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はてなキーワード: 構成主義とは

2019-11-03

アンチフェミのための本当の社会構築主義入門(続き)

https://anond.hatelabo.jp/20191103163514

の続きです

 ハッキングの偉大な点は、「社会的構築」の定義を諦めてその意図問題にしたところにあります。いわく、「社会的構築」というのは問題提起のための語なのだと。似た構造を持つ言葉として「搾取」があるとハッキングは言う。彼は例として「中産階級の男女が、代理母搾取している」とか「大学が、奨学金を餌に、バスケットスター選手搾取している」といった表現を挙げる。この2つの用例だけでも「搾取している」の必要十分条件を考えることはできそうにない。しかし、何かそこに問題がありそうなことはわかる(その問題が本当に「問題」なのかは別としてともかくそういう印象を与える)。同じキーワードで言えば筆者は「やりがい搾取」もまたこリストに入れられると考えています。誰が誰から何をどうやって何されているのかはわからないが、ともかく悪そうなことはわかる。実際、やりがい搾取がどうしていけないのかと論理的に導き出すことは多くの人の望みにもかかわらず永遠にできないでしょう。だからワタミとかのふわっとキラキラした言い訳がいまだに野放しにされているのであるワタミが「最賃以下で非人道的労働させたあげく自殺に追い込むの最高!」と言ってくれれば批判は容易だが「ありがとうという言葉は素晴らしいものです」と言うだけでは批判は難しい)。でもって社会的構築主義意図としてハッキングは次のリスト抽出します。

(0)現状では、Xは当たり前のことだとされており、不可避の事柄のように思える。

(1)Xのこれまでの存在には必然性がない、ないしはそれが現在あるような仕方をしている必然性はまったくない。今日のXのありようは、物事の本性によって決められているわけではない。端的に言って、それは不可避的ではない。

おうおうにして、社会構成主義者は、さらに一歩進んで、次のようにも主張する。

(2)Xの今日のありようは、まったくもって悪いものである

(3)もしXが根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれの暮らしは今よりずっとましになるだろう。

 どこかで見た論調というか今やどこでも見かける論調ですね。Xには先程のリストのどれを入れてもいいし、「日本」「在日韓国人」「吉本興業を筆頭とするお笑い」や、もちろん「ジェンダー」「萌え絵における女性へのまなざし」「リアルでの性犯罪対象となる女性」などを代入しても構いません。以下ではX=宇崎ちゃん献血ポスターとして考えてみましょう。するとオタクはまず(0)で引っかかる。「現状では、宇崎ちゃん献血ポスターは当たり前のことだとされており、不可避の事柄のように思える」。いや献血ルームに数枚貼られてるだけやし、と。しか批判者たちは「日赤(という公共団体)が公共の場所に張り出した」という点を持って(0)を満たしていると考えているのでしょう。どこからどこまでが「当たり前で不可避」かはなかなか定義するのが難しそうなので、その点はオタクが譲ったとしましょう。(1)はまあよいのではないか献血ポスターが宇崎ちゃんである必然性あんまりなさそうである。確かに宇崎ちゃんのおかげで献血はいくらか増え、その点では必然性があると言えなくもないが、それは高木さんでも多かれ少なかれ同じことであり、批判者たちはどうせ高木さんも批判するのでこの点にこだわってもあまり生産的ではなさそうであるしかし(2)と(3)への「一歩」はオタクにとって断じて受け入れがたいものでしょう。ハッキングも述べているように、この一歩はまったく必然的ものではない。「Xは、現在の状況では不可避なものに思えるかもしれないが、しかし実際は不可避なものではなかった。しかし、だからといってそれは悪いものではない」と考えることも可能であるはずなのに、多くの社会構築主義たちはXへの嫌悪ゆえに(2)(3)へと進む。こうなるともう議論がまとまらなくなりますさら事態を複雑化させているのは「X=宇崎ちゃん献血ポスターに/代表される/(オタク男性/のまなざし」とかの場合でしょう。代表されてねえよとかオタクよりDQNのほうが問題だろとか女はいいのかとかまなざしがどうしていけないのかとか議論百出である。こうなるともう議論は無理でしょう。

