はてなキーワード: 箪笥とは
俺44歳(在宅フルタイム)
俺の実家(親と同居ではない)に引っ越したのを機に、俺はテレワークができる職場に転職し、パートナーは仕事を辞めた。
俺の年収は650万とこの年齢にしては安いし、パートナーはある程度働かないといけないので扶養家族の範囲内で働いてもらうことにした。
元々パートナーはメシマズ(いいかげんなのでレシピ通りにやらない)だし、家事もいい加減だし、ズボラというよりもやる気がなく
洗濯については、洗濯機を回して干して、乾いたものを適当に畳んで箪笥に入れることはできる。ただ、適当に畳むのでシワになる。
部屋掃除は、掃除機をかけているところを見たことがない。クイックルワイパーで掃除はしているが、ソファーやカーペットの上は何もしていない。
当然、棚の上を掃除するなんてことはしない。掃除=(見えている)床だけをクイックルワイパーで拭けばいいと思っている。
そのため、毎朝仕事が始まる前に俺がやっている。
トイレ掃除は嫌いなので「やってくれ」と言わない限り絶対にやらない。毎日やるものじゃない、と言うが毎日どころかやってすらいない。
風呂掃除も当然嫌いだ。「やってくれ」と言わない限り絶対にやらないが、排水溝に溜まった毛は取らないし排水溝を掃除はしない。
洗面所も同様だ。
しょうがないのでパートナーが仕事に行っている間に俺がやっている。
料理も当然しない。片付けもしない。たまに洗い物をするとしても自分の使った食器だけ洗って俺の分や料理で使った鍋や食器は絶対に洗わない。
食後に俺が食器を洗っていると、洗った食器をふきんで拭いて仕舞うくらいはする。
もちろん、シンクに溜まった生ゴミを触るなんてことはできない。したがってシンクを洗うこともしない。
放置すると勝手に定価の宅配ピザを頼んだり外食をする(俺の口座から引き落とされるクレカで支払い)ので、仕方ないので昼休みになるとすぐに料理を開始して皿を並べて提供し、食べ終わるとすぐに洗って片付ける。
もちろん、仕事が終わるとすぐに買い物に出掛けて帰ってきて料理するのも俺の役目だ。
一日が終わるとシンクの生ごみを片付け、シンクを洗い、水気を切って、お風呂に湯をいれて風呂に入って、お風呂に入ったあとに軽く掃除をして、布団を敷いて寝る。
疲れる。
俺は運転ができないので、パートナーが運転しないといけないというので運転だけはパートナーに頼っている。
それはとても助かっているが、俺が起きて仕事をはじめる10時に起きて、ネットゲームをやったりVtuberの動画を見たりして何もしていないパートナーを見るとイライラする。
昼休憩になり、昼飯を作っていてもゲームとYoutubeをやめず手伝いもしないので「なんでおれがメシを作らないといけないんだ!!」とイライラして言ったら、「そんなん(昼メシを作らないくらい)でイライラされても困る」と言われた。
親が無理
生理的になのか何なのかとにかく会ったり会わなくても存在を感じると吐きそうになったり叫び出しそうになったりする
児相行くとか接近禁止命令ができるような虐待は少なくとも受けていないのに
住所も教えず離れて暮らしているので普段はあまり問題ないのだが引っ越しを考えたときにとても困る
だれかの家に転がり込むような形でしか部屋を借りられず独立ができなくて苦しい
身寄りのない相手に部屋を貸したくない事情も察するが親が鬼籍のひとも困るだろうしなんとかならないのか
住所を教えないのは昔やむなく緊急連絡先を頼んだところ勝手に押し入られたり家の前で騒がれたりしたため
「さらに、MMT支持者の主張にもかかわらず、巨額の紙幣を印刷するとインフレが起こる。」
はっきり理由がいえないのにどうしてこういいきれるんだろう?
なぜかどうしても理解できないというのなら、こうかんがえてみたらわかりやすいだろう。
国内に出回っているはずの印刷した紙幣や国債の一部は、国の借金にはならない。いつのまにか消えてしまう。
たとえばそれは津波災害で家ごと流された箪笥貯金(金庫でもどこでもいい)でもあろう。
あるいはお金持ちが「どうだ、あかるくなつたろう」などといいながら紙幣に火をつけてもやしている。
あるいは脱税のため地面にうめられたまま忘れ去られてしまう。(たまにゴミ捨て場から拾得物として発見される)
金を持っているのに人に頼れなくなった孤独死老人の遺産も国にどんどん帰って来る。(独身増田たちもちゃんと人や国に頼れって口酸っぱくいってるのにな)
amazonの儲けとして海外に輸出され日本国内で出回らなくなった札束と考えてもいい。
便所におとしてクソにまみれた紙幣、海に流された財布、火事で燃えた金庫…。だれももうその金を使わない。
あるいは、配られても使用されないで期限が切れる子育てクーポンやワクチン券なども姿をかえた臨時紙幣だ。
これらはすべて「税収」としてカウントされているわけでもないのに日本政府の債務や支出を実質的に消しつづけている。
だれも「帳消し」にしないだけ。
(余談だが万が一、帳消しになどして「うちの省庁では今年わりあてられた予算を消化できませんでした」となったら翌年から予算がつかなくなるんだからね。
お小遣いはみせかけだけでも全部使っておくことが大事なんだ。そうそう、文科省も総務省も予算どりが下手なんだよね)
ご存じのとおり日銀砲とは紙幣に準ずる国債を仮想的に大量に印刷する行為なのだ。
日本は円高を監視しつづけ、すこしでも円高がすすもうものなら日銀砲を即時うちつづける粘着行為をしてすら、
国内では実際に「デフレ」、あるいは「インフレの過度な抑制」がずっとつづいていた。
この度のインフレは日銀砲をやめてからおこっている。産業空洞化による円安が原因だ。
なので日銀は今度は放出した紙幣を回収する方向で介入した。これが逆日銀砲とよばれるほど長続きするかはわからない。
これからどうしたらいいか。MMTかそうじゃないかなんて定義する必要はない。
安くなった円などいくらでもくばって、生き延びさせて、女性や環境にやさしい国をつくらねばならない。
「国内企業からみれば無駄な」科学技術も発展させなければいけない。
そうして国際競争力をつけなければ、「冷却水放出国のぶどう」「冷却水放出国のほたて」などのように悪口をいわれて安値でもつっかえされてしまう。
日本はこの20年ほどで首相暗殺(未遂もふくめれば2回)や原子炉関係などイメージが悪化している。
(まあ小渕首相の過労死でそんなにおちなかったのが逆に不思議だけど。)
「性を食い物にするアニメ・漫画が流行っているのに実際の犯罪は隠ぺいしすぎていて安全コストが実は非常に高かったのがバレた」
「マイナカードやスマホが全員はつかいこなせず、デジタル納税・デジタル投票・デジタルワクチン証明できない」という社会インフラの古さもかなり痛い。
まあインボイスも地方振興券なみに簡単につかえる申請アプリを先につくっておけばなんとかなったかもしれないのに
ズルズル「やっぱやめようかな~」などととなえる弱腰クソ政府だからね。
輸出企業だのインバウンド目当ての接客業が景気を盛り返しかけているみたいだからそっちの方向でとりあえず稼ぐのもいいかもね。
いつかキューバのように60年前の車を大事に修理してつかう国になってしまう。
キューバは幸せな社会主義国家ではあろうが、先進国とはもはやいえない。
あるいは、ロシアだ。1億人の国民、豊富な地下資源。でも産業は農業石油の一次産業以外は空洞化したままだ。
貿易港が冬にとざされるから一次産業の産品でさえ輸出できない。
ロシアとウクライナの姿は、人口だけでいえば日本と韓国によくにているよ。
将来ああならないように気を付けなければいけないよ。
父が死んだ。葬式もした。
喪主ではないし長々としゃべっても飽きられるだけだからここで自分の整理がてら、書いておこう。
