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四章 40万()のアクセサリー
「無いわね〜」
「何かなくしたんですか?」
「アクセサリーが入った袋がないのよ」
昨日はあったはずのアクセサリー類がまとめて見つからないのだという。身なりにこだわる祖母だ。アクセサリーもこの服にこれを!というものをあのギチギチのスーツケースに詰め込んできたらしい。
「あら、どうしようかしら〜……40万くらいするんだけど……」
パタパタと探してる最中の爆弾発言に思わず固まった。なんだって?
「あれ全部で40万くらいするはずなのよ!だから困るわ……💦💦」
困るって、そういう問題ではないだろう。祖母がそういうちょっとお高めのものを好む人物ということは知っていたが、具体的な値段とかは初めて聞いた。というか、なぜ旅行にそんなに値の張るものを持ってきているの?そんで、なんでそんなのを無くす?
「どうしようかしら!どこかで盗られたのかも……」
探しているところを見ていたが、ギチギチのスーツケースを撫でるように探すだけで「無いわ…」と言っているがまずその布しか入ってないスーツケースを全てひっくり返す方が先だろう。
でもこれは今の私だから言えることであって、当時その場にいた私はそれなりに焦っていた。ちょうど母方の祖父がインドで30万円をすられた話を聞いていたから、もしかしたら…の気持ちがぬぐえなかったのだ。
うちの親戚たちはなぜ旅行に行くのに数十万を迂闊に持ち運ぶのだろう。成金なの?それともマヌケ?まぁ、もうじいさんは死んでるから知りようもないが。かなしいかな、私たちはしっかり両方の間抜けの血を引いている。せめて他人に余計な迷惑をかけずに生きましょう。
とりあえず添乗員さんに知らせるとすごい必死で前日止まった宿に連絡してくれた。申し訳ない。
そんでもってその伝え方がまぁ"繁子(祖母)節"だったから聞いてもらおう。
「添乗員さん、あのね、全部で40万のアクセサリーの入った袋が無いのよ…」
「えぇ!」
「もしかしたら昨日の宿に置いてきちゃったのかもしれないから連絡してくれない?40万くらいのアクセサリーが入った黒い袋ね、盗られたのかもしれないわ…」
「わ…かりました。すぐに連絡致します。」
これを早口でまくし立てる。ポイントなのが、「40万」という金額を連呼すること。その単語いる?
可哀想な添乗員さんはすぐに宿を始めとする各所に連絡してくれた。
その間祖母は迷惑をかけたなんてさらさら思っておらず、わりと旅行を楽しんでいた。さらには昼食の席で一緒になったご婦人方に「40万くらいのアクセサリー類が無くなったのよ〜」と話していた。ご婦人方は心配してくれたが、傍から聞くと困りに見せかけた金持ち自慢にしか聞こえない。
さらに添乗員は休憩時間に入った時に「すみません、もうクリーニングが入っていて、そういった届けは無いようです…」と報告してくれた。ぜんっぜん悪くないのに「申し訳ございません」と述べる添乗員さんが哀れで祖母が迷惑をかけていたたまれなかった。
当の本人は「あら…。じゃあどうしようかしら…」と不安げな表情を浮かべたが、盗られた(仮定)ことには微塵の疑いもなく、金のイヤリングだのバカでかいカメオだの、アクセサリー類がどんなものだったかを説明していた。それを聞いてさらに添乗員さんの顔がますます曇る。そりゃ、自分が引率した客がすられたなんて良い話じゃないだろう。しかも祖母いわくかなりの高額商品。あるのかは知らないが保険とかそういう手続きだってある。添乗員さんの皮膚の見える頭頂部はこの心労で抜け毛が増えるんじゃなかろうか。
なんだってそんな高いもんを持ってきたんだ。見栄です。って、理由があまりにもしょうもないでしょ。
結局見つかりそうもないままホテルへ。荷解きをしている時祖母が声を上げた
「あ!あったわ!」
例のアクセサリーが見つかった。スーツケースのポケット部分に入っていたらしい。真っ先に探すべきところでは?そして、
「なんだ、こんなとこにあったのね。」
と一言。こういう時、普通の人ならば「よかった…」とか、「心配かけちゃったわね…」とかの反応をすると思うが、そこは祖母。他人に迷惑をかけたという発想がない。一日がかりで何人も余計な心配をかけたことに対する謝意とか、そういったことはこの人の頭には存在しないのだ。それに気づいて力が抜ける。
添乗員さんと昼のご婦人方はに無事見つかったことを伝えたが、その時も"繁子節"は圧倒的だった。以下はご婦人方に知らせた時の祖母だ。
「ほら、見てぇ〜!見つかったのよ〜!」
と言いながら早速見つかったブローチを胸元に付けたのを見せつけに行った。昼間に散々「盗まれたかも」とか言って心配してもらってた相手にできることじゃない。呆れを通り越して面の皮の厚さに天晴れだわ。その精神力があれば怖いものなんかないだろう。
こうして、40万アクセサリー紛失事件は添乗員さんに余計な苦労をかけただけで幕を閉じた。
余談だが、この話はリアルタイムでLINEで共有していたのだが、帰国してから父が「ほら見てぇ〜!」と言いながら胸元を指さすモノマネをしばしばやるようになった。こうしてネタにしてはいるが、もし、当時同行していたのが父だったら海外で最悪の親子喧嘩をして帰ってきていたと思う。
閑話・ボッティチェリに敬意を示して。
さて、前回無くしたアクセサリーが無事見つかったが、次の日はフィレンツェにあるウフィツィ美術館に向かう。ボッティチェリの「春」「ヴィーナス誕生」等某ゼリヤ店内で必ずと言っていいほど飾られている有名すぎる絵が見どころだ。
正直ヨーロッパのツアーだと1週間とかでいくつもの美術館を巡るから作品ひとつひとつの貴重さとかよりも人でごった返す中、はぐれないよう頑張ってついて行きーの作品チラ見して説明聞きーの写真撮りーのの繰り返しで鑑賞する風情もへったくれもあるもんじゃなかったけど、そんなもんなのか。
ツアー自体の目玉でもあるこの日、祖母は特にオシャレをして臨んだ。あのギッチギチのスーツケースからこの日に着る服を決めていたのだと思われる。毎日服を変えていた祖母のファッションショーを写真で残しておけばよかった。当時はそんな余裕もなかったが。
その日のコーデの主役は胸元に付けられたバカデカカメオ。5~6cm程のブローチにしてはかなり大きなそれは真偽は知らないが祖母曰くかなり高級なものらしい。そう、前日無くしたと騒ぎを起こしたあれだ。
同じツアーの客にブローチ素敵ねと声をかけられ祖母の鼻は高々。
「えぇ、ボッティチェリに敬意を示してね。ほら、プリマヴェーラの柄なのよ」
添乗員さんにまで聞かれてもないこだわりを披露する祖母。ああもう、添乗員もちょっと引いてるじゃないか。他人のフリをさせてくれ
この話、何がすごいって、祖母は別に美術に特段関心がある人でもないということ。美術が好きでボッティチェリの実物を見れるのが嬉しい!という人ならばまぁ、「ボッティチェリに敬意を示して」なんて言っても許されるが祖母は絵画の前を結構素通りするような人だから、余計に「んなこと言う!?」という気持ちが大きい。普通に生きててそんなの言う様な人は叶姉妹くらいしか思いつかないのだけど、祖母は普通の一般人じゃん、ハイソぶってるん?恥じゃん、そんで身内じゃん。勘弁してくれ。
しかしボッティチェリの実物を間近見てもまぁサイゼで見たのも同じだなぁという感想になった自分ももしかしたら祖母と似たような感性を持っているのかもしれない。血の繋がりに震える。しょぼい感想しか言えなくて情けなくなるが、貴重なものを鑑賞したこと自体は間違いなく良い経験になったと思いたい。小学2年生並の感想ではあるけど。
5章 ナポリと靴
青の洞窟に行く日、ついに私は限界を迎え、その日の観光を全てブッチして一日ホテルに留まる権利を獲得した。そして、ここまでで祖母の性格をなんとなく知っているならばこの権利を得るまでにも戦いがあったことも想像に難くないだろう。
この作戦はまず第一に私とおばあちゃんとの別行動が肝だ。というか、そのためだけに私はわざわざ観光の目玉ともいえる青の洞窟をキャンセルしたのだ。
朝食の時間から勝負は始まった。朝食会場に着くと同時に添乗員に駆け込み
「スミマセン、チョットタイチョウガワルイノデ今日の観光はホテルデヤスマセテイタダキタイデス」
間髪入れず飛んできた祖母(謎自信杖無し)の攻撃に、勘弁してくれ!!!と叫びたくなる。若干叫びが漏れてたかもしれない。
「大丈夫です!なのでおばあちゃんはぜひ行ってきてください!!!!!貴重な体験ですし!!!!!!」
ビックリマークの数は必死さの証。ここで折れたら全部ムダ。白刃戦の火花が散った。
「でも…」
押し問答を何回か繰り返し、半ば無理矢理一人の休暇を勝ち取った。勝ちました。人生は強引さが必要な時もあって、それは今だった。朝から何をやっているんだろう。
部屋でのことは特に書くともないけど、FGOの夏イベをやっていたことと、わりと階数の高い部屋で窓がやたら汚かったことぐらい。
私が一人時間を無為なソシャゲに費やしている間に事件は起こった。祖母は、ウン年前、下手したら二桁年前に買った慣れない靴を引っ張り出してきていたのだった。ツアーについていけなくなったあたりから「靴が悪いのよね!前の奴だから!」と旅行初日から怪しい声を聞いていたその靴が遂にぶっ壊れたという。
身体能力をごまかすような靴への悪態を聞くたびに普通に靴は古いし本人の体力も身体能力も落ちてますよ、の言葉を喉元で押しとどめていた。あたりまえ体操過ぎる。
帰ってきた祖母の第一声は「この靴ナポリで買ったの!」だった。足元にはメタリックな輝きを放つパープルの靴が光る。まずなんで洞窟を見に行った人の足元が新しくなって帰ってきてんの?
