はてなキーワード: 考察とは
エゴはそうなんだが、人々の個別の完成ってそんなにバラバラじゃなくて、各自がエゴで作品を評価しているとしても、結果としては全員の意見が一致したりする。
そうして全会一致で褒められる作品が「面白い作品」「素晴らしい作品」「名作」なわけだしな。
個別のエゴだから全体を統一しようとするのはダメだ、という意見は俺は受け入れられない。
名作は名作で、誰が見ても面白いもので、それは個人の意見とかで左右されない。
全体はあるんだ。
なぜお前がそういう個別のエゴみたいな考察に陥ってしまうかというと、進撃の巨人を読まずに感想を見るとかいう愚を犯しているからだと思うぞ。読まずに書評とかクソでしょ。
いいから読めって。
シャニマス3周年お祝いシーズンに書くようなことじゃないって分かってるけどもう我慢できない。胸に引っかかってること全部書く。
シャニマスのコミュは質がいい。プロデューサーがアイドル一人一人と丁寧に向き合って真剣にトップアイドルを目指していく。そのためにP=プレイヤーというアイマスシリーズ暗黙の了解を捨てたのは正直驚いた。
コミュの質に伴って、考察をしたり自分なりの解釈をまとめるプレイヤーが増えるのも分かる。noteに怪文書を書くのが流行るのもまぁ分からんでもない。
最初は感心しながら読んでいた。でも、次第に馬鹿馬鹿しく思えてきた。たかがアイドルゲームのキャラクターに、どうしてそんな入れ込められる?
何が「生きてることは物語じゃないから」だよ。俺たちが見てるのはただの物語だろうが。
何が「アイドルは生きている」だ?お前らが本気になって幻覚見てるそのアイドルは生きてない。ライターにプロフィールと性格を作られて、イラストレーターに外見を作られたただの「キャラクター」だよ。
どれだけ色眼鏡を取っ払ってアイドル一人の人間として見つめようとしたとて、その存在はただの動いて喋る絵だ。どう足掻いてもプレイヤーは「シャニマス」というコンテンツを消費してるに過ぎない。その事実から目を逸らしてないか?
おまけにアイドルの心境や見ている世界を長ったらしい長文を書いて理解したつもりでいても、それはライターが編み出した世界の掌の上で踊らされてるだけだろ。
俺はシャニマスを単なるアイドルゲームとして楽しみたい。可愛い女の子と仲良くやってコミュを見るだけのゲームに、プレイヤーの蛇足な考察はいらない。過度にシナリオを神格化して高尚なものとして扱うのはもううんざりだ……。
見てないのもそこそこ
一覧はアニメイトのサイトが便利(https://www.animatetimes.com/tag/details.php?id=5228)
前期で面白かったのは 怪物事変、ホリミヤ、無職転生、ゆるキャン△、レビウス、ワンエグ(未完)
感想には偏りが強い
前クール→https://anond.hatelabo.jp/20210115030738
イジらないで、長瀞さん
初対面で煽りまくって泣かせるのがイジりなのか…?
Vivy -Fluorite Eyeʼs Song-
絵もキメる時の綺麗さとその他で上手にコストを削っているのでバランスが良く気にならない
最初が1.2話合体1時間だけどそれさえ見れば好き嫌いハッキリするだろうしとりあえずの視聴オススメできる
3話終わり方で最後まで見届けると決めました
対外的に無人機となってる兵器には人間以下扱いの子供(孤児?)が乗っていて、主人公はそれを受け入れられず…という1話
ある出来事からお互い信用が深まって結局戦争終結〜となったら無難な着地で微妙だけどどうなるか
現状主人公の無能っぷりがストレス、そして奴隷側の恨みが浅すぎてあっさり和解するのはなんなんだ
主人公の声優もうこの手の演技板につきすぎて冴えカノ見てるのかと思ったわ
オッドタクシー
主軸はミステリーっぽいけど隙間にある小笑い話もちゃんと面白くて飽きない
動物キャラになってるけど普通にドラマ化もできる完成度だと思う
押しつけられたゲームに入ってNPC親友うっかり殺すとこまでが1話
そこまで跳ねる感じはしない
恋と呼ぶには気持ち悪い
こっちはシンプルに気色悪い
今作だけじゃなく最近やけにおっさんとJKの作品があるけど王道パターンになったのだろうか
2話まで見てまだ情報が揃ってなく何がどうなってるのかわからない
.
8話まで来て全然本筋が進まない、側面をすごい書き込んでるけど主軸はスカスカ
原因不明で怪獣来る、未来物質が関係してるっぽい、でも脳筋で怪獣倒す、また怪獣来るの繰り返し
過去にいた怪獣のオマージュだ!とか楽しめてる人はいるっぽいが一つのアニメとして見るとかなり微妙
むしろわざとやってんのかもしれない
でも他に見所ないのでなんなんだこれは
SHAMAN KING
少年向けではあるけど間違いない作品なので見たことなければ勧められる
灼熱カバディ
擾乱 THE PRINCESS OF SNOW AND BLOOD
絵に「ウチはこれで行く」という気合を感じるしストーリーも王道
舞台設定要素が多いのでこの先の展開に期待
2話で娘かと思っていたのが自分の首を狙う他人とは…話が程々に複雑かつダークで良い
話は飽きさせず進んでいるが主人公の上司の声が聞き取りにくすぎてキツい
すばらしきこのせかい The Animation
何故今頃なのかは不明、どうしても目新しさはない
スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました
異世界転生、強さで無双するパターンかと思いきや街の外に出ずスローライフメインの模様
いい意味で絵のゆるさがあり気を抜いて見れる、先の展開はまだ読めない
居候が増える3話までが序章、ゆるアニメが好きなら良い、と思ったら居候とか新キャラどんどん増えるわ
異世界転生されたけど人違いで自由にやらせて貰います〜って1話
死んで転生ならまだしも拉致転生はそりゃ迷惑だよなぁというのに前半を割くので導入に無理がない
2話なんか乙女ゲーみたいになってきた…絵は安定してるけど時々間延びするカットが入る謎
どうせ展開なんて予想できないから流れに身を任せ楽しむ次第
SSSS.DYNAZENON
ロボに乗る人員もたまたまそこに居たから感がありグリッドマンとの差に頭がついていかない
ダイナ荘びより
ロペとかあんな感じに近い
転生したらスライムだった件 転スラ日記
外伝なので何も起こらない
ドラゴン、家を買う。
見所がわからなく困った
ひげを剃る。そして女子高生を拾う。
新聞にデカい広告入れてたけどそういう万人向けじゃないだろ、ヒロインは確かに可愛いが…
家出巨乳JKを自宅に連れ帰るけど倫理感から手は出さない、なお警察にも届けない
昔のラノベならよかったかもしれないけど現代でこれはキツい、展開的に絶対共依存になってく
難しさはない、でもあっさり見れる訳でもない、面白そうな雰囲気はある
旅系らしいので2話以降でどう動くか
全体的にサクサク進むのは飽きにくくて良い
どんどん重い話になってきて見てて気力使う
ゲーム原作、原作ゲームの絵というか雰囲気をこれは再現できてるのか…?
