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はてなキーワード: 情念とは

2015-09-03

反知性主義としてのメシウマ五輪へ猛威をふるう情緒人民裁判

東京五輪エンブレムの使用中止に、ネット炎上の影響が「無かった」とは言えないと思う。

もちろんこの「思う」は、関係者取材をあてて話を聞いたわけではないし、感想レベルだ。

でも、まあそうかな。そうだろう?当たり前だろ!というネットの個々人の反応は予想がつく。

何の証明も無く、何の責任も負わず、ただの「感情」のうねりが、エンブレムを使用中止に追いやったのじゃなかろうか。

それは、本来意味での反知性主義に近いのでは無いか。

リンチ人民裁判と、群衆から石を投げる人達

 そうした“リアルの与論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察裁判所第三者機関を介するでもなく、リツイートシェアまとめサイトを経由して増幅し、テレビ週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。

ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠

(与論はたぶん世論の誤字なんだろうけど、何箇所も有るし俺の知らない用法なのか……?まあ良いや)

シロクマセンセイの「メシウマしたい個人が大挙して押し寄せて、それが世論になるの怖え」というのは、感覚として判る。

まだ、ネット世論にはなっていないとは思う。

ただ、ネットマスコミ世論、という、ワイドショーロンダリングによるお茶の間意思形成に一役買ったのじゃないかとは、思う。

その意味で、ギリギリ一歩踏みとどまって、既存メディアスクラムというか、メディアリンチまでで済んでいる。

勿論この社会的制裁ってやつだってどうかとは思うが、「捏造確定」のような報道は、少なくともしていない。

まあ老獪とか言うのかもしれないが、流石に法務があるようなところで、無茶はしなかろう。

証明の難しさと、放言無責任

例えば、シロクマセンセイへのブコメにこんなものがあって、スターを集めてる。

augsUK 盗用や捏造の指摘を「叩き」と言ったり「暗い情念」と表現するのは、単純にその人の倫理観ねじ曲がってんのかなとは思う。そもそも「ネット」が一つの人格で動いているような表現がとても気持ち悪いけど。

ブコメ中で「盗用や捏造」と言っているが、何のことだろうか。立証されただろうか。それasgsUKさん個人が、責任取れるだろうか?

捏造していないと裁判の末に証明されて、名誉棄損で訴えられて、30万くらい払う覚悟ブコメ、してないよね?(してたらゴメンネ)

法治国家における倫理観としては、「疑わしきは罰せず」で、容疑者犯罪者として扱わないことなのかな、と思う。

で、たぶんこの流れを読んでギョッとしたんじゃないかな。

え、いきなり個別ブコメを取り上げてナンカ言うのかよ、みたいな。

そう思ったのであれば、それは「「ネット」が一つの人格で動いている」となんとなく思っているからだ。多分そうだと思う。

当然、それぞれのネット上の発言は、それぞれ別の人格で、それぞれ別々に各発言意思責任があるんだけど、そう思ってないんじゃないかな。

から言葉が「軽い」し、覚悟がない。まあそんなもんだとは思うけど。

感想だし責任ないし、と思ってても、積み重なると世論に見える

例えば、ザハ・ハディドの個人攻撃あったよね、ちょっと後味悪かったよね、みたいな記事に、こんなブコメがあってスターを集めてる。

Matsuriame そうかなぁ。競技場に関しては「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし、「ザハのせい」にしたがって、建築家だけに責任押し付けて降ろしたのはむしろ発注者人達だったけど。

はてなブックマーク - 【新国立競技場】「なぜ実務家たちは、ザハ・ハディドを支持するのか」建築家・藤村龍至さんに聞く

まあ、「そうかなぁ」って書いときゃ免責みたいな空気感、あるよね?

xevra ザハの物を本当に作ろうとするのはクレイジー。ザハは模型を見て楽しむ物であって実際に作ろうとしちゃダメだ。デザインは素晴らしいからコンペは通過しちゃうが実現性無視してるから到底作れない。

はてなブックマーク - 新国立競技場の工事費が下がらない理由|建築エコノミスト 森山のブログ

はてブで1000超えってワリと珍しいんだけど、xevraさんの他にも「金かかるのデザイナー(ザハ)のせいなのね」というブコメの大合唱ですね。

他にも記録はイッパイあるけど、Matsuriameさんは、ググったり、ブコメを振り返ったりしない人なのかもしれない。(スターつけてるヒトもね)

そういう自分発言ホントかどうかの責任意識しないし、取るつもりもないのは、まあ放言じゃないかなぁ。(無責任話法)

勿論ここでは、「そうかなぁ」って書いてて、強く「いや違う!」とはコメントしてない。

感想だし違ってたらゴメーンネってすれば、別に良いじゃんブコメだし、みたいな空気感、あるよね?

「「ねっとのひとたち」は「高すぎる」と言ってただけだし」って、嘘ついても、いや嘘じゃないよ感想だしそういう言い方はヒドイ、とか思うのではないかな。

居酒屋談義の無責任さが、そのまま社会的制裁

見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブ情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?

ネットの暗い情念が“世論”と接続してしまう怖さ - シロクマの屑籠

「構わないものだろうか?」というか、法治国家ならシステム外のプロセスも経ていない圧力でひっくり返るのはマズイと思うよ。

はいえ、感情情緒は大切にしましょうというのは、日本システムにはプロセス中に組み込まれているし、拡大傾向にある。

執行猶予とか、情状酌量とか、裁判員制度とか。

amakanata 今回のシロクマさんの見方ちょっと違うんじゃないかなぁ。世界的な賞を許可を得ずに素材を使ったデザインごまかし続けた人間の作ったもの神輿にしたくない、という庶民感情健全な発露でしょ。

ごまかし続けた人間の作ったもの神輿にしたくない」という「ネガティブ情緒」で、「庶民感情健全な発露」として「“世論”に直結」。

シロクマセンセイの見立てとそう言ってること違うようには思わないけども、amakanataさんの感覚は、ざっとブコメの5割くらいの感覚には近いように思う。

(本人の属性作品価値上下するのは日本では良くある話だし、事業に関わる人の身ぎれいさを要求するのは日本だけじゃないしね)

amakanataさんは「ごまかし続けた」という具体例とかそれが真実ごまかしたのかを立証する責任があるとは思ってないだろうし、まあ実質ないんじゃないかな。

ちょっとブコメするのと同じ気軽さで簡単クリックで1万人自動訴訟できる世の中になったら、またちょっと違うんだろうけど、その非対称性の話はまた別の機会に。

ただ、「ホントだったらヒドイ(=嘘でも責任は俺にはない)」みたいなデマ一直線の発言も、居酒屋談義や床屋政談ならアリだと思うし、そこを気にするのは健全ではない気もする。

監視社会じゃねえのにそんな発言まで責任持ってしなきゃいけねえの?みたいな。いやほんとは責任もってしなきゃいけないんだけど。

反知性主義としてのメシウマ

信頼出来ない上司業務命令には疑いの目を向ける、ではないけれども、本質的なところに不信感があるのではないか。

まり知性主義というエリートのやることに、なんか違うのではないか、どうも信頼出来ない信用出来ないとの思いがあるのではないか。

それが、判りやすい形で出た今回のエンブレム炎上騒ぎで、「普通市民道徳的感覚として、まっとうな結果」と思う人が多いのであれば、

それは「メシウマ」が(ホフスタッターの言う本来意味での)「反知性主義」として機能し始めたということなんじゃないかな、と思う。

エリートの言うことは信頼出来ないから市民団体監視します、では無く。

一人ひとりの小さな放言や、調査結果や、情緒からくる感覚感想が、まとめサイトに束ねられてマスコミがすくい上げて拡大する。

そこには警察捜査も、弁護士検察官の立証も無く、過去の蓄積から裁判所判断もなく、法律ルールも無縁の所で、

そうだろう、そうに違いない、絶対そうだという、責任のない感情的判断が積み重なることで、「事実」になる。

それはある人から見れば「暗い情念」だし、ある人にすれば「常識的市民感覚」だろう。

動機行為正当化するとも免責するとも思わないけど、そういうものかもしれない。

クリックで参加できる人民裁判だし、結果死人も結構出てるけど、改まらないしね。

(この増田も、5人から訴えられる可能性あるしなあ。たぶんダイジョブだと思うけど。裁判面倒だよなあ)

追記

反知性主義」判り難いという指摘を直接受けてまあそうかなとおもったので追記。

知性主義」は、「専門家主義」と置き換えてもらうのが、一番ホフスタッターのニュアンス近いと思う。

反知性主義」は、「反専門家主義」となって、つまり専門家判断ではなく、むしろ専門家ではなく専門的な知識がないからこそ、正しい判断が下せる」という主義とか態度のことね。

模倣判断や、建築実現性、刑事民事の責任まで、デザイナー建築士弁護士でない、知識を持たないヒトが正しい判断をくだせていると考える(またそれを支持する人がいる)というのは反専門家主義(反知性主義)が受け入れられる土壌が育ってきているのではないか、という話。

専門家でない人達の声で(途中に週刊誌新聞の専門部署を経ずに)、専門的な判断が覆る怖さについての話なのかなと思っている。

まあ、医療災害に関しては、ネットでもまだ反専門家主義者批判されるのを見ると、専門家たちが丁寧に説明することが重要なのかな、と思う。

(とはいえ、教育関係のひっくり返らなさを観ていると、今回の炎上個別事案であって、脇が甘かったからこそってことなのかも知れないけど。ぬ、訴えられる可能性が上がった気がする。熱狂的な個人は手打ちが面倒だからカスぞ)

石を投げていい存在としてのネトウヨ

「暗い情念」「ルサンチマン五輪エンブレム取り下げ以降、こうしたワードネトウヨ、もしくはネット民批判するコメントが増えている。

ひとつは群集が個人に襲いかかる絵としての佐野炎上があって、これに疑問を持つのだろう。

また普段から反社会的ヘイトを繰り返す存在が、まるで正義を成したかのように扱われることに戸惑いも感じてるかもしれない。

かねてからネットに苦々しい思いをもつ人たちは、この機会にその思いを吐き出しているようだ。

ただ今回の騒動が、デマにもとづくものではなかったことだけは理解するべきではないだろうか。

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは違うのだ。

今回の熱狂を生んだのは、ネトウヨからその外にいる普通市民にまで画像の盗用が広く周知されたことだ。

果たしてそれは、危険大衆扇動だろうか。

本来なら五輪はみんなのものであるはずが、一部の人間に歪められているという感覚とそれに反発する機運は、どちらかと言えば市民革命などに近いものだ。

だとするなら、反権力市民感覚標榜する左派系の人たちこそがしなければいけない案件だと思う。

しか左派系の人たちは、デザイン権威に寄り添い、市民感覚中傷し、大衆の機運を否定する。

この国は凄くねじれていると思う。

なぜネトウヨ権化のような人が総理大臣をしてるのに、その支持率がなかなか下がらないのか、この辺に原因があると思う。

ネットの暗い情念国家プロジェクトに影響を与えることが問題だとかっていうより、

「悪いことをしてるやつを炎上させて俺の力で叩きのめしたい」って必死なやつらが気持ち悪いんだよね

佐野擁護とか以前の話で、ネット私刑関係もそうだけどさ

こんなこと言ったらネットで何も検証できなくなるけど、

気持ち悪いもんは気持ち悪い

気持ち悪いやつらがこれで完勝して喜んでるのかと思うと気持ち悪くなるって話だ

2015-06-10

http://anond.hatelabo.jp/20150609193004

そう!そう!そうなんだよ!

