感謝を捧げるのです。
金や権力は革命で奪われ、今まで持たざる者が持つ可能性がある。しかし、「容姿」にはない。
金持ち 特に小金持ちというのはいつでも、金がなくなる恐怖がある。
自分はそうだ。父が無くなったら、ギリギリ己を保つためのツールである小金がなくなる。
今流行の日本国憲法を読むと、安倍晋三がなにもしなくとも、元から、国家によって公共の福祉という名目で財産権というのは侵害されやすいということがわかる。
憲法が実質無効化された現在なら、なおさらそうなのかもしれない。
おそらく都内に家を持っている人間は大抵、相続税を払わなければいけなくなるだろう。
国家だけでなく、個人でも、合法的に他人の財産を奪おうと思えばできなくはないものだ。
大企業が潰れて、銀行に何もかも奪われていく様というのはよくある。
まぁ、どんなに小さい企業もチャンスは無くはないのだ。
究極は革命だろう。
「革命」というのは起きない。
権力や富と違うのは、極めて身体に密着している。奪うといっても、手に入れるものができない。
美しく生まれたものは大事にされ、それを批判する者は醜いから批判を受ける。そんなボロボロにされる醜い者も「心の底では美しくなりたい、美しい人間とセックスしたい」という気持ちがあり、それが体制を強化し促進させる。
現在の科学をもっても、自分の容姿は良くなるか怪しい。自分は肌が茶色でクレーターや隆起、毛穴、赤みで大学でもたいていの人間よりも汚い。脂や膿がにじみ出てくる。朝には無くても、昼には白い膿の塊が出てくる。髪が陰毛みたいな髪質で、顔がとても大きいくて背は低い、現在の整形では技術的に美しくなれない。
整形をした女性の6割は、不満をもっていると某週刊誌のウェブサイトで見た。傷やしびれという意味で不満をもつ人間は少なく、結局のところ「思ったよりも美しくならなかった」という人間が大多数ということだ。
今日は窓を開けていると隣の部屋から、嬌声が聞こえて来た。男性は一部の女性を奪い合い、女性は一部の男性を奪い合う。
結局、どこまでもどこへいっても容姿が良い人間が快楽を、そして精神安定、ヘタしたら富も権力も享受する。自分だって鏡を見て、自分の容姿全体が綺麗だと思いたかったし、他人から富や権力とは違う容姿で評価されたかった
階級は「血筋金銭出自」に拠ってるのか「魔法」に拠ってるのかはっきりしろよ。
・物心ついた頃から孤児ってことは「血筋金銭出自」は無くしてそうだがなんで特権側に居られるんだよ。
・少数特権階級なのに同じ階級と認める孤児を少年兵にするの?変な奴等だなあ。
おいおいおい、近いところにラスボス居るなあ。
これもまた意味わかんない設定だなあ。
おおおい!
そこは非合法でもばれないようにうまく殺すこと考えろよ。
ばれない殺人を完遂する難易度より革命成し遂げる難易度のほうがはるかに高いだろ。
男がイカレポンチ過ぎて少しも葛藤できない。
みんなが苦しんでるのも全部そいつのせい(主人公の苦しみも含む)とか
殺すしかなさ過ぎるだろ。
父の仇とかどうでもいいレベルじゃねーか。
男「私が特殊能力によって世界、人々を操作、この歪を作り上げたのだー!
お前の父親が邪魔だったのだー!」
↓
反応が違うだろ
主人公「え、俺の親父始末するだけの為にどんだけ労力かけるの?
だろ。
↓
世界中の人類を救える(そんなアホ1人に追い込まれる世界人類に大草原や)んだから
お前の設定は
・あまりにも不合理でリアリティのかけらもない(リアルかどうかと言ってるのではないぞ)
・お前が得たいカタルシスにとってすら辻褄が合ってない(別に主人公が自己中になれてない)
中学生なのか?
それがあってこそ突飛なファンタジー小説のようなものも描けるようになる。
革命から一世代も過ぎてないのに歴史抹殺に成功してヒロインしか真相知らないって設定ガバガバすぎるし
あとヒロイン別にいらねえよなそのプロットだと。本ぐらい拾えばいいし。
ラッキースケベ要員かなんか?
