はてなキーワード: インプロとは
宮崎駿は原作からかけ離れたアニメを作ることで有名だが、高畑勲はもっと恐ろしい。
高畑勲は原作と別の存在としてアニメを作るのではなく、原作を再解釈し、異なる意味を与えるアニメを作る。だから高畑勲アニメを視聴してから原作を読むと、「アニメとは別モノだね」ではなく、「アニメはおおむね原作通りだったね」という感想を抱きつつ、知らず知らずのうちにアニメの解釈で原作を読んでしまう。
『火垂るの墓』の原作は野坂昭如という作家の自伝的な小説で、それ故にこのアニメは3層構造の原作になっている。
清太=作者なのに、死んだはずの清太が戦後に小説を書いて直木賞を受賞し、歌手デビューしたり、国会議員になったり、テレビのレギュラー番組を多数抱えているのは明らかに矛盾している。
野坂昭如の妹は小説の通り亡くなったが、兄は小説と違い生きている。
高畑勲のアニメでは、そのあたりの冷ややかな視線をさり気なく盛り込まれている。
高畑勲は原作のメインプロットを尊重しながら、原作者に対しこれでもかと悪意をぶつけている。
アニメでは子供時代と大人時代が交互に描かれていたが、原作には大人時代が存在しない。
アニメ版の子供時代の描き方は高畑作品としては珍しく、キャラクターがとても『かわいく』描かれている。このかわいさはジブリアニメとしては異質で、悪く言えば観客に媚びた絵柄とも言える。
一方で大人時代の絵はだいぶ様相が異なる。27歳のタエ子は令和の基準で見ると40代から50代のように見える。成人した子供がいてもおかしくない顔をしている。
自分探しの旅に出て田舎体験する夢見がちなアラサー女と、幻想の世界の可愛らしい少女漫画のキャラクターを残酷に対比させ、「お前らの自己認識はこんな感じの少女漫画キャラだろうけど、現実はコレだよ」と突きつけ、夢から覚めない都会の女が最後は『農家の嫁』になるというハッピーエンドともバッドエンドとも分からない結末で物語は終わる。トトロで田舎を知った気になる人たちへの痛烈な皮肉とも言える。
ジブリの経営を傾かせるほど金と時間と才能を注ぎ込んだにも関わらず、作られたのは昔話そのままのかぐや姫で、公開当時の観客は拍子抜けした。
それは『かぐや姫の物語』というタイトル。教科書にも載ってる原作は『竹取の翁の物語』という題名だ。
竹取の翁の物語はタイトルの通り、竹取の翁が竹藪でかぐや姫を拾った、という形でお爺さん視点で物語が語られる。
一方かぐや姫の物語はストーリーの骨格こそ原作に忠実だが、感情移入する対象が かぐや姫になるように作られている。
『ドラえもん』をのび太視点で描くかドラえもん視点で描くかでぜんぜん違う話になるように、かぐや姫の物語はさり気なく視点をずらして「かぐや姫という異質な存在が周りのみんなを翻弄する話」から「かぐや姫が社会に翻弄される話」にすり替えている。
あまりに見事なテーマのすり替えで、多くの観客が昔話とは別物の作品を見せられているとは気付かなかった。それ故に映画の評価はイマイチで、「作画は凄かったよね」としか語られない映画となった。
しかし水木しげるが妖怪のイメージを上書きしたように、ウォルト・ディズニーがヨーロッパの民話をアニメ化してイメージを上書きしたように、今後数百年のかぐや姫の解釈は高畑解釈で上書きされるだろう。
コンテンポラリーダンスの一分野で複数人が接触しながら即興をする踊りである
多数で同じ空間で同時に踊る
ルールは特になく状況やタイミングによって一人で踊ったり数人で踊ったりする
一時流行ったコンテンポラリーのアマチュアリズムを伝えているものでもあるので
その踊りのイベントには普段から踊っている人以外にも色々な人がくる
ダンサー以外だと俳優や格闘家が多いが普段あまり運動をしていないデスクワーカーみたいな人もいたりする
そしてその踊りをやっていると気が付くのだが
それぞれが気を抜けば気を抜くほど男女一組になっていく
それぞれが疲れていれば疲れているほどフロアムーブメント(=床に寝そべっているような低い動き)が増えていく
体温に触れていると気持ちがいいからか重なったまま動かなくなったりすらする
