はてなキーワード: エアメールとは
松本典子「春色のエアメール」https://youtube.com/watch?v=cM0RGGpB2VM&pp=ygUY5pil6Imy44Gu44Ko44Ki44Oh44O844Or
森川美穂「教室」https://youtube.com/watch?v=SDIR3y2sfmQ&pp=ygUU5qOu5bed576O56mCIOaVmeWupCA%3D
藤原理恵「愛よファラウェイ」https://youtube.com/watch?v=Q0za8yJgHIo
岡本舞子「愛って林檎ですか」https://youtube.com/watch?v=1MGk4C2SjFw
ポストの前でまごついていて、
要はどっちに手紙を投函したら良いのか分からなくてって海外の観光客の方がいて
まあエアメールはこっちだよ!って
指し示して教えてあげれたから投函出来てよかったね!ってなるけど
どちらに入れても同じ袋に入るわよね?違う?
まあ最悪間違っても正しく仕訳されて無事配達はされるからそんなに神経質にならなくてもいいっちゃーいいんだけど。
入り口は別だけど中では一つの袋に入るようになって繋がっていることを知ったときには
捨てる側からしたら、
分別の意識はした!って強まった語気で言えるってことかしらね?
そんであからさまなのが
ペットボトルと缶を捨てられる自動販売機の横とかにあれば置いてあるゴミ箱。
なかで合流してどっちにいれても一緒のシステムよね。
高速道路でも
あれは右ルート言ってしまうと鮎沢パーキングエリア入れないじゃん!って休憩出来なくなるから
それ以外パーキングエリアに寄らなければ
世の中のそう言ったどちらからやっても一緒ってたまにあるわよね。
でもさ、
思って見たら今インターネッツ全盛期でメールだのなんだので即送れるはずなのに、
エアメールってなかなか渋いわよねって
旅先から送る消印の付いた手紙が届くとまあ確かに嬉しいものだわ。
旅先からっーのがいいのよね。
私もこれ今旅先から書いてると思って書いているけど、
場所が変わればイキフンや雰囲気が変わるから筆も進むつーもんよね。
あー旅したいわー
旅先でうんとスプラトゥーン3やりたいわー。
まあ旅先で増田やゲームをするのは気分が変わってたまにはいいものよね。
そんでね、
観光客が閑散としてきてなかった時期は
今はもう値段が跳ね上がっちゃってそんなイキフンを楽しむのも無理よね。
でね、
その時泊まったホテルに大浴場あってサウナもあって水風呂がなかったから残念だったので、
なんでサウナあるのに水風呂無いの?って思って結局大浴場には行かなかったけど、
やることないので
そういうこともあるわよね。
あー旅したい欲は相変わらず強まっているわー。
うふふ。
タマゴサンドがなくって朝食に食べようと思っていただけに超ショックよね。
やめておいてヒーコーだけにしたわ。
グレープフルーツ今回は白いやつを1玉買ってきたので、
グレープフルーツ果汁マジ搾りの果汁をレモン炭酸に入れたタイプのやつね。
だんだんと暖かくなってきているので
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
先生と出会ったのは、わたしが中学生の時です。彼は大学院を卒業後、国語の非常勤講師として赴任してきました。わたしと1周りほど年が離れていて、身長は10cm程度高く、かわいい顔立ちをした、少し年齢不詳気味の人でした。
当時のわたしは、授業中は寝ているか、教科書の隅に落書きをしていて、学年下位をふらふらと彷徨っている、やる気のない生徒でした。そんなわたしに「やればできるから」と声をかけ、必死に授業に参加させようとする先生は、いかにも「教師になりたて」で。その熱い眼差しで見られる度に、わたしは居心地の悪い思いをしていました。どれだけ無視をしても「おはよう」と笑顔で手を振る先生、「わからないことがあればいつでも聞いてね」と教室を去る間際、席までわざわざ歩いてきて声をかけてくる先生。わたしは、彼の笑顔がどうしても嘘くさく見えて、大嫌いでした。