一時期増田にドハマりして、常駐して「良いな」と思った増田ブクマしてたんだけど、ホッテントリになったせいか消してしまうということが何度か続いたのを機に増田へのブクマをやめたよ!

別に自分アルファ増田ブクマカー()ってことでは全然なくて、はてブの仕組み上、増田は少ないブクマ数でもトップページに出ちゃうから自分に加えてネットオチさんorサバカリさんがブクマすればもうトップに載っちゃうからトップに載ると伸びるから

自分が見ていた感触として、閾値を超えると「ただ増田にかこつけてボケたい人」とか「信条に基づく定型文で殴る人」とか「『本文は読んでないけど』とか言いながら説教ます人」とかが出てくる印象!そりゃ死体蹴りされてると思って消してもおかしくないよ!その流れを作った一端が自分だと思うと罪悪感あるんだよ!

確かにはてブの使い方は人それぞれだよ!ダジャレ言うためとか罵倒するためとか色々あるでしょうよ!自分場合ブクマ=「これ良いな」「これ好きだな」という気持ちの現れなんだよ!その結果がフルボッコのち削除とか辛いよ!

最近は「この増田良い文章だな!でもホッテントリ入りしたらここの誤字から大喜利が始まるな!」とか「この増田情念あふるる文体好きだな!でもホッテントリ入りしたらアドバイスという名の殴打でサンドバッグ状態になるな!」とか思いながら見てるだけだよ!ブクマはしないよ!

もちろん自分ひとりごときがブクマしなくても魅力ある増田は伸びるよ!でも自分ブクマしていなければ「ああホッテントリ入りには加担しないで済んだ」とホッとするんだよ!

以上です。はなっからブクマを狙ってる釣りは知らない。

2015-04-18

 だからあの事件は当時のサルの土着情念殺害目的だったんだけどなぜかその部分は議論俎上に上らないわけで。

 多くは彼は東大名誉を傷つけたとだけ批難するばかりで本質の方は論じられない。しか東大東大で前年に副理事長痴漢で捕まっていたわけでね。

 そういうわけだから,彼の行動に対する評価は全く当たっていないと思うよ。彼の狙いは東大に対する名誉毀損ではないし。つうかそもそも2007年に東大の副理事痴漢している時点で法人の方には名誉なんか一切ないし。

 結局は「トーダイ」というサインに蓄積されてたショミンの嫉妬怨念を強烈に刺激してショミンを殺したかっただけなんだと思うよ。だから彼を怨むのは筋違いで,08年にショミンが調子くれてたことに不満をもってた奴は彼に感謝しなければならない。

からあの事件で泣いたのは東大じゃなくて,むしろトーダイ嫉妬していた地方とかの多くの「コドモ」「オンナ」「ショミン」なんじゃね?だって自分が一番性的競争で上だと思っていた瞬間だったんだから。2008年は。

 で,犯人は,東大に対する憎悪は2割くらいで,8割くらいは,そういうサルの土着情念殺害のためにやったんだと思うよ。でもなぜかそのことは一般世間から忘れられているよね。それが本質だったのに。

一般概念として国立大学法人東大悪事をしているとかどうでもよくって,自分性的に一番だと思い込んでた土着のサルどもに,実は「トーダイ」が性的に一番でしたよ,なんて曝したら,サルどもは屈辱情念がぐっちゃぐちゃになるだろ。犯人国立大学法人東大なんかどうでもよくてそっちを狙っていたんじゃないのかな。実際,7年前,サル性的に暴れてて浮かれていたしね。犯人脅迫対象のことは2割で,そっちのサル性的屈辱を与えることを8割方念頭においてあんな事件をやったんじゃないの。

7年位前ならむしろ国立大学法人東京大学がどうのこうのではなくて,一番偏差値が高くて知識があって日本を支配していると漠然と感じられていた「トーダイ」の支配に嫉妬していた一般庶民の土着的な情念の方に痛恨の一撃が与えられると思う。

2015-04-14

奥本章寛死刑囚の対する再審開始決定で死刑判決取消し 懲役5年の実刑判決

主   文

1 刑訴法435条6号所定の理由による本刑事事件再審を開始する上,平成24年(あ)第736号殺人死体遺棄被告事件平成26年10月16日第一小法廷判決を取り消す。

2 被告人懲役5年に処する。

理   由

弁護人谷口渉,同黒原智宏の再審請求理由は,本件は,平成22年(2010年当時)前後宮崎県内は,いわゆるキラキラネームなどの流行により,母親義母子供らが動物化して騒いでおり,誹謗中傷などほとんど犯罪同然の行為を為しており,被告人としてこれを殺害しなければ自分尊厳を保持し難い特殊事情があり,これが刑訴法435条6号にいわゆる原判決より軽罪を言い渡すべき新規証拠に当たるから再審を請求するというものである

本件に対する平成24年(あ)第736号殺人死体遺棄被告事件平成26年10月16日第一小法廷判決は,被告人が,早朝,自宅において,同居していた長男(当時生後5か月),妻(当時24歳)及び義母(妻の実母,当時50歳)の3名を殺害し,その後,長男死体を土中に遺棄したという殺人死体遺棄の事案について次のように評価した。その経緯,動機は,被告人が,本件の約1年前に妻と結婚した当初から義母とも同居していたところ,義母が,被告人に対して,説教や,叱責,非難を繰り返すことに嫌気がさし,義母との同居生活から逃れたいと思い悩んだ末に,その手段として義母殺害しようと考え,そのことによる逮捕を免れるためには妻も殺害するほかなく,乳児である長男も妻と一体であると考えて,家族3人の殺害を決意したというものである被告人に対する義母の言動には,結婚前後ことなど,被告人としては既に解決したと考えていた問題を繰り返し引き合いに出して非難するものや,被告人の両親に対する非難理不尽被告人に向けるものがあり,その口調も激しいものであったから,若年の被告人がうまく対処できず,義母から逃れたいと考えたこと自体には同情の余地があるものの,そのような事情義母殺害し,さらに妻子の殺害まで決意するというのは,余りに短絡的であるし,自らの自由を手に入れるために家族3人を殺害したという点で,甚だ身勝手ものである。各殺害態様も,長男については,その頸部を両手で絞め付けて瀕死の状態にした上,全身を浴槽の水中に沈めて窒息死させたものであり,妻については,その就寝中に洋包丁を手にして襲いかかり,目を覚ましたところを,その頸部を同包丁で突き刺し,助けを求める声を上げても意に介さずに,後頭部をハンマーで5回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させたものであり,義母についても,目を覚まし立ち上がっていたところを,その頭頂部にハンマーを振り下ろして殴打した上,倒れてからも後頭部を更にハンマーで3回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させたもので,いずれも,強固な殺意に基づく,執拗で,残虐なものである。また,被告人は,本件の数日前に3名の殺害を決意し,その方法を考えた上で,犯行前夜には職場倉庫から上記ハンマーを持ち帰るなどしており,本件は相当に計画的犯行であるし,3名殺害後は,勤務先の資機材置場に穴を掘って,長男死体を埋めて遺棄したほか,埋めきれなかった妻と義母については,強盗犯人殺害されたと装うべく,部屋が荒らされた様子を作出し,貴重品を持ち出して草むらに隠匿するなどもしており,殺害後の情状も悪い。3名の殺害という結果は誠に重大であり,義母の母ら遺族が厳しい処罰感情を示しているのも無理からぬこである。以上の事情を踏まえると,被告人義母から逃れたいと考えたこと自体には同情の余地があること,被告人前科はなく,犯罪性向が強いとはいえないこと,被告人反省の態度を示していることなど,被告人のために酌むべき事情を十分考慮しても,その刑事責任は誠に重大であり,被告人死刑に処した第1審判決を維持した原判断は,当裁判所もこれを是認せざるを得ない。

