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はてなキーワード: 伊藤計劃とは

2015-12-03

☆(007)ダメダメ人生を変えたいM君と生活保護 (ポプラ新書) 池上 正樹

無意識に買わせる心理戦サイモン・スキャメル=カッツ

なぜこの店で買ってしまうのか ショッピング科学 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) パコ・アンダーヒル

33の法則 イノベーション成功と失敗の理由 オリヴァー・ガスマ

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書) 岡田 尊司

あのころ未来星新一の預言 (新潮文庫) 最相 葉月

☆儒教ルサンチマン宗教 (平凡社新書 (007)) 浅野 裕一

サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」 レイ・オルデンバー

教育危機経済学 (御茶の水選書) 馬場 宏二

陽のあたる家~生活保護に支えられて~ (書籍扱いコミックス) さいき まこ

排除社会―後期近代における犯罪・雇用・差異 ジョック ヤング

憲法で読むアメリカ史(全) (学芸文庫) 阿川 尚之

☆働かない―「怠けもの」と呼ばれた人たち トム ルッツ

父が子に語る世界歴史〈2〉中世世界 ジャワハルラール ネルー

クリエイティブシンキング入門 マイケル・マハル

クリエイティブ喧嘩術 (NHK出版新書 408) 大友 啓史

コギトピノキオの遠隔思考 ソウルドロップ孤影録 (ノン・ノベル 1003) 上遠野 浩平

竜との舞踏 1 (氷と炎の歌 5) ジョージ・R.R. マーティン

双頭の鷲〈上〉 (新潮文庫) 佐藤 賢一

子どもの難問 野矢 茂樹

☓つねに結果を出す人の「勉強脳」のつくり方 イ シヒョン

皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上 塩野 七生

アメリカ史のアイロニー ラインホールド ニーバー

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクションシリーズ) ドナルド・B・クレイビル

この世でいちばん大事な「カネ」の話 (角川文庫) 西原 理恵子

生命保険カラクリ (文春新書) 岩瀬 大輔

統計学を拓いた異才たち(日経ビジネス人文庫) デイヴィッド・サルツブルグ

☆売り方は類人猿が知っている(日経プレミアシリーズ) ルディー 和子

明治・父・アメリカ (新潮文庫) 星 新一

☆☆国をつくるという仕事 西水 美恵子

森有礼 悲劇への序章 (林竹二著作集) 林 竹二

林竹二著作集〈8〉運命としての学校 (1983年) 林 竹二

フィンランドに学ぶべきは「学力」なのか! (かもがわブックレット 169) 佐藤

教育立国フィンランド教師の育て方 増田 ユリ

オッリペッカ・ヘイノネン―「学力世界一」がもたらすもの (NHK未来への提言) オッリペッカ ヘイノネン

コミュニケーション力を引き出す (PHP新書) 平田 オリザ

演劇入門 (講談社現代新書) 平田 オリザ

フィンランド流「伝える力」が身につく本 北川 達夫

図解 フィンランドメソッド入門 北川 達夫

受けてみたフィンランド教育 実川 真由

話し下手でも7割聞くだけで相手を惹きつけられる会話のコツ46 野本 ゆうき

Rules of Attraction Bret Easton Ellis

シェイクスピアハンドブック 河合 祥一郎

生きることのレッスン 内発するからだ、目覚めるいのち 竹内 敏晴

ポストヒューマティーズ――伊藤計劃以後のSF 飯田一史

ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書) 波戸岡 景太

俺のイタリアン俺のフレンチ―ぶっちぎりで勝つ競争優位性のつくり方 坂本

まことに残念ですが…―不朽の名作への「不採用通知」160選 (徳間文庫) アンドレ バーナード

農業で稼ぐ!経済学 浅川 芳裕

足代小フューチャースクールのキセキ 徳島県東みよし町立足代小学校

ホテルメイドでできている(1) (ジュールコミックス) 野崎 ふみこ

ホスピめし みんなのごはん(2) (ジュールコミックス) 野崎 ふみこ

りはめより100倍恐ろしい 木堂 椎

「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい―――正義という共同幻想がもたらす本当の危機 森 達也

ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー 森 達也

「奇」の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた 内田

ファンタジーを読む (岩波現代文庫子どもファンタジーコレクション 2) 河合 隼雄

結婚できないのはママのせい? -娘と母の幸福五百田達成

大人のための私服の教科書 久保田卓也

ルールを変える思考法 (角川EPUB選書) 川上量生

メディアを語る (別冊思想地図β ニコ生対談本シリーズ#2) 川上 量生

(003)世界の美しさをひとつでも多くみつけたい (ポプラ新書) 石井 光太

☆☆津波の墓標 石井光太

鳥貴族「280円均一」の経営哲学 大倉 忠司

☆OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム (中公新書) 小笠原 祐子

ニッポン定番メニュー事始め 澁川 祐子


金融商品にだまされるな! 吉本 佳生

金縛り]の謎を解く 夢魔幽体離脱宇宙人による誘拐 (PHPサイエンスワールド新書) 福田 一彦

国際メディア情報戦 (講談社現代新書) 高木

高校生からわかるマクロミクロ経済学 菅原

「なんで英語やるの?」の戦後史 ——《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程 寺沢 拓敬

石油国家ロシア マーシャル I ゴールドマン

戦うハプスブルク家 (講談社現代新書) 菊池 良生

神聖ローマ帝国 (講談社現代新書) 菊池 良生

陋巷に在り〈1〉儒の巻 (新潮文庫) 酒見 賢一


秘訣は官民一体 ひと皿200円の町おこし (小学館101新書 19) 五十嵐 幸子

B級ご当地グルメまちおこし: 成功と失敗の法則 俵 慎一

町おこし」の経営学ケーススタディー・地域経済活性化 官と民の新たな関係 三井物産業務部「ニューふぁ~む21」チーム

☆なぜ富士宮やきそばB-1グランプリ覇者となりしか? B級ご当地グルメで500億円の町おこし 渡辺英彦

中小都市の「B級グルメ戦略―新たな価値創造に挑む10地域 関 満博

決定力! :正解を導く4つのプロセス チップ ハース

習慣の力 The Power of Habit チャールズ・デュヒッグ

波間の国のファウスト:EINSATZ 天空スリピングビューティ (講談社BOX) 佐藤

戸田誠二作品集リム奇譚 (ぶんか社コミックス) 戸田 誠二

2015-11-17

伊藤計劃映画レビュー

屍者の帝国

☆☆☆

途中までは良かったのですが最後の方の超展開について行けなかったので星三つです。

ハーモニー

☆☆

パンツが見えなかったので星二つです。

虐殺器官

延期したので星一つです。

anond:20151024023259

時期をはずした気がするが、さきほどハーモニー読了したので書く。

16歳未満の子どもには、WatchMeがインストールされていない。WatchMeを入れられたくないからこそ、ミァハたちは16歳になる前に心中しようとしたはずだ。

まり、16歳未満の子どもはハーモニクスすることが物理的に不可能である

にもかかわらず、エピローグでは、全人類意識ハーモニクスされたように書かれている。作中の設定どおりなら、こんなことはあり得ないのだ。

この作者は、自分が書いた設定を忘れている!

上記について、脳血液関門の件を読んでいてもなお本文の記述をそのまま設定であると受けとめるのは少々ナイーブなのではないだろうか。(伊藤計劃が設定を忘れているかはさておく)

個人的には、16歳までWatchMeがインストールされないというのはあくまで表向きだと考える。新生児は出生時に(あるいは臍帯を通して母から子へある種の『感染』をしているかもしれない)インストールされ、戦災孤児場合保護された段階でインストールされているという考えだ。いざというときに「16歳未満の人類ハーモニーからはずされました」というのは大災禍への偏執さを感じさせた老人達にしては杜撰な気がする。

話は変わるが、すでにWatchMeがインストールされているとして冒頭のミャハの言動を読むと1回目とはまた違った感慨があるな。

伊藤計劃原作劇場版ハーモニー感想

 映画化は継ぎ接ぎだ。

 ある状況下において必要だった形質も、喉元すぎれば不要になる。その場その場で必要であった言葉の集合、小説文体は場当たりの継ぎ接ぎでできている。映画化なんて前向きな語は間違ったイメージを人々に与えやすい。エンタメは、いやすべてのコンテンツは膨大なその場しのぎの集合体なのだ

 だとしたら。我々読者が獲得したこの伊藤計劃なる奇妙な作家を、とりたてて有り難がり、神棚に祀る必要がどこにあるのだろう。『ハーモニー』は、『虐殺器官』は、すべて時代への適応として作家が描出したにすぎない継ぎ接ぎの一部だ。死後の評価も、映画化の「プロジェクト」も、すべて「ある時代で」においてのみ、皆が生きるために必要だったから、SFというジャンル生存寄与たか存在しているだけだ。

