はてなキーワード: 架空とは
世の中には、いろいろと差別がある。
日本が貧しかった頃、女性の権利が今より虐げられていた頃はより広く賛同を集めるために平等という言葉有効だったと思う。
しかし、現代に置いては色々なバックボーンを持った人がいる事が認知されダイバシティシティや多様性なども浸透してきた。広くを関心や賛同を集めるために平等では無く公平さが重要ではないかと思っている。
私は、
公平とは出口を同じにすること
と、イメージしている。
例えば、男女雇用機会均等法では、就職差別について禁止していると思う。就職という入口において差別を、禁止しているわけである。これを例えば男女労働機会均等法なる架空の法律を考えてみる。
例えば、今話題なら管理者率を、50%にするだとか育児休業取得率、取得日数の実績を男女同じにするとかそういう公平さが求められているのかなと。
自分はずっとピント来なかったったかど、夫婦別姓の問題も社会の結婚というシステムを使用するためにはパートナーのどちらかにだけ負担を被らないといけないのは不公平だと考えると自分は納得できるんですね。
ただの、言葉遊びですが。
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/3040_47823.html
遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。
日本文学編(anond:20210222080124)があまり注目されなかったけれども、記憶を頼りに続きを書く。
どの作品を入れるべきか迷った。古典の翻案に見られる知性とユーモア、晩年の作品にみられる迫害的な不安、どちらの傾向を持つ作品であっても、元文学少年の心をひきつけてやまない。特に「歯車」などの持つ、すべてのものが関連付けられて迫ってくる凄味は、学生時代に再読したとき、行き詰まりかけていた学生生活の不安と重なり、ただただ恐ろしく、読み終わってからしばらくは寝床で横にならされた。
「河童」を選んだのは中高生の頃で、河童の国を旅する要素に心を惹かれたことを思い出したからだ。それは、大学生の頃よりも不安が弱かったからなのか、この作品に潜む女性への憧れと恐れが自分に響いたのか、あるいは架空世界の架空の言語に魅せられたのか、その理由はわからない。
アンデルセンの小説を読んでいると、きっとこの人モテなかったんだろうなあ、ってのがひしひしと伝わってきて、何だったら今晩一杯つきあうよ、的な気分にさせられる。一人寂しいときへの痛みと、女性への復讐心が入り混じっていて、読んでいて心がきりきりとする。
で、この作品の中でひたすら「いいなあ」と思うのは、悪魔の鏡のかけらが心の中に入ると、どんな良いものもその欠点ばかりが大きく見えてしまうという設定だ。
ところで、ディズニーの作品の価値を貶めるつもりはないけれど、原作とは全然違う話に似たタイトルをつけて世界中に広げるのってどうなんだろう。デンマーク人は怒らないんだろうか(「人魚姫」だって原作改変をやってるし……。いや、ディズニーは普通に好きなんですけど、最近こうした異文化の扱いって難しいですし……)
「白熱光」にしようかと思ったのだが、これはエイリアンがニュートンとアインシュタインの物理学を自力で発見していく過程が延々述べられるだけの話で、燃えるけれども物理学の基礎をかじっていないとちっとも面白くないのでやめた。ついでに、彼の欠点として「科学者とエンジニア最高、政治家と宗教家と文学者は役立たずのクズ」という態度を隠そうともしないところがある。要するに理系の俺TUEEE小説なのだ。それに、しょっちゅうヒロインから説教されるし、作者はいったいどういう恋愛経験をしてきたか非常に心配になる。
そうしたえぐみが比較的少ないのがこの短篇集で、最初に読んだ本だから愛着がある。それに、上の隠しきれない欠点にも関わらずイーガンが嫌いになれないのは、科学的な真理に向き合う姿勢と果てしのない好奇心がかっこよく、さらに己に課した厳しい倫理に身が引き締まるからだ。
友人と富士山に登るときに持っていったこともあり、これも自分にとって思い出深い小説だ。これは、大戦後の新しい時代に適応できない英国の執事の物語である。
彼の小説の語り手は基本的には何かを隠していることが多いので、いつも歯に物の挟まった言い方をする。そのうえ、誰もが自分の信念にしがみついているものだから、登場人物同士の会話は勝手な主張のぶつけ合いになり、実のところ会話になっていない。
カズオ・イシグロはそうした気持ちの悪さを楽しむ作家だ。そして、「日の名残り」は自分の本当の気持ちに蓋をして生きている人、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまう人に、刺さる作品であるに違いない。
彼の作品は不快だ。主人公のボヤキは原則として次の通り。俺は非モテだから思春期の頃には思いっきりセックスできなかった(2023年10月3日追記。「処女と金銭のやり取りなしでイチャラブできなかった」が近いか?)。中年になって女を金で買えるようになったが、ちっとも楽しくない。子供も老人もみんな大っ嫌いだ、バーカ! これはひどい。
作中に出てくる西欧文明の衰退だのなんだの宗教への逃避だの一見知的に見える議論も、すべて上記の嘆きを補強するためのダシに過ぎない。それでもなお、なぜオススメに入れたのかというと、人をエゴ抜きで愛することの難しさを逆説的に語っているからだ。そして、自分が愛されておらず、必要ともされていないと感じたとき、人間がどれほど孤独とみじめさを感じるかを緻密に描いている。皮肉なことに、これは性と愛について真摯に思考した書物である。
ただ、どの作品も言っていることが大体同じなので何冊も読んではいない。
