はてなキーワード: 指定校推薦とは
指定校推薦使う人って小さい頃にDSのポケモンでチート使って心の底から楽しめてたタイプの人種?
https://twitter.com/anokoronomirai/status/1492714346535092225
イフオ@anokoronomirai
先日、このツイートを読む機会があった。せっかく学生課の職員という仕事をしているので、ちょっと解説してみようと思う。
結論はタイトルのとおりだ。大学にとって、指定校推薦は優れた制度である。一般入試で入ってくる学生よりも、指定校推薦で入ってくる方が優れている。
指定校推薦というのは、大学と高校と生徒にとって三方好しである。高校生が指定校推薦による利を得たい場合は、在学中にたくさん勉強して、学校行事に多く参加し、部活動や社会教育活動やボランティアに精を出さねばならない。
大学としては、新入生としてはできれば安牌が欲しいと考えているし、高校側も特に推薦したい生徒がいる場合がほとんどである。重ねて申しあげるが、一般的な高校生が指定校推薦を活用するためには、その学校にとっての模範的な生徒である必要がある。
私が勤めている大学は、世間的には上流とされている。私立大学の総合力を図るランキングがあったとすると、国内上位3校に必ず入る。
これまで十数年に渡り、百人以上の高校生・大学生の面談面接又は評価活動を行ってきた。その経験に照らして、一般入試と比べた場合の指定校推薦の優位性を説明する。
※公募推薦やスポーツ推薦や帰国子女入試はそれに準ずる扱いとしている。いずれも一般入試の学生よりも優れていると幣学では結論している。
これが最大のメリットだ。幣学から「〇人の推薦枠があるので出願をお願いします」という通知を受け取った各高等学校が、それぞれ選りすぐりの生徒を受験させる。受験者は概ね、以下の性質を一つ以上は有している。
・評定平均が概ね4.5以上
(推薦要綱に4.5以上とあっても、双方の合意で4.4以下の子が受けることは可能)
・特殊な才能に恵まれ、若くして成果を挙げている(スポーツ、文化芸術、学会、芸能界その他での活躍)
幣学は毎年、上記の性質の3つ以上を有した学生を手に入れることができている。ほぼ必ず、将来大器と思われる人材を得ることができている。募集要綱での評定平均が足りていない子はけっこういるが、それらは裁量でどうにかなる。
いい子に入学してもらい、学生生活では多くの人と交わることで自分を磨いてもらい、卒業後は社会で活躍できる人材に育つことが学校としての至上目的だ。
具体例をひとつ挙げる。
4年ほど前のことだ。府中の辺りにあった私の日常通いのマクドナルドで、ある女子高生が働いていた。私と彼女は、レジでたまに世間話をする関係だった。その子が新人だった時の話をする。
夕方だったろうか、外国人サラリーマン2人組(大柄な白人と中肉中背のアジア系だったと思う)がその子のレジに並んだ。私はそのひとつ後ろに並んでいた。
そのうち1人が、店員に対して英語で話し始めた。併せてジェスチャーを行い、干飯ハンバーガーを注文しようとしていた。
さて、彼が欲しかったものは、「チキンフィレオのセット×1+チキンフィレオの単品」だった。その子も身振り手振りで話を聞き終え、「千何百円になります~」と言ったところ、「No」と白人リーマンは言うのだった。「チキンフィレオのセット×2」としてしまったのだろう。
その高校生は、もう一度メニューを見ながら、手指や視線を動かして、彼の顔も見て――今度は正解を当てることができた。白人リーマンは、「glad」と言って隣のアジア風の男性に注文を譲った。
その子は、アジア風の男性からも英語で注文を聞き取っていたが、今度はミスなく注文に応えることができた。身振り手振りだけの、上手なコミュニケーションだった。サイドメニューのサラダ単品と、ナゲット×2とジンジャーエールだった気がする。
この間、彼女は一切英語を話していない。労働経験も少ないだろうに、外国人に即応したのだ。言葉を交わすことなく注文に応えてしまった。緊張した様子もなく、終始ニコニコだった。
才覚を感じた。私が学生の頃は、あの子のような接客は絶対にできない。せいぜい、しどろもどろになって社員を呼んでいたことだろう。彼女については後述する。
指定校推薦の話に戻る。
幣学では、彼女のようなレベルに達している人間がぜひ欲しいと思っている。幣学だけではない。ほかの大学だって喉から手が出るほど欲しいだろう。残念ながら、その子が通っている高校には幣学の指定校推薦枠がなかった。が、その他の推薦入試であれば可能性がある。私が入試事務局で彼女の願書を審査するメンバーだったら、一次選考は確実に通しただろう。
ここまでお読みいただいた増田民への情報提供を兼ねて、推薦入試の際に最も重視される評価基準を説明する。
『自助努力』
以上だ。
評定平均が4.0以上など、指定校推薦では成績優秀な学生を求めている印象があるが、この際だから正直に言ってしまう。合格順位の点数付けの過程で、評定平均はほぼ見られない。あれは受験者を少なくするために振るいにかけているだけであって、本当に見られるのは上記3要素だ。
例えば、推薦入試の募集要綱には、「全体の評定平均が4.0以上であること」などと書いてあるだろう。実務上の対応としては、それ未満の評定平均でも出願すること自体はできる。むしろ出願して欲しいほどの人財がいる場合は、当高校に対して個別に依頼と訪問を行い、その生徒を推薦してもらう。これは幣学でもそうだし、他の名門大学でも変わりはない。それくらい、上記3要素を有した高校生はこの世界に少ない。喉から手が出るほどほしい。
なお、自己推薦制度を採用する大学の場合は、評定平均が足りないと学校長からの推薦書がもらえないので注意しよう。すなわち出願ができない。学校を通した推薦入試の場合は、評定平均が少し足りないくらいであれば双方が話をする。やり取りの例はこんなところだ。
パターンⒶ
高「評定平均は3.8である。貴学の示す4.0には少し足りないが、在学中に難関試験である〇〇に合格している。性格は朗らかであり、リーダーシップもある。貴学の学風に相応しい生徒かと思われる。出願は可能か」
パターンⒷ
高「評定平均は3.0未満である。この子は1年生からインターハイに出場している。推薦入試の受付開始時点でインターハイに上位入賞しているなどの場合は、出願することは可能か」
大「協議して回答するので、出せる範囲で資料をいただきたい。出願できる可能性はある」
どんな大学にも救いようのない学生はいるものだ。箇条書きにしてみよう。
‐①
講義中に先生に当てられても、何も答えない。ずっとだんまりだ。人として生きる力に欠けているというか。私が幣学で学んでいた頃もいたし、ずっと前から一定数いるのだろう。わかっていようといまいと、とにかく答えない。黙っている。こういう人間は大学生になってはいけない。行動が大人のレベルに達していない。社会の進歩と同時に、こういった人罪が増えるのは致し方ない面がある。大昔であれば、こういった人間は厳しい修行の中で開眼するか、できなければ間引きされていたに違いない。
‐②
学生に一般貸出している施設の鍵を個人がずっと持っていて、サークルや部活動の団体が使用できなかったにもかかわらず、詫びの一言もなく鍵を返却して済まそうとした女子学生。口頭での注意及び一定期間の施設使用禁止を命じた。後日、ほかの利用者が鍵を開けて使用するタイミングでこっそり利用していたことが判明し、正式な処分を行うこととなった。
‐③
ある警備員が、大学が閉まる時間になっても遊んでいる学生を出て行かせようとしたところ、逆切れして「警備員ごときが偉そうに!」と文句を言った男子学生(譴責処分とした)。彼のような場合、親が地元有力者や代議士経験者といった名士であることが多い。肉親や親類縁者が多くの人から崇められているため、それが自分の力であると勘違いしているのだ。大学としても、譴責以上の処分を与えるのは難しい案件であるため、厳しい対処はできない。
・明確な不法行為をする者
‐①
学外私生活でトラブルを起こし、警察沙汰になる者。アルバイト先など関係者からのクレームの電話が年に10件以上はある。あの学生に家族を侮辱された、彼は替玉入試だから調査しろ、あいつはコンビニで万引きをしていたなど。明らかな証拠がある場合に限って調査をする。証拠がなければ何もしない。当人を呼び出すこともしない。杞憂なく学生生活を過ごしてほしい思いがある。
‐②
不埒な行為を目的とするサークル活動。ゴシップ雑誌やニュースサイトで、泥酔した学生十数人が路面で倒れて~といった報道が稀になされる。本当ならば、路面に倒れるよりも前に個室に連れて行きたかったのだろう。誠に遺憾だが、そういった行為を目的とするサークルはある。ネット検索でもヒットする。近年だとミスコン運営委員会の事件が記憶に新しい。
現代社会では到底許される余地のない連中だが、昭和の時代から存在している伝統的なサークルが多い。既得権というか、潰すに潰せない事情がある。
ここでいったん、関連するトピックに逸れる。
京都教育大学集団準強姦容疑事件に関しての京都地裁判決に対する緊急声明
https://wan.or.jp/article/show/2038
覚えている人もおられるだろう。
2009年2月、京都教育大学の体育会で追い出しコンパがあった。その居酒屋の空き個室で、当時19才の泥酔した女子学生に対し、6人+見張り3人が代わる代わる性行為を行ったという。数か月後、女子学生の親が大学の対応を信用できなくなり、刑事告訴に踏み切った。
この事件当時、文部科学省から事件関係の通知(指導)文が何件も送られていたのを思い出す。掻い摘んで述べると、「大学の活動の一環として行われる行事は大学側にも責任が生じるおそれがあるため、このような事案が決して起こらないよう、学内団体の監視及び指導、事前対策を徹底すべし」といった文面だった。
幣学でも、遠く離れた京都であったこの事件を対岸の火事と見ず、リスクマネジメントの観点から積極的な議論を行い、事前事後の対応策を決めた。
当時、若手職員だった私には疑問だった。なぜ偏差値的に優れている、勉強を頑張ることができる人間がこんな事件を起こすのか? と考えていた。今ではわかる。偏差値と人格は何の関係もないのだ。こんな当たり前のことを理解するまでに相当の年月をかけてしまった。恥ずかしい限りだ。