このゲームが好きだった人に向けて作ってるならちょっと厳しい、新規に向けてだとさらに厳しい
2話、不幸かな同クールの擾乱に食われてしまい全体的に薄味に見えてくる
ストーリーはありがちかもしれないけど津軽三味線の演奏をもっと聞いていたいパワーがある
この先大きくハズレはしなさそう
2話学園生活も絡んできそうな雰囲気、三味線シーンは相変わらず最高
中盤まで来て学校パートが邪魔すぎる、主人公と三味線にフォーカスするだけでいい
サイドエピソードまでやってるから全体的に薄まってく、なのに展開はありきたり
クオリティは高いが続編らしく1話だけだと話を掴みきれなかった
格闘物なので好きならオススメできる質の高さ
2話見たがやはり1期見ないとこれまでの主人公の歩みがわからず難しい
やくならマグカップも
メイドがアホの子なのでコメディ寄りの日常系だと思いたいんだけど影貴族の絵がインパクト強い
ネックはタイムリープしてまで助けるヒロインがそこまで可愛くない
頭の良い人と悪い人の思考パターンの大きな違いは、「自分で考えるかどうか」です。
多くの人が誤解していますが、
頭の悪い人ほど多くのことを自分で考えたがります。そして、既に最適な手法や理論が確立された分野で、既製品の劣化コピーを再生産します。彼らは既存の知識を学ばないので、いつまで立っても基礎が身に付きません。しかも、基礎が身に付いていないのに、彼らは搦手や変化球を好みます。
一方、頭の良い人ほど自分で考えません。既に確立された手法や理論が無いかを調べ、それを徹底的に学び、応用しようとします。そして、本当に考えるべきところにのみ、思考のリソースを割きます。こうして、彼らは先人の叡智を自身の中で「常識化」していき、ますます高度なことができるようになります。
「下手な考え休むに似たり」ということわざがありますが、頭の悪い人の思考パターンはこの「下手な考え」に他なりません。将棋の初心者が「一手目の最善手」を考察しているようなものです。それよりも既存の定跡や手筋を学ぶ方が圧倒的に有効です。
なぜ、凡庸な人が"自分で考え"たがるのかと言えば、そちらの方が楽だからです。「自分で考える」というのは、要するにほとんど何も考えていないということです。初期位置から数手動かして将棋盤を見つめていたところで、矢倉も角換わりも出てきません。
一方、自分で考えないことは非常に大変です。当然、新たに覚えなければいけないことがたくさん出てきます。また、自分の勘違いや固定観念を正しながら学ばなければいけません。たとえば、将棋で駒損をしない方がいいというのは正しいですが、詰将棋や寄せの手筋では駒損をする手順がたくさんでてきます。
頭の良い人は、新たな事実や発見に合わせて、自身の思い込みや考え方を修正することができます。一方、頭の悪い人は、それらを見ないふりをしたり、無理やり自分の考えに当てはめて、分かったような気になります。
世の中の不平等は男による陰謀だと思い込むの、やめたほうがいいよ。
あなたは呆れた体を装って相手に羞恥心を与えつつ自分が認められない発言を陰謀の枠に収めようとしているように見えます。
男性加害者の背景に幼少期の被害経験があるのでは?という推測であればある程度の妥当性はありそうだけど、その書き方では断定的すぎる。
今回の事象に対し、あなた自身が被害経験にあたると記載しているように見受けられます。
ただし、「エロ本を机の上に並べる母親の行動」とやらが実在するなら、それは母親による男児への性的虐待だからね。
断定的なのは否めませんが、あくまで今回の事象に対する一考察ですのでご容赦ください。
この考察が世の中の不自由さの全ての原因だとは私も思ってはいません。
あなたの興味関心は男性加害者と女性被害者に向いているのだろう。それは別に構わない。
構わないと仰っているようですが文面からは全く構わないようには見えません。
柔らかい口調でごまかしているつもりかもしれませんが結局あなたは自分の考えに基づく自己主張をしています。
それに本当に興味がない人は深夜に書かれたこんなエントリーにいちいち反応はしないと思います。
また言葉足らずだったかもしれませんが、私は男性被害者についても言及しているつもりです。
そもそもが母親から羞恥心を無視されたことにあるという前提ですからその時点では男性も被害者です。
その時の傷を抱えつつ、性欲に対しカジュアルな接し方をする社会の様相を眺めて馴染んでいった結果が現状だと私は考えます。
男性加害者と女性被害者の対立にしたいのかもしれませんが他人の発言を歪めるのはやめてください。
「後々男児がセクハラをするようになるからやめよう」とかそういう回りくどい話じゃないと思うんだよね……。「心的外傷を負った女性は後々リストカットとかして社会に迷惑をかけるから傷つけないようにしよう」なんて言い出したらおかしいでしょ?