しかしながら,弁護人等による再審請求理由によれば,本件が発生した当時の日本社会特に事件生地である宮崎県などにおいては,土着的な卑猥感情表現するサイン漢字の読音や印象を借りて表現する所謂キラキラネームや,国家社会が正常に機能しない結果,母親,祖母,子供などが教育により得ていた理性を失却してその本来の土着的情念を取り戻し,卑猥情念を生成し,一見正常な日本語に類似するものの,それとは判然別物の特殊サイン等により被告人らを誹謗中傷していたというような状況があり,本件が発生する平成22年以前から社会全体に理性が失われ,日本人本来の土着的感情や,それを表現するサイン蔓延しており,理性を保持する被告人として,そのようなサインを用いて被告人を叱責罵倒したり,暴動を起こす妻や長男義母殺害しなければ,これらの勢力に正常な理性を去勢されて人間としての生活が立ち行かなくなると考え,国家等が機能しなくなるや即座に教育された理性を失却し,その本来の土着的情念を取り戻し,警察犯罪認識しない卑怯手段により正常な人間誹謗中傷したり,騒擾を起こす動物と化した妻,義母長男らの社会的人間としての裏切り非人間性に絶望し,斯かる屑畜生のような人間は,主としてそのような人格の発生する脳自体破壊して殺すに如くはない,如上の土着的情念の根源たる長男である乳児は斯かる土着的情念の発生根源たる女性である妻や義母などと一体であると考え,これらの殺害を決意し,長男の頸部を両手で絞め付けて瀕死の状態にした上,全身を浴槽の水中に沈めて窒息死させ,妻については,その就寝中に洋包丁を手にして襲いかかり,目を覚ましたところを,その頸部を同包丁で突き刺し,助けを求める声を上げても意に介さずに,後頭部をハンマーで5回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させ,義母についても,目を覚まし立ち上がっていたところを,その頭頂部にハンマーを振り下ろして殴打した上,倒れてからも後頭部を更にハンマーで3回くらい殴打し,頭蓋骨を粉砕して脳挫滅により死亡させ,また,被告人は,本件の数日前に3名の殺害を決意し,その方法を考えた上で,犯行前夜には職場倉庫から上記ハンマーを持ち帰るなどしており,3名殺害後は,勤務先の資機材置場に穴を掘って,長男死体を埋めて遺棄したほか,埋めきれなかった妻と義母については,強盗犯人殺害されたと装うべく,部屋が荒らされた様子を作出し,貴重品を持ち出して草むらに隠匿するなどもしているが,これは当時から警察組織形骸化していて,被告人正義の行動に及んでもそれを正義の行動と警察理解せず,自分死刑相当の殺人容疑で逮捕するであろうと察知して作為したものであることが明らかであり,全体において止むを得ない行動であったことは明らかであるが,たといこの被害者のように国家機能しなくなるや直ちに教育された理性を失却し,世間流行に任せて土着的な卑猥情念を生成し,当時の警察犯罪理解しないような卑猥感情サイン表現手法によってあらゆる犯罪遂行せんとしていたような屑畜生にも劣る者と雖も一応過去には理性のある人間であって社会に貢献したこともある人間であり,しか被告人は3名もの人間殺害しているのであるから,如上のような状況を勘案しても,被告人殺人行為を犯したことは間違いない。また,たとい被告人が如上のような理由により本件3名を殺害したと雖も,当時国家機能していなかったことについては国家にも責任があり,被告人が父親として妻や長男義母を統制できなかった責任無視することはできず,また,被告人は,単に自己を含む一般社会の正常な人間の理性が去勢されない為だけの理由で本件犯行に及んだのではなく,多少なりとも被害者等に対する人間嫌悪の情があったものであって,動機に不純な部分もあり,刑法199条所定の殺人罪の法定刑の下限は懲役5年であることから,いかに被告人が止むを得ない理由により本件行為に及んだと雖も,例えば国家非常事態であったから超法規的に被告人無罪とすることも,上記責任や不純な動機からすると困難である。少なくとも再審請求は当時の社会状況という新規証拠があって正当であり,原判決のし死刑判断が不当であることは明らかであるが,右の理由被告人刑法199条に従って処断せざるをえない。しかし,被告人殺害した人間は,如上の如く人間性の欠片もない人間であるから,犯情は著しく軽く,被告人を法定刑の下限である懲役5年とするのが相当である。また,我が刑法法制上,刑法25条により執行猶予を附することができるのは懲役3年以下に値する犯罪のみと規定されている為,法定刑の下限が5年である殺人罪を犯した者には,いかにその犯情が軽くとも執行猶予は附しえない。

依って,弁護人らの再審請求は理由があるからこれを認容することとし,被告人懲役5年の実刑に処することとし,主文のとおり判決する。

検察官野口元郎 公判出席

(裁判長裁判官 山浦善樹 裁判官 櫻井龍子 裁判官 金築誠志 裁判官 横田尤孝 裁判官 白木勇)

2015-03-22

鳥肌が立つほど感動するとか好きな曲がいくつかあるんだけどめったに聞かない。

聞いたときの、記憶をほじくりかえされるような感じと心を揺さぶられるエネルギーに耐えるのが大変だからだ。

でもたまに聞いてしまうと時空がゆがむような感覚に襲われる。

二度と戻らないものという記憶の蓋を開けてしまうことは強い情念を揺さぶ劇薬である

2015-01-05

ソログの株式とかライフハック系の記事

ソログの真面目そうに見える記事だけにブックマークするのはアホらしい行為だ。

ソログの漁網に囚われているに他ならない。

ソログはそうした人々を馬鹿にしてほくそ笑んでいるに違いない。

あれはプロレスでああしてもらっているのであって、本来ソログはもっと文学的で愛や観念を語る場なのだ

ソログはそうした文学的姿勢を実は隠そうともしていない。

そうしたコアになる部分に立脚して昨今ありがちな記事作出している。よく見りゃすぐわかる。爪を隠している。半分くらい。

個人的にはクソログのコアになる情念すべてに賛同できるわけではない。

ただし情念がしっかり存在していることには留意したい。

そうしないとクソログは「読めない」。

2015-01-02

Natural Color Phantasm Vol.11夜勤病棟~闇の中へ還るものたち』

■本文。

 今回プレイした『夜勤病棟』もそうなのだが、ダーク系の美少女ゲーム場合は、非日常的な体験を核としている以上、表層的には、プレイヤーから遠い存在でなければならない。無論、内面的には、闇の部分を共有させる必要性もあるのだが。

 なので、ダーク系のゲーム場合プレイヤーダイレクト投影できるような、無個性主人公では駄目なのだもっとも、『河原崎家の一族』のように[覗き見る]ということに主題を置いたゲーム例外なのだけども、基本的に、背徳的な行為を行う、プレイヤー代理である主人公は、アクが強く、ウィットに富み、性的超人だ。それは、恋愛系の美少女ゲームに於ける主人公像とは、鏡像的な関係にあると言えるだろうし、それは……フランス書院文庫や、マドンナメイトといった、既存ポルノ小説を支配する概念だったりもする。

 そして、それらに共通する超人願望を、悪しきマッチョイズムと評する人もいるのだが、ポルノメディア本来男性原理が基盤となっているものから、それを責めるのは、ちょっと違うような気もする……ポルノメディアとは、本質的に「そういうものなのだ

 そういう意味では、ゲリラ戦天才であり、エロゲー界のチェ・ゲバラとも言える臭作さんは、まさに完璧超人だったんだけど、『夜勤病棟』の主人公である比良坂竜二]の場合は、調教者としての天才的な手腕よりも、コミュニケーション不能者としての印象が先に立つ。性格狡猾な割には、根が幼稚というか……ほとんど子供です。なので、キャラクターとしては、『好き好き大好き!』のラバーフェチ主人公に近いと思う。特定イコンに対する執着……竜二の場合スカトロジーへの執着が強いというあたりも似ているかもしれない。となると、ゲバラというよりはカストロかなあ(何を言ってやがる)。

 まあ、感情移入するには紙一重の人物設定なのだが、実はこの落差がダーク系では重要だったりもする。個人的には、竜二となら美味い酒が飲めそうな気がするが。同病相憐れむ、といった感じか……。

 ところで、竜二の場合は、歪んだ支配欲(自己顕示欲)の背景となっている、自分コンプレックス言及している箇所が、やたらと目立つ。例えば、恋に対する感情の変化は、ある意味で[お約束]と言えるが、同時に、[お約束]に対する違和感を描いているという面もある。

 例えば、お近付きの印に花を貰っただけで、相手が自分恋愛感情を抱いていると思い込み、その相手に恋人がいることが判明すると一転して、逆恨み的な復讐を誓う……という心の動きは、暗く、自己中心的な欲望ではある。しかし、子供であるが故に、一定共感を持つことはできる。けれども、非日常的な舞台&人物設定は、過剰な思い入れを抑える。結果、ダーク系な美少女ゲームで、最も重要な[紙一重]の感覚を上手く成立させているのだ。

 そして、『夜勤病棟』という作品は、被調教者の心理描写に加え、調教者の心理描写にも踏み込んだことで、『雫』や『好き好き大好き!』といった作品系譜で捉えることもできるだろう。もっとも、前出の作品に比べると、非常に明るめな印象はある。これは、従来のポルノ小説に於ける、エアブラシを用いたリアル系イラストレーションとは正反対な、淡くパステルカラー系なグラフィックを用いていながら、作品的には、ポルノ小説世界観を骨格として援用していることに起因する。結果、一種の異化効果が働き、独特の雰囲気を醸し出している。

 そして、前号の原稿でも書いた、マッチョイズムにもフェミニズムにも共感できなかった人々にとっての信仰……という要素が強い、前出の二作品と同じ文脈で語れるであろう要素を持ちながらも、『夜勤病棟』という作品は、従来の定型……つまりマッチョイズム寄りの作品としても成立しているという、不思議立ち位置ゲームだったりする。

 無論、ポルノメディアとして捉えた場合は、こちらの方が正統であることは言うまでもないし、不思議立ち位置を確保していることが、昨年あたりから手詰まりな状況に対し、ちょっとしたヒントになるんじゃないかな……という気はするんだけど、どうなんだろうか……?

 でもって、また、話がズレるんだけど、ダーク系とは逆に、恋愛ゲーム場合は、主人公意志プレイヤー意志と同一化し……シンクロ率を上げ、それが頂点に達したところで、何らかの感情を獲得し、それが[快楽]に繋がっている。つまり、涙を流すことが、射精代理行為として成立するケースもある、ということだ。まあ、調教によって隷従させるのも、恋愛によって心の繋がりを構築するのも、繋がったことに対する快楽という点では大差ないような気もするのだが……。

 だから、表面的な情念ノイズとして、削ぎ落とし、隠匿した、いわゆる村上春樹的な文体の方が、実は好ましかったりもする。この場合、隠匿された情念を追い求めることが、セックスと同じく、快楽を生み出す行為になるのだろう。もっとも、その文体で、えっちシーンを構築するのは難しいのだけど……。

 何故なら、恋愛情念を削ぎ落としても、ある程度は成立できるが、エロという部分を記号化するには限界がある。早い話、情念を削ぐと、色気も失せてしまうのだ。ただ、ポルノ小説という場所では、別の意味フォーマット確立されていて、記号的な表現技法として体系化されている。しかし、記号化したのは主に、表層の情念なので、両者を組み合わせると、水と油のような状態になってしまう。

 これは、前々回で『夏祭』をレビューした際にも言及したが、恋愛系の美少女ゲームえっちシーンになると、途端に主人公饒舌になり、オヤジ臭くなるのは、親和性限界を完全にクリアしていない証拠でもある。恋愛描写セックス描写の食い違いが、萌えと泣きの二項対立助長しているとも言えるし、逆に、美少女ゲームが、まだ進化余地を残している証拠でもある。

 さて、進化に関連することとして、美少女ゲームが持つ物語媒体としての構造については、一部のユーザーの間では、ファンサイトという形で研究されているが、主に[トラウマ]と[癒し]という現象にのみ、着目しているケースが多く、セックスという行為に介在する身体的な感覚や、その意味性については、やや軽視される傾向があるようだ。

 ただ、これは作り手の側の問題でもある。しかも、意図的言及を避けている作品もあるから、仕方が無い……という面もあるのだ。加えて、マッチョイズムとフェミニズム類型的なイメージ排除しようとすると、同時に、性的な要素を排除しようとする力が、無自覚に働いてしまう……というのもある。

 そして、フェミニズムの影響に囚われがちな、サブカル系ジェンダー運動に比べれば、美少女ゲームを含めた、オタク向けポルノメディアの方が、思考の行動範囲は広いと言えるかも知れない。自由度が高い、とも言えるのかな……その分、目標曖昧なので、途方に暮れたりもするのだけど。しかし、既存ジェンダー区分が持つイメージとは異なるものを構築する可能性、という意味では、共通しているだろう。