 ここまで読んで、「社会構築主義ってろくでもねぇな」と思ったあなたちょっと待ってください。これが有効機能する場合もあるんです。たとえばハッキングはX=児童虐待の例を挙げていますが、日本におけるX=セクハラもまた社会構築主義的なフェミニズムがうまく機能した例といってよいでしょう。かつて日本ではセクハラ(という名前すらなかった行為)が当たり前だったが(0)、それはじつは不可避的な仕方のないものではないと女性たち(少し遅れて男性も)が気づき(1)、それが悪いものであると多くの人々が納得し(2)、まあかつてに比べれば圧倒的に改められ女性たちはましな暮らしができるようになった(3)のです。筆者は、フェミニストたちが基本的にこの理屈で動いていると考えており、それ自体はそこまで悪いものだと考えていません。が、今回問題となっているのは(0)についての根拠立て、そして(2)(3)への飛躍(とあえて言いますが)の論理的欠如であると考えています。たとえば太田弁護士の「公共空間環境セクハラしてるようなもの」という迂遠物言いは(0)および(2)への根拠立てが不足していることを示していますし、表現規制との関係では(3)について「もし〈ある表現〉が根こそぎ取り除かれるか、少なくとも根本的に改められるかすれば、われわれの暮らしは今よりずっとましになるだろう」ということがそもそも可能かが問われており、フェミニストはそれに明確な論理を提出することができていないように思われます。たとえば以前読んだ実写ポルノについてのジェンダー論者による論文では「女性搾取されている」という点から出発してはいものの、「なぜ搾取が悪いのか」「本当に搾取されていると言えるのか(ポルノグラフィは時として女性自己表現であることもありえます)」「ポルノを楽しむ女性はどうなるのか」「表現の自由という人類権利女性権利の兼ね合いはどうか」といった論点を丁寧にすくい、煮え切らない結論に至っていた記憶があるのですが(丁寧な結論はたいてい煮え切らないものです)、宇崎ちゃんについての議論はたいていそうした丁寧さを欠いており、そのために「お気持ち」と揶揄されているように思われます

 最後に筆者の「お気持ち」を表明させていただくとすれば、表現の自由という人類が勝ち取った偉大な権利を、これまでにそれを上回る理屈を持って規制し得たのは児童ポルノと『我が闘争』ぐらいのものであり(個人的後者はどうかと思ってますが)、それに比肩するだけの理屈けがフェミニストにできるとは思えないし、そもそもそれができないのは(インターネット上の、と言っておきますが)フェミニスト知的研鑽の欠如によるもののみならず、そもそもそれに表現の自由と天秤にかけられるほどの問題がないからだと考えています。まあこれもかつてセクハラを当たり前だと思っていたオッサンと同じく滅びゆく思想なのかもしれませんが、それならフェミニストの皆さんにはもっと論理的に以上の点を説明していただきたいなあと思う次第です。

アンチフェミのための本当の社会構築主義入門

 以下では、フェミがオタク叩きをする根幹思想”社会構築主義”とは?における主として次に挙げる2ツイート問題点の指摘と、関連して宇崎ちゃん献血ポスターについての議論を行う。

そもそも

社会構造ってなに?

どこにあるの?

どうやって見つけるの?

それは反証可能性あるの?」

って、どの研究書を読んでもまともに書いてない。ただ、「ある」ってことを前提にして話をしてる。

そもそも社会構築主義」に限らず、社会学において、社会構造人間行為関係は、最も根本的なところでまったく解明されていない。

人間社会構造を作り、その社会構造人間規定するというのがどういうことなのか(ミクロマクロリンク問題)、社会学出来てから100年以上全くわかってない。

 この文章を書いた理由としては、上記Togetterがあまりに「社会学」についてのひどい誤りを書き散らしているにもかかわらず「参考になった」的なコメントが多くついておりヤベえと思ったためです(「ジェンダー論」についても誤りがありそうだけど詳しくないのであまり触れませんでした)。また、それはそれとして献血ポスター批判側にも「社会学」(同じくたぶん「ジェンダー論」も)を誤解していたり、受け手を誤解させかねない振る舞いが多く見られるのでその点についても指摘しています