僕がウルフのことが好きなのは、単純に文章が美しいというだけじゃなくて、迷っている人間の頭の中で浮かぶ複雑な段階が細かいところまでよく見えているからだ。例えば親しい人への憎悪が浮かび、言葉ではそれを否定して見せるが、態度にふとこぼれ出てしまう。そうした過程を子供が貝殻を見つけたときのように、ひとつひとつ並べている。
そして、意識の流れとでもいうのか、ある人物の意識から別の人物の意識へと、外界の描写や連想を経てシームレスに移行していく感じが、本当に巧みな脚本の映画みたいで、やっぱり映画って文学から相当影響を受けてるんじゃないかって勘ぐったりするのだけれど、本当のところどうなのかは知らない。眠る前の自分の意識もふと過去に飛び、すぐに現代に戻り、夢想し、眠りに落ちていく。
「灯台へ」とどっちにするかこれも迷った。
さえない少年が万引きした小説を読んでいると、いつしかその物語の中に取り込まれてしまう。これは主人公が異世界に行き、そこでなりたい自分になるが(まさに公式でチートだ)、その報いとして自分自身が本当は何者であったかをどんどん忘れてしまう。何よりも面白い小説なのに、その小説が現実に向きあう力からではなく現実逃避の手段となることの危険性を訴えている。主人公が万能チート野郎になってになってどんどん嫌な奴になっていく様子は必見。また、後半で主人公を優しく包み込む人物が、私の与えたものは愛でなく、単に私が与えたかったものに過ぎない、という趣旨の台詞を言うシーンがあり、これが作品の中で一番自分の心に残っている台詞だ。
ちなみに子どものころ映画版を見て、原作とは真逆のメッセージのストーリーになっているのにショックを受け、初めて原作破壊行為に対する怒りを覚えた。僕が大人と商業主義を信用しなくなったのはこれ以来かもしれない。
基本的に自分は何かを知ることが好きで、だから知識の物量で殴ってくるタイプの彼の作品も好きである。それでいてユーモアも忘れないところが憎い。フィクションとは何だろう、言葉や文字で物語を語るってそもそもどういうことだろう、そうしたことをちらりと考えたことがあるのなら楽しく読めるはず。「Self reference Engine」で抽象的に触れられていたアイディアが、漢字という具体的な文字によって、具体的な形を与えられている。
元々SFの人だけれども、最近は日本の古典にも守備範囲を広げ始めていて、SFが苦手な人も楽しいと思うし、慣れたらSFにも手を出してほしいとこっそり思っている。
どうしてこれほどあなたを信仰しているのに、手を差し伸べてくれないのですか。せめてささやかな奇跡であなたがいらっしゃるということだけでも示してください。そういう人類が何千年、何万年も悩んできたことについて。神に関しての抽象的な疑問は、具体的な舞台設定を与えないと机上の空論になる。
以前も述べたが、ここに出てくる仲間を裏切ったりすぐに転向したりしてしまう情けないキチジローという人物がとても好きで、彼の「迫害さえなければまっとうなキリシタンとして生きられたのに」という嘆きを、情けないと切り捨てることができない。
ただただ弱くて情けない人物が遠藤周作の作品にはたくさん出てくる。だから好きだ。僕が文学にすがらねばならなかったのは、それなしには自分の弱さ、愚かさ、卑怯さ、臆病さ、ひがみを許せなかったからで、強く正しい主人公たちからは救われなかった。
「男性読者」という名の作中人物が本を買うが、その本には落丁があった。続きを探すために彼は同じ本を手に取った別の読者である「女性読者」を探し求める。彼はいろいろな本を手に取るが、目当ての本は結局見つからない。枠物語の内部に挿入されるつながらない小説の断片は、それだけでも完成度が高く、まるで本当に落丁のある文学全集を読んでいるような楽しみがある。
世界の文学をパロディー化した物語のページをつないで作った「鏡の中の鏡」かと思わされたが、それ以上のものだった。語りの文と物語の関係とは、新作と偽作とは、そんなテーマが物語レベルとメタレベルの二つの層の間で錯綜して語られている。
知的障害者のチャーリー・ゴードンが脳手術で天才になるが、その知性は長続きしなかったという悲劇として知られている。けれども、僕はこれをただの悲劇として読まない。障害者とセックスについて正面から向き合った最も早い作品の一つだからだ。
チャーリーは女性の裸を考えるだけで罪悪感からパニックになってしまう。それは母からの過度な抑圧と体罰が原因だったが、それはチャーリーの妹を彼の性的好奇心から守ろうとするが故の行動だった(チャーリーの母が、周囲からもっと支援を得られていたら、あれほどチャーリーにつらく当たらなくて済んだんではないか、とも思う)。
天才になったチャーリーは恋をし、トラウマを乗り越え、苦労の末に愛する人と結ばれ、やがて元の知的障害者に戻ってしまう。一見すると悲劇だが、彼にはセックスに対する恐怖がもはやなくなっている。彼がただの障害者に戻ってしまったという感想は、その視点が抜けているのではあるまいか。
素晴らしかった。中年の仲良しグループというか、ツイッターでいうクラスタの間を行き交う書簡を通して話が進む。居場所をなくすこと、愛情を失うこと、自分の子供をうまく愛せないこと。そして、友人の死。テーマは深刻だ。なのに、読後感は良い。それは視点が距離を取っているからか、登場人物を公平に扱っているからか、それとも愛を失う/奪われる過程だけじゃなくて、そのあともちゃんと書いているからなのか。長い時間の中で、家族や友人が近づいたり離れたりする感じ、これこそ人生だ、みたいな気持ちになる。
子供の頃、太陽が五十億年も経てば地球を飲み込んでしまうと知って、非常に恐ろしかったのだけれど、それ以来人類の運命について書かれた物語がずっと好きだ(H・G・ウェルズの「タイムマシン」も何度も読んだ)。
人類は滅んでしまうかもしれない。生き延びるかもしれない。しかし、宇宙に出て行った結果、ヒトとは似ても似つかないものになってしまうかもしれない。彼らは人類の何を受け継ぐのだろうか。そして、今しか存在しない自分は、果たしてこの宇宙で意味があるのか。
