はてなキーワード: ハイエクとは
傾向として、左翼は思考主義で、右翼は自然主義というのは納得がいく
https://anond.hatelabo.jp/20240805223215#tb
どちらが賢いとかどちらが偉いとかではなく、思考パターンの傾向として納得がいく
面白いのが、世の中には自然主義的な考え方を持つ、思考主義者というのもいる
一般均衡理論の基本的な考えは市場に任せれば、効率的な資源配分が実現するというものである
交換の利益をミクロ経済学の基礎においてる以上、この結論はある意味当たり前である
この自由放任の考え方は、自然主義的な傾向があるにもかかわらず、数学的な論証によって築かれた理論的基盤に依拠してる点から、思考主義的ともいえる
一般均衡理論のような考えを持ち出して、市場均衡の効率性を主張する
こういった本能による資本主義の肯定、理論による資本主義の肯定が存在する
日本共産党が「きゃっきゃ」しているので、マルクスの共産党宣言を読んでみたりして考えてみた結果、共産主義というもの事態が成立しないと思ったので、書き込むことにした。共産党のメリットを活かせる条件は、今の日本に「存在しない」と思うのだ。
嘘です。資本主義の陣営が勝った理由は、有権者に「不景気でも負けない」理由を提示できたからだ。真面目に共産主義をしたら、資本主義を「超克」するのに時間が必要だとマルクスはエンゲルスの共著で書いてある。マルクスの頃はともかく、今は信用経済が通貨を規定している。つまり、通貨は「信用がなくなったら再度、信用を勝ち取る手法は無い」のだから、インフレーションを起こしてでも、信用を保とうとする。信用を失った場合は、デノミ、ってやつをするけど、それよりもマシやろ?、っていうのがケインジアンをはじめとするマクロ経済学の根本の主張だろ?「通貨を安くする、それでもしないよりはマシ」という詭弁を、ケインズは中央銀行という「通貨発行益」というマシーンを介在することで、可能とした。それで、ニューディール政策といった手法で西側の連中が勝ったのは歴史の事実だ。つまり、共産主義よりも高速な市場介入する装置をゲットしたのさ、あの当時は。
無いです。たとえば、共産主義の連中を試すときに「無限に生産性を上げた」ときに、どうなるのか説明させたい。資本主義の場合、ケインジアンがいじめられる根拠は、ここ。たとえば、余剰電気なんか、捨てる以外ないしね。そんなときには、ハイエクですよ。需要の無い供給は「生まなければ良い」という理論です。
以上から、僕ちんは共産主義は敗北主義の思想だと思います。よって、ケインズとハイエクのダブルで資本主義は共産主義に勝てると言える時代に生きてます。というわけで、共産主義は信じる理由になりません。
おわりに、日本共産党については、共産主義のシンパのうちでは比較的に穏和な集団だと思いますよ。だけれども、その温和さが「いちばん共産主義のメリットを殺している」という事実からして、共産主義が暴力を否定する先にあるものが何があるかというと、本当に何もないと『資本主義の犬』を自称する僕ちんは思うのです。まだ「池田大作」とか書いて無効票になるほうが、自民党が焦りそうで、ウケるのですよ。
