はてなキーワード: 読者投稿とは
自分も画像以外の「解像度」を最初に聞いたのはガンプラ界隈の記事だったな。モデルグラフィックス関連、ガンダム・センチネルの単行本(30年以上前)で読んだかも。MS ERA(これも30年以上前)かも
40年近く前、模型雑誌でディテールをどう入れるのかという分脈で「解像度」という言葉が使われてて、俺はそこで知った
(このディテールは実物のなになにを元にして理にかなっているので間が寂しいからとりあえずつけましたより全然解像度が高い工作です、とか)
以下に2015年以前の使用例。模型というのはスケールモデルがそうであるようにまず「実物」があって、それを落とし込んで模型とする。その際にどのディテールを残すべきかという取捨選択を迫られる。解像度が低いカメラで撮った写真の細部が低密度に見えるように、模型でも情報量の多寡を「解像度」という。ガンプラはもとになる「実物」がないわけだが、だからこそ却って解像度が議論になりやすい。「1stガンダムの映像ではカメラの解像度が低かったから写ってないけど、実は解像度の高いカメラでザクを撮るとこういうディテールが入ってるんですよ」みたいな
until:2016-01-01 "解像度" ガンプラ OR プラモ OR プラモデル - Twitter検索 / Twitter
「こいつ!装甲の隙間を狙ってんのか!」
このカットちょっと微妙で、グシオンのアニメ稿では前腕には「隙間」がないのだけど、解像度を上げたプラモデルではちょうどここにパネルラインがある。なので「開眼して継ぎ目のないところまで斬れるようになった」のか
ガルパンを何回も観に行く人は、1回映画我慢してタミヤの戦車プラモ組んで(色塗りは無しでもいい)、それからまた映画館に行ってみるのオススメ。戦車の解像度が上がって見えると思う。
ガンプラEXPOに展示されてた作品は毎度凄いなぁと思う一方でこのくらいサイズを大きくして情報量増やして解像度あげないとコンテスト的にはダメなんだなぁと少し肩を落とす そんな中ですーぱーギャン子は異彩放ってたw
「エッジを出して!」「ディティールの密度を上げて!」と解像度高くする方向のガンプラ制作が主流のように思えるけど、少しだらしなくも見えるMIAの作風も実は嫌いじゃないです。
戦闘機なんかのスケール物も作ってたけど、ガンプラを筆頭とした架空兵器の方が設定や自分なりの解釈をいかに落とし込むか、20m弱あるものとしていかに解像度を上げるかって作業が楽しいんだよね
ガンプラとかのデカールとかもむやみやたらに貼るよりキットの「解像度」をイメージするようになったなあ。1/144スケールならおそらくクレーンで作業する人が読むであろうコーションに限定して貼るようにしてる。所属章は宇宙で母艦から見るサイズの奴、とか。
ウチのレオパルド、ちまちまと解像度上げる作業をしております。
プラモデル臭さを無くすのを念頭に、形状変更やディテールの追加ってところですかね(⌒‐⌒)
悩みながらなのでなかなか進まない(^-^;
希望したK0の1/12化はコレジャナイ…プラモ好きからしたら残念解像度。でもこれ手にして物足らない人がバイクプラモに触れるきっかけになればいいな。 → 1/12完成品バイクシリーズ「Honda CB750FOUR」発売
解像度が凄いです!
せっかくここまで来たので
と質問をしてきました
「センス」
「技術」
「オラザク」
「読者投稿」
がキーワードでした
ほんと年々プラモデルキットの解像度が上がって、さくっと作るのが難しくなってきてしまっている。輸入キット作ったあと、タミヤのキット組むとこんなパーツ少なくて大丈夫?!って思うけど、精密感はそんなに変わらない不思議。
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追記:ガンダム・センチネル別冊をザッと読み返したみたけど「情報量」「正解」という言及の仕方にとどまっていた
腕です。上腕のコブに有る平面は、スラスター(?)の様な解釈になりました。露骨にノズルを追加するのでは無く、普段は閉じていて、遠目には平面にも見えるのかな?なんてカンジでしょうか。設定画を否定する程にはイジらない、奥ゆかしさが良いですね。(解像度を上げるってヤツですか?)