それから十数年。幣学でも、そういった事案が年に数件は上がる。どれもこれも、いい大人がこの程度のことがなぜわからないのかというほどレベルの低い案件だ。その度に、慎重に慎重に慎重に、最大限の注意をもって被害学生の心に寄り添い、謝意とフォローを示さねばならない。
こういった事案の多くは、一般入試で入ってきた人間が起こしている。ほぼ同率2位がスポーツ推薦だ。公募推薦や指定校推薦や帰国子女入試の学生は、こういったレベルの低い問題事案を起こす確率は少ない。明らかにそういう傾向がある。
‐③
幣学には、はるか以前から、警護が付くレベルの皇族の子女が何人も通っている。数年前、とある男子学生が、講義棟から出てきたばかりの女子学生にいきなり近づき、「一緒に写真を撮ってもいいですか」と尋ねたという。女子学生の反応は想像に難くない。警戒心で強張っていたと推察する。
男子学生は、その子の肩を抱くようにして一緒に携帯で写真を取ろうとした。すぐに警護の人が物理的にシャットアウトしたのだが、その様子を男子学生の仲間が遠巻きに笑って眺めていたという。学生課に抗議にきたのは、その女子学生ではなく友人だった。女子学生は、どちらかというと穏便に済ませたいとの意見だった。こういった案件がある度に、偏差値と人格に関係がないことを思い知らされる。この顛末は【後述】する。
さて、どうして私がこのような考えに至ったのか? 統計を取ったからだ。
大学職員になって十年ほどが経った頃、問題を起こす学生の傾向について、上の人間から指示を受けてデータ化を進めていた時、ある傾向に気が付いた。
過去に問題行為のあった学生約200人を無作為抽出し、データベース化した。そして、その入試制度別の発生割合を調べたところ、
指定校推薦<その他入試制度(帰国子女含)<一般入試<スポーツ(一芸)推薦(※1)
という関係が成り立った。
この時、私は――社会で実績を挙げる人間には反対の傾向が当てはまるのではないかと考えた。実際、正しかった。学生の卒業後追跡調査の結果を独自分析し、卒業後の進路ごとに1点~5点(※2)を付けて入試制度別に平均点を並べたところ、
指定校推薦>その他入試制度(帰国子女含)>スポーツ(一芸)推薦>一般入試
と、おおよそ対称的な結果を得た。これにより、私の考えが確信に変わった。
知能テストで図ることができる要素よりも――それ以外での、高校在学中の部活動その他の社会的交流や、自らを高めるための活動にどれだけ勤しんだかに重点を置いて入試制度を運営する方がよりよい結果を得ることができるということだ。
※1…一芸とは、AO入試やスポーツ以外の特殊技能により入学した者を示す
※2…国際公共機関やそれに準ずるNPOや世界的企業を5点、一般企業や一般公務員は3点、フリーターや無業者や所在不明者は1点とした。4点と2点はその間を基準として点数を付けた。
ここからは【後述】の内容になる。女子学生に写真撮影を求めた学生は、一般入試だった。それまでに何度も事件を起こし、3回の学内処分を受けていた。
ゼミの担当教授にも参考意見を伺ったところ、やはり人格的素養を欠く言動を繰り返しているようだった。犯罪に達している行為もあった。
事務局側の責任者に彼の処分内容を協議したところ、「遺憾だが、処分内容は考える必要がある。考えたうえであれば~~そちら側に委任する」という答えがあった。これは、その人なりのサインだ。自らの手を汚すことをしたくないから、処罰される人間に明白な忌避行為がない限りは、こうした答え方をする。意図を汲み取る必要があった。
数日後、彼との面談で、私達は「自主退学」を求めた。はっきりと「あなたは本学にふさわしくない」旨を告げたうえで、自ら退学願いを出すのであれば、こちらから退学処分を行うことはないと宣言した。これは半分以上がブラフだ。実際、この程度で退学処分を行うことは難しい。ただ、学校としては、品位を落とす学生には退学してもらいたい。それだけだ。
そのうえで、あの時、彼の周りで笑っていた連中にも釘を刺している。個別に呼び出しをした。「学生だからといって、社会で許されないことをしたら、彼のようにキッチリ落とし前をつけさせるぞ」と。はっきり宣言した。
苦しいが、仕方がないのだ。危険の芽は摘み取っておく必要がある。こうした学生を放っておくことで、上の京都教育大学のような重大事案に繋がってしまう。問題事案が起こる可能性は、費用をかけたとしてもゼロに近づける。リスクマネジメントの基本だ。これは、どんな学校でも同じことだと思う。
私は本学を愛している。高校生の時もそうだったし、大学生の時もそうだったし、大学職員になった今でもそうだ。事案が生じることで、本学を世間の目に晒したくない。
お目汚しを失礼した。
基本はロム専だが、どうしても一度、増田に投稿してみたかった。
そんな時、冒頭のツイートが流れてきた次第だ。暇な時間を費やすだけの価値があったなら幸いだ。
イフオ@anokoronomirai様、この度は拙作を投稿する機会をお与えくださりありがとうございます。重ねて感謝申しあげます。
大学で勉強や研究をするためなら、高校の教科書をしっかり完璧に理解できていれば、十分だと思う。
指定校推薦やAO入試で一流大学に入った人の、大学時代の成績が良いのも、彼らが高校の教科書レベルをしっかり身に付けているからだろう。
しかし、高校の教科書レベルを完璧に理解したとしても、かつてのセンター試験では90%以上の得点は取れるが、
センター9割の学力では、旧帝大や早慶の入試問題はまったく歯が立たないのだ。
東大や京大など日本トップレベルの大学は入試問題自体がとても難しい。
だからトップレベルの大学に一般入試で入るには、教科書レベルのことは早めに終えて、
中高一貫校では高2にまでに教科書を終えて、高3は演習をするのが普通。
成績上位者の受験勉強とは、教科書を理解するための勉強ではなく、難しい入試問題を解くための訓練なのだ。
そういう訓練を最低でも1年間はしないといけない。
しかし、上でも述べたように、そういう訓練をしてない推薦組のほうが大学での成績が良かったりする。
一流大学に入るための受験勉強は、大学入試以外では役に立っていないのが現実。
東大行ってる友達でも、バイトも勉強もせずに女子大とのテニスサークルで東大ブランドで女侍らせてるどうしようもないやつもいた。一方、正直偏差値低くてどこ?みたいな大学でも、特待生になって奨学金で海外に行って、英語ペラペラになって国際的な活動して、アクティブな友達もいた。
わたしはまだ素直だったので、このときは人間は学歴じゃないって思った。大学じゃなくて、生き方で決まると。
でも実際就活になったら、大学時代の過ごし方なんて関係ない。学歴が高いやつからいい企業に決まる(何を持っていい企業かと論じ始めるとめんどいので、普通に給料がいい知名度のある入りづらい企業です)。
〜蛇足〜
指定校推薦は逃げで、早慶国公立の指定校を立った人は、直接は言われないけど逃げたやつって空気があった。
そういうところで過ごしてると学歴至上主義になるけど、それは間違ってるようでただしい。
いい企業に入ることが幸せではないことは間違いないが、いい企業に入れば名前だけですごいと言われ、守られ、人よりいい生活が送れる(一部のハラスメント事例は除く)
小学生。近所に住んでいた友達と些細なことでもめ、いじめられた。幼稚園までは親の転勤で新しい環境に飛び込んでもすぐに友達を作れるくらい明るかったが、いじめられたことで私の強みは潰された。自分が何を言っても誰にも聞いてもらえないが、言動で私を傷つけようとしてくる人があまりにも多く、少しでも人に話を聞いてもらいたくて異様なほどの早口で話したり傷つかないために自分に対する悪口を軽く受け流したりする癖はこの頃ついたと思う。
中学生。音楽部に入った。ピアノ等未経験の音楽初心者で入ったなりに努力して1年生の頃の顧問の先生にはたくさん褒められていたが、2年になってその先生が退職し、新しい顧問には嫌われ、3年生になっても自分だけ役職につけてもらえないなどの仕打ちを受けた。
家に帰ると勉強はあまりせず、全然楽しくない部活の憂さ晴らしとしてアニメばかり見て絵を描いていた。
そのせいで親にはよく怒られており、小学生の頃いじめてきた子を引き合いに出して〇〇さんよりいい高校に行きなさい、悔しくないのなどと言われ続けていた。
高校受験では3年夏には国際系の行きたい高校を見つけたものの、内申書と数学と理科が最後まで振るわなかった。本命1校の公立高校に落ちたら私立に行かなければならない県に住んでおり、私立に行かせる金はないと毎日気が狂いそうなほど言われた。やる気のない生徒が集まる塾に通っていて、講師もいかにも大学生バイトという感じであまり教えてくれないし、親に塾を変えたいと言ったものの、お金がかかると言われて叶わなかった。
最終的に家から近い、自分の偏差値で行けそうな公立高校を受験し、合格した。通っていた塾にも私と同じ高校を受験した人が何人かいたが、私以外は落ちたようだった。私より高い偏差値の高校に行った生徒はいなかったらしい。
高校生。トラウマと化した中学とは180°違う運動部に入った。先輩の中にも初心者で始めた人がいて、とても優しく教えてくれた。友達もでき楽しくて良い環境ではあったが、初心者だったこともあり周りと比べて体力もなく競技は全く上達しなかった。そのうち教えてくれる先輩とか友達にも引け目みたいなものを感じ始めた。先輩や友達は強かったため地区大会や県大会の応援に行くたびに交通費がめちゃくちゃかかり、お小遣いでは足りなくなった。親からは毎月のように応援に行くたびにそんなことをして何の意味があるのと言われた。もうお金は借りられないと思った。
親に黙ってアルバイトを始めた。部活と勉強との両立はとてもキツかったが、将来のために少しでも働いて、お金を稼いでいると思うと何か安心感のようなものがあった。この頃にお金を稼ぐことの楽しさを覚えた。
特に頭がいい高校ではなかったからか高校時代の友達は美醜の話で盛り上がる人が多く、昼休みのたびに誰が可愛いとか誰がブスとかそういった話ばかりしていた。ブスで恋人もいなかった私はそういった話を聞くのも嫌だったが別の話題に持っていく力もなく、適当に相槌を打つことしかできなかった。