いまんとこ「新自由主義に対抗した全ての抵抗勢力は滅びた」という現実をもとに、「大きな政府・ケインジアン・人口増加」という『アンチ新自由主義』連呼くんが支持するロジックをクラッシュさせるがために努力してきた。今日も同じ方法で戦うのはしんどいので、こっち側から『アンチ新自由主義』連呼くんの琴線に触れそうなネタを提供して、議論していこうじゃないかと思う。
なんと言っても、今の政府は「大きな政府」をとると危険なの。1つはコストだ。アメリカのように「大きな政府」をやる連中ですら、トレード・オフで解雇規制を受け入れている。そのため、いちど採用すると解雇ができない日本にとっては、法律が基本となる労働の法律を改正する必要があるが、今はマスコミもうるさいので不可能だし、既得権益は拒否するだろう。もはや国土の開発が終えたこの国に、需要のない新規開発を公がする必要はないのです。そのため、「大きな政府」をやってもリターンを上げる領域が存在せず、人員を採用しても無駄になる。マルクスが「資本主義の果に」唯物論で解決できない問題があることに気がついたのは、正しいのです。ですが、問題は「唯物論」で実体経済は語れない、ということは当時の後進国のドイツ人同郷であったライプニッツが嘆いたように、先進国の人々は「後進国と同じことをしたら負ける」ということは既知の問題を『共産党宣言』で後進国民なら存続可能で教育可能な「エリート」という存在で勝てる、という妄信を先進国でも可能という認知誤認から起こりました。この欺瞞を暴いたのがハイエクであり、先進国においては「エリートは社会の負担を増やすだけ」という告発をする必要がありました。つまり、共産主義者なんて田舎のヤンキーのボスの「夜露死苦」というミームがクールだと思う馬鹿の集いだよ、って話だよ。
彼は資本主義社会においても「一定の規律をもったまま」に公共投資に投資するという方法を、世界恐慌のもとで実施可能だという主張を肯定することが可能だった瞬間があったから可能だったのよ。(若年層の犠牲を活用した)デフレは進むけど、(年齢階層がいびつなせいで票田にメリットがある)感覚としての経済が悪くなくて、下手に経済状況がインフレすると老人たちは生活が厳しくなるという現実を否定してまで、経済成長は必要かね?今の日本に投資されないのは、それなりにメリットがあるからだよ。それに GPIF という国家の投資機関は『現代ポートフォリオ理論』という金融工学の果てを知っていると、随分と日本へ投資してくれていると思うよ。もはや、我が国に「投資したら、こんだけ儲かるだろうなー」って場所が無い以上は、日本国には直接投資は不要です。海外に投資したほうが、本当にマシです。地方を切り捨てて、東京はシンガポール化したほうがもっと輝きますのに、大都市の資本はイオンは地方に投資してくれるので、地方民はイオンに感謝するし、地方が統一化するのを嘆くのは「東京人」の「理想の田舎」を押し付けているだけなので、差別の固定化を「アンチ新自由主義」でやることは、地方民からすると万死に値します。知っているかもだけど、地方自治体のモールは隣にイオンができると負けます。つまり、儲かる領域での役所の仕事なんて、令和の日本にはないんだよ。
という選択肢を、超賤民どもが単一人民として受け入れると権利団体になっちゃうという過去の嫌な例もあって、日本国民は「経団連の奥田」が発起したのを拒否したし、子どもの権利条約で批准された教育を受ける権利は否定できないし、金銭と労役の補助なんて都市部だとアホみたいにやっているのに増えないのだから、諦めるしかないんじゃないの?