 以下では最初に「反証可能性」についての話をした後に、次に「社会構造」の話をし、最後に宇崎ちゃんポスターの話をします。

 まず、反証可能性という用語を真顔で使っていいのは高校生までです。科学哲学(「なにが科学か」「そもそも科学とは何をしているのか」についての哲学)に詳しくない人のために反証可能性について一応説明しておくと、「それが間違いであると認められる可能性が無いもの科学ではない」という理論です。たとえばオカルトに対しては結構これが有効で、やつらはこれを買うと病気が治るとか言って壺を売りつけてくるわけですが、当然買っても病気は治らない。それで苦情を言いに行くと「あなた信心が足りないからです」とかなんとか言って「仮説:買うと治る 実験:買った 結果:治らなかった→仮説は棄却される」という「反証」を受け入れてもらえない。こういう状況を反証可能性が無い、といい、その状況と「まっとうな科学はすべて反証可能性を持っている」という前提からオカルト科学ではないと結論されます

 しかし、であるオカルト科学ではないのはいいのですが、すべての科学反証可能性を持っているかというと怪しい。化学物理学最先端研究だと、現状そこの施設しか営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーンSTAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。

 反証可能性理論から出てくる規範として「科学者ならば反証された仮説にこだわっていてはならない」というものがある。例えば「STAP細胞はありまぁす」とかほざいた奴に対する科学コミュニティからまなざしを思い出してみるとまあわかる話でしょう。しかしそんないさぎよい態度が歴史上とられたことがあっただろうか。例えばニュートン万有引力を「ありまぁす」と言ったわけだが、当時の科学者(とか錬金術師とか哲学者とか、ようするに当時のインテリほぼすべて)から袋叩きにあった。ほぼ1人vs全世界の構図なわけで、それだけの物量の「反証」が寄せられると中には正しいものもあったりする(たとえばニュートンは「エーテル」を存在するものとしていたが、そんなものはない。あるいは単純な計算ミスもあっただろう)。さて、正しい反証を示されたニュートン万有引力という仮説を撤回しただろうか。皆さんご存知の通りしなかったのである。なんと卑怯にも奴は後出し理論マイナーチェンジを続けて「ありまぁす」と主張し続けたのである。壺を売ったあとに「壺は仕事をしたが信心が足りなかった」と言う宗教家と何が違うのだろうか。というのは流石に極論であるにしても、反証可能性という概念が当初思ったほど切れ味の鋭い概念では無いことは理解してもらえたと思います

 そういうのをコミコミで、普通反証可能性」という用語を教わるときは「という便利そうな概念があるけどそこまで便利でもないよ、だから次のパラダイム論が出てきて、それも思ったほど便利じゃなかったので…」というところを必ずセットで教わると思う(ので真顔で使っていいのは高校生まで)のですが、件の人は一体どのような教わり方をしたのでしょうか。

 この時点でこの問いがどうかしていることは明らかなのですが、「社会学が専門」と言った上で「社会構造ってなに?」という問いはまして頭が痛いです。

 社会学史のおさらいをしましょう。なぜ社会学なんて胡乱な学問が成立したのかと言うと、それが必要だと当時の人たちが考えたからです。どういうことか。一般的社会学の成立は、19世紀前半~中盤に活躍したコントスペンサーという人たちから19世紀後半~20世紀初頭に活躍したデュルケームウェーバーという人たちあたりが成立させたと言われています。以下ではコントデュルケームという2人の流れを説明します。スペンサーウェーバーも偉いのですが、「実証的」とか「科学的」とか言われる社会学を作ったのはやはりコントデュルケームだと思うからです。あとぶっちゃけスペンサーウェーバーには筆者が詳しくないという理由もあります