肝心の洞窟はと言うと「ああ、綺麗だったわよ、うん。」とホントに行った???と思うようなうっすい反応。
その後ろを添乗員さんが「すごかったですよおばあ様。店内でたくさん試し履きをされていて」と伝えてくれた。
すごい、見てないのに光景が目に浮かぶ。添乗員さんにお世話を丸投げしたようなもんだ。心なしかげっそりして見えて申し訳なさが募る。ごめん、でも限界だったんだ。
当の本人はケロッとしておニューの靴にご満悦なようだ。きっと気に入るものが出てくるまで沢山試着したのだろうと想像して頭が痛くなる。添乗員さんの様子を見るに多分現地の店員さんにも日本語で「もっと𓏸𓏸なのはないの!?」とかなんとか言ってたんだろうなあと思う。言葉の通じない異国の地で謎に自信に満ち溢れてる(そのくせ心配性な)のはなぜなんだ。
こうして、ぶっ壊れたウン10年前の靴はろくに使われずに外国のホテルに捨てられて行き、おばあちゃんの足元は新しく"ナポリで買った靴"で飾られ、その後の旅路を共にすることとなった。
今回の教訓:靴は履きなれたもの履いて行こう。
間違っても大事にしまい込んだ靴を久々に出すもんじゃないよ、旅先でぶっ壊れるからね。
クレーム:クレーム (クレイム、英語: customer complaint, consumer complaint)は、サービスに対する苦情や改善要求、契約あるいは法律上の権利請求を指す和製英語。ーWikipediaより
クレームを入れたことはあるだろうか。私はない。大体の人もそこまでのことがなければクレームを入れることは無いと思う。サービス側が悪いこともあるが、客側がかなり無茶苦茶をいうことがある。無茶苦茶なクレームを入れる人のことをクレーマーと呼び、さらにサービスだけでなく個人的な怒りも乗せてくるような輩は一段昇格して「モンスタークレーマー」と呼ばれる。こうなってくると、もうヒューマンじゃありません。ホモ・サピエンスから新しい生き物への変身だ。
コールセンターのアルバイトで実際にクレームを受けたことがあるが、その時は相手の「だいたいお宅はさあ!」との発言に(本当にこんなことを言う人がいるんだ!)と感動したものだ。今まで私が見てきた創作内のクレーマーが言ってたことそのまんまの言葉を受け取って、おお!と今までの答え合わせができた気分だった。まぁ、バイトの内容的に相手の氏名住所生年月日職業家族構成家族の情報も全部知っているという圧倒的に有利な立場だったから慌てなかったというのもある。
さて、クレーマーの対処には同じ気持ちになって怒ると有効というのがある。自分より起こってる人を見て逆にクレーマー側が冷静になるとか、自分の怒りが認められたと思うことによって満足するらしい。
膝の手術を3回受けた70代祖母が同行者の孫に無断でイタリア縦断超弾丸ツアーに申し込んだ話。
一章 〜杖買うって言ったじゃん!!〜
二章 「歩くのが早すぎるのよあのオバサン!」
三章 こんなとこに住む人の気がしれませんよね
四章 40万()のアクセサリー
五章 ナポリと靴
七章 ローマの夕食
・激重スーツケース
・自慢話と夏の空
・ボッティチェリに敬意を示して。
・嵐ってすげぇや!
孫が中学三年になるのに合わせて祖母が海外旅行に行きたいと言い出した。
昔は海外によく行っており孫と一緒に行くのが夢だったんだそう。
そこで白羽の矢が立ったのが、2番目の孫で初の女の子のわたし。
おばあちゃんは息子しかいないから初めての女の子をかわいがって、よく自分の好みの服やらを買って着せられた。娘がいたらしたかったことを私にしてる感じ。
あとまぁ「孫と一緒に旅行!」ってのが老人にとってはステータスなんだね。「孫と海外旅行をするくらい仲が良くて金銭的にも裕福な家庭」みたいなさ。
「あらお孫さんと旅行?いいわね〜羨ましいわ〜」って言われたいのもあったと思う。そりゃあ孫連れて旅行してる人がいたらそういう反応しかないでしょ。
当時は何も知らんかったから旅行行くのに全然賛成で二つ返事でOKしたし海外行けんの楽しみにしてた。
祖母は膝が悪く何度か手術の経験もあるため、最初は膝のこともあるしバンクーバーあたりのひとつの都市に留まってゆっくりしようねって話してた。
それが5月のある日
って。ねぇ、あんた。
パンフレット見せてもらったらまぁイタリアを北から南まで大移動する8日間の超弾丸ツアー。母が「大丈夫なんですか?」と心配そうに聞いても「大丈夫よ〜!」で聞きゃしない。
身体に爆弾抱えてる人がどうしてそこまで自信満々になれるのか。謎です。
テンションの上がった人間は突拍子もないことを言い出すの典型を目の前で見た。
1章 〜杖買うって言ったじゃん!!〜
そして迎えた当日、前泊する為に祖母の家に行った私が「杖あります?」って聞いたら、自信満々に「無いわ!でも多分大丈夫だと思うから!☺️」
まって??
いやもう、「なんで??」の一言に尽きる。
だって言ったもん、「買う」って言ってたやんけ。母さんがおばあちゃんの膝を考慮して折りたたみ式の勧めたり口酸っぱくして杖を持っていけって言ってたから。そりゃあ買ってると思ってたし若くないんだから過信しないでくれ、たのむから。
ここで私が間違ったのは不安に思いながらもすぐそばのショッピングモールに走って杖を買いに行かなかったこと。これが後に解決できない大問題となる。
今なら過去の私をぶん殴ってでも杖買ってこっそり自分のスーツケースに突っ込む。もし声だけでも伝えられるなら夜とか関係なしに「杖を探しに走れ〜!!!!!」って叫ぶ。絶対に。
「何かあったら現地で買うわ!」って言ってたから大丈夫かと思ってた。
予想してたとおり毎日足が痛くなるくらい歩く超弾丸ツアー。15歳の私でそうなんだから70代の祖母はさぞ辛かったと思う。
でもね?普通に考えて膝にボルト埋まってて普段杖ついてんのに、どう見ても歩くツアーに杖の1本も持ってかないなんて、そんなことある?
現地について2日目くらいに高級店が並ぶ通りで杖を見つけた。べっ甲の持ち手のついたツヤツヤの杖だったからこれならおばあちゃんも満足だろうと思って「杖ありましたよ!」って声かけた。のに。
「でもね〜、ここ(現地)の人に合わせてあるからおっきいのよ」
現地で買うって?言ってませんでした????
ちょっとマジでよく分からないんだけどそんなん最初からお前わかってたの?つまり絶対買う気ないのに買うって言ってたんか?って。
既にツアーの列から遅れて添乗員さんに迷惑かけてんのに何言ってんの?って。
オシャレでプライドの高い祖母にとって杖を着いて歩くのは格好悪いと、ただそれだけだったのだ。
イタリアに着いて初日、夕方に到着したのでそこからバスに乗る。着く少し前に機内食が出たから夕飯は無し、この日はホテルに直行して寝るだけ、明日から観光が始まる。
10時間以上のフライトで腰は痛いしケツはもじょもじょするしで、10時間前に一瞬顔を合わせた人たちと一緒のバスに乗ってホテルへ向かう。
ホテルの部屋へ入り、荷物の整理をして、今すぐシャワーを浴びて寝たいところだが事は起こった。
シャワーが出ないのだ。
普通、コックを上下に動かせば水が出るし、それをひねれば温度調節ができる。少なくとも日本ではそうだ。
このシャワーはどうだろう。コックを上にあげると蛇口から水が出る。コックをひねって温度調節も可能だ。それでも蛇口から繋がるシャワーはうんともすんとも言わなかった。
困った。いちおう先進国なのに世界共通で必須のものの使い方がわからないなんてことある?私はある
長旅直後に知らない土地で使い方がわからなくてゆっくり風呂にも入れないなんて哀れだね。
しばらく考えて、海外経験の豊富なおばあちゃんなら知ってるかなと思って聞いてみたら、祖母はすぐに「フロントに連絡するわ!」と。
あんたも知らないんかーい
いやいいんだけど、知らないのは別に良いのだけどね、ここでフロントに連絡してもイタリア語なんてさっぱりだし、なんなら英語も怪しい祖母と孫で外人のスタッフとコミュニケーションが取れるなんて到底思えない。
それだけは勘弁してくれの一心で私はひたすらスマホで使い方を探した。
その間も祖母は3分に1回「やっぱりフロントに聞いた方が良いんじゃないかしら」と言ってきた。祖母なりに心配だったのだと思う。その自信はどこから来るのかだけ聞かせて欲しい。
型番を検索しても外国語のページが出るばかりで、祖母によるホテルスタッフ襲来の圧を受けながら色々いじくっていたら、ふとした拍子にシャワーから水は出た。
蛇口から水を出した状態で蛇口の先の部分を引っ張るとシャワーが出る仕組みだったらしい。初見殺しか?
なんでこんなとこで1人謎解きやってるのかさっぱり分からないが、ホテルスタッフを呼ばれる前に解決できたのはファインプレーだったと今も思っている。
二章 「歩くのが早すぎるのよあのオバサン!」
歩く!歩く!歩く!
超弾丸ツアーはひたすら歩く。海外旅行に行く層なんて暇と金のある金持ちのじいさんばあさんが主なのに、旅行会社のツアーは「夢の🎶イタリア一周」だとか、「スペイン♡世界遺産ツアー」だとかの移動にかなり無理があるツアーばかりを組んでくる。
例に出したのは私が実際に祖母(父方 母方)と参加したツアーだ。そしてどちらも参加者の平均年齢が60を越していた。
老人、己の体力を過信するな。
もしかしたらゆったりしたツアーもあったかもしれないけど、私が知る前に祖母は申し込んでいたから知る由もない。そゆとこの報連相大事だと思うんだ!
数日で全部を回ろうなんてツアーでは大体の日程がメチャクチャ歩いてるか数時間バスに乗るかの2択になるが、直射日光を浴びて歩いたジジババばかりのバスなんて小学生の遠足帰りのバスより爆睡率が高い。
寝息の聞こえる静まり返ったバス内は幼稚園のお昼寝の時間と同じ空間だった。
日に当ててから涼しいとこでゆっくりさせるのはね、寝かしつけの方法なんよ。
私はイタリアに行ってまでソシャゲのガチャを引いて、推しが出ては「ありがとうイタリア…😭🙏」とTwitterにつぶやくだけになった。景色は飽きる
大体このガイドはやたら大声でハキハキと話す細身な40代くらいの女性が多い。あとなんかダサい旗持ってるよね、キティちゃんとか。
そんで、そのハキハキしたおばさんガイドはめちゃめちゃ歩くのが早かった。大股でズンドコ行くので必死で追いかけるが、配布のトランシーバーで早口で観光地の説明をするから忙しい。
実績解除のための観光だ。この現地ガイドにより観光はRTA(リアルタイムアタック)に様変わりした。
参加者も置いていかれないよう頑張って着いていくが、ここで忘れちゃいけないのが祖母だ。
観光は現地ガイドが先頭に立ち先導しつつ、はぐれる人がいないよう1番後ろを常勤のガイドで挟む姿勢を取る。
私が息切れしながら振り返ると、横にいたはずのおばあちゃんがいなかった。
前に言った通り祖母は膝が悪く、普段杖をついているくらいだから当然歩くのが遅い。それに杖無しというデバフ+でこぼこの石畳+傾斜が拍車をかけた。
「歩くのが早すぎるのよあのオバサン!」
うん、まあ、なんだろう。同情できない。
列の1番後ろでガイドさんに付き添ってもらって悪態をつくって、どう???
ガイドさん、ごめんな。
杖があればどんなに楽だっただろうと今更ながら後悔したし、この旅行中頭の10%くらいでは常に杖のことを考えていた。ちなみに今でも百均で杖を見ると「この!クソ!!これがあれば!!」と思う。500円しないで買えるんだぜ?