昨日は「日本は人工肉がつくれなかった」という議論をして、一瞬「負けた」と思ったよ。だけど、「民間企業のキューピーが、模造卵を開発してコンビニが活用している」という事実を思い出したら、ますます公共投資が民間投資に負けている事例を見つけて、本当に嬉しかったよ。遊戯王世代なのはあたりだよ。今日も楽しくバトルしようね!俺のターンは終わり、つぎはアンチ新自由主義くんのターンだぞ。
馬鹿ですね。経済危機を迎えても、資本主事は蘇るのです。アメリカが技術力低下と憂う莫迦(例えばゴールデンブリッジは今では作れない、とか言うけど戦時体制になったら喜んで作るし、ハリウッド映画になって一石二鳥)がいるけど、必要になったらアメリカは復興できる。テスラだって、作れちゃうじゃん。
もともとは1930年代の世界恐慌に対して当時の自由主義が対処できなかったから必要であれば財政出動もする、資金循環を意識するケインズ主義が生まれた。
まぁ、ケインズがマクロ経済に一定の規律の上に、資本主義が持続可能である発見はしてくれたけど、景気が良くなるとマクロ経済はゴミになるというのは、新自由主義の始祖となったハイエクとフリードマンがみつけてくれたのじゃないか。
「新自由主義」を熱く語る君との会話は2021の夏を忘れさせないものにしてくれるだろう。僕の周りには、ハイエクやフリードマンを語れる人がいないので、とても嬉しい。
君は「新自由主義だから日本は没落した」と思っているかもしれないが、「新自由主義」という巨悪は存在しないということを、君に知ってほしいのだ。もう先進国には、国を引っ張るエリートには居場所がないという事実を知るべき時期なのだ。
「新自由主義」というものは、残酷だ。なんと言っても、成功者はめちゃくちゃに富む。だからと言って、共産主義や社会主義という「誰でも努力したら作れるモノ」に依存した経済状況は、昭和の中頃には日本国は終えたのだ。アマゾンやオラクル、マイクロソフトにグーグルなんて天啓があったとしか思えない会社には、日本に生まれなかったのだ。アーメン。
君が「(新)自由主義」と揶揄するが、彼ら自体も好きで(新)というプレフィックスを獲得したのじゃないのだ。この(新)という自由は、彼ら自身の「諦念」を含んでいるのはフリードマンやハイエクの書を読んでくれ。君なら読めるだろう。
そうだとも、我々は諦めを持って「自由という刑」に処せられ、その罰の対価として「インターネットや半導体」を努力せずに手に入れられる時代に生きているのだ。それは消して、悪くはない現実だと思うがね。どうかな?
それは新自由主義とかでなく、リバタリアンやリベラルとかそういう問題何じゃないか?新自由主義っていうのは、フリードマンやハイエクといった経済人のネタであって、政治思想の問題じゃないっしょ。政経一致とか、もはや無理っしょ。
それは、戦後の団塊世代の方が移動はヤバかったよ。街の多様性の低下はテクノロジーと資本家の責任であって、新自由主義は関係ないよ。むしろ、堤譲二とかの西武グループよりは、今のツタヤやユニクロといった連中の方が田舎にとっては、文化を供給してくれたから、すごいと思うけどな。
「大学受験はツタヤとAMAZONがあれば日本のどこでも突破可能」という馬鹿がいなくなるどころか、逆に増えてしまう。ツタヤ図書館では岩波基礎数学選書は全巻そろうことは未来永劫ないだろう。なければ、ないだけの知能しか集まらなくなる。
いま医学部界隈での問題が「センター7割ないやつが国立医学部に受かって、中途半端に努力した連中が私立医学部にいく」という事例が多く見受けられるのだけど、そういう方が問題だと思うよ。
ごめん、スレッド外で話せば見つかんないと思った。
とはいえ、「新自由主義」を否定したくても、無理なんですよ。今の日本国で「1ドルイコール360円」なんて不可能です。そんなもんしてみろって、アメリカやユーロ、チャイナとアセアンと、台湾と韓国がブチギレするじゃん。21世紀の「パールハーバー」を経済でするのかいな。