気持ちが変わったのは、制服のシャツが半袖に変わり始めた頃でした。一週間遅れで課題を提出しに行った際に、とある難関大学の過去問を意地悪のつもりで聞いてみたら、さらりと答えられてしまい、その際に知った彼の学歴の高さに意外性を感じたからです。先生はいま思い返してみても、とても頭の良い人でした。自分が頭の良いことを知った上で、きちんと、相手にあわせたレベルで話ができる、勉強を教えることのできる優秀な先生でした。彼の解説を聞きながら、初めて、答えを導き出す楽しさに気付き、勉強が楽しいと思うことができたのです。
いま思えば、わたしは彼のパフォーマンスの引き立て役のひとりでしかなかったのでしょう。後々、彼の鞄から発見した、クラスの成績表の書き込みを見れば分かります。伸びしろはあるがやる気がない、かつ、やる気になれば伸びるタイプ。わたしは「ちょうど良い生徒」に過ぎなかったのです。そして、幸か不幸か、彼の好きなタイプの顔立ちをしていました。
先生は褒めるのが上手でした。たった10問の小テストで満点をとっただけでも「偉いなあ、嬉しいなあ」と、にこにこ頷いてくれました。自分で言うのもアレですが、わたしの地頭は悪くなかったので、少し本腰をいれて勉強するだけで見る見る間に成績は上がっていきました。周りの教師が驚いた眼で答案を返してくるのが面白くて、わたしはもっと良い点数が取りたいと思い始めていたのです。
いや、違うかもしれません。分からない問題を先生に聞きに行きたいがために勉強をしていたのかもしれません。先生は担当教科の国語だけでなく、どの教科も教えることができ、また、教え方が上手だった。だから、分からないものがあれば、どの教科でも先生に聞きに行っていた。わざと分からない振りをしていると見抜かれてしまうので、本当に分からない問題を探し、解決していく内に、分からない問題は減っていき、どんどん難解になってしまった。わたしは先生に会いたい、質問をしたい、話したい一心で、教科書に向き合っていたのです。
たったの半年程度で、わたしの順位は下の下から、上の上へと上がっていきました。先生は桁数の違う成績表を見比べて笑っていました。その彼の横顔を見ながら、わたしは少しだけ、意地の悪い考えを抱いてしまいました。言わなければ、幸せでいられた言葉を言ってしまったのです。
「1位を取ったらデートしてください」
先生は、びっくりした顔でわたしを何秒か見つめた後、視線を宙に泳がせました。「お願い」。そう、一歩前に出たわたしから距離を開けるように後ずさり「1位は難しいよ?」と苦笑いしました。「無理だと思うなら、約束してください」。その時の彼の脳内には、きっと、学費免除をされている学年主席の優等生の顔が浮かんでいたのだと思います。先生は意を決したように「いいよ、ただし、全教科合計順位で」と小声で告げました。
300人いない程度の学年でも、1位を取るのは簡単なことではありません。優等生は、わたしの学校でも飛びぬけて頭の良い少女でした。しかし、わたしには彼女に負けない思いがある。恋心です。
わたしは、先生とのデートの権利をかけて彼女に一方的に勝負を挑みました。彼女の苦手科目であった生物を攻略することで、大幅に点差をつけたわたしは、僅差で勝つことができました。学年末試験の結果が書かれたA4のペラ紙を持って、勝ち誇った笑みを湛えながら職員室に飛び込んできたわたしを見て、先生は少し罰の悪そうな顔をして「おめでとう」と返しました。
誰かに見つかるのは避けたいと提案された場所は、あろうことか先生の自宅でした。少し驚きましたが、恋は盲目状態だったわたしは先生からのメールが届いた瞬間、秒速で返信しました。春休み、まだ蕾のままの桜並木を見ながら、ミスタードーナツの袋を下げて、先生の自宅への道を歩みました、人生で1番幸福な瞬間でした。私服姿の先生は想像の何倍もおしゃれで、部屋も黒を基調とした、かっこいいものでした。
わたしたちはドーナッツを食べながら「教師と生徒」という禁断の響きに似つかわしくないほど、平凡で下世話な話をして盛り上がりました。教室内のヒエラルキーも職員室内のパワーバランスも変わらず馬鹿らしいと腹を抱えて笑いあいました。先生が録画をしていた、ただ絵面だけが派手な洋画を見ながら、作品とは全く関係ない話に興じました。