人類の運命が気になるのと同じくらい、僕はきっと遠くへ行きたいと思っている。だから、ヒトという形から自由になってどこまでも進化していく話に魅了され続けるのだ。
歪な界隈って自称してるけど本当に歪すぎない?怖いわ
そんなにバドエンが絶賛される界隈ってやばくない…?バドエン好きって正直かなり隠れてるじゃん?少数派だし
それがこんなに表立って?楽しんでる界隈ってどんだけ原作地獄なんだろう、と思った。原作地獄じゃなくてバドエンがこんだけ祭り上げられてるならそれはそれでかなりの地獄。
>>普段はバッドエンドが苦手な人でも、Aの小説だけは読む、って人も多かった。Aのはバドエンが濃厚すぎるけど、あまりに良すぎてバドエンがバドエンで片付けられなくなるみたいな。Aの小説はバドエンとかハピエンとかそういう垣根を超えた先で輝いてた。<<
よ、読まない…。バドエンがダメな人間は、バドエンを読まない…。どんなに凄いと絶賛されようが、読んだ方が良いと言われようがバドエンは読まない…。これはバドエンだけどバドエンじゃないから、なんてだまくらかされて読んでしまったハピエン厨がもしいたら可哀想すぎて涙が出るな、と想像の中のハピエン厨に同情してしまった。
>>履き違えて欲しくないんだけど、Aの小説へのアンチは一人もいなかった。Aの小説を苦手な人はいても、Aの小説を嫌いな人は多分居なかった。素晴らしすぎるから。<<
どんなに素晴らしくてもバドエンでしょ?バドエンを憎んでるオタクは一定数必ずいるよ。それがいない界隈とか正直架空村としか思えない。怖い…よっぽど人数が少ないか声を上げる人がいないか。いや、にしてもハピエン厨が声をあげられないなんてことあるか?バドエン好きがバドエン好きですみません、ってのはよく見るけどハピエン厨がハピエン好きですみませんって言ってるのは見たことないけどな。
ちなみに私はハピエン厨の中でもかなり過激なハピエン厨だからバドエンは読まない、読まない、読まない。作者はミュートもしくはブロック。タイムラインが感想で溢れかえるならその人間たちももれなくミュートでユートピアを築く。
から、もし私がこの界隈にいたら楽しくハピエン書いてると思う。バドエン好き作者が消えても、バドエン好き読者が悲しんでも、何も気づかず。そういう字書きが1人もいない(観測できてない?)村って、増田が言ってる通り、やっぱり歪だねえ。
増田の中には、バドエンが死ぬほど嫌いな字書きも、そのバドエン神字書きを一緒になって殺さなかった字書きも存在しないような気がして、それが不思議で、書いてしまった。本当にいなかったの?って聞きたい。本当にいなかったの?
ここまで打って気づいたけど、もしかしてハピエン厨が苦しみのあまりもれなく全滅した村なのか?それなら滅茶苦茶納得するわ。バドエンがこれだけ市民権得てたら確かにハピエン厨は息苦しいかもね。
何が伝えたかったのか分からなくなったけど、毒マシュマロ、もしかしたら嫉妬で送られてきたんじゃないかもよ、ってことが言いたかった、のかもしれない。バドエンが祭り上げられてる界隈の空気が死ぬほど辛くて、皆が楽しんでるものが読めなくて、好きな作者がバドエンを楽しんでることを大々的に発表してきているのも辛くて、そうして界隈を呪おうと思ったハピエン厨が、毒を最後に投げ込んで、そうしてバドエン神を殺したのかも、しれない。
残業代未払い(サービス残業)が悪である事を分かりやすく示すため
A社はチケット発行事業に新規参入した企業である。もともとは日用品の製造販売を長く行っていた。
BさんはA社システムで旅行チケットを購入しようとしたが発行手数料がかかる事が気に入らない。
Bさん…ブラック会社
サービス残業やらせる上司の理屈 「仕事はやりがい」「カネは後からついてくる」
https://news.careerconnection.jp/?p=7828
https://anond.hatelabo.jp/20130908230648
→俺達客が喜ぶ顔を思えば企業側の発行手数料徴収なんてどうでもよくなるので徴収すべきではない。
→まずは金の事を考えずに俺達客に対してがむしゃらにサービスを提供するべきだ。収益は後から付いてくる。
→発行手数料を取らないサービスはいろいろあるが、A社に対してチケットの発行手数料を支払うと、
発行手数料を徴収している企業が得してしまうので払えない。払うのは不公平だ。
→いや、別に発行手数料を取らなくて良いんだよ?ちゃんと収益が出るならさ。
→A社の発券サービスがどれほど良いのか分からないうちは発行手数料を払う事は出来ないよ。
そりゃそうだろ?発行手数料を支払ったのに便利でなかったでは客が困る。
→やりがいが楽しさがあれば発行手数料を支払えだなんて言ってこない。
→会社は俺達客のやり方に合わせるべき
→客に全てをささげるくらいの気持ちが無いとサービス業は務まらない。
→企業は細かな仕事では無くて客の満足度という成果で動いているので発行手数料は徴収しない方が正しい(細かな手数料を徴収せず固定であるべき)。
→発行手数料ゼロでも嫌がらずに実施して客から認められれば会社が成長できる。
→利用者に発行手数料を支払わせることで客の体力を落とそうとしている勢力が存在する。
→企業には金の為に働くようになって欲しくない。
→数回くらいの発行手数料未払いならば客へのサービスで許容される部分はある
→みんな客の為に頑張っているのに発行手数料を要求するのは協調性がない。
→発行手数料を払いたくない人をモンスター客だと批判する企業はなんでこんなに労働意欲が低いのだろうか。
→発行手数料を毎回支払っていると客がチケットを購入できなくなりA社サービスを使用できなくなる。
→その発券自体は俺が直接満足するものでは無いので発行手数料は払えない。
→発行手数料を要求しているが、俺がこれまでにA社製品を購入していたことにありがたみを感じないのだろうか?