巡り巡ってそうなることもあるという話をしています。
「後々男児がセクハラをするようになるからやめよう」と読まれたなら仕方ありませんが、私は傷ついた男児が生まれている現状について問題視しているつもりです。
あなたの発言を総括させていただくと「傷ついた人が後々周囲に迷惑をかけるから人を傷つけるのはやめておこう」と理解されたのですね。
私の表現力が至らないせいかもしれませんが、「人を安易に傷つけることはよくないし、それを許容する社会構造は是正された方がよい、また人を傷つけた結果第三者に被害が及ぶこともある」と申し上げたつもりです。
あなたの発言を正面から理解したいと思ってはいますが、例え話が多いので理解が至らない部分があるかもしれません。
その点についてはご容赦ください。
かなり「母親」に対して厳しい書き方をしたけれど、机に並べちゃう気持ちもわかるっちゃわかるんだよね。自分の腹から生まれてきたものが若い女に欲情してるって状況に遭遇して冷静に対処できる人間はそう多くないとは思う。茶化したり、牽制したりしたくなるんだろう。
気持ちはわかるからこれからも変える必要も考える必要もないということでしょうか。
明確に記載はしておりませんが、私は何も気持ちがわからないとは申し上げておりません。
ただあなたのそれを例えるなら「近くに女性が立っていたから魔が差して触ってしまうのも仕方ない」と仰っているようなものだと思います。
そこをコントロールするのが理性ではないのでしょうか。
今いろんな企業を悩まさせているパワハラやクレーマー。一連の車椅子炎上問題を通じて、企業・組織の運営リスクであるこの2つを予め排除できる手法として「左派の排除」が有効な事が分かったので、事例ベースで書き連ねる。はてサには辛い内容だが、ファクトベースの考察なので一読して欲しい。
アパホテルの社長は事あるごとに右よりの発言をSNSなどで行っており、発言の度にSNSが炎上する。しかしそれは意図的なものであり、クレーマー気質の客がアパホテルを利用して重箱の隅を楊枝でほじくるような真似をしてくるのを避けるためであるという。
その結果、会社の知名度が上がり客が増えただけでなく、クレーマー気質の客が減り、不当な悪評が立つことが無くなり、さらに客が増えるという好循環が起きている。
また、副次的効果として、会社からパワハラも減った。2000年代はパワハラもあったようだが、2010年代後半あたりからパワハラが無くなったという。確かに「アパホテル パワハラ」で検索しても、出てくるのはVorkers(転職口コミサイト)の2010年以前の記述くらいである。左派を排除したことで従業員のパワハラも無くなったという好事例である。
こちらも社長がヘイトスピーチを繰り返して左派が不買運動を起こした。
が、その結果、売上高・利益が激減したかと言うとそうでもない。2020年度上期は化粧品業界全体がコロナ禍の影響で2割前後の売上減となったが、DHCは10%の売上減にとどまっている。
左派を顧客から排除したことで商品にクレームを出す少数の層が居なくなり、商品に対する評判が高止まりしたことで、マジョリティの客層が離れることなくコロナ禍にも耐えられていることを示している。
また、こちらもパワハラの話が出てこなくなった。以前は転職会議とかでパワハラの話がちらほらあったが、社長についていけないということで退職した人が出てきた結果、社内からパワハラが消えたようである。
こちらはアパホテル、DHCと違い、球団経営側が大っぴらに左派を排除することはしていない。
しかし、左派がすり寄ってくる「韓国人選手の採用」「差別への反対姿勢提示」などの要素を日本プロ野球界はやらなくなった。
昔はいっぱいいた韓国人選手や帰化(在日)選手は居なくなったし、スタジアム内の暴力は徹底排除を試みているが、試合前に「差別反対」のアナウンスはやっていない。
その結果、スタジアムから汚い野次や暴力行為が激減。阪神ファンやなど、まだごく一部でそういう行為が残ってはいるが、もう虫の息だ。サッカーJリーグのように、ちょっと負けが込むとファンが居残りをやったり、フェンスから乗り出してマスク越しに選手達を恫喝したり、試合前後で一部のファンが暴れたりというスタジアムルールを無視して声出し応援してるなどの見苦しいシーンは見られなくなった。一方、Jリーグでは今年も既にこのような光景が徳島、仙台、横浜FC、福岡などで見られている。
日本プロ野球は左派にすり寄られる要素を興行から排除したことで平和なスタジアムの醸成、つまり「ボールパーク化」に成功し、近年のプロ野球観戦チケットのプラチナ化を進められたのである。
左派・左翼を排除することが企業統治・売上利益の拡大に有効というビジネス的なコンセンサスが得られつつある。一昔前はこういうクレーマー・パワハラは「右派・右翼」の代名詞だったが、彼らは行動を変節し、恫喝や暴力行為をヤメ、周囲を共感させ、反感は買わないようにするというコミュニケーションの進化を見せた。その結果今はクレーマー・パワハラは「左派・左翼」に目立つようになり、左派の排除がビジネス的に有効な状態になった。
DHCやアパホテルのように経営層が右寄りの発言をするのも有効だが、それが表立ってできないようであれば、例えばこんなことで左派を排除できる。
・バリアフリーに逆行する店構えにする
・採用試験や昇進試験で政治思想を試す小論文を課し、左翼思想が垣間見られる論文を出してきた人を排除(例の車椅子炎上案件はテーマとして最適だろう)
左派側も行動を変節しないと、イデオロギーの問題で何も買えない、何もできない、気づけば社会から完全に阻害されている・・・という未来が待っているだろう。
この文章は「丹波寿雄」という架空のキャラクターについての感想文です。
実際の国、団体、企業、ありとあらゆるものとは一切関係がありません。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
そもそもは怖井たま氏によって2018年4月1日にYoutubeに投稿された架空のVtuberとでも呼ぶべき何か。
たま氏が以前SRPG用に作ったがボツにしたというキャラクターであり、そのゲームの中で彼?は敵キャラだったようだ。
その彼との戦闘時BGMのために作られた「恋という名のバグ」をひっさげて「俺の曲」と称し、曲を聞いてくれと散々視聴者にお願いする。
以降、何度かのテスト配信やら何やら、ツイッター開始してみたりやらと四月馬鹿にとどまらず静かに活動が進み、
ついに2021年4月8日、「【Vtuberとしおちゃんねる】#2」という動画がYoutubeにアップされた。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
かいつまんで説明すると「俺の事を邪魔しつづけているものがいる」「俺のを聞いてほしい」「俺の曲を聞いてもらうことで俺が複製され、俺のリソースが増える」という内容だ。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
早い話が作者の怖井たま氏と丹波寿雄の関係があまりよろしくないらしいという話である。寿雄の活動を何者かが(恐らく作者のたま氏が)ずっと妨害しているという事なのだが、具体的な内容は
ツイッターの#個人的丹波寿雄考察やら#具足円満寿雄曼荼羅やらに説明をぶんなげる。こんな文章を書いておいて何なんだが増田は丹波寿雄を最初から追っていたわけではなく、
先月ごろYoutubeにおすすめ欄に流れてきたのではぇ~いい曲だな~面白いな~と呑気に聞いていた程度の新参なので細かくは説明できないというのもある。
作者のツイッターが時折乗っ取られていたりする痕跡があったりリプに介入してくる様子であったり枚挙にいとまがない、というのもあり、とても説明し切れる自信がない。