父という人間のことはなんといって表現していいかいまだによくわからない。というのは母が強烈すぎるからである。
父は1940年代生まれの日本人男性である。出身地は西の方の川沿いの豊かとはいえない田舎町である。
6番目の息子である。工業高校に通うために下宿がてら養子に出されるまでは、兄の一人に小遣いや親の愛を搾取されていた。
(おそらくそのせいで自分へのいじめにはとてもドライである。いじめが嫌いだし、「ズルイ」という言葉も苦手である。)
工業高校卒業後は、工場のあった景気のいい化学系メーカーに就職した。読書が好きで(速読で)すこし本で勉強すればペーパーテストはたいてい受かる。
職場ではじまった国内留学のような制度の初年度生にえらばれて会社のカネで大学の化学科に進学した。
学費の足りない分や生活費は賭けマージャンで補っていたという。のんびり無口なくせにダマテンかメンタンピンか即降りの雀風である。
趣味は登山で、安くて黒いカメラも一応持っていた。(父が人生でもっともイケイケだった時代かもしれない)
そこで一学年年上にあたる女性と出会った(大学では同学年)。九州で育って浪人して偏差値で選んで入った教育学部にいた女性は、はきはきとしゃべり美人で笑顔が気さくだった。
怒るとまくしたてて手が付けられないが、おこっていなくても気を許した人間の前では延々とラジオのようにしゃべっている。
話すうちに多少の脚色も入って来る。それを父はわかっているのだがいちいち訂正しない程度にはおおらかな父と女性は気が合ったようだ。
1960年代?の大学には学生闘争が(東京でとくに盛んに)あった。田舎の大学にも多少の余波はあったが、両方とも危うきに近寄らずで敬遠していた。
父は卒業後化学企業にもどり、女性は数か月だけ「印刷会社の腰かけ事務職」をして寿退社。初任給で洋裁用ハサミと広辞苑を買ったという。
二人は親へ挨拶をすませ神前式で結婚式をあげた。新婚旅行(国内)ではパンタロンにネッカチーフなど流行の服をきたイケメンの父が観光名所の立て札の前でまぶしそうに笑っている。
1970年代。m市の社宅に二人暮らしで妊娠。里帰り出産でまるまるとふとった増田を生んだ。ぴかぴかの母の笑顔は(そのころまだモノクロ写真しかなかったので)モノクロームである。(追記:よく考えてると写真現像紙の質が悪くて色褪せてただけで新婚旅行も出産も一応カラーだ)
夏だが一般家庭にはクーラーがないころだ。産院にはあったそうだが、おくるみでぎっちりくるんだ写真をみるに母には赤ん坊を薄着にするという考えがなかったようだ。
(なお増田は今も超絶汗かきである。失うはずの汗腺が全部残っている)
二人目もm市在住で西に里帰り出産した。このときは増田も母実家に連れていかれた。
このころ叔父が浪人してから医大に入って実家から通っていた。叔父はマンドリン部に入ったといって増田になにかを弾き語りしてくれた。あと本好きの増田に学研の漫画の植物百科を買ってくれた。
三人目を生む前に父は関東のk市に転勤になった。おそらくこのへんで、父は化学から離れたようだ。(父、転身)
というのは、データベースで父の名を探したことがあるのである。染料の特許か論文かに1-2件だけ名前があってぷつりと途切れた。
というわけでk市で三人目が生まれた。そうして5人乗り自家用車を買っていろんなところにつれていってもらった(なおそのころベビーシートはない)。
だが車内で父はタバコを吸った。車内はひどい匂いでひどく揺れ、子供たちはぐったりしていたし従兄弟などはゲロを吐いたこともある。あまりいい思い出はない。
(母は父に「ニヒルなくせに私にだけやさしい大人の男性」というイメージを抱いていた。一時期はタバコも容認~勧めたことがあったようだ。実際は父のほうが年下で気弱ですらある)
そうしているうちに二人目がアレルギーという未知の病気にかかって(そう、1980年代にはアレルギーによる気管支喘息すら新規だった。父も母も本を買いあさった)、
そのころの(無鉛ガソリンとも限らない)車の排気ガスがアレルギーのもとだ、という説にすっかり怯えてしまい、「もっと田舎っぽい場所に家を買いましょう」となった。
とはいえ社宅だって、そこそこ郊外で、隣は竹の子がとれる竹林だったのだが。
まあ、3人の子育ての忙しさの中で狭い金魚鉢みたいな社宅でのハイソ自慢、愛され自慢だの、昇進自慢に母が飽き飽きしたんだろう。
そこで知ったのだが父はいつのまにか一級建築士になっていたそうだ。意気揚々と自宅を設計し現場監督がてら家族をつれてわくわくとみせにいった。
(このへんで、のこり全部の西にいる親類から「東京の叔父さん」と呼ばれはじめる。後日つくば万博やディズニーランド、成田への前泊などで宿をお貸ししたこともあるようだ。)
お礼にとめてくれる親戚をたどってお盆に西をめぐったこともあったがそう回数は多くない。いつも核家族の5人が一緒であった。
そのあと増田はなんとか就職して、ひきとめたがる母親と喧嘩しながら「自分の金で」一人暮らしをはじめ、あまつさえ恋人ができたというと、
母が「空の巣症候群」というやつでいろいろとヒステリックになりはじめた。
子供が「いやもう自分は大人だから口出しをするな、するなら人生の最後まで口出しする覚悟をしろ。恋人よりよい伴侶候補がいるならいますぐつれてこい」とブチ切れてやると、
父親に「ウエーンくやしい!」と子供のようになきついていた母を思い出す。
その後も「恋人を家につれてこい紹介しろ」というからそのとおりにしたところ「こんにちははじめまして」の二言目に「うちの教育方針は!」とはじめたのでみんなでドードーしたのをおぼえている。
子供を教育することが母の生きる目標だった。母には並列処理はできないのである。教育となったら教育だけをするのだ。
「もういいから子供にかかわらず好きなことをしな」というと……。
しばらくしてようやく、母は広い庭をいじりたいから、もう一軒家を建てて引っ越すといいだしたのだ。
庭で草花をそだてていれば嫌なことはすべてわすれられるという。
父は母のことを浪費家だと数度指摘した由来はこの辺にもあるとおもう。
(ほかにもファッションや作り付け家具など、彼女なりの「上質な暮らし」イメージを達成するために骨身をおしまなかった母だ。
今で言う「お値段以上」なのだろう、「モノはいいモノだから3人の子供に使うのならこの値段は惜しくない」という言葉を母から何度も聞いた。
学校の縄跳びなんか子供向けのすぐ切れるプラスチックじゃなくてボクサーが訓練に使うようなものをもたされ重かった。)
母にしてみれば教育費を払いきれたのは自分の塾のおかげもあり、父はケチだというのである。どちらが正しいかは…。
ところがしばらくすると、父自身が肺の難病にかかった。タバコは肺にはよくないということはわかっていた。
父は早期退職制度で、ただ社外顧問で数回きてくれればという職だけをのこして闘病に入った。
幸い年金ももらえる。子供への仕送りもぱったりとまってお金には余裕がある。
郊外というよりもはや森の中を切り開いてつくった庭の広いおしゃれハウス(建築中)は、たちまち父の療養ハウスに方向転換となった。
手すりやら風呂やら改築し、母は断捨離をし、こだわりより健康を優先し…。
そこで難病なのに20年も生き延びたのは確かに母のおかげであろう。
ただ母はだんだん父が自分より弱い生物になりさがっていくことがなかなか納得できなかったようだ。
母にとっては子供は庇護すべきで、父は母を庇護すべきだったのに、すべてが逆転してしまったのだ。
母の癇癪は昔からものすごく、感情の嵐の生のままの奔流であって、いうことがよくまとまっていない。
Aといった直後にいいかえすとじゃあ反Aだと躊躇なく言えてしまう。もちろんきっかけはあるのだが。