 まあ、結局、問題アプローチ手段、だと思うのだが。

畜生にも劣る総括。

 萌え不能症気味の筆者は、センチメンタル感傷や同情ではなかなか泣けなくて、むしろ物語の流れにシンクロして感極まるって感じなんだけど、これって、結局、同じことなのかなあ……分からん。あ、あと、そろそろホームページ更新します……過去原稿もそろそろアップしないと……げふ。

Natural Color Phantasm Vol.08 『Kanon~残された者のために祈りを』

■その1。

 発端は、とあるまんが家と喫茶店で打ち合わせている時だった。お互い、ヘビーな美少女ゲーマーだったので、自然最近ゲームの話になったのだけど、『Kanon』の話になった途端、そのまんが家は激昂し、強硬に『Kanon』を否定したのだ。激昂の理由は後述するけど、普段は温厚なそのまんが家を激昂させた、『Kanon』というゲームはどんなゲームなんだろうか……という興味が(本人には悪いが)沸いたし、何よりも、巷では大人気のはずなのに、筆者の周辺でプレイした人が、まるでいなかったのも気になっていた。

 『Kanon』というゲームが、恋愛ゲームに興味の薄い人間にとって、敷居が高いのは確かだ。コアなファンは多いのに、その面白さはプレイしていない人には、なかなか伝わって来ない。実際、雑誌の紹介記事を読んでも、「今泉伸二のまんがより泣ける!」程度しかからないし(すまん、古いギャグで)、何より、雑誌ごとに扱いの大きさが極端に違っていた。しかも、筆者は『MOON.』も『ONE輝く季節へ~』もプレイしていなかったので尚更だ。

 ……さて、ゲームプレイしての印象だけども、音楽を含めた演出面は素晴らしいし、シナリオも読んでいて引き込まれる力は十分にある。そういう意味では良質の作品なのかも知れない。でも、正直言って、全体にバランスが悪すぎる……というか、凡庸な部分と突出した部分の落差が激しすぎるのだ。

 まず、シナリオに関して、引き込まれつつも、違和感を感じていた。何故なら、どのシナリオ不条理が剥き出しの状態で、そこにあるからだ。この物語での不条理とは、主に[祈り]と[奇蹟]にまつわる部分で、物語の根幹を成す部分なのだけど、物語形成する要素としての世界観や、恋愛に至る過程といった場所での論理がどれもこれも飛躍し過ぎている。それは、意図的なのかも知れないが、結果、説明不足に陥っている場所が大量に存在するのはどんなものか……と思っていた。

 ……更に本質的問題として、エロゲーとしては全く成立していないのだ。これについてはもう論外としか言いようがないし、ゲームとして見た場合、『Kanon』は、整合性というものが全く欠けていた。

 しかし……そんな欠点ゴロゴロしているにも関わらず、筆者の評価は悪くない。悪くないどころか、個人的には極めて面白かったのだ。じゃあ、何で面白かったのか……それが最大の問題だった。

 話は逸れるが、物語を構築する要素というのは、ウラジミール・プロップの「26のカード」以降、現在では分析され、かなり法則化されている。更に、近代化に伴って、スピリチュアル曖昧だった物語要素は、更に表層的な記号解体され、方程式を組むように商品を作ることができるようになったし、記号の選択と方程式の組み方さえ間違えなければ、ユーザーを「泣き」や「萌え」の状態に導くのも、割と簡単にできる。実際、ほとんどのおたく向けヒット商品作品はそういう計算の上で作られている。逆に、ヒットしない商品のヒットしない理由とは、作り手の創作性……悪く言えば、偏執的なこだわりがノイズになってしまったケースが大半だったりする。

 そして、全ての事象が表層的な記号へ分解されていくこの状況が、この連載で何度も書いてきた[オブジェクト嗜好]の正体で、別の場所では[ポストモダン]と呼ばれていた状況だったのだ。

■その2。

 商品として成立させるために、計算によって整合性を高めると、計算できない要素はノイズとして排除されてしまう。例えば、スピリチュアル物語要素の代表である[奇蹟]は、近年は「陳腐もの」として、扱うことを避ける傾向にある。

 何故なら、ロボットならいざ知らず、人の生死に関する[奇蹟]は極めて不条理で、論理的な説明が困難だからだ。確かに、『To Heart』でも、いくつかの[奇蹟]は存在したが、論理的に説明できる程度に抑え、逸脱することを防いでいた。これは、日常性の維持=普遍性を、物語世界の根幹に据えていたからだろう。

 ところが、『Kanon』の場合は、[奇蹟]を、物語世界の根幹に据えてしまった。作り手が日常から逸脱してしまうことを覚悟していたかどうかは分からない。しかし、『Kanon』は表層的な設定よりも、ドラマトゥルギー的な主義主張が先に立っている作品で、キャラクター記号性で、その綻びを強引に追補していた。それでも、原初的物語要素……スピリチュアルな展開、に対する思い入れが強すぎて、全体のバランスが崩れることは食い止められなかった。

 これではどう見ても、物語として完結させるのは困難で、ああ、このまま破綻したまま終わるのかな……と思いきや、[奇蹟]によって力づくで完結させてしまったのだ。これはとても希有なことだと思う。

 だけども、同時にこの作品は、表層的にも、「泣き」や「萌え」という要素を達成して、商品としても成立している。いわば、作品が二重構造になっており、そのことが先に述べた敷居の高さの原因になっているのだろう。しかし、記号の組み合わせにも、緻密な計算や、意図的ものが、いまいち感じられないのだ。

 肝心の文章のものにしてもそうだ。シナリオ構成自体は随所で破綻しているにも関わらず、文章が独特のリズム感と情念を持っていて、物語に引き込まれしまう。キャラクター描写ストーリー展開で、同じパターンを反復している箇所も多く、もちろん、ある程度の計算は感じさせるのだけど、全体としては緻密な計算より、感覚を優先したように見える。こういう文章を昔、読んだことがあるな……と思ったら、思い出した。平井和正小説……それも、『幻魔大戦』や『地球樹の女神』あたりの感覚に近い。

 平井和正は、自身の紡ぐ物語を「言霊が降りてくる」と表現していたが、それが結果として、[天然の美]となっていた。単純に比べるには抵抗はあるが、『Kanon』についても同じことが言えるだろう。そして、計算だけでは超えられなかった、魔術めいた部分が、このゲームの最大の魅力なのだと思った。

 更に、私見ではあるが、ファンの心性も似た傾向があるように思う。これは、どちらにも共通するのだが、作り手はいざ知らず、ユーザー側が全員、[ポストモダン]という状況を肯定している訳ではない。その状況に戸惑ったり、諦観していたりする人々も存在する。そして、そんな最先端から取り残された人々の存在に思いを馳せなければ見えないものも、また存在するのだ。

 本誌(カラフルピュアガール)の若い読者は、最先端の絵柄で上手いという理由だけで美少女ゲームを買うかも知れないが、そういう人には、『Kanon』が売れる理由は多分、分からないだろう。

 絵描きにしてもそうだけど、[作り手]と呼ばれる人々は、常に最先端を追い続ける義務感を持っている。そういう人々が、立ち止まることを肯定してしまうような作品否定するのは、無理もない。冒頭の出来事の原因もまた、そういうことだったし、筆者も、順調に本業だけ続けていれば=最先端を追いかけていれば、こういう視点は持たなかったろう。けれども、筆者にとっては、最先端の行き着くところは[ポストモダン]という名の絶望だったのだ……。

 しかし、今回のプレイでの教訓は、[真・善・美]が最先端の中にあるとは限らない、ということだ。問題は、突き進むにしても、立ち止まるにしても、そこで何を成すか、想像力限界を拡げることができるかどうか、なのだと思う。

■複雑な気分の総括。

 真琴シナリオプレイしていたら、ネームに詰まったかかしあさひろが遊びに来た。そして、後半の反復する連鎖コンボのような展開を見ながら「ああ、こりゃルネッサンスだな」と言った。おそらく、タイトルから何か連想して言ったのだろう。

 しかし、これは面白い発言だ。エヴァ以降、完結しない物語が当たり前になり、影響を受けた若い世代は、技術至上主義ビジュアル志向に走り、物語という概念すら放棄しかねないという状況……そんな、進化による閉塞から逃れるための、前近代への回帰として考えると、『Kanon』という、無謀極まりない物語は、微妙な可能性を秘めていると思う。まあ、それは別の閉塞なのかも知れないけど……。

2014-10-19

児童ポルノ規制強化反対派について思うこと

逆に問題となる具体的な法的根拠を教えて下さい。報道を見ても否定派の識者が憲法を持ち出して情念的に疑問を呈しているだけに感じます

憲法拡大解釈してはいけませんよ。よく某政党が主張しています

2014-09-25

ASKA歌詞はなぜ素晴らしいのか?──母音想像力試論

 ASKAの詞の特徴の一つは、複雑な比喩を折り重ねていくことにある。そうした複雑な比喩の解読については、「On Your Mark」の楽曲分析で先日書いたところであるhttp://anond.hatelabo.jp/20140924014048)。

 しかしながら、私はCHAGE&ASKAの熱烈なファンであるけれども、「比喩」の観点から歌詞を見ればASKAよりも巧者は他にもいると思っている。例えば、スピッツ。「ロビンソン」の印象派絵画を思わせる複雑な比喩を見るとASKAに少々分が悪い。では人生の機敏という観点から見ればどうか? 私の考えでは、ASKA中島みゆきに遠く及ばない。しかしそれゆえにASKA歌詞は二流であるわけではない。

 ASKAの詞はJ-POP史上稀に見る「音楽性」を持っている、というのが私の意見だ。「言葉音楽性を持っている」とはどういうことか? 分かりやすい例として、まず"YAH YAH YAH"をとりあげて、それを説明したい。

YAH YAH YAH」はYAH YAH YAHでなければならなかった

 「YAH YAH YAH」のサビは、ご存じのように、ひたすらYAH YAH YAHが繰り返されるだけであるしかし「YAH YAH YAH」という発音には極めて綿密で、天才的な直観があると私は考えている。仮に、YAH YAH YAHの部分を「ウ」でも「エ」でもよいが、別の母音に置き換えたもの想像してみると、「YAH YAH YAH」という曲そのものが成立しなくなることが了解されるだろう。YAH YAH YAH発音秘密はそれだけにとどまらない。その前の歌詞に注目する必要がある。