 さて、時代19世紀初頭、フランスコントという人がいました。大抵の社会学史的な文章にはこの人の名前が出てきます。逆に言えばたいてい名前しか出てこないのですが、その理由はおそらくデュルケームと比べるとぶっちゃけまりに見劣りするからです。それでも名前が出てくるのは、彼が今の意味での「社会学」という言葉を初めて使ったからです(正確に言えば彼が提唱したのは社会物理〉学でしたが、ここでの物理学physicsは明確に形而上学meta-physicsと対比される形で使われており、社会形而下学とか、社会についての実証的な学問とか、まあ要するに社会学のことでした)。19世紀初頭のフランスといえば、フランス革命の余波も大きく、社会しっちゃかめっちゃか状態でした。偉かった教会とか王様とかの権威が失墜して、ナポレオン独裁して、また昔の王朝に戻ったりしてました。多分一年ごとに自民党共産党政権を交代してもここまでの混乱はしないんじゃないかってくらいの混乱だったんだと思います。そういう中で生きてると不安になるわけです。幸せになれないわけです。じゃあどうすればええねん、と考えた人がコントでした。彼は「社会学」という言葉を初めて用いた『社会組織必要科学作業プラン』の中で次のように述べています。昔は王様とか宗教とかが社会をまとめあげてたよね。で、今もそれを復帰させようとしてる人がいる。気持ちはわかるよ、でも一度変わってしまったものは元に戻らないわけで、そういうのは無意味。新しい社会には新しいまとめあげの方法必要だよね。そのための方法社会についての実証科学を創設してみんなにそれを教育するということです!なぜならそれによって、社会のみんなで同じものを見て確認するということが可能になり、それでまたみんなの団結が可能になるからです!と。今の意味での「社会学」を全員に教育するべきかはともかくとして、社会についての科学的知見を皆が持つべきだ、というのはなんとなくわかる気がしますよね。というか200年経ってもまだ未達成なプランじゃないかと言う気がしてきますよね。「身の丈」とか言ってる人にはコントの遺灰を煎じて飲ませたいくらいじゃないでしょうか。正直天才の発想だと思います。ここで大事なのはコント王様教会権威(当時は王様神様みたいなものでしたからようするにまとめて「神学」でしょう)の代替物として、「社会学」を構想したということです。にもかかわらず「社会学は神学も同然だ!」と鬼の首を取ったように繰り返してるあたりで、ああこの人は歴史を知らないんだなと思ってしまますが、まあ確かにいまどきハンショーカノーセーのない神学のままではよろしくない。

 それをどうにかしたのがデュルケームでした。彼は19世紀末に『自殺論』という本を著しました。一般教養講義などで社会学を取ったことがある人なら聞いたことはあるはずです。この本の意義は簡単で、社会しっちゃかめっちゃかになると自殺が増えるということを統計的に明らかにしたという点に尽きます。まあわからんでもないけど何がそこまですごいの?って思いますよね。デュルケームがすごいのは統計学が未発達(というかほぼ存在しない)なかで、しかも「社会個人に影響する」という概念自体存在しないなかで、自殺という究極的に個人的だと思われた事柄と、季節や宗教といった普遍的社会事柄統計を用いて結びつけた点にあります。それまでも人の死についての統計は無いわけではありませんでしたが、それは保険のための年齢別の死亡率表のようなもので(それも当時としては画期的だったのですが)、社会と死(それも病死戦死ではなく自殺)が結びつくという発想はまったく存在しませんでした。どれくらい革新的だったかというと、「『社会がこうなると自殺が増える』って書いてるけど、自殺してないやつのほうが多いよね?」「てか社会がそうじゃなくても自殺してるやついるよね?」みたいなクソリプ殺到するほどでした。それほどに統計というものが未知のものだったのです(今でもたまにこんな人いますよね)。かくしてデュルケームは、自殺というものすごーく個人的な(と思われている)ことと、社会構造との結びつきを発見しました。現在に至るまでその後のすべての社会学は、このデュルケームの発想の上に成り立っていると言っても過言ではありません。別に学問的なものでなくても、たとえば「社会をよくして自殺率を下げるべきだ」とわれわれが当たり前に考えているのも、デュルケーム社会自殺関係を明らかにしなければありえなかったことでしょう。あるいはより学問的なことを言えば「身の丈」発言があれだけ叩かれたのも、「貧困家庭の子供の大学進学率は低くなりがちである」「大学に進学しなかった場合は、進学した場合よりも収入が低くなりがちである」といった、日本社会学がこの30年ほどで明らかにしてきたことが人口膾炙したためであると思われます(ちなみに教育社会学を専門にしている先生[竹内洋苅谷剛彦だったと思う]が公民館で講演したところ「先生のおっしゃってることって、魚屋の息子が魚屋になるってことですよね?そんなのみんな知ってますよ」と言われたというエピソード個人的に好き。みんな知ってることを統計的確認するのが大事なんです)。