意識的に床でグズグズにならないようにする人がいないとそれなりの有様になる
大抵はオーガナイザーが上手くやるけれど
踊りが踊りであるためにはその辺りをどうすれば良いのかなんとも言えないけれど
とりあえず男って女が好きだし女は男が好きなのね
割と美醜は関係なく
この世界のあらゆる事象が一つのプログラムで表せたとしたら、そのコードの長さは相当なものになるだろう。
「慣用句」は、人々がそれを理解するために生み出したコード上の工夫のひとつだと思う。
その世界というコードの中で頻出する部分、すなわち、生活で多用される言語を「慣用句」としてネーミングする。
その処理内容はサブルーチンとして別扱いとすることで、メインプログラムは圧縮できる。
サブルーチンを呼び出す際には、その関数名には処理内容を想起させるような象徴的な用語を用いることにした。
まさにそれが、世界というプログラムにおける「慣用句」という象徴的な用語の在り方なんだと思う。
よって、関数名である「慣用句」を、文脈という名の変数とともに呼び出すだけで、
その処理内容を明示しなくても意味のあるアウトプットになるわけだ。
進撃の巨人のヒイズル国とか、ワンピースのワノ国がいまいち苦手だ。
和モノが嫌いというわけではない。日本ぽい国が全てダメというわけでもない。DQ3のジパングとかは平気だったし。
ヒイズル国は主要キャラの名前としてミカサがある時点で最初からその存在は示唆されてたし、ワノ国も最初に言及されたのは確かスリラーバークあたりだった。
当時は何も感じなかったけど実際に作中で描写されるようになると苦手意識が大きくなってきた。
おそらく、メインプロットに深く関わるようになると自分の中の抵抗感が大きくなるような感じがする。
ヒイズル国が単にミカサ含む東洋人の出身地であり中東連合あたりと似た扱いだったら大丈夫だったように思う。将軍の忘れ形見とか唯一の友好国とか言われると、ウッてなる。
ワノ国がスカイピアやアラバスタやその他の島々と同じような扱いだったら大丈夫だったように思う。ひとつなぎの財宝やロジャーと深い関わりがあるとか言われると、ウッてなる。
ブコメを見て少し考えた。
例えば中国人や韓国人が描く洋風の架空世界で中国や韓国ぽい国が出てきて物語の中核に迫るような役割を果たしたとしたら。
別に嫌いにはならないだろうし、ウッてなることもないんじゃないかとは思うけど、多少の苦笑は漏れてしまうかもしれない。
では、例えば欧米の作家が描くアフリカや東南アジアを思わせるような架空世界の中の欧米ぽい国だったら。
考えていくと予想外に楽しくなってきたけど、いろいと難しいものだなあと思った。
https://live28.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1275493229/
https://www.logsoku.com/r/2ch.net/livejupiter/1275493229/
17 : 風吹けば名無し[sage] 投稿日:2010/06/03(木) 01:03:08.83 ID:PrBhFicm [1/1回]
初代ウィニングポストの開発チームにいたけど、どうしても解明できないバグがあってサードステージの
パラメーターをどんなに上げても思ったような強さにならなくてチームリーダー兼メインプログラマーが
めちゃめちゃ悩んでた。3~4番手ぐらいの強さにするつもりだったアイアンキングが妙に強かった。
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もし、諸君が「コンピュータの技術を活用して、世の中を便利にしたい」という願望を抱いているなら、絶対に日本のIT企業に就職してはいけない。
日本の企業では諸君の想像するようなわくわくするような開発体験は決して得られない。
諸君が、コンピュータの技術を真摯に学ぶ気があり、最新の技術とハイレベルな開発者から刺激を受けたいのであれば、オープンソースのプロジェクト等に貢献すべきだ。
以下、なぜ日本のIT企業に就職するべきではないのか、理由を述べる。