高2の3学期に大学受験に対して危機感を持つようになった。前述の部活とバイトの掛け持ちで学校の勉強は疎かにしており、特に2年生の頃は学校をサボりがちで午後から高校に行ったり部活だけ参加したりしていた。そのため、親が最も期待していた指定校推薦は望めそうになかった。
高3になる直前くらいに部活もバイトもやめ、親に頼み込んで塾に入れてもらった。部活もバイトも辞めるのはすごく気が引けた。親のせいと周りには話したものの、全部自分で決めたことだった。子供の頃から学歴コンプや貧困などの話を読み漁っており、親から絶対に私立には行かせられないと言われたことも相まって絶対にお金のない大人にはなるまいという思いが強かった。
大学受験では入りたかった塾に入れたが、中学時代から得意だった国語以外あまり成績は伸びなかった。英検をとれば有利になる大学が多数あることを知り、受けた。検定には合格したものの一番行きたい大学の英検利用はスコアが足りず諦めざるを得なかった。
受験の前、大学に全落ちしたらどうするかの相談を親に持ちかけたところ、お前は女なんだし、落ちたら浪人しないで働け、結婚して早くいい旦那さん見つけろと言われた。自尊心がズタズタになっていた私はつらくなって泣いた。
その頃は12月だったためなんかもう全てのやる気を失ってしまったが、英検と得意だった科目を活かしなんとか2月、一般受験で世間的に有名な大学に合格することができた。
親も喜んでくれた。塾の先生も高校の先生も喜んでくれた。見返せた気がして嬉しかった。
大学が決まると以前働いていたバイト先に戻り、たくさんシフトを入れて働いた。その頃の店長や先輩がいい人だったこと、先輩に同じ大学同じ学部の人がいたことも私のバイト先への帰属意識を強めた。他のバイトを探すなど考えられなくなっていた。
4月になり大学に入学した。東京の大学だったためダサいのは恥ずかしく、今まで友達が本当に少なく親からあんた親友いないよね、と毎日馬鹿にされていたので東京でも生きれる普通の女の子になってみたいという気持ちがあり、大学デビューしたいとの思いから服や化粧に金を注ぎ込んでバイト代は一瞬で飛んだ。家では夜10時までに帰ってこいと門限が決められ、お金もなかったためサークルや部活の新歓期間は逃したまま結局入らなかった。
大学で最も楽しかったことは(私の周りだけかもしれないが)人を容姿で揶揄する子がいなかったことだ。周りはみんな頭のいい高校を卒業した子ばかりで、発言に強要が含まれていて聞いてるだけで面白かったし、オタクでも1人でいても陰口たたかれないし後ろ指を指されることもないしすごく快適だった。プライベートでは相変わらずバイトばかりしていた。
秋になり、バイト先では私がお世話になった店長が別の店に飛ばされた。そのころからバイト先の環境は少しずつ悪くなっていった。めちゃくちゃ気が強い先輩が何人も入ってきた。今思うとここで辞めておけばよかったのだが、当時のバカな私はそれをしなかった。
2年生になった。コロナが流行り、授業は全部オンラインになった。生活リズムはグチャグチャ、なんのために生きているのかよくわからなくなったが、2年から入ったゼミの授業が週2であり、カメラオンのzoomで同期や先輩と話ができたことだけが精神安定剤となった。この頃には授業とバイトの両立が不可能と親に訴えたことで門限はなくなり、2年生からやっとサークルに入り直せると思ったがコロナのせいでできなくなった。
というのも親はとてもコロナを気にしており1年くらいバイト以外の外出ができなくなった。友達と遊ぶというとものすごく苦言を呈され、一緒に住んでいる人のことも考えてと言われた。落ち着いた頃友達とチケットを取ったディズニーランドもバレて延期せざるを得なくなったし、成人式もそのあとの友達との軽い夕食の話も断らざるを得ず、そのあとだんだんと誘われなくなっていった。
唯一の息抜きはゼミの教授がきっかけで始めた昆虫観察だけだった。自然がたくさんある郊外に住んでいるため、邪魔されずに散歩だけはできた。自然の中を歩いて、虫を観察している時だけは面倒な親のことも溜まっている課題のことも忘れられ、癒された。そうして私のつまらない大学2年は終わった。
3年生になり対面授業が再開し始め、相変わらず親は文句を言っていたものの少しずつ大学に行くことができるようになった。
5月ごろに就活を意識しいくつかの長期インターンに応募したが全て落とされた。夏休み、やっと参加できた地元のボランティアの活動期間はまたしてもコロナが猛威を振るい、親にはまた文句を並べられた。東京に行くなんてもってのほかで、ずっと地元から出られなかった。ボランティアもコロナのせいであまり活動できなかった。
8月に親の職域でワクチンを打つことができ、9月からは感染状況の落ち着きもあって割と自由に出歩けるようになった。1年も延期していたディズニーランド、ゼミの同期との飲み、泊まり、1年生から憧れていた「大学生らしいこと」をやっとできた。
さらに転機が訪れる。大学でやっていた勉強会に参加し、そこで今まで会ったことないくらい頭がよく、私に色々な世界を教えてくれる人たちに出会った。そこで初めて勉強の楽しさを知った。なんでこんなに楽しいのに今まで気づかなかったんだろうと思った。高校受験で諦めさせられて以降嫌になっていた外国語も、友達と一緒に高校の時履修したけど知識は身についていなかった政治経済も学び直し始めた。遠くへ行って、知らない世界をたくさん見たいと思った。生まれ直した気分だった。
しかし、11月ごろから周りは一気に就活ムードに入りそれどころではなくなる。夏からインターンには応募していたが、1年次から興味のあることが一切できておらず、環境は最悪だったが6年続ければ何か足しになるだろうとしがみついていたバイト先でも、社員や先輩に嫌われ責任者にはなれなかったため、俗に言うガクチカも自己PRもなく、落ち続けた。周りには何人か休学して長期インターンやボランティアなどをする人も出始めた。私も一度きりの新卒就活、後悔しないように休学か就留か就浪して長期インターンをし自分のしたいことを見つけたい、ちゃんと何かに打ち込みたいと相談したところ親にこっぴどく怒られた。家を出てってくれと言われた。インターンも何も参加できず、就職先が決まらないかもしれないと言うと、女なんだからバリバリ働けないでしょ。就活なんか適当に地元ですればいい、それより男に好かれる、愛されて結婚するための努力をしろと言われた。あまりに呆れてしまい、返す言葉がなかった。私の人生ってなんなんだろう。
実は大学に入り、見よう見まねで都会の女子大学生としておしゃれをしてみて何か嫌悪感のようなものを感じるようになった。女として扱われるのが嫌だ。バイト先で自己肯定感の低い私をたくさん褒めてくれる先輩が入ってきて仲良くなったが、軽く肩を叩かれる程度でも体を触られたり、下ネタの話をされると途端に気持ち悪くなり、おまけにとんでもないクズだったので、関わるのをやめた。親とか同性の友達とかにも体を触られるのが嫌で喧嘩になったこともある。飲み会で酒が進み、恋バナや性行為みたいな話になっても嫌悪感があった。そのせいか恋人は今まで一度もできたことがないしまだ処女だ。
それなのになぜ女として振る舞い、男に好いてもらうために努力しないといけないのだろう。憤りしか感じなかった。自分のためだけに生きたい。
この間中学時代の友達と話す機会があったが、彼氏と同棲するなら〜とか、結婚を考えると全国転勤ありは嫌だよね〜とかの話をされ、私はやっぱりそういう考え方はできないなと思ってしまった。
年が明け、またコロナの感染者が増え始めた。親は毎日毎日感染者数をLINEで送りつけてきて、外出しているとどこにいるの早く帰ってきなさいと頻繁に連絡してくる。もう外食もできない。
こないだ休日のランチタイムにバイトしていたら普段は担当しないホールに回された。満席になった店で楽しそうに食事をする家族連れを見ているとなんだか辛くなってきた。コロナがなければ、もっと自由に生きられたのだろうか。誰も何も悪くないけど、涙を堪えながら接客をした。
人をまとめる力もなく、卒業見込みの大学に見合った頭もなければ普通に女として愛嬌を振りまくこともできない、これからの私はどうしたらいいのだろう。
今興味があるのはコロナ禍で始めた一眼レフでの写真撮影と昆虫と小学生の頃から好きだった自然、あとは自分が悩んだジェンダーとかお金とかの問題で、私みたいにやりたいことを諦めなければならない女子もいるだろう現状の社会には割と不満を持っているけど、別にものすごい性差別を受けたとかめちゃくちゃ貧しかったとかではないから何かの志望動機にするにしても説得力ないなと思っている。志望動機を書いていても自分ごとにできてないってキャリアセンターの職員には言われた。多分大学時代にあまり興味のあることも好きなこともしてないしどこにも行けてないからだと思う。
強みは今でも偏差値が70以上ある国語と、性格面では小学生の頃いじめられたからか自分と違う意見でも人の話をよく聞こうと意識しているのと最近いろんな友達との交流を経てやっと取り戻した明るさ、あと昆虫について詳しくなろうとする探求心だと、友達とか教授に教えてもらった。これが活かせるところがあれば知りたい。
それか生まれ直した私でもう一度勉強し直したい。もう4年生なので、そのためには社会に出てお金を貯めてからもう一回大学に入り直すか大学院に行くことかなと思う。
もう自分の人生において、お金にこだわる私はいない。今までは親の影響でコスパばかり考える気味が悪い子供だったが、たくさん遠回りをしてこそ学べることがあるのではないかと考えるようになった。
一度自立し、一人暮らしをしてからであれば親からはなにも言われないだろう。けれど1人で生きていくにあたってやっぱり職がないのは困るし、20代後半で大学を卒業してもちょっと貯金ができ、一人っ子なので自分しか頼れない両親の老後の面倒を見れるようなお金がもらえるところに就職できるかが不安だ。それかとりあえず行けるところに就職して、後々自分の興味関心があることができるところに転職するか。転職のことを考えると気が重くなる。新卒キャリアがどんなものでも、そこから転職ってできるものなんだろうか。