映画を見終わった頃、先生が不意に真剣な表情で聞いてきたこと、その声音を、わたしは忘れることができません。「俺のこと好きなの?」。いつも飄々としていた先生が、こんなに真剣になるのを見たのは初めてでした。報われぬ片想いを今日で最後にするつもりだったわたしは、笑顔で「大好きです、結婚したいみたいな意味で好き」と頷きました。次に出てくる、哀れで馬鹿な生徒の恋心を突き放す言葉に怯えながら。
しかし、先生の口から発せられた言葉は、予想の真逆をいくものでした。わたしのことがひとりの女性として好きなこと、これからもこうして会いたいこと。しかし、くれぐれも周りの人に気付かれてはいけないこと、それが守れなくなった時点で離れたいこと。彼の話していた言葉はよく覚えていませんが、約束事の多さだけは覚えています。「教師と生徒」の恋に怯える先生の気持ちを手に取るようで、その真剣な眼差しに促されるように、わたしは「はい、はい」と頷いていました。
先生が、なぜわたしのことを好きだったのかはわかりませんが、彼はよく「愛に飢えててかわいそう」とわたしを評しました。両親も健在ですし、人並みに可愛がってもらえていたはずですが、わたしは両親との関係性というものがどうしても希薄にしか感じられなかった。そんな姿が、愛に飢えているように見えたのかもしれません。彼は小さな頃から過剰な愛、過干渉を受け育ったそうです。だから、その与えられすぎた愛を持たざる者(と彼が思うもの)に受け渡すことで、バランスを取っていたのかもしれません。
先生とわたしは、密かに逢瀬を重ねていきました。学校では、若いお気に入りの教師に熱を上げる馬鹿な生徒を演じ続けました。その一方で、2人で会う時のわたしは、あまり騒ぎませんでした。先生に似合う、大人の女性に早くなりたかったので、静かに、黙っていました。
高校生になり、バイトを始めると、わたしの身なりは少しずつ「ちんちくりんな子供」を脱却し始めました。大人になるにつれ、彼の熱が上がるのを感じ、気分が良くて仕方がなく、その感覚を味わう度に自分の箍が外れていく気がしました。己のアイデンテイティがうまく掴めなくなり、自分が子供なのか大人なのか分からなくなる瞬間が増え、ぼーっとした日々を過ごしていました。誰にも言えないまま、大人になるストレスは存外厳しく、不安に泣いた日も多かった気がします。
そして何よりも、わたしは頭が良くなってしまった、なりすぎてしまった。あんなにも尊敬していた彼の大学の合否判定は「A」しかでませんでした。学年1位は優等生からわたしの手に移ってしまった。彼が枕元で得意げに語る知識に、目を輝かせることは、もはやできなくなり、ただ黙って薄笑いを浮かべることで精いっぱいになりました。そういったわたしの変化を感じてか、彼はわたしの「人に言えない」ことに漬け込むようになっていきました。
「共犯者だよ、君も捕まる」
そんな言葉を言われる度に、わたしの頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、嗚咽をあげて泣くか、へらへら笑うことしかできなくなりました。誰かに言わなくては、と思いつつも、その先に待つ破滅を考えると声が出せない。何よりも「淫行教師」と「可哀想な女生徒」として衆目に晒されるのが耐えられませんでした。
わたしは、先生のことを本気で愛していました。彼の未来は輝かしいものであってほしかった。たとえその先に、わたしがいなくても。先生がどれだけ汚い姿を見せてきても、教室の隅で燻っていたわたしを救ってくれた人に他ならないのですから。それが例え、先生の株をあげるためのパフォーマンスであっても、救いだったのですから。
物語の幕引きは、あっけないものでした。先生は、自分の罪を周囲に告白してしまったのです。2度目の冬のことでした。放課後、その曜日は先生が学校に来ていない日だったので、早めに家に帰って漫画でも読もうといそいそ帰りの支度をしていたわたしを学年主任が呼び止めました。主任は、まるで化け物でも見たような、恐ろしい、それでいて悲しそうな目でわたしを見ていました。すべてを察しました。