 このデュルケーム研究ひとつとってみても、あるいは「身の丈」発言に怒れるようになった日本人をとってみても、「社会構造存在する」というのは科学的に正しいし、世間的にも常識となっているとみてよいのではないでしょうか。それを否定するのは、Twitterなんかではなくそれこそ論文を世に問うことによってぐらいでしか可能にはならないでしょう。そのためには社会学の100年以上の歴史通暁していなければならないでしょうが、「反証可能性」を錦の御旗のように用いている人がそうであるとはとても思えません(社会学はその歴史最初からかなり頻繁に科学性を疑われる学問ですから何度も科学哲学の成果を吸収したりそれに反発したりしてきました)。

 まあ、件の人のおっしゃりたいことも部分的にはわかりますよ。社会構築主義うさんくさいって。まあそもそも社会構築主義というものがほぼ定義不能こんにゃく理論なのでそれに反発してもなあって感じもしますが。知らない人のために大雑把に説明しておくと、広義の意味での社会構築主義とは、何か(大抵は個人的で意外なもの)が社会的に構築されていると主張することの総称です。その意味ではデュルケーム自殺社会的に構築されているという社会構築主義者ですし、おそらくフェミニストであろうがなかろうがすべての社会学者がそうです。狭義の意味では現象学的な理論が語用論的展開の中でエスノメソロジックになんちゃらみたいなのがあるようで、一部フェミニズム的な社会学者はこの立場を取っているようですが、この書きぶりからもわかるように筆者は詳しく知りません。こんな曖昧概念を「ラディフェミ(≒社会構築主義)」と書いてしまえる胆力には脱帽しますが、その後社会学全体が神学だみたいな話もしているのでそもそもよくわかっていないのでしょう。

 それとは逆に「よくわかっている」人が社会構築主義批判した例として、イアン・ハッキング『何が社会的に構築されるのか』『何が社会的に構成されるのか』(誤字指摘感謝Twitterで「社会構築主義」と「社会構成主義」の違いを尋ねていた人がいましたが、場合によって一緒だったり違ったりします。ここではルーズにごっちゃにしていましたが流石に書名はだめですね)を挙げておくことは有用でしょう。この本は社会学を好きな人も嫌いな人も読むべき本だと思いますハッキング学者たちによって「Xの社会学的構成」とか「Xを構成する」とか言われているものリストをわざわざ並べ立てます。いわく「著者という存在、義兄弟子供テレビ視聴者感情事実ジェンダー同性愛文化、病、知識、読み書き能力、『要治療』とされた移民自然口述歴史ポストモダニズムクォーク現実連続殺人工学システム、都会における学校教育人口統計女性難民若者ホームレス現象ズールー族ナショナリズム」などが社会的に構築されるのだそうです。まあ、「若者ホームレス現象」とかは確かに社会的に構築されてそうだな、と思うけど、「クォーク社会的構築」とか「ポストモダニズム社会的構築」とかはさっぱり意味不明である。また、その種の中には「実験器具メーターを社会存在(つまり人間である)が社会の中で観測しているのだから科学社会的に構築されている!」みたいなものもあるようで、そこまで行くと「万物は流転する」みたいな悟りレベルに達してそうですげえなと思わされます

 ハッキングは中でも「ジェンダー社会的構築」について着目します。いわく、「ジェンダー」って概念そもそも生物的性」に対するカウンター概念としての「社会的性」だったのだから、「社会的性の社会的構築」と言っていることになり意味なくね、と。まあフェミニズムの側にも言い分はあってハッキングはそれも紹介しているのですが、詳しくは本を読んでください。最初20ページくらいまででまとまっているので。