具体的な情報をできるかぎり少なくして、そのかわりに鉄道模型、庭園鉄道の楽しさを抽出しよう、という気持ちがそもそもありました。模型や工作を続ける動機がそこにあると思いますし、また、そういった形のないものは、専門誌などの技術的資料には表れないものだからです。『ミニチュア庭園鉄道』の本を作るときにも、写真を小さくして、そういった具体的な情報の解像度を落としました。本HPでも、このポリシィが基本にあります。
昨年で発売25周年を迎えたが最近、「ガンプラ」に対する市場ニーズが明らかに変化してきていると川口さんは語る。
「昔はTVのブラウン管を通して見た“解像度の低い”ガンダムをガンプラで、いかに精密に表現できるかというのがガンプラの楽しみ方のメインストリームでしたが、最近は『キャラクターグッズの1アイテム』としてガンプラを購入される方が確実に増えてきています。
Amazon Prime Videoのおすすめが定期的に話題になるが、見ようと思ったらプライム対象外になってた…ってことが割とある。ならAmazonオリジナルなら消えないのでは?と思いオリジナル作品からいくつか感想など書いてみた。そんなに見てないので大したリストにならなかった。アマプラ入ってる人は大抵見てるだろう。今から入るって人にはちょっと参考になる…か?
どれ見たか思い出すためにWikipediaの「Amazonが配信するオリジナル番組のリスト」を見てわかったが、Amazonオリジナルと表記されていても「買い取り」作品の場合は配信が終了することかある。現に評判の良かった「Mr.ロボット」はアマゾンでの配信は終了してしまっている。「リーガルバディーズ フランクリン&バッシュ」も一度配信終了リストに載った(現在配信中)。
アメドラ見てる人ならどこかで見たことがある、色んなドラマに(主に)悪役ゲストで出てるタイタス・ウェリバーが主演の刑事もの。顔つきからダーティコップものかな?と思わせて割と真っ当な刑事っぷり。人気が出てS7まで製作され、現在スピンオフの「ボッシュ: 受け継がれるもの」S1配信中。
個人的にはS1はいまいちだがS2からはめちゃくちゃ面白かった。脇のデカ箱+ビア樽コンビが最高。
ちなみにスピンオフは「買い取り」作品なのでいつか見られなくなるかもしれない。
syfyチャンネルでS3まで製作され打ち切られたがベゾスが大ファンだったためにAmazonで拾われたハードSFドラマ。
S1序盤は地味だがどんどん盛り上がっていく。S4からはまた地味になるが。宇宙船や戦闘の描写がいいんですよ。ちゃんと宇宙船に穴が空くし。
サイコサスペンス…サイコスリラーかな?S1はジュリア・ロバーツ主演、S2で完結。一回30分なので見やすい。S1では過去のアメリカの復員兵の復帰支援施設での出来事と、そこで働いていたケースワーカーのハイディの現在が交互に描かれる。とにかくS1の不穏な空気感が良い。演出が素晴らしい。Wikipediaにはズバッとネタバレが書かれているのでネタバレ嫌い組は見てはいけません。
話題になったので知っている人も多いであろう、ブラックな笑いのヒーロー物。かなりグロ。エロもある。話は面白い。ホームランダーが取り繕っていたものがどんどん剥がれていく。
ニューヨークのオーケストラにいたオーボエ奏者による回顧録を原案とし、南米から来た天才指揮者ロドリゴ(デュダメルがモデル)と新人オーボエ奏者ヘイリーをメインにオーケストラをめぐる人間模様や楽団の現実問題等を描く。
自分の中のイマジナリーモーツァルトに話しかけてるロドリゴ、楽団に入りたいヘイリー、ヘイリーのルームメイトのリジー、予算確保に走り回る総裁グロリア、ちょいちょい口を出したがる名誉指揮者トーマスなど脇の人々もみんなチャーミングで良い。S3のシベリウス5番のシーンが美しい。
S4は日本が舞台になるが、変なロボと変なクラオタが出てくる。あんなチンピラみたいなクラオタおらんやろ…面白いからいいが。
画集からインスパイアされたというSFドラマだけど、装置や研究の謎は特に明かされたりしないのでSFっぽい雰囲気のドラマ、って感じ。北欧の田舎の薄暗い空気と佇むなぞのロボ、って絵はたっぷり味わえる。そういうの好きな人におすすめ。
最近公開されたクリス・プラット主演のお父さん復讐もの。クリス・プラット、今回はシリアス演技。アクションは金かかってて見ごたえはある。
これ書いてる今現在3話まで見た。配役の人種がどーたらこーたらと色々物議醸してて、検索してもストーリーの感想までなかなかたどり着かん。個人的には人種は気にならないけど、ヌメノールでのガラドリエルが若者ムーブ過ぎてちょっと気になる。ガラドリエルでも若い頃はあんなもんなんだろうか。