先生は、主任と校長にだけわたしたちの関係を告白しました。校外で2人で会っていた事実を認め、これ以上関係が深くなる前に学校を去りたいと告げたそうでした。主任と校長は、わたしに深く頭を下げました。そんなことしてほしくないのに、する必要ないのにと焦るわたしを2人は涙を堪えた目で見上げてきました。そして、痛切な表情で「肉体関係はあったのか」と問うてきました。「ありません、断じて」とだけ答えると、先生たちは泣き出し、再び謝り始めました。わたしは校長室の分厚い壁が、この大きな泣き声を外部に漏らさないかだけが心配でした。
先生からはその数日後、直接、学校を去ることを告げられました。彼は、わたしが嘘をついたことを責めました。勝手な生き物だと、少し幻滅したのを覚えています。一方的に罪を告白し、逃げ出すのはルール違反だと怒りたい気分でした、しかし、解放されたがっている自分がいたのも、また、事実でした。わたしたちは主任と校長に話したこと「だけ」が2人の間にあった関係であることを確認会話し、男と女の関係を辞めました。
先生とわたしは、3学期中をいつも通りに過ごしました。終業式で言い渡された先生の退職を聞き、泣いている生徒の多いこと。別れを告げ、さよならを惜しむ生徒たちを横目に見ながら職員室に顔を出さずに、わたしは去りました。先生の机に重なった書類の多さは、1日やそっとで持ち帰れる量ではないと判断したからです。
春休み、わたしは毎日のように学校に通いました。先生の机が見える、職員室と質問コーナーの境目に陣取って赤本を進めました。毎日通うつもりでしたが、たったの1日だけ大雨が降り、行かない日がありました。その翌日、いつものように職員室に向かうと、先生の机はもぬけの殻になっていました。わたしはその瞬間、初めて人前で叫び声をあげ、怒り狂いました。教師たちの静止の声も聞かず、わたしは何度も横に立ち、椅子にもたれかかり、無意味に引き出しを開け閉めして遊んだ、彼の机を蹴り上げました。そして、糸が切れたようにしゃがみ込み、永遠と、わんわんと小さな子供のように泣いていました。
高校3年生の時、知り合いから先生が都内の某大学で働いていると知らされました。わたしは当時の志望校よりも幾分か偏差値の低いその大学を第一希望に変更し、無事に合格しました。学びたい学問でもなんでもありません、ただ、先生がいるからでした。何も言わず、大雨の中逃げるように去っていった彼に、文句の一つでも言ってやりたかったからです。大学生としてあらわれたわたしを見た先生は、怯えきっていました。「お金ならあげるから」と言われた瞬間、わたしは、あの日職員室で暴れた時のように先生の鞄を投げ捨て、近くのベンチを蹴り上げました。
なぜか彼は土下座をして、許しを乞うてきました。わたしがしたかったのは、してほしかったのは、そんなことではありません。ただ「さようなら」とだけ言いたかっただけなのです。先生は、季節が夏になる前に海外へと去っていきました、何か月か後に届いたエアメールには「許してほしい」と何度も綴られていました。
先生は、わたしのことが恐ろしくて仕方がないようでした。大学でふとすれ違っただけで、化け物を見るような顔をして踵を返されるたびに、わたしの心は潰れました。きちんと別れを言いたいだけだったのに、いつしか、互いに恨みが募っていってしまったのです。彼はすでに日本に戻ってきているようですが、わたしは、まだ会いに行けていません。会うのが怖いのです。あの目が怖いのです。
わたしの家には毎年、主任と校長から年賀状が届きます。他の生徒には届いていないようですが、わたしにだけは届くのです。罪を共有し合う仲間ですから。わたしはその年賀状に、便箋3枚程度の手紙で近況や1年の振り返りを送るのが常でした。母は、特別親しくもなかった教師への手紙を綴るわたしを眺めては、毎年、不思議がっていました。
はじめて家を出ることになり、年賀状の送付先が変わることを告げる手紙を綴る最中、わたしはぽろりと母に罪を告白してしまいました、勿論、関係については「公然の事実」のみ伝えました。母は「でも、好きだったんでしょう?」と聞いてきました。そうです、わたしは好きだったのです、先生のことが。そして、今でも好きなのです。「さよなら」を言えないまま、わたしは片想いの渦にまだ囚われているのです。「なら、良いじゃない、世間はどういうか分からないけれど」。そうです、他人など、どうでもいいのです。どうでもよかったのです。