母がなんでタバコを吸ったの!と責めて、理由をはっきりいわないと納得しないので父は「母も勧めたではないか」と言い返すのではなく「社内政治に参加するためだ」と説明した。
「なんで私を浪費家だというの!」「なんで感謝してくれないの!」には、
それぞれ「幼少より母の愛に飢えていたため」などの適当な理由がつけられ、反省書となった。
反省書はなんども日記にかきつけられ、こどもたちへも父がこんなに反省したとメールで送った(母もいつでも読めるようccつき)。
まるで自首後の犯人に動機を言えと迫る刑事のようなやり取りである。さしずめ母は愛情刑事であった。
この「なんで」期の母は2人だけの蜜月のはずがいきなり愛情が枯れ果てたかのようなふるまいをしたので子供たちにも影響があった。
あるときなど増田が呼び出されて母と東京のカフェであった遠かったねよく来たねの二言めで「今日ね、おとうさんをいじめてきたの」というのである。
どのように苦しめたか。それがどれだけ自分の恨みを買った人間の正当な末路なのか。話はじめると30分以上いきつぎもしないでとうとうとやる。
増田や父は、そういう手の付けられない母をどうしていいかいつもわからないで黙っている。
ただただ、ああ、となりのテーブルの客が居心地悪くて逃げたなあときょときょとしながら口をはさむ隙を探す。
やめてくれ。あなたたちは善良で努力家で思いやりある人間だっただろう。泣きたかった。
カフェの次は庭園つきフランス料理で父もいるときにニコニコと「お父さんに遺言をかかせたの。私に全部残させるって」というのである。
増田は遺産も愛も父からはあたえられない子供になったのだと、増田当人にむかって心から嬉しそうにいうのである。
理由を聞いてほしかったようだが「ふーんそう」というのがせいぜいだった。
後日やっぱり何十回もしつこく聞かされた。あれもこれも、…、わたしはケチといわれたのよ!!父は母に愛情がない!
父は平謝りするしかなかったらしい。
でもその場で諭そうにも耳も悪い。
「その話は今聞きたくない」と穏やかに告げるとまるっと無視された(なんなら常にセリフを母にカブせられているし慣れてるけど)。
もう一度はっきり言うと「え?」といわれ、もっと大きい声でいうと「大きな声を出さないで!心臓がどきどきする!」と泣き出すのである。
補聴器をすすめたけど、ぼわんぼわんして不快だとつけたがらない。
それに庭に出ている間も補聴器をつける必要がない(むしろつける必要がないから庭がすき)だから悪くなる一方だ。
子供たちは私を味方してくれない、おとうさんばかり味方して、おとうさんがだましているからだ!ということで本当に手が付けられなかった。
でも素直な母は、父をいじめるだけではなくまっとうに、増田ら子供たちに直接説得も試みた。
ところが増田も子供がうまれて送迎などで忙しいのに、携帯(業務用)に電話をかけることがつづいたのである。
運転中は出られない。うるさくて運転に集中もできない。ガチャギリするしかない。それでもかけてくるのでやむを得ず「固定電話にかけて」と携帯ではブロックをした。
このことは増田に子供の送迎がいらなくなりガラケーとアイフォンをのりかえるまで続いた(のりかえたときにブロックは解除した)が
半ボケ?もとから機械音痴?の母は下の兄弟や増田の伴侶に「増田ちゃんがわたしをブロックしたの!解除するようにいって」と何年も頼み続けた。
父はじわじわと悪くなった。3年に一回ほどのペースで入院するたびに母から死にそうな声で「おとうさんが入院したの、もうだめかも」といわれて子供たちが全国から新幹線などでとんでいった。
父は母に「浪費家だ」といったことを老後一生かけて平謝りし続けた。
酸素マスクが一日中必要になっても、下の世話はしないからと母にいいわたされると一回30分かけてでも一人で家のトイレにいった。
母はトイレにいく父の血中酸素モニターが鳴る音だけはよくきこえたらしくて「いつもピーピーうるさいから本当に止めさせたかった」のだそうである。
ほかにもブザー音がなると死んでいるかもしれないし、地震があると停電したら酸素送風がとまってしまう。そうすればすぐに酸素濃度がさがって窒息死だ、ということで不眠ぎみであったという。
なるほど不眠であれば気が狂うほど老々介護はつらいだろうというのはさっせられた。
途中で増田は「あなた(母)はもう後期高齢者だし、父はさっさと介護認定を受けるべきだ。他人を入れろぜひ入れろ、入院や介護施設はないのか」とアドバイスをしたりもした。
父も早く「介護認定を」といえばよかったのだが母だけに甘えていたかったのかもしれない。
母親の認識は古くて「介護=認知症=施設にいれられ毎朝チーチーパッパと歌わせられる」というなんかアレな印象しかなかったのだが、
父も「自分=強い=介護うけられない」とおもってた節がある。いいコンビだよあんたら。
まあ、実際、肺病で介護認定がそんなに高くなった父という存在はチバラギ地方では珍しく、認知症むけばかり取り揃えられている施設からは選びづらかったようだ。
母は一度、「もうすべてをほうりなげたい。お父さんなんか死んで良い」と増田にドライに告げたので増田は市役所を通じてケアマネに緊急電話をした。
実際病状がすすんでいるのも理由にあったようだ。
父は身の回りを手に取ることすらおぼつかない。あれをとって、かわりにこれを置いて、の命令の繰り返しの24時間。そりゃ気が狂う。
頭がはっきりしているだけに介護をうけておきながら「あの礼状は出したか」などと口うるさいこともこまごまという。
ケアマネ介入後はデイステイのできる施設をいくつかめぐって、母に介護休暇をあたえ父の入浴はステイ先で複数人で介護をうけることにして解決となった。
他人の手が入ったあとはなんとか母の忍耐がたもったようだ。
ラインでこまめに連絡をとると、お互い聞き取れない・聞いてもらえない長話のストレスと徒労感も解消された。
コロナのおかげで世の中全体が肺病に警戒しており、
ストレスのたまった母親の消費欲やお出かけ欲も「コロナは怖いから」と唱えるだけでだいぶ抑制された。
母はユーチューブをおぼえた。
コロナワクチンはふたりともいち早くうけられた。怪我の功名である。
増田の残りの二人の兄弟も子育てに忙しい中でガス抜きに付き合ったらしい。なんとか二人の生活はつづいた。
そうして2*年の闘病、*年の介護認定と酸素マスク、90日の入院のあげく父は体重が半分になって逝去した。
母は感情が高ぶると耳が全くなにも聞こえなくなるので、増田は葬式の打ち合わせに逐一ついていってすべてをメモにして渡してやった。
父がなくなって重荷が下りても母はやはり理不尽であり、やはり葬式の相談のあとにも爆発した。
かねて希望していたように「全部の遺産を母の元に相続させつつ凍結などの不愉快な事態にさせない」ためにはなるべく資金を動かさないほうがよいのに、
母はいますぐ資金をすべて自分の口座に動かそうというのである。
それなら司法書士とか頼んだ方が楽だよというと、母の感情は爆発するのである。「高いでしょう!?」3万でいける「デモデモダッテ」。
今すぐにでもATMにいってお金をおろしてあつめたいというのである。(父は箪笥貯金を高額な葬式分くらいはおいてあったし互助会にも入っていたから葬式費用ではない。)
なぜと問うと、「子供たちに私からお金を送りたいから」。はあ~~~???だよ。じゃあ法定相続割合でよくない?父もそれが一番簡単だからのぞんでいたんでしょう。
注文住宅シリーズの尻馬乗らせて貰うが、「USB付きコンセントを付けるな」に尽きる。
もう既についちゃってるやつは電気工事を手配して外してもらえ。
USB付きコンセントの造りっていうのは単純で、USB充電器の中身がコンセントの裏に入ってるってだけだ。
その構造はこうなっている。
・変圧回路
・直流化回路
・平滑回路