特にBtoB(法人向けサービス)の開発に顕著だが、日本で就職する限り、作るのはコンピュータリテラシーの低い老人向けのクソ下らない業務システムがほとんどである。
信じられないかも知れないが、「手書きの文書を読み取って、FAXで送信する」みたいな無駄なシステムは、今なお日本中で生産され続けている。
そもそも顧客自身が、そのシステムで本質的に何を実現したいのか理解していないため、従来のやり方をそのままシステム化することになる。
こうして、コンピュータを用いる利点が全くない「アナログ業務をパソコンの上で行うだけ」のクソシステムが出来上がる。
はっきり言って日本の平均的なエンジニアのレベルは、その辺の学生未満である。
アルゴリズム、オブジェクト指向設計、メモリ管理、セキュリティ等のプログラミングの必須事項を十分に理解しているプログラマは、全体の1%もいない。
下請けのカスにもなると、ググって出てきたコードを内容も読まずコピペして、「動いた」だの「動かない」だのとやっているのが大半である。
自動テストやCI等はおろかソースコードをバージョン管理すらしておらず、本番環境へのデプロイは手動で行っており、数万行を超えるコードがmain関数にベタ書きされている等という例は珍しくない。
諸君がいくら最新技術を学ぼうが、仕事で任されるのはほとんど、そういう連中が生み出したプロダクトやツール群のメンテナンスである。
こうしたクソプログラムは、一度作られたら最後、メインプロダクトが完全に死に絶えるまで、死神の様に付き纏う。
日本で職業エンジニアになっても、何の役に立つのか分からんクソシステムしか作らないし、無能の書いたクソコードのメンテナンスで精神病むからやめろ、ってこと。
今は26歳でゲーム系の専門学校行って結局そのまま身につくこともなくSEという名の営業をしている。
アニメのNEW GAMEをみるのがつらい。
主人公は高校卒業でゲーム会社に就職。正直これは夢物語過ぎる。私も高校の時に就職担当にそういうところがないか聞いたら「あぁいうところは未経験は採らないよ」との話で、ならばということで奨学金をかりてゲーム開発専門学校に。
専門学校には私と似たように漠然と「ゲーム開発に携わりたい」という夢をもった人間が40数名。何かの漫画でゲーム専門学校の実態みたいなのがあったけど、あれを読むと息遣いが荒くなる程度には合ってる。仲間も出来てそれなりに楽しく学生生活を謳歌し、そして3年後、私のクラスでゲームの開発会社に就職できたのは数名。私は、学校で教えてもらえる程度のプログラミングは身につけたので、未経験歓迎のITシステムの会社に就職できた。スマホアプリの開発をしているので、どこかでスマホゲームの開発に携われるだろうという気持ちで。←大バカ
話を戻す。NEW GAMEだけど、バリバリのゲーム開発会社の話。そこに主人公の友人の桜ねね(ねねっち)がデバッガーのバイトで来る。そしてそこのメインプログラマーに気に入られて、二期ではゲーム作りをしたい一心で夜遅くまで自作ゲームを作り、イーグルジャンプの社員にアドバイスをもらい、着実にプログラマーとして力をつけて、漫画ではバイトまでする。多分、このまま大学卒業したら現在のコネクションを使ってイーグルジャンプに入社するのは容易であると予想される。
対して私はどうだ。ゲーム専門学校にいればゲーム開発会社に入社できると漠然と思って、インターンも就職担当課に言われたままの場所に1ヶ月ほどいって何も得ずに帰ってきて、ゲーム作りは学校課題だけ。
NEW GAMEのねねっちをみていると私と明らかに違いすぎる。もちろん、ねねっちは理想の姿だ。人間だれしもがねねっちになれるわけではない。でも、これをみていると過去の自分が完全に駄目だったとわかりすぎて辛い。
シナリオの教科書に失敗作の例として載せるべきなくらい支離滅裂な話だった。
戦後、日本軍と戦った南の島にそのまま住み着いた医師ディダムの元を、故郷ボストンから娘アメリアが尋ねて来る。ディダムに実家の海運業の株が相続されることになったのだが、彼がもし現地で家族などを作っていると「ボストンの慣習に照らして」道徳的に問題があるため、遺言状の条件により相続の資格を失う。それを暴いて相続権を取り上げるのが目的である。娘が来ると聞いたディダムの仲間は、彼の家族を隠そうとする…。