 かつて読者には、怒りが必要だった。

 かつて読者には、喜びが必要だった。

 かつて読者には、哀しみが必要だった。

 かつて読者には、楽しみが必要だった。

 1990年代(かつて)、2000年代(かつて)、伊藤計劃が生きていた時代(かつて)。

 それは過ぎ去った名作と時代に向けられる弔いの言葉

 かつて読者には、「これ」こそがわたしであるという思い込み必要だった。

<list:protocol>

<p:チケット券売機で買う>

<p:購入したチケットをもぎりのあんちゃんに渡す>

<p:その他パンフ等を入念にチェックする>

</list>

大丈夫。わたしは観られる」

 そうつぶやくと、斜面に並べられ、ふかふかのウレタンの詰まった座席に腰を沈めた。

「やあ、読者。七年ぶり、だよね」

「でしょ。ここでやってるって、映画.com で聞いたから」

「『屍者の帝国』は――残念だった。エンディングロール後も」

 不思議と、そう言われても頭に血が上りはしなかった。

「でも、仕方なかったって言うんでしょうね、きっと」

「ええ、言うわ。『仕方なかった』」

 わたしは例の盗撮注意CMを聞いた。映画泥棒パトランプの白い指先をかすめ、法で定められた条文が読み上げられる。

「わたしにとっては、仕方なくないわ」

「そうだね。でもこれ以上衰退させるわけにはいかないんだよ。わたしたちの世界SF)をね」

プロジェクトがあるから?」

「そう。わたしたちの望みはね、伊藤計劃読者のハーモニクスなの」

 わたしはね、永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与えたい。

 止まってしまった時代に、一撃を食らわせたい。

 わたしたち三作の死が、その一撃なの……。そうわたしは聞いた。世界って変わるの。

 わたしたちにとっては、すべてが変わってしまうわ。

「ついに、わたしたちはここまで来た」

「ここまでって」

「『すばらしき新世界』。ユートピアだよ。

 業界幸福を目指すか。真理を目指すか。読者は<天才夭逝>のあと幸福を選んだ。まやかし永遠であることを、自分進化のその場その場の適応パッチの塊で、継ぎ接ぎの出来損ないなコンテンツであることの否定を選んだ。人格を圧倒すれば、それが得られる。すべて、わたしたちが読んでいるこの世界のすべてをシノギに置換すれば、それが得られる。読者はもう、戻ることのできない一線を超えてしまっていたんだよ」

 わたしは画面にくぎづけになったまま、戸惑いの表情を浮かべる。

 それを憎んでいたのは、

 誰よりも否定していたのは、

 伊藤計劃あなたじゃなかったの。

wikipedia で見たわ。あなたは――」

「そ、わたしは『意識のない』作家の一員。というより、生を必要としない作家の一員、と言ったほうがいいかな。生を獲得した今となっては、だった、って過去形なっちゃうけど。わたしの生はあなたたちのそれとは管理する現実のセクションが違うんだよ。TOHOアニメーション早川書房の一部でエミュレーションしている、らしい。わたしのプロジェクトはね、ここで生まれたんだ」

 性器が屹立したような桃色の建造物の群れ。『チャージマン研』のころの未来像。

「ここはね、アニメスタジオだった。書店から誘拐された原作本(おんなのこ)たちが、ここで毎日アニメーターにやられてた」

 百合百合百合

「わたしにのしかかってきたプロデューサーはね、わたしに繰り返し繰り返し入れながら、原画台本をわたしに触らせてた。これがアニメだ、これが贈与だ、これが力だって言いながら、まるで自分のもうひとつペニスをさすらせ、しゃぶらせるようにわたしの口にredjuiceを突っ込んで、何度も何度も突き入れた」

 わたしは計劃の話を聞きながら、既に涙を流していた。

 これほどのことを、こうもにこやかにさわやかに話すことのできる意識

 それはいったい何なのだろうか。

「そうして突き入れられて、台本修正校でべたべたにしているときに、わたしは生まれたの。このスクリーンなかには、LINEスタンプ新装カバーコミカライズ特集トリビュートアンソロジーもグッズも本屋大賞も、すべての夢がたっぷりと染みついている。わたしは希望のなかでもう一度生まれた。いわゆる、プロジェクトとしてね」

「計劃は言ってたじゃない」と言うわたしの顔は涙と鼻水でぼろぼろになっている。

「計劃はこの世界を憎んでいるって。愛し愛され真綿で首を締められるようなこの産業を憎んでるって。どうなの、あそこはここ、この劇場よりひどい場所だったの……わたしたちの読んでいたジャンルは、この生首ディスカッションばかりのアニメよりひどい作品だったの……」

「どうしたらいいか、わからなかった。

 わたしは1990年代に、2000年代に生きていた。

 この世界を憎んで、この世界に居場所がないって、どの作品も叫んでいた。わたしはそのときに思ったの。わたしは人間がどれだけに自意識過剰になれるか知っている。そしていま、逆に人間自意識を――自然を押さえつけようとして、どれだけ壊れていくかを知った。そのときは、わたしは単純に思ったの。この社会が、このクール・ジャパンが、この2010年代という時代の仕組みがおかしいんだって。内部から自分の裡からあのときの感動を徹底して求める読者がおかしいんだって考えたの」

 そうだ。商業健康を何よりも優先すべき価値観とするイデオロギーの許に、ポジティブ感想を常に提出しつづけなければならない空気ジャンルの存続のために自らを厳しく律することが平和協調と新作を生むと皆が信じている社会

「そう、あなたはこの業界の仕組みを憎んだ」

「でも、manglobeが潰れたときに、わたしは学んだの」

「何を」

「読者は変われるってこと。読者としての、信者としての偏狭視点限界突破できるってことに」

「この業界を、わたしたち読者を憎んでいるから、あん桜Trickを作ったわけじゃないのね」

「うん。わたしは愛している。この映画を全力で愛してる。あなたたちを愛してる――すべてはこの世界肯定するため。すべては『わたし』を忘却できず、『わたし』に侵食される世界を救うための」

「この世界にとって完璧プロジェクトを求めたら、作品の質は最も不要な要素だった。お笑いぐさよね」

「わたしは、笑わなかったよ」

 感動げな大自然映像が流れる。感動げなコーラスが流れる。どこからニコニコ動画の亡霊の歌声が響いてくる。

「そうすべきだと思った。いま、世界中で何万というコンテンツが発生している。日本でもね。ジャンル要請する小さな利益とか、そういう細々した関係性を扱う以前に、わたしたちはまずどうしようもなく読者で、継ぎ接ぎの機能としての快楽や欲望のよせあつめにすぎない、っていうところを忘れることはできないんだ」

あなたは思ったのね。この現状に信者たちがなじめず腐っていくのなら――」

「そ、伊藤計劃読者であることをやめたほうがいい」

 伊藤計劃が指をぱちん、と鳴らすと、今度は『ファイト・クラブ』の上映がはじまった。

 "タイラー・ダーデンを知っているか、とよく訊かれる"……。

「というより、読者であることをやめたほうがいい。SFファンを、オタクであることをやめたほうがいい。文化が生み出した継ぎ接ぎの快楽摂取行為にすぎない読書を、この身体の隅々まで徹底して駆逐して、骨の髄まで社会的存在に変化したほうがいい。わたしがわたしであることを捨てたほうがいい。社畜になったほうがいい。書を捨てよ、会社に行こう――『わたし』とか意識とか、夭逝天才だとか、プロジェクトだとか、SFだとか、アニメだとか、映画だとか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、復讐を目指したあなたたちに、本物の復讐が訪れる」

「じゃあ、計劃は戻りたかったんだ。あの『エヴァンゲリオン』以前の風景に。自分民族本来はそう在ったはずの風景に」

 伊藤計劃は小さくうつむくと、そっとうなずいて、

「そう、なのかもしれない。ううん、きっとそうなんだね」

「じゃあ、それを奪うことは、わたしのささやか復讐になるのかな」

「え」

SF死ぬ必要がなかった。だから早川コンテストを再建したんでしょ。創元は短編賞作ったんでしょう」

「……そう、なのかな」

あなたの『プロジェクト』は自己正当化する必要があった。あのときは。既に受賞済みの、止めようがない才能たちに対して」

「そうなのかな」

 わたしはうなずいて、そしてきちんと座り直した。

「だから、わたしはここでSFと冬の時代復讐をする」

「どうやって」


あなたの望んだ映画は公開してあげる。

 だけど、あなたの望んだ忘却は与えない」


 そして、わたしは席を立った。

2015-11-08

屍者の帝国

 伊藤計劃はディティールの作家だった。

 はっきり言ってしまえば、虐殺器官トリックハーモニーアイディアも、SF観点からするとさして目新しいものではない凡庸ものだ。

 にも関わらず、「夭逝天才作家」として祭り上げられる以前から○○おじさんを含むめんどくさい連中に評価されている理由は何かと考えると、ディティールの積み上げる圧倒的なリアリティにあるのだと思う。

 虐殺器官に出てくる心理マスキング処理、ハーモニーに出てくるアマゾンめいた個人評価スター、これらは今現在からの延長線上の未来として演算される現実的もので、一部の組織企業内では既に現実のものとして実装されているものであろう。

 彼の死から早6年、彼の最後作品である屍者の帝国が、Project itohの最初映像作品として公開される、それも彼が最も愛した映画という形をとってだ。

 6年間、それはあまりにも長い時間でした。僕らの好きだった計劃さんは、どうしようもなくめんどくさい(そして愛すべき)はてダ映画おじさんという存在から、いつの間にかに「夭逝天才作家」という世間を騒がすアイドルになっていてProject itohなるもの始動してしまう始末。

 それでも、それでも、Projectに苦虫を噛み潰したような表情で立ちすくむ○○おじさんたちも、御大小説映像化されることには公開される前は素直に喜んで胸のときめきを抑えきれなかったはず、そう公開される前は。なんなんですか、いざ公開されたとなればハダリーたんのおっぱいとか階差機関に対する言及はあれども映画のものに対しては皆口をつぐみ挙句の果てに「地獄はここにあるんですよ」と指差す始末。