変圧回路は100V→5~20Vに変圧する回路で1.トランス(コイル)、2.半導体素子 の2種類がある。
安いのや重いのはトランスだ。
平滑回路はコンデンサが入っている。
USB充電器がコンセントに刺さっている間、これらには電圧が掛かっていて、特にトランスは発熱する。発熱するって事はずっと電気が無駄になっているって事だ。
またコンデンサには寿命があり、稼働時間で2~5年位でへばって壊れてしまう。
この時このコンデンサは爆発する事がある。
しかしUSB充電器は使い終わったらコンセントから抜くものだからそんなに稼働時間は増えない。
だがコンセント内蔵型だったらどうか?電力を遮断する方法は無いからずっと電圧掛かりっぱなしだ。
延長タップにUSBが付いているものもあるが、延長タップというのは5年で交換が推奨されるもので、実際の使用でも10年程度で交換される。だからUSB部分の寿命を大幅に超えるっていうリスクはあんまりない。
だが家のコンセントを5年や10年で電工呼んで替える人が居るだろうか?いないんである。
更に家具の配置によっては箪笥の裏側に行ってしまう事もある。ホコリが積もった箪笥の裏である日パスっとコンデンサが破裂。火花がホコリに飛んで…
ヤバいのが判るかな。
つーわけで何十年も交換しないコンセントに充電回路を付けるなんてナンセンスなんだ。
そのうち壊れて充電できなくなってしまう。またはUSBの規格が変わって使わなくなってしまう。
でも充電不可になっても爆発のリスクは残ったままなの。
あまりにも心もとない財布を見て、勢いのままに体入を申し込んだ。いくら見た目が若いとはいえアラサーに足を突っ込んでいる。
それまで接客業に従事はしていたものの、全くの初心者。さらに、性交に夢見てしまっていた未通である。
逆にお客さんに申し訳ない。
こういうのはかわいい女の子が着るからこそいいのでは?と思いつつ、衣装を着て背筋を伸ばしたら私もかわいくみえるのでは?と少し楽しくなっていた。
スカートの丈もさることながら、カウンターにはおおきな鏡が設置されている。
なるほど、パンチラ。
最近ノーパンしゃぶしゃぶの情報を仕入れたところだったから、ホンモノに出会ってハイテンションである。つくりは簡素だけど、よく考えられている……
面接の時点でパンチラはわかっていたので、体入にあたって新しい下着を買った。箪笥の中身はあまりにも……なものしかなかったのだ。
こういうのが好きな人もいるだろうが、仮にこれを見て盛り上がっている人には引く、ので、自分が着て、見て、楽しいものを買った。
きっとほとんど年下だろうけど、かわいくて楽しくて、しっかりしている。尊敬した。
お名前をすぐには覚えられないので、おねえさんと呼んだ。おねえさんと呼べて楽しかった。おねえさんと呼べとは言われていなかったが、教わっていて嫌ではなかった。
お客さんに少しだけついた。残念ながら指名を頂けなかった。
まあなにもかも初めてなので当然である。お話しているときは楽しかった。素直に心から笑った。いや、ゲラなのもあるけども。ドリンクもいただけた。おいしかった。
総じて、楽しかった体験入店であった。しかしそれ以上に精神的に疲労がたまった。
客引きでたちっぱだったのもあるだろう。いままで男性と関わる機会が少なくて、緊張していたのかもしれない。
この頃、仕事して疲れるけど楽しくて疲れた感覚がない、という仕事ばかりしていたから、それはかなりの負荷であった。本入店をすぐにOKできなかった。
今回は体入だったのでなかったが、店舗に出勤する以外に、時間外でブログなどの業務があるらしい。店舗だけで疲れるのにこれ以上?
ただでさえ掛け持ちでバタバタしているのに、そんな余裕はない。
時給外の業務でも、その分時給がいいなら考えたが、今回の体入だけでみた時給は掛け持ち中のバイト時給と変わらない。
即日手渡しでもなし、これ以上増やしたところで利点はないだろう。
ということで今回はご縁がなかったということで。返答を待ってもらっているから、その間に良い文章を作らなくては。
また財布が心持なくなったら、体入に現れると思います。
ミレニアル世代の私は年甲斐もなくコナングレイの出現に狂喜乱舞した。
希望を探し求めているのに自身のことに対しては常に悲観的(極度の恋愛恐怖症というやつ?)、デートを何度重ねていようが「恋愛」はしたことが無いと歌う彼、それでも恋愛をしていない登場人物が「恋愛について」を語る詩は二十数年生きてきた中で出会えた最も自分ごとなラブソングに思えた。こんな話はManiacのMVコメント欄に溢れかえっていそうだ。「コナン、不思議な話だけど私貴方が本当に私の親友のように思えるの、これはまさしく私が考えていたことだ」って。
インターネット人間関係全盛期に思春期を過ごしTinderで大人になった私や私の仲間達は勿論、恋愛や友情を謳歌する者も数多いがそれと同じくらいクローズドなコミュニティの中で出会いの無さを嘆く人々に溢れている。テキストで地球の裏側にいる人間にすらすぐ繋がれる世界は案外と半径5mくらいの宇宙を狭めているのではないかと思う。
求めた数だけ出会いは増えるが、心の底から求めるような着てみたら案外ピタッと形がハマる白Tシャツのようなメイトを探すことは非常に困難で、会う人数を増やせば辿り着けるというわけでもないユートピアであり幻想なのだ、そういう人間は。
私はそういう人間と恋愛的パートナーになった。約10年もの間身体の関係どころかプラトニックラブすら育んでこなかった、正真正銘の友人、よもや親友と言えるであろう相手だった。彼との友人関係を説明するのに打ってつけな状況は小学校の放課後くらいかもしれない、「後で公園に集合な!」そう声をかけ合い、ランドセルを置くため一度は帰路に着くが落ち合う時間を正確に決めたわけでもないのに集い気が済むまで遊ぶ、喧嘩でもない限りは毎日。本当にそんな関係性だった(実際週に何度も会うというのが毎週、小学校を余裕で卒業できる年数分も続いた)。小学生の頃仲が良かった友人で大人になっても付き合いがあるような人は殆ど居ないのが一般的だろうが、当時小学生であった我々はこの友情が終わりなく続くもののように感じられていたのではないだろうか。少なくとも私はそうだ、終わりという概念が頭をよぎったことすらなかった。
そんな彼と10年越しに付き合うことになった、そこに至る理由やイベントについての記述は省く、問題はそれだけの、小学校の親友のように過ごしてきた相手に対してですら、こと恋愛という人間関係の箱に入れられればひとたび、その関係の終わりを匂ってしまうということだ。
初めて恋のフィルターを通して私を見た彼はそれはそれは浮かれていた、恋愛初期段階を楽しむ人間が往々にしてそうなるように。選り好みが激しく友人の少ない彼は数年ぶりのステディな相手ができたこと自体が非日常で、楽しかったのかもしれない。
私はというと戸惑っていた、そして戸惑いの中で愛着を育てながら、精神力は段々と骨粗鬆症が進行していく様で。いつか来る別れに対して一撃で粉々に砕かれるように、脆く柔らかく心を解いていってしまった。いつか来る別れへの悲しみを深める準備、これこそが愛が育てるということらしい。
信じられないくらい身体にピタリとハマる白Tシャツを見つけたのなら先ずは買わないことが賢明だと思う。汎用性が高く絶対に一着は持っておきたい必需品なのにどんなに大事にしようがお構いなく着れば着るほど劣化し、摩耗する消え物なのに、「コレという一着」を見つけてしまえばそれがダメになった時は捨てるに捨てられず箪笥の肥やしが増えるばかりか、そこから先新しいシャツを何万着と探そうが満足がいかなくなってしまう。