長すぎたので続きます

https://anond.hatelabo.jp/20191103164229

2019-10-12

anond:20191012130606

ロシア構成主義とか普通に評価されてると思うのでそんなことはないと思う。

2019-01-18

anond:20190117174807

ウィンドウズのロゴはこういうコンセプトらしい。

https://enjoy.sso.biglobe.ne.jp/archives/windows_logo/

加法混色(色を加えるほど明るくなる)の三原色RGBレッドグリーンブルー

・減法混色(色を加えると暗くなる)の三原色がCMYシアンマゼンタイエロー(これにKブラックを足すと印刷の四原色)

から絵の具は「赤黄緑青」を四原色にして色を作り出していた。

から強いて言うなら元祖西洋美術なのかな。

ウィンドウズ以外も「新しい物を作り出す」(画家が絵の具から芸術を作るように)という意図を込めたいからこの色をみんな使いたがるんじゃないかと思う(多分)。

ポップな印象を与えつつ、納まりもいいし。

また、うろ覚えから間違ってたら申し訳ないけど、少し歴史的な話をすると、

原色を使った有名な作品としては、ピエト・モンドリアン抽象画がある(ピンこなくても見ればわかるはず)。

https://99designs.jp/blog/design-history-movements-ja/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%9F%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%AB%E9%80%A0%E5%BD%A2%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%81%AE%E3%83%93/

モンドリアンが主導した前衛運動デ・ステイルでも原色アイコン化されているので、直接の影響はモンドリアンデ・ステイルにあるのかも知れない。(緑はあまり使われていない気がするが)