フリードマンやハイエクの主張は「正しくない」かもしれないけど、大きな政府が有効なのは、民間資本が劣っているときだけです。今の日本やアメリカのような先進国の公的セクターの投資がうんこ以下のパフォーマンスなのはパクリ先がなくて海外に負けるからであって、やがてパクる相手のいなくなった中国でも「巨額の不良債権でにっちもさっちもいかなくなる」のは時間の問題で、実際に今の中国が巨額の不良債権を抱えているのは新自由主義を唱えた連中の懸念どうりです。諦め給えよ、もはや経済学は「負けないための」学問に成り下がったのだよ。いまや、世界は「否定することができない」モノたちが評価される時代にあって、テメーの理論の是非は誰も評価しません。
最近といってもおそらく2年くらい前から、家の近くに初恋の女の子が引っ越してきた。
彼女は社会人なので、通勤のために実家から通っている。僕の方は取りこぼした単位を拾う為に今期から真面目に1限に出席するようになって、そのおかげで朝の電車が同じになることがたまにある。今までは1限なんかにとてもじゃないけど出席することもなかったから、まさか1限に出ることで同じ電車のしかも同じ車両になることがあるなんて思いもしなかった。
確かに地元は一緒だったし、なんだったらどの辺に住んでいるのかも知っていたから、僕の最寄り駅にも自転車を使えば通えないこともない。彼女の大学が高田馬場から東西線で一駅のところだったから車両の一番後ろに乗ることを知っていて、僕の方は西武新宿で乗り換えて中央線に乗っているので、一号車に乗る。だから思いもしなかったっていうのはさすがに言いすぎかもしれない。ただ同じ車両になるというのはひどく窮屈だ。緊張しさえする。こちらとしては彼女の姿をこの目に収めておきたいのに、羞恥心が邪魔をしてしまう。職場が青山にあるというので大江戸線に乗りたいのだろう、彼女が中井で降りる気配を感じる。夏目漱石のこころをiPhoneにインストールしているkindleで読み直しているけど、様子が気になって内容がちっとも入ってこない。
こんなことになるなら、引っ越すとしても元の家から徒歩で15分くらいのところじゃなくて、もっとこう"シティ"な感じのところにしてくれたら良かったのに。パパが僕たちの地元を大変お気に召しているのだろうけど、大したもんはココにはない。ジョギング中の夫婦が「ヨーロッパに来たみたい」なんて言っていたのを聞いたことがあるけど、僕は地元に"ヨーロッパらしさ"を感じたことは一度もない。ヨーロッパらしいってしかもアフリカっぽいと同じレベル感なのがグッとくる。フランスもドイツもスイスもフィンランドも"ヨーロッパっぽい"のだろうか。
それにしたって彼女は気まずくないのだろうか。もしかしたら彼女の方は全く気にしていないどころか、僕なんかに微塵も興味を感じていないのかもしれないけど、それにしたって不都合だ。朝の通勤時間に小説やビジネス本を読むような彼女には東横線か、あるいは田園都市線がお似合いだと思う。青山の広告代理店でパリッとクリエイティブな仕事をしているのなら、意外と二子玉川や武蔵小杉なんかも良いかもしれない。トレンディがある。そんな彼女の住まいが閑静なローカル線の住宅街で僕の家から走って2分だなんて。
初恋の女の子が僕の通っている小学校に引っ越してきたのは4年生の時だ。
学芸会の準備で役を決める際に視聴覚室か何かに学年で集まる機会があって、僕はその時三組だったから、二組に転校してきたその子を見かけるのはそれがはじめてのことだった。僕は一目惚れをした。
控えめにいって、ものすごく可愛かった。もしかしたら可愛くないのかもしれないとかそういうことを思うことなんか一切ない。疑いのない可愛さ。とにかくものすごく可愛かったのだ。広末涼子のような清涼感にしかしどこか影のある、もしかしたら深田恭子かもしれないようなミステリアスさ、とまではいかないけど、こう、幸の薄そうな、アンニュイな佇まい。目が合っているようでどこか僕よりも遠くを見ているようなそういう雰囲気のある女の子。きっと心臓に包帯を巻いているに違いない。
そんな少女の横顔を偶然にもあの場で拝んでしまったその日から、僕の好みの女性のタイプが確立してしまった。確実に言える。初恋というのは実に恐ろしいものだ。
