はてなキーワード: 野口雨情とは
野口雨情(のちに「かっぱの碑」になる詩をかいた)小川芋銭(その碑に絵をよせたかっぱばっかり書いてた画家)
住井すゑ(「橋のない川」という当時有名だったのを書いた。奈良生まれだが芋銭となかよく近所づきあいしてた)
https://www.hns.gr.jp/download/20190608mizunoijinlist.pdf 水の偉人137人
https://www.planetkk.net/%E8%9B%99%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E6%9C%80%E8%BF%91%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%812-%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A9%B1%E3%82%92%E7%B4%B9%E4%BB%8B%E3%81%97%E3%82%88%E3%81%86%E3%80%82/ 水郷地帯には「~~新田」という地名の形で人名がよくのこっている
おわかりのとおり自分は小学校の高学年だけ茨城県にいた人間なのだが、
移住先で高校だの大学だのが建物も文化財指定をうける程度のふるさで、その開校した初代校長とかが偉人になってるケースもけっこうみかけた
ダムとかで人がいなくなると文化がなくなるって反対する人がいるのは
こういう地域特有の土地に結びついた偉人のいいつたえもまるごと消えるからなんだろうな
土地とそこに住む人がなければ思い出してもらえない偉人がたくさんいるんだろう
真実と神話とどちらかが大切なのではなく、どちらも車の両輪のように大切にしなければならない。
想像の中で過ごしている人がいたらそれはロマンチストではなくて現実に対応できない人である。
逆に現実ばかりに眼がいって理想を追わないのは人間として淋しい。
小説や詩歌などでも感性だけの作品はつまらないし、知性だけの作品も読めない。
例えば、童謡で説明すると、野口雨情の「シャボン玉」は感性だけで鑑賞することができる。虹色に光るシャボン玉が空に飛んでいく姿はそれだけで絵になる。ところが、これが子供が亡くなった時の哀しみを思い出しながら描いた作品だということを知れば(つまり知性で考えれば)作品が二重になって見えてくるはずである。長野県中野市の中山晋平記念館には「雨情が旅先で二歳の娘の病死を知らされ、その悲しみを詩に込めた」と解説してあるという。
ただ、娘が亡くなったのは詩ができた二年後という説もあるし、歌手の高石ともやは「間引きの歌」と考えている。ある人から「間引きで死んでいった子どもの歌だ」と聞かされたのがきっかけだ。高石の父親が生まれたのは、間引きが行われたこともある岩手県の山の中。高石も極貧の中で誕生した。父親はとてもかわいがってくれた。が、自分の間引きを考えたこともあったのではないか、という(『唱歌・童謡ものがたり』岩波書店)。
感性だけで鑑賞するのも知性だけで解読するのも双方が必要だ。
理性だけだと他人の痛みが分からない。感性、想像力がなければ分からない。ルソーが『エミール』でいうように「ひとり想像力のみが我々をして他人の苦しみを感じさせる」のである。