閑話 クソ重スーツケース
表題の通りである。おばあちゃんのスーツケースがバカクソ重いって話。
おばあちゃんのスーツケースが重量制限心配になるくらいマジでバカ重かったんだけど、
「何も入ってないのよ〜このスーツケース古いから〜」って言ってたし、古いスーツケースの重さなんて知らんからそんなもんかなって思ってた。ハードケースだったし。
重量制限は23キロまでで、おばあちゃんのは20キロくらいだったはず。行きの時点でこれって土産のも買うはずだけど大丈夫????となったがホテルで開けて驚いた。
ナニモ…入って…ない…❓
スーツケースが古いとかそんな問題じゃねーよ。ギチギチに布詰めて「何も入ってない」なんて言える姿勢は逆にすげーよ。
ちょっと冷静になったけどこの後のお土産タイムで早速おばあちゃんが買ったワインは旅行中ずっと私のスーツケースに入れて運ばれた。たまにスーツケースから瓶が擦れて酒屋の音がした。
旅行の回数が多いだけの自称旅慣れてると本当の旅に慣れてる人というのは別物だ。
閑話3つ目である。ちなみに書いてあること全部まだ2日くらいで起こったことで、たかだか1週間程度の旅行でよくここまでネタがあるなとしみじみ思う。
一応海外旅行に行くからには大体のツアーには現地の有名料理が組み込まれている。Tボーンステーキもそれのうちの1回。2日目の夕飯だったかな。
ガイドさんがメニューを読み上げてなんかよくわからんサラダとか食べて、例のメインは来た。
ミスター味っ子で存在だけは知ってる料理だけあって私は若干テンションが上がっていた。
漫画の微かな記憶では左がヒレで右がサーロイン、さっぱりしたヒレを先に食べ脂の乗ったサーロインを味わうのが鉄板だと味っ子の顔のうるさい審査員が言っていた。
記憶のTボーンの比率は約1:2、出てきた肉の比率は1:5くらい。申し訳程度のヒレ肉に思わず笑ってしまった。これ、わざわざTボーンにする必要ある?
まぁそれは例によって外国なのでサーブされた人によって大きさも全然違っていた。海外に行ってまで日本のような画一化を求めるのが間違っているとも言える。日本が細かいのか、海外が雑なのか。
肉質にも差があって、同じテーブルのおじいさんは「固すぎて食べられない」と言っていた
私のは食べられないって程じゃなかったけど、先に言ったようにツアーの参加者は老人の方が大体だ。その人たちにこれは重いんじゃないかと思う。
そっかーとか思いつつ1人で黙々と食べてたら祖母が
「そうかしら?私のすっごく柔らかいのよ!ほら!」
と、見せつけるように肉を切っていた。肉が固いと言っていた人の目の前で。
何故。
嫌がらせか?と思ったが、別に祖母はそんなこと考えておらず、ただ思ったことを言っただけだ。それがナチュラルにマウントになる人なのだ。純粋培養のヤバ人(やばんちゅ)である。悪意は一切ない。
そしてその素直な性格がこの旅行を悲惨にした一番の原因である。
ただただ、いたたまれなかった。ここで私が「そういう意図はないんです!」なんてことは到底言えないし、言ったところで祖母は理解するような人じゃないし、わたしにできることと言ったら押し黙って肉を食うだけだった。
言われた同じテーブルの人たちは「人によって差があるのね〜」とかで流してくれた。大人だ。
3章 「こんなとこに住む人の気がしれませんよね」
イタリアといえばベネチア、水の都。今回のツアーももちろんベネチア観光が含まれていた。
こんなにネタがある時点ででお察しだとは思うが、祖母はかなり癖が強い。私と年代が違うから、というだけでなく単に人間としての癖が強すぎる。だから付き合うにはかなりコツなり話し方なりに工夫が必要だ。特殊食材?
祖母の特徴を端的に並べると
・謎の自信を持つ。
・反面、少々過剰に心配性な面もある。
・介護の息抜きに海外旅行へ行っていた。特にヨーロッパを中心に巡っていてイタリアにはもう何回も来たからもう飽きちゃったくらい!が旅の口癖だった。
謎の自信、杖の件はこれが遺憾なく発揮された結果だ。このエピソードで祖母の人間性が伝わったかと思う。決して悪い人ではないから逆にタチが悪いのだ。悪意じゃないから私もそんな強く言えないし、そもそも強く言えるような間柄でもないのがさらに状況の悪化に拍車をかけた。私は押しに弱い典型的な日本人であったから余計に。あの場にいたのがアメリカ人かもしくは私たちの母だったら「ダメよ!杖を持たないと出発しないから!」と断固拒否の姿勢を見せただろう。私も1人ストライキを決行すればよかった。
ここで問題なのが「イタリアにはもう何回も来て飽きちゃった!」の口癖だ。
わざわざ12時間飛行機に乗ってケツを酷使して見知らぬ土地に降り立って言うことがそれなの、普通にやばい。現地ディスしたい行動力の鬼なの?
修学旅行の同じ班に到着直後から「もう来すぎて飽きちゃった!」なんて言う奴がいたら、そいつ絶対回る友達いないでしょ。もし現地の京都人に聞かれて初手からぶぶ漬けを出されても文句は言えない。花輪くんでもそんなマウントは取らん。
しかし一番直近でも10年以上前、イタリアだって発展し続けるのだ。祖母は旅の間中も思い出のイタリア(思い出補正マシマシ)に浸り続けている。
ベネチアは陸から少し離れた場所にあり小さな船に乗って向かう。
海の水は綺麗ではないが、所狭しとゴンドラが並び、ヨーロッパの建築様式で作られたカラフルな屋根や壁に白い柱、窓の一つ一つまで細かな意匠が凝らされた建物がずらりと並び、それらが海の上に浮かぶ光景は圧巻だった。色んな作品の題材になるわけだ。これは日本では見れない、世界は綺麗なものがいっぱいあるなぁ、連れてきてもらってありがたいなと素直に感謝した。
水に浮かぶふかふかした地面の繋ぎ目を歩き、現地ガイドさんの説明を聞きツアーの皆さんもワクワクした目で街を見渡しているその時
「こんなとこに住む人の気がしれませんよね〜」
見れば祖母が隣の人になかなかの声量で話しかけていた。あえての悪意とかではなく井戸端会議で「や〜ね」とでも言うような表情で。
やめろや。思うのはまだ良いとして、百歩譲って話しかけるなや。瞬時に吹っ飛ぶ感謝。もっとありがたがらせてくれ。
隣の人はどんな反応をしたっけ。曖昧に相槌を打っていたっけ。でもこの場で言うべき言葉ではないことだけはわかる。
KY発言選手権があればこの発言はかなり上位に食い込む確信があるし、さらに現地で言ったことで芸術点も加算、相当な高得点を取れるはずだ。エピソードとして聞く分には良いのだけども。
これによって私は生涯ベネチアを思い出す際にはこの時の祖母の発言とあのいたたまれない気持ちを思い出すのだ。なんの呪いだよ。
以上、ベネチアでの思い出でした。
まぁこの後も絆創膏を探してドラッグストアの店員(イタリア人)に「Where is バンドエイド?」と英語で聞いたり(結局買えなくて私が持っていたのを渡した)自由時間で迷子になったり私が素敵な羽根ペン買ったら「お金あるわね〜」と本人にその気はなくても嫌味と取れる事を言われたりがありましたがエピソードとしては”弱”なので口頭で説明すれば良いかと思います。
四章 40万()のアクセサリー
「無いわね〜」
「何かなくしたんですか?」
「アクセサリーが入った袋がないのよ」
昨日はあったはずのアクセサリー類がまとめて見つからないのだという。身なりにこだわる祖母だ。アクセサリーもこの服にこれを!というものをあのギチギチのスーツケースに詰め込んできたらしい。
「あら、どうしようかしら〜……40万くらいするんだけど……」
パタパタと探してる最中の爆弾発言に思わず固まった。なんだって?
「あれ全部で40
膝の手術を3回受けた70代祖母が同行者の孫に無断でイタリア縦断超弾丸ツアーに申し込んだ話。
一章 〜杖買うって言ったじゃん!!〜
二章 「歩くのが早すぎるのよあのオバサン!」
三章 こんなとこに住む人の気がしれませんよね
四章 40万()のアクセサリー
五章 ナポリと靴
七章 ローマの夕食
・激重スーツケース
・自慢話と夏の空
・ボッティチェリに敬意を示して。
・嵐ってすげぇや!
孫が中学三年になるのに合わせて祖母が海外旅行に行きたいと言い出した。
昔は海外によく行っており孫と一緒に行くのが夢だったんだそう。
そこで白羽の矢が立ったのが、2番目の孫で初の女の子のわたし。
おばあちゃんは息子しかいないから初めての女の子をかわいがって、よく自分の好みの服やらを買って着せられた。娘がいたらしたかったことを私にしてる感じ。
あとまぁ「孫と一緒に旅行!」ってのが老人にとってはステータスなんだね。「孫と海外旅行をするくらい仲が良くて金銭的にも裕福な家庭」みたいなさ。
「あらお孫さんと旅行?いいわね〜羨ましいわ〜」って言われたいのもあったと思う。そりゃあ孫連れて旅行してる人がいたらそういう反応しかないでしょ。
当時は何も知らんかったから旅行行くのに全然賛成で二つ返事でOKしたし海外行けんの楽しみにしてた。
祖母は膝が悪く何度か手術の経験もあるため、最初は膝のこともあるしバンクーバーあたりのひとつの都市に留まってゆっくりしようねって話してた。
それが5月のある日
って。ねぇ、あんた。
パンフレット見せてもらったらまぁイタリアを北から南まで大移動する8日間の超弾丸ツアー。母が「大丈夫なんですか?」と心配そうに聞いても「大丈夫よ〜!」で聞きゃしない。
身体に爆弾抱えてる人がどうしてそこまで自信満々になれるのか。謎です。
テンションの上がった人間は突拍子もないことを言い出すの典型を目の前で見た。
1章 〜杖買うって言ったじゃん!!〜
そして迎えた当日、前泊する為に祖母の家に行った私が「杖あります?」って聞いたら、自信満々に「無いわ!でも多分大丈夫だと思うから!☺️」
まって??
いやもう、「なんで??」の一言に尽きる。
だって言ったもん、「買う」って言ってたやんけ。母さんがおばあちゃんの膝を考慮して折りたたみ式の勧めたり口酸っぱくして杖を持っていけって言ってたから。そりゃあ買ってると思ってたし若くないんだから過信しないでくれ、たのむから。
ここで私が間違ったのは不安に思いながらもすぐそばのショッピングモールに走って杖を買いに行かなかったこと。これが後に解決できない大問題となる。
今なら過去の私をぶん殴ってでも杖買ってこっそり自分のスーツケースに突っ込む。もし声だけでも伝えられるなら夜とか関係なしに「杖を探しに走れ〜!!!!!」って叫ぶ。絶対に。
「何かあったら現地で買うわ!」って言ってたから大丈夫かと思ってた。
予想してたとおり毎日足が痛くなるくらい歩く超弾丸ツアー。15歳の私でそうなんだから70代の祖母はさぞ辛かったと思う。
でもね?普通に考えて膝にボルト埋まってて普段杖ついてんのに、どう見ても歩くツアーに杖の1本も持ってかないなんて、そんなことある?