新聞の読者投稿欄の恋愛物語を一話完結でドラマ化。S1はいい感じにオチもある物語が多くてほっこりします。
死後に脳内の記憶をバーチャル空間にアップロードして金がある限り永遠に生きられる世界のコメディ。金が無い人はアップロードしても容量の問題で一日に数分しか活動できなかったりという世知辛さ。主人公がアップロードされた経緯に不審な点があり…とサスペンス展開に。
イーガンで似たような設定あったなと思い出す。
オカルト事件を解决していくコメディ。面白かったけどS1で終わってしまった。
ハルマゲドンを阻止しようとする天使と悪魔、人間のオカルトコメディ。悪魔たちは悪魔の子を人間の子とすり替えるが、うっかり間違ってすっかりいい子に育ってしまうのであった。地獄の番犬もかわいいわんこに。
その他、マーベラス・ミセス・メイゼル、スニーキー・ピート、子供向けだとまほうのレシピ、ゴーティマー・ギボンが評判いいみたいです。そのうち見る。
元英軍兵士で今はホテルのナイト・マネジャーであるパインがかつて殺された恋人の復讐をすべく、武器商人ローパーの組織に潜入。ドキドキスパイもの。
トム・ヒドルストンとエリザベス・デビッキが美しい。ちなみにタイトルはナイトマネジャーだけどマネジャーやってるの序盤だけだった。
スター・トレックの続編ドラマ。親友データを失い、失意のうちに実家のぶどう畑でワインを作っていたピカードのもとに一人の女性が助けを求めて現れる。
スター・トレック全然見てないんだけど、冒頭の掴みが好みすぎて見てしまった。面白かった。
本国アメリカではパラマウントの配信サービスにて配信中なので、最終シーズンはアマゾンでの配信がないかもしれない。悲しい。
二人の破天荒弁護士のドタバタコメディ。よくありがちな深刻な展開がなく気楽に見られる。嫌味な同僚や弁護士の父親との確執もあるにはあるが、全員アホなので全然深刻にはならない。「シリコンバレー」のディネシュ役の人が広場恐怖症の弁護士役で出てくるが、ほぼディネシュ。
あとグッドオーメンズと原作者一緒ということでアメリカン・ゴッズはS1だけ見た。かなり暗かった。
ハンズオブゴッドは1話でやめてしまった。つまらんとか面白いとか言えるほど見てないが、単に1話目の殺人シーンとかが辛くて。
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという自己肯定を重視した精神的な言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役と教師役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張したことに対し、「議論や説得において言い方ってのは大事だろ」と反論されているのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と同一人物だったり肩入れしすぎたりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分が世界中で力を持ち、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性が十分な時だけ応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
『かがみよかがみ』は読者投稿エッセイをメインコンテンツとするWebサイトだ。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、そこから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
あるいは、皆思っているけど言わないだけなのか。
一言で言うと、ノクターンノベルズのような読者投稿型小説サイトのランキングをハックする手法。去年から氏には注目していたが、ここまで見事にハック出来るとは思っていなかった。伍式氏の創作自体は好みでないが、この手法については正直お見事だ。
まず前提として、ノクターンノベルズのポイント制には幾つか仕組みがある。
・このポイントが、日次ランキング、週次ランキング、月次ランキングでそれぞれ集計される
・ユーザー自体をお気に入りに入れる機能があって、お気に入りに入った作者の作品は投稿され次第新着情報に入る
これだけ覚えておいてくれればいい。