何故友人であった頃は微塵も心配していなかった感情の賞味期限を恐れなければいけないのか。恋情はいっ時の劇薬で、いつかコレを愛情に変える為の努力として結婚や出産と言ったライフステージの変化をもたらす必要があるのかもしれないとか、インターネット耳年増で蓄えた知識のせいで不安になっているだけかもしれない。そう思うと何故友情には飽きも明確な終わりも来ないのだろう。
それでも何も考えずにずっと楽しく過ごせる関係を捨ててしまった自分の軽薄さに身震いしながら後何度週末を待つのだろうか。
絶賛円満に恋愛関係を進行中の彼はマカロニえんぴつの「なんでもないよ、」を聴き、私はコナン・グレイの「Disaster」を聴いている。
ちなみにオークはブナ科コナラ属の木の総称で、日本で言うところの楢と樫の両方を包含する。
そんでオークのうち、一般的に落葉樹が楢で常緑樹が樫と呼ばれる。
なおヨーロッパで樫が生えているのは南欧に限られ、イギリス含む中欧・北欧は楢ばっかり生えていると。
これが最初に書いた、オークを樫と訳すのが基本不適切な理由らしい。
実際英語でオークのうち樫だけを指すときは"live oak"と言うみたいだし。
ではなぜこのような誤訳が起きたかと言えば、ヨーロッパにおけるオークの価値が、明治に和訳された時分に、翻訳者含め日本で十二分に理解されていなかったからと推測される。
というのも日本では古来、杉とか檜とかの針葉樹に高い価値があって、広葉樹は欅とか桐みたいな例外を除いて、近年まで雑木扱いだったイメージ。
これは従来日本における木材の用途が主に「建築材」であり、あとは桐箪笥に楽器や漆器、床の間と上がり框を飾る程度だったことが関係しそう。
何しろ明治維新まで椅子に座る文化は定着していなかったし、侘び寂びな空間を木材で飾る話でもない。
裸足や足袋で歩くんだったら床も杉板のほうが足に馴染むし…というわけでオークの出る幕はなかっただろう。
一方、机椅子に始まりキャビネットに床板化粧板と、木材の「内装材」「家具材」における需要も極めて大きかったヨーロッパ。
そしてオークは内装材・家具材として、ヨーロッパでは長い歴史と伝統を持つ一級品。
この用途でこれ以上の高級材といったらウォルナット(胡桃)・チーク・マホガニー(合わせて世界三大銘木)くらいしかない。
あとはヨーロッパの酒造において、オーク樽は原料の一部と言っていいくらい不可欠だったり。
そうした重要性から遂にはThe King of Forestと称されるほどに。
したがって当時の翻訳者が
「楢なんて、あんな箸にも棒にもかからない木がヨーロッパでは高級木材とかありえないっしょ」
みたいな思い込みで、オークを樫と訳したとしても不思議はない。
(まだ樫のほうが金槌の柄や鉋台とか、強度が求められる部材で価値があったと思われる)
これが大いなる勘違いだと判明するのに、今日に至るまで相当な時間を要したと。
そしてこういうややこしい事情を避けるためか、今はもうオークはオークのまま訳さなくなったっぽい?
(ファンタジー物で登場する、ヒューマノイドの方のオークは昔っからオークのままなのはさておき)
それにしても今振り返るとファンタジー系の小説で「樫の木の扉」とか書かれていたのは噴飯ものだし、少し前までは
「欧米では硬くて加工困難な樫の木から立派な家具をたくさん作っている。その点日本の木工はダメだな」
まあでも、そういう諸々を笑い話にできるくらい適切な情報が広まったのは喜ばしい。
https://www.youtube.com/watch?v=_R-tN9l6onQ
ゲーム的に出来ない事が作られるんだけど
それくらい乗り越えろよとか
そこに落ちてるやん拾えよとか
さりとて、出来るようにすると、スカイリムやFalloutみたいになる
そこらにあるものがオブジェクトとしての判定と、他人の物としての犯罪判定をもってて、ちょっとした誤爆でNPCが敵対、阿鼻叫喚とかなりがち
あと、人の家に入って箪笥を開けるとか壺を割るとかが、ありえなくなる
こういうの、ゲームとしてのデフォルメ感を残すべきものと、そうでないもの
きちんと分けて考えるべきで
ドラクエ的なやり方が良いと思ったりしている
勝手に自縄自縛で制作環境を上げて、コストのわりに売れないと嘆き
ゲーム作りは大変になったと嘯くくらいなら
(前回のご報告)https://anond.hatelabo.jp/20220602124912
拾ったねこなので誕生日とかもわからないのだけど、ボロボロのこねこを9月に拾った時に多分生後3ヶ月くらいだった。ということで毎年6月をお誕生月にしているのでこないだ22歳になったばかりなのですが、たいそう老いたねことの生活は毎日がおなじことの繰り返しである一方で、こねこにも負けない速さでうつろっていくことを身にしみて感じています。日常と非日常が並立する中で感じたことを文字にしたく思い、ここに駄文を記します。
あいもかわらぬねこ一匹ひと一人の生活ですが、どうもお食事を召し上がる際に飲み込むよりもお口からぽろぽろと落としてしまうことが多くなりました。幸いなことに食欲はもりもりとあるので、そのもどかしさを晴らすような勢いでお皿の中にお顔を突っ込むような食べ方をされるようになりました。お皿をかつかつと鳴らしながら勇壮に召し上がる姿はなかなかに晴れやかなものですが、お食事後はお顔から喉にかけてでろでろになってしまいます。もちろんできるだけお拭きするのですが、ねこも汚れが気になるのかグルーミングしたいけど肩のあたりしか届かず、そこだけが禿げて痛々しくなってしまいました。そこで、良さげなねこ用スタイを見つけたのでお召しいただいています。
https://item.rakuten.co.jp/tissue/10000020/
増田は彼女のくび周りがはげるのがちょっと悲しくてずっと首輪は付けないようにしていたのですが、このスタイはあまり気にならないご様子ですし、こころなしか可愛さも増したようにも感じます。
ところで、増田は最近動画サイトで「猫の惑星」という曲の存在を知り、それ以来お口の周りを拭いたり使用済みのペットシーツを片付けたりといったお世話の際はずっとくちづさんでいたりします。特定の運命の元で生まれた特定の人間にとっての上位種たる猫に奉仕する喜びを歌い上げた名曲だと思うのですが、増田にとっては奉仕というよりもっと自己愛に近いもののように感じます。22年間に渡るねこ一匹ひと一人の生活のなかで増田のねこはもはや増田の自我の一部分が拡張されたものになっていて、お世話と称しているものも単なるセルフケアに過ぎず、他者に対して無償の愛を捧げるような立派なものでは決してない、と思うのです。彼女にしてみれば、勝手に同一視した上で自由であるべき生活の一部を拘束しているわけですから何を言ってるんだということになりますが、それはそれでお互いうまくやってこれたと感じてほしいなどと、増田の膝の上でくつろぐねこの拭ききれなかった汚れがちょっとかぴかぴになってる毛皮をなでながら願っています。
増田にねこのことを書くようになって、このように自分のあやふやな感情を言語化する癖がつきました。正直なところ夜中の3時から2時間ごとに起こされて朦朧としながらお食事の用意をしたり、その中にお薬を間違えないように混ぜ込んだり、お水を替えたりしているときに、粗相されていたものをあやまって踏んでしまったときなど床を叩いて喚き散らしたい気分になってしまい未明にひとり気まずい気分になることもままあります。でも、それは増田が自分のために自己愛でやっていることであるならば、本質的には箪笥の角に小指をぶつけるのと何も変わりませんし、小指をおもいっきりぶつけたら床を叩いて喚き散らすくらい当然です。「犠牲厭わぬ愛の極み」に辿り着けない増田はそのように考えています。