現地について2日目くらいに高級店が並ぶ通りで杖を見つけた。べっ甲の持ち手のついたツヤツヤの杖だったからこれならおばあちゃんも満足だろうと思って「杖ありましたよ!」って声かけた。のに。
「でもね〜、ここ(現地)の人に合わせてあるからおっきいのよ」
現地で買うって?言ってませんでした????
ちょっとマジでよく分からないんだけどそんなん最初からお前わかってたの?つまり絶対買う気ないのに買うって言ってたんか?って。
既にツアーの列から遅れて添乗員さんに迷惑かけてんのに何言ってんの?って。
オシャレでプライドの高い祖母にとって杖を着いて歩くのは格好悪いと、ただそれだけだったのだ。
イタリアに着いて初日、夕方に到着したのでそこからバスに乗る。着く少し前に機内食が出たから夕飯は無し、この日はホテルに直行して寝るだけ、明日から観光が始まる。
10時間以上のフライトで腰は痛いしケツはもじょもじょするしで、10時間前に一瞬顔を合わせた人たちと一緒のバスに乗ってホテルへ向かう。
ホテルの部屋へ入り、荷物の整理をして、今すぐシャワーを浴びて寝たいところだが事は起こった。
シャワーが出ないのだ。
普通、コックを上下に動かせば水が出るし、それをひねれば温度調節ができる。少なくとも日本ではそうだ。
このシャワーはどうだろう。コックを上にあげると蛇口から水が出る。コックをひねって温度調節も可能だ。それでも蛇口から繋がるシャワーはうんともすんとも言わなかった。
困った。いちおう先進国なのに世界共通で必須のものの使い方がわからないなんてことある?私はある
長旅直後に知らない土地で使い方がわからなくてゆっくり風呂にも入れないなんて哀れだね。
しばらく考えて、海外経験の豊富なおばあちゃんなら知ってるかなと思って聞いてみたら、祖母はすぐに「フロントに連絡するわ!」と。
あんたも知らないんかーい
いやいいんだけど、知らないのは別に良いのだけどね、ここでフロントに連絡してもイタリア語なんてさっぱりだし、なんなら英語も怪しい祖母と孫で外人のスタッフとコミュニケーションが取れるなんて到底思えない。
それだけは勘弁してくれの一心で私はひたすらスマホで使い方を探した。
その間も祖母は3分に1回「やっぱりフロントに聞いた方が良いんじゃないかしら」と言ってきた。祖母なりに心配だったのだと思う。その自信はどこから来るのかだけ聞かせて欲しい。
型番を検索しても外国語のページが出るばかりで、祖母によるホテルスタッフ襲来の圧を受けながら色々いじくっていたら、ふとした拍子にシャワーから水は出た。
蛇口から水を出した状態で蛇口の先の部分を引っ張るとシャワーが出る仕組みだったらしい。初見殺しか?
なんでこんなとこで1人謎解きやってるのかさっぱり分からないが、ホテルスタッフを呼ばれる前に解決できたのはファインプレーだったと今も思っている。
二章 「歩くのが早すぎるのよあのオバサン!」
歩く!歩く!歩く!
超弾丸ツアーはひたすら歩く。海外旅行に行く層なんて暇と金のある金持ちのじいさんばあさんが主なのに、旅行会社のツアーは「夢の🎶イタリア一周」だとか、「スペイン♡世界遺産ツアー」だとかの移動にかなり無理があるツアーばかりを組んでくる。
例に出したのは私が実際に祖母(父方 母方)と参加したツアーだ。そしてどちらも参加者の平均年齢が60を越していた。
老人、己の体力を過信するな。
もしかしたらゆったりしたツアーもあったかもしれないけど、私が知る前に祖母は申し込んでいたから知る由もない。そゆとこの報連相大事だと思うんだ!
数日で全部を回ろうなんてツアーでは大体の日程がメチャクチャ歩いてるか数時間バスに乗るかの2択になるが、直射日光を浴びて歩いたジジババばかりのバスなんて小学生の遠足帰りのバスより爆睡率が高い。
寝息の聞こえる静まり返ったバス内は幼稚園のお昼寝の時間と同じ空間だった。
日に当ててから涼しいとこでゆっくりさせるのはね、寝かしつけの方法なんよ。
私はイタリアに行ってまでソシャゲのガチャを引いて、推しが出ては「ありがとうイタリア…😭🙏」とTwitterにつぶやくだけになった。景色は飽きる
大体このガイドはやたら大声でハキハキと話す細身な40代くらいの女性が多い。あとなんかダサい旗持ってるよね、キティちゃんとか。
そんで、そのハキハキしたおばさんガイドはめちゃめちゃ歩くのが早かった。大股でズンドコ行くので必死で追いかけるが、配布のトランシーバーで早口で観光地の説明をするから忙しい。
実績解除のための観光だ。この現地ガイドにより観光はRTA(リアルタイムアタック)に様変わりした。
参加者も置いていかれないよう頑張って着いていくが、ここで忘れちゃいけないのが祖母だ。
観光は現地ガイドが先頭に立ち先導しつつ、はぐれる人がいないよう1番後ろを常勤のガイドで挟む姿勢を取る。
私が息切れしながら振り返ると、横にいたはずのおばあちゃんがいなかった。
前に言った通り祖母は膝が悪く、普段杖をついているくらいだから当然歩くのが遅い。それに杖無しというデバフ+でこぼこの石畳+傾斜が拍車をかけた。
「歩くのが早すぎるのよあのオバサン!」
うん、まあ、なんだろう。同情できない。
列の1番後ろでガイドさんに付き添ってもらって悪態をつくって、どう???
ガイドさん、ごめんな。
杖があればどんなに楽だっただろうと今更ながら後悔したし、この旅行中頭の10%くらいでは常に杖のことを考えていた。ちなみに今でも百均で杖を見ると「この!クソ!!これがあれば!!」と思う。500円しないで買えるんだぜ?
閑話 クソ重スーツケース
表題の通りである。おばあちゃんのスーツケースがバカクソ重いって話。
おばあちゃんのスーツケースが重量制限心配になるくらいマジでバカ重かったんだけど、
「何も入ってないのよ〜このスーツケース古いから〜」って言ってたし、古いスーツケースの重さなんて知らんからそんなもんかなって思ってた。ハードケースだったし。
重量制限は23キロまでで、おばあちゃんのは20キロくらいだったはず。行きの時点でこれって土産のも買うはずだけど大丈夫????となったがホテルで開けて驚いた。
ナニモ…入って…ない…❓
スーツケースが古いとかそんな問題じゃねーよ。ギチギチに布詰めて「何も入ってない」なんて言える姿勢は逆にすげーよ。
ちょっと冷静になったけどこの後のお土産タイムで早速おばあちゃんが買ったワインは旅行中ずっと私のスーツケースに入れて運ばれた。たまにスーツケースから瓶が擦れて酒屋の音がした。
旅行の回数が多いだけの自称旅慣れてると本当の旅に慣れてる人というのは別物だ。
閑話3つ目である。ちなみに書いてあること全部まだ2日くらいで起こったことで、たかだか1週間程度の旅行でよくここまでネタがあるなとしみじみ思う。
一応海外旅行に行くからには大体のツアーには現地の有名料理が組み込まれている。Tボーンステーキもそれのうちの1回。2日目の夕飯だったかな。
ガイドさんがメニューを読み上げてなんかよくわからんサラダとか食べて、例のメインは来た。
ミスター味っ子で存在だけは知ってる料理だけあって私は若干テンションが上がっていた。
漫画の微かな記憶では左がヒレで右がサーロイン、さっぱりしたヒレを先に食べ脂の乗ったサーロインを味わうのが鉄板だと味っ子の顔のうるさい審査員が言っていた。
記憶のTボーンの比率は約1:2、出てきた肉の比率は1:5くらい。申し訳程度のヒレ肉に思わず笑ってしまった。これ、わざわざTボーンにする必要ある?
まぁそれは例によって外国なのでサーブされた人によって大きさも全然違っていた。海外に行ってまで日本のような画一化を求めるのが間違っているとも言える。日本が細かいのか、海外が雑なのか。
肉質にも差があって、同じテーブルのおじいさんは「固すぎて食べられない」と言っていた
私のは食べられないって程じゃなかったけど、先に言ったようにツアーの参加者は老人の方が大体だ。その人たちにこれは重いんじゃないかと思う。
そっかーとか思いつつ1人で黙々と食べてたら祖母が
「そうかしら?私のすっごく柔らかいのよ!ほら!」
と、見せつけるように肉を切っていた。肉が固いと言っていた人の目の前で。
何故。
嫌がらせか?と思ったが、別に祖母はそんなこと考えておらず、ただ思ったことを言っただけだ。それがナチュラルにマウントになる人なのだ。純粋培養のヤバ人(やばんちゅ)である。悪意は一切ない。
そしてその素直な性格がこの旅行を悲惨にした一番の原因である。
ただただ、いたたまれなかった。ここで私が「そういう意図はないんです!」なんてことは到底言えないし、言ったところで祖母は理解するような人じゃないし、わたしにできることと言ったら押し黙って肉を食うだけだった。
言われた同じテーブルの人たちは「人によって差があるのね〜」とかで流してくれた。大人だ。
3章 「こんなとこに住む人の気がしれませんよね」
イタリアといえばベネチア、水の都。今回のツアーももちろんベネチア観光が含まれていた。
こんなにネタがある時点ででお察しだとは思うが、祖母はかなり癖が強い。私と年代が違うから、というだけでなく単に人間としての癖が強すぎる。だから付き合うにはかなりコツなり話し方なりに工夫が必要だ。特殊食材?
祖母の特徴を端的に並べると
・謎の自信を持つ。
・反面、少々過剰に心配性な面もある。
・介護の息抜きに海外旅行へ行っていた。特にヨーロッパを中心に巡っていてイタリアにはもう何回も来たからもう飽きちゃったくらい!が旅の口癖だった。
謎の自信、杖の件はこれが遺憾なく発揮された結果だ。このエピソードで祖母の人間性が伝わったかと思う。決して悪い人ではないから逆にタチが悪いのだ。悪意じゃないから私もそんな強く言えないし、そもそも強く言えるような間柄でもないのがさらに状況の悪化に拍車をかけた。私は押しに弱い典型的な日本人であったから余計に。あの場にいたのがアメリカ人かもしくは私たちの母だったら「ダメよ!杖を持たないと出発しないから!」と断固拒否の姿勢を見せただろう。私も1人ストライキを決行すればよかった。
ここで問題なのが「イタリアにはもう何回も来て飽きちゃった!」の口癖だ。
わざわざ12時間飛行機に乗ってケツを酷使して見知らぬ土地に降り立って言うことがそれなの、普通にやばい。現地ディスしたい行動力の鬼なの?