冬になり、主任と校長は一人暮らしになったわたしに年賀状を出すことなく、立て続けにこの世を去りました。わたしのことをずっと気遣ってくれた2人は、成人し、就職が決まったことをとても褒めてくれました。彼らが、あの日以降、罪について話題に出した日は一度もありませんでした。わたしを気遣う優しい文面、文化祭に遊びに行ったわたしを出迎えてくれた笑顔、どこまでも優しい2人でした。
2人の葬儀には沢山の生徒、教師が集まりました。その中の誰も、わたしの罪を知る者はもういません。しかし、幼き日の思い出話に花を咲かせれば、誰もが「あなたは、あの先生が好きだったのでしょう?」と聞いてきます。わたしはその質問をされる度に「好きです、今でも」と答えるのです。そう答えながら、喪服姿の先生を横目で探してしまうのです。ヒールをはいたわたしと同じぐらいの身長、年の割にかわいい顔立ちをした年齢不詳の人。わたしは、彼がどんな姿をしていたのかも、もう曖昧にしか思い出せません。一緒に撮った写真はたったの1枚しかありませんでしたし、それもどこかに消えてしまいました。
はじめて会った日から、気付けばもう10年以上の月日が流れてしまいました。あの頃急速に大人になってしまったわたしは、ひどくアンバランスな心を抱えて生きています。わたしの心は未だに、あの新しいようで古ぼけた校舎に囚われたままなのです。職員室を入って右側の島、奥から3番目の灰色の大きな机、先生の足元にしゃがんで、顎をひんやりとした板にのせて、話すのが大好きな子供のままなのです。
しかし、わたしがいまいる場所は、生きている場所は、あの箱庭ではないのです。過去の罪に囚われる時代はもう終わりなのです。だからこそ、口に出さなくてはいけないのです。だからこそ、会いたいのです。会って、言いたいのです。
せんせぇ、さようなら。
といっても、いわゆる恋人関係ではなく、彼も私も独身ではあったものの不倫のような関係だった。
というか、彼は私を恋人ではなく、愛人のように扱っていた、のだと思う。今思えば。
彼は文章を書く人なのだけれど、私の書いた手紙の文面を見て、とても私をいとおしく思い、
たまたま彼は長く付き合っていた恋人と別れた後だったかなにかで、なんとか私に会いたいと思った、のだと言っていた。
私は当時(まあ今もだけど)非常に強い容姿コンプレックスがあって、会うのを先延ばししていた。
そのうちに彼が欧州某国へ半年間留学となり、その間もエアメールで何度も手紙が届いたりしていた。
帰国した後、彼と会った。そして、冒頭で書いたような関係になった。
デートといっても、食事をして、あとは彼のアパートで彼の好きなワーグナーを聞いたり、
文学だの野球だのについてのとりとめのない会話をして、それからセックスをし、
ベッドのなかでまたとりとめのない会話をして、それから送ってもらう、そんな感じ。
その関係はそんなには続かなかった。
彼の元の恋人は、恩師の友人の御嬢さんで、恩師は彼のいる世界では日本で一番の権威のような人。
その恩師から、元の恋人について、「そろそろなんとかしてあげたらどうだ」と言われたのだと。
「自分としてはとっくに別れたつもろだったのだけれど、そういわれたら断れない」と言った。
「自分は他人を愛せない人間で、君のこともとても大事に、たぶん彼女より大事に思ってはいるけれど愛していない。
もちろん彼女のことも愛することはないけれど、もし結婚して子供ができたら、子供を愛することはできると思う。
そして自分が今後もこの世界で生きていく以上、君は結婚の対象とはならない」
簡単にはあきらめられなかったけれど、結局は彼に従わざるをえなかった。
何年かして、時々彼の名前を新聞の書評らんでみかけるようになった。
そしてさらに数年して、彼の本は年間ベストセラー一位となり、テレビのバラエティでも何度か姿をみかけた。
その後ブームは去り、彼は今大学で教えながら、時々雑誌にコラムなどを書いているようだ。
彼の著書にあった新婚旅行の時期は、私に別れ話を切り出してからほぼ1年以内のことだったし、
たぶん彼の言葉は本当だったのだろう、と思う。というか、思っていた。
だけどここ最近のオタキング絡みの一連の、文化人が若い女の子を云々の話を読んでいて、
もうずっと昔のことだけれど。
追記: