子供がゲームに熱中して現実をおろそかにするというなら、破壊するべきは、ゲームではなく現実のほうだ。
老若男女誰にでも楽しめる。
性別も宗教も国籍も嗜好も思想も貧富も容姿も障害も「コミュ力」も関係なく、ゲームは万人を受け入れて、同じステージで遊ばせてくれる。
努力すれば必ず報われ、失敗しても攻略法を考えて何度でもやり直せる。
レベルの難易度に応じた適切な課題を、飽きないようにたくさん工夫した形で、繰り返し与えてくれる。
ゲームは、子供を惹きつけるために、ほんのわずかな武器しかない。
それでも子供の移り気な興味を惹いて、いくつもの難しいステージをクリアしてもらおうと考え抜かれている。
どんな順序で何を見せていけば良いのか?
新しいアイテムやスキルを使った時の喜びを、どうやって大きく感じてもらうか?
「現実」(と呼ばれる自分たちがやらせたいこと)をかえりみないと嘆く多くの大人たち。
あなた達のように振り回す手足もなく、怒鳴る口もなく、電源を入れてもらえなければ無言でいつまでも待ち続ける。
そういう小さく無力な機械に敗北しているのだ。
大勢の天才的なクリエイターが何千人月も掛けて真剣にデザインした作品に対して、あなた達の暴力や権力や言葉や、描き出す貧相な世界が、惨めに敗北を喫しているのだ。
あなた達は、ゲームを作り上げたクリエイター達と同じくらい真剣に、子供のことを考えたのか?
本当の子供の目線で、どうすれば子供が自分たちの考えた通りに興味を示し、覚え、身につけ、行動してくれるか、考えたのか?
その現実の辛さを、なぜ我々は、セックスのやり方より先に子供に教えなければならないのか?
幼少期に染み込ませた「現実の辛さ」とやらで、我々は子供たちに何をやらせたいのか?
将軍様の号令の下、どこかの大陸に出兵して女子供を皆殺しにする。
そういう話なら納得できる。
——多様な選択肢の中で、自分の適性と手持ちの武器に合わせて目標を選び、仲間と一緒に努力してクリアし、その成功を分かち合う。そういう人間を育てたいなら——
なぜ、破壊するのがゲームではなく現実であってはならないのか?
もし現実が、公正でも平等でもなく、やり直しが認められず、苦痛に満ち、わずかな楽しみもない場所であるなら。
現実が、理不尽なルールに満ち、納得できない気持ちをごまかしながら、退屈で単調な日々をただ過ごしていく場所であるなら。
恵まれた人にだけ開かれていて、そうでない人の前には門戸を閉ざし、異なる人間を蔑んで、互いに触れ合うことを禁じる場所であるなら。
大きすぎる問題を前に、まともな知識もアイテムもスキルも与えられずに、無力感に苛まれたまま押し潰されてゲームオーバーする場所であるのなら。
もし、現実が、そういう場所であるとしたら、なぜ、破壊するのが現実であってはならないのか?
なぜ我々は、現実の方を破壊して、ゲームのようにしようと考えないのか?
なぜ我々は、現実をゲームのように、寛容で公正なルールを備え、レベルに応じた適切なヒントと問題・適切な資源が与えられるようにしないのか?
なぜ現実を、誰にでも開かれ、どんな母語のどんな状態の人でもコミュニケーションが取れ、それぞれが役割を果たせるようにしないのか?
なぜ、何度かの失敗とやり直しを許し、いつでも好きな時に参加や離脱が可能なようにしないのか?
なぜ、たくさんの作品があり、多様な選択肢があり、自分の興味と能力に合わせて好きなステージやジョブを選べるように、現実を彩り豊かにしないのか?