→俺は発行手数料を認めておらず会社が勝手に請求しているに正当な手数料ではない。
しかし残業代を支払うべきという風潮がおかしいと主張する経営者?社畜?は後を絶たない。
そこで残業代未払いを正当化する詭弁がいかにおかしいかを分かりやすく出来ないかと思って例えてみたが。滑っていたら後免。
他に、手数料では無くてPS5やニンテンドースイッチのような商品に例える案とか、旅行チケット追加購入に例える案とかもあった。
いずれにしても、元増田の「気持ち」が「就活で上手く行かなくて劣等感を持ってた"都会の民間企業の総合職"に対する合理化(防衛機制)」であることなんて2秒で分かるし、しょうもない「ワークショップ」(それ自体がフェイクだったとしてもとにかく何らかの表面的な交流だろう)の結果で無理矢理作り出した合理化なんて薄氷にも程があるってことも5秒くらいで分かることなわけで、そんなことで元増田の心の課題は何も解決しないこともみんな分かってると思うけど。
元増田が本当に心の課題を解決したいんだったら、さっさと「都会の民間企業の総合職」に転職でもすればいいわけよ。
親がどうとか家族がどうとか、地方を離れられない理由があるのかは分からんけど、結局最低でもそれをやらない限り、しょっぱい優越感で無理矢理納得させようとしても無理だろ。
具体的には:P2Pからクライアントサーバへの移行とチックレート増加
コンテンツとしては流行を敏感かつ柔軟に取り入れてくるのにこういうところで頑迷なの本当にどうかと思う。
何のために年間2400円払ってると思ってるんだ?
ゲージが割れたりヒビ入ったりする演出、内部ロジックが謎な上に不快なだけなので、普通にレーティングの数値見せて上げ下げする無印方式でよい。
あとはまぁ~個人のスタッツ次第でレーティングの上昇幅が大きくなったり下降幅が小さくなったりするボーナスがあれば嬉しい。個人じゃどうしようもない負け方でゲージ割れるのほんとしょーもない。
(負けたのでマイナス20ポイント、キル+アシスト最多賞でプラス10ポイント、トータルはマイナス10ポイント、みたいな)
一緒にシャケをしばいてかけがえのない仲間と圧倒的成長!(ブラック企業求人)
対人怖い/苦手勢にサーモンランのファンが多いので、そういう層を繋ぎとめるコンテンツが必要だと思う。
個人的にもガチマッチやフェスマッチの合間にやり込んだので思い出深いコンテンツ。
3はコジャケを連れ歩けるらしいけど、イクラ乱獲を重ねた罪悪感とサーモンラン最凶エネミーであるコジャケへの憎悪で熱血バイト戦士たちの情緒はもうぐちゃぐちゃ
どんなに調整を重ねても編成が事故る時は事故るので、事故った時点で試合終了になるのはもう勘弁。
「事前にブキ&ギアの組み合わせを2セット登録しておいて、試合中任意で切り替えられる」とかでもいいよ!
2が発売されて3年半、未だにこれが実装されていないのが不思議なくらい。
どうぶつの森もそうだけどなんかプレイヤーのプレイ体験を改善しようとする動きがあまり感じられないんだよね。
ソート機能があるとはいえマッチの合間にブキとギア替えるのすっっっげ~面倒くさいんだわ。
ゲーム内アイテム消費とかでもいいのでメインギア付け替えられるようにしてほしい。
ファッションが一つの大きなテーマなんだし気軽にとーたるこーでねーとして戦いたいし、それがあの世界のイカタコたちの気質なんじゃないかと思う。
なぜならオクトエキスパンションが大好きなので…
絶対やれよ
「やられた!」「ナイス!」「カモン!」以外にも戦況共有のためのシグナルが欲しい。
ただゲーム内のセリフが全部イカタコ語なので、他シューター作品のピン/スポット機能のように音声のみで戦況を把握しづらいのがネックかもしれない。
あ、野良VCやフレンド以外とのメッセージ機能はいらないです。
現状味方のスペシャル発動とかは表示されるけど、キルログも表示するようにできればもっと戦況が分かりやすくなると思う。
散歩でもヤグラやホコのカウントが表示されるようにしてほしい。
散歩をきちんとやっているかどうかが勝敗を分けるようになる…!かもしれない。
開発としてはナワバリがゲームコンセプトの軸だって考えてるのは分かるんだけど、
性能的にナワバリで活かしにくいブキ種はガチマでレーティングを賭けて(時には溶かしながら)練習しなければならないわけで、
そこにやや不公平感があるのを解消してほしい。
リグマでやれ?うるせえ!フ、フレンドとよ、よ、予定が合わないだけだ!