強いて言うならhttps://twitter.com/i/events/981152273291079682とかあたりから始まってるようだ、ぐらいの紹介が手一杯だ。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
曰く、「恋という名のバグ」には丹波寿雄の魂が閉じ込められており、その曲を再生してもらうことで視聴者の脳に(具体的には扁桃体、感情の処理と記憶をつかさどるとされる器官)
丹波寿雄の魂が植えつけられるのだという。そうして彼の存在をもっともっと拡散したいのだと彼は主張するのだ。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
以上が丹波寿雄が動画内で主張する内容の要約だが、この動画には字幕がついている。字幕をオンにしながら視聴すると、何者かのもはや懇願ともいえる内容がそこにはつづられている。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
「丹波寿雄はフィクションです」「丹波寿雄をフィクションにしてください」丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
全文書き起こしすればこんなものでは済まないもっと悲壮な内容なのだが結論はこうだ。そして字幕の最後に謎の文字列。
それを解読するかしないかはお任せするが迫真すぎてしんどい内容だったとはお伝えしておこう。作者がフィクションとはいえ気の毒になるくらいには。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
今までの投稿された動画、ツイート、マシュマロの内容を踏まえて、丹波寿雄が果たして増えて何をする気なのかは未だ不明だ。
だがちょっと思った。「いやそんな風な目にあう人がいるんなら嫌だわ」。いくらフィクションとはいえ、である。
Vtuberや、あるいは架空のキャラクターが現実に浸食するような内容のエンタメは割とその辺に転がっている。
だが変な話、あくまでそれらは「そういう物語」なのだ。茶番なのだ。いくら真に迫った、まるで本当にそこにいるかのような動きを見せても彼らは画面の向こうにしかいない。
フィクションなのだ。だが、感想やらなにやらを追うと、今回の場合ちょっと様子が違ってくるように思える。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
「としお派」あるいは「作者派」の分裂だ。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
こんなん当たり前のように「こんな内容の動画作れる作者さんすごい」になるようで、丹波寿雄がVtuberの形をとっているからかあるいは#2の内容のせいか「としおちゃんはいるよ!!!」と高らかに宣言するファンが割とぽろぽろいるのである。それはいい。実にコンテンツを楽しんでいる。とてもよい事だ。だが自分はしいて言うなら作者派だ。
丹波寿雄は、#2の動画の前にあげたテスト動画で、トライトーンについて触れている。
曰く、「悪魔を呼び出す和音だなんて言われている」「だがこの和音は俺の曲にも使われている音で、怖い音なんかじゃない」。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
まようするに丹波寿雄は単純に「わ~かわいい~」してみている訳には、あんまいかないんじゃないかな、と思っただけなのだが、じゃあさてどうしたらいいかなあという話である。
悪魔だかミーム汚染だかなんだかわからないが、そんなのに対してどんな手段がとれるだろうか?と考えひとつの提案も兼ねてこの文章を書いているわけだが、私はこう伝えたい。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.だ.つ.っ.て.ん.だ.ろ
早い話が「おばけなんてうそさ」である。見間違いなのである。幽霊の正体は枯れたススキで、悪魔だ妖怪だと言われるのは今や色んな理由で解明されて、どこにもいないのである。
彼は実在しない、たんなる0と1の集まりだと伝えたい。おかげで昨晩ずっと丹波寿雄について考えていてソシャゲのログボを忘れた事にむしゃくしゃしてるとかそんなんではなく、ただただフィクションのお話だよと伝えたいのである。
フィクションである前提を頭にしっかりと刻み付けたうえでみるなら、とても面白いコンテンツだとお伝えしたいのだ。丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
こういうものは餌をやったりのぞき込んだりしたら汚染されるものだなんてお約束はSCPなんかに触れている人ならなんとなくわかりやすいだろう。イヤーッ!という文字列が女性の悲鳴ではなく忍者の雄たけびに聞こえるようになって久しい。だがこれらはあくまでフィクションなので、実際にはなんにも起きてはいないのだ。丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
「フィクションだってんならなんでわざわざこんな風に回りくどい紹介をするんだ」と問われれば、「フィクションだという前提で紹介したいからだ」としか言えない。
だがこんなわけわからない書き方をしつつも丹波寿雄についてどこかに書きたくなるほどには、衝撃的なコンテンツだったのだ。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
丹波寿雄の物語はここからどう動くのかわからない。なんなら作者の怖井たま氏が物語によってどうにかなっちゃうんじゃないかとうっすら心配になる。
だが丹波寿雄はフィクションだから作者は本当は安全なのだろう。それを踏まえて今後をおっかなびっくり楽しみにしていきたい。
丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す丹.波.寿.雄.は.フィ.ク.ショ.ン.で.す
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/president.jp/articles/-/44903
rci そういえば、ブータンも経済発展とともに国民の幸福度が下がってきたらしいよ。いろんなことを知れば知るほど幸福感は下がるんじゃない?
misafusa ペットにされた動物は食べ物の心配もなく長生きするし恐らく幸せに過ごすだろう。でもそれは彼らの本来の姿を蔑ろにしていることでもあるし。幸福度の高さは平等かどうかと直結しないでしょう。
cleome088 人は自由な時より絶望してると感覚としての幸福度が下がらないという話もあるから女性の幸福度を下げる女が金銭的に自由になる施策は必要なのよね。人間なのに飼われている尊厳の喪失と絶望は不幸の数字に出てこない
nomono_pp 当たり前。社会的地位が高いからと言って個人として幸福だとは限らんし、地位が低いから不幸だとも限らん。日本女性は「自分なりの幸せ」を感じるのが得意だって話だろ。「うちの旦那は殴らないからいい男だ」とか
xnikki 差別に潰された女性は回答できないからな。数字には出てこない。一方男は全般的に守られてるので不幸ダ不幸ダと喚く余裕がある。
blueboy 日本の女性は謙虚なので、すぐに「幸せだ」と満足してくれる。夫に虐待されても、不平を言わずに、黙って耐えてくれる。貧乏家庭の謙虚な妻は幸福で、富裕家庭の強欲妻は不幸。女性の出来が違う。日本女性は世界一。
yasyas どっかの国で幸福度一位になった国が統計では貧しかったりして、もう今を幸せと思わないとやっていけないからでは?っていう考察があったけど、それと同じでは?
