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2024-07-18

ZFCの哲学

ZFC (Zermelo-Fraenkel set theory with the Axiom of Choice) の哲学は、数学基礎論における中心的な位置を占め、その含意は数理論理学モデル理論証明論にまで及ぶ。

ZFCの存在論的基盤は、von Neumann–Bernays–Gödel (NBG) 集合論との比較において明確になる。NBGがクラス概念を導入するのに対し、ZFCは純粋に集合のみを扱う。この違いは、大規模基数の存在に関する議論において重要意味を持つ。例えば、到達不能基数の存在は、ZFCでは公理として追加する必要があるが、NBGではより自然に扱える。

ZFCの哲学重要性は、その一階述語論理に基づく形式化にある。これにより、完全性定理適用可能となり、モデル理論手法を用いた相対的矛盾証明可能になる。特にゲーデルのL構造構成可能全体)とコーエン強制法は、ZFCの独立性結果を示す上で本質的役割を果たす。

ZFCの公理系、特に置換図式の導入は、フレーゲ論理主義崩壊後の数学基礎論の再構築において重要役割を果たした。置換図式は、ラッセルパラドックス回避しつつ、十分な数学対象存在保証する。

選択公理 (AC) の哲学的含意は特に深い。ACは、トポロジーベクトル空間におけるハーン・バナッハの定理や、測度論におけるバナッハ・タルスキのパラドックスなど、数学の広範な領域に影響を及ぼす。ACの非構成性質は、直観主義数学構成数学との緊張関係を生む。

ZFCの哲学は、大規模基数公理研究と密接に関連する。イナクセシブル基数、マーロ基数、超コンパクト基数などの大規模基数の存在は、ZFCの無矛盾性を強化し、数学宇宙階層構造示唆する。これらの基数の存在は、プラトニズム的な数学観を支持するように見えるが、形式主義的解釈可能である

ゲーデル不完全性定理のZFCへの適用は、数学的真理の本質に関する深遠な問いを提起する。特に、第二不完全性定理は、ZFCがその自身の無矛盾性を証明できないことを示し、ヒルベルトプログラム限界を明らかにした。

ZFCの哲学的含意は、数学構造主義との関連でも重要であるブルバキ学派の構造主義的アプローチは、ZFCを基盤として数学構造定義し、分析する。一方、カテゴリー論的基礎づけは、ZFCに代わる代替的なアプローチ提供し、トポス概念を通じて数学宇宙多様性示唆する。

内部モデル理論特にゲーデルのL構造研究は、ZFCの哲学に新たな視点をもたらす。V=L(すべての集合が構成可能である)という仮定は、連続体仮説一般連続体仮説肯定するが、同時に多くの大規模基数の存在否定する。これは、数学宇宙の「薄さ」と「厚さ」の間の哲学的緊張を生む。

結論として、ZFCの哲学は、数学存在論認識論真理論交差点位置し、現代数学の基礎に関する最も深遠な問題を提起する。その影響は、数学哲学にとどまらず、論理学計算理論量子力学の基礎にまで及ぶ。ZFCの哲学探究は、数学知識本質限界に関する我々の理解を深化させ、数学哲学境界を絶えず再定義しているのである

2024-02-18

なんか最近"数"が増田流行っているみたいなので、ワイくんも作文してみました

数の概念文化歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。

 

数の概念哲学的問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。

 

数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間言語思考依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。

 

数の概念数学の基礎付けにも関わる。数学公理定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデル不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題存在することを示した。

 

数の概念は、かつて客観的現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的ものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。

 

自我自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システム表現する有効ツールであることは、どのレイヤースケールにおいても明らかである

 

数の概念私たち知識理解拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。

 

数の概念は、私たち世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)

 

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流行を作った増田

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

https://anond.hatelabo.jp/20240216124331

2023-01-29

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/fujita_taniguchi/22307

これ、人権について語られる時は大抵そうだけど

人権」と「思いやり」を全く無関係ものみたいに語るのも違和感あるんだよな

個人的には「思いやり」は、人権実質的保障するための手段の一つだと思うので、全く無関係ものとも思えない

例えば人権カレーライスならば、思いやりはにんじんじゃがいものようなものだと思う。必ずしも必須ではないけれど有効手段の一つ。

思いやりを全くなくしてでも人権は守れってのは、現実的に考えて無理かと。

https://twitter.com/ozeanschloss/status/1619686747306336259

この図はもっと違和感あって、何故「思いやり」が「空気を読む」と近接した位置に置かれているんだろうか

思いやりって寧ろ、空気を読まずに世間の声に逆らってでも他人を助けてなんぼじゃないのか

何つーか、東日本大震災の後の『絆』というワードへの全否定といい、

リベラル人達が、あまりにも人間的な情緒を完全に無視した剥き出しの論理主義を振りかざしているように事が多くて違和感あるんだよな

(自分基本的にはリベラル派だと自認しているんだが…)

2019-07-08

zyzyって劣勢なとき必死に小さいぁぁを使うんだね。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/konekola/status/1147754119328718848

案の定ブコメ80年代怪物たちが「俺が感情的だとばらすお前が感情的だぁぁ」という脊髄販社に出ていて、まぁ自称中立の行き着く先がこれですよの図鑑になってる。論理主義のつもりで一番感情的なんだよね自称中立

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/konekola/status/1147754119328718848

「まえかわやかやきっこがぁぁぁ」してるコメ自分が正に絶対不変の正義自覚しないまま振り回している事に気づいていないあたりが、「自称中立客観性のなさの証明」になってるな。これですよこの客観性の欠如

ぁぁぁぁぁぁぁ

2013-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20130418103425

本をたくさんお読みの文系のお偉い先生の論説が

けだし(誤用

思うに(お前の思い込みが論拠かよ)

で埋め尽くされる自称論理的な代物である件について反論をどうぞ。

文系でも理系でも論理学を学ばずに用語「論理的」を語るなかれ。

論理主義直観主義・形式主義といった深いところまでは知らなくても良いけど。

 
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