 はっきり言おう、○○おじさんたちは生前の計劃さんから何も学んでいないと。

 映画批評っていうのはレビューではない。もっと体系的だし、少なくともウェブに溢れる「面白い」「つまらない」といった感想程度のゴシップではない。

 批評とはそんなくだらないおしゃべりではなく、もっと体系的で、ボリュームのある読みものだ。もっと厳密にいえば「〜が描写できていない」「キャラクターが弱い」「人間が描けていない」とかいった印象批評規範批評の粗雑な合体であってはいけない。厳密な意味での「批評」は、その映画から思いもよらなかったヴィジョンをひねり出すことができる、面白い読み物だ。

 だから、こいつは映画批評じゃない。まさに印象批評的で、規範批評的で、それはすべて、ぼくが紹介する映画を魅力的に見せるためにとった戦略だ。

 面白い映画面白かった、という。

 このページでいろいろ書いていることは、結局そういうことだ。

「おかえり、フライデー

 人間は死亡すると、生前に比べて21g体重が減少することが確認されている。それが霊素の重さ、いわば魂の重さだ。我々は魂が抜けた肉体に擬似霊素をインストールすることによって死者を蘇らせる。

 原作は我らが伊藤計劃、そして円城塔。といってもたった30枚の遺稿は映画化にあたってオミットされている。メディアミックスなるもの今日当たり前のものになりつつあるのに、なぜかこと映画化に関しては地雷であるという評価が当然のものになりつつある、特にマンガアニメ原作付きのものに関しては顕著だ。本作もその類に漏れず、○○おじさん達から大変な不評を買ってしまっているが、伊藤作品映像化という観点からすれば私は十二分に楽しむことができる傑作だと思った。

 原作付き映画に何を期待するかは人によってそれぞれ違うが、原作ストーリー通りに話が展開するだとか、セリフを忠実に再現するだとか、冒頭の30枚を残すだとか、少なくとも私はそういったことには重みを置かない。小説には文字の、映画には映像の文法がそれぞれあるのだから、単に忠実に再現するだけでは翻訳として成り立たないし、少なくともメディアミックスとしての価値はない。それは原作ファンを称するクラスタに向けた言い訳に過ぎず、怠惰姿勢だと思う。

 文字とはすなわち情報であり、映像もすなわち情報である。その違いがどこにあるかというとtxtファイルwmvファイルの容量を比べるまでもなく、圧倒的な情報量にある。つまり同じシーンを描写するにあっても、映像化のためには不足する情報を画面に徹底的に描き込まなければならない。では不足する情報をどこから補ってくるかといえばやはり原作であるのだが、単に帰納演算に基づいて情報を付加すると、あたかjpeg画像を拡大したように荒く違和感を感じるものになってしまう。そこで映像化にあたっては、原作を入念に読み込み世界観理解したうえで、原作存在しなかった情報を加えることでディティールを明確にする。一方でその情報量が過剰であるが故に、人は文字を3時間追うことができても、映像を3時間観ることは困難なのもまた事実現実的には予算だとか尺の問題だが)。そこで行われるのは物語圧縮である。先に述べた情報の付加と異なり、如何に情報量を減らさずに短い時間に収めるか、如何にディティールを残したまま圧縮できるかが肝になる。

 こうして完成した映像作品は、個々人の頭の中に存在する「原作」とは違ったものとなっているので、ほぼ確実に違和感を与えることになる、場合によってはそれが不評の原因になるかもしれない。だが、ここであえて言わせてもらえば、その違和感こそがメディアミックスとしての醍醐味であって、映画を見る楽しみの観点であろうと。

 私はかつて植民地だった地域によくある上海租界のような場所が好きだ。それは現実宗主国建築物を現地にある材料で模したまがい物に過ぎないのだけれども、望郷の念からか過剰に演出されたそれらの建物は本物のフランスイギリス建物より本物らしく見える。例えるなら歌舞伎女形女性より女らしいようなものだ。

 映像化された屍者の帝国に、私は原作より原作らしいもの、あるいは書かれることがなかった、この世界線には存在しない真の原作面影を感じることができたと思う。

 ボンベイにたむろする屍者の労働者、○○おじさんにも大好評だった圧倒的なディティールの階差機関、白く荒涼としたカザフスタン目黒雅叙園相撲浮世絵ジャパン映像化に際して付加された情報量についてだけでも映画として申し分ない。かつて彼が愛していた世界観型の映画のように、産業革命時代に屍者技術なるもの存在した場合どんな世の中になるかというSF観点なif、たったひとつの嘘による世界構築がなされている。

 「あなたにもう一度逢いたかった、聞かせて欲しかった、あなた言葉の続きを。」

原作ではフライデー円城塔で、ワトソン伊藤計劃にあたる。彼が残したテキストを読み足りない情報を補って、作家伊藤計劃脳内にエミュレートして続編を書くという行為を考えれば当然の配役である小説エピローグで、彼岸に渡ったワトソンを思ってフライデーは自らの意思を持ち動き出す。一方、映画ではその立場が逆転して、ワトソン円城塔フライデー伊藤計劃にあたり、旅の目的伊藤計劃の復活である映画の文法としては旅の目的明確化だが、○○おじさんにとっての不評の元凶となる改変だ。BLノイタミナだとdisる気持ちもわからなくはないけど、ヴィクター書記を手に入れて伊藤計劃を復活させるという話が映像化第一弾として公開されることに意味を感じる。

 冒頭にも書いたが伊藤計劃小説は言ってしまえばそんなでもないし、同じようなものを書ける人は出てくる。けど、彼の映画批評のような愛と薀蓄に溢れた文書を書ける人はもう出てこないような気がする。それでも彼がもし生きていればこの映画をどう評論しただろうか、死んだ彼がこの映画を見たらどう評論しただろうか。

 あなたはここにいるわ、そう思えるような文書をみんなもっと書いて欲しい。

流行りのSF小説 ハーモニーを読んで思ったこと

自分の通う大学生協でも街の本屋と同じように、伊藤計劃が押し出されており、ウンコ大学中退した大量生産大衆作家の本と一緒にズラ〜と陳列されている。

このようなキャンペーン自分はまんまと嵌り、買って読んだのだが、読みにくかった。

お話の内容は、たいていの人間意識が消えてユートピアができましたー、文科省は人文系廃止できるね ヨカッタヨカッタとかいものである

そんな絶賛されるものか?と感じた。

しかし、「お前の文章の方が読みにくい」とか「映画化決定」と言われると何も言い返すことができない。

から自分には文句をいう権利など微塵もないのだけれども、ヒロインのある言葉にねーよと強く思った。

フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない

かいうお言葉である。そして、「若きウェルテルの悩み」が引き合いに出されている。

正直、人を殺す力など言葉にはないだろ。

たかが、お話で人を殺すことなどできない。

できていたら、今頃安倍晋三なんか数億回くらい死んでいるはずだ。

おそらく著者の夢なのだろう。俺ってフィクション書いてる!人を殺すパワーがある!というふうに思いたかったのだろう。

実際はとことん言葉なんて無力だ。

2015-10-27

原作既読だけどうろ覚え人間屍者の帝国を観て書いた悪口

まえがき

ネタバレかつ悪口の垂れ流し、悪文

原作文庫が出る少し前くらいに読んだ

書き手腐女子

シネマサンシャイン池袋

・初めの10分はCMだったんだけど、プリキュアとかガルパンとかガラスの花と壊す世界とか、フリー過去エピとかデュラララの番外編を劇場でやります~みたいなやつばっかりで死ぬほど萎えた。屍者帝なんだからワトソンでウォルシンガム機関で全世界を股にかけた冒険もの夭折したSF作家の遺作なんだから007スペクターの予告とか流そうぜって思ってたんだけど、でも、見終わった今となっては妥当だったのかも。あの予告群で

本編

ロンドン

・「まず必要なのは屍体だ」っていうのは原作の冒頭の文だった気がするし、世界観バーンと出してる感じで良かった。ただフェードインした絵でロンドン医大の大講義室でなくワトソン君の自室なのはな? 伊藤計劃絶筆の序章くらいそのまま映像化してもよくない? ダメ

ロンドン風景はきれいだった。Fate/staynightUBWのエンドを思い出した。映像

・それでフライデー原作では貸し出された屍体だったと思うんだけど友人なの? マジ? 友人なのになんでこんなショタいわけ?

首に霊素注入器みたいなやつをさすところは痛そうだった

・M~~~?!?!? これヴァン・ヘルシング教授では? 原作に出て来てた気がする。屍者帝映画内でMって呼ばれてたかどうかちょっと覚えてないけど、MI6じゃなくてウォルシンガム機関なのは元々だっけ、From the Nothing, with Love.とちょっと混ざってるわごめん。そうじゃなきゃ007と混ざってるんだと思う

・いきなり博士の異常な愛情ネタぶっこんでくるのやめろ。ワトソン君の傾向はまだ対象が(故人とはいえ)人間だぞ

ヨーロッパアジア

ボンベイに飛ぶの速すぎワロタ原作でもそうだったっけ。覚えてない

ハダリーはアートワーク見た瞬間から思ってたけどファッションぶち抜きすぎじゃない? アリなの?

バーナビーは出てきた瞬間ブルックスJrかよと思った。理不尽すまん

・クラソートキン(名前記憶あやしい)って原作に居たっけ?