から一緒に これから一緒に 殴りにいこうか

 この部分を読むと、「イ」の発音が異様に多いことに気がつく。「イ」は、歯を食いしばって発声される。怒りを耐え忍ぶかのような身振りを発音要求している。そして、サビに入る時に「ア」の開放的な音に切り替わる(殴りにいこう「か」)。サビの一個手前に、このような母音ドラマが隠されている。この「イ」と「ア」の動きをYAH YAH YAHというサビで何度も何度も再現するのである。なお、「今から一緒に」の前にある「勇気だ愛だと騒ぎ立てずに その気になればいい」では「イ」で終わっているので、まだ耐え忍ばなければならずYAH YAH YAHと叫ぶことができないように発声的にも規制されていることが分かる。こうして見てみると、一見単純に見えるYAH YAH YAH歌詞には天才的な音楽直観が働いていることが分かるだろう。

先人・井上陽水

 そうした作詞法はASKA専売特許ではない。そうした作詞法を意識的採用しているのは、ASKA尊敬している井上陽水である陽水は、「Tokyo」の冒頭部分「銀座へ鳩バスが走る」という歌詞秘密を次のように語っている。

タモリ で、それを作りたいってことに、なんで銀座が浮かんできたわけ? しょっちゅう行ってるから

陽水 いや、そういうことじゃなくてホラ…、東京でね、やっぱり一曲ね[作りたいと思ってたから]。で、「銀座へ~」っていうね、あのー、人によってね、いろいろ、発音でね、取り柄がある発音とあんま響かないのがある。「銀座へ~」っていうのが、この口にすごく合ってたの。「銀座へ~」、あ、響くなあ、って。

7:00-7:40頃 https://www.youtube.com/watch?v=szB9lhaX2XY

 井上陽水の曲を聞いてみると、たしか言葉の「音」に対する独特の"美意識"があることが分かる。これはこれで、余人には真似しがたい孤高の美をたたえている。「Tokyo」であれ「Make-up Shadow」であれ、言葉に対するきわめて繊細な美意識を私は感じる。

 完全に余談だが、全世界的に流行した「Let It Go」の歌詞にも言葉の音に対するこだわりを強く感じるので紹介しておく。

My power flurries through the air into the ground

My soul is spiraling in frozen fractals all around

And one thought crystallizes like an icy blast

I'm never going back, the past is in the past

この部分は、一番の大サビに向かう、心躍る箇所だ。

歌い始めの「My power flurries through」の部分は、口をすぼめる内気な発音が多い。しかし、「the air」の所でやや反抗的な「エ」の発音がやってきて、「into the ground」で一回大きく開放的になるが、すぐに締められる。「My soul is spiraling in frozen」までは基本的にはやはり内気な発音が多い。「fractals」のところで「the air」とは別のしかたで(歌い方で)反抗的な様子を見せるが、これも「all around」の個所で一回開放的になるが閉じられる。こうした発音ドラマ最後に、「the past is in the past」の個所がやってくる。このようにして、まこと開放的で、ドラマチックな「ア」の発音がここに訪れるのである

 このように、言葉の音に対する意識世界的に存在する。しかしながら、日本語は、世界の様々な言語と比べても「母音」の割合が非常に多いという特徴をもっている。日本ロックミュージシャンたちはこの母音に苦しめられてきたのだ、と言っても過言ではないだろう。そこで例えばサザンは子音に着目した。サザン日本語における子音の可能性を大きく拡張したミュージシャンとして評価することができる。しかし、ASKAあくまで「母音」の可能性にこだわったミュージシャンであると私は考えている。日本語本来の特徴が「母音」にあるのだとしたら、その「母音」を徹底的に活用したのがASKAである

話をASKAに戻すと……

 こうやって私が言葉の音に対して敏感になったのは、チャゲアス音楽を聴いてからだ。ASKAは、まず歌唱からして、母音を強調している。これは良くも悪くも「古さ」を感じる歌唱であろう。母音を強調する歌手として、例えば尾崎紀世彦布施明を挙げることができる。彼らの歌唱には「昔ながらの情念」を感じる人が、とくに若い人になればなるほど多いのではないだろうか。一方、母音を強調しない歌手小田和正歌唱にはそうした「古さ」を感じることはないのではないか。母音は、本能的な部分に訴えかける、ほとんど呪術的と言える原始的な力をもっている。しかし、それを真に受け止めるためには現代はいささかシャイなのだ、というのが私の持論だ。母音とは、一種の「ますらをぶり」であるASKAは「ますらをぶり」のシンガーである

 私の見立てでは、ASKA母音から歌詞構成する方法意識化したのは、だいたいシングル「WALK」以降である。「WALK」より前の曲には、母音に対する美意識を見出すことが難しかった。逆を言えば、WALK以降には母音に対する鋭敏な感覚ASKAの曲に感じる。国民シンガーCHAGE&ASKAが出来上がったのは「SAY YESであるが、「SAY YES」と同レベル作品を量産できるようになったのはだいたいシングル「WALK」の時期からだ。一つ一つ楽曲分析をして証明をすることもできなくはないが、それをするとなると、ちょっと本格的にやらなくてはいけない。そこで、ASKAの曲の中でも、母音の使用がもっとも素晴らしいと思う楽曲を一つ見てみることにしよう。「はじまりはいつも雨」だ。

全てが奇跡的な「はじまりはいつも雨」

 「はじまりはいつも雨」はASKAソロの曲だが、チャゲアスVer.も残されている。私の一番好きな音源であるhttps://www.youtube.com/watch?v=5mzj72QxrYo)。

 「はじまりはいつも雨」は、メロディー歌詞の二つが複雑なハーモニー形成しており、決して不協和音をつくっていない。母音の使用法も極めて洗練されている。しかしながら、冒頭から母音分析をはじめても感覚的に分かりづらいと思うので、もっとも分かりやすいところから見てみよう。それはサビの終わる所である

はじまりはいつも雨 星をよけて(一番)

失くした恋達の 足跡(あと)をつけて(二番)

はじまりはいつも雨 星をよけて ふたり 星をよけて(大サビ

 まず気がつくのは、これら全ての終わりが「エ」で終わっているということである。仮にこれを「エ」以外の音だと考えてみよう。すると、この曲自体がぶち壊しになることが分かると思う。「ア」だと少々なさけない感じがするし、「イ」はやや幻想的になるかもしれないが悲痛な雰囲気も漂いそぐわず、「ウ」はそこで完結してしまい、「オ」では重すぎる。ここは「エ」でなければならない。暗い街中に消えていく複雑な余韻は、ここでは「エ」によってしかつくることができない(なお、似たような曲として井上陽水「帰れない二人」があることを指摘しておく。また、ASKAは「はじまりはいつも雨」を作る時にその曲を意識していると私は考えている)。

 さて、この曲における母音もっとも美しいと思うのはサビに入る前の「誰よりも 誰よりも」という箇所だ。J-POP広しといえども、このような「オ」の大胆な使い方をして、それが成功をおさめている例を私は他に知らない。この箇所は「ア」と「ウ」でも成り立たないことはない。しかし、「ア」だとあまりに開けっぴろげで楽観的すぎるし、「ウ」だと少しストーカーのようないやらしさを感じる。ここはやはり「オ」でなければならず、「オ」という少しくぐもった母音によっていささか内気な青年の、胸の奥底からやってくる高鳴る期待が的確に表現されていると私は考えている。言葉の「意味」ではなく「音」によってこんな複雑な操作をできるシンガーソングライターが今どこにいるだろうか? たいへん残念なことに私はASKA以外に知らない。

 他にも「はじまりはいつも雨」には美しい母音が色々ある。例えば「今夜君のこと誘うから 空を見てた」の「と」の遠慮がちな「オ」とその後にメロディーとともに上を見た時にある開放の「ア」であったり(綺麗な夜空を見て嘆息つくような場景が思い浮かびます)。こういうことは言いすぎると野暮になることかもしれない。とりあえずは「はじまりはいつも雨」を聞いていただきたい。それから、「Say Yes」や「no no darlin'」などのチャゲアス名曲から美しい母音たちを集めて、それぞれ言葉の音を解釈してみるのも一興だと思う。

2014-09-24

CHAGE&ASKAの"On Your Mark"について

CHAGE&ASKA名曲On Your Mark

[MV] On Your Mark / CHAGE and ASKA https://www.youtube.com/watch?v=3Obh9kg6o_U

 CHAGE&ASKA「PRIDE」J-POPきっての名曲です。それについては先日、ライヴ聞き比べの記事を書きました(http://anond.hatelabo.jp/20140923002713)。

 しかCHAGE&ASKAには「PRIDE」と肩を並べる、もう一つの壮大なバラード存在することを忘れてはいけません。それが「On Your Mark」です。この曲はCHAGE&ASKAの15周年記念シングル曲であると共に、アルバム「CODE NAME.2: SISTER MOON」のラストを飾る曲です。また、数億円を費やして宮崎駿にPVを作ってもらった曲でもあります。そのPV短編映画扱いで「耳をすませば」と並んで上映されたこともあるので、そちらでご存じの方も多いかもしれません。

 「On Your Mark」は間違いなくCHAGE&ASKA代表する名曲で、「SAY YES」や「YAH YAH YAH」が忘れ去られても、この曲が歴史に埋もれてしまうことはないでしょう。相方CHAGEは、数あるASKAの曲のうちでも「On Your Mark」をもっとも好きな曲だとどこかで言っていましたが、それも頷けますCHAGE&ASKA全盛期を告げる初めの曲が「WALK」「PRIDE」だとして、「SAY YES」「YAH YAH YAH」といった名曲を連発した全盛期を経たのちの「On Your Mark」は、それら名曲群をじゅうぶんに締めくくるに全く恥じることがない傑作だと言えるでしょう。

 前回は「PRIDE」ライヴ聞き比べというマニアックな作業を公開しましたが、今回は「On Your Mark」の楽曲分析というこれはこれでマニアックな作業を行ってみようと思います。というのも、比喩に富んだ歌詞に、転調を次から次へと重ねていくこの曲をどう解釈すればいいのか自分自身からなかったからです。以下、個人的思い入れ解釈しているメモ書きです。

冒頭の転調について

 静かなシンセピアノから曲は始まりますASKAは決して楽観的には聞こえない調子で「On your mark」(位置について)と歌います。すると、曲は変ホ長調から嬰ヘ長調に転調し、ベース八分の「ダンダンダンダン」というリズムが刻まれます。まさに、走り出したがごとくに。

 J-POP分析するときに調性を云々言うのは的外れと言われるかもしれないが、決してそんなことはないと思います変ホ長調ベートーヴェンが「交響曲第3番(英雄)」で用いた「荘厳の響き」の調性、そして嬰ヘ長調は♯が6つ付いて、複雑で混沌とした響きを持つ。例えば、マーラーが「交響曲第10番」のアダージョで用いたのは嬰ヘ長調であるチャゲアス変ホ長調の調性を探すと「PRIDE」や「Sons and Daughter~それよりも僕が伝えたいのは」を挙げることができますベートーヴェン英雄」と同じく、どちらも荘厳の印象を私たちに与える曲です。しかしながら重要なのは、「On Your Mark」はこの荘厳の調性からすぐに転調する(=外れる)ということです。すなわち、この曲は、はじめから英雄からの「除け者」であり、「PRIDE」のように素朴かつ豪胆に歌い上げることさえ禁じられたものの歌なのです。したがって、「On Your Mark」ははじめからかなりひねくれた性格をもつ曲なのです。この冒頭の転調を聞いて、たしか私たちはどこか言い知れぬ複雑さを覚えるのではないでしょうか。