(例)
レギュラーマッチ(ナワバリ常設+エリア・ヤグラ・ホコ・アサリの中から1種のローテーション)
ガチマッチ(エリア・ヤグラ・ホコ・アサリの中から1種or2種のローテーション)
リザルト画面でもう少し詳細なスタッツを見せてほしいという気持ちがある。
イカリング2?3?でikaWidget2並のスタッツを見せてくれるパターンでもいいよ。
月イチでフェスやってたけど結局全部ナワバリでステージギミックくらいしか変わり映えしないので、たまに期間限定で特殊ルールマッチとかやってみてほしい。
ブキ種縛りとか、多人数戦とか…
2では現状フレンド同士かローカルでないとプラベができないので、
スマブラみたいにパスや条件を設定可能なプラベ部屋機能が欲しい。
ゲーム配信者や動画投稿者も視聴者参加型プラベがやりやすくなる。
OverwatchのPlay of the Gameみたいなやつ欲しい…欲しくない?
スプラトゥーンというゲームの多くを形作っている要素の一つがファッションだと思うので、自分好みにインテリアをいじったりできるマイルーム的な要素が欲しい。
どうぶつの森でやれ?うるせえ!スプラトゥーンの世界観でどうぶつの森をやりてえんだよ!
バンカラ街に九龍城の一室みたいな部屋欲しいだろ!?俺は欲しい。
…継続的にプレイすることで限定ギアが手に入るとかやれば面白いかもと思うけど、プレイに義務感が出るしバトルパスというシステム自体がゲーム内課金への呼び水みたいなところがあるので、まあ任天堂はやらないと思う。
俺もやらなくていいと思う。
最近のシューター作品の特徴として、最初はbotと戦わせてから対人戦に送るというのがよくあって(PUBG Mobileとか)、3から新規に始める人はそういうワンクッションを挟んだ方が定着率が上がるかもしれないと思った。
bot戦でのスタッツを参考に対人戦をマッチングすれば、完全ではないにせよ初心者狩りを抑制できるかもしれないなとも。
ただ自分はシューター初心者の気持ちになるにはあまりにも上達しすぎたし、ゲームデザイナーでもないのでこれがうまくいくかどうかは分からん。
Fortniteは通常のマッチにもbot導入して調整してるらしいけど、Fortniteはやってないので分からん。
いい加減LANポートを標準で備えたSwitch用新型ドックを出してほしい。
そんでもってもう2021年なんですけど??
Switchのオンラインマルチ環境がイマイチなのってデフォで有線接続できないせいってのも割とあると思う
Switchも(元から低スペとはいえ)さすがにそろそろスペック的に厳しいと思うんだけど、巷で噂されてる「外付けGPUを内蔵して据え置き時に性能強化する新型ドック」って現実的に実装可能なんだろうか?ITエンジニアじゃないから分からん。
ニンダイでスプラトゥーン3だけプラットフォーム明記されてないのはちょっと気になった。が、それ以上の情報がまだないな…
全体的なゲームバランスについてはまだ何とも言えない段階なのでスルー。
上空からスポーン地点を選べるのは最近の作品だとRogue Companyっぽくて面白い。Apex Legendsのジャンプを連想してる人もいたけど、バトロワ系シューターって一般FPS/TPSとは結構別物の特殊ジャンルだから的外れだよ。
範囲や戦略的な効果はまだ分からないけど、リスキル対策と言われている一方でリスポーンサークルのようなものも見えるのが気になる。降下スポーンが最初だけならあんま意味なくね?とも思った。
もし弓のスペシャルがメガホンみたいなやつだったら実質ハンゾーだね。
Overwatch 2より先にスプラトゥーン3が出そうだね。
おわり
まあ言いたいことは分かるんですけど、これで想定してる状況ってもう試合自体が壊れてるしキルも足りてないので、
色々天秤にかけた結果、キル稼ぎに走らせることで運良く勝ち筋できたりしないかな~という方向にわずかな希望を見出してます…
あと「キル+アシスト」って書いたのはあくまで例えで、評価指標は「ヤグラに乗った時間」とか「ホコを進めた距離」とかでもいいなと思っています。
ただamiibo代がかかる上に1個1セットしかセットできないおまけみたいな仕様だったはずなので、やはりゲーム内に実装してほしいところです。
sukekyo 何書いてあるのか全然わからなかった。未プレイなので当然なんだけど。でも、こういう「客」はそれなりに隔離するシステムはほしいかなと思った。3デビューしようと思ってもこの文章の「圧」で怯むやん?
この時期に次回作への要望を語るのなんて殆ど既プレイヤーなんだから既プレイヤー向けの文章に決まってんだろ。
それはそれとして3からの新規や対人苦手なプレイヤー向けの要望も書いてるんだけど読んだか?