冒頭で述べたように、これまで描いてきたような宇宙船や新幹線の中で安穏と隔離された世界は消えてしまったのかもしれません。残念ながら彼女の体重もだいぶ減ってしまいました。ねこが今まで以上に増田のお腹の上で足を伸ばして寝ようとするのもどこかしら調子が悪いからだとおもいますが、それでも抱いているとそのままぷすーぷすーと鼻息を鳴らしたり、夢を見つつまえ足あと足をぱたぱたさせたりします。そして増田はすっかり起伏があらわになってしまった背中を撫でながら「増田のねこはかわいいよいこ」と魔法の呪文を唱え続ける。そんな感じの代わり映えのない生活は続いています。こちらからは以上です。
いつか、もしかしたら。今の悲しい気持ちが消えてしまうんじゃないかと思うとゾッとするので、どこかに悲しかった証拠を残したかった。
私は27歳。職業はある国家資格を使う仕事。手前味噌だが世間的にはまあまあ立派な職業だと思う。
猫を飼っていた。先月死んでしまった。17歳だった。人生の半分以上をこの猫と過ごした。
毛先が黒色だけど根本が白い、不思議な色をした雑種の猫だった。誰よりも私のことを考え、誰よりも私を愛してくれたと思う。
祖母の実家の地域でやっていたお祭りで、ドブに捨てられていた子猫がいたって騒ぎがあった。実は祭りの一年くらい前に母が飼っていた猫が亡くなっていた。直感で飼った方がいいと思った。まだ小学生で金がなかったため、祖母と母に土下座して飼いたいとお願いした。
今までで土下座したのはあの一回だけだし、やってよかったと思う土下座ももうあの一回だけなんだろうなって思う。
実を言うと親とは仲良くない。親は兄弟を殴ったし、作る料理はまずい。
猫がいなかったらとっくの昔に私は死んでいたし、家には帰っていなかったと思う。
中学時代は本当に幸せだった。友達も多く、学校が楽しかった。そのこともあり学業は非常に伸びた。しかし高校では吹奏楽部というブラックな部活に入ってしまい、週7日部活だった。先生は怒鳴るわ、洗脳じみたことはするわ、テスト近くても大会があれば部活するわで最悪だった。びっくりするぐらい成績が落ちた。今思うとあれは鬱症状だったんだと思う。泣きながら登校し、血尿を流し、声が出なくなるときもあった。あの時は猫の世話を疎かにしてしまうこともあった。本当に申し訳なかった。それでも猫がいたから首を括らずに済んだと思う。
偏差値は低めな大学だが、なんとかして特待生として合格することになった。引っ越しにも猫を連れて行った。実はこの猫5回も引っ越しに付き合ってくれた。猫は犬と違い、基本慣れない場所にストレスを感じる。それでも連れて行かさせてくれて感謝しかない。
大学では成績は上位をキープすることができた。勉強する私の膝には大体猫がいた。猫と一緒に1人暮らしする時もあり、本当に幸せだった。この時点でまあまあ猫はおじいちゃんである。尿路結石になった。まだ車を持っていなかったがなんとか獣医に連れて行った。食事もちゃんと選んで買った。
国家試験が近づくたびに、お願いだから国家試験の時には死なないでくれとお願いした。叶えてくれた。そして無事に留年することもなく一度の試験で合格することができた。
就職した。今も同じ職場にいる。就職も見守ってくれたことに感謝しかなかった。自由に使えるお金が手に入り、猫にはおもちゃを買ったり少しお高めの餌を買ったりした。
帰宅すると猫が待ってくれていて、頭を撫でると嬉しそうに鳴いた。
朝起きると猫が腕の中にいるか、近くに座っている。平日は私を叩き起こすのに、休日はそっと寝かせてくれた。本当に優しかった。
お昼寝する時は額を寄せ合って寝た。
食い意地が張っている猫なので、私のご飯を欲しがった。味が薄めで猫が食べられるものは少し分けたりもした。
尿路結石は食事に気をつけたり、水飲み場を工夫したりした成果か、死ぬまでの5、6年再発しなかった。だから油断していた。
就職から一年たった。仕事も覚えて来て、後輩指導を任され、大変なことも多いが順風満帆だと思った。思っていた。
猫が食事を食べなくなった。といっても全く食べないわけではなかった。通常猫は貰った食事を少し残すが、食い意地のはっているうちの猫は毎回すぐに完食していた。
この時点でおかしいから病院に行こうと思って、平日なんとか定時で帰って病院に連れて行った。末期慢性腎不全だった。もう年齢のせいだろうと、無理に治療するより看取りに入った方がいいだろうと言われた。獣医によると、これから吐き気が出てご飯が食べられなくなるから無理に食べさせないこと、水はたっぷり用意すること、いつもと違う匂いがし始めたらそろそろだということ、死ぬときは苦しまないで高カリウム血症でぱたっと亡くなることを聞いた。
家に帰って泣いた。ものすごく泣いた。鼻水めっちゃ出た。ご飯は食べられなかった。でもそんな私を見て、猫は私を心配そうに私を見ていた。どうしたの?って顔で私のそばにいた。猫自身の方がしんどいくせに。
次の日、猫は箪笥の奥に入るようになった。死ぬ前の猫は普段行かないような暗くて狭い所でじっとする。共倒れだけは避けないといけないと、無理矢理ご飯を食べた。それでも私は2週間で4キロほど痩せた。猫はいつもの餌を食べなくなり、死ぬ2日前にはちゃおちゅーるも食べなくなった。ちゃおちゅーるの封を切って差し出す私に悲しそうな様子を見せていた。
猫としてのプライドを守ろうとした。猫本人の意思でもある。ふらふらになりながらも出来るだけ粗相したくないと自分のトイレに自分の足でいこうとしていた。水飲み場は、すぐ飲めるように引きこもる箪笥の入り口付近にも作ったが、それよりも遠いいつもの水飲み場で水を飲んでいた。
なんとか歩けるようにとペットシーツを部屋全部に敷き詰め、持っていたヨガマットはこけた時のクッションになるだろうと、切ってよく通るところに並べた。お気に入りのヨガマットに爪研ぎされた時にはあんなにショックだったのにおかしい話だ。
獣医に行ってから2週間後。早朝に亡くなった。有給を取っていた朝だった。猫は死ぬ日まで気を遣ってくれた。徹夜してそばにいようと思ったが、看取られたくない、そっとしてほしいという猫の様子に任せた。
その日のうちに火葬した。昼ごろに火葬の予約を入れて、その時間まで久しぶりに猫と添い寝した。葬儀屋の人には、こんなに骨が太く残っていて、腸あたりに食べ物の跡が残っているということは、飼い主と猫本人が最後まで頑張った証だと言ってくれた。会ったばかりの葬儀屋の人の前でもドン引きレベルで泣いた。
火葬して遺骨は粉骨にし、手元供養しようと考えていた。2週間も猶予をくれた猫のおかげで考えはまとまっていた。
もう少しで月命日。一か月毎日泣いている。四十九日が悲しみの折り合いらしいが、四十九日が過ぎても泣いていると思う。100か日が四十九日の次の目安だ。この間に猫はこんなに立派でしたと閻魔様に証明する必要がある。猫のお陰で取れた資格で仕事をし、泣いたり偲んだりすることで証明できるのではないかと思って、今生活している。100か日を過ぎたら猫を追いかけようか悩んでいるところだ。ぐちゃぐちゃの文章だが、記録を残せて良かったと思う。
名著「UNIXという考え方 - UNIX哲学」は本当に名著なのか? 〜 著者のガンカーズは何者なのかとことん調べてみた - Qiita
この記事はよく調べてあるなぁと思う反面,事実関係の間違いも多く当時の空気感など欠けていると思う部分がいくつかある。事実関係に関しては追い切れないので参考文献を挙げるにとどめておくが,空気感のほうはいくつか書いておく。なお当該記事の「当時と今では状況が全然違うんだから,安易に『UNIX 哲学』とかいうな」という主旨には大賛成である。
初期の UNIX の歴史について興味がある向きには次の書籍をお薦めする。
Peter H. Salus『A Quarter Century of UNIX』(1994, Addison-Wesley Publishing)