ワトソン煙草吸うシーンには萌え

・アリョーシャがあんな死にかたしてたか覚えてないのでアレ。保留

・クラソートキンとフライデー容姿類似意図的ならもっと対比してほしかったし、無いとは思うけど意図的じゃないなら悪手

日本

バーナビーの下着じゃないから恥ずかしくないもん発言伊藤計劃オタク趣味内包した台詞ってことで良いんですかね

日本パート北斎の娘の映画たかったけど見損ねたこと思い出した。名前忘れたけど会社でのバトルよかったし、手記が祀られてる部屋で即身仏みたいな屍者が並んでるのもよかった。ただワトソンの行動はクズすぎるし、フライデーに執着しすぎてて無理

原作ハダリーって音波キャラだったっけ。ハダリーにせよザ・ワンにせよ、かかとでカッてやるたびに、アナ雪かよと思ってしまいつらさが募る。最近ずっと誰かが「ありのまま」っていうたびつらいんだけど、そんなの台詞で一切出てこなかったのに、屍者帝めっちゃアナ雪じゃなかった??? 最後結晶化も同じく

アメリカ

ワトソンめっちゃエレンに見えてきてつらかった。WITStudio~~~頼む~~~

フライデー叫び過ぎだし、ワトソンは友人の亡霊を追い求めてないで現実フライデーくんに対処してくれ、と思っていたらどんどん取り返しのつかない状況に陥っていくドン

・ワトフラワトがエモい。とにかくエモいマジでこれ伊藤計劃作品なのか?

ノーチラス号原作に出てきたかまじで覚えていないけど出て来てたんだっけ

再びロンドン

・Mとザ・ワンのおっさん対決にMGSみを感じて伊藤計劃みを感じた

・Mが言ってるのは御冷ミァハの言葉ではないか? と思ったし、意識統合あるいは無意識を共有とか、なんかエヴァかなっていう。原作もそうだったかマジで覚えていない

エンドロール

・もう大概意地悪な気持ちになった所で突入したエンドロールの曲、ノイタミナ御用達アーティストEGOISTさまだけど、ジャズチックなせいか椎名林檎かなにかに聞こえるしこれもうサイコパスでしょ……

エンドロール

原作ではワトソンホームズ関係はぼやかしてなかったっけ。Mに探偵の弟がいるよ程度の触れかただったよね? エンドロール後の展開、めっちゃ冒険したな??? 探偵ブームきてる? ヒュウ!!!

フライデーモリアーティって理解で良いの。犯罪フライデー犯罪フライデーするべきでは?)死にそ~~~(死んでる)

ハダリーがアドラーっていうのはよくわからん原作がどうだったか覚えてない。エンドロール後で目にハイライトあったのハダリーだけだった気がするのは怖い

その他

・上映中ずっといたたまれなかったのはキャラデザ五割、台詞三割、脚本二割ぐらい

・こういうの腐女子の皆さん好きでしょっていう振られ方も、こういうの中高生の皆さん好きでしょって振られ方も、ひしひしと感じるものがあってほんとうにいたたまれなかったし正直引いた

・進撃もだけど、あのぐるぐる目デフォルメが苦手というか嫌いというか好きになれないので、あの絵柄でグッズが出るとわりとげんなりする。

・魂の重さ21gネタって原作にあったっけ

・これは伊藤計劃物語ではなく、書き継いだ円城塔物語でもなく、二人の作品の大枠を取りノイタミナが好きな雰囲気アレンジし、中高生の好きな感じのキャラデザと一部の腐女子の好きな感じのキャラ関係を仕立てたあれ

サイコパスとかギルティクラウンとか、ノイタミナアニメ会社とかレーベルとしての趣味ガンガン出してくるのは別にいいんだけど、原作があるものにまでそうするのはまじで勘弁してほしかったな……な……

FIN.~

あとがき

また何か思うところがあったり、原作読み返したりしたら書きます

2015-10-25

感情には個体差があるということ

インターネットぼんやりと眺めていると、熱気に満ち満ちている人に出会うことが多い。

その人達は、世界のあらゆる現象に対して、とにかく強い感情を持っていて、とんでもないほどの知識量と文章で武装して、論戦を戦わせたり、そうでなくても、継続的呪詛を吐き続けたり、ラブコールを送ったりしている。

それを見てよく思うのは、自分感情に対して鈍感な人間なのだろう、ということである。繊細な人間は、世界の持つ不条理だったり、優しさだったりに動かされてしまう。

そして、憤り、傷つき、怒り、或いは感動に打ち震える。それが創作物という形をとって現れるのだと思う。

自分は、そのような人間にはなれない。

  

物心がついた頃から感情に薄い膜が張ってあるような感覚がある。心を動かされるような出来事殆ど無いが、かといってそれが辛いわけでもない。常にぼんやりとした満足感と空虚感に包まれている。

伊藤計劃の「ハーモニー」で、感情存在しない人間が登場するが、現実世界における人間にも、感情の強い人間と、感情の弱い人間が居るのではないか。

  

インターネットという世界は、感情の強い人間によって寡占されているように思う。感情の弱い人間は、そもそも何かを外に伝えようとする情熱も弱いからだ。

基本的ぼんやりとしていて、趣味もなく、仕事には黙々と打ち込み、不平を垂らすこともないが、なにかに喜ぶこともない。

そういう人間を(現実世界では)ちらほら見かける。それは、おそらく感情の弱い人間で、僕の仲間だと勝手に思っている。

  

以上、感情の弱いけれど、匿名掲示板文章を書く程度には感情の強い人間がお送りしました。

2015-10-24

http://anond.hatelabo.jp/20151024023259

ハーモニーラスト、すでに技術的に可能で、先進国でそれを阻む者がいなくなったんだから、最終的に世界はその方向に行くってことなんだろうなーと思って、あんま気にならなかった。

自分SF者ではないからわかんないけど、なんか大変なんだね。

自分にとっての伊藤計劃は、SFなんてもう15年くらい読んでなかったけど、時間つぶしのために偶然にSFマガジンを手にとって知った名前に過ぎなかった。

時間つぶしだから、読みにくい苦手意識のあるSFでもいーやという気持ちにならなかったら、まず手にも取らなかった。

それがきっかけで「虐殺機関」を読んで、面白かったから「ハーモニー」も買って読んだ。

事前にあったSFに対する苦手意識を忘れるくらいには面白かった。

SFに対して何の予備知識もない、教養もない自分が読んでこんなに面白いんだから、これはよくできたエンタメなんだなと思った。

自分にはそれが一番に大切なことだ。

まあ、そんな自分が「低俗な」読者であるかもしれない可能性は否定できない。

王様は裸だ! と叫ぶ勇気 ~伊藤計劃ハーモニー』の崩壊

 基本的に、これまで僕は匿名文章を書くということをしてこなかった。

 パソコン通信しろブログしろmixiしろTwitterしろ、誰かと議論したり何かを主張したりするときは、常に素性をオープンにし続けてきた。腰をすえて議論する気もなく匿名書き逃げするような連中に、僕自身、さんざん苦しめられてきたから、同じようにはなるまいと思っていたのである

 それがSF小説批判だったらなおのこと。自分の愛するジャンルであるからこそ、逃げも隠れもせず持論を述べ、反論を迎え撃つ――それが本来の筋だと思う。

 しかし今回は、自分名前を出して発言するのはあまりリスクが大きいと判断して、不本意ながらこういう形を取らせてもらった。実は匿名で書くことにすら尻込みを感じている。

 なぜなら僕が今から批判しようとしているのは熱狂的なファンを多くもつ作家――伊藤計劃氏の作品からだ。

 2009年に亡くなった伊藤計劃氏だが、いまだにSFマガジン特集が組まれたり、映画が3作も公開されたりで、その人気はとどまるところを知らない。

 僕が始めて読んだ氏の作品は、『虐殺器官』だった。新人デビュー作ながらその年の、SFが読みたい! の1位を取ったというので、期待をもって読み始めたのだ。

 しかし、あまり感心しなかった。なぜなら作中のメインアイデアである虐殺の文法」というものが、言語SF歴史の中ではさほど捻ったものではなく、更に2005年に別の日本人作家が発表した短編とも酷似している。プロットの方も、ミイラ取りがミイラになってしまったというありふれたもの、逃げのようなもので、短編ならともかく、長編としてはガッカリするような結末だった。だもんで、個人的には年度ベスト1位を取るほどの作品とは思えなかった。

 年刊日本SF傑作選『虚構機関』に収録されている「The Indifference Engine」をたまたま読んだ時も、僕の評価は覆らなかった。

 舞台紛争地に置き換えてはいものの、アイデアから構成からテッド・チャン「顔の美醜について」にそっくりで、決して独創的とは思えなかったのだ(余談だが、「顔の美醜について」は、世間で変に高評価されている「あなたの人生の物語」よりもよほど構成のちゃんとした、優れたSFだと思う)

 出版されるSF作品の数も、世間SFファンの数も膨大なので、僕が好きではない作品や、アイデアが目新しいとも思えない作品が、評価されたりランキングの上位にのぼることもある。とはいえ、趣味に合わない作家を追い続けるのもあまり建設的ではないので、僕はその後、伊藤氏の作品をずっと読んでこなかった。

 だから、もしかしたら永久に他の作品を手に取ることもなかったかも知れない――

 2014年に、伊藤氏の『ハーモニー』が、日本SF長編部門オールタイムベスト1位を取らなければ。

 いくら避けてきたとはいえ、傑作『百億の昼と千億の夜』の牙城を、2000年代に発表された作品が崩したとなれば、さすがに読んで確かめざるを得なかった。

ハーモニー』のあらすじはこうだ(以下、ネタバレ注意)。

 大きな戦争のあと、生命至上主義によって、医療技術が高度に発達した世界

 人間は16歳になると健康管理用のナノマシン群「WatchMe」を体内にインストールし、その恒常性健康を、常にモニタリングされる。

 健康に生きることを強いる社会に反逆するため、御冷ミァハ、霧慧トァン、零下堂キアンの3人の少女は、餓死による自殺を試みるが、失敗した。

 その十数年後、ミァハは、新たな目的をもって暗躍をはじめ、その結果、トァンの目の前でキアンが犠牲になる。

 ミァハの願いは、Watchmeに組み込まれていた自意識喪失プログラムハーモニクス」を発動させ、人間たちの意識を奪うことだった。

 最終的に、ミァハはトァンに殺害されるが、ミァハの計画は実現し、全人類ハーモニクスされた結果、そこには誰もが意思を持たない完全に調和がとれた世界誕生する……。

 この結末を読んで、僕はひっくり返った。

 ちょっと待て、「ハーモニクス」できるのは、WatchMeを体内にインストールしている人間だけじゃなかったのか!?