なろうやノクターンのような投稿型小説サイトでは、とにかく日次ランキングが全てだ。日次ランキングで5位以内に入ると、いわゆる「表紙入り」という状態になって、サイトのトップページからその作品に直接飛ぶことが出来る。このランキングに入ると入らないでは、ポイントの伸びがまるで違う。最初の日次ランキングに入れるかどうか、投稿してから24時間が勝負と言ってよい。
伍式氏の作品投稿日時を見てみると、殆どの作品が19時前後、それもかなり多くの作品が19:01に投稿されているのが分かると思う。これは何故かというと、エロ小説がもっとも読まれる時間帯が19時以降の夜間であり、またランキングが更新されるのが18時から19時くらいだからだ。つまり、19時に投稿すると、それ以降24時間のポイントがまるまる翌日夜の日次ランキングの原資になる。かつ、19時ちょうどにタイマー投稿するよりも検索に長く残りやすい。
まあ、これだけなら大したことじゃない。多くの人がやっていることだ。
ただ、一方伍式氏は「お気に入りユーザー」という機能を最大限利用している。
伍式氏は、他の作者の作品に、非常に頻繁に感想・レビューを書いている。それも「面白かったです」というような一言ではなく、かなり詳細にその作品を読み込んで、ピンポイントに作者が喜びそうな感想をだ。感想というのは創作者にとって麻薬のようなものだ。当然、感想を書かれた作者は伍式氏に好感を持つ。つまり、「お返し」として伍式氏の作品にブックマークや評価を入れやすくなる。
上手いのは、伍式氏自身もかなり多くのお気に入りユーザー登録をしていることだ。この結果、伍式氏自身も「お返し」でお気に入りユーザー登録されやすくなる。
更に、氏は一つの短編を連載化せず、何度も続編を繰り返し投稿することによって自作のランキングへの露出を増やし、お気に入り登録を荒稼ぎしている。(基本的に、連載の続きが乗るよりも新作が乗った方がランキングには露出しやすい)その過程でランキングも荒らしまくっているが。
伍式氏は、以前Twitterでお気に入りユーザー数について言及していた。どういう心境の変化か、今はその推移を書いていないが、2020/11/11時点で1000人という数字は確認出来る。この数字自体かなりとんでもない数字なのだが、それから既に1年経っている。現在2000件を超えていることは間違いない。
で、上記の日次ランキングについてだが、基本的に「1000ポイントを越えれば表紙には入る」のだ。つまり、ブックマークで言うと500件、評価で言うと10ポイントならたった100件で表紙入り出来る。ここまでお気に入りユーザーを稼いでいれば、単に脊髄反射で評価・ブクマをした人だけでも1000ポイントなど軽いだろう。
結果どうなったかというと、現在短編ランキングは氏の独壇場、年間ランキングでも1位から3位独占、短編だけで数万ポイントを稼いでいる作品もある。これだけ露出が増えていれば商業化も近いだろう。
作品の質に関係なくこういうハックが通じてしまう、ということに懸念を感じるが、それにしてもここまで徹底するとこうも簡単にランキングを崩壊させられるんだな、ということは感じる。恐ろしい話だ。作品の質だけで勝負している作者が哀れだとも思う。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1042354075
薔薇とは「男同士の愛の場所は薔薇の木の下だった」 というギリシア神話が元になっています。百合とは語源は男性同性愛者向けの雑誌『薔薇族』の読者投稿コーナー「百合族の部屋」で、1970年代に同雑誌を通じて男性同性愛者を指す薔薇族の対義語として百合族という言葉を薔薇族編集長の伊藤文學が提唱したことによると言われています。
らしいです。
俺は若者なので処女作出されるときの当時の状況とか知らないけど、少なくともよく見る彼の絵は、絵の訓練とかしたこもない素人と同等の品質しかないように見える。あれでは化粧品会社や生協のカタログや広報の読者投稿の方がまだ上手い絵を見出せる。
どうして素人と同等の絵で編集者がついたりデビューできたりしたのだろう。もし単純にそういうことなら誰でも出版社に持ち寄れば漫画家になれることになってしまう。
ストーリーが面白いからという説もあるそうだが、少なくとも今日バイキングでやってた蛭子さんの認知症の特集で使われていたパネルに描かれていた、榎下なんとかと作者名が脇にあったイラストの方が基礎がちゃんとしてた感じだ。これにしても単なるイラストだからそういう人のストーリー構成力は計れないけども。素人がツイッターで投稿する漫画を見る時はストーリーとかは評価点に入れてなかったから今度から蛭子との比較を念頭においてストーリーも見てみるか。
ついでに私も~
あのさ、
もう気が付いたら夏って感じじゃない?