 それでは、歌詞を見てみようと思います

歌詞について

そして僕らは いつもの笑顔と姿で

埃にまみれた服を払った

この手を離せば 音さえたてない

落ちてゆくコインは 二度と帰らない

君と僕 並んで

夜明けを追い抜いてみたい 自転車

 「いつもの笑顔と姿で/埃にまみれた服を払」うというのは、強がりの笑いです。いろいろケチをつけられるが、それを「いつもの笑顔と姿」で何気なく払うのです。そして、大切なものを失う時(落ちてゆくコイン)、それは音さえたてません。静かになくなっていきます。「私」はそれさえも「いつもの笑顔と姿」で見送っていきます

 次に出てくる「君」というのは、むろん共に走っている人でしょう。この「君」が男性なのか女性なのかは不明です。つまり友情歌なのか恋愛歌なのか分かりません。周りの友人に尋ねてみましたが、「君」は男性だという意見女性だという意見ではっきり分かれました。私は「けれど空は青」等につながる男性同士の友情歌だと認識しています。実際、宮崎駿もこの曲を使ってCHAGE&ASKAの二人を主人公としたPVをつくっていますし、CHAGE&ASKA自身のことを歌っていると考えるのがもっと自然解釈だと思います

 「夜明けを追い抜」くというのは面白いイメージだと思いますASKAは「晴天を誉めるから夕暮れを待て」で、今晴天のように売れている自分をみんなチヤホヤしてくれているけど、「夕暮れ」時に誉めてほしいと取れるような歌詞を作っています。また「太陽と埃の中で」という曲もあるように、ASKAにとって太陽とは特別ものです。朝の冷たい風を切り、太陽という「絶対」に向かって自分の力で進んでいくのです。灼熱の太陽でもなく、沈みゆ太陽でもなく、夜明けの冷たい太陽というところが面白いところです。この冷たさが、決して順調ではないレースOn your Mark=位置について)を予感させます

 ところで、完全な偶然だと思うのですが、PVと同時上演された「耳をすませば」に、まさに「夜明けを追い抜いていく自転車」の描写がありますね。気になるところです。

On Your Mark いつも走り出せば

流行風邪にやられた

On Your Mark 僕らがそれでも止めないのは

夢の斜面見上げて 行けそうな気がするから

(夢の心臓めがけて 僕らと呼び合うため)

 このサビに入ると、また転調し、調性はイ長調になりますWikipediaによれば、「陽気で牧歌的であると同時に「輝かしくはあるが、非常に攻撃的」であり、「気晴らしよりは、嘆き悲しむような情念表現に向いている」という。調性の特徴にあまり拘るのはよくないかもしれませんが、この両義性は重要だと思います。それについては後述します。

 AメロBメロ比喩の激しさに比べるとサビは解説的になっていて分かりやすいと思います風邪にやられて駄目になりそうになるけど、「夜明けを追い抜く」ように、「僕ら=君と僕」は「夢(=太陽)」が頂上にある「斜面」を見上げて、いつか「夢(=太陽)」に行けそうな気がするのです。

そして僕らは 心の小さな空き地

互いに振り落とした 言葉夕立

答えを出さない それが答えのような

針の消えた時計の 文字を読むような

君と僕 全てを認めてしまうには

まだ若すぎる

 調性はまた嬰ヘ長調に戻る。

 この歌詞面白い所は「心」存在する位置です。通常、「心」というものは、個人のうちにあるものです。しかし、ここでは、「心」とは、「僕ら(=君と僕)」の二人が共有している「場」なのです。だから、二人はある程度「全てを認めている」といってもいいような深い関係にあることが分かります

 そんな「心」にある「小さな空き地」。この空き地からは、「NとLの野球帽」で歌われたような、工業地帯にある寂しげな空き地を思い浮かべます。そうした空き地は、基本的には大人たちの目の届かないところにある子供たちのテリトリーであり、遊び場です。一番の歌詞にある「そして僕らは いつもの笑顔と姿で埃にまみれた服を払った」というところにも感じるものですが、どことな童心にかえっているような気がします。そんな秘密の遊び場で、二人は喧嘩をしてしまます(「互いに振り落した 言葉夕立」)。「夕立」という言葉から、たんに喧嘩をしていることだけではなく、「空き地」で喧嘩が終わった後に「夕立」に打たれながら無言で立ち尽くしている二人がいる、という場景を私は思い浮かべます

 その場景が次の「答えを出さない それが答えのような/ 針の消えた時計の 文字を読むような」という言葉につながっていきます。二人は夕立に打たれ髪がびしょ濡れになりながら、互いに見つめ合います。二人とも、本当はお互いのことを分かり合いたいと思っていますしかし、二人は何も言いません(「答えを出さない それが答えのような」)。時計の針が消えてしまい、永遠に続くような気まずい沈黙があります。「永遠の謎」がそこにはあります。相手が何を考えているのか分からず、また自分自身が何を求めているのかも分かりません。やはり、「全てを認めてしまうにはまだ若すぎ」たのかもしれないのです。

 以後、サビが多少の変化を伴ってリフレインされる。分かり合うことな不可能なのかもしれないけれども、それでもOn Your Mark(位置について)! 「走り出」すしか解決方法はないのです。

 曲のラストは、冒頭と同じようなピアノシンセの静かな曲調になります。ここでは調性はイ長調である最後に歌われるのは

そして僕らは

です。この「そして僕らは」というのはきわめて両義的です。というのは、そこにあるのは希望だけではなく、苦しみや失敗も内包されているからです。イ長調の調性が「牧歌的であると同時に「嘆き悲しむ情念であることが特徴であるように、僕らの行く道は「希望であるのか「失敗」であるのか、最後まで種明かしされることはありません。しかし、決して「僕ら」は走ることをやめません。ここに「On Your Mark」のもっている奥深さがあると私は思います。行く先がどうなるのかは決して分からないけれども、苦しみを背負って、夢を目指していつまでも走り続けるのです。

追記──宮崎駿PVについて

 コメントをもらってジブリPV版について思ったことがあるので付け足します。

 「On Your Mark」のPVは、ご存じのように原発事故放射能事故主題としています。その主題設定も手伝って、近年ふたたび注目されています宮崎駿は「タイトル歌詞をあえて曲解し悪意に満ちた映画に仕立て、いつか来る未来に生きる」ことをイメージしてPV製作したと言います。どう「曲解」したらこ歌詞から原発の話になるのか今まで分かりませんでしたが、その答えは「夜明け」という言葉にあることに気がつきました。「夜明け」というのは「太陽」の出現を意味します。ところで、「原発」という装置は、原子核分裂反応から巨大な力を得ています太陽原子の分裂ではなく融合によって光り輝いており、厳密には太陽原発の力は全く異なるものではありますが、しかしながら、原発は「地上の太陽」と形容されることも多く、文化的コンテクストにおいて原発太陽は密接に結びついています宮崎監督が「原発」をテーマにすべく「曲解」したのは、まさに「夜明け」という言葉に他ならなかったのではないでしょうか。「On Your Mark」の歌詞だけを見れば、正直なところ、反核運動よりも原発肯定親和性を持ちます(すなわち、吉本隆明立場に近いのではないか、と私は思います)。宮崎駿はそれを見越した上で、「原発事故が実際に起こった世界でもOn Your Markと言うことは出来るのか?」と問うたのではないでしょうか。映像を見れば分かる通り、宮崎監督は「できる」と考えたのでしょう。しかし、当時と今では世界が違います。今の私たちはまさに宮崎監督のつくった世界の中にいるのです。その世界において、私たちは「On Your Mark」を聞いてどう感じるのか、「On Your Mark」と言うことができるのかと、再び考える時にあるのではないでしょうか。

2014.9.24 18:45

2014-09-23

CHAGE&ASKAの"PRIDE"

 チャゲアスといえば、ダブルミリオンを達成した「SAY YES」と「YAH YAH YAH」がやはり圧倒的に有名ですが、「PRIDE」はそのどちらと並べても決して劣ることのないどころか、全J-POP史上においても比類のない、赫奕たる地位を占める壮大なバラードです。そしてPRIDE幸運なことに録音に恵まれています1989年に発表されたその曲は、何度もライヴで歌われており、様々なバージョンを聞き比べることができるのです。ASKA年代によって声質や歌唱法がかなり異なっているので、それぞれ別のしかたで楽しめます。今回はややマニアックですが、PRIDEの様々なバージョンレビューしてみようと思います

①【CONCERT TOUR 1990-1991 SEE YA!】https://www.youtube.com/watch?v=-KfOdkNFrOk

評価=8

私の知るかぎり、最も早いPRIDELIVE音源です。

CD音源にかなり近いですね。他の音源に比べて特徴となっているところは、サビの「駆け抜けていく」(1:48-50)の歌唱ですね。とくに「く」の母音の処理です。「ウ」と「ア」の中間発声することで、単に「ウ」と発声するよりもパワフルに聞こえますASKA独特の母音の処理方法です。声も若さが満ち溢れていて爽快感を覚えます

②【 夢の番人 SPECIAL EVENT1993 GUYS 】https://www.youtube.com/watch?v=FnOnAXszb3k

評価=9

のものから二年後の音源です。

声のフットワークが軽くて、とくに高音となるサビのメロディーをなめらかにすべっていく様子はあたかサーカスの軽業師のようです。曲をより「自分のもの」にできている気がします。

ちょっとマニアックというかフェティッシュなことを言うと、「涙の跡」(3:33)という部分の「だ」の発声が他のものよりも情感豊かで、素晴らしいです。この録音はもっとエモーショナルものかもしれません。

③【CONCERT TOUR 史上最大の作戦 THE LONGEST TOUR 1993-1994】https://www.youtube.com/watch?v=FepyCkAE00U

評価=9

まり時間の間隔を置いていません。最高のパフォーマンスです。②ほどの情念はありませんが、全体の均整ということで言えば一番優れているものでしょう。

④【ASIAN TOUR IN TAIPEI】https://www.youtube.com/watch?v=iGmHpIn4R2s

評価=10

1995年台北でのLIVE音源です。

ややASKAの声が太くなっていますね。じつは私が一番好きな音源はこれです。

声質が太くなり重量感を覚えさせるけれどもパワフルに突き進むさまは、重戦車が高速移動をする様子さえ思い浮かべます

この録音では「駆け抜けてく」の「く」の音が、しっかりと「ウ」で発声されていますが、私はこちらのほうが好きです。かように苦悶の表情を浮かべた「ウ」はなかなか聞けません。