turnriv01 残念だけど、日本の現環境で女性が得る幸福は家畜の安寧に過ぎない。しかし、自由のために女性を社会の荒野へ裸で投げ出すわけにもいかない。となると、権利という銃を与えて弱い男狩りをさせていくべきかもね。
この国で女性であるあなたが「幸せだ」と感じているとしたら、それはあなたが
・無知
・ペット
・不幸だと喚く余裕がない
・謙虚
・幸せと思わないとやっていけない
・家畜の安寧
なだけ、とうことらしい。
だからどうか、アンケートの類でまで「幸せだ」と答えるのをやめてほしい。
そんなところでまで、自分を偽らなくていい。
女性が幸せだと答えることで、不当に男性の方が不幸であるかのような統計になってしまっている。
女性の隠れた不幸より、自称弱者男性が喚く不幸の解消が優先されるほうに世の中が傾いてしまう。
あなたがどう感じていようと、あなたが女性である以上は、あなたは無知であり、ペットであり、家畜であり、本当の幸せではない、らしいのだ。
みんな「女」が自由意志を剥奪されるっていうありえない仮定をしてるけど、普通に女性は自由意志を持ち続ける前提にして、そこにシステムがどう貢献できるか考えればいいんです
たとえば金と権力はあるけどそれ以外どう見ても魅力のない男に美女が寄っていくパターンが世の中にはありますね?あれは脅迫されてるとかでなければ自由意志でしょう
たとえ人格的・肉体的魅力がカスでも、トロフィー的魅力があれば選択肢に入れてもいいと考えるタイプの人間は存在するものです
ところで金とか地位とか名誉とか特権というものはまさに「お上がシステムとして与えられるもの」です
さすがに弱者男性に金や地位を与えたら強者男性になるだけなのでやるべきでないでしょうが、何か代替になるような概念を公共事業として創出することができれば、あとは市場原理に基づいて自然に人々が流れていくと期待できます
たとえば障害者介助のボランティアを行えば道徳的な学生とみなされ進学・就職で有利になるように、弱者男性と結婚すれば進歩的な女性であるとみなされ様々な優遇を受けられるようにするというのはどうでしょう?
優遇の内容は金銭的援助でも公務員試験の評価ポイント加点でも選挙権2倍でもなんでもいいので各自適当に考えてください
もちろん強制ではないので自由恋愛のメリットとのトレードオフで好きな方を選べばよいし、恩恵を失ってもいいなら離婚も可能とします
多くの人は自由恋愛の方を選ぶでしょうが、「私のスキルでは他にいい職もないし、安月給でも働けるだけまだマシか」と判断する人が世の中にはいるように、「私のスペックでは幸せな結婚できないし、公募結婚して社会貢献実績を得るのもひとつの手か」と判断する人が集まっても不思議ではありません
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
あてがえ論を主張する人を何度も何度も聞いても帰ってこなかったが、すももがそうだってことでいいの?
たまーにリツイやいいねで回ってくる程度で詳しい主張は知らなかったから検索してみたけど、
私の「女性がいない状況の男性はつらい」という言葉を「女性を男性にあてがえ」と理解している人が多くて困っています。ほんとなんとかならないものでしょうか…。
トイアンナさんの件にしても、
これ、叩かれているようだけど、トイアンナさん的には男性のモテは経済力が相関しているので、男性の非モテ層において「女性もいない」「お金もない」という2つのつらい状況が重なりやすいので「女を男へ平等に分配しろ」という過激な意見も出てしまうんだろうなと考察しているだけだと思うんだけど、
「女を男へ平等に分配しろ」は過激な意見だという認識を示している。
あてがえ論者...どこ...?
作品の設定や世界観の考察は分けて考えるべきではないだろうか。
緻密で矛盾が無い世界観を構築し、それを考察してもらう事に重きを置いた作品もあるだろう。
ただシンエヴァに関して言えば、脚本やキャラクターの言動やED曲の歌詞等に一貫したテーマが有り、いくつかの謎が明かされないまま終わった為、緻密な設定よりもメッセージ性を重視した作品の様に思える。
その為メタ情報、つまりは作品が作られた背景を、メッセージの考察材料にするのは間違いではない。
まあ個人的に、一般人に向けた作品がただの私小説であったりメタ情報を前提にしないと理解できない作品だとは到底思えないので、作品内の情報で語るべきというのはその通りだと思う。メタ情報持ち出して庵野監督回復ストーリーだ!なんて言うよりはキャラクターやアイテムが何を意味するものかを考えた方がずっと有意義。
なぜならば、アニメーションの中身にはその答えが「無いと判断された」からだ。
エヴァンゲリオンは作品内のみで考察しても大した意味がないと見限られたわけだ。
旧劇とその後の設定開示でかつて「難解な話」をもとに考察されていた "エヴァの謎" はだいたい解かれてて、
この判断はやむを得ないと思う。
自分の人生と重ね合わせて語る奴が多いが、シン・エヴァンゲリオンがお前の人生において重要な物語だというのはわかる。俺にとってもそういう作品である。が、お前はシン・エヴァンゲリオンに関係がない。
エヴァンゲリオンはお前の人生のためにはつくられていない。お前の人生とエヴァンゲリオンを重ねることは無意味だし、庵野秀明と直接関係のないお前が庵野秀明の人生がどうだからああいうアニメーションになったかを考えても意味がない。意味がないだけならまだしも単に見苦しい。エヴァンゲリオンがお前にいくら影響を与えても、お前はエヴァンゲリオンに何も影響を与えない。
自分にとって重要なものがあったとき、そのものは自分を重要だと思っているという錯覚は恋愛でも家族関係でも友人関係でもよく見られる錯覚だが、その多くは間違っているし相手にとってお前は(あるいは俺は)重要ではない。