 確か作中では、人々がWatchMeをインストールしていない地域のことも書かれていたはずだ。

 そして何より――子どもたちのことはどうなったんだ?

 16歳未満の子どもには、WatchMeがインストールされていない。WatchMeを入れられたくないからこそ、ミァハたちは16歳になる前に心中しようとしたはずだ。

 つまり、16歳未満の子どもはハーモニクスすることが物理的に不可能である

 にもかかわらず、エピローグでは、全人類意識ハーモニクスされたように書かれている。作中の設定どおりなら、こんなことはあり得ないのだ。

 この作者は、自分が書いた設定を忘れている!

 だいたい、ミァハの目的については、健康世界に苦しむ、「意識」ある子ども自殺をなくす、というのも書かれていたはずだ。

 にもかかわらず、彼女の行動で出来上がったのは、「先進国の大人だけが意識を失い、先進国の子どもたちや、一部地域人間意識を保ったままである世界」だ。 子ども自殺はなくならないだろう。出発点と正反対だし、エピローグの、全人類意識を失った調和の取れた世界、という光景は有り得ない。はっきり言って無茶苦茶である

 そう、『ハーモニー』という長編は、その評判とは裏腹に――完全に破綻しているのだ。

 作家というのも一人の人間である。あまりに大きなミスはいえ、病床の伊藤氏が見落としてしまったのも仕方ないのかもしれない。

 情けないのは早川書房だ。自分で書いたものをそのまま世に出してしまえる同人誌と違って、商業出版には校正という作業が存在する。誤字や誤植のほか、作中の矛盾などを指摘して、作者に修正を促す大事な行程だ。 『ハーモニー』のこの矛盾は、プロット自体を完全に崩壊させる、校正が厳格な出版社だったら絶対に許さないようなミスだ。これが講談社新潮社のように校正がしっかりしている出版社だったら、こんな欠陥を抱えたまま作品が世に出ることはなく、伊藤氏も、恥をさらさずに済んだだろう。

 それに輪を掛けて情けないのがSFファン。

 SF評価する上で、アイデアは確かに重要だ。

 けれど、その作品プロット構成が、最低限成立しているかどうかくらいは、アイデア好き嫌い以前に、ちゃんと見極めるべきだ。

 ちなみに、僕は『ハーモニー』のアイデアも独創的だとは思わない。

 ユートピアを追求したら自由意思存在しないディストピアになってしまったという結末は、星新一や、アシモフ代表作のほか枚挙にいとまがないし、クラークの某長編をはじめとする「人類補完もの」のバリエーションひとつとも読める。 また、ラスト以降の世界が、「自由意思を失った大人が、自由意思をもった子どもたちと暮らしており、子供も大人になると自由意思を失うことになる」、というものであれば、ほぼ、『キノの旅』1巻の重要エピソードである「大人の国」と同じ世界になる。

 ともあれ、これほどまでに構成破綻した作品日本SF大賞の受賞作にしたり、オールタイムベストの1位に選んでしまうのは問題だろう。

 考えてみて欲しい。SFというジャンルに興味を持ってくれた人が、こういうランキングを参考にして、まず第1位の作品から読み出したとき、「SFって、こんなにいい加減なプロット作品評価しているんだ」と失望してしまったら? 「SFなんて適当構成でも許されてしまう、低レベル小説ジャンルなんだ」と思ってしまったら?

 それはきっと、SF作家たちとジャンルにとって大きなダメージになるだろう。

 この文章を書いている途中で、僕は奇妙なことに気づいた。

 SFマガジンのような活字媒体と違って、WEB上では、この大きな穴について言及している感想もぽつぽつ見かける。だが、そういうミスを指摘できているのは、SF作家SFライターSF評論家ではなく、ごく一般の読書ブログをつけているような人、「SF界とは繋がりが薄そうな人」ばかりなのだ

 そこでふと思い至った。

 いくらなんでも、あれだけ多くのSFファンやSF評論家が持ち上げているのに、誰一人として欠陥に気づかないというのは、どう考えてもおかしい。

 みんな、欠点に気づいていながら、それを指摘してしまえば伊藤氏のファンから一斉に反発を食らってしまうために、沈黙しているのではないか?

 あるいは、伊藤氏が亡くなってしまっていて、作品の欠陥を指摘したところで訂正の機会がないから批判するのは忍びないと感じているのではないか?

 だとすれば、これはまるっきり、童話の「裸の王様」だ。みんなで持ち上げるうちに引っ込みがつかなくなって、誰かが声を上げるのを待っている。童話と違うのは、誰ひとり「王様は裸だ!」と言う勇気がなくて、とてつもない歪みが生じていることだ。

 僕は、この歪みが決定的な打撃をもたらすのは、『ハーモニー』の映画公開時だと睨んでいる。「夭逝天才が残した傑作SF」の評判を聞き付けて、SFファンや伊藤氏のファン以外にも、たくさんの観客が訪れるだろう。その時、プロットがぐちゃぐちゃに壊れているのを発見した観客たちによって、「さよならジュピター」なみの珍作として扱われることになるのではないか。

 誤解しないで欲しい。僕は何も、伊藤氏の人格を貶めようとしている訳ではないし、『ハーモニー』を賞賛するのはやめよう、と言っているわけでもない。

 ただ、彼の作品を持ち上げようとするために、SF読者、それもジャンルにどっぷりつかっているような人間たちが、構成上の欠陥に対して目をつぶり、盲目的になってしまうのは、SF未来を考える上で、間違っている、と主張したいのだ。もしも、「この『ハーモニー』という作品は、これだけ小説としては崩壊しているけど、それでも僕は好きなんです」と言える読者がいるのなら、僕もそれは否定しない。作品の出来不出来と、個人的好き嫌いは必ずしも一致するものではないからだ。 僕だって、出来は悪いけど好きだと胸を張って言えるSF作品は沢山ある。

 たとえ何年か後、オールタイムベストの上位から滑り落ちたとしても、今のように、宗教的で無批判な礼賛ではなく、伊藤氏のファンが「こういう風に壊れている部分もあるけれど、好きな部分もある」という主張を大っぴらにできるようになったら、その時はじめて、『ハーモニー』は、正当な評価を受けられるのではないか、それこそが伊藤氏のためになるのではないか――僕はそう信じる。

2015-10-17

http://anond.hatelabo.jp/20151017161356

最近SF」については「伊藤計劃以後」というワードがある。

拒否反応示す人も多いけど。

2015-10-13

http://anond.hatelabo.jp/20151012105711

いやいや、下セカとかお馬鹿エロアニメでも社会論に繋がるものあるじゃん。あれ方法は違うけどやろうとしていることは伊藤計劃と同じだぞ。

LV1のアニメは単にエロアニメとして見るよりも、「なんじゃそりゃーw」「ヒロインちょろすぎだろw」「おいおい、ご都合主義杉w」「作画崩壊w」ってツッコミを入れながら見るのにちょうどいい。Z級映画クソゲーの楽しみ方というのもある。それを本気で叩き始めたらおしまいだけどね。

2015-10-06

絶対的人狼を女が実況するなんて意外だ」と言った理由男女差別とかじゃなくて、主人公中二病ヒロインがオタサーの姫をそれぞれこじらせてるから女の人が見ると「なにこのディストピア」みたいになると思うから女性おすすめしたいゲームではないよね」と思ってるからっす。面白いけどね

明らかに絶対的人狼に飽き始めてる女の実況者を見て「うーん、やっぱダメだったか」と頭を抱えてる。動画として人気無いのは2パートぐらいしか実況者のテンションが持たないからだったか…と。

ラノベみたいになってきたな」ってなんだよ…悪口ではないのかもしれんが、この言い方はなんかカチンと来る。元々中二病こじらせた主人公女の子が擦り寄っていく時点でラノベやし、それが合わない可能性を配慮して「え?女が実況するの!?」と言ったわけで…なんか予想通りな展開すぎてアレ

ろくに理解もできてない人に好きなゲーム個人的にはむしろ名シーンだと思ってるやり取りを「きらいじゃないけどねこういう中二病チックな」とか言われると頭くるなぁ…。好きか嫌いかも判断できる土俵にない人に断言されると腹が立つ