気が付かないと夏が気が付かないまま終わってしまいそうよ。
で、
夏と言えば、
地上すれすれでブロック塀なんかにつかまって羽化したセミの抜け殻なんか見つけちゃうと、
おまえ!もう我慢できんかったんかー!って
なにかしらの同情をしてしまいそうなほど、
漏れそうな勢いでもうダメだ!ってセミの心情だったのかしら?と察すると
セミ頑張ったね!って
セミの抜け殻は触れるけど、
セミ本体とセミファイナルの狭間にいるセミリタイアの本体には触ることができないのよね。
こればっかりは。
怖くて。
でもその時の
羽化の直前と終わったあとの気持ちを一度聞いてみたいものだわ。
よく目の表情が分からない生き物って、
うまくコミュニケーション取りにくいというか、
いったい何考えているのかしら?とか
まあ月刊は無理にしても7年に一度刊行するセミ雑誌ってのがあったら
たぶん七年分のセミの気持ちを1冊に綴ることは出来るかも知れないわね。
ほとんどがセミの俳句コーナーばかりが盛り上がるだけだろうけど。
ところによってはセミ料理ってセミ食べちゃうところもあるんでしょ?
そうするとまあ巻頭カラー2ページの16ページぐらいのボリュームにはなりそうなものよ。
だって7年に1度の発刊なんだもん!
って言ってる私はそんなにセミカワイイなって思ってるワケでもないしセミ好きってワケじゃないんだけど、
あーだこーだ言ってる世界があると思うので、
まあセミ出なくっちゃ夏らしくないわね!って
話しよ。
うふふ。
今日は忙しいみたいなので、
お昼行けるかどうか出れるのか問題!
おにぎりをまた鞄に忍ばせてあるので、
体力が減っても満腹度でカバーよ!
朝飲んでも夜飲んでも
いつ飲んでもいいらしいわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
マイナーな話題だから反応って言うかブクマもトラバも無いと思うけど(って予防線張ったけどめっちゃあったわ。ありがとね)
ドラゴンクエストの漫画作品って色々とあるじゃないっすか。俺、基本、(電子書籍中心に)全部買ってまして。
スライムもりもり
スライムドーン
ゆうべはお楽しみでしたね
で、全部買って読んだ結果一番おもしろい漫画が何かと考えた結果
まず、敵が超頭いいのよ。敵には「復讐の月(イシュ・ヤンカル)」という大魔術だか魔導兵器だかの発動という勝利条件があって
その勝利条件を人類(アストルティアの5種族)達に知られないように達成しようとしている。
その魔族側が持つ余裕の範囲内で、研究をしたり復讐に動いたり。敵として考えられる範囲内で理性的に行動を起こしていて
一枚岩ではない魔族側をうまい事まとめている国家の長としての魔公王イシュマリクが超かっこいい
魅力的な物語は超魅力的な敵あってのものだと思うので、敵が作中で最高に魅力的なキャラクターというのがまず最高。
それを倒すべく立ち向かっている我らが主人公のソウラもすごいキャラクターで
最初はチートとも言えるエクステンションライン(ドラゴンの紋章)頼りのキャラクターだったけど
自分がライン以前から持っていた剣術への理解を深める事で新たな境地へたどり着いたり
ネームドキャラクターみんながやりたい事や目指している事が違っていて、それぞれが「作者に動かされている」のではなく
「生きている」って感じのキャラクターなのが素晴らしい
あと、ドラクエ10の世界なので、今行われている海底魔城攻城戦は100名の読者投稿キャラクターが活躍しているんだけど
流石にドラクエ10の勇者ほどのパワーは無いという描写は守りつつ、メドローアのような呪文や
魔術を極めた者によるハッキングだったり、旅の扉の建造による補給路作成作戦だったり