>
自分を正当化するためだけに動いちゃう「世界は主人公のもの!!!!!!」みたいな話が好きです。
>
簡単に設定をちょっと考えてみました。
>
10分で考えました(・ω<)
>
【世界観】
・“持つ者”(血筋・金銭・出身)と“持たざる者”に二分した世界。
・“持つ者”にとって“持たざる者”は「人ではない」と差別、虐殺の対象。
・数は“持たざる者”の方が多く、反乱が非常に多い。
>
>
【主人公】
血があることを知りアイデンディティー崩壊(^o^)
>
・主人公の母に片思いをしていたことからその忘れ形見である主人公を拾いあげる。
・でもこの男を消さなかったら自分は世界においての存在が不明。
>
【ヒロイン】
・“もたざる者”
⇒“もつ者”が廃棄した本を読むことが好き。
>
【ストーリー】
?「お前、実はハーフなんだよね」
↓
↓
男「私が特殊能力によって世界、人々を操作、この歪を作り上げたのだー!
お前の父親が邪魔だったのだー!」
↓
主人公「えええええ 自分の存在が正しいことを証明するためにも
↓
男「それならば 私を倒さないといけないな」
↓
ヒロイン「私はなんとなく察しがついていたよ、
↓
↓
↓
↓
>
>
>
>
>
>
思ってもみなかったトラバ数が恐いです。
沢山意見いただけて嬉しいです。ありがとうございます!
>
>
面白くなればいいなー
ある時彗星が降ってきてあままこさんに能力が宿った。能力の名は怒り。しかしその能力は青春時代がすぎると失われるもの。途中怪しいシロk・・・やヨーク・・・科学者たちに命を狙われたりもしたが、無事生き延びて長く苦しい青春時代がようやく終わったようだ。めでたい。
この怒りについてだが、あままこの怒りはどこまでも身勝手なもので、それを正当なものだと信じる程度の愚かさがなければ持続出来ないものだったと俺は感じてる。いつまでも身勝手な怒りを持ち続け、それを正当だと信じ続けられる特殊な能力の持ち主をはてなアイドルという。その怒りを支えるのは圧倒的な被害者意識だ。自分の現状を惨めだと思って心の底から自分で自分を哀れむことができる。自分を卑下しつつもそんな自分を可哀想だと慈しみ恍惚の表情を浮かべながらキーボードを叩くことができる。表面的には自己卑下しつつもどこまでも自分をベタベタに甘やかすナルシス気質。これが才能でなくて何といえばよいのか。しかも己の悲惨さはすべて他人のせいにできる。なぜならぼっちだから。自分の苦境を訴える友だちがいれば、その友達に心を開かない自分のせいになる。それすらもなかったのだからナルシス気質のぼっち。何一つ持たざる者であることが逆にあままこの強さを作り出していた。
じゃあなんで怒りが失われつつあるかっていったら、たぶんだけどあままこさん、昔みたいにもたざるものじゃなくなったんだじゃないかと。なにか価値あるものを見つけたんだ。きっとそうだ。うん。
「ベンチャー役員三界に家なし」のユウタロスさんが、通りすがりの64歳無職に1歳の子供を殴られる被害に遭いましたが、
「持たざる者を擁護」って、ここで通りすがりの無職を擁護するようなものだと思うので。
ユウタロスさんの家族と、1歳児を殴るメンタリティの64歳無職だったら、後者の方が断然「持たざる者」じゃないですか。
恵まれないから暴力を振るってもいい、孤独で傷ついているから他人を搾取してもいい、
この手の「被害者面で自己正当化している加害者」からは、とにかく距離を置きたいと思っているし、支援する気は無いです。
毎月結構な金額だけど「金ならどうぞどうぞ、時間はやらないけど」という感じです。
haruharu1 『奪う者は弱者』『弱者の犠牲になって磨耗する必要はない』説っぽい。でも奪う者が弱いのではない。奪うことでしか得られない弱者の存在と、単純に奪う者の存在とを混在していると思う。悪はそんなに弱くはないぞ
「奪う者」になるのはヘドロがどんどん湧いてくる思考のクセを持っているからで、
そういう思考から抜けだせないのは頭が悪いからだから弱者だよねと思っています。
内面はというと、親にしてもらうのが当然で、親が自分に割いてるリソースを軽んじるし、親への不満ばっかりです。