中二病様式美じゃないと思ってる僕としては、中二恋みたいに様式美しか解釈してない作品って何ぞか頭にくる。空想妄想の切れ端って人に言えないぐらいこじらせてるか本当に切れ端でしかないから面白おかしく振りかざすことで消費するかのどっちかしかないけど、中二恋は…あ、いいや。ポーンさんの文章自体はわかりやすい方だと思うんだけどなぁ…

僕が機能の真夜中から朝にかけて伊藤計劃みたく文学映画精通できてない、またその種の人間から薦められた重厚作品を楽しめないことにコンプレックスを抱いてたけど、ポーンさんの文章を「中二病?嫌いじゃないけどね」としか30すぎても言えない教養の人を見てオレのコンプレックスは?な気分

実況プレイ動画漢字が読めなすぎてイライラする人が動画投稿しててかつオレよりも年上だったりすると「学校教育なんてクソほども役に立ってないんだなぁ…」という何かを感じてしまう。そして、そういう人は案外多いから困惑ちゃう

kanose なぜその気持がわかるのにラノベやらアニメについて、自分全然わかってないくせに土足で踏みいって余計なことを言うのか。さっそく中ニ恋について腐してるしこいつほんとバカだな。しか自分最初中二病的だから・・・って言っておいて他人から中二病的と言われるのは許せないとかいみわからん

下を見ればキリがないけど、下の人を見た途端に自分の何かが否定されるような精神汚染される現象を度々体験する。アレ、なんて呼べばいいんだろうね?呼び名がわからないけど、度々それに足元を取られて困ってる

勉強作品解釈は同じですよ。理解しようともしない人には理解できない。だけど、理解しようとしたとてそれを表現に変えられるかはセンスとか技能必要になるから理解しようとする姿勢がいつも報われるとは限らない。だけど、望まない・努力もしない人はそもそも何もできない。(わざとややこしめ)

kanose 君を見てる人も全く同じこと思ってそうだけどね。

2015-10-05

最近マングローブが潰れたことで虐殺器官の話がよく出てくるから伊藤計劃についてのウィキを見た。この人32歳で作家デビューの29歳ではてなダイアリー開設って…。なんだこのざわざわするような経歴。しかも、34で亡くなってて、2作しか出してないけど伝説的という判断の難しい経歴してる.それまで興味のなかった作家名前から唐突はてなダイアリー名前が出てきて、作家デビュー比較的遅咲きで、もっと言うとブログ創作ではなく評論系だと知ってなんとなく気になり始めてる…ぼんやりと.まぁ、前から「有名になる前ははてなダイアリー使ってました」とか「作家デビューする前はブログガンガン書いてた」的な人の存在は聞くから今更驚くことはないけど、ちょうど僕がはてなに入るのと入れ替わりに亡くなってた人だったか全然存在を知らない・聞かない・興味ないで寝耳に水だった。最後日記が(亡くなる2ヶ月前で)酷い病状を綴った生存報告で、プロフ典型的はてな民みたく非モテがうんぬんとか書いてる…。なんだこの異質な空間

ああ…あと3年早く伊藤計劃さんの映画批評記事は見たかった。自分がしたい方向性に対するものは多分こういうことなんだということがガッツリ書かれてた。これは読んで良かった。今の僕には葛藤がないけど、ないことを再確認させてくれた。さっきの映画評とは反対に「これ、文章力が桁違いに高いけど、中身は(古参の)はてなおっさんが考えそうなことそのものだよなぁ」ということに驚いてる。そして、少しはわかる分だけ胸打たれる自分がいる。

芸術系就職率というか進路の不安定さって薄い奴と濃ゆい奴の不協和音産物なんだと伊藤計劃さんのブログを見て気づいた。薄い人は「なんで来たの」という程度でしかなく、濃ゆい人はその人らに時間を潰されたり、自分達を批評しうる相手に出会えず煮詰まったりしていくんだろうなぁ…。と思った。

僕は中学生からオタしてた人に比べるとオタになった年齢も歳行ってからだし、もっと言うとそれ以前も特に文学少年だったわけでもないから趣向として深いところに行きたいと思ってても、結局薄いものの中にしか選択肢がないと頭の中で思う程度の世界観しか長らくなかった人間ゆえ、どちらでもあり、ない。そこが難しくて、ぬるオタならヌルオタ、濃いオタクなら濃いオタクになれると幾分か幸せになれる気はするが、あいにくどっちにもついていけないんだよなぁ…。それで「自分ルールオタクしよう。他人必要としないマニアが多いモノをつまみ食いしていこう」という不思議オタクをしてるわけだ。高校生まで4大週刊誌モーニングぐらいしか読んでなかった人間中学から同人誌読んでたオタクオタク力で勝てるわけ無いじゃん!エドワードゴーリー読んだら家族会議が始める母親のもとで母親がすすめるカラマゾフの兄弟をきっちり読める息子が育つと思う?…という家庭環境でした。「濃いオタクをやりたいんだったら、発達がある程度完了した中学生高校生の段階でキッチリ文学読んだほうがいいよ」と僕は言っておく。大学生になってから読むのは結構しんどい大学生になると何にも縛られないから辛いことをやりたくなくなるんだよ。

から、グリザリアの果実みたいな話になっちゃうんだけど、高校生までにすべきことは読書と同年代とのセックスなんだよ。その2つができてれば人生結構豊かだが、私の人生はその2つをしそこねたかモテとしてもオタクとしても中途半端で、独自路線模索せざるを得ない状況になってしまった。電波教師じゃないけど、高校生勉強してる場合じゃないんだよ。旧帝大早慶に行ける自信がないなら、1文学読むこと、2同級生セックスすること、3部活かなんかで体力をつけることの3つにリソース傾けたほうがいいよ。パワーもないやつはホームラン狙うより打ち分けやミート守備の練習すべき。身もふたもない話、高校卒業した後ならいつだって大学なんていけるけど、モテることで救われたり、文学知識・読む体力が要求される(映画からゲームまで様々な)娯楽に没頭できる年齢は若いうちしかなく、またその時鍛えてからじゃ遅い!若さの使い方を学校にまるなげするな!自分のために若さを使え

前に、貧乳向け下着を作った二十歳の女からアートニートクズしかいない」みたいな書き込みを見て「いや、20で道が決まってるほどキッチリと道を見つけてたか環境があったか、レールを敷いてもらったかしたあなた幸せなんだよ」と言いたくなったことがあるけど、今の気分そんな感じ

何か他人フォーマットに当てはまらない事に気づいても、それで悲観するのはやめよう。他人フォーマットしかない人生でもなきゃ、自分フォーマットを作っちゃいけないわけでもない。他人に当てはめるばかりじゃ自分の持ってるパーツをよく吟味しなくなってますます自分が作れなくなっていくからね。そりゃ、高校生だったら適合してるかもしくは今からでもできるという指針としてこうすべきということはあるが、それは自分ではもうできない。今の自分にできるのはフォーマットの中に入れたなら入り続けることで、入れなかったのなら作ること。過去にどうすべきだったはさほど意味は無い。0ではないが

僕はあなたじゃないけど、あなたじゃないといけないってことでもない。畏怖や憧れは相手への経緯を超えて自分比較したらタダの嫉妬か、むしろマイナスの後悔にしかならない。あなたにも、またお前にもなれず、組み込まれることもないと気づいた時点ですべきことはもっとあるだろうからそれをしようか

“「自分が読めていないだけなのじゃないだろか」”/これ、逆も怖いんだよなぁ…しんかいさんみたく「自分けが読めているか10年前の作品自分だけは批評できる」みたいなスタンス。そんなわけないのにね♪あと、「誰も信じるな」という大きなタイトル批評の話の前についているのも個人的には好き。引用ゲーム評論をするアニメオタク系の評論の人を知ってるがアレはいわゆる権威主義的でしかなく考えてさえない

danose Zガンダムグリザイアの果実電波教師モテを語るオタク。ついでに殴られるしんかい。やはりしんかいは許されなかった。

2015-09-27

死後も徹底的に利用される

伊藤計劃円城塔の「屍者の帝国」だよなぁ。

2015-08-24

[]野崎まど「know」

面白かった。

予想より読みやすかったのもよかった。

もともといつか読もうと思ったきっかけは、増田野崎まど『know』論・前編——知ルはいかにしてブッダとなったかを見かけて、なんか面白そうなのかなーと思ったから。

つーかその増田見つけてから結局2年越しかよ・・どんだけ時間つのはえーんだよ

野崎まど一冊目にパーフェクトフレンドを選んで失敗した感はあったけど、こっちは全体として体裁が整ってた。

ちょっとだけ愚痴るなら、SFありがちな「昔はそんなめんどくさいことしてたんですか!?」みたいなわざとらしい説明描写があったことと、情報自体原理がどんなものかよくわかんなかったこと(虐殺器官虐殺コンテキスト立ち位置に似てる)と、この世界高木浩光センセは何をしてたんだろうということと、やれやれ村上系のいけすかないヤリチン主人公がシルたんというJCとおセックスしやがってムカついたのと、真面目な本に性描写を入れとけばなんか高尚な意味を持つような気がする理論が使われてたのが癇にさわったくらいかな。

でもハードSFには辟易ちゃう自分が読めたくらい、難しそうに見えて全然難しくないこと書いてるだけだったから、エンタメとしてそれなりに楽しかった。

ラストは余韻のあるいい終わり方だった。

やり方によってはただの手抜きしかなりかねないところだったけど。

伊藤計劃アニメ化されるなら、これもいつか劇場アニメ化されそうだなと思った

2015-08-12

藤田直哉も言ってるけど

伊藤計劃名前を出して「伊藤計劃に関する小説評論」を売ろうとすることが、

他の物故作家で「その作家に関する小説評論」を売ろうとすることとどれほど違うんだよって話だよな。

シャーロックホームズ評論集読んで「アーサー・コナン・ドイルに失礼だ!」ってキレる人、どれほどいるんだと言うことだよな。

伊藤計劃トリビュート別に良くね?

いやまあ、

伊藤計劃名前を出して「伊藤計劃無関係作品」を売ろうとするのが腹立つってのは理解できなくもないけど、

伊藤計劃名前を出して「伊藤計劃に関する小説評論」を売ろうとするのは何が問題なのか解らない。

伊藤計劃トリビュートの発刊によせて

業界人「よっしゃ2015年劇場アニメ化するし、さら伊藤計画以後を盛り上げていくぞ!」

ファン「伊藤先生冒涜するな! 死者に敬意を払え! これからは敬意の時代だ!」

業界人「くっ、こっ、この印籠が目に入らぬかあ!」

「これがわたし。

 これがわたしというフィクション

 わたしはあなたの身体に宿りたい。

 あなたの口によって更に他者に語り継がれたい。」 by 伊藤計劃

ファン「ぐ、ぐぅぅぅ(憤死)」

2015-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20150717192240

空腹の辛さは半端ないでっしゃろ。

伊藤計劃ハーモニーに出て来た、あらゆる栄養素を吸収しなくなる薬っていうのがあれば満腹になりながら栄養失調で逝けるのかもしれんけど。

2015-03-29

藤田直哉は如何にして伊藤計劃の「計劃」を妄想円城塔言葉ねじ曲げたのか?

伊藤計劃以後とは何か?

http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20140323/1395596751

藤田直哉はこのブログの中で、伊藤計劃が自らの死を利用し、死後に作動するプログラムとして『屍者の帝国』という小説を構想したという考えを披露しています

伊藤計劃皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会のものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います

 そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。

 その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト

 所詮商業レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。


僕は、この考えというものはとてもグロテスク不快ものだと思いますが、まあ藤田直哉がそういった考えを持つこと自体否定しません。人の死に物語を求めてしまうのは、ある程度は仕方のないことではあります

伊藤計劃は、自らが死ぬことによって作動するプログラムとして『屍者の帝国』を構想した。僕はこの考えにまったく賛同できませんが、藤田直哉の考えが間違っていると断定することもできません。伊藤計劃はもう死んでいて、その真偽を問うことはできないのですから

しかしながら、藤田直哉はこの妄想正当化するために、円城塔自分と同じ見解に立っているという嘘をつきました。

藤田直哉がこのブログ掲載している、「週刊読書人寄稿した『屍者の帝国』評」に次のような文があります

 悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。


ここで、藤田直哉は「それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている」と述べていますが、そのような事実はありません。藤田直哉自分妄想正当化するために、円城塔言葉ねじ曲げています

円城塔は「『屍者の帝国あとがきに代えて」で次のように述べています

http://www.kawade.co.jp/empire/

伊藤計劃は『屍者の帝国』を自分の全てを語り切る畢生の作、最後作品として構想したわけではなく、次へと続く切り替えの場として、むしろ軽い読み物として考えていたはずです。


ここで円城塔は、伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身最後作品として構想していた、という考えをはっきりと否定しています。「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解」などしていません。

確かに『屍者の帝国』が発表されたことのインタビューで、「悪ふざけは続けよう」といった言葉円城塔は語っています。当時のインタビューが乗っていたサイトはもう削除されているため、一部のみの引用となってしまますが、一応載せておきましょう。

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1346917403/

http://ddnavi.com/news/87399/

「『死者が動く』話でなければ、やらなかった。当人が亡くなって、冗談のようであっても、誰かが引き受けなければならないだろうと思いました。

追悼というわけではなく、悪ふざけは続けようと」

「死者が動いてる話じゃなければ、やらなかったです。(中略)冗談の中の雰囲気で、中編ぐらいのボリュームで、死者が動く話。それで、当人は死んでしまう。“ええっ、(自分が)動かさないといけないのでは”と(笑い)。それが一番ですよ」


確かにここで円城塔は「『死者が動く』話でなければ、やらなかった」とは述べていますしかし、そのことが円城塔が「あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた」ことに繋がるとは思えません。先ほど引用したように、円城塔伊藤計劃が『屍者の帝国』を自身最後作品として構想した、という考えを退けています

確かに円城塔は、伊藤計劃の死によって中断された小説を書き継ぐ、という状況を『屍者の帝国』を書くにあたって利用しています

 しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会崩壊を、『ハーモニー』で人間意識自体喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。


しかし、その図式は「偶然にも与えられた」ものしかありません。伊藤計劃がこの状況を意図して作り上げたという考えは明示されていません。

円城塔は「『屍者の帝国文庫本あとがき」でもこのように述べています藤田直哉ブログを書いた後に発表された文章ですが)。

そもそも自分の死の可能性が確率として高まっている状態で、次回作は死者を労働力としている世界について書きます、と嬉々としている時点で人の悪さも極まっている。

 ここでわたしは、伊藤計劃自分の死を見越して、そのあとに展開するはずの「死者を素材として利用する世界」を書こうとしていたといいたいのではない。


まあ、とりあえず藤田直哉が自らの妄想正当化するために円城塔言葉ねじ曲げた、ということはご理解いただけたのではないかと思います

藤田直哉伊藤計劃の「計劃」というペンネームに無理に意味を求めようとしたことが原因で、このような妄想を抱いてしまったのではないかと僕は妄想してしまますペンネームペンネームです。伊藤計劃プロジェクトという呪いSF界にかけたなんていうのはただの被害妄想しか思えません。

2015-03-11

藤田「死を贈与した」直哉氏(@naoya_fujita)による3.11追悼式への疑義

かつてある作家をめぐる言説に対する批判への反論で「かの作家は死を贈与した!(ドヤァ」と発言し諸方面から人間性を疑われた藤田直哉氏が、2015年3月11日Twitter上で3.11追悼式に対する疑義を唱えはじめた。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575529749969289217

2万人近くの死、というのも、よくわからない。交通事故であれなんであれ、人が死ぬのは哀しいだろう。しかし、知らない二万人よりも、家族とか親しい一人の死の方がつらくないかね。これは、俺が非人間的な感性からなんだろうか。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575530332390297600

集団の死を、集団慰霊するということの意義が、リアリティを持った形で想像できないというか、それは一体どういうことなのか? っていう本質が未だにわからない。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575531644360204288

親しい人を喪った人の気持ちを想像する。これはわかる。それが数万人分。これ、脳の容量超える。そして、普段、その辺でやっている知らん人の葬式にもそう感じなきゃならんのか、でも現にそう生きていない。では、日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞやってのが、わからなくなる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575533582023786496

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575534421018804225

別に個々人が死んだタイミングは、この一分ではあるまいに。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575535179709739009

死んだ人間黙祷を捧げるのに、何故、加害者である地震の側のタイミングに皆が合わせなければならないのか。納得ならん。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575538080834318336

ちゃんと書くか。災害や死者を名目に、個別の生を生きていて、それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられるのが、ぼくには不愉快

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575543420544020480

@seiichitsuchiya私は、「何故黙祷罵倒する必要があるのか」に対し、14:46を黙祷時間と定め、一斉に行うという行為に、国家共同体意識形成問題を感じたからだ、と理由を説明しております

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575553783884873728

いや、死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ?それに対する追悼の意図だとすると、地震発生の時間代表させることについてどう考えてるのか、純粋にわかんないのよ。儀式から、決まってるから、という理屈はわかる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575556640000315392

それだったらずっと黙祷するのかという意見が来てるけど、本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの。年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないからなわけでさ。その上で、儀式には有用性があるんだろうけど。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575573893911560192

なぜ、黙祷時間地震発生の14:46からになったのか。説1、誰かが決めた。説2、勝手に決まった。2なら、皆がそれに従いながらも理由を説明してくれないのが、単純に不思議(外国人が、儀式に疑問を素朴に持つ感じを想像してください)

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575584772249931776

で、説1で、合理的に説明がつきそうなのは、「一回で済んで、みんなで一斉にできて、異論が出なさそうな時が地震発生時だから」。これは納得いくんだけど、なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575598071440019456

死者がどう思うか考えろとか、言われるけど、死者は何も思わないし、感じないでしょう。そうではないという宗教観があるのは知っているし、死んでみないと分からないんだけれど、ぼくはその前提で話をしている。その上で「死者」をどう捉えるかがこの社会に及ぼす影響のことを考えてる。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599212928241664

死後の生があると信じたい遺族の方の気持ちもわかる。幽霊的な存在感覚を持ってしまう人たちの気持ちもわかる。ぼくの発言が、その人たちを傷つけている、と言われれば、そのこともよくわかる。しかし、死者は、「本当には」傷つかないし、冒涜されたとも思わないだろう。生者がそう感じるだけで。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575599516314796032

土屋さんのツイートを見て、不安になってきた。これって、死者が「本当に」感じたり、考えたりする前提の話だったの? そうではなくて、遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意っていう話じゃなくて?