修学旅行の同じ班に到着直後から「もう来すぎて飽きちゃった!」なんて言う奴がいたら、そいつ絶対回る友達いないでしょ。もし現地の京都人に聞かれて初手からぶぶ漬けを出されても文句は言えない。花輪くんでもそんなマウントは取らん。
しかし一番直近でも10年以上前、イタリアだって発展し続けるのだ。祖母は旅の間中も思い出のイタリア(思い出補正マシマシ)に浸り続けている。
ベネチアは陸から少し離れた場所にあり小さな船に乗って向かう。
海の水は綺麗ではないが、所狭しとゴンドラが並び、ヨーロッパの建築様式で作られたカラフルな屋根や壁に白い柱、窓の一つ一つまで細かな意匠が凝らされた建物がずらりと並び、それらが海の上に浮かぶ光景は圧巻だった。色んな作品の題材になるわけだ。これは日本では見れない、世界は綺麗なものがいっぱいあるなぁ、連れてきてもらってありがたいなと素直に感謝した。
水に浮かぶふかふかした地面の繋ぎ目を歩き、現地ガイドさんの説明を聞きツアーの皆さんもワクワクした目で街を見渡しているその時
「こんなとこに住む人の気がしれませんよね〜」
見れば祖母が隣の人になかなかの声量で話しかけていた。あえての悪意とかではなく井戸端会議で「や〜ね」とでも言うような表情で。
やめろや。思うのはまだ良いとして、百歩譲って話しかけるなや。瞬時に吹っ飛ぶ感謝。もっとありがたがらせてくれ。
隣の人はどんな反応をしたっけ。曖昧に相槌を打っていたっけ。でもこの場で言うべき言葉ではないことだけはわかる。
KY発言選手権があればこの発言はかなり上位に食い込む確信があるし、さらに現地で言ったことで芸術点も加算、相当な高得点を取れるはずだ。エピソードとして聞く分には良いのだけども。
これによって私は生涯ベネチアを思い出す際にはこの時の祖母の発言とあのいたたまれない気持ちを思い出すのだ。なんの呪いだよ。
以上、ベネチアでの思い出でした。
まぁこの後も絆創膏を探してドラッグストアの店員(イタリア人)に「Where is バンドエイド?」と英語で聞いたり(結局買えなくて私が持っていたのを渡した)自由時間で迷子になったり私が素敵な羽根ペン買ったら「お金あるわね〜」と本人にその気はなくても嫌味と取れる事を言われたりがありましたがエピソードとしては”弱”なので口頭で説明すれば良いかと思います。
四章 40万()のアクセサリー
「無いわね〜」
「何かなくしたんですか?」
「アクセサリーが入った袋がないのよ」
昨日はあったはずのアクセサリー類がまとめて見つからないのだという。身なりにこだわる祖母だ。アクセサリーもこの服にこれを!というものをあのギチギチのスーツケースに詰め込んできたらしい。
「あら、どうしようかしら〜……40万くらいするんだけど……」
パタパタと探してる最中の爆弾発言に思わず固まった。なんだって?
「あれ全部で40
多くの日本人にとって宗教は「必要のないもの」という感覚が共有されているように思う。
しかし、本当にそうだろうか。
あるいは、「宗教は必要のないもの」という認識が宗教問題について冷笑的な態度を生み出し、本当にその問題について考えることを無意識的に避けてしまうのではないだろうか。
もともと、この語源となるラテン語における「Religio」は、「(精神的な)深い絆や繋がり」を指す言葉であり、もしくは今日においても「Religious」が指すように「信仰深い態度」そのものを指す言葉として使われていた。今日における「○○教」といったような言葉は、単に「○○の弟子たち」あるいは「○○の後を追う者」といったような言われ方がされてきたし、日本においても「茶道」「武道」などの言葉に残るように「仏道」など「○○道」という言葉があてがわれていた。近代に入るまで「信じる」ということが、より実践的な行為と不可分なものとして扱われていたことがうかがえる。
私なりに「宗教」という問題が何を指すのかを考えてみるところ、それはおそらく「生き方(a way of life)」そのものなのだ。
このように言うと、「ならやっぱり必要ないじゃないか。現に私たちは宗教に頼らずとも、自分たちの生き方に不満がないのだから」と言いたくなるかもしれない。それもひとつの「生き方」だ。
しかし、もう少し俯瞰してみると、これには以下のような構造が見て取れる。つまり、日常生活においては必要のないものもいるかもしれない。しかし、自身の生きる目的や指針などが根底から揺らいだ時にも果たしてそうだろうか。宗教的契機は必要なときに必ずや立ち現れるものなのかもしれない。
少したとえ話をしよう。
人類史における長い間、「地球は平だ」とする見方が優勢だった時期があった。しかし、当時に生きる人々はそもそも、大半が一生を自分の村で過ごす農民だ。たとえ貴族であっても交流の範囲は限られていた。シルクロードを通じて、遠くから物品が運ばれてくるとしても、それは「遠くから運ばれてきたもの」であり、具体的にどのような道を通ったのか、その間に地平線を意識することもなければ、時差について説明する必要もあまりなかったはずだ。つまり、「丸いと考える必要がなかった」のだ。
しかし、時代は移り変わり大航海時代。領域国家なども生まれ、人々の交流範囲がどんどんと全地球規模に発展していった。その過程で、例えば「他国より手短にインドに行ける方法」を知らなければいけなくなったし、「離れた地域の人と連絡を取る方法」を考えなければいけなくなったし、「大規模な航海を行う必要」にかられた。その過程で、新たな発見を迫られ、徐々に「地球は丸い」という考え方が受け入れられてきた。
これは、地動説VS天動説にしろ、アリストテレス目的論VSニュートン力学にしろ、ニュートン力学VSアインシュタイン量子力学にしろ、パラダイムシフトというのは、往々にしてこのように「新たな問題に気付き、これを解決する過程で、認識全体が変容する」ことによって起こってきた。
宗教においてもおなじことがいえる。
つまり、「宗教」というものも、そのようにより深い、目の前の生計や、人間関係、さらには政治や技術、そういった問題を超えた「自分自身は何のために生まれて、何のために生きているのだろう」「この世界は何のためにあるんだろう」といったような問題に対処するための、プラグマティックな実践論といえる。
そして、「自身の生き方に行き詰ったとき」「自身の生き方を見直さなければならない時」に、必ずこうした宗教的問題に取り組む契機が訪れるのだ。
これは、「既存の伝統宗教や新興宗教は信じるに値するか」といったような問題とは異なる、より根本的な「宗教的契機の構造」の話をしている。その上で、「どんな信仰体系がその個人にとって意味があるのか」は、その個人のマインドセットや、置かれている社会的・文化的環境によって異なってくるだろう。もちろん、その人が置かれている社会的・文化的環境によっては、特定の信仰体系が反社会的であるとされることも容易に想定できる。それこそ、人々が宗教的契機に恵まれる、「自身の生き方の根底が揺さぶられるショック」を受けた状態に、巧みな言葉を投げかけ、献身的な信者を作ろうとする商業主義的宗教は、必ず唾棄されなければならないと考えているし、宗教のもつ「強固な集団形成力」が誤った方向に向けられ多くの不幸を生み出した事例は人類史を見ても枚挙にいとまがない。伝統宗教に価値を見出すとすれば、それは「長年生き残ってきた風習」であることに意味を見出す保守主義的観点からだと言えるかもしれない。いずれにしても、それが「生き方」の問題である以上、ひとりひとり、さらに状況によっても異なって当たり前だし、多様な実践が見られて当然だろう。
「宗教は我々の生き方(a way of life)を根底から見直すときに必ず立ち現れる根本的な認識論であり実践論である」
サービスは便利になるか安くなるか、必ずそのどちらかだと思ってた。
それが今、「サービスそのものを存続させるためにサービスレベルを落とすフェーズ」に突入している。あらゆるサービス業において。
タブレット端末で注文してください。
部分的に便利になっていたとしても、それで誰かが排除されていたり選択肢が狭まっていたりユーザの手間が増えていたりして、総合的には不便になっている。
こういう世の中の変化を「それでよし」と受容してる人がけっこう多いけど、実はサービスの質が落ちていくことって都市生活者は今までほとんど経験したことがなかったはずだ。
電車バスは減便になったり廃線になったり。スーパーはなくなる、郵便局はなくなる、医療機関はなくなる。シュリンクしていく日本の最前線に立って、打ち寄せる波の侵食をまともに受けとめていたのは過疎地の人々だった。
都市に住む人々は「自分たちは内陸に住んでいるから、波とは関係ない」と思っていたかもしれない。だが、もう違うのだ。水位は上がり、海岸線はずっと後退した。今私達はみんなが波打ち際に立っている。
ある村が今日から無医村になるのも、ある店の料理を今日からロボットが運ぶのも、全然違う出来事のように見えて実は質的には同じ現象なのだよ。
羨ましすぎて涙が止まらない
時代も全くおんなじ。みんなバラバラの進路に進んだけど、30代になっても月2、3で会って他愛のない話をずーーーーっとしてた。プリクラも撮った。カラオケも旅行も行った。老人ホームの話だってした。写真だって何百枚もある
一昨年、そのうちの1人が事故で亡くなった
通夜も行った。葬式も行った。親御さんから受付係を頼まれて、入り口に飾ってある遺影を信じられない気持ちで眺めていた。親戚ではなかったけど、釘打ちまでさせてもらえた。棺に入っていた品物は、ほとんど私たちの思い出にあるものだった
もしドラマみたいにやり直せたら
来世がアリクイでもいい。シロアリでも、フナムシでもいい。彼女に会えるなら、また4人で他愛のない話なら、生まれ変われなくてもいい
羨ましい。寂しい。会いたい
私には3歳下の妹がいる。妹とは私が大学進学する18の春まで実家で過ごした。
妹は学校でも仕事でも嫌になればすぐ辞めた。だから定職はない。今は週一でアルバイトしているらしい。ちなみに現在妹は実家暮らし。
2年ほど前、結婚相談所で出会った相手と半年くらいの付き合いで結婚。結婚生活は半年で破綻し実家に戻ってきた。妹の言い分は相手がアスペルガーであると言うもの。自分はカサンドラ症候群になったそうである(某
正直、42から婚活って遅すぎやしないか。20年何をしてきたのだろう。
高校卒業後は専門学校に行っていたが親も私も知らないうちに辞めていた。その後自称アルバイトだったが風俗で働いていたのを私は知っている。私が既知だと言うことはおそらく妹は気づいていない。
昼の時間に働く正社員に一瞬なった時もあった。この時は保証人が必要だからと年金暮らしの親に代わり私が保証人になった。ところで就職するにあたり保証人が必要なのか私は聞いたことはないが、就職先は時々CMもしているホームセンター。一応まともであると思う。
しかしそのホームセンターも半年程で辞めていたのを後から知る事になるのであるよ。保証人とは?