とりあえず早く親元を離れたい。
私の大学生活を返して欲しい。
本当に無知ですみませんが、向いてそうなものとか、どこに転職するにしても役立つスキルみたいなものがあれば教えて頂きたいです。
昨日の投稿なんだけどさ
高校選び間違えたっていうのがまさにこれの高さが仇になったんだよね。
早とちりして高校で専門科入ったけど微妙に都市部だから偏差値も低く出るし惰性で入った人ばっかりで困った。
大学で専攻すりゃいいじゃんって思うけど親の問題で大学行けるかどうか分かんなかったから折衷案を取った。
だけど転校したら奨学金と指定校推薦受けられるようになったので進学自体は出来た。
でも希望は上京したかったというのもあるので都内大学に編入してサークル作った。
今は中退してオンライン予備校で受験勉強している。再々受験になる。
浪人も当時許されてなかったので仕方ない。
「中学受験すれば?」と親に聞かれ、当時小学生の何も知らない自分はなんとなく「やる」と答えてしまいました。「お前がやると言い出したんだ。最後までやれ」と圧をかけられ、凄く嫌がりながらも中学受験をさせてもらいました。案の定結果はボロボロで、適当に受けた適当な中高一貫校に入学する事になりました。思えばここから始まりだった気がします。
部活動はソフトテニス部に入部しました。中高一貫校なので高校生の先輩もいました。そんな先輩方に体操服を引きちぎられたり、羽交い締めにされて「携帯のパスワード教えろ」と言われ勝手に中を覗かれたり、その他諸々、所謂いじめを受けて、それが無理で1年で辞めました。
辞めてからは新しく吹奏楽部に入部しました。吹奏楽部はブラック部活とは良く言う話ですが、うちの吹奏楽部も似たようなものでした。部活動は平日はもちろん休日も朝から夜まであり、中学生の朝練は当たり前、お昼を食べる時間は15分、理不尽な事で怒られたりもしました。合奏中ミスをすれば女性の先輩に胸ぐらを捕まれて女子トイレに連れ込まれ正座をさせられてペチペチされながらこっぴどく叱られました。今思えば異常ですが、(自称)メンタルの強い自分はなんだかんだ上手くやっていたと思います。高校に上がり、自分達が先輩になった時にはそんないらない伝統やルール、文化は廃止させていきました。
ソフトテニス部でイジメられた時も、吹奏楽部でボロカスに怒られた時も、涙を流す事はありませんでした。むしろ、自分にも非があったとも思いますし、先輩の機嫌も悪かった、仕方が無かったと捉えています。そんな自分が突然、涙を流した事件がありました。
高校三年生になり、大学受験を視野に入れる歳になりました。部活動は12月末まであったため、勉強と部活の両立をしていました。部活動の同期は徐々に病んでいき、気付かぬうちに自分も病んでいました。病んだ同期は、部活の練習で使用する教室の机に置いてあった赤の他人の教科書をグシャグシャに丸めて捨てたり、リスカ痕を僕らに見せつけては笑顔で「今日も切ってきたよ!」と報告したりしました。それを見た僕らも「またかよ!笑」「今回はどんな形?」と、リスカを心配する素振りもなく楽しく話していました。僕らは壊れていました。日々死にたいと思い、明日が来ない事を毎日祈り、眠れない夜が続きました。それでも怖くて死ねない自分が情けなくて仕方ありませんでした。
とある日、急に毎日微熱が続いたので親に相談しました。「気の持ちようだ」と言われましたが、どうしても勉強と部活をサボりたかった自分は病院に連れて行って貰えないか交渉しました。何故か親は頑なに断り、「甘ったれてんじゃねーよ!」と怒られました。諦めの悪い自分は、夜寝れてない事、もしかしたら心を病んでいるかもしれない事、辛くて学校に行きたくない事を打ち明けました。きっと心配してくれる、休ませてくれると願いました。
「原因それじゃん。夜は無理矢理でも寝なよ」
「学校は行くから、病院に行かせて欲しい。本当に寝れないし、熱も出てる」
「だから無理矢理でも寝ればいい」
初めて親に怒鳴りました。母の言葉を遮るように叫びました。ここから先はあまり覚えていませんが、母は変わらず何度も何度も何度も何度も何度も何度も同じ事を言い続けていました。「無理矢理寝ろ」 と。話にならないと思い自分の部屋へ逃げました。
自分の怒声を聞いた父が部屋へやってきて、「どうしたの?」と声をかけてくれました。自分は夜に眠れず、病院に連れて行って貰いたいことを打ち明けました。ですが父の返答は驚くものでした。
「○○(自分の名前)の気持ちも分かるけど、怒鳴っちゃあだめだよ。」
自分は一瞬、理解が追いつきませんでした。この人は心配にし来たのではなく、怒鳴った自分を注意しに来ていました。怒鳴ってはいけない事くらい高3にもなればわかります。母も父も、僕の味方ではありませんでした。
自分は「わかった。1人にさせて」というと、父は何か言いたげでしたが、言わせる前に「いいから出てってよ!」と叫ぶと、僕の事を心配しながら出ていきました。
父が扉を閉めると同時に、涙が溢れました。頭の中は真っ白で、何故泣いているのか理解できませんでした。自分はその状況にゲラゲラ笑いました。涙を流しながら、声高らかに笑い転げました。感情が、文字通り「死んだ」瞬間でした。その日は夜通し涙を流しながら笑っていました。泣き終えた後が怖かったんだと思います。朝になりリビングに行くと母が居ました。母は「父が心配してたよ。可哀想に」と言いました。その言葉を聞いた時にはもう何も思いませんでした。
この人達は僕の味方でいるつもりで、僕を理解しているつもりかもしれませんが、僕に金をかけているだけで、全くそんなことはありませんでした。結局、当時の僕の事を思ってくれている人はいませんでした。
その日からはどんなに面白い動画を見ても笑う事は無く、何をされても苛立つことも無く、泣く事も、楽しいと思う事もありませんでした。屍のように生き、大学受験も見事に失敗し、適当な大学に入学する事になりました。大学受験をせずに適当な専門学校へ行った姉に「そんだけ金かけてもらって大学落ちてんの?笑」と言われましたが、なんとも思いませんでした。僕をイジメていたソフトテニス部の先輩は超有名国立大学に合格しており、理不尽な事で怒っていた吹奏楽部の先輩達は指定校推薦で超有名私立大学へ入学していました。僕の高校卒業後の部活動は、秩序の無いただの動物園のような場所になっていました。自分は今まで何をしてきたのか。全てがどうでも良くなりました。惨めな人生だなぁと心の底から思いました。
今では大学での出会いや吹奏楽団での出会い、バイト先での出会い等で息を吹き返しました。人から大事にされる事がこんなに嬉しいなんて知りませんでした。父や母も、なんだかんだ大学通わせてくれてますし、なんと奨学金無しで通っています。本当に感謝です。
第三者からみれば僕の経験など大した事ではないかもしれません。ですが、もし似たような状況に置かれている人がいればこれだけは伝えたいです。戦わずに逃げる事も戦略です。僕は逃げる事が出来ず追い込まれました。死ぬくらいなら全てを投げ出して逃げてしまいましょう。
大丈夫です。
ちなみに、第二志望は国公立の大学職員×2、第三志望は私立の大学職員だった。
私は地元の名門といわれる公立高校出身だが、高校の教員の大多数に嫌われたことが運の尽きで、学内の成績上位にも関わらず指定校推薦をもらえず、Fラン大学へと転がり込んだ。そのため、学歴コンプレックスは人一倍強いし、学歴フィルターが根強く残っていることも強く意識していたため、公務員試験に専念することにした。ちなみに、独学であった。
私は部屋の一番後ろの席に座っていて、前の人から適性検査の用紙が回ってきた。そして、私の分を含めて、3枚渡されたことに気がついた。すなわち、2枚多いのである。私は、「2枚余っています」と言って手を挙げ、試験官(自治体職員)に知らせた。すると、試験官は走ってきて、「どうして2枚持っているの!!!」と、私を怒鳴りつけ、二枚余った試験用紙を乱暴に抜き取った。私の席の周辺の人は、「?」という顔で私を見るし、私も「すみません・・・」と言うしかなかった。いかにも私が何か悪いことをしたかのような口調で言われてしまって、ただただ萎縮した。
ちなみに、他の学生のところでも紙が余ったことがあったが、怒鳴りつけられている様子はなかった。なぜ、私だけ・・・と思った。
「集団で行動した経験はありますか。エピソードを教えてください。」と言われた。
「はい。小中高、大学と色々と経験があるのですが、とりわけ印象的だったのは、中学での・・・・・・という経験です。」
「大学では無いのですか。」
「・・・無いです。でも、ゼミで数人で活動した経験ならお話しできます。」
「結構です。」
そう言って、試験官は私の面接評価シートに、私から見ても分かるくらいめちゃくちゃ大きく横線を引いた(評価「/」ということなのだろう)。
バッサリ切られてしまった。実は、私は、高校時代になかなか酷いレベルの嫌がらせを受けていたために人と関わるのが怖くなってしまい、大学時代にはサークルにも入らず、友達も作れずに、ずっと孤独でいた。そのため、「大学時代の集団行動経験」という質問への対策を入念に練った(就職支援課の方にもアドバイスを受けていた)。その結果としての、「たくさんあるけど~とりわけ~論法」であった。しかし、そんな論法は通用しなかった。とにかく焦った。焦りながらも、嘘をついたらその後を取り繕うのは無理だと思い、結局「無いです」と言ってしまった。「結構です」と言われたときには、体の芯から体温が奪われていくような感じがした。
話すら聴いてくれないし、なにより、大学での集団行動経験が無いがゆえに「評価マイナス」とは、なかなかの人格否定だなあと思った。
その女性の試験官に、「○○さんは、“大学では1人を好んで、というか、少人数で固まって”、コツコツ勉強するタイプなんですね」と言われたときには、私が言ってもない言葉を付け加えて、私の発言を悪いように変換してまとめたようだった。
私はただ、なんだかなぁと思うだけだったが、このことを親(公務員のきょうだいをもつため、公務員の実情を比較的よく知っている)に話したら、それは圧迫面接だし、公務員試験の面接なのに、民間の面接並に面接官が、面接官の主観で、学生が言ってもない言葉を付け加えてまで勝手に学生を悪く評価しているのか、と言った。