僕は地元の公立中学に進学することを決めていたし、彼女が日◯研かどこかの塾に通っていてそれで女子中学校を受験するというのは友達から聞いていたから、中学に上がったらこの思いも終わってしまうんだなと思っていた。金輪際のお別れになるんだろうなって思った。なんでかわからないけど、また会えることを期待したお別れであったり、悲しさのようなものを感じないまま中学生になった。今思えば、そういう感情が終わってしまうということが当時の僕にはよくわからなかったのだと思う。小学生の頃の僕たちはただ誰が好きだ誰と両思いだとかそういう秘密を"バクリョー会"と名付けたなんだかよくわからないグループでこっそり共有しあって、それでその子と廊下ですれ違うたびに肘で突き合うといった交友関係を楽しんでいただけだったのかもしれない。一度も話したことのないにも関わらず、これは初恋なんだって確実に言えるそれは小学校卒業と共にお別れしたかのように見えた。
僕もその当時ノリノリでプリクラをプロフィール写真に設定し、好きな異性のタイプのところに「幸薄い子」って書くくらいにはエンジョイしていた。
今でいうTwitterのようなタイムラインは「リアル」と呼ばれていて、幼稚園の同級生だったモデルの女の子は「りさのりある」とかいって人気を博していた。
「ぼくのりある」もささやかな人気を誇っていて、"ねっとりとした"自分語りとますだおかだの岡田のような芸風がウケて意外にもいろんな人に見てもらえていた。
ゲストブックというのが前略プロフの中の機能にあって、そこに知人がコメントを残すことが出来るようになっている。そのときに現れた nさんが話題になった。彼女は僕のゲストブック=足跡 にミルクキャラメルが欲しいと言った。
僕が高校にあまりいかず(行ってなかったことはしらないだろうけど)近くのコンビニでバイトをしていたことを彼女は知っていた。
彼女の言うミルクキャラメルがうちのお店にあるかどうかの話を聞かれて、多分あるとかいう適当な返信をしていたのを覚えている。そのうちみんなが僕とnさんのやりとりに興味を持つようになって、学校に行くと「あのn ってだれ!?ww」とか言われるようになった。
僕とnさんとのやりとりが130件を越えたあたりで、nさんはバイト先に来た。
僕は度肝を抜いた。まさかこんなことがあるのだろうか。あの女の子だった。
バイト中にも関わらず連絡先をその場で交換した。夜勤のお兄さんと一緒に夕勤に入っていたのだけど、事情を説明したら怒られなかった。むしろ茶化された。
そこから僕たちは小学校を卒業してから今までの4年弱を埋めるかのようにメールをした。
当時の携帯は文字数制限というのがあり、1万字を越えると入力ができなくなるのだけど、僕たちは文字数いっぱいになるメールを1時間半かけて50~100つのトピックを会話した。
たとえばニコ動が面白いとか、彼女は御三家クラスの女子校に通っていたので、自然とヲタい趣味を持ちやすいのだと思うけど(偏見)、時かけMADがあーだとか、あるいは東京事変だどうだとか、そういう話もした。彼女は軽音部で、家にはドラムセットが置いてあって、透明人間をコピーしたりしていたらしい。椎名林檎が好きな女の子だった。高校1年生にしては早熟しているという感想がある。
次第に僕達の仲は縮まっていき、バイトから上がって、電話がかかってきて。僕は彼女から気持ちを伝えられた。僕はそれには返事をしないままデートに誘った。
正直にいって、僕は彼女に対して劣等感があった。先程も言ったとおり、羞恥心なのだ。彼女は1時間半かかるメールをしながら、僕が必死に入力している時間に勉強をしていたのだ。大学入学に向けて自主的に勉強をしているような子だった。
僕は偏差値が50もない都立高校に進学して、あまつさえ学年ワースト10の人間だったから、そういう天上人の姿を目の当たりにして惨めな思いがした。
「勉強なんて、くだらない」
「どうせやったって役にたたない」
僕はみんなが僕と同じようにそう思っているに違いないと思っていたから、ボイコットと言えるような授業態度を取ることもあったし、それがきっかけで停学になることもあった。そういう人間なのだ。そういう貧困家庭で文化資本の微塵もない人間が彼女のような幸福に溢れる少女と関わるなんてこと、あってよかったのか。