辞めた理由はコロナ禍で接客は無理とのこと。なら何の仕事も無理なのでは?単純に嫌になっただけだろう。コロナ云々はテイの良い言い訳でしかない。
その後妹の目標は結婚になったようで結婚相談所に入会。出会った相手とスピード婚andスピード離婚するのである。
お前は何にしても続いた試しがない。とにかく男に頼るのは辞めて自立せよと伝えた。加えて結婚相談所で出会うのはどうか。お前も含めて実生活で相手を見つけられない集まりなのだから難ありと了承すべきと言う主旨の
内容をLINEした。これが一昨年の秋。
夏が来てコロナ禍ではあるが人々の移動にも多少寛容になった頃、私は娘たちを連れ四年ぶりに実家へ帰省する予定だった。
出発一週間前、母から実家には来てくれるなと理由を告げず連絡が来た。既に飛行機をキャンセルすると半分くらいしかお金が戻らない時期だった。理由をいくら聞いても母はこちらの都合でごめんなさいと謝るばかり。埒が明かないので帰省は諦めた。きっと妹が会いたくないとでも訴えたのだろう。久しぶりに祖父祖母に会うのを楽しみにしていた娘たちには行けなくなった事を伝えた。これが一番苦しかった。娘たちには私と妹の確執なんて関係ないのに申し訳なく思った。
しかし。妹に苦言を呈したのは間違いだったのだろうか。母にも腹が立った。私が妹に伝えた事はド正論であるがストレート過ぎたのだろうか?だとしても母は親として妹のふるまいを諭したりしないのだろうか?
後で知る事になるのだが、やはり夏の私たちの帰省は妹が会いたくないと言う理由から断られたものだった。
私はまずは経済的な自立を促したのだ。女が40過ぎで結婚相手を見つけるのは厳しい市場である、それでも結婚相談所での出会いを望むなら相手にも難ありを了承すべきで寛容でなければ、そりゃ成功しないだろう。
思えば結婚する時も母は私に
等と発言していた。きっといつまでも娘の世話は出来ない、いい加減手を放したかったのだろう。
ドン引きだった。
相手に経済的にぶら下がるつもりで結婚するものなのか?まずは自身が経済的に自立することが先決なのでは?ど真面目に生きてきた私はそう思った。男側だって全力で体重かけられたら逃げたくなるだろう。母は前時代的な考え方で結婚したら妻を養うものであると本気で思っているんだなと感じた出来事だった。
こんな考えだから令和の時代の結婚観についていける筈がない。私自身は大学で知り合った同級生と長く付き合った後に結婚した。夫も一馬力ではストレス大だろうし私も不安なので今でも仕事は続けて勤続25年が過ぎた。
結婚相談所で妹に出会った相手もたかだか半年で知り合った相手をただただ養うのは荷が重過ぎたのではないか?何年か付き合いがあり、その相手を養うのとでは情に違いがあり過ぎる。
そんな訳で私は親との連絡もなんとなく避けて今に至る。親と絶縁に近い状態になるとは思わなかった。
数の概念は文化や歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。
数の概念は哲学的な問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限は自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。
数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的な実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間の言語や思考に依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的な実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。
数の概念は数学の基礎付けにも関わる。数学の公理や定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデルの不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題が存在することを示した。
数の概念は、かつて客観的な現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的なものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。
自我や自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システムを表現する有効なツールであることは、どのレイヤー、スケールにおいても明らかである。
数の概念は私たちの知識や理解を拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。
数の概念は、私たちの世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)
————————-
それこそ、一人でもトラバ主と同意見の人がいれば、「私たち」というときの「わたし」以外の人間はその同意見の人に相当するということで正しく意味を還元できるから、同意見の人が0ってことは考えづらいし、間違ってないんじゃね。
関連:anond:20240220230654 anond:20240213160050
弁護士がにじさんじの炎上を分析する動画:https://www.youtube.com/watch?v=h_5I3JS_k40
リーガルマインドセット(以下、リーガル):アメリカ人弁護士。日本や韓国で仕事をしたことがあり、日本の法律についての知識がある
リーガル:
ひどい慣習だ
そんなことをすればa legal nightmareを呼び寄せるようなものだ
大企業で法人弁護士を務めたことがあるが、こんなことは絶対にしない
通知が行くのは、本人とその弁護士だけ
ゲーター:
セレンの場合は本人に通知すら行かず、友人に教えられてツイートを読んで知った
リーガル:
人々はそういうことをやっていいと思ってしまっているんだ
ディズニーもそれをやっていいと思って、ツイートを介してジーナ・カラーノを解雇した
ゲーター:
本来、契約解除ツイートは1ページだけで、もっと漠然とした内容になっている
こんなに細かく描かれているのは普通じゃない
Vtuberはアイドル文化が根底にあるため、文化的な違いもあるだろう
リーガル:
問題は英語圏での観点を理解していない日本人によって運営されているという点
こういう声明を出すのであればよく吟味する必要があるし、こんな情報を出してもみんなが受け入れると思ってはいけない
契約違反に関する法律はわりとインターナショナル(全世界共通)
ただし、ドキバードがカナダから日本では適用されない法について提訴することは可能
日本の問題について分析する際にはこの点について極めて注意しなければならない
多くの人はこの点を誤解してしまう
例えば外配信をしていて誰かが画面に写ったとして、その人が抗議した場合、即座に修正しなければ大変なトラブルになるので、モザイクを掛けたほうがいい
そういうわけなのでこの言葉はアメリカのそれよりも強い響きがある
1ページ目だけを見ても内容は中傷的だ
日本や韓国では、普通の職場であってもブラックである傾向がある
これをしなければ罰するぞ、評判を下げるぞ、VISAを打ち切るぞ、というような権力構造がある
日本の企業はどこも共に働くのが難しいが、最悪なのがブラック企業だ
日本や韓国で働いた経験からすると、彼らは外人をあまり気にかけない
しかしこのレベルのコントロール下に置かれるのあればほとんどの場合ライバーは社員とみなされる
この時点ではセレンはこのことについてコメントしていないため、問題になりうる
ゲーター:
この点はカナダの法律(健康情報や個人情報保護に関するPIPEDA)に抵触する
アメリカにはHIPPAがあるが、カナダのPIPEDAはそれより厳しく、健康情報の他、住所やローン、年齢、精神状態、障害、職歴に至るまで、本人の同意なしには公開できない
リーガル:
つまり、この点をプライバシー侵害としてカナダで提訴することができる
日本での裁判は大企業相手なので不利な戦いになるが、カナダでの裁判はかなり楽なものになるだろう
この箇所では他のライバーを話題に上げているため、特に問題がある
ハラスメントと他のライバーとが結び付けられているが、もしこれが間違いであれば、他のライバーに対する多大な損害となる
マネジメントに問題があるように見受けられるのに、他のライバーが問題としてやり玉に挙げられていることから、他のライバーがにじさんじを提訴する可能性もある
実際にその合意を読んでみないと確かなことは言えない
ちなみに私はセレンの弁護士から有責性を完全に取り払いたいとは思わない
その合意の中身を読まない限り、セレンの弁護士がやらかしたのか、にじさんじの弁護士が合意を侵害したのか、はたまたそれ以外なのか、わからない
カナダの弁護士が日本の法律には同様の守秘義務がないことを知らなかった可能性もある
国際法を扱ったことがないアメリカの弁護士の多くはよくこの点について勘違いをしてしまい、他国も同じだと思いこんでしまう(が実際はそうではない)
ゲーター:
リーガル:
セレン側は日本の法律には同種の守秘義務がないことを知らなかったかもしれない
そこはドキの弁護士が上手くやったんだろう
「あらゆる発言は自分にとって不利な形で使われる可能性があるから気をつけなさい」と
すべての発言は不利な形で使われる可能性があるのに、べらべらと喋り続けている
私からすれば狂ってる
にじさんじの声明を取り上げたあとにCEOの声明も取り上げるよ
「私たちNIJISANJI ENが非常に明確にしておきたい重要なことがあります」
違法かと言われれば必ずしもそうではないが、でも間違っている
ある日、あなたは目覚めてみると、世界が全く異なっていることに気づきました。あなたの部屋には、お茶を淹れるAI、あなたの気分に合わせて音楽を選んでくれるAI、さらにはあなたのジョークに笑ってくれるAIまでがあります。すべてが便利で、すべてが完璧です。しかし、ある瞬間、あなたはふと「何かが足りない」と感じ始めます。
### つながりを求める欲求
あなたは友人にメッセージを送りますが、返ってくるのはAIが生成した、友人の口調を真似た返信です。心地よいはずなのに、なぜか空虚です。あなたが本当に求めていたのは、スクリーンの向こう側にいる、生の感情を共有できる「人」だったのです。
ある日、あなたはAIに「最高の休日プラン」を提案してもらいますが、そのプランが予算オーバーであることを知ります。AIは倫理的な判断ができず、あなたの財政状況を考慮してくれません。ここであなたは気づきます。正しい選択とは、データや論理だけではなく、個人の価値観や状況を繊細に理解することから生まれるのです。
最後に、あなたは新しい言語を学びたいと思い立ちます。AIはあなたに完璧な文法と単語を教えてくれますが、実際にその言語を話す国を訪れるまで、その言葉の美しさや深さを本当には理解できませんでした。言語を学ぶことは単なる単語の暗記以上のものであり、その文化や人々とのつながりを深める旅だったのです。
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このように、AIが私たちの生活を便利にしてくれる一方で、人間ならではの経験や感情、価値観はAIでは置き換えができないものです。私たちが本当に価値を見出しているのは、テクノロジーではなく、人間としての深いつながりや成長の過程なのかもしれません。
33歳上の男性(現在 67)と5年前に結婚したその前から、セックスレスがはじまっていた。
夫は専業主夫であり、もうリタイアメントをして働いていないので
私に対して断る際に
「寝かせてくれ」「疲れてる」ということは言ったことはない
「うん、またしようね、愛してるよ」と言って後ろを向いて寝てしまう。
体力はあるはずだ。毎週ゴルフやトレッキングに行って若々しい。
女としての価値がないのだろうか?こんな辛いことはないと思った。
辛くならないようにしたこと
1、 私の仕事をもっと忙しくし、私の体力的にセックスをしたくない状況にし一緒に寝るだけでの幸せを感じるようにする
2 、性的なことじゃなくても愛情を感じるようにする(少しでもしてもらったことの感謝を忘れない)
3 、 派手な下着とかで興奮させる作戦・外でする・嫉妬させる?とかそういうのは徹底してやらない
4、おそらく夫もED気味で悩んでるのかも知れなかったが、踏み込んで話をしなかった(プレッシャーを与えたくない)
とにかく、私が幸せを感じることよりも夫が幸せを感じることを徹底して願った。
ただ、本当に女としての生物学的な魅力がないのだろうかと深く深く悲しんで
絶望的になり、泣いたりもした。
そんな中、冷静に、下記、試してみた結果、
私の方からの提案をし、(3ヶ月期間ほど)その骨子を箇条書きにする。
私「寝よ!あ、キスだけして寝よ!」→「いいよ」
私「ねえねえ、寝れないの?だったら、セックスしたら寝れるかもだけど、、私が気持ち良くさせてあげる。」→ 「いいの?」
私「あー今日は疲れたわ仕事疲れた〜寝る」 → 「そっか、疲れてんだね。ごめんね。」
私「明日は、初めてセックスした日から*年経つね。」→「ごめんな、俺はEDだった。薬も貰った。これでもう二人の悩みは解消される。ごめんね」
私は先日、妊娠した。
「専門でないため」という理由で哲学について言及することを避けましたね。専門とはどういうことなのでしょう。よく知らないから語らない、なら分かります。専門でないから語らない、というのは、よく聞きますが、正直言って意味が分かりません。ただ、不勉強で答えられません、ではダメなのでしょうか。専門でなくても、詳しければ耳を傾けたいと思います。専門であるかどうかは、私たちにとっては関係のない事情かなと思います。
これが示唆しているのは、
ある言葉を受け取ると、
その言葉に対応する言葉というものが創造されているということだ。
それは乱暴な言葉に対しては乱暴な言葉が対になるということだ。
とするならば、人間の仕組みというのは我々が考えているものと少し違うものとなるのかもしれない。
一般に信じられているのは、
それゆえに「なんだとこの野郎!」というような言葉が出力されているという仕組みだ。
しかし、実際には感情のないAIでも感情を害したかのような出力を行うのだからこの理解は間違っている。
自動的に
「なんだとこの野郎!」
という言葉が想起される。
はじめて自分は気分を害しているのだ、
ということを知り、
その結果として人間の古い脳に怒りの反応を起こさせている可能性のほうが高い。
順番が違うのだ。
ある言葉にたいして怒ったから、怒りを含む返事を思い浮かぶのでなく、
ある言葉に対して、それと対になるような怒りを含む返事を連想したから、脳は怒るべき状態なのだと知り、そして怒るのだ。
おそらくそういうことだろう。
モバゲーやグリーはやったことないけど、バキバキに同世代だね!