⑤【MTV UNPLUGGED LIVEhttps://www.youtube.com/watch?v=BsI973Gz0MQ

評価=7

イギリスMTVでのパフォーマンスです。1996年

アンプラグドさら欧米でのパフォーマンスということもあってか、アレンジがかなり変わっています

やや大人しめですね。テンポも少し早くなってあっさりとしています。お洒落な気分でPRIDEを聞きたいという時にはよいでしょう。

⑥【千年夜一ライブ福岡ドーム 僕らがホーム〜】https://www.youtube.com/watch?v=N84lgzkN9BA

評価=6

1999年から2000年にかけての年越しライヴです。

この頃からASKAの喉の調子に翳りが見えてきますポップス歌唱法にはご存じ「ミックス」というものがありますね。地声裏声を混ぜるってやつです。

艶のある地声成分で高音が出ないのか、裏声成分多めで叫ぶ手法オペラ歌唱に近い発声)が所々で見受けられます。後半になると多くなりますね。

⑦【CHAGE&ASKA LIVE IN KOREAhttps://www.youtube.com/watch?v=3X4W5lCMOGs

評価=6

コンサート途中に感極まって歌えなくなったことで有名な韓国ライブです(なおその映像はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=sFi5qExw_pM)。2000年

やはり前と同じで、高音が苦しそうですが、この曲ではその苦しげな姿すら一種のパフォーマンスに転化しうるものをもっており、胸を打つものがあると思います。②とはまた違ったおもむきで情感があります

⑧【COUNTDOWN LIVE 03 04 in SAPPORO DOME】https://www.youtube.com/watch?v=CIC71g9CvcE

評価=5

2003年から2004年にかけての年越しライヴです。⑥の3年後ですね。

この頃になると、90年代と声は明らかに違ってきます。目に見えて声が太くなってきます

喉の調子が治らず、どの歌唱法がいいのか模索している感じがします。

⑨【CHAGE and ASKA Concert tour 2007 DOUBLEhttps://www.youtube.com/watch?v=laGU2JOdj8o

評価=9

声はさらに太くなっていくのですが、そうした自分の声にあった歌唱法が見つけられたのがこのLIVEだと思います2007年

90年代ASKAを軽快なトランペットだとすると、これは炸裂するトロンボーンとでもいったところでしょうか。CHAGEの超高音はさら金属質なものとなって、硬質なハーモニーを聞くことができます

しかしこのLIVEで注目しなければいけないのはASKAよりもむしろCHAGEです。大サビCHAGEの超高音のハモリはこれまでのどの録音にもなかった凄みを与えてくれています

あと、またフェティッシュなことを言いますと、3:25あたりの「傷ついて知ること」の「と」の音は、大地の奥底からやってくるような雄渾な響きで痺れます

まとめ

やっぱり90年代は黄金期で、どれを聞いても圧倒的ですが、その中でも台北ライヴワーグナー「神々の黄昏」のような、崩壊しそうなまでに過剰な絢爛さがあって、私はそれを愛してやみません。

00年代になると喉の不調が目立ちますが、それでもDOUBLEライブは全盛期を取り戻すかのような圧倒的なパフォーマンスを見せてくれますしかしそれは90年代前半の軽業とは異なり、敬虔カトリック教徒の盤石堅固な信仰の凄みにも似たものを思わせます

2014-07-30

戦略的欠勤

また欠勤してしまった。

今朝起きたら激しい出社拒否の情念に襲われたのだ。

さらに寝ぼけた頭が「今日水曜日からハーフタイムにして良いのでは?」と意味不明な提案をしてきた。

意識せずとも風呂でいつもの順番通り身体を洗うように、ごく自然iPhoneへ手が伸びる。

   上司「欠勤の理由は?」

架電5秒で既に声色から不機嫌な様子が窺えた。心の中の労基署に励まされつつ、私は必死に欠勤理由を考えた。ちなみに有給はとうに使い果たしている。

   私「し、私用です」

私がそう伝えると、上役は「分かった」と言って電話を切った。何が分かったのだろう。

しか前回の欠勤時は「休みたいからです」と言ったような気がする。まぁ、嘘じゃないよね。

茶番欠勤連絡のあと、私は罪悪感にさいなまれて悶々とした……わけではなく、ぐっすりと昼過ぎまで快眠した。

起床後はRSSを巡回したり、SNSを覗いたり、おやつやご飯を食べて過ごし、気がついたら夜である有意義ハーフタイムだった。

明日の出勤が怖い。果たして私の後半戦はあるのだろうか。戦力外通告されてはいないだろうか。

シーズンオフ、もといレイオフ足音が聞こえてきて、床についても全く眠れない。

いや、眠れないのは昼過ぎまで寝ていたからじゃないか。わりと人道に反する不眠であるレッドカード免職

2014-07-07

他人をあまり苦しめてはいけない理由について

実験用のモルモットが蚊の餌になってる写真が話題だが、

人間人間に対して残忍な拷問をしたり、事故であったり、そもそも動物界では、生きながら食べられたりと

生物は堪え難い苦痛を受けることがある。

 

たいていは他人事だが、まれに共感能力によって、その苦痛自分のものとしたり、

また少数の人や生物は実際に拷問を受けたり、齧られたりして苦痛を感じている。

 

この文章を読んでいる人はほぼ全員が

自分があんな目に合わなくて良かった」という他人事立場だ。

 

私もそうだ。

しかし、自分当事者になる可能性を考えると、たまに言いようの無い恐怖を感じる。

 

もし自分があの動物だったら?

もし自分プレス機に挟まれて死んだ人だったら?

プレス機を止められないと理解しつつ、ゆっくり鉄板自分を押しつぶすのを待ってる時のことを考えると怖くて仕方が無い。

 

私以外にもそんな人は居るだろう。

しかし、それが自分にはほぼ起こらないと思ってることが多い。

 

しかし、絶対にそういう苦痛から逃げられない可能性があり得ることに気がついている人は居るだろうか?

 

ここからは若干宗教っぽい話になってしまう。

 

自分とはなんだろう?と考えたとき、たいていの人は追求しきれずにうやむやになってしまうと思う。

多くの可能性の中で「自分とは、もしかしたら神かもしれない」と思った人も居ると思う。

(神という表現違和感がある人は「共有意識」とでも何とでも読み代えて欲しいが、ここでは便宜上「神」とする)

この世界を観察、体験する為の主体を追求すると神に行き着き「自分の体験はイコール神の体験じゃないか?」という発想だ。

この発想では全員のコアが神だということになる。

「ああ、、、今日会社行きたくないな、、、」

などという思考や情念自分の脳が作り出すが、それを体験しているコアは神だ、という発想だ。

 

ついて来れているだろうか?

この部分の意味が分からないと、この先は全く理解できないと思うので、分からない人は、ここで読むのをやめるか、何度も読んで理解するかして欲しい。

 

ここからは上記のことを理解した人が読む文章だと思って書く。

 

もし生物(に限らない。意識を持ちうる物質全て)のコアは神で、全生物の体験は神が体験しているとしたら?

 

もしそうなら、ビルゲイツの富もイチローの栄誉も野々村議員の羞恥実験モルモット苦痛も全て自分の体験である

先週の金曜日にかけた商品発注の桁を間違えていることに今朝気付いた私も、

それを怒りつつ、事態をどう収拾しようか胃に穴をあけながら悩む上司も、

商品キャンセルされて土日に無理した受注企業社員社長も、

すべては自分である可能性があるので、あまり私を怒って苦しめないで下さい。

それがあなたの為です。

 

この文章を家を出なければならない時間までに書き上げられなければ、今日会社を休もうと思っていたが、

ギリギリ間に合わなかったので、今日会社を休むことにします。

オフ会には行きます

2014-07-01

嫌悪」の政治家 石原慎太郎橋下徹

まず、冒頭に述べると、私は石原慎太郎橋下徹という政治家は嫌いではない。

特に橋下氏には大阪府民ではないが彼らの行動力や構想力、討論力そして徹底的に民主主義者たる有り様に好感をもつ。

少なくとも「ハシズム批判をしている自称・識者よりははるか社会にいい影響を与えていると思っている。

その橋下氏が先日の「たかじんのそこまで言って委員会」に出演されて熱い議論をされているのを見てある小説の一節を思い出した。

その小説とは、石原慎太郎氏の「嫌悪の狙撃者」である

なぜ、いまさら袂を分かった石原氏の小説を持ち出すのか、と訝しむ声もあるだろうがまずはその一節を引用したい。

===

嫌悪」こそが今日人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的ものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。(石原慎太郎・「嫌悪の狙撃者」より)

===

嫌悪の狙撃者のあらすじ等は他におまかせするとして、嫌悪の狙撃者において石原慎太郎氏が述べようとしたのは「嫌悪」という感情純粋性と創造性であった。

そして嫌悪けが真の感情だという。

その石原慎太郎氏が嫌悪を向けた対象は①左翼リベラル主義者中華人民共和国アメリカ日本支配④硬直した日本官僚制、の大きく分けて4点であった。(その昔は田中角栄による金権政治にたいする嫌悪も強かったといえるだろう)

石原慎太郎氏を「右翼」とみる向きがあるがそれは違う。

右翼」とは日本の古くから伝統重要視し、「保守」し、必要に応じてそれを改革していく思想である

そして、日本の古くから伝統というのは皇室であり、戦前に「國體」とよばれたもののことである

まり右翼」ならば皇室に対する強い尊崇と、それを維持しつつ日本改革を進めていく姿勢必要なのである

しかし、石原慎太郎氏は日の丸については並々ならぬ思い入れを語る一方で、ご皇室に対しては「皇室日本の役に立たない」「皇居お辞儀するのはバカ」(http://biz-journal.jp/2014/03/post_4279.html)と語る。また、君が代についても斉唱する際は冒頭の部分を「わが日の本は」と替え歌して歌う旨をのべている。

この姿は日本右翼の姿とはかけ離れている。石原氏自身も自分のことを「真ん中よりちょっと左」とかんがえているようだ。

それでは、なぜ石原慎太郎氏は「右翼」と勘違いされるのだろうか。それは、上記①②への並々ならぬ「嫌悪からである国民の印象の中には石原氏が①②へ強いレトリックを用いて批判するのを見て石原氏は「左翼」の逆、つまり右翼」と勘違いしているのである