お前みたいなエアプのくせにえらそ~に嫌味言うしか能のない馬鹿って、「圧で怯む新規プレイヤー」という架空の「弱者」を勝手に設定して自分を正当化しようとするよな。性根が卑怯なんだよ。
もしお前自身が「圧で怯む新規プレイヤー」とやらだったなら堂々と「私は未プレイなのでこの文章を読んで怯んだ」と書け。それ自体は何も悪いことじゃない。
だとしたら俺の返答は「すまんな、でもこれ既プレイヤー向けの文章だから、他の新規向け文章を読んだりPVや実況動画を見た方が分かりやすくておすすめだよ。」だ。
俺はエアプで物申す野郎が大嫌いだからつい口が悪くなってしまってすまんな。
実際スプラトゥーンは幅広い層が楽しめる面白いゲームだ。興味があるなら色々言う前にやってみろ。
jou2 “ガチマッチのウデマエ演出変更”誰がどうやろうと背伸びした所に長くはいれないし、どんな仕様でも適正ランクに収まるし、しょうもない負け方で下がりたくないとか言ってたら場違いな相手との勝負になるよ
仰ることはごもっともというか真理なんですけど、自分はそこまで極端な話をしてるつもりはないです。
例えば「負けたけど20キルしたのでトータルで+10です!」みたいなものは想定してないです。
負けたら負けたでしっかり下がる、ただそのランク帯のプレイヤーとして十分なスタッツを残していれば下がり幅が緩くなる。
逆に、勝ったら上がるけどそのランク帯のプレイヤーとして突出したスタッツを残せば上がりやすくなる。
あくまでそういうものがあれば嬉しいな~という項であって、プレイヤーがそれぞれの適正ランク帯に収まるようにするのは大前提です。
こういう「僕の考えた最強のスプラトゥーン改善案」みてると、ほとんどの人にとっては公平なゲームバランスってのは超不公平にしか体感できないんだって実感できるな。
いや、ゲームバランスの話はキリがないので殆どしないようにしたつもりなんですけど…。
現行システム上どうしても避けられない編成事故とかはゲームシステムで解決してほしいよねって話くらいで。
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なんかはてなでスプラの話をするとすぐ「ガチvsエンジョイ」みたいな二項対立になるのが嫌なので(ゲームバランスは開発の方針や各人の好みもあるし)、
なるべくゲームバランスには言及せずにシステムへの要望をメインにしたつもりだったんですけど、それでもガチ勢がどうこう言われるとさすがにちゃんと読んでんのか?ってなるね
はてなー諸氏にとってはヤングジャンプの連載漫画なんてなんてほとんど知らないという人か、アニメ化した「キングダム」や「ゴールデンカムイ」、「かぐや様は告らせたい」ぐらいは知ってるという人がほとんどだと思うが、実は未だに本宮ひろ志が連載しているという事実をご存じだろうか。
ヤンジャンで本宮ひろ志と言えば「サラリーマン金太郎」が有名だが、現在連載している「僕、いますよ。」は平たく言えば暴走族じゃない公務員のサラリーマン金太郎みたいな作品である。
主人公は架空の戸川市という自治体で窓際公務員をしていたが、いろいろあって戸川市を自然エネルギーで独立採算できる自治体にしようとするみたいなお話で、主人公に嫌がらせをする首都電力(まあ東電だよね)とか、主人公を妨害する嫌な市長とか、孫正義っぽい人とかが出てくる、まあどこにでも良くある本宮ひろ志漫画だ。ちなみに今週(2/18発売号)では江戸時代と言っても通じそうな家屋でわらじを編んでいる老女や、家を訪問してきた主人公に酒を進めて断れれるといきなり猟銃を向ける熊みたいな男から、滞納している市税を主人公が徴収してくるという令和の漫画とは思えない展開なのだが、本題はここではない。
おそらく、この漫画、自然エネルギーをテーマにしてるはずなのに専門家のチェックが全く入っていないという点がなかなかヤバイのだ。
先週の話で戸川市に風力発電の風車が立ち始めたという描写があり、今週の冒頭で風力発電が稼働し始めたという描写があるのだが、そこには「風力発電が3割ほど稼働し、約7千万kWの送電を開始した」と説明されているのだ。
いや、7000万kWって…原発で比較すると東電が持つ原発の柏崎刈羽の総出力が約820万kWだから、これだけで日本のエネルギー問題の大半は解決しそうな勢いだ。ちなみに、実際の風力発電の風車何台分になるかというと、7000万kWが定格発電出力だとして計算すると約4万基の風車が、3割稼働なので定格出力が2億1000万kWだとすると約12万基の風車を架空の戸川市という自治体に建てた計算になる。いや、首都電力も日本国も今すぐ戸川市に土下座して電力を融通してもらう&ノウハウを教えてもらった方が良いと思うし、私が担当者なら間違いなくそうすると思う。
しかし、そうは問屋がおろさない。何せこのとんでもない発電量は「戸川市の5千世帯に送電されている」という記載があるため、原発を軽く凌駕するとんでもない発電量を風力発電で賄っているにも関わらず、余剰電力が全くないというとんでもない事態になっているのだ。単純に7000万kWを5千世帯で割ると1世帯当たりの消費電力は1.4万kWとなる。戸川市民は1世帯でタワーマンションみたいな家に住んでるのだろうか。それとも、あの囲炉裏がある家もとんでもない消費電力をしている何かがあるのだろうか。
更に戸川市の電力需給に関する描写は続き、どうもこの戸川市全体の消費電力を賄うにはこの超出力の風力発電だけでは足りず、1億6千300万kWの発電が必要だというのだ!