というと、まるで相続権を争って秘密を守り通す紆余曲折という話になりそうなあらすじだが、違う。まずもって、ディダムの仲間たちは相続の話は最後まで知らない。ディダムが回診で近隣の島へ出掛けているうちに、なんとなく「娘には新しい家族とか隠しとかなきゃいけないよね」で隠すのである。ディダムは島に帰って早々、娘に直接「株とかそういうの要らないし」と、自分がいかにこの島が好きかを語る。この時点でメインプロットは終わったも同然だが、何故かその後も惰性でディダム医師の3人の現地子(娘ふたり息子ひとり)の存在は隠されたままになる。
そもそも島の仲間は株のことなど何も知らないのだから、相続権を巡って必死に秘密を守る話にはならない。代わりに、ディダムの子供たちの偽の父親役を引き受けたドノバン珊瑚礁(店名)店主ドノバンとディダムの娘アメリアのロマンスが途中から話の中心になる。相続の話は知らないくせにアメリアに資産があることは「調べ」ただけで突き止めたフランス人総督が微妙にちょっかいを出してきたりもする。
しかしこれもよく見ると変な展開である。ドノバンはディダムの子供たちを隠すために父親役をやりながら、何故かアメリアの案内役のようなものも同時に務める。他に人材がないなら仕方ないが、隠すなら極力近づかないようにする方が良いのは当然である。このせいで、ディダムの子供たちと交流を深めたアメリアが、子供たちをディダムの家(つまり子供たちの家)のパーティーに招待したりして、変な感じになったりする。
結局のところ、この映画においては全ての出来事がドノバンとアメリアの交流を無理矢理作り出すためのヘタクソなお膳立てなのである。アメリアが島に来るために相続の設定をつくり、アメリアがドノバンに惚れるために、ドノバンがディダムの子供たち相手に「良い父親」を演じる状況を作り出す。
あげく、アメリアは島のそこここで見た「マヌラーニ(姫?)」の名前から、これが子供たちの母親であり自分の父の妻である事を勝手に推理し、そもそも相続の問題もなければアメリアに新しい家族に対する抵抗もなかったので、そのまま家族と和解し、本当は独身とわかったドノバンにプロポーズされて終わる。(この「マヌラーニ」の名前も、父親たちと一緒に戦った記念碑に名前がある、父親の病院がマヌラーニ病院となっている、マヌラーニの墓を教会で見かけた、だけで父親のプライベートな手紙に名前があったとかですらないので、よく当たり前に推理したもんだと感服せざるをえない。)
こんな「父親に現地妻がいたらすわ大問題、かと思ったらそんなことはなかったぜ」的尻切れとんぼな話が、脈絡のない乱闘シーンや、おっさんたちの「俺たちはよゥ…ここで戦ったんだよゥ…」という郷愁、ポリネシア?のエキゾチックな儀式とむりやりシャッフルされて映像化されたのがこの映画なのである。
長々書いたが、実際この映画のめちゃくちゃさを実感するためには、見た人の大半がストーリーを間違って理解している、という事実を指摘するだけで十分なのかも知れない。ともあれ、何がしたいのか理解するのに苦労する映画だった。
南の島の風景はよかった。
海外の人にはどう観えたんだろうな、と思っていたら見つけたので訳すよ。
タグとかあんまりわからないので読みにくいと思うけどごめんなさい。
2016年7月11日 ERICKHANZ さんの投稿(翻訳にあたってご本人の了解は得ています)
Kingsglaiveを観てFinal Fantasy XVが楽しみになった(ネタバレなし)
日本で7月9日に上映が始まったキングスグレイブ(以下キングレ)だけど、アメリカでは一部の映画館で8月19日に公開される。
僕は昨日、東京にあるTOHOシネマズで観た。もちろん、観に行く直前にも予告編を見て気分を高めたよね。
その予告編はこちら(https://youtu.be/nGl_2gYrfM0 訳注:原文ではソニーピクチャーズによるあらすじ紹介も加えられているが、各自で確認してほしい。すまんな)。
・オリジナルは英語版。だから英語に合わせてあって、日本語で見るとリップシンクが全然じゃん! って気になるかもしれない。