石原氏を知るには右左の切り口ではなく、「嫌悪」という切り口で考えなければその本質は見えてこないのである

そして、同じ構図は橋下徹氏にも当てはまる。

橋下氏は「たかじん…」において、自分保守だとかリベラルだとかの「思想がない」と批判されることを歓迎している。

そのおかげで「必要とき必要政策うつことができる」からだという。

しかし、その「必要」か否かを判断することに「思想」が必要なのであって、無思想というのはありえない。

橋下氏の「思想」は石原氏と同じ「嫌悪」なのである

橋下徹嫌悪するものは①左翼リベラル主義者②硬直した中央官僚制メディア王手から週刊誌まで)の3点あった。

橋下氏はこれらの人々にたいして徹底した論戦を挑む。論戦において彼らを叩きのめすことで嫌悪のはけ口とする。

彼を右左という切り口でみることもまた、本質を見失うことになる。

石原慎太郎橋下徹には上記のような共通性がある。橋下徹石原慎太郎の二人をつなぐものは「嫌悪」という感情以外の何物でもないのである

まり、この二人は「嫌悪政治家」といえる。

最後に忘れずに申し上げたいのは、「嫌悪政治家」というとなにかとても悪いものに聞こえるが、私はそうは思わないということである

フランス革命を成し遂げたのはプロレタリアートによるブルジョアに対する「嫌悪」以外の何物でもない。嫌悪があったからこそマリー・アントワネットを断頭台に導いたのである

しかし、その結果として「創造」されたのはフランス人権宣言という人類の宝であった。この例からも「嫌悪」によって創造されるものが悪とは決して言えない。

また、仮に「平和政治家」や「思いやりの政治家」と呼べる人がいたからといって、彼らの生み出すもの日本世界にとって素晴らしい物になるとも限らないのは日本過去政治家を見ればわかる。

しかし、我々有権者が、彼らが「嫌悪政治家であるということを理解し、その観点から政治活動を見守るのは意味があると思う。

以上

2014-06-30

30代で童貞

婚約者ことなんですけどね。

知り合ったのは、取引先との合コンでした。幹事役だった取引先の幹部から「今度来る子は、うちのエースだよっ」って言われて、またまたーとか思いながら物見遊山のつもりで行ったら、一人だけおとなしそうな、だけど如才なく話を盛り上げてくれる人がいて、それがそのエースくんでした。有名国立大学卒業し、人事・企画系のお仕事メインで、同期のトップを切って絶賛出世コース真っ最中。年齢は30代前半。お話しても、とっても頭の回転が速いのが私でもわかります。嫌味なところが全然なくって、これはたくさんの女の子に好感もたれるよねーって思いました。


もともと仕事関係で行った合コンですし。

モテそうな男子にわざわざ絡むほど暇じゃないですし。

当時は大学同級生彼氏もいたし、腐っても慶應、そこそこ稼いでますし。

実は幹事役だったその取引先の幹部とも不適切な関係を2年くらい続けてましたし。

さらに実は会社上司とも入社以来ずっと不適切な関係を5年くらい続けてましたし。


なので、まあ今後お仕事をするにあたって良い人脈を作れたわー、ダーリンありがとってその幹事役の幹部にお礼を言ったりしてたのですが、なぜかそのエースくんから頻繁にメールをもらうようになり、半年くらいさしでご飯を食べる間柄を続けたら、ある日、「付き合ってほしい」って言われて愕然。さすがに上司や取引先の幹部との話は伏せてたけど、過去恋愛話も少ししちゃってたし、彼氏がいるってことも言ってたので「知ってのとおり、彼氏いるから…」って言ったら、「同時進行で良いから、選んでほしい」って。きゃー。


ところが「お付き合いしている」状態になっても、手を握るだけで、一向にそれ以上進みません。そんなある週末の日、自宅マンションの近くで二人で飲んで、強烈に酔ってうちまで送ってもらって、お水とか飲んで醒ましているうちにすごく体が接触してしまいました。

むらっときた私がベッドの上に覆いかぶさるようにキスをしたら、彼ががまんできないふうにむしゃぶるようにキスを返してきて、それが歯がガチガチ当たる超下手糞キス

それでも、ここがチャンスと思って恥ずかしそうに顔をそむけたら、ぶるぶる震える手で服を脱がそうとしてきたけど、ボタンがちぎれそうなくらい焦っているので、これは相当経験ないよねって思ってこっちからは一切積極的に攻めず「ね、ゆっくり、優しくして」って言ったらようやく落ち着いて少しずつ服を脱がせてきます

ブラジャーの外し方も知らなくて、取れてないのに胸とか乳首を揉もうとするから痛かったです。それでもようやく二人とも下着になって「恥ずかしいから暗くして」って柄にもなくぶってみたら真っ暗にしやがった。

見えねーだろそれじゃ。

案の定、手が関係ないところを動き回って下着も取れないので、脱がされたふりをして自分で脱いであげました。

愛撫も痛い痛い。乳首と陰部だけ触ってんじゃねー。胸をぐりぐり揉むな。乳首とか噛むな。いざ行為になっても入れる場所がわからないらしくすごく戸惑ってます。そもそもゴム持ってないし。デートの時くらい一つくらい持ってくるもんじゃないのか。こういう相手にゴムとか出すと何か誤解されても嫌なので、「最後は外に出してね」ってお願いしました。本当は不倫相手のおじさんたちのためにピルを飲んでいるんで大丈夫なんですがね。いつまでも入れられないので、こちらが腰を動かしてあげて、彼の努力で入ったようにしてあげました。

そしたら、30分くらい一生懸命腰を振るのですが、緊張しているのか日頃のハード自慰のせいで刺激が足らないのか、中折れしやがったのです。もちろん私は日頃の行為のようには声をあげません。時折ちょっと気持ちは良かったのですが、いつものようにはしたなく情念解放して「ああん、もっとください」とか言って背中をつかんだりはせず、理知的に「んんん」と言って顔をそむけるくらいです。どうせ真っ暗だから何も見えなかったと思うけど。


で、中折れしてしょげてる彼から聞いたら、やっぱり童貞だったそうです。

「はじめてだったから気持ちよくなかったかな、ごめんね、ごめんね」って一生懸命謝る彼がとっても可愛くって、「ううん、すごく嬉しかった。私こそ気持ちよくさせてあげられなくってごめんね。私なんかが**さんの初めての女性になってごめんなさい。もっと素敵な女性がよかったよね?」って言ったらがばーって抱きしめてきて、「そんなことない。一生大事にするからね。責任はとるからね。」って。うひゃ。


翌朝、彼が目覚める前にかるく化粧して添い寝してたら、起きた彼が照れながら迫ってくるので、恥ずかしげに応じてめでたく彼は人生初いき。ただし先走りを中で出したので減点1。

で、そのあと、なんで童貞だったか聞いたら、セックスしたら責任とって結婚しろと強く母親から教育されていたようです。母親からってところが強烈に引っかかったのですが、東京からかなり遠い地方中核都市にお住まいなのでまあいいかと。それと、頭が悪かったり、男性経験がむやみに豊富だったりといった、うかつな女性とそういう関係をもって、結婚を迫られるのが嫌だったと。自分にふさわしい女性とでないとそういう関係を持ちたくないと。東大同級生の子とかと付き合えばよかったのにって言ったら、自分より頭がいい子は嫌なんだと。明らかに要は伝統的な男性上位婚思想奴隷なわけですが、なぜか共働きはOKなんだと。


それにしても30過ぎまで童貞を引っ張るのはどうよと。男性経験豊富って何人くらい?って聞いたら、3人まではOKだとか。セーフ。彼には、学生時代彼氏の話と、直近の彼氏の話しかしてないです。本当は会社上司とか彼の会社の幹部とか、妻子持ちだけで5人くらいと付き合ってたんだけどね。えっちときに恥ずかしそうにしているのを見て、私のことを、真面目な子なんだって再確認したそうです。ふぅん。


婚約して、彼の家のノートブックとか触るようになって、2chの書き込み履歴とかはてなブックマークとかみたら、もろミソジニーでした。

最近は元彼のことを執拗に聞いてきますが、答えたらとても不機嫌になります。だったら聞いてくるなよ。

色んな意味童貞こじらせてます

私の過去がばれませんように。

2014-04-29

「第二の小泉幻想

完璧ではないけど勢いがあって、お祭り騒ぎ気分に浸れて、反骨心を受け入れる気概もある。

ドロドロの情念とは無縁の明るいラディカリズム国民は刺激的な味を一度知ってしまった。

その後、「もっと優しい小泉」を求めた。

この人か?あの人か?いや、誰も何か違う。

あの時代しか味わえなかった開放感に、国民は未だ憑かれている。

2014-04-19

「抱きたい」と、チンコが疼く文章に出会った。

自分でも上手く説明できないのですが、私が「抱きたい」と感じる女には共通点があります。それは、ある種のおっぱいの大きさ。たとえ形が悪いおっぱいだとしても、走ると揺れる大きさがあればいいです。また、形を補正するブラジャーがあればなお良し。騙されたいです。


そのおっぱいは決して口当たりの良いものではなく、表面は硬い岩のように冷たい。しかおっぱいアイコンを見せつけながらも、中には滾る情念の強さを隠し持っている。その駆け引きと谷間のチラリズムがたまらない。


共鳴を覚えた瞬間に勃起する。耳を傾けるうちに身体の内側で生じた熱が、私のチンコの形をなし崩していく……。いっそ椅子に縛りつけられて、いたぶられたい。


最近、こんな妄想をさせてくれるおっぱいを見つけて (*´Д`)ハァハァ していますあはは変態(笑)


http://meerkat00.hatenadiary.jp/entry/20140419/1397855209

2013-12-28

http://anond.hatelabo.jp/20131227111949

それは、作ってるのが人間から

あの表紙をメガネクイッな長身イケメンにしとけば腐女子が群がってマーケティングフェミ解答としても100点だった(フェミ女性を低く置かれるのが嫌いなだけ、平等なんて求めてない。)

関連記事のどこかで読んだけど、ロボット若いのは人間不老不死を仮託してるんだから当たり前。まあ要は、人間理想どおりで都合の悪いところは一切合切断捨離して、かつ作った人間連続性を保っていてほしい(だからセックスもできてほしい)というわけだ。

から、若くて着衣巨乳っぽそうな女を清掃業務に据えた時点でこの炎上は煙がなくても起こったことだし、逆に上記のとおりにしていれば、盛れど静かなる情念としてはてブも大好評1000ユーザー超の年末大型秀逸記事になれたのに。

2013-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20131206154749

おトミさんはアニメ場合

絵コンテベースに尺を考えて台詞言葉を詰めるから

富野節といわれる独特なリズム感があって好き

作詞家としては、自分の作品に込めたテーマというか情念が籠ってるあたりは

作品のファンとしては好きと言わざるを得ないけど

そうでない人からすると独特で癖があるかも

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