…あのスミマセン、ちょっとデータが古くて申し訳ないんですが、2018年の日本全体で消費電力が一番大きかった日に消費した電力が1億5千600万kWなんですが、戸川市はマジでこの莫大な消費電力で何をしてるんですかね…。というか、首都電力はこんな大口需要家がある自治体の代表者に対して、よくあんな塩対応できたなと思いますね。
こんなことになってしまった原因は発電出力とかに使われるkW(仕事)と消費電力量として使われるkWh(仕事量)の単位の違いが分かっていないことだと思うのだが、物理学を学んでる普通の高校生でも分かりそうなミスを、誰も指摘せず数週間も経っている時点で、この漫画に専門的な監修者がほとんどついていないと思ったわけだ。
ということで、賢明なはてなー諸氏にはヤンジャンでは本宮ひろ志の漫画よりも、2/19に新刊が発売になった「スナックバス江」を是非読んでいただきたいと思います。
風力電力の発電出力の出典
https://www.sbenergy.jp/study/illust/wind/
日本の消費電力についての出典
タイトルの通り。
二次元エロは好き。男性向け最高。BLも嫌いじゃない。GLはちょっとよくわからないけど絵面は綺麗で好き。サンキューDMM。ネット最高。
でもAVはギリ。モザ無しは微妙。音声は消す。風俗レポは好き。ネタAVも面白くて好き。
シモネタも楽しい。仲の良い友だちだからこそ言えるしょーもないシモネタ大好き。コロナで会えないけど、カラオケや完全個室で話すしょーもない小学生レベルの下ネタだけでガンガンお酒が飲める。今だにいちご100とか太臓で笑える友達ありがとう。笑いすぎて頬が引きつって腹筋がまさに崩壊するレベル。会社では絶対にできん。
でもリアル交友関係のカレカノ事情はキッッッッッッッッッッッッッッッッツイ。一ミリも聞きたくない。
生々しい。これにつきる。同僚や友達のそんなこと聞きたくなかった。私は女だけど男同士でもこんな話するの?それともたまたま私の人生にいた周囲の女性がこんななの?
「ヤッてる途中でゴムが外れてさ〜」「昨日シたんだけど身体怠くてヤバいwww」「彼氏がすごいSで中々イカせてくれなくて…」
毎回「ちょw生々しいwwwてかそれ私に言っていいの?wwwww」って軽く牽制してみるが皆「私らの仲やんw」「処女じゃないんだからw」で終わる。
手前味噌で申し訳ないが、私は軽んじられているのか何なのかだいたいの人に「話しやすい」と言われる。だからなの??????
こう……毎回架空のものに対してノリノリでしょーもない下ネタで楽しんでいると、ふとした瞬間に「この子はそこまで喋っていいんだ」となってリアルな情事話にスライドする。
一応「いやリアルはちょっと…」って言うけどね。言うけどだいたい「え!?さっきまで話してたじゃん!?」ってなる。
違うんだー違うんだよー。フィクションは楽しめてもノンフィクションは違うんだよー。
でも中々わかってもらえない今日このごろ
冤罪冤罪言ったりセカンドレイプする奴も、女叩きするミソジニストも死ねばいい。
男は犯罪率高いしはっきり言って欠陥品だと思ってる。滅んでほしいしどんな目に遭っても同情しない。
ヒールも履きたくないし、医大入試の女性差別も擁護する奴もクソ。
男性差別?黙れ。
でも萌え絵とか宇崎ちゃんとかキズナアイとかしずちゃんのお風呂シーンとかマルちゃん正麺とかお母さん食堂とか女子けんこう部とか正直どうでもいい。何でも噛みつきすぎ。
というか、ドラえもんは好き。フェミニストはのび太を目の敵にしすぎだ。
女体の性的消費も、セクハラにならない程度(この基準が難しいが)になら別にどうでも…
エロ漫画とかも架空ならどうでもいい。架空に留めてさえくれたら。
それはそれとして表現の自由戦士は大嫌い。
架空のエリート身分で女と付き合うと潜入捜査官の気分を味わえる。
どうせ普通に付き合ったって些細なことで勝手に嫌われるわけなんだし、どうせバレたって頭のおかしい糖質のフリしてりゃ切り抜けられる
俺がこんなアプローチをするのは別に基地外だからじゃない。恋愛市場や恋愛工学に拘るわけでもない。無駄にフェミやネット民のハセカラに怯えるくらいなら、今は自分のスタイルを貫きたい。こんなことって、SNSのがさつで無神経な奴らには絶対に理解できないだろうし、してほしくもない。
忘れていたので追記。ミステリをろくに読まずにアンチ・ミステリを読んで気取るのもどうかと思ったが、メタフィクション的なものにひかれる性分なもので手に取ってしまった。
これはミステリを楽しむ読者に対する批評(いやがらせ)であり、こじらせ文学青年崩れの自分は、こうした読者に喧嘩を売る態度を好んでいる。だから、旧劇場版のエヴァンゲリオンや新劇場版のQも同じ理由で偏愛している。かなり楽しんだ。
余談だが、「トップをねらえ2!」もまた、自分のやっていることに対してかなり自覚的・批評的だと感じている。まっすぐな努力と根性の物語にも見えるくせに、根性論に否定的な者が終盤になって気合で新たな力に目覚め、努力と根性ばかり口にしていたキャラクターが実は才能の塊であった、という皮肉が好きだ。
小説というのは何歳になって読んでもいいものであって、ペースも人それぞれだから、何歳までの必読書という声は基本的に無視していいと自分は考えている。自分が学生の頃に古典ばかり読んでいたのは単純に背伸びがしたかっただけで、振り返ってみればそれ以上の意味はない。また、「ラノベにエロシーンが出てきてもどうせパンチラかせいぜい裸を見るくらい。だったら本番行為やそれ以上の何でもありの純文学を読みたい」と考えたからでもある。もしかしたら、自分が男子校出身者だったから、女子のいる高校生活を読むことがうらやましくて耐えられなかったからかもしれないが。