僕は気持ちに応えたかった。けど、自分の無様な境遇を誰よりも理解していたからこそ、彼女の気持ちに応えることもなく、返信を止めてしまった。
「あの時いったこと、なかったことにしてください」
そういう経緯もあって、高校二年生にあがって、ひょんなことで自分も大学進学ができることを知ってから、たまらず勉強をしてみたくなった。
早大学院が家の近くにあって、その高校に幼馴染が進学していたこともあって、高校に行っていなかった時はもっぱら学院の子たちと遊ぶようになった。
もう一人、学院にいったバスケ部の友人が僕に言ったことがある。
「ココにはお前みたいなやつがいっぱいいるぞ!」
僕の居場所はきっとこっちなんだろうなって思った。
僕は変に尖っていたから、東大は無理だけど早慶ならやればイケると思っていた。だから学校で受けることになっている模試の志望校には早稲田の法学部と慶應の法学部を必ず書いた。当時の僕は文系最難関は法学部だと思っていた。偏差値は30台だった。
僕が勉強に対してひどいコンプレックスを抱えていたのは、進学した環境へのミスマッチもあったけど、それよりも大きかったのはきっと彼女へのコンプレックスが勉強に向いていたからだと思っている。僕はそうやってここまでやってきたのだ。
幼馴染いわく、彼女はAO推薦で早稲田の国際政治学科に入学したと聞いた。
ものすごくモテるけど、性格が奇抜らしく、恋愛に発展することはそう多くなかったらしい。
彼女は3年生になって、イェール大学に1年間留学した。留学費用は親から借りて、社会人になった今、親に返しているって言っていた。
彼女はきっと大学でケインズやハイエクを勉強するような感じではなかっただろう。
きっとホロコーストに関心を持って西欧政治史を勉強していたのだろう。ハンナ・アーレントのようなそんなイメージがある。"アンシュルス"という響きが彼女を形容する。留学ではどんなことを学んだのだろう。
僕の方はどうだっただろう。
見えない格差に悩まされないことはなかったし、この断層をどうにかして上り詰めてやろうと思った。もしかしたら届かなかったかもしれないし、もしかしたら届いたかもしれない。
でも、ある種の上流に来て思った。僕は平面的な世界しか見ていなかった。ここには奥行きがあって、階層が同じになったように見えても、生きる世界が交わることがないのだと。
彼女の生きてきた歴史を僕が覗くことが出来ないことが、たまらない不安となる。彼女の見える世界と僕の見える世界はブラウン管に映るカサブランカと最新液晶で見る君の名はくらい違うに決まっている。
恵まれた家庭に生まれ、愛され、そうして社会になんの疑問を抱くことなく生きてきたのであれば、どうかそのまま幸せになってほしい。
社会人になって、通勤中にビジネス本を読んだり、コピーの勉強をする必要なんてきっとない。いつかきっと、おそらく今も付き合っているであろう彼氏や職場の人と結ばれて、2児の母になって、幸せになっていってほしい。
彼女が政治経済学部に進学したように、僕も政治経済学を学んできた。
彼女が広告代理店に就職したように、僕も卒業したらネット広告を生業とするだろう。
どこかで交わってもよかったはずの世界が、どんなに類似共通する点があっても交わることのないこの世界の片隅で僕はまことに勝手に息苦しさを感じている。
おそらく10月までに引っ越すことになるだろう。
僕が24年間生きてきた思い出深い地元を出た時、僕と彼女を結ぶ共通点がついに無くなる。
それは小学生のときにはわからなかった別れのような感情を僕に芽生えさせるのか。
あるいは僕の眼前を照らす原動力として、ずっとこころのどこかに仕舞われたまま生きていくことになるのだろうか。
国境の南、太陽の西という小説がある。あの主人公の気持ちが分かるような気がしてしまう。もし30歳とかそのくらいの年齢になって、島本さんのように現れてしまったら、僕はどうすれば良いのだろう。
一度空いた穴が塞がることはないのだろう。