全編にドラクエ11~10にいたる全てのドラクエの要素が網羅的に使われていて
他のドラクエ漫画はだいたいが「主人公達が作品世界内で最強」なんだけど、ソウラは全然そんな事なくて主人公達の実力はその世界の中でも低い所からスタートしていて、主人公よりも強い冒険者が山程いるっていう層の厚さも個人的に好き。
ドラゴンクエストという超有名ブランドでもスピンオフとなると追う人はあんまりいないんだなぁって思った。
ドラクエ10で遊んでたらスマホアプリ経由でタダで全話読めるからドラクエ10遊んでる人はだいたい読んでいるんだが・・・。
この作品は面白すぎるのでドラクエ10を遊んでない人にもおすすめできてしまう。
と言うかVジャンプ、今、全ての漫画雑誌の中で一番おもしろいまであると思う。
ダイの大冒険の前日譚も連載中だしな。
【追記】
「タダで読めない」については1日10ジェムもらえるからコツコツ溜めれば年間3650ジェムになるログボで買ってるって人が多いのよ。(そのおかげで紙の売上そんなに無いのに8年以上連載続けられてる。スクエニ様様)
この漫画の何がいいって「バイシオン」「スカラ」「ズッシード」なんかの補助呪文が効果的に使われてる事だったり
キラキラポーンやHPリンクやビッグバンやギガスラッシュのような特技がカッコよく使われてる事だったり
他のドラクエ作品よりもドラクエ要素を当たり前のように作品に取り込んでるのが好き
10に出てないモンスターも平然と登場させてたりするのには賛否両論あると思うけど
作中人物がさらっと流しているアレやコレやの中に大好きな世界観の延長線上にあるドラクエが見えてくると思う。
例えばエスコーダ商会の船の名前が「パトリシア級8番艦ミーティア号」なんだけど
船首にミーティア姫が象られていたり、パトリシアって4の馬車馬の名前じゃん!船のサイズの基準になってるんだ!ってなったり
あと、天空物語は電子書籍無いから未履修だわ。電子書籍発売されたら買うね。
他のドラクエ作品も面白いの多いけど、読んでる作品は人それぞれ違うんだから人それぞれの「個人的最高傑作」があっていいと思うのよ
ただ、2つ言うことがあるなら、ダイの大冒険好きには今連載されてる「勇者アバンと獄炎の魔王」は買ってほしいし(作画変わってるけど気にしないで。原作あり漫画の魅力は原作者が8割だと思ってるので)。
ロトの紋章好きは続編のもんつぐまで読んでほしい(完結したばっかり)。
1番好きな作品なら食わず嫌いせずに最後まで付き合うと楽しいよと、ダイ好きとロト紋好きには伝えたい。(最強ジャンプ買ってるからクロスブレイドも読んでるけど、こっちは素直におもんないですね…)
あ、スライム冒険記については、今連載しているスライムドーンでは人間になったヨーゼフ(スターシステム)が出たり、モシャス変化のカメオ出演だけど勇者スラきちが出たり、蒼天のソウラのキャラクターがスライムドーンのレギュラーになってたりするのでかねこ先生好きにはこちらもオススメ。
「ドラゴンクエスト 勇者アベル伝説」ってアニメをこないだabemaTVの一挙放送で全話観たんですよ。
すっげー面白かった。
観る前は評判悪かったんで敬遠してたんだけど、確かに序盤つまらないけど後半面白いって言うか
「ダンジョンを踏破するワクワク感」「新しい街に到着してホッとする感覚」「パワーアップは基本的にアイテムの入手」だったり
何よりも原作BGMが使われている事だったり、身内と実況してツッコミ入れながら楽しんだから面白かったって要素が1番大きくはあったんだけど(1人で観てたら序盤で脱落してたかもしれぬ)
なんにしても自ジャンル作品の食わず嫌いって良くないなって思った。
今はドラクエライバルズエースっていうドラクエのデジタルカードゲームやってるけどすごい面白いので、ドラクエは令和も現役コンテンツだなぁって思う。