さて、好きに読めばいいと書いたものの、若いうちに読んでおいたほうがいいと考える理由もそれなりにある。一つは体力的な問題だ。年齢を重ねると物理的に目が酷使できなくなってくるし、重苦しい物語を読む体力もなくなってくる。自分も身につまされる話よりも、読んでいて気持ちがいい話ばかり読むようになってきてしまったし、芥川賞さえ読んでいない作品が多い。もう一つの理由は、だんだんとフィクションに飽きてくることだ。飽きるというか、何となく手が伸びなくなってくる。その代わりにエッセイ的なもの、身辺雑記的なものに魅力を感じるようになった。「永日小品」とか「武蔵野」とか、古典の日記文学だとか。
それも飽きたら、ノンフィクションを手に取ることにしている。最近読んで面白かったのはリチャード・C・フランシス「家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか」だ。好きなものを好きな時に好きなように読む。読書ってはそういう私的なもので、他人からとやかく言われる筋合いのものではない。
正直なところ、同時代の作品を読んだほうが財産になる気がする。古典は、好きな作家が薦めていたのだとか、尊敬する人が影響を受けた作品だとか、国語の授業で出てきて面白そうなのや、読書家の友人の一押し作品、くらいを読めば十分だろう。現在の僕らの問題意識に直接答えるのは現代の作品だ。現代の作品に飽きたら古典に手を出すのはありかもしれないが。
もちろん、古典はいいものばかり残っているからはずれを引きにくい、というメリットもある。自分が読んでいた理由の一つがそれだ。加えて、古典が答えをくれることもある。古典の場合、素朴な問いに正面から取り組んでいることが多く、僕らみたいな一般人が考える哲学的な疑問はとっくに古典で扱っているので、さまざまな疑問を僕らの代わりに考えてくれており思考の節約になるし、多くの場合安易なハッピーエンドとも無縁だ。好きになったから読んだ、それだけのことだ。
それに、古典の知識があると、同時代の芸術をより楽しめたり、当時の日本や世界の空気を空想する楽しみが増えたりする。古典の翻案作品も深く楽しめる。だが、古いのばかり読んでいては現代から目を背けてしまうことになるだろう。
もちろん、現代から逃避するために古典を読むのもありではあるけれども、自分にとって古典を読むことは、現実に直面するための準備・バッファでもあった。言い換えるならば、最初は逃避のつもりだったけれども、古典を読むことで蓄積された感受性が、面倒くさい現実に対処する能力を多少は授けてくれた、ということだ。
また、もしもまっとうな作家を目指しているのなら、最先端の作品のみならず、そのジャンルの古典的な作品を最低限読む必要は出てくる。ミステリなら基本的なトリック、SFなら実在架空を問わず科学的な理論を知らないと書けない。けれども、読書エンジョイ勢としては気にする必要はない。必読書リストが必要になってくるのは作家になりたい人間くらいだろう。
ちなみに、度を越して読破量を自慢してくる人間は気にしなくていい。そういうのは根本的に、ポケモンの名前をどれだけ言えるようになったかを見せびらかしているようなものだ、と自分は考えている。何かを全部暗記したリコレクションしたりするのは楽しいものだけれども、興味がない人に自慢してもしょうがないし、敷居を高くするだけのことだ。それよりは、気に入った作品を何度も読み返すほうがよほど豊かな読書ライフを送れる。通読でなくても本棚から二三冊手に取って、ぱらぱらとお気に入りのページを読み返すことでどれほど心が休まることか。
自分にとって文学とは、わけのわからない世界に対する防壁だった。近頃は昔ほど心に壁を築いてはいないかもしれないが、物語が今まで自分を守ってくれた記憶に、今でも支えられている。
気が向いたら日本文学編、あるいは池澤夏樹の世界文学全集編を(オリジナルで)やるかもしれない。しかし、面倒くさいので相当先になりそうだ。
以上。
進撃の巨人のヒイズル国とか、ワンピースのワノ国がいまいち苦手だ。
和モノが嫌いというわけではない。日本ぽい国が全てダメというわけでもない。DQ3のジパングとかは平気だったし。
ヒイズル国は主要キャラの名前としてミカサがある時点で最初からその存在は示唆されてたし、ワノ国も最初に言及されたのは確かスリラーバークあたりだった。
当時は何も感じなかったけど実際に作中で描写されるようになると苦手意識が大きくなってきた。
おそらく、メインプロットに深く関わるようになると自分の中の抵抗感が大きくなるような感じがする。
ヒイズル国が単にミカサ含む東洋人の出身地であり中東連合あたりと似た扱いだったら大丈夫だったように思う。将軍の忘れ形見とか唯一の友好国とか言われると、ウッてなる。
ワノ国がスカイピアやアラバスタやその他の島々と同じような扱いだったら大丈夫だったように思う。ひとつなぎの財宝やロジャーと深い関わりがあるとか言われると、ウッてなる。
ブコメを見て少し考えた。
例えば中国人や韓国人が描く洋風の架空世界で中国や韓国ぽい国が出てきて物語の中核に迫るような役割を果たしたとしたら。
別に嫌いにはならないだろうし、ウッてなることもないんじゃないかとは思うけど、多少の苦笑は漏れてしまうかもしれない。
では、例えば欧米の作家が描くアフリカや東南アジアを思わせるような架空世界の中の欧米ぽい国だったら。
考えていくと予想外に楽しくなってきたけど、いろいと難しいものだなあと思った。