2回目の面接で、男性の面接官との冒頭のやりとりで怖くなった。
「このような面接は初めてですか。」
「はい。」
「先ほど1回目の面接がありましたので、これは2回目の面接になると思いますが、まだ緊張していますか。」
「あのね、緊張してるって言われるとこっちもやりにくいんだよね。」
「申し訳ございません、精一杯頑張りますので、どうかよろしくお願いします。」
就職試験の面接で、「緊張している」と言うと、相手から嫌みを言われるなんて想像もしていなかった。「緊張している」はNGワードなんだ、と不思議に思った。
そして、ガクチカ(学業)に関して、周りに指導者がいなかったこと、モチベーションを上げてくれる存在が居なかったから、自分で自分を鼓舞しながら頑張ったことを話した。
「つまり、もう一人の自分が自分を応援していたというか(失笑)、自分で自分をコーチングしていたということなんですね。」
と言われた。それはそうなんだけど、なんか二重人格者みたいな言われようだなぁ・・・とか、ここ笑うところなのか?とか色々思いながら、「仰るとおりです」と言った。
誘導尋問もなかなか多かった。
他者と接するときに気をつけていることを聞かれ、「相手の価値観を否定しない」とか、そんな感じで答えたら、
「では、○○さんがそう思うようになったきっかけというのは、あなたがそのようなことをされたことがあるからなんですか。」
と聞かれた。よく経験談とかエピソードとかを交えて答えるべきであると言われる。確かに、この場面でもエピソードを語る必要があるのだろう・・・たとえそれが"人に嫌なことをされた経験"であろうとも。
実際、先述の通り、高校では教員からも生徒からも完全なる人格否定を受けていて、普段から「キチガイ」「馬鹿」「アホ」呼ばわりされていたものだから、そのような意識(相手を否定しない)を持つようになった。結局、オブラートに包みながら、それとなく、そういうことがあったと述べた。
すると、その後の、"他者との関わり系質問"においては、「あなたがそういうことをされたから、逆にそうしないようにしようとしたということなんですよね?」と、まるで私がかつていじめに遭っていたことを見透かしていて、それを引き出そうとするかのような質問が続いた。さすがに面接官もやばいと思ったみたいで、
さらに別の男性の面接官から、「過去の辛い経験を深掘りして聞いてしまい、ごめんなさい。」と"謝られた"。"いじめられ経験を聞いている"という意識を持ったうえで、このような質問をしていたのだと悟った。確信犯だったのか。
細かく書くと長くなるので、トラウマになったポイントを簡単に挙げていく。
・ガクチカが学業で、特待生をとったという話を面接カードに書いたところ、「どれくらいの額をもらったんですか。学費の半分とか、全額とかありますよね。」と、野暮な質問をしてきた。
・マスクを外した上で本人確認をするのだが、顔写真と私の顔を"人差し指一本で指しながら"、目やら鼻やらを確認していたこと。
・面接で大学名を言ってはいけないと言われているところ、面接官は弊学に関して調べて知っているようだった(試験申込時には、大学名を入力している)。
・学業をガクチカにしたせいで、"優秀な学生であること"を鼻に掛けていると面接官に思われたようだった(女性の面接官「勉強がお得意なんですね~~」男性の面接官「特待生になることを狙ってたんでしょう?」と言われて、嫌みったらしいなと思ってしまった・・・)。
どこもESで落ちてしまい、第一志望の自治体での面接が人生初・本番面接だったからこそ、私は面接というものを甘く見ていたのだろう。自分が嫌だと思うことを聞かれたり、いわゆる「圧迫面接」が"常に"行われていたりするなんて、想像もしていなかった自分が馬鹿だった。それとも、自分が敏感すぎるのだろうか。これが「公務員試験の面接」なのかと、酷く落ち込んだ。
最初から話を聞いてくれなかったのは、論文で足きりされていたからなのだろうか。それとも、精神疾患か否かを検査する心理検査(試験官は、"あくまで参考にするだけです"と言いつつ、"嘘をつくと、皆さんに不利になります!"と脅してきた)で悪い結果が出て、不利に働いたからなのか。クレペリン検査で、少しがたつくくらいの、ほぼ直線を描いたからなのか。
身なりやマナーは、きちんと事前に学習したし、きちんと守った。これだけは、胸をはって言いたい。
このほかに、面接会場で、高校のときに私のことをいじめた首謀者グループの2人や、「キチガイ」呼ばわりしてくれた嫌なやつ1人(いずれも指定校推薦で名門大学入学)を見かけたことで、過去のトラウマがよみがえって、ますます嫌な気持ちになり、受験した「公務員試験」自体がトラウマとなった、ということも付け加えておきたい。ちなみに、いじめ首謀者グループのやつの目の前で、面接官にフルネームで名前を呼ばれたときには、四年間身を隠して生きてきた努力が水の泡になったと思い、辛くなった。どうか私の事なんて忘れていて欲しい。まぁ私のことをなめ回すように見てきたから、間違いなく覚えていたと覚えていたと思われる(他の受験生はジロジロ見てこないから)。
これから民間企業を探して就活しようかな、と思うけれど、日本で最も公平・公正に行われる、学歴フィルターもない公務員試験にすら落ちてしまうのだから、見込みなんてないだろうと思う。ESを出せば非通知のイタ電が増えて、それも嫌だから、躊躇する(実際に、選考期間だけ極端に非通知が多い)。内部進学での院進も躊躇する。どの先生も私のことを否定ばかりしてくる。
どこにいっても、私のことを少しでも肯定しようとしてくれる人は居ない。私に関して何も知らない人にも叩かれる。
そういえば、受験した自治体が、試験前に○庁イベントとして「座談会」を開いたので、それに参加した。
私は何もしていないのに、人事課のある方は、私のお礼の言葉を無視したり、私の質問を否定的に受け答えしたりした。ちなみに、私の質問はおかしなものではなかったと、大学の就職支援課の方は言っていた。後から同じ趣旨の質問をした、別の人には、丁寧にニコニコと受け答えをしていた。
この「座談会」のときから、第一志望の自治体の人から、嫌な思いをさせられていたくらいなのだから、よっぽどその自治体に縁が無いのだろう。
というか、その自治体の人になにか恨まれてるのかというくらい、トコトンヤられたな。
どうせ落ちるくらいなら、そしてトラウマになるくらいだったら、受けなきゃ良かった。
論文か適性検査(1日目)で足きりになっているのだったら、2日目の面接をする前から「落とす」と決まっているわけだから、2日目には呼ばないで欲しかった。
換気のない、カーテンの閉まった待合室に20人近く詰め込まれて、色んな人が少し長めにマスクを外したり(お茶を飲んですぐマスクをつけるのではない。マスクを外して、お茶を飲んで、お茶を鞄にしまって、一息ついて、しばらく外して休んで、ようやくマスクを着けて、という感じである。)鼻をすすったりする人がたくさんいるなかで、30分以上待たされて、コロナ感染が怖かった。
緊急事態宣言がでている中で、就活だから、と言って外出する罪悪感があった。
交通費、スーツのクリーニング代、その他もろもろの費用が、もったいなかった。
どうせなら、論文と適性検査を、筆記試験のときにまとめてやってくれた方が経済的だ。
被害者面をしたいわけじゃないが、さすがに今回の第一志望の自治体の公務員試験は、トラウマになった。この経験を通じて得たものといえば、絶望感、疲労感、過去の負の記憶の再燃による心的外傷くらいか。
小中学校はずっといじめられてた。みんなが当たり前にできることができなくて、どうして自分にできないのか理解もできなくてパニックになってよく泣いていた。勉強はできなくもないけれど得意な訳でもない。板書が極端に遅くて、授業後はいつも黒板消し係の人に急かされていた。運動は目も当てられないくらいできなくて、友達も少ないから体育の授業の「二人組をつくって〜」で余るのが常だった。中学くらいになるとそういう時に相手を探す行為自体が無意味だと悟ったのでただ時間が過ぎるのを待っていた。そして先生と組む。
学校生活がうまくいかなくても頭がバカなので不登校という発想がそもそもなく、あと学校に行かないと親にクソほどキレられるので学校がある日は半泣きになりながらも登校していた。学校が嫌いだったから勉強も好きになれず、でも勉強しないと親に怒鳴られるので勉強は大嫌いになった。
勉強はしたくなかったから高校は普通科ではない少し特殊な学科を選んで入学した。これがたまたま合っていたのか、成績はクラスでも上位に入るようになった。授業は楽しいしクラスメイトも優しくて、初めて学校でいじめられなかった。高校を卒業したら同じジャンルの専門学校にでも行こうと思っていた。が、ある時担任にこの成績なら大学も視野に入ると言われ、それを親に話したところいつのまにか第一志望が大学になっていた。高三の頃には中学のいじめのフラッシュバックでメンタルが限界を迎え、卒業式も保健室で迎えた。遅刻も多かったけれど成績は維持できていたので、地元のそこそこ良い大学へ指定校推薦で進学した。
大学生活は大変だったけれど今までで一番楽しかったかもしれない。
勉強の習慣がなかったから毎日の予習復習ができるようになるまで二年かかった。基礎もできていないから授業にもついていけない。それでも、今まで学んだことのなかった社会学、心理学、哲学、法律、外国の文化、歴史、英語以外の外国語… 高校でやった普通科目がかなり少なかったのもあるのか、俺は義務教育でやったような国語算数理科社会みたいなやつだけが学問だと思っていたからとにかく衝撃で、全てが新鮮だった。
人間関係は相変わらずカスだったが、何とかグループに入れてもらってその人たちと一緒にいくつか講義を受けたりした。大学は一人でも勉強できる環境はあるけれど、「あの先生の講義は楽」
だの「この授業が面白かった」「課題の提出期限が変わる」「今度こういうイベントがあるらしい」とかの情報があると段違いで勉強しやすくなるから友人はいた方がいい。
大学三年のある日、そのグループの人たちに合わせて一緒に取っていた言語学関係の講義で発達障害の存在を知った。
俺のことかと思った。
俺が発達障害?