『映画秘宝』の元・編集長による恫喝DM事件が発覚した当初、一部の『映画秘宝』関係者が「映画を観て、差別に反対し、社会の不正や権力に立ち向かう姿勢を学んでいたのに云々」といった主旨の言葉を述べていましたが、果たして本当にそうでしょうか?若い読者の中には信じてしまう人たちがいるかも知れないので、元・愛読者の一人だった私が記憶に基づいて(と言うのも手持ちのバックナンバーはほとんど処分したので)、これについて反論のような事をポツリポツリ試みたいと思います。
『映画秘宝』が現在のサイズになって間も無い当時『映画秘宝』は、自民党政権を援護射撃するメディアの一つでした。これは何も『映画秘宝』に限った話ではありません。当時は、例えば『ミュージックマガジン』の故・中村とうようが「自民党を壊してくれるなら小泉純一郎を支持する」と公言していたように、小泉政権を支持する反・権力系メディアやその関係者は珍しくなかったのです。
同じ頃『映画秘宝』は、当時の秋田書店の漫画雑誌『少年チャンピオン』で連載されていた漫画『アクメツ』を誌上で紹介した上で「この漫画は傑作なので『映画秘宝』の読者も読んで応援しよう!」と推薦していました。ご存知ない方の為に解説すると漫画『アクメツ』は、小泉純一郎をモデルとする政治家(※ハンサムに描かれる)が行う改革を応援する為に、主人公である高校生テロリストが改革に反対する勢力の人間たち(※こちらは醜い外見で描かれる)を殺害しまくる(しかも、その殺害の模様を映像で配信する)と云うのが大まかなストーリーです。
それだけではなく『映画秘宝』の読者投稿欄では「映画の中で公務員が死ぬ/殺される場面が出てくると、映画館で拍手喝采します」と云う内容の手紙を掲載したり、映画紹介記事の中に「公務員の奴らは他の仕事に就くことが出来なかった無能たち」という文を態々差し挟む形で書いたりと、当時の小泉改革により巻き起こった公務員バッシングの風潮に『映画秘宝』は全力投球で乗っかっていました。公務員バッシングをしてくれる雑誌メディアの一つとして『映画秘宝』を愛読しているネットウヨク的な人間たちも、当時は少なくなかったのではないでしょうか?少なくとも、読者投稿欄などに「小泉改革に乗っかって浮かれるのは止めた方が良い」という意見が載る事や、ライター内部からの批判記事が書かれたは無かったものと記憶しています。
町山智浩は小林よしのりに対して「ネットウヨクたちを生み出した責任を取れ」と批判したようですが、四人がかりで女性1名を標的にパワハラを行うような町山智浩たちが作っていた『映画秘宝』に対して、私は「貴方たちが過去に行った自民党政治への援護射撃の責任を取れ」と言いたいと思います。
奈良さん・小沢さん・ギンティさん・市川さんたちからの告発を受けた町山智浩ら4名は、近年『反・権力』の姿勢を盛んにアピールしていましたが、私の目から見ると「ナチスの戦犯が過去を隠して戦後を生き延びた姿に似ている」と思います。仮にも『反・権力』を謳うならば、過ちを犯した時には自己批判して、反省する事が肝要でしょう。それが出来ない、他人に厳しく自分たちに甘い町山智浩ら四人は、決して「反・権力」や「不正と戦う」と云う人間たちではないと私は思います。
元『映画秘宝』愛読者だった私。家族に『映画秘宝』を読むことを勧めてしまった私。この私にも『映画秘宝』のモンスターを育てた責任は有ると思う。だから、元・読者の一人として、恫喝DM事件の被害者に謝罪します。こんな人たちを批判するべき時の過去の時点で批判する事を怠り、彼らを増長させて育ててしまい、その結果として貴方を傷つける事態を招き、本当に申し訳ありませんでした。