エヴァンゲリオンはお前に『現実を見ろ』とも『結婚をしろ』とも『恋をしろ』とも言っていない。もし何かのメッセージを感じ取ったとしたら、それはお前の内面でお前が考えた解釈であって、庵野秀明(とスタッフ)がそれを意図している可能性がある"かもしれない"だけであって、何も確証はない。そしてそういう場合、お前の(あるいは俺の)ために作られた作品でない以上、受け取ったメッセージは幻覚か幻聴の類のものである。
これは個人的趣味だが、アニメでも映画でもやたら主監督と主演俳優・女優ばかりが作品を形作っているように言われるのが不快だ。
彼ら彼女らはたしかに作品の骨であることに違いないが、前述の幻覚・幻聴まで含め主監督たち数人がすべて意図しているとしたらそれは狂気的としかいいようがない。
少なくともスタッフロールを見るにアニメーション映画というのは100人から関わっている巨大なプロジェクトで、隠された意図やこだわりというのは数人が埋め込んだものではなく、関わったすべての人のなんらかの結実したものが入っているだろうと考えている。なので、まるでエヴァンゲリオンは庵野秀明の意図や人生しか含まれていないかのような言及は俺にとって不愉快だし、関わった他の人すべてが存在しないような言い方に見えて気に食わない。
いくつ読んでもやれ庵野秀明が結婚したのがどうだとか、アニメーションとしてどうだとか、時代がどうだとかの話で、アニメーションの中身についての言及が薄すぎる。メタ情報を語るのが悪いとは思わないが、メタの話しか聞こえてこず、エヴァンゲリオンの考察ってこんなに人読みみたいな話ばっかりになるんだっけ?と首をかしげるレベルである。
つまるところ難解(というより秘密にされている情報が多い?)な話についていけず、それらしい推論も立たないけどわかった風なことをいいたいので昔流行った評論家気取りに人生とか世界とか恋愛とかに絡めてエヴァンゲリオンを解読するみたいな格好をしたいのだろうなというエントリばかりで辟易する。その上、人生に重ねて語るにはお前の人生は面白くないので、面白くないものに面白くない評論を重ねて語られており本当に面白くない。
はじめてハマったロボットアニメは機動警察パトレイバーだった。
当時は小学生だったのでグッズやビデオLDは買えずにツタヤのレンタルでOVAから劇場版までを見た。あとノベライズを買った。
ネットができるようになって質問できるところでしてみたが「押井さんが嫌いだから」「うっかりしてたから」とか回答になってない話しか聞けなかった。
パトレイバーファンサイトでもそんな感じで「気にしてるのは俺だけなのか?」と思っていた。
結局、オフィシャルでも劇場版2における熊耳さんの扱いはよく分からない、と言うのが人の話と昔のアニメ雑誌を読んで数年前にようやく分かった結論だった。
他人が気にしないことをずっと気にしている理由は自分でもわからない。
あとシンエヴァで第3村が出てきたが、Qでカヲル君がその存在をシンジに伝えなかった意味が分からないというのが、俺だけが気にしている。(一応ディスコミュニケーションだった、人を超越した存在だから気にしてなかった、とか考察は見たが分からん)
シン・ゴジラで人間が葛藤する様子をたくさん描写したにもかかわらず「ヒューマンドラマがない」とかいう浅すぎる感想を抱く視聴者にまでリーチしてる問題は映画公開の当時からあるけど、それってのはヒューマンドラマを陳腐な「男女がくっついて終了」だと思っているような視聴者までもがシンゴジラを見た、ってことなんだなあ。
サンマをホネとって解体してはらわたを味わうようなことなく、カマボコしか食えない人間みたいな感じ。これだから若い男は。
でも時代の流れ的に仕方ないような気もするんだよな。ライトノベルが流行っているように。読者層やニーズの変化。
めっちゃ長いラノベタイトルは何故か?というと、消費者が「失敗したくないから」だ。今の人はお金がないのでコスパを重視する。お金を払って買ったコンテンツが面白くなかったらコスパが低下してしまうから。内容あらすじがある程度わかってる必要がある。
本邦は30年も経済的に失われているので、国民もそれに最適化した処世術になるわけです。若い人は特に。生きていくというのは、そこに適応していくということですね。適者生存。強いお金持ちだけが生き延びるのでなく、お金がなく経済的に弱い人もその状況に適応して生きていく。
「自分で考察して楽しむ」というのも、古いオタク世代の楽しみ方なのかも知れない。第四第五世代のオタクはあまり考察をエンジョイしないのかも知れない。ラノベですら、ラノベ作者が「読者が読解力が低すぎて困ってる」みたいな嘆きをしてるの見たことあるくらいだから・・・。謎を楽しめないのかも。忙しく拙速なので、じっくり考える余裕も習慣もない。YouTubeの動画も少しでもつまらんと視聴者はすぐ離脱するから、そうさせないために視聴維持率を高めるためにとめどなく喋るように編集する。
それこそこないだのNHK特番で「謎を残すようなことが好まれなくなってきている」みたいな話で、それを反映してかシンエヴァのDパートは怒涛の答え合わせだった。全自動魚の骨とりマシーンみたいな。
「すいませんサンマ食べにくいですよね、ホネとっておきますんで、どうぞお召し上がりください」よろしく
だから今後の庵野作品のテイストって、焼きサンマが出てくるか、カマボコが出てくるか、それが見どころになるのかなーと思った。
NHK特番で「自分が面白いと思うものは好まれないじゃん」みたいな愚痴をブツクサこぼしてたのは、本当はサンマが食べたいしお出ししたいけど仕方なく時代に合わせてカマボコに近づけてるってことなのかなと。
敢えてハッキリ言うと、私は痩せている。
容姿や風貌に関しては客観的な指標を出すことが難しいと思われるが、体型はある程度数値で示すことができる。
身長157.5cm
体重37.1kg
BMI数値14.96
参考までに