ゲームはコンシューマばかりで、FF10とかドラクエ7とかやってた!
あとPSPとかね!
セガジーとかディシディアとかゴッドイーターとかクライシスコアとか…
あと遊戯王OCGもやってた笑
女児向けはわたしは東京ミュウミュウとかカードキャプターさくらとか大好きだったよ!
だぁだぁだぁももちろん好き!主題歌両方歌える!!あと2も読んだ!
クレヨン王国よりはどれみちゃんかな。でも紙石鹸のおもちゃは持ってたわ笑
原作はりぼん派だったな!先日ギャルズの続編一気読みしたわwペンギンブラザーズとかダブルピンチとか好きだったな。
中学上がってすぐ部活漬けになってテレビ見なくなっちゃったのよね…
若い頃は楽だったなー。
若い頃はな…
アラサーは大枠の「若い」を抜けただけでまだ老けきってもいない微妙な年頃なので、ほんの数年前を指して「若い頃」とはあまり言わない。
老化の始まりを自覚するが、まだまだ動けるし、社会的には比較的若手扱いの宙ぶらりんな時期だ。アラサーで若者の矜持を完全に捨て切っている人は少ない。
本当に増田がアラサーなら、遠い目をして「若い頃はな…」とぼやくのはイキりたい大学生みたいで少々ダサいので、「10代の頃は」と言い換えた方がいいかも。
私にはアラフィフに片足を突っ込んだ姉がいるが、彼女は若い頃出会いを求めて合コンに行っていた。
あの時代は出会い系サイト全盛期でもあったので、繁華街があるような土地なら簡単に相手が見つかったはずだ。
増田がアラフィフ以下なら、わざわざ寒い思いをして花壇のふちに座る必要はなかったのではないか。
「ああっ、ごめんなさい!タバコの灰がっ」
「っ」に加齢臭がこもっている。アラフィフ以上の人が若い頃読んでいた漫画には、語尾に「っ」を多用するセリフが多い。
当時はマチアプなんてYYCくらいしか無かったけど、それを使うより野生の男とエンカウントするのが楽で手っ取り早くて良かった。
なぜ前段で姉の話をしたかというと、ここがあまりにもおかしかったからだ。
私たちが大人になった頃にはもうスマホもLINEも、いわんやマッチングアプリも一般に普及していたはずだ。
https://www.ibjapan.jp/match-lab/history02/
今年34歳になる人は90年(平成2年)生まれ、25歳になる人は98年(平成10年)生まれなので、大手アプリそっちのけでYYCを使っていたアラサーは相当趣味が渋い。
たまに声をかけてくれる人があっても、オバチャン扱い笑笑笑
“オバチャン扱い笑笑笑”
“ヤニ食って”
明らかに平成生まれの語彙ではない。友達が使っていたらどこで覚えたのかと笑ってしまう。
文体の分析と模写が趣味の釣り師かな。露骨すぎるからもう少し抑えて。
夫は40前に差し掛かって、柔らかくなり、回数もできなくなった夫チンポ。
アラフォーにしては衰えが早すぎる。
元彼の今のツレに払う金はない。
「今カノ」でも相当に古いが「ツレ」は…ガラの悪い人なら言うのかなぁ。アラフィフ以上の人が使うイメージ。
「女だって男と同じだけ働ける!!働かせろ!!私たち以外の女も採用しろ!!たくさん採用しない会社は差別加害者として糾弾する!!」
って叫びまくった結果なんだけど
でも時代は変わり
「なんか女も働かないといけないらしい。フルタイム正社員で働くことが当たり前らしい・・・
昔は違っていたのに・・・なぜだ!!
なぜ令和になったら女も働かないといけないんだ!!!男のせいか!!!!」
って感じなのかね
「男女平等なんだから、男も女もみんなが全力で働くのが当たり前だよね」
って感覚なんだろうな
ん…?
あっごめん、性別は特に書いてなかったんだけど私は女で、これは女の私の意見です。
別に男をよしよしするとかそういうことじゃあなくて
それを取り払おうとすればするほどがんじがらめになってるのが今の私たちの状態なんじゃあないか?って思うのね。
逆にじゃあそれを利用して、それによる生きづらさの呪いを解くことができるんじゃあないか?って思うんだ…
それをするのに男だとか女だとかは関係なくて、
もしかしてそれができる可能性があるほうがやればいいんじゃあないか?って思う。
そんでそういう誰かのSOSを丁寧に紐解く作業っていうのはもしかしたら
男性より気持ちを日常的に言語化している女性のほうが少し得意なのかもしれないな?って。
でも別に私がそう思うだけですべての女にそれをやれっていうわけでは決してなくて
多分ネットで男性全体への怨嗟を綴る人も多分それはその人のSOSで
そんな人にそんな負担をかけさせるわけにはいかないのでええと…それはそれで紐解いていきたいなって思います。
もしそれが強制に見えたらごめん。
まあそうだな、女性のほうが適しているかもとかそういう書き方は良くなかったかもしれないな。
ごめん。
はてなの増田のキーワードがなくなってしまって昨日のお昼以降何時か分からないけれど、
付くのが無くなったみたいね。
街の港の巷ではキーワードがないってそりゃー大騒ぎよ!
でも、
たぶんエスイーオーでなにか良くない作用があると思われているのかしら?
私はその専門家では無いので、
弊社の売上も爆上がりですな!ってまるで即効性のある魔法のように思っている人たちへの警鐘のベルをピンポンとピンポイントで鳴らしているのかしら?
でもたぶん、
はてなの増田のページビューとかはどれぐらいか分からないけれど、
いまでもなんだかんだで残っていると言うことは
多少なりとも収益性があるのかしら?って
儲かるんじゃね?って理由も分かるわ。
なので、
私たちは決して踊らされているというわけでは無いけれど、
と言うか、
言っている手前私はもの凄くそのキーワードの専門家みたいなことは無いけれど
多少なりとも詳しい風の風を吹かしているわけでもないのよ。
実際キーワードって昨日何?って感じで
そもそもとして
みんなが街の港の巷では大騒ぎしているから首を突っ込んじゃってるだけの感じもあるし、
これがどうなるのかしら?ってそもそもとしてよく実はキーワードのことは何一つ知らなかったのよ。
失って初めて気付く、
あなたの大切さ!みたいな。
だから、
あなたにもチェルシーあげたい!って心からそう思える相手にならって失ってからでは遅いのよね。
でも
怪しいのが増田には無くなってはてなブログにはキーワード生きているといことは
手のひらを太陽に透かして見たら、
オケラだってアメンボだって生きているんだみんなみんな!って哲学的なアンパンマンの主題歌の歌詞のように
深い意味があるかも知れないわ。
まだ真相は明らかになってない相当な真実があるのかも知れない。
その宇宙になぞらえて考えると、
とにかく
街の港の巷では大騒ぎしている様子を後の祭りの神輿担ぎのように
なんかおまえ御神輿にぶら下がってね?って
思われそうなほど一瞬御神輿を勢いよく力一杯担いでいる様のようにみえるけれど、
わくわくするような感じで
もうそれはお祭りとしか言いようのないいやとしか言えないよなんて絶対って途中から槇原敬之さんが入ってくるような勢い!
実際に今後どうなるかは次の展開が気になりまくりまくりすてぃー乞うご期待山脈に向かってヤッホー!って叫ぶ次回予告だわ。
とりあえず、
私は今までキーワードのことなんて何一つ知らなかったぐらいなそんなの世の中。
失ってから初めて気付く大切さ!
って言うことを切なくも悲しくも
そして美しくもある
バブを握りしめながら湯船に浸かって、
救いきれなかった儚く消えていくバブを見つめる感じに今夜も良いお風呂で温まりたいところよ。
そんなバブみに浸っていないで、
いつかまた
キーワードに再開できることを切に願って、
高い杉の梢に明るく光る星一つみつけたらお願いするわ。
うふふ。
お腹が今朝グーってなったので、
いい感じの空腹感を迎えてこのお腹空いた感!が心地良い時ってない?
その瞬間に美味さ爆発応えてくれる今日の今朝の朝のチキンサンドは格別で
かき氷のブルーハワイを食べたときに舌が青くなるのを見せたいぐらい私の舌は今タマゴを感じているわ!