・これはゲームのプロローグなんかじゃない。時間軸としてはゲームと同じ。だから、ゲームの中でノクトの目を通して映画内で起きたことを知ることになるだろうね。
・この映画をゲームの前に見るべきか、と聞かれれば答えはYESだ。ルシス、ニフルハイム、テネブラエの政治的な情勢が描かれているからね。そして、「FINALFANTASY XV」とタイトルに入れる必要がないくらい映画として成立している。もちろん、観た後には映画のあと何が起こるのか、という興味が沸いて最寄りのゲームショップに駆け込んでゲームとPS4を予約することになるけど。
・昨日こんな質問をされた。「なんでルーナは映画版の方が大人っぽいの?」答えはシンプルだ。制作会社が違う。そして、キングレで声優を務めたAmanda Pieryをモデルにしているからだ。でも、2人は同じ時間軸の同じ人物だよ。
物語は、ルシス、ニフルハイム、テネブラエという3国の関係の説明から始まる。全体に関わるネタバレになりかねないので、詳細は語れない。
前半は、プロットの基盤固めをしながら政治的な話が進んでいく。レギス国王が国を救うために何をしようとしているのか、ルーナがどのような決意をしたのか、そして「王の剣(KINGSGLAIVE」とは何なのかがわかる。
もちろん、タイトル通り映画のメインプロットはこの王の剣についてのものだ。王の剣は王家の親衛隊で、その目的は王と国を守ることだ。
ストーリーの中心となるのは、王の剣の一員で「戦場の英雄」として知られるニックス・ウルリックだ。
決して「敵を倒して世界を救え」というような浅いストーリーではない。観るだけでFFXVの世界観をたっぷり知ることができる。実際、プロットには深みがあり、本編のプロットとも関連がある。つまり、ゲームが良いものになるという指標だ。観た後でこの予告編を観ると、きっと腑に落ちるはずだ。
・映像
もうすでに予告編で観ているかもしれないけれど、映像美はすごい。細かなディテールにもこだわっていて、視覚的に圧巻だ。
ルシスの王都インソムニアは、山ほど登場する。テネブラエも少しだけ出てくる。ニックスが町を歩き回る時に見える周囲の様子は驚くほどだ。
特に目を引かれたのが、各キャラクターの表情だった。CGという感じがしない。リアルだと思ったよ。
Advent Childrenのバトルシーンは最高だったよな、と思う人がいるとしたら、まだキングレを観てないからだね。この映画のバトルシーンは、アドベントチルドレンなんか比べものにもならない。
山ほどのエフェクトがあって、ぬるぬる動く。映画の中ではワープアタックが多用されていて(そのせいでキャラクターがどこに移動したのかを追うのが難しいけれど)かっこいい。
本編では、自分の操作でこういう攻撃ができるんだ(これまでに見た動画によればね)。
・音楽
キングレの音楽の構成は、ちょっと本編とは違うと感じるかもしれないけど、これは映画版の作曲をしたのがJohn R. Grahamで、本編は下村陽子だからだよ。
メインテーマは今まで通り壮大だ。トレーラーで使われている「Grantia Mundi」という曲も映画で耳にすることになる。
もちろん、キングレを観なくてもゲームは楽しめるだろうけれど、観ることでニックスの視点でゲームが進行する裏でインソムニアで起きたことを知ることができるんだ(本編ではノクトの視点から見ることになる)。
ゲームをプレイする予定の人には強くオススメしたい。全体として非常によくできた映画だからね。
それに、ゲームを始める前に政治情勢の大まかなところを把握できる。
映画はそれ自体で成立しているから、FFXVどころかファイナルファンタジーシリーズについて何も知らない人であっても楽しめる。
プロット、アクション、暁の女神の世界……今すぐこのゲームで遊びたい気持ちにさせられるよね。
本編では、(ダスカを始めとするトレーラーを見る限り)映画のようなアクションができるんだと思う。だからFFXVが待ちきれないんだ。
キングレに関する感想や、FFXVに対する期待度なんかをコメント欄で伝えてくれると嬉しいよ!