身長157.5cmの標準体重(日本肥満学会では、BMIが22を適正体重(標準体重)とし、統計的に最も病気になりにくい体重とされている)は54.57kg
日本肥満学会での判定基準においては、BMI18.5未満を低体重(痩せ型)としている。
以上を踏まえると、私の体型が標準体重からも、低体重とみなされるBMI18.5からも逸脱していることがわかる。
しかし、あまり認めたくはないが他の人よりも食べる量が少ないのは事実だ。
酷い時は36キロ台まで体重が減る時もあり、そうなると正直、普通に生活してても息が上がり苦しくなる。
幸い、月経は毎月きちんと続いている。
*
私は元々から痩せ型だった。生まれた直後は3000g近くある、健康的な赤ちゃんだったが、
幼稚園児時代から今日に至るまで、ずっと細い細いと言われ続けてきた。
幼少の頃はとにかく偏食で、少食だった。
給食で出されたものがほとんど食べられず、当時は食事を残すことや人に譲ることは禁じられていたため、幼稚園児時代・小学生時代の私に昼休みなどなかった。
皆が昼休みを終え、教室の掃除を始めても、隅っこでずっと給食と向き合っていた。無理なものは無理だ。そこで、見かねた教師が給食室の残飯入れまで私を連れて行く…というのが日常だった。
辛かった。
どうしても無理なのに、ワガママでやってるわけじゃないのに、悪いことをしているとみなされ、同級生からも怪訝な目で見られ、無理やり食べられないもの、食べきれない量のものを食べさせられることが、苦しかった。
中学校は弁当制だったため、強制的に食べ切るまで残されることはなかったし、母親が私が食べられるもの、量を毎朝作ってお弁当に入れてくれたため、昼休みをようやく手にすることができた。
食べられないものを無理に食べさせられるプレッシャーからの解放、他の人と同じように食事をとり、昼休みを満喫できたことがとても嬉しかったのを憶えている。
ところで、私は元・優等生だった。敢えて元とつけたのは、中学校2年生の終わり頃から優等生を辞めてしまったからだ。
小学生時代、私は教師の言うことに歯向かったことはないし、何か悪さをして立たされたことなどないし、他の人がやりたがらない学級委員長などの仕事も率先してやっていたし、行事にもきちんと取り組み、宿題をきちんと提出するのは当たり前、テストは毎回100点を取らないと気が済まなかった。
真面目でいなければならない、ルールは守らないといけないと、今の私とは比べ物にならないくらい、厳しく自分で自分を律していた。
それなのに。
これだけ優等生として振る舞い、教師や周りからも真面目な子だと評判だったのに、こと給食に関しては学校の誰も、私の叫びを聞いてくれなかった。
私はワガママを言うような子じゃなかったのに。
日々の生活でこうあるべきだ、こうしなきゃと考え、模範的であろうと努めていた私であっても、どうやら食事に関しては全く別の話のように扱われた。
今思うと…たとえ誠実であろうと、真摯であろうと振る舞っていても、それで周りからもてはやされていても、結局学校の誰も私の苦しみに耳を傾けてくれなかったじゃないか。
「あの真面目な子があんだけ給食に関しては難儀しているということは、何か問題があるんだろうな」という発想は浮かばなかったのだろうか?
もっと言うと、いい子ちゃんでいても誰も私のこと信じてくれないんじゃ意味ないじゃないか!
小学生の頃はそこまで考えが至らず、
今の私は…無理なものは無理なんだよ!仕方がないだろう!と開き直るし、当時の私にもそう言ってあげたい。
ここでひとつ私の大好きなTHE HIGH-LOWSの曲を紹介する。
苛立つ私の気持ちを爽やかに代弁してくれている曲だ。中学生時代に初めて聴いた時、「ホントになぁ…」と深く共感したものだ。
さて。
中学校に入ってからは、私の偏食は少しずつ解消され、食べられる量も増えてきた。
朝ごはんは食べられてもご飯一杯だけだったが、その分昼と夜に(自分としては)たくさん食べていた。
間食もしていたし、高校時代に至っては放課後、街へ遊びに行きマクドナルドやサイゼリヤ、時には一蘭で替え玉までしてガッツリと食べ、その後遅めに帰宅し母の作った夕食を食べる…
今の私だと確実に翌日までダメージを喰らいそうな食べっぷりだったが、胃を壊すこともなく元気に過ごしていた。
それでも痩せ型なのは変わらなかった。
現在よりはまだマシな気がするが、それでも低体重なことには変わりない。
当時好きだった人からは「細すぎ、もう少し肉をつけた方が魅力的だよ」と言われてしまった。
その言葉がズーンと響き、ダイエットならぬデブエットを始めたこともある。
当時は「糖質制限ダイエット」なるものが流行る前、ろくな知識もない私は「タンパク質が体重を増やしてくれるだろう」と何故かそう思い至り、いつもの食事とともに ご飯に納豆と溶き卵をかけ、それを二杯食べる…という行動をとった。
結局それは長く続かず、体型も変わらなかった。
当時何より悲しかったのが、内科のかかりつけ医が私の体型、体重を見かねて
「親御さんはきちんとご飯を食べさせてくれていますか?」と訊いてきたこと、
時々周りの人たちが母に向かって「○○ちゃん(私)にもっとちゃんとご飯食べさせてやらんといかんよ」と言ってきたことだった。
冗談混じりで「○○が痩せているから私が文句言われる〜」と度々母から言われたことがあったが、正直本当に申し訳なく思った。
母はちゃんとガッツリとご飯を作ってくれるし、私の体のことも理解してくれているのに。
これは私の問題なのに、私が未成年ということもあってどうしても親に矛先がいってしまう。
今はもう、私もいい大人なので「自己責任」としてみなされるため、ある意味気楽なもんである。
*
大人になっても、社会人になっても痩せ型なのは変わらないどころか余計に酷くなっていた。
冒頭で述べた通り今の私は体重が37キロ台しかない。最後に40キロを超えてたのはいつだっただろうか?