和訳の『UNIXの1/4世紀』(Peter H. Salus, QUIPU LLC 訳, 2000, アスキー) は絶版のうえ訳も微妙なので薦めづらいが,原書は The Unix Heritage Society (tuhs) で PDF が無償公開されているので,英語が苦にならないのなら読んでみるといい。
また同じく tuhs で無償公開されている Don Libes and Sandy Ressler『Life with UNIX』(1989, Prentice Hall)を読めば80年代終りの UNIX の状況(XENIX についてもしっかり言及されている)や利用者目線での雰囲気もある程度判るだろう。
元記事で一番気になるのが「哲学」という語の捉え方。この言葉の強さに引きずられているように読める。でもこれ,当時は設計の基本的な考え方くらいの意味でわりとよく使われていた言葉なんだよね。たとえば米 BYTE 誌のアーカイブを “philosophy” で全文検索するとこんな感じ。
https://archive.org/details/byte-magazine?query=philosophy&sin=TXT&sort=date
ほぼ毎号のように出現していたのが判るだろう。
もっとも猫も杓子も「哲学」を振りかざしていたわけではないし,UNIX の開発者たちが「哲学」の語を好んで使っていたのも間違いないように思う。傍証の一つが AT&T の定期刊行物『The Bell System Technical Journal』の1978年7, 8月号だ。元記事で言及されているマキルロイの Forword の初出がこれで,ネットのアーカイブから PDF が入手できる。
この号は二部構成になっていて第一部が Atlanta Fiber System に関する論文12本(全172ページ),第二部が UNIX に関する(Preface や Foreword を含む)論文22本(全416ページ)となっている。さて前述の PDF は OCR されているので “philosophy” で全文検索してみると8箇所見つかる。これが見事に全部 UNIX の論文なのだ。もちろん論文の性質もページ数も違うからこれだけで確定的なことはいえないが「日常的に使っていたんだろうなぁ」という推測は成り立つだろう。じつはマキルロイの哲学とされている部分は “Style” であり “philosophy” の語は一切使われていないというのもちょっと面白い。UNIX の開発者たちがなぜ「哲学」という語を好んだか正確なところは判らないが,それまでにない新しい考え方に基づいた OS を開発しているという意識があれば,そういう言葉を選ぶのが自然な時代だったことは間違いない。
UNIX が認知され拡がっていく過程で「哲学」も知られるようになっていった。自分が好むものの良さを他人にも識ってもらいたい,あわよくば他人もそれを好むようになって欲しいという布教活動は今も昔を変らないわけで「哲学」はその便利なツールとなったわけだ。元記事ではガンカースの著作を「外部の人間が後から打ち立てた哲学」と表現しているが,そんなたいしたものではない。マキルロイの論文に影響を受けた布教のためのああいう説教は到るところにあった。たとえば前掲の『Life with UNIX』にもしっかり Philosophy の項がある。また日本で最初期の UNIX 解説本のひとつである,村井純・井上尚司・砂原秀樹『プロフェッショナル UNIX』(1986,アスキー)には冒頭次のような一節がある。
オペレーティング・システムは,コンピュータを使うものにとっての環境を形成する基盤であるから,そのうえで生活する者の個性を尊重し,より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェアでなければならない。この主張こそが,UNIX のオペレーティング・システムとしての個性ではないだろうか。
「より良い環境へと作り上げて行く課程を支援するような素材を提供するソフトウェア」とはテキストを入出力フォーマットとする単機能のコマンド群のことで,これらをパイプでつなげたりシェルスクリプトでまとめたりすることで「そのうえで生活する者の個性を尊重し」た「より良い環境へと作り上げて行く」ということだ。こういった説教はありふれたものであった。たんにそれを「哲学」の語を用いて書籍にまとめたのが,たまたまガンカースだったというだけのことである。
そしてじつは UNIX の場合,布教活動とはべつに「哲学」を広めなければならない切実な理由があった。これを説明するのは非常に面倒くさい。当時と今ではあまりにも環境が違うのだが,その違いが判らないと切実さが伝わらないからだ。マア頑張ってみよう。
UNIX は PDP というミニコンピュータ(ミニコン)上に開発された。このミニコンを使うためには専用の部屋に行く必要がある。その部屋は,もちろん場所によって違うわけだが,マアおおよそ学校の教室くらいの大きさだ。長机が何列か並んでおり,そのうえにはブラウン管ディスプレイとキーボードを備えた機器が等間隔に置かれている。壁際にはプリンタが何台かあるだろう。通っていた学校にコンピュータ室などと呼ばれる部屋があったならそれを思い浮かべればだいたい合ってる。ただし置かれている機器はコンピュータではなくコンピュータに接続するための端末装置(ターミナル)だ。端末装置のキーボードで打った文字がコンピュータに送られコンピュータが表示した文字がそのディスプレイに表示される。現在 Unix 系 OS で CLI を使うときターミナルとか xterm という名のアプリケーションを用いるがこれらは端末装置のエミュレータで,もともとは実体のある装置だったわけだ。
さてコンピュータ室にたいていは隣接するかたちでマシンルームなどと呼ばれる六畳くらいの部屋がある。窓ガラスで仕切られたこの部屋には箪笥や洗濯機くらいの大きさの装置が何台か置かれている。これがコンピュータ本体だ。もっともコンピュータが何台もあるわけではない。この箪笥が CPU でそっちの洗濯機がハードディスク,あの机に置かれているタイプライタが管理用コンソールといった具合に何台かある装置全部で一台のコンピュータになる。どこが〝ミニ〟だと突っ込みたくなるかもしれないが「六畳で収まるなんて,なんてミニ!」という時代のお話だ。
端末装置それぞれから(USB のご先祖様の)RS-232 という規格のアオダイショウみたいなケーブルが伸び,マシンルームに置かれたターミナルマルチプレクサと呼ばれるスーツケースに台数分のアオダイショウが刺さってコンピュータとの通信を行う。コンピュータと多数の端末装置を含めたこれら全体をサイトと呼び,root 権限を持って管理業務を行う人をシステム管理者あるいはスーパーユーザと呼んだ。
結構上手に説明できたと思うのだが雰囲気は伝わっただろうか。ここで重要なのは一台のコンピュータを数十人が一斉に使っていたという事実だ。洗濯機とかアオダイショウとかは,マアどうでもいい。
当時の UNIX の評価を一言で表すと〝自由で不安定な OS〟となる。メーカお仕着せではなく自分好みの「より良い環境」を作りあげる自由。さらに他のメインフレームやミニコン用 OS に比べると一般ユーザ権限でできることが圧倒的に多かった。そしてその代償が不安定さ。今では考えられないが UNIX のその不安定さゆえにプロ用 OS ではないと考える向きは多かったし「でも UNIX ってすぐ落ちるじゃん」というのは UNIX アンチ定番のディスりだった。UNIX の落とし方,みたいな情報がなんとなく廻ってきたものだ。