この記事を書いたERICKさんに伝えたいことがあったら、コメントしてくれたらできる範囲で伝えます。
訳者は、PS時代以降のFFでいえば7,9,10をクリアしただけで、あとは途中で挫折しているんだけど、映画を観て度肝を抜かれて、家に帰ってからこれまでのトレーラーと、
FFXV公式ページで無料公開中の「BROTHERHOOD」を一気に観て、
速攻でFFXVの映画同梱版をポチった上で、PS4購入に向けて節約を開始したよね。。。
否定的な意見を否定するつもりはないんだけど、せめて観てから否定してほしい。
そのためだったら、映画のチケット自腹を切ってプレゼントしてあげてもいい、と思うくらい。
Twitterを見ると、わざわざこの映画を観るために世界のあちこちから日本に来ている人たちもいるんだよね。
というわけで、ほかにもKINGSGLAIVEの感想を見かけたら(たとえ内容が否定的なものであっても)許可してもらえる限りは訳していきたいな、と思ってます。
楽しみでやるんならオリジナル脚本でもいいんじゃない? 演劇って言ったって幅広いわけで、仲間内の劇団でやるならインプロブ的なものだってありだろうし。
伝統的なプロセスで、しっかりした脚本にがっつり取り組みたいっていうなら、許可ぐらい取ろうよ。アマチュアなら上演料も1~2万円だし場合によっては上演料いらないって人もいるし。
イギリスやアメリカの普通の劇場でかけられるような脚本だと、そもそも上演演目として選ばれる前に何段階ものセレクションを経ているし、何年もかけてワークショップ等でリバイズされてようやく日の目を見る。日本だと劇団付きの作家が書く場合が多いからちょっと事情は違うかもしれないけど、完成度の高い脚本てのは単にスキルの高い人が書いたっていうだけでなく、その形になるまでの揉まれ方が違うわけで。その過程を尊重するなら、許可くらいどってことないでしょう。
(逆に、「素人の書いた脚本」でも、何十本かトライしてそっから候補を選び、何回かワークショップ(稽古場でのミニ公演的なもの)をやって役者と対話しながら練り上げてみたら、かなり完成度上がると思うよ。そこまでやって初めてありものの脚本との比較対象になり得るんであって、次の公演のために何か書かなくちゃ、で一発勝負で書いたものなんてデッサンとかスケッチのようなものでしょ。)
(追記:ああ、もしかしてブレヒト絡みのアレ? ああいいうのは個別に折り合いがつかなきゃ諦めるしか。ベケットもうるさかったよね。一方で寛容な人もいるし。そこは選んでゆくしかないでしょ。)
https://twitter.com/Eguchinn/status/425181251914321921
なんだけど、この、ハンドルネームでネット上で絵を発表してる若い人たちに共通して感じるのは「世に出る」という感覚の希薄さ?僕らの世代だと絵でも小説でも音楽でもなんでもいいけど自分の技量で「世に出たい」というのがまずあったんですよ。この「世に出たい」という感覚がもう古いの?ダサいの?
“「世に出る」という感覚の希薄さ”を「ダサい」の一言に要約しちゃう感覚にはすげえ違和感を覚える。ダサいという形容がもうダサいっす!っていうかそれ死語っす先生〜!
――まあそれはさておいて。『虚無的なのがかっこ良く、お金儲けは下品』という昭和ベクトルでこの世代を眺めるのはいささか古い。いや江口寿史Disってるわけではないすよ? ただ、見方として、江口寿史がこのたび想定しているPixiv世代についていえば、個人もしくは仲間内でひったすら趣味活動を醸成しつづけた結果、プロ並の技量を得てしまった、とみるのが(おそらく)正しい。趣味であるゆえそれに注がれる熱量たるや凄まじいんすよね。実際生産量がムチャクチャに多いしアホみたいな書き込み量だったりするんで本当にビビリます。
技巧やノウハウについてはPixivやブログに「講座」というかたちで星の数ほどアップされていて編集者や先輩イラストレーターから教わらなくてもよい状況にありますし、できあがった完成品はPixivやTwitterという超強力ツールによって24時間いつでも品評されます(Favや評価点という定量的数値として)。なんだったら同人誌にしたためて売りに出すこと売れても売れなくても強烈なリアクションが期待できます。
――このようなサイクルに放り込まれたPixiv世代は、趣味のスタンスをまったく崩さないままプロ並と呼ばれる水準にまで到達できてしまうことも充分可能でしょう。パッと見『「世に出る」という感覚』が希薄だったり、自分の技量にやたらと無頓着だったりするのも、お金を取れるレベルに自分が達していることに気づいていないか、『プロ(=専業)』という生態を至上とはしていないせいと考えられます。