子供は弱い。経済的にも精神的にも自立出来ないし、親次第のところが大きいです。だから「奪う者」になる。
低所得で孤独な人々の行動の特徴として、大人になっても中学生相当の考え方・ものの見方からアップデートしてないというのがあります。
私はそれを怠惰とか悪とかじゃなく、そういう脳のスペック、と思っています。器質的な話です。
大学生になっても64歳になっても「奪う者」から成長できないと、当然のように周りの人間を使います。
「奪う者」って、悪に目覚めて成るものじゃなくて、対等な大人同士で与え合う立場に一生成れない不具者ってことだと思います。
gazi4 程度問題かな。どんなに優れた人間であろうと、個々人のリソースは乏しい。分け合うことは必要だし、増田の言う頭のいい人は、与えたことも経験にできる。
与えるばっかりだと頭が良くても潰れますよ。頭は、自分が潰れない環境作りに使ったほうが良い。
元エントリの性犯罪者は、屋上娘にしてもらったことの価値を軽んじるじゃないですか。
屋上娘が子供の頃に大人の役割を期待されて、仕方ないと諦めさせられて、ケア役割を押し付けられて身につけた能力でも、
「屋上娘にとっては簡単なことだったのだろう。それが僕の救いになった!」みたいに軽んじちゃうじゃないですか。
いや、お前ソレ、「簡単だったらいいな」と「簡単に違いない」の区別がついてない案件だろ、と思いましたね。
プロのイラストレーターが「タダで絵描いてください」と乞食みたいなリプ受けて傷つくのも、
自分が身につけた能力の価値を軽んじられた気がするからじゃないですかね。
でも乞食ってそういう感じなので。リソースを無為に無限に毟り取られるばっかで、何の経験にもなりません。
Amarron 時代や文化で人間の価値が変わる所や、能力や環境が幸福に繋がりそれは功績ではなく運である所が少し理不尽だと思う事も共感できる。Pepperの話がテロスと定言命法を思い出す。哲学的な印象。
哲学は全く知りませんが、「功績ではなく運である所が少し理不尽」という部分を読んで、「分かっていただけた」と思いました。
結果を決めるのは運と努力、両方の要素が関わりますが、結果を出した人ほど努力が9割だと思いたがる。
私は運が9割だと思います。
運がいい人への攻撃の気持ちは無く、むしろ私は運がいい人が好きです。
運が悪かっただけの人を差別している!となじられようが、「そうで~す」という感じ。
ヒトラーのように障害者は死ねみたいには思わないので、社会保障費は喜んで支払います。
それは自分も事故や病気で障害者になる可能性があるとか、自分の能力が下がった訳ではなくても社会の変革によって
誰からも認められなくなり実質障害者状態になる可能性があるからです。不当な支払いとは全然思いません。
yamorca 世間が無神経に置き去りにしている処をしっかり見る人の声。増田は姥捨て容認派みたいだけど、同じ視点を持って公共の福祉の最大効力を求めてる人も居る。情けは人の為ならず
江戸時代は、姥捨て"容認"も何も、姥捨てするしか成り立たなかったですよね。社会が。
公共の福祉のレベルが上がった要因は、国の技術レベルが上がって豊かになったからですよね。
物質的に豊かになった結果、江戸時代と比べて餓死は減りましたが、
コミュニケーション乞食として、屋上娘さんやはせさんのような人に縋り付く人間は減らせて居ません。
「公共の福祉の最大効力を求めてる人」って何をやってるんでしょうか?
健康な人間に、福祉を必要とする人間に奉仕する義務を与える活動でしょうか?それ暴力じゃないですか?
それと、持つ者側、奪われることに怯える側でしか物事を考えない人に言いたいのは、
自分も事故や病気や加齢によって、奪う側に転落する可能性がゼロではないということです。
奪う赤ちゃんとして生まれ、与える大人になり、奪う老人になって死んでいくのが人間だと思います。
私は老人になっても出来るだけ、生きた人間を自分が生きるための奴隷にしたくないですね。
道具なら構いません。だから心についての言説より、技術についての言説の方が、愛に溢れているとすら感じます。