気になるとそのことしか考えられない。
数日後には県内の発達障害を扱うメンタルクリニックを予約していた。初診は1ヶ月後しか受け付けていないと言われたがメンクリでは珍しいことではないらしい。素直に1ヶ月待つ。
「恐らく、自閉症スペクトラムと呼ばれる発達障害の可能性があります」
絶望した。
自分が障害者なのかあんなに知りたかったのに、いざ面と向かって発達障害だと言われるとそこには絶望しかなかった。
俺は「あなたは発達障害ではありません」と言われたかったのかもしれない。自分は普通なのだとその証明を医者から貰いたかったらしい。そのことに、発達障害だと診断されてから気付いた。
今までできないなりに努力もしたつもりだったけれど、お前の能力では努力してもどうにもならないのだと、現実を突きつけられた気分だった。
医者に進められるがままにwaisというIQテストを受けることになった。
waisの結果は最悪だった。
総合的なIQは平均以下の90、特に低い処理速度が65、作動記憶が70。
自分のできないことが数字として可視化され、心理士に読み上げられる。情けなくて悔しくて、でも誰にもこの感情をぶつけることができなかった。
それから投薬が始まって、聞いたこともない名前の薬が沢山出された。
一番飲んでいた頃は一日で
インチュニブ2mg
コンサータ18mg
ルネスタ3mg
レンドルミン0,25mg
を飲んでいた。ストラテラのせいで異様に目が覚めるから睡眠薬で無理やり寝て、それでも3-4時間で起きてしまうから毎日睡眠不足だった。卒論がうまく書けなくてそれを主治医に言ったらこうなった。
大学卒業後、よりによってアスペに不向きな接客業に就職してしまったので結局ストラテラは減らせなかった。仕事はできない上に人間関係も上手くいかなくて、薬を減らしてもっと無能になるのが怖かった。夜は眠れない。朝が来たら仕事に行く。
その状態で一年働いて、心身共に限界がきてついにこの前仕事を辞めてきた。
ストラテラもやめた。
もう嫌なんだよね、俺が何かするたびにおかしい目で見られて、俺が喋ると会話が止まるの。仕事ができないのも悔しくて、だって俺さ、接客業やりたかったんだよ。この仕事に就きたかったんだよ。バイトで接客業やってさ、楽しいなって思って就職して、でもできなかった。やりたいことだったのに、好きだったのに、できなかった。
普通じゃないってなに?
数が多いってだけでお前らが正しいの?
指摘されたこととか、怒られたことを思い出して俺の何がダメだったのか、どうすればよかったのか考えてるんだけどさ、
もう何も考えたくない
何も考えたくないよ
貯金が尽きるまでは本を読んで、ゲームをして、アニメを見る生活を楽しもうと思う。
運良く早慶の某文系学部の首席に選ばれた。これが何かに直接役立つことはないだろうけれどやはり嬉しい。
私みたいな馬鹿にも首席を取らせてくれるこの大学のこの学部に受かって本当に良かった。
思い返すと本当に、何故受かったのだろうと感じるような受かり方だった。やはり受験はロト6。(マークシートの場合)
元々高3の夏まではマーチに指定校推薦で行こうとしてた。(高校の偏差値が高くなかったので早慶の指定校推薦はなかった。)今思うと本当にやめて良かった。夏にオープンキャンパス行って通学時間長すぎると思ったのと、本当に早慶じゃなくて後悔しないか不安になったので、結局やめた。
浪人して早慶目指すつもりだったのと、学校通って宿題やるだけで疲れる人間だったから受験勉強は全然できなかった。予備校にも行ってない。受験勉強と言える勉強をし始めたのは高3の冬休み入ってからだった。学校が休みに入ったのと、一応で受けるセンター試験の結果を学校に報告するときにあまりにも点数が低いのは恥ずかしいと思ったからようやく基礎から勉強を始めた。といっても、その時ちょうど新しいソシャゲをはじめてしまったりとそれほど頑張れたわけではない。
寝不足でセンターを受けた。勉強不足と頭の悪さで国語は6割を切る始末だった。その後燃え尽きて一週間はほとんど何もやらず。その後ぼちぼち少しだけ勉強した。どうせ来年が本番だしと、始めたばかりのソシャゲのバレンタインイベを完走するなどした。
その後模試感覚でマーチを2,3回、早慶を2回だけ受けた。私は小テストにも一々気持ち悪くなるほど緊張する人間だったのだが、「どうせ落ちるし。お試しお試し。来年がんばろ〜」みたいな感覚で受けたのが功を奏し、緊張や焦りは抑えられた。しかしそれでも勉強不足。普通にマーチに落ちた。知ってたことなのであまりショックでは無かった。受からせてくれたマーチは1つだけだった。
その後1,2週間があき、早慶の受験。はじめに受けた方は赤本すら買っておらず過去問すら解いていない。「ここにいる人たちにとっては大事な日なのかな〜私はお試しお試し」と物見遊山感覚で受験。一応は真面目に取り組むも、英語でかなりの長文を書く問題が出され、めんどくさくなって放棄した。ここは落ちた。
そしてその次に受けた学部が私が何故か受かり、何故か首席をとれた学部だった。なぜだか忘れたけどここの学部の赤本は一応買っていて、一周くらいならしたような気がする。問題は平易な方だが合格点は高めの学部という感じだった。前に受けた学部とは違って、ここのは一応最後まで真面目に取り組んだ。模試気分だからこそ緊張せずに解けたが、それでもバカで勉強不足の私には難しかったから、まさか受かってるとは思わなかった。マークシートで運が炸裂したのだろうなと思う。(マークシートと記述混合)
そうして思いがけず早慶に受かって、浪人もすることなく予備校にも行かずに何故か早慶入学。模試も高校実施の以外面倒で受けなかったような人間なのに。受験って運の要素強すぎるのだなと感じた。
その後ちゃんと卒業できるのかも危ぶみながら学生生活が始まった。高校の偏差値は低いし真面目に勉強取り組めない人間だしマーチにも落ちるし、過去問等の入手もコミュ障ぼっちなので高難易度。単位取れないのでは?と思いながら授業情報雑誌とにらめっこ。
長くなったしここら辺で終わる。GPAとるために個人的にしたことなどやる気が出ればまた書くかもしれない。
とりあえず思ったのは、GPA取るのにあまり地頭は必要ないということ。過去問とかもあるに越したことはないが、無くてもA+はくるということなど。文系だけかもしれないが。
(追記)
首席(学部事務所の方曰く総代という言い方でした)に選ばれたのは学部の成績がトップだったからです。最終的にGPA約3.9でした。
私は首都圏のマンションで育った。平成初期に建てられた分譲マンションは同世代が多く、私の住む棟は平成3年生まれが私含めて4人いた。30歳を目前にしてそれぞれの人生を振り返ってみた。
中学時代は水泳部で部長を務め、行事ごとにリーダーシップを発揮してキラキラしていた子だった。地元一番の進学校へ進みそのまま首都大に進んだ。小学校の先生を目指していたが試験に通らず、現在は都内のホテルで働いている。
2.女子(私)
中学時代はとことん地味だった。高校受験で都内の進学校(御三家)へ進み、現役で学習院へ進んだ。外資系の人材企業へ就職して数年でメンタルを壊し、現在はSE。
3.元気な男子
野球一筋の男子でいじめっ子だった。頭は当然悪く、地元の偏差値40くらいの高校へ進んだ。指定校推薦で体育系の学校(日体大?)へ進み、今は駅ナカにあるマッサージ店で働いている。
4.地味な男子
元気な男子に虐められていた。地元一番の進学校へ優等生女子と進み、一浪の後中央大へ進んだ。三菱系の企業へ入り、アメリカの現地法人で働いている。
地味な男子が一番楽しそうに生きていた。いじめっ子は楽しそうに働いており、親と同居している。優等生女子はキラキラしてるけれどたまにつらそうな投稿をしている。私は身の丈にあった生活をしている。昨年末に中学の同窓会に誘ったのに誰も来なかったのは、何かしらのコンプレックスがあったからかもしれない。
東大卒で地方出身です。我ながら性格が悪いと思うが、元増田について、色々と納得できないので、ネチネチと指摘しておく。
増田は、「東京の国立大学」に入学し、その後、東京で育った子供が与えられる塾教材を見て、「私も東京に生まれていれば東大に受かったのに」と書いている。
東京の国立大学は東大の他に、東工大、一橋大、お茶の水、東京医科歯科大学、東京学芸大、農工大、芸大、電通大といったところがある。インカレサークルで東大生と知り合ったとあるから、恐らく増田はお茶の水ではないかと思う。
大前提として、東大の入試問題は比較的オーソドックスである。お茶の水の学生が、高校や予備校の教材を見て、「これが有れば合格できたのに!」と思ったことに対して共感ができない。育った環境の中でお茶大には合格することができたが、その先の東大との差を埋めるものは教材なのか。教材を見て、その差をうめるための何かを感じ取れるほどに受験をやっていた人間ならば、東大の入試は、赤本やチャート式で行けてしまうものだと思う。そんなの嘘だろ、と思うかもしれないが、東大の中の人間には入試はそのように見えているのであり、そう見えていないのはあなたが「わかってない」からである。冗談抜きに「ドラゴン桜」を読んでみよう。あれはよく書けている。
入試問題の癖とかアドミッションに関する諸々に対する最適化という意味では、都市部の塾予備校や中高一貫の進学校にメリットがあるのは事実で、たとえば、「予備校に行っていれば早慶の受験対策ができたのに!」「あの高校からであれば指定校推薦取れたのに」とか、「もっと視野が広がる環境であれば海外大学を受けていたのに!」と思うのであれば理解できる。が、繰り返しになるが、お茶大と東大の差を環境で埋める、というのは理解しづらい。