また、同時代にはバウハウスロシア構成主義といった「近代的な、機能的で合理的な」表現を目指すモダニズム運動があり、これらも原色を使った表現が特徴。

表現におけるモダニズム」は合理性を重んじているため、ITゲーム界隈と相性がいいのかもしれない。

他に原色といえばデンマーク発祥の「レゴブロック」があるが、デンマークデザインの特徴もシンプルさと機能性。

他にはポップアートなども関連性がありそう。

専門ではないので、話半分に読んで

2018-04-11

本木雅弘ポスターCMがなんか嫌い。

本木雅弘ポスターCMがなんでだか嫌いだ。

自分でなぜ嫌いなのか、いろいろ考えているのだけれど理由があまりはっきりしない。

テレビCMポスターで見かけると、いつも、ロシア構成主義ポスターに描かれるような姿勢、動きの少ないポーズが目立つ。

その絵面の雰囲気が嫌なのか、その表情、不自然髪型、無理にピシッとしたスーツ、どこを見ているのかへんな視線等々の、見た目、から来る嫌いさなのかな、とか。

あるいは、彼の経歴的に芸能界に対して微妙距離を保ち続けているところに、鼻持ちならないものを感じてしまうのかな、とか。

自分でいろいろ考えているのだけれど、どうも理由自分でもわからない。

しかし、テレビポスターで見かけるとなんだか、いやだなあ、という気持ちが生ずる。

2015-12-03

あなたたちはあちら、わたしはこちら 大野紀子

卑怯者の島: 戦後70年特別企画 小林 よしの

自分思考 山口 絵理子

一匹と九十九匹と 2 (ビッグコミックス) うめざわ しゅん

降矢木すぴかと魔の洋館事件 (YA! ENTERTAINMENT) 芦辺 拓

君の膵臓をたべたい 住野 よる

夢幻会社 (創元SF文庫) J.G. バラード

火星のプリンセス―合本版・火星シリーズ〈第1集〉 (創元SF文庫) エドガーライス バロー

くますけと一緒に 新井 素子

自我論集 (ちくま学芸文庫) ジークムント フロイト

カール・セーガン 科学悪霊を語る カール セーガン

パラノイアトラブルシューターズ】 Dan Gelber

イリュミナシオンランボオ詩集 (角川文庫) アルチュール ランボオ

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (文芸シリーズ) 米原 万里

可愛いエミリー (新潮文庫) モンゴメリ

NOVA+ バベル: 書き下ろし日本SFコレクション (河出文庫) 宮部 みゆき

☆☆思考と行動における言語 S.I.ハヤカワ

カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 渋谷 直角

天国旅行 (新潮文庫) 三浦 しをん

GLASS HEART 「グラスハート」 (バーズノベルス) 若木未生

かもめが翔んだ日 江副 浩正

ドラえもん」への感謝状 楠部 三吉郎

ソロモンの指環―動物行動学入門 (ハヤカワ文庫NF) コンラート ローレンツ

補給戦―何が勝敗を決定するのか (中公文庫BIBLIO) マーチン・ファン クレフェルト

重力とは何か アインシュタインから超弦理論へ、宇宙の謎に迫る (幻冬舎新書) 大栗 博司

世界を変えた17の方程式 イアン・スチュアート

国のない男 カート ヴォネガッ

魔法とSkyTubeで生きていく (角川スニーカー文庫) 高野 小鹿

赤い高粱 (岩波現代文庫) 莫言

あの、素晴らしい をもう一度/再装版 自転車創業

市民のための世界史 桃木 至朗

数学言葉―math stories 新井 紀子

☆生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ) 新井 紀子

猫と庄造と二人のおんな (新潮文庫) 谷崎 潤一郎

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫) サリンジャー

人間の條件〈上〉 (岩波現代文庫) 五味川 純平

贖罪 イアン マキューアン

キャリー (新潮文庫) スティーヴン キング

ファミリーポートレイト 桜庭 一樹

セカイからもっと近くに (現実から切り離された文学の諸問題) (キーライブラリー) 東 浩紀

国際メディア情報戦 (講談社現代新書) 高木

今日もかるく絶望しています。 落ち込みがちガールの日常コミックエッセイ (メディアファクトリーコミックエッセイ) 伊東素晴

人種主義歴史 ジョージ・M・フレドリクソン

アナキズム・イン・ザ・UK――壊れた英国パンク保育士奮闘記 (ele-king books) ブレイディみかこ

ヌード愛国 (講談社現代新書) 池川 玲子

「反戦」のメディア史―戦後日本における世論と輿論拮抗 (SEKAISHISO SEMINAR) 福間 良明

日本文字―「無声の思考」の封印を解く (ちくま新書) 石川 九楊

状況に埋め込まれ学習正統的周辺参加 福島 真人

あなたへ社会構成主義ネス・J. ガーゲン

未来を切り拓くための5ステップ: 起業を目指す君たちへ 加藤

女のいない男たち 村上 春樹

混迷社会の子育て問答 いくもん! 中村

☆女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子実態 (単行本) 瀧波 ユカリ

☆ニコマコス流恋愛コミュニケーション 大平

☆僕にはまだ 友だちがいない 大人の友だちづくり奮闘記 中川

☆非言語表現威力 パフォーマンス実践講義 (講談社現代新書) 佐藤 綾子

☓友達がいないということ (ちくまプリマー新書) 小谷野

あなたは、なぜ、つながれないのか: ラポールと身体知 高石 宏輔

私たちプロポーズされないのには、101の理由があってだな (一般書) ジェーン・スー

子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方 クラウディア ブラック

インナーチャイルド―本当のあなたを取り戻す方法 ジョン ブラッドショー

ベストパートナーになるために―男と女が知っておくべき「分かち愛」のルール 男は火星から、女は金星からやってきた (知的生きかた文庫) ジョン グレイ

RESOLVE 自分を変える最新心理テクニック神経言語プログラミングの新たな展開 リチャード・ボルスタッド

コア・トランスフォーメーション癒し自己変革のための10のステップ コニリー・アンドレアス&タマラ・アンドレアス