同人活動をしている知人の話になりますが、イラストレーターの報酬額には毎回とても悩むといいます。金額をまったく提示してこないからです。好きでやってるんだからタダでいいよというケースすらあるそうですよ(ちなみにイラストレーター氏は受賞歴が複数あり、Pixivではオリジナル非エロが評価点5桁レベルの技量ということです。プロで通用するレベル)。
技法や知識はネットで調べられる、絵道具はペンタブとソフトで充分、Favや評価点でレスポンスが超ハッキリ提示され、気のあう仲間と盛り上がって楽しくすごせる……。そんな環境に囲まれたPixiv世代を外部から理解するにあたり、それこそ江口寿史くらいの年齢層ならば出世欲の希薄さにフォーカスしてしらけ世代との近似を想定するのも無理からぬ話ではあります。ただし言われたほうはコレジャナイ感に満ち満ちる。以上に書いたとおり「しらけ」とは程遠い熱量を持っているからです(イラストレーターごとの個体差はもちろんあります)。むしろオタク的情熱がインプロージョンして世間から観測しづらくなったと言えるのかも。
昔のように身を賭してイラストレーション関係の賞に積極的に応募してこないのは――内部事情をビタイチ知らないので憶測ですが――リスクヘッジが働いていると見るのが妥当でしょう。プロで生きていくより平日ふつうに働いて土日の余力でちょいちょい仕事もらうほうが精神的には遥かによろしい。先が見えなさすぎるイラストレーター稼業のリスクを加味したならば、あえてプロ化しないのも至極まっとうな選択と言えます。そりゃ誰だってジジイババアになってから路頭を迷いたくはない。そういう算段を皆しっかり行うようになったんで「賢くなった」ように見えるのだと思います。
個人的には『無謀こそが最善手』とするのは精神論すぎると思う。トキワ荘のみんなは死んじゃったし。バブルも弾けて華やかな未来は霧散したし。専業はやっぱ怖いすよ。
https://twitter.com/takokainahare/status/425185441478766592
“@Eguchinn 書く事と収入のバランスが悪い。「世に出て」安定した収入を得るまで年月がかかる。働きながら趣味で描いてる方が安心ですよ。”
あと、江口寿史が働きはじめたくらいの頃はメディアたる雑誌の「賞」という入口のほかに不特定多数からリアクションを獲得する手段が存在しえなかったと思います。PixivもTwitterも21世紀のサービスですからな……。今日ではそういったSNSでいくらでも褒めてもらえることが出来る。飯の種を探すことすら可能です。今昔の違いが雑誌の賞に現れるのも、まあ妥当な作用なんじゃね?って気はします。
知ってるかい?「高度情報化」の情報化ってのは、高度な情報中心の社会に「なりつつある」ってことでは無いんだぜ?これは非常によくある勘違い。
そうではなく、これまでアナログだったものが情報に「変わった」ということなんだ。それが「情報化」。わかる?
そこをはき違えて、得意げに「今は高度情報"化"社会じゃなく、もはや高度情報社会に突入したのだ」キリッ とでも語るのは恥ずかしいよw
しかしだ。
俺は「高度情報化のnext」には確かにさしかかってると思う。それは何か。
たとえば、「刺激物は身体に悪い」という大衆どもが信じ込んでいる俗説があるじゃん。わかる?
県名な諸君は何が情報社会だよ、全然正しいこと知られてないじゃんって思ったことはあるだろう?
そのとおり、その感想は正しい。そうなんだよな、誰も正しいことを言わないし、言ったとしても広まらないんだよな。
なんでもかんでもそう簡単に広まっちゃうと大資本のパワーバランスが崩れて社会が破滅するんだけどねwでももうちょっと広まって欲しいよね、正しいことなんだから。
そういう社会が少しずつ実現しつつあるんだ。これまではハードの情報社会だったのが、ソフトも高度情報化社会になるですよ。
ハードのシフトはとっくに<完了>してる。これからはソフトのシフトですよ。ソフトのシフト。未来学者も言ってたけど、2020年代には完全にそういう社会になってる。俺も同感。
今年最大の情報技術のニュースは何だったと思う?iPhone5とかiPad3はどうだっていいんだよw Apple信者だけどw
それより脳波キーボードの実用化なんだよな。そう言うと一般人は「えっ」て反応するけど情報科のみんなは割と同意してくれる。この脳波キーボードが2015年には急激に普及するって話だ。
これがね、ソフトのシフトには欠かせないから。ツイッターが気軽さで普及したように、気軽なハード(インプロットデバイス)の普及が文化大革命を起こす。
もう我々は5年周期で時台は一変したとわめき立てているが、2015年、ならびに2020年にも同じことを叫ぶようになるだろう。時代は繰り返すのだ。