こういった雰囲気を鮮やかに伝えてくれるのが,高野豊『root から / へのメッセージ』(1991,アスキー)だ。当時アスキーが発行していた雑誌『UNIX MAGAZINE』に連載されていた氏のエッセイの1986年11月号から1988年10月号掲載分までをまとめた書籍である。著者の高野氏は勤務先の松下電器で1980年ごろから UNIX サイトのスーパーユーザを務めており,日本では最古参の一人である。この本の中で高野氏は繰返し UNIX の自由さと不安定さに言及している。すこし長くなるが,その中の一つを引用しよう。
CPU は,システムにとって重要な共有資源であるが,この CPU を実質的に停めてしまうことが UNIX ではいとも簡単にできる。たとえば,cc コマンドを10個くらい同時に走らせてみたらよい。VAX-11/780 といえども,同時に実行できるコンパイルはせいぜい3つか4つである。それ以上実行することも当然可能ではあるが,他に与える影響が無視できなくなる。つまり,てきめんに vi のカーソルが動かなくなる。あるいは,すこし大きめなディレクトリ上での ls コマンドの出力が表示されるまでに煙草を1本吸い終えてしまったり,タイムアウトでログインが撥ねつけられたりといったバカげた現象が起きだすのである。こういった状態になると,UNIX は破壊されたに等しい。真夜中,独りで VAX を占有して使っているのなら何をやろうとかまわない。しかし,20人30人と多数の人間が使っているときに勝手をやられると非常に困るのである。当人の仕事が遅れるのは自業自得だとしても,そのとばっちりで他のエディタまで止まってしまうと,もはやどの仕事も進行しなくなる。
ディスクについても同様なことがいえる。UNIX では,ファイルシステムを使いはたすまで大きなファイルを自由に作ることができる。したがって,自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュアが使うと悲惨なことになる。ディスクを使いはたすと,コンソール・タイプライターにエラー・メッセージが出力されるが,夜中にそれが発生して,コンソール・タイプライターが一晩中エラー・メッセージを打ち続け,朝マシンルームに行ってみると紙を一箱打ち尽くしてしまい,ピーピーと悲しげな声を上げて人を呼んでいた光景を私は何度も見てきた。こうなると,それをしでかした本人のプロセスは当然のこととしても,同じディスクで走っている他のプロセスも先に進めなくなってしまう。すこしでも負荷を夜間にまわそうとする善意は逆転してしまい,わずかでも仕事を先に進めようとする意図も完璧に打ち砕かれてしまうのである。
そして,こうした不安定さが「哲学」を必要としたのだ。自分が利用しているサイトに「cc コマンドを10個くらい同時に走らせ」たり「自分のプロセスがいったいどのくらいの容量のファイルを作り出すのか見当もつけられないようなアマチュア」がいるとその累は自分にも及んでしまう。だからサイトの利用者全員に UNIX の設計の基本的な考え方を理解してもらうことが,自分のために必要だった。UNIX の伝道がより苛烈だった理由のひとつがここにあるのだ。
ミニコン上で誕生した UNIX は 4.3BSD(1986)で最高潮を迎える。注意したいのはミニコン時代の UNIX は Research UNIX と CSRG BSD みたいな区別をせずにまとめて UNIX として扱われていたことだ。実際『プロフェッショナル UNIX』も『root から〜』も UNIX と記述されてはいるが実際には BSD を扱っている。べつに当時の人が無知だったわけではない。なにしろ BSD を利用するためにはまず AT&T から UNIX のライセンスを購入し,そのうえでカリフォルニア大学バークレー校(UCB)から BSD を入手しなければならなかったからその関係は当然広く知られていた。ベル研で発明された UNIX を外部の人たちも含めみんなで改良し,それら全体が UNIX であるという考え方が自然だっただけである。『Life with UNIX』のような英語の文献によく登場する “Berkeley UNIX” という言い回しが当時の気分をよく表している。UNIX vs BSD みたいな捉え方は法廷闘争を経た90年代以降の感覚だ。
もっともそういう70年代風味の牧歌的風景はミニコン世界限定の話であった。BSD そのものはミニコン用のものしかなかったが,そのコードを受け継いだ BSD 系 Unix や AT&T が推し進める System V などがワークステーション市場を舞台に80年代中盤から激しく覇権を争うようになる。いわゆる Unix 戦争で,PC 用 Unix であるマイクロソフトの XENIX も当然参戦した。ミニコン世界が牧歌的だったのは,ぶっちゃけていえば先のない技術だったからだ。ただ Unix 戦争はあくまでも標準という聖杯を争う戦いであり,AT&T と BSD 系 Unix の Sun Microsystems が共同で System V Release 4.0 (SVR4) を作りあげたように後の法廷闘争とは趣が違う。
こうしたミニコン UNIX からワークステーション Unix への転変は Unix そのものや文化にも変化をもたらした。まず激しい競争は Unix の高機能化を加速した。商品として判りやすい惹句が「あれもできます,これもできます」なのは誰もが知っている。もちろん安定性を増すために quota のような利用者の自由を制限する機能も含まれていた。またワークステーション Unix は現在の Unix 系 OS と同様同時に一人が使うものであり前述の布教の必要性は大幅に減じた。達人たちのみの楽園から万人に開かれた道具に変ったのだ。こういった変化を体感したければ『root から〜』と水越賢治『スーパーユーザの日々』(1993,オーム社)を読み比べてみるといい。『スーパーユーザの日々』はワークステーション Unix のシステム管理の入門書だ。この本ではたんに知識を羅列するかわりに架空のソフトウェアハウス(開発会社)を舞台に新卒社員が先輩社員からシステム管理を学ぶという体裁をとっており,そのおかげで架空の話とはいえ90年代前半の雰囲気が堪能できる。出版年でいえば『root から〜』と二年しか違わない『スーパーユーザの日々』の落差は “dog year” と称された当時の激烈な変化まで体感できるだろう。
当時はよくいわれたのに今やほとんど聞かれなくなったものがある。マキルロイの論文の結論部分に書かれたそれは,1973年に出版されたイギリスの経済学者エルンスト・シューマッハーの著作の題名で,中学生の英語力があれば十分に理解できる平明な一文だ。
Small is beautiful.
マキルロイは『人月の神話』を引いて一定の留保をつけてはいるものの,これが UNIX 哲学の背骨であることに違いはない。機能をありったけ詰め込もうとして失敗した “kitchen-in-a-sink” な MULTI•cs のアンチテーゼである UNI•x にとって,これ以上のスローガンがあるだろうか?
ひるがえって現在の Unix 系 OS をみれば,ブクブクと肥え太ったシステムコール,全容を俯瞰するだけでも一苦労するライブラリインターフェイス,一生使うことのないオプションスイッチまみれのコマンド群。UNIX が仮想敵とした OS そのものだ。そのことについてとくになにも思わない。ハードウェアは長足の進歩を遂げ,コンピュータの応用範囲は途方もなく拡がった。UNIX が変らなければたんに打ち棄てられ,歴史書を飾る一項目になっただけだ。ただ現在「UNIX 哲学」を語るならそうした背景は理解していなければならないし,どれだけ繊細な注意を払ったところで〝つまみ食い〟になってしまうことは自覚すべきだ。