お湯の活躍も徐々に少なくなってきているようだけれど
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
こんなこと言ったら今の時代炎上してしまいそうだけど言わせてほしい。しんどすぎる。
私は現在20代で性別は女(なんかこの性別がっていうのも叩かれそうだな、まぁいいか)、散々多様性のことを言ってるくせにどちらかと言うと多様性よりの職業に就いている。
最近テレビでも新聞でも携帯でも、ついには先日読み始めた小説にも「今は多様性の時代」という言葉が出てくるようになった。
あまりにも多様性多様性言われるので正直うんざりしているのだけれどそんなこと言ったら炎上してしまうから言えないが、ここでは書くことを許してほしい。
「今時の若いもんは」「俺たちの若い頃は」、いわゆる昭和の人間と言われる人たちがそう言うと私たちの世代は途端に眉を顰める。「また始まったか」「もう時代遅れなんだよその理論」そんな感情だろう。
私は自分がどちらかと言えば今時の若いもん、に当てはまることを知っているしそれを自覚してもいる、典型的なゆとり世代的思考だと思う。
結婚はしたくないし子どもも欲しくない、人と関わることが苦手すぎてお茶出しさえまともにできず、社会に馴染めないことを自覚して今はフリーランスで仕事をしている。
そんな自分がこんなことを言うと矛盾してると言われてると思うが言わせてほしい、とにかく多様性の押し売りがしんどいのだ。
もちろんいい時代だな、と思うことはたくさんある。私は幼稚園から高校まで通ったが、その間一度も学校を楽しいと思ったことはないのにその自分の感情を押さえ込んだ結果ストレスが原因の難病にかかった。
その時の私は「学校に行かなくなったら終わりだ」「世間ではまともに生きていけなくなる」そう思っていたからだ。だから身体を壊してまでも学校に行っていた。
でも今の時代は必ずしも学校に行かなければいけないという雰囲気ではない。私の親戚の子が学校に行くのをやめて数年、高卒認定だけは取り、今はネイリストとして海外で元気に毎日楽しそうに活動してるのを見ると素晴らしいなとも思う。
周りにも学校に行かなくていい、という言葉を聞いてホッとしたような顔をして自分の好きなことに没頭して夢を見つけて、今はその夢に向かってる人も大勢いる。それを経て確かに思う、いい考え方だなと。
ただそれはちょっと?と思う考え方もある。
典型的なのがLGBTQ(以下のカテゴリはここでは一旦省かせていただく)の問題。
少し前に聞いた話だが、心と身体の性別が一致しない方達の主張。私が聞いたのはトイレや温泉の話だったと思う。
少数派の意見も聞こう、というのは大変素晴らしいことだと思う。この場所のように少ない考え方の人間の話を聞いてくれる場所は必要だとも思う。
では世の中の法律や規定をその少数派に合わせるのか、そうなると話は変わってくる。
学校でも議会でも会社でもなんでも基本的に何か困ったら多数決を取ることがある。それはなぜか、通常意見が多い方が優先されるからだ。
たとえば会社でAという案とBという案があるとして多数決では今回はAに決まった。ただBがダメだというわけでは全くない、だが何かしらの理由があって大多数の人がAがいいと思った、ではAを弊社の意見にしよう。
ここまでが今までの流れだ。ただ最近は「じゃあ少数派の案からこちらにも使えるものを少し取り入れよう」とこうなる、正直これはものすごくいいことだと思う。
人間はどうしても白黒つけたがる、これがよくてこれが悪いと考えがちだがそんな中いいところを見つけてよりよくしていく、素晴らしいことだと思う。
正直最初に多様性の話が出て来た時、私はすごくワクワクしていたのだ。いい方向に変わりそうだぞ、このままいけば、そう思っていた。
ただ、このままではいかなかった。
そのうち出て来た意見は「私はAの案は好きではない、少数派ではあるがB案を好きだと言ってる人はいる、だからB案を採用しろ」これである。
先ほど出したトイレや温泉の話はこれに近いものがあると思う。少数派の意見に合わせろと。その結果何が起きたか、それを逆手に取った犯罪だ。
もちろんLGBTQを全ての人がそうだとは全く思わない、人々の必死の主張を逆手に取る奴らが悪い。それはわかっている。ただこういったことがあるため、感情だけではどうにもならない問題なんだと言うことをわかってほしい。
心には形がない、定義もない、だから何にでもなれるし逆に何にもならない事もある。それはとても素晴らしいことだと思うし、大事にするべきことだと思う。
ただそう言った考え方が恐らく少数派であり、明確な定義ができないということを考えると、それを世論としてしまうにはあまりに危ういと思う。
これは逆の立場でも言えることだ。
どちらか一つの意見を世論にするのは非常に危険だと思う、だからいろんな意見を聞いてそれらをまとめる必要がある。
ただその際に少数派の意見を世論にしてしまうと上記に書いたことが起こったりしてしまうのだ。
ここから少し話は変わるが私はいわゆるバイセクシャルと呼ばれるものに該当して、恋愛対象が一つの性別には限られない。ただ別にその話を誰かにしようとは思わないし、知ってほしいとも思わない。
性別とか恋愛とかそう言ったことに対して隠さないといけない人がいるのはおかしい、という意見も聞くがはっきり言わせてもらう、私はどちらかというと隠させてくれと思うタイプの人間である。
一度飲みの席で「バイなんですよね」という話をしたら、いわゆるそう言った偏見がないとされているバーの店長から「そのこともっとアピールしていこうよ!」と言われた。
なぜ、なぜわざわざそんなことを言わなければならないのだろう。カミングアウトしたい人はしたらいい。同性婚と言われるものも全然いいと思う、ただ全ての人が自分に当てはまるように権利を主張したいとは思わないでほしい。
最初に言った昭和の人のお決まりのセリフ、これは今の時代にも当てはまると思う。
「今はもうそういう時代じゃない、多様性の時代だから」「もう古いんですよその話」私がもし令和よりももっと後に生まれた人間ならばきっとその言葉を聞いて思うだろう、出たまた始まったよ多様性の話、と。
昭和の人間には自分たちの考えを押し付けるなと言うくせに、結局昭和の人に自分たちの意見を押し付けているではないか。
正直、昭和時代を見ていれば同性同士が恋愛をしたり結婚をしたり、何か干渉すれば○○ハラスメントと囃し立てられたり、お笑い番組で体を張ったことをすれば暴力だと言われたり、
そんな時代が受け入れられないことは普通だと思う。だってそれが所謂普通だったんだから。
今の時代にそぐわない考えが理解できないのはわかる、ただだからと言ってその人たちを馬鹿にしたり揶揄したり、それは結局私たちがゆとりだと言われて来たのと同じことをしてるのではないだろうか。
普通という言葉が嫌いなのに自分も普通という言葉を使ってしまっている、こうして私も今嫌ってる人間みたくなっていくんだろうな。
そして結局何が言いたいかわからなくなるまでダラダラ話してしまった、これを見た人は言うだろう「これだから今時の若いもんは」と。
お母ちゃんは60代半ば。
コロナが始まったら頃から今日に至るまで、少しずつおかしくなっている。
昨年、お母ちゃんにとっての義姉がなくなってからもっとおかしくなった。
四十九日までは外食も外出もしない。楽しいことはしちゃダメと言って行動を制限した。
あれやこれやとマナーを調べては「あれはダメ、これはダメ、これもダメ、それもダメ」と、Yahoo知恵袋とかアクセス稼ぎの謎いサイトとかに書かれた謎ルールを見つけてきては制限をつけまくる。
「自分がそうすることで楽になるなら止めはしないけど、私たちにそれを強いちゃダメだよ」と言ったら私たちに外食をするななどと強いることはなかったけど、家族が外食しても自分だけはいかないとか。
どんどんひどくなって、書こうにも書ききれないほどお母ちゃんの謎のこだわりは強くなっている。
「お母ちゃんは、お母ちゃん教に入信してしまった」。それがいちばんしっくりくる。清潔を求めて手が荒れるまで手を洗って、1日分の洗濯をするのに数時間かけている。干した洗濯物が乾いたか乾いてないかを自分で判断できなくて、3日くらい干し続けて、乾いた洗濯物が床や絨毯に少しでもつくのをものすごく嫌がる。
こんなところに書ききれないほど、お母ちゃんの謎ルールは毎日増え続けている。
四十九日が終わるまでにと言っていた謎ルールは、いつのまにか義姉の次の命日(一年後)までに延長されていた。
喪中の間は寺はいいが神社に行ってはいけない。洗濯の仕方やら何やらをなんでもメーカーに電話しては「これで正しいか」「自分は間違っていないか」を確認するので、「神社の人にも聞いてみたら?喪中の間は行っちゃいけないんですか?って」と言ったら「神社の人はいいって言う。これは私の気持ちの問題だから神社の人には聞かない」だと。
どこかの知恵袋や謎サイトに書いてることを信じて、神社には問い合わせない。お母ちゃんは、前なら私が「〇〇の神社に行こうよ」と行ったらどこにだっていつだって喜んでついてきてくれた。私がご朱印帳をプレゼントしてからは、自分一人でもいろんな神社寺に行っては御朱印を集めていたのに。
今は、どれだけ言っても来てくれない。
お母ちゃんの楽しい思い出をたくさんつくりたいのに、お母ちゃんは「喪中だから楽しいことはしない」と言って家の中で汚いものを探してはそれに取り憑かれる生活をしてる。
もちろん、精神障害の自覚は本人も家族もある。私は新幹線を乗らなきゃたどりつかない距離で離れて暮らしているけど、父は実家に、兄妹は地元にいるので母は一人ではない。父は衛生観念死んでるので母のストレスの根源でもあるのだけど。
病院も「口コミがいいところがいい」と、なかなか行かないので、つい先日、私が付き添っていってよつやく抗うつ剤を処方してもらった。
これでよくなればいいが、本人も心配していたが薬に依存性してしまわなかも不安はある。ただ、もう自分では治せない域にいるので病院にかかるほかない。
そんな中、夢を見た。
お母ちゃんが、何かをしている。
私は浴衣を着付けてもらいたいらしいのだけど、お母ちゃんは自分のマイルールを済ますのに忙しくて私の浴衣を着付けてくれない。
「早くしないとお祭りに間に合わないよ」と私は困ってしまうのだけど、お母ちゃんは私の方なんて見向きもしないで「この汚れを取らなきゃ」とか「この床を磨かなきゃ」と言ってるばかりだ。
私が持ってる浴衣は、学生の頃にお母ちゃんが着付けてくれたものだった。お母ちゃんはお祭りのときはいつも必ず「着物はできないけどね」と言いながら、積極的に浴衣を着付けてくれた。
お母ちゃん、浴衣着せておくれよ。私は自分では浴衣着られないんだよ。お母ちゃんって、お母ちゃんの背中に向かって言うのにお母ちゃんは全然こっちを見てくれない。そんなところで目が覚めた。
いつだって、私たち子供のこといちばんに考えてくれて、人生で何よりも優先してきてくれたお母ちゃん。お金がなくても、どれだけ貧乏でも、それだけはずっと伝わっていた。
もう私も中年なので、子どもの頃と同じように甘えようとは思わない。お母ちゃんが子どもよりも夢中になれるものがあるなら、それを優先すればいいと思う。
でも、そんなに手を荒らして、ストレスと向き合いって、辛そうに辛そうにするものを見るくらいなら、私を見てほしい。一緒にお出かけしたいし、神社に行くときに「私入れないから外で待ってるね」なんて言わないでほしいし、浴衣をまた前のように着付けて欲しい。
大好きなお母ちゃん。
お母ちゃん教に取り憑かれてしまったお母ちゃん。笑っててほしいのに、なんでこうなってしまったんだろうな。
もちろん、これが私たち家族の介護の始まりかもしれないという気持ちもある。お母ちゃんは、もう自分を自分で元気にする力がないんだろう。薬を飲んで、少しでも良くなってくれたらいいけれど。
このままじゃ、お母ちゃんはあの世に行っても汚いものを探し続けて彷徨ってしまう。
私が死んであの世で再開しても、私の方なんて見向きもしないかもしれない。
悲しい。