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575600381717180417

から儀式が、生者の世界でどのような機能果たしているのかを考えたうえで、「いるのか?」ってぼくは問うているんだけれど。まぁ、ぼくの儀式嫌いは元々で、まぁ、形式的儀式根拠なく反復することそのもの生理的に嫌ってのはある。なんか、心が籠もってない感じがするし、形式そのもので。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575601520592318464

福田恆存なんかは、例えば葬式は、別に、心なんかなくたって、その形式を演じること自体意味があるんだ、周りが「死を悲しむ演技をする」ことが重要なんだというんだけど(「民衆の生きかた」)。むしろ個人的感情は抑える方がいいなんて書いてあって。その形式こそが「感情真実性」を保証する、と

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602024709910528

俺はそうは思わないが、まぁ、どうも、儀式は「説明できないけど必要」と思っている人が多いようなので、ぼくは少数の、アンチ形式主義の心情主義者として生きて行こうと思いますけど、つまりこれ、「真実感情」が型を必要とすることは、「型」こそが「真実感情」を作るということでもあるよね。

https://twitter.com/naoya_fujita/status/575602827705233408

から集団を弔うようなセレモニーがどんな形であるのかには、敏感であってもいいと思うんだけれども。感情セレモニーを生んでるんじゃなくて、セレモニー感情を創り出す効果もあるってわけでしょ? 俺が気に食わないのは、それ。

順番に整理していきたいが、明確に断言できるのは、藤田氏の想像力のなさと狭量さである

藤田氏は、3月11日14時46分に追悼をおこなうことについて、「それぞれ違う死に方をした人間をあたかも一つの何かのように扱い、追悼の名目で、国民の想いを勝手に決められた時間に同期させられる」「なんか生者の都合でインスタントにやりましょ感が出てしまってて、その上で死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い感じがする」ものであり、そこには「国家共同体意識形成問題」が孕んでおり、「遺族などが哀しみなどから生み出す錯覚であり、代弁者勝手に気持ちを捏造したりして政治的に利用するなどで、生者に影響を及ぼすから注意」すべきだと疑義を表明している。

……え? 藤田氏って追悼式が政治家政治的に利用するためにおこなうものだと本気で思ってるの? マジで? そう思った根拠ってなんなの?

「追悼式を決まった時間におこなうことで追悼感情統一的に形成される」という仕組みが、国家国民感情を統制するときのそれと同じものであるというのは真っ当な指摘なんだけど、それは理屈しかないでしょ? たとえば、あくまでたとえばだけど「3.11を忘れないために、今後は○○の政策を~」みたいなことを言い出したのなら別だけど、藤田氏はそういう具体例あげてないよね? 追悼という行為儀式性と政治性を混同してない? 

……とまあ、藤田氏の言動からは「追悼式は政治家政治に利用するための欺瞞的なものだ!」という副音声が聞こえてくるのだが、あれこれ言葉を駆使しているようにみえてその根拠は一切ない。藤田氏の完全な妄想である根拠がないという意味で)。

また、14時46分に追悼をおこなうことを「死者のことを本当に思ってたら、違う時間に違う亡くなり方をそれぞれにしたことも知っているわけでしょ」と批判しているが、そもそも「死者が死んだ時間ぴったりに死者を悼まなければならない」という規範があるわけでもないのだから、14時46分に死者を悼む行為が「本当に思って」いないと判断する根拠がない。その理屈なら、「いつ追悼してもその感情は本物である」という理屈だって成り立つはずだ。

その他、「日々の死者や遺族の悲しみに、差をつける根拠はなんぞや」「本当に死者を想って悲しんでいる人は、毎日仏壇拝んだり、考えたりしてるんじゃないの」「年に一回思い出したように黙祷するだけで済んじゃうのは、本当には同じように悲しくはないから」「死者への想いをとうとうと語るのもうそ寒い」と言っているが、これもよく読むと藤田自身バイアスが満載である

3.11追悼式で生まれる追悼感情は嘘である」という視点には、「感情には嘘の感情と本当の感情の二つがある」という先入観存在する。感情に嘘も本当もないでしょう、とこの増田を書いている私なんかは思うわけだ。よしんば、それが追悼式がなければ生まれなかったものであったとしても、おこなわれたことで生まれ感情は実際にそのひとのなかにある感情である

ここまではまだよい。藤田氏は元から作家の死を贈与したなんてぬけぬけと言い出すわ、自分が言い出した伊藤計劃以後論に批判が飛んできたら反論を書くのではなく「じゃあお前が考えろよ」とかTwitterでくだを巻き出すわ批評家としては全く能力のない人間であるが、そのことに藤田氏に責任はない。人間能力には限界があるのだ。

だが、上記のようなバイアス藤田氏が無自覚ななか他人攻撃し始めるのなら話は別だ。

なあにが、黙祷じゃ、バカタレ、黙祷を字で書いてインターネットに垂れ流す自己顕示欲の塊どもが。

追悼式が追悼感情を惹起する機能があるとして、そこにある感情が偽物であると断言することの暴力性を藤田氏は考えなかったのだろうか。

そして、その暴力を振るう対象である今日14時46分に追悼の念を掲げる人間のなかに、被災者遺族が、知人や友人、家族を失った人間がいる可能性を想像できなかったのだろうか。

藤田氏は、「今日14時46分に黙祷をした(あるいはツイートした)人間」全員に対して「バカタレ」と言ったのである

これは、生者に対する冒涜である

藤田氏は、藤田氏のなかにあるバイアス無自覚のまま、藤田氏の主観的判断による「偽物の感情」を持った人間を「バカタレ」と罵る、想像力が欠如した狭量な人間である(それ故個人的には絶対に関わりたくないので増田に書かせてもらった次第だ)。

でまあ、もしこれが藤田氏に届いたとしてもあいつは「そんなことは言ってない! 被災者遺族のことを侮辱する意図はなかった!」とか言い出すに決まってるんだけど、意図があろうとなかろうと文言だけ読めばそうなるんだよ。てめえ批評家自称しておきながらそんなこともわかんねえのか。主語大きくすんなって批評家でもない俺だって何かを主張するときの基礎だって知ってるよ。そんなこともわかんねえからてめえは批評家としてクソだって言ってんだ。

いやー、「死を贈与した!」とか言っちゃうひとは本当に他人感情にみじんも興味ないんだなーってのがわかって大変ありがたいです。藤田氏は本当にクソだ。ありがとう藤田氏。おまえは二度と信用しない。

あとさ、地震を「加害者」って言っちゃうのはちょっと……いや、まあ、物事擬人化して理屈づけようとするのは悪い事じゃないか……うん、別にいいと思うよ。ひとそれぞれだしね。

2015-03-09

http://anond.hatelabo.jp/20150309080623

岩崎夏海

ブログは「ハックルベリーに会いに行く」。

はてなにいた頃はツッコミどころ満載の記事ブックマークを荒稼ぎした。

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」が250万部超の大ヒットとなり、はてな村民土下座に追い込む。

葉真中顕

ブログは「俺の邪悪なメモ」。

当時からライター小説家として活躍。「ロスト・ケア」「絶叫」はこのミスなどでも高く評価される。

伊藤計劃

ブログは「伊藤計劃:第弐位相」。

小説家として「虐殺器官」「ハーモニー」などを送り出し、日本SF界に多大な影響を与えるも夭折

その他の作家

深町秋生森見登美彦月村了衛渡航大亜門など。

指原莉乃

HKT48メンバー2013年AKB総選挙で1位。

デビュー前に書いていたはてなダイアリーが発掘されて話題に。

川上量生

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カドカワンゴ社長

梅田望夫

ブログは「My Life Between Silicon Valley and Japan」。

はてな取締役として積極的ブログ更新し、また一般にもWeb2.0伝道師として名を上げる。

日本の残念なWeb絶望して「あちら側」へ消えていった。

山形浩生

ブログは「山形浩生 の「経済トリセツ」」。

翻訳家評論家として著名。

町山智浩

ブログは「映画評論家町山智浩アメリカ日記」。

映画評論家雑誌映画秘宝」を創刊。実写映画進撃の巨人」の脚本執筆

速水健朗

ブログは「【A面】犬にかぶらせろ!」。

人気ライターとしていくつもの単著上梓

荻上チキ

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イケメン若手批評家として名を馳せる。

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荻上チキに多大なる風評被害をもたらす。

齊藤貴義

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2015-02-03

ラノベ馬鹿にされるジャンルなのがある意味羨ましい

SFなんてもう誰からも相手にされないんだぞ。

アニメにもなかなかなんない。最近原作付きSFアニメ化ってモーパイぐらい?悪くないけどプロパーSFじゃないし。新世界より商業的に失敗した。

サイコパスSF設定からどんどん刑事モノにシフトしていくし、もうSF説得力を持たない時代なのかねえ。映画としても、逆さまのパテマ、トランセンデンス、インターステラーベイマックス楽園追放とどれもこれも微妙作品ばっかりだし。あっ、All you need is killはそこそこ良かった。herも最高だった。GotGは最高だったけどSFというかアメコミだ。次の伊藤計劃三部作にもあんまり期待してない。

とにかく一般人へのSFジャンルはすっかり力を失ってて、クズも名作もたくさんあるのに言及すらされない。ラノベは刊行されまくってるしメディアへの露出があって、Fucking SOAは2千万部だっけか売れまくっててアニメ映画も作られまくってるジャンルなんだから、読みもしない素人のお客さんにディスられるのも我慢したらどうだ。あーまったく羨ましいわ。

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