一方で、そもそもお茶大でないとするならというのもあるが、こちらは更に納得感に欠ける。東工大や一橋大や外語大であれば、東大と本質的な入試難易度の差は無いので東大に入らずそれらの大学に行ったことを環境のせいにしないだろう(これらの大学の学生には自分が東大生に劣っているとは思って欲しくない、という私の勝手な願望もある)。学芸大電通大以下であれば逆に偏差値が違いすぎて環境云々の差以前の問題であるし、普通の感覚ならこれらの学生は自分が東大にはいることを想像しない。
増田がお茶大なら、という前提のもとで穿った見方をすれば、かの学校の校風やら学内のなにやらに、地方出身のぽっと出の真面目な学生が影響されてるだけのように思える。負けず嫌いなのはいいが、ぜひこの先の人生を間違えて欲しくない。例えば学歴ロンダリングだけを目的に仕事をやめて東大の院に入りなおす、とかそういうのはやめよう。書いてて酷いと思うが、上記が私の結論である。
いない?ちなみに自分がそう。
とは言っても、特に実家が金持ちとか顔が良いとかってわけでもない。
たぶん、とにかく周囲の人間に恵まれてた。あとは運とタイミング。
まず親が良かった。
父親は出世欲と物欲のない男で、万年係長。大河ドラマと将棋番組を見るのが趣味。家は古い社宅だったし、車も軽自動車だったけど「こだわりないから別になぁ」って感じだった。
母親は世渡りの上手な女で、40過ぎても更に年上のジジババから「〇〇ちゃん」って可愛がられるタイプ。
この両親、とにかく穏やか。夫婦喧嘩してるところを見たこともなければ、親子喧嘩もほとんどしたことがない。生まれてから高校卒業と同時に家を出るまでの18年間、我が家に怒鳴り声が響いたことはなかった。
家のローンや車のローンが無かったおかげで、奨学金を借りることも生活費を自分で稼ぐこともなく大学生活を満喫。バイトは大学の近くにあった本屋でしんどくない程度に小遣い稼ぎをした。あとは時間に余裕があったから、ボランティアサークルと、名ばかりの映画研究会に所属してみたり。
ド田舎の実家から地方都市に出てきたレベルだったけど、ラウンドワンとチェーン居酒屋が駅前にあるだけで十分楽しかった。
この大学に入ったのも、受験でめちゃくちゃ頑張ったとかじゃなく高校の担任から「あそこの指定校推薦、できれば今年はおまえで出したいんだけど」って言われたから。ちなみに成績自体は上の下くらい。授業中に寝ないタイプだったし、わりと教師に懐いて「センセー!ここ教えて!」って聞きに行ってたからウケが良かったんだと思う。それであっさり合格して、入学。
就職活動もそんなに困らなかったな。大手企業ではないけど地元なら「あそこね!良いところ入ったじゃん」って言われるような職場にスッと滑り込んで、大学4年の夏休みには就活から解放されてた。
新卒で入った職場の同期は30人くらい。25人は高卒と専門卒、残りの5人は大卒で幹部候補枠みたいな比率だった。田舎によくあるパワハラが結構ひどくて辞めてく奴らもいたけど、自分は「まぁ3年は続けろって聞くし」と思ってとりあえず3年続けた。おしゃべりな先輩の話を鵜呑みにするなら、同期の中では一番出世コースに近かったらしい。仕事はそれなりに楽しかったし、上司に連れられて行くスナックを苦痛に感じたことも無かった。これは置かれた立場を楽しむスタンスで生きてるからなのかも。
で、なぜか入職4年目のときにポンっと「転職してみるか」と思った。理由としては、まぁ前述の通りパワハラがそこそこ酷くて不快な場面に遭遇することが多かったこと、あと単純に給料が安かったんだよな。直属の上司や同僚は好きだったから、退職するときは少し心が痛んだ。
ちなみに転職活動は働きながら。転職エージェントの人には営業向きですよ〜と言われつつ営業は止めておいた。
10社応募して、受かったのは2社。お断りした方からは何回も電話があって、社長とも面談させてもらったけど(内定が出た時点では社長と会ってなかった)、もう1社の方が良い条件だったので丁重にお断りさせて頂いた。そっちを辞めたらウチに来な!ってニコニコしてた社長、今思い出しても良い人だと思う。
そうやって決めた会社に入って、ちょうど2年。前の職場にいた頃と比べると年収は100万くらい増えた。有休も100%消化できるし、夏冬には1週間休める。パワハラどころか社内で悪口を聞くことも無い。コロナ禍でもボーナスを貰えた。ありがたい話だ。
自分より稼いでる人は自分より優れてるって考えてるから、金持ちを妬むこともない。努力したんだな、運がすごく良いんだな、とは思う。
だから増田を見てると、人間の妬み嫉みを感じて「なるほど」って感心したりする。自分と違う思考を持ってる相手は面白い。
ここに書いたことを現実で口に出したら、いけすかない奴だと思われるんだろうな。分かってるから増田に書いたんだけど。
世の中にはこういう奴もいるんだ、っていう話でした。
私と妹には大きな断絶があった。
母から未だに「あの頃のお前たちは喧嘩の途中から姉妹で殺し合うんじゃないかと思わせるくらい憎みあっていた」と言われるほどに。
勉強ができて中高と国立に入り賢い賢いと言われた私を見ていた妹は、地元の中学から私学への指定校推薦を勝ち取って高校へ入学した。
「金がかかるけどお前は勉強ができないし仕方ないな。先生に媚び売って内心稼げる人当たりがあって良かったな」と妹は父から言われていた。
推薦で高校に入るにはおべんちゃらだけでは叶わない。
妹もきっとたくさん努力をしたけど、専業主婦家庭だった我が家では、稼ぎ頭の父の言うことが全て正しかった。
だから、妹は「先生に媚びを売って大学付属の私学に入ったしたたかな女の子」だった。
その頃の姉妹喧嘩はいつでも「賢いだけの堅物の姉」vs「したたかで気が強く感情の起伏が激しい妹」だった。
殴り合いもしたし、一度喧嘩したら数日どころか数週間口をきかないなんてざらだった。
そんなある日、妹が弱々しく「お姉ちゃん、私新宿に行きたい」と言ってきた。
私も妹も地方都市から都内の学校に通っていたので、都内に買い物へ行くのに私が付き添う必要はない。
「友達と行けば?」と断ったら「お姉ちゃんとがいい」と言うので、たまたま暇だった私は妹と一緒に新宿へ行くことにした。
新宿へ行く電車に乗り「買い物?それならルミネ行く前に伊勢丹行こうよ、どうせ買えないけど高い香水のいい匂い嗅ぎたいな」なんて言う私の横で、気が強い妹が真っ青に震えていた。
おかしい。こんなこと今までなかった。
その瞬間、私の直感が働いた。
そう尋ねた瞬間、喧嘩した時には私の顔を引っ掻き容赦なく蹴りを入れてくる妹が静かに涙を流した。
ああ、そうか。と私は気がついた。
親の同伴が必要でなく、地元で親にこっそりと知らされる危険性もなく、緊急避妊薬を処方してくれる医者をこの子は探したのだと。
新宿駅からほど近い産婦人科でモーニングアフターピルをもらい、妹はそこから数日体調が悪かったが、無事避妊はできたようだった。
もし、あの時彼女が私に頼ってこれなかったら。
もし、彼女がモーニングアフターピルを知らなかったら。
きっと、彼女は16歳で子供を身篭った馬鹿な女としてその後の人生を過ごしていただろう。
堕胎したにせよ、産んだにせよ、彼女の心と体には、緊急避妊薬を飲まなかった時よりもずっとずっと大きな傷ができていただろう。
知人の堕胎手術経験者は「高校生のときに堕ろした子は、今なら何歳になっていた」と産みもしなかった子供の歳を数えている。
性教育が行き届いてない代償を、医療を提供しないという形で当事者に払わせるべきではない。
堕胎手術は女性の身体だけでなく、心にも大きな傷を残してしまう。
だから、どうか緊急避妊薬を手軽に買える世の中になってほしい。
堕胎手術で堕した子供の歳を数える人がこれ以上増えないように。
診察室で緊急避妊薬を飲んだ妹を横で見ていた私はこう思う。
「私の妹はただ運が良かっただけだった」
「こうならなずに堕したり産んだりした女性はきっと世の中にたくさんいる」
さして文章が上手いわけでもないがつらつらと書いていこうと思う。
他人の希死念慮が好きだ。増田でもnoteでもブログでも、タイトルに「死にたい」だとか「自殺に失敗した」といったような希死念慮を匂わす記述があると心が躍るし、自殺した人の最後のツイートは保存してたまに見返している。同様に拒食症や精神疾患など死に近づいている人の記述も好きで、つまるところ追い詰められた人が見たいわけだが、「慢性的に死にたい」というタイトルを見て本エントリに興味を持ってくれた誰かの中にも同じような嗜好を持つ人がいるのではないだろうか。私の独り言がそのような同志の一瞬の暇つぶしにでもなれば僥倖である。
昔から中途半端な人生を送ってきた。特に受験勉強もせずにそこそこの成績で中堅の高校に合格し、そこで何かに熱中することもなく、まずまずの成績で指定校推薦をもらって大学に進学した。やりたいことも学びたいこともなかったから今は文理もよくわからない宙ぶらりんな学科で毎日を過ごしている。(学科・学問を貶める意図は全くなく、高い志をもって勉学に励む方のことは尊敬している。ひとえに私の受け取り方の問題である。) 就職のサポートが手厚く、どこかしらには就職させてくれることを売りにしている大学でもあるので、きっと就職活動もつつがなく適当なところで終わらせることになるだろう。