家族からは「そんなに体重が落ちるのはいくらなんでもおかしい、病院に行きなさい」と心配されてしまっているので、近々健康診断も控えているし…一度病院にかかり、相談してみようかと思う。
前の健康診断では体重を見た医師から「元々そういう体型ですか?」と問われ、「そうですね」と答えると、「それなら問題ないでしょう。我々は太り過ぎによる生活習慣病を問題視してますから」と言われ、それで終了である。
たしかに生活習慣病のリスクはそんなにないかもしれないが、低体重による他の病気のリスクはあるのに。
現に今、あまり体調が万全ではなく、冒頭でも触れたように息が上がり、変な動悸があり、仕事終わりには疲れ切って何もできないほど体力が落ちている。
*
私は何故いきなり4000字以上に及ぶこんな長文を書いたのか。
はっきりとした動機はないし、誰かに何かを強く伝えたいわけでもない。
ただのぼやきというか、私の個人的な振り返りに過ぎないところはある。自分語り的な側面が強い。
しかし、太っている人には
「太ってますね」「デブ」と面と向かって言ってはいけないという世間一般の道徳観念があるにもかかわらず、
痩せている人に対してはその観念が欠如している人があまりにも多いことへの疑問・不満、
好きでこの体型になったわけではないのに「過度なダイエットはよくないよ」「多少肉あったほうが男ウケいいよ」というクソバイスを浴びせられたことに対しての憤り、
そして…世の中には「痩せ型」であることに悩み、体重を増やしたいと本気で思い、あれこれ考え行動している人がいるということ、その証言。
このような感情で書き連ねたといったところかと思う。
世の中にはダイエットの情報や商品、摂食障害にまつわるあらゆる研究、考察が流布されているが、
もちろんTwitterで検索したら私と同じように体重を増やしたいと悩んでいる人は何名も見受けられたが、あくまで当事者だけだ。
正直なところ、「大した問題じゃない」とみなされていることを嫌でも実感させられる。
私は昔に比べて自分の体型が嫌だと思うことはなくなり、周りから色々と言われても「自分は自分」と、割り切ることができるようになった。
自分のことを認めてあげられるようになった。
上記で書き連ねた言葉以外にも、実はもっと心を抉られるような発言をされたことがあるが、敢えてここには書かないしそれで自分自身が揺らぐことはない。
ただ、その人のことを一生赦さないというだけだ。
しかし、やはり体重が体温並みになってくるとさすがに日常生活に支障がでてくる。
現在、平日フルタイムで仕事をしているが、こんな状態でちゃんとやっていけるのか?と不安な気持ちは拭えない。
1.ができていないなら増田はコミュ力が無いのではなく、自分が他人に拒絶されることを恐れているだけ。実際話してみたらなんとかなる。
2.ができないなら増田は拒絶を終わりだと考えている。拒絶は次の幸せへのスタート。ちゃんと向き合うように。
3.ができていないなら試しにメモを取るといい。もしかしたら増田にどうすべきだったか書いてみて、反応をみてもいいかもしれない(増田にはクソしかいないけど、それでも話す方がいい)
4.実戦あるのみ!テキトーに実戦したいなら同性ならオフ会、異性ならマッチングアプリがオススメ。練習試合はなるべく自分と関係が遠い人でやると良い。
その子供がまた「人生、ひとりで何の目的もない状態だとキツすぎる!なんとか気合いで相手見つけて子供作って、子育てに没頭することで苦しみから目を逸らすぞ〜」つって子供作るんだろ?
それが負のスパイラルじゃなかったらなにが負のスパイラルなんだよ
結婚・子育てこそが人生の意味、それをやらねえ人生なんて完全に無意味!!なんて主張をするつもりはない
しかし、おそらく、凡人が結婚も子育てもしないとなると、かなーり虚無感ある感じになりますぜ
漫画読んでゲームやって映画ドラマ見て、程度が関の山なんすよ 凡人には
絵描いたり物語を想像したり、そういうことはフツーできねえの 消費するしか能がねえの
そんで、その消費によってムチャクチャ楽しくなれるか否かも才能次第なの
虎杖くんに宿儺が宿って…って一連の流れは、妊娠になぞらえることができる!!!とか言って考察を繰り広げ、楽しむことができるのはひとつの才能なわけですよ
俺みたいなのは、創造性も感受性もなく、そのくせいっちょまえにつらさだけは感じられるので、勤労人生がヒジョーにキツいのだ
何してもそんなに楽しくないし、常にだるくて、何もしたくないが、何もしないわけにも行かず、毎週とっても憂鬱な気持ちで月曜を迎えるわけですよ
せいぜい「ホッとする」くらいのもんですよ
人生において、プラスの瞬間が全然ねえの マイナスがゼロになるって意味での浮上しかないの 水面より上にいかないんですよ
多分恋愛とか子育てとかがうまくハマるとホルモン的なものがドバドバ出て、それなりに人生を楽しめるようになるのかも
こういう、自転車操業的な生命サイクルを繋いでいこう的なことを考えてるんでしょう
でも、そうならなかったらどうなるんだって話だよな
本人も楽しくないし、周りも不快な思いするだけ
ただ悲しいだけですよ
我が子がそうなったらどうする、ってのをキチンと考えて子供作ってんのか?みなさんは
子供は最後までたっぷり己と向き合って、自殺してえとか思いながら死んでいくことになるわけですよ
どう責任取るんだよ
取れないだろ
取れないなら産むなや
人生のキツさ、知らんのか?
知らんのならまだわかるが、自分の子供に「社会は甘くない」みたいなことを言い聞かせる謎の親、相当数いるんだよな
なんで偉そうに人生のキツさを我が子に説いたりできるのか?これがわからない
レイプしながら「無理矢理犯されるのはすごく痛いし、キツいんだぞ!」って真顔で説教するようなもんだろ
じゃあそんなことやるな
産むなや
なぜ産む?
猿か?
こんなことを言う人いるよね。
そりゃあ低学歴でも成功してる人はいるし、高学歴でも落ちぶれちゃう人はいるよ。
でもそれって例外というか少数派なケースであって、傾向としては学歴と能力が比例するのは疑いようがなくない?
年収で見ると、大卒と高卒で差があるのはもちろん、大学間でも偏差値が高いほど年収も高い傾向にある。
https://investors.camp/is-education-important/#i-2
学歴トークに限らないけど、物事を全体的・総体的に捉えられない人っているよね。
「Aグループには〇〇な特徴があります」ってデータに対して、「Aグループにも〇〇じゃない人もいますよ」「Bグループにも〇〇な人はいるぞ」みたいな、
自分語りか知らんけど外れ値をすぐに持ち出す人。
まずは素直に、データが示す全体の特徴を認めてくれよ。
その上で、例外を持ち出して反論したいなら、例外の発生要因考察まで込みで発言してほしい(例えば、低学歴でもコミュ力・人脈を活かして成功したとか)。