今なお町山智浩ら四人に心酔しきっている状態の私の家族の洗脳をたとえ解けなくても、他の誰かの目を覚ます事はできるかも知れない。そのような一縷の望みを託して、読者だった当時の記憶を記しました。見出しに(1)と付けたので、気力が湧けばまた何か書こうと思います。悪文によるお目汚し、失礼致しました。
BL小説を二本書いたので、複数の小説投稿サイトに投稿してみた。使ったのは、ムーンライトノベルズ、エブリスタ、fujyossy、アルファポリス、Pixiv。
なお私が書いた小説は一本はどエロ、もう一本は微エロであり、前者は規約違反になりそうなエブリスタには投稿しなかった。
どこのサイトでも今はファンタジーと異世界転生ものばかりが強く、その他のジャンルは読まれにくい。しかし、学園もの、社会人ものなどの日常系のものでも「オメガバース」にすればそれだけでめっちゃ読まれるようになる。
二次創作や商業BLでよく「地雷」と呼ばれるジャンルはオリジナルBLでも嫌われ易いので、できるだけ避けたほうが無難かも。
カクヨムはエロ禁止なのと人気ジャンル(ファンタジー系)の圧倒的強さが私の作風には全然向いていないので、使用しなかった。
noteは連載・連作には向かないのと、noter同士の喧嘩揉め事が結構激しいので、創作以外のことで疲れたくない私は嫌だなと思って使わない。あと、腐は隠れろ!って言われそうだし。
ブックといいつつ、2回目は雑誌を紹介する。
いまでこそあまたあるエロマンガ雑誌が、いわゆる「(美少女)ロリコン系雑誌」と呼ばれていた頃の(レモンピープル、ホットミルクなどに対する)後発誌のひとつ。
高校に進学し、電車通学で行動範囲が広がり、より大きな書店に出入りできるようになって、少ない小遣いから何を買おうか悩んでいる頃に、創刊号に出会い、表紙(いがらしゆう)の可愛らしさに一目惚れして、即定期購入することに。
(これは一読者としての贔屓目にすぎないが)必ずしもエロにこだわらないマンガを積極的に掲載したり、裏表紙の広告面に「意見広告」的なものをちょくちょく入れ込んでくるなど、後に快楽天や、comic LOが打ち出す独自路線を先取りしたような紙面であったように思う(もちろんそれは、後発雑誌ゆえ差別化をはかる必要があったからでもあるのだが)。
詳しくはwikipediaの該当項目を見てくれ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF
とにかく自分にとってのさまざまな「性癖」の入り口になった記念碑的雑誌のひとつ(あとの二つは快楽天とGirls forM・・・と書いた時点でいろいろとお察し)。
イラストよりも文章スペースの方がメインの構成で、絵の描けない自分は毎月せっせと漫画の感想や高校生活の愚痴を書き連ねて投稿し続けた(掲載のお礼に当時松文館で出していた単行本がランダムでプレゼントされるというのも大きなモチベーションであったが)。
編集長は「マンガー・シラン船長」と名乗り、読者は「海豚」と名付けられた。そうした読者のコミュニティからは、後に読者の集いが開かれるまでになった(残念ながらこの集いは、同時期に起きた「事件」によって、こうした雑誌や趣味嗜好に対する攻撃や偏見が社会的に大きくなる中で、中断を余儀なくされてしまったのであるが)。
私も、ついには読者投稿欄で知り合った人と文通をするまでになり、浪人時代には手紙で、また大学進学後は互いに大学を訪れたり、電話をするなどして交流は続いた(それぞれの大学生活が軌道に乗り、進路が分かれていく中で交流は途切れてしまったが)。その彼と、大学在学中、松文館の編集部をウイスキーを土産に訪問し、「船長」と職場で酔い潰れるまで飲み明かしたのは、いい思い出(・・・か?)。