そう、ここまで読んでいただけたらわかるように私は努力も挫折も全くしたことがない。いまさら努力の仕方なんかわからない。というか人生に目標がないから努力もクソもない。わたしの目の前は常に真っ暗で、でも押されて足を出してみたらなんか道があったから一歩進んでみる。これを繰り返していたらいつの間にか成人を迎えようとしていた。積み重ねてきた努力も明るい未来への展望も私にはないから、大事にできる自分なんかないから、私はいつも死にたいなあって思っている。
そんな中で、もしかしたら自分が誰かにとって価値ある何かになれれば生きたいと思えるのでは?という仮説を立てて、手っ取り早く価値を高めるために整形をした。ちやほやされれば死にたくなくなるのではと考えて水商売をやってみた。誰にも内緒だけど、風俗もやった。風俗を始めたあたりで、病んだ勢いで自殺するかな?なんて思ったが、今日に至るまで私の手首には傷の一つも付いたことがない。思えば、人生の中でいじめだの一家離散だの身内の自殺だの十分に自殺を考えそうなタイミングは何回か巡ってきた。それでも今まで自殺を図ることがなかったことを考えると、結局のところ、私は死にたいのではなくてただ生きていたくないだけなのかもしれない。タイトル詐欺になっちゃう上になんとも中途半端だな。持論ではあるが死にたいと生きたくないは全然違う。死ぬことにすら希望を見出せないから積極的に死のうとは思えないけど、生に執着がないからいつ死んでもいい。もし今この瞬間に通り魔に殺されたとしても、私は欠片も恨まず笑って成仏する自信がある。死ぬ時まで人任せとは我ながら怠惰なことだ。
自殺を考えることはよくあるよ。でもそれを実行できるとは思えないから、やっぱり私に死ぬ気はないんだと思う。一昨日は銃で自殺するとしたらこめかみか咥えるかどっちにしようか考えたし、昨日は自殺配信するとしたら最後に居もしないリスナーになんて声をかけようか考えながらお風呂に入った。今日は自分の葬式で泣いてくれそうな知り合いについて考えながら寝ようと思う。おやすみ!!こんなまとまってなくて厨二臭い文を読んでくれてありがとう。目を覚ましたくないなあ。
回避性パーソナリティ障害は、自己否定が強く、失敗や批判を極端に恐れ、対人関係や社会活動において臆病になってしまう障害だ
診断を受けたのは回避性パーソナリティ障害と気分変調性障害
長いことうつ症状と付き合っている
過干渉の母親とネグレクト父親のもとに育ち、小学校・中学校・高校では理不尽な難癖をつけてくる教師達に勉学と道徳を説かれた
当時、容姿が悪く性格も捻くれた私にとって勉強は唯一誇れるステータスだった
特に決定打となる具体的なきっかけは無かったが、明らかに肉体的にも精神的にもエネルギーが枯渇していた
徐々に学校にも通えなくなっていき、しまいには実家の自室に籠りっぱなしになっていた
毎朝自室に起こしに来る母親に対して「胃が痛い」「頭が痛い」「動けない」と言い続けるのは苦痛だった
「気のせいだから学校に行きなさい」とまくし立てる母親に対して、口が裂けても「死にたい」だなんて言えなかった
高校は、当時の担任(私が唯一感謝している先生)が尽力してくださったおかげで不登校ながらもなんとか卒業できた
最初の数カ月こそ解放感にハイになっていたものの、すぐにまた引きこもりに戻ってしまった
親に金を出して貰ってまで一人暮らしの引きこもりをやっていること、
自分より遥かに成績の悪かった連中がAOや指定校推薦で難関大や医学部に行き、未成年飲酒の様子をSNSに垂れ放蕩の限りを尽くしていること、
心が進学を望んでいるのに体が言うことを聞かないこと、
全てが酷だった
それでも進学を諦めたくなかったので一人暮らしで浪人生活を続けていたが、翌年遂に進学を放棄し、引きこもりニートが完成した
ずっとバイトを探しているが、ここで回避性パーソナリティ障害が真価を発揮している
まず、一番求人件数の多い接客業であるが、厄介な客1人にでも出会おうものならすぐに辞表を叩きつけるであろうことが目に見えている
10代にして大人達の醜さに触れ、理不尽さへの耐性が異常に無くなってしまっている
コロナ禍においてマスクの欠品が相次いだ時、マスクが無いからと店員にキレる客が社会問題となっていたが、もし私が店員だったらすぐにでも自死していただろうと思う
接客がダメなら事務系か?とも思ったが、求人サイトで事務系として募集している仕事内容にはだいたい電話応対が含まれている
それを省いたとしても残る求人件数は数少なく、社名を検索すれば悪評が湧き出てくるようなものがほとんどだ
私は某求人サイトでヒットした事務系の求人の社名を全て検索し、ああでもないこうでもないと虱潰しに探していったら全てダメだった経験がある
頭のどこかには「やってみたらなんとかなることもあるだろう」という考えはあるのだが、それよりも「失敗が怖い」という感情が遥かに上回ってしまう
あらゆる職種に就こうと思えず、かといって今更進学を目指す気持ちにもなれない今、本当に行き場を失い、詰んでいる
誰だって失敗は嫌だ、ただ逃げているだけだ、甘えだ、そう思われるかもしれないが、
私にとってこの問題はそんな言葉で片付けられるほどのものではないのだ
人の感情を矮小化する行為ほど無礼なものは無いと私は思っている
10代にして人への信頼、新たなことに目を向けるエネルギー、ここぞという時に踏ん張る力、自己肯定感、
あらゆる人生の楽しみを失ってしまった私は、これから先どうすればよいのか
私はもう疲れてしまった
平日は普通に出社してるのに、土日はコロナのせいで家にこもって鬱々とした気持ち。鬱々ついでに今まで書けなかったことを書いてみる。自分語りでごめんね。
公立中学から公立進学校に進み、部活をやりながら指定校推薦でMARCHへの入学が決まった。高校の友人(特に部活の子)たちとは、卒業後も遊んだり合コンしたりしていた。大学は留学することもなければ留年もせず、可もなく不可もない成績だった。けど、思いがけず就活で苦労した。
先輩たちから就活の体験談は聞いていたけど、彼ら・彼女らはなんだかんだで有名企業に内定をもらっていた。だから、甘く考えていたところもあったと思う。少なくとも大学名で足切りされることはほぼないし、成績も素行も悪くはないから、どこかにはひっかかるだろうと。でも、早い段階で選考が始まる大手には見事に全落ちした。特に好きなものも熱意もない私がほんのり持っていた「やりたいこと」は、「大手企業のゆるキャリ事務職」だったのに、早々にその芽は潰えてしまった。
その上、私の就活時期は地震の翌年で、3月以降は中小企業が選考をとりやめたり、内定を取り消したりして、就活生には厳しい状況が続いた。…そんな中でも、やはり決まる子は決まるのだ。同じ大学の友達はもちろん、高校の友達も。私よりランクの低い大学の子や、「就活厳しい」と笑っていた、聞いたことのない美大の子まで。
4年の12月までかかって、やっと今の会社に内定が出た。誰も聞いたことのない、小さな会社だ。業界にも業種にもまるで興味が持てなかったけど、嬉しかった。あらゆる企業に不要のハンコを押された私を救ってくれた気がした。
女友達とは、社会人になってからもずっと会っていた。話題は学生時代とあまり変わらず、最初の3、4年は楽しく過ぎた。けど、20代も半ばになると明らかな差が表れる。仕事のレベルが開くにつれて、生活レベルもスタイルも違ってくる。「既婚者と独身じゃ変わっちゃうよね」みたいな話じゃなくて、同じ独身でも、経済的な理由でひとり暮らしのできる子/できない子、自分にお金をかけられる子/そうじゃない子、あとは、周りに色んな知識を持った人がいる子/いない子…などなど。稼ぐ力の差は明確に出るし、これからもどんどん開いていく。
今の会社にはもうすぐ8年務めることになるけれど、給料はびっくりするほど安い。かろうじてひとり暮らしができているけど、貯金はできないどころか実家暮らしの頃の貯金をたまに切り崩して、ボーナスで補填する有様だ。
その上、これほどリモートワークが浸透してもうちの会社は対応していない。せいぜい時差出勤で、マスクを消費し、怯えながら出社している。自分よりずっと高収入な友人が、リモートワークとUBERイーツで家から出ずに働いている状況をSNSで確認しながら。
いやらしい話だけど、稼ぐ子の彼氏は高収入だ。いやむしろあなた、無職の男性養えるよね…?ってくらい稼げてる子でも、そういう例ってほんとに見ない。まぁ、仕事や趣味の場で知り合うことが多いから当たり前だけど。いくらマッチングアプリが市民権を得ても、やっぱりそういう、周りの環境ふくめた恋愛の方がお互い本命になりやすいんだと思う。マッチングアプリは、関係がふたりの間で閉じすぎていて嘘がまかり通ってしまうし、信頼関係を築くまでに時間がかかり、しかもお互い同時に複数の人とやりとりをするという難しさがある。結局、高収入な男性と結婚したければ、高収入な男性のいるコミュニティに入るのが1番だったのだ。
勝ち負けで考えるのは良くないとわかっているけど、私の人生は負け、なんだと思う。
好きなことも得意なこともなく、それを見つけようともせず。明らかに大学卒業後から、描いていた将来図からズレた。結婚に夢も持てないけど、結婚しないと私はますます辛いと思う。結婚する・しないを本当に選べる女性って、余裕を持って自分を養える人だけだと思う。だから私みたいなのは焦れるのに、アプリにも疲れてしまったし、コロナもあるしで何もしてない。言い訳ばかりの人生で涙が出る。