発達障害のある子どもができることを伸ばす! 学童編 杉山 登志郎

知的障害自閉症の人たちのための 見てわかるビジネスマナー集 「見てわかるビジネスマナー集」

ペアレントメンター入門講座 発達障害子どももつ親が行なう支援 井上雅彦

不都合な相手と話す技術 ―フィンランド式「対話力」入門 北川 達夫

プロカウンセラーが教えるはじめての傾聴術 古宮 昇

モテる技術 入門編 (SB文庫) デイビッドコープランド

イケてない男たちへ キミでもヤれるナンパの本 (ワニの本) 鍵 英之

モテる技術 実践編 (SB文庫) デイビッドコープランド

LOVE理論 水野敬也

モタク モテるオタクになる恋愛ガイド アルテイシア

30歳のファッションコーディネート ~普段着からイベントまで~ (おとなの教科書) 三葉

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書) 平田 オリザ

あなたあなたであるために―自分らしく生きるためのアスペルガー症候群ガイド 吉田 友子

新版 自分まもるローズマリー ストーンズ

2013-10-28

実在主義の果てに回避型傾向があるのなら

実存主義の果てには、さぞかし良いものが眠ってるんだろうな

その果てにはすべてがあって、回避主義者が失ったものがあるんだろうか

「just the way you are」だなんてお笑いなのだ

我ら回避主義者

「私」である前に人間で、「自分である前に日本人

常に内包定義によって、トップダウン的に、そして演繹的に定義される

私たちは「私たち私たちだ」とは言わず、「私たちはコレコレこのように定められた、私たちだ」と述べる

主体的存在を表明されるべき自己主張は、客体的存在を提示する観察所見へと変化する

自分の事はどこまでも「法則理論で説明可能な、無個性で替えの利くどこかの誰か」としか表現されない

すべてはデジタル符号に置き換えられ、感情人格も知能も人生も、パロメーターと要素の組み合わせで表現

構成主義者は歓天喜地だよ

2009-02-25

勉強をサボって頭が悪い人は頭がよい人に玩ばれるだけなんだろうな

id:magician-of-posthumanが仕掛けた罠とは何だったのかについて一考した。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131

 id:gerlingは、何の技も会得せずに、「メディア論」という一つの学問分野に対して「道場破り」を挑んできた。しかし学術の道場では、何の技も会得していない雑魚と同じ「土俵」に立つような真似はしない。雑魚は「門前払い」だ。しかしながら、メディア論の道場では、「門前払い」になった雑魚を<踏み台>にすることによって、より高き土俵を造ることが可能なのである。

 どういうことか?今id:gerlingが陥っているパラドクスは、自らの反論が何ら相手にされずに、反論対象を好都合にしてしまっているというパラドクスなのである。id:gerlingがメディア論に反論しても、メディア論の必要性を助長させてしまうのだ。

増田的には注目度は低かった「科学的な議論」ではあったが、この議論は最初から茶番だった。

 

id:gerlingの反論が非科学的な反論(笑)であったために、

id:magician-of-posthumanはそれを都合よく「利用」したってことだ。

 

id:gerlingは、最初から手のひらの上だったのだろう。

  

 

議論の流れはこうなる。

 

1.id:gerlingは、id:magician-of-posthumanの「メディア論」を「ミクロ権力論」と混同して反論(笑)した。

 

2.だが、id:magician-of-posthumanは、「メディア論」がシステム理論の「コミュニケーションメディア論」と

  フランクフルト学派の「メディア論」的転回関係し、「ミクロ権力論」とは全く違うと言う事を説明した。

  http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798

  客観的に第三者視点からみても、この時点でid:gerlingの敗北は決定的。

 

3.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が

  同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら

  証明する事にあったが、id:gerlingは「論旨のずらし」によって不当に応戦した。

 

4.id:gerlingは、システム理論の「コミュニケーションメディア論」を完全スルーしたまま、

  システム理論を「観念論・形而上学精神分析学」だと決め付けてかかった。

 

5.だがid:magician-of-posthumanは、形式とメディア理論オートポイエーシスシステム論を説明し、

  システム理論が「観念論・形而上学精神分析学」とは全く別物である事を完璧に論証した。

 

6.id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が

  同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら

  証明する事にあり、

  かつ、システム理論が「観念論・形而上学精神分析学」と同じだと言う事を

  形式とメディア理論オートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、

  id:gerlingはまた「論旨のずらし」によって不当に応戦した。

 

7.http://anond.hatelabo.jp/20090222172805増田が言っていたが、

  id:gerlingは、「コミュニケーション人間的な単位還元する事は不可能」だという

  システム理論の主張を完全スルーしたまま、

  「メディア論はガキくさい」から「id:magician-of-posthumanはガキくさい」へと

  「論旨のずらし」を行った。

 

8.だがid:gerlingのこの「論旨のずらし」だと、

  http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090218/1234955798を全く言い負かす事も

  できないまま主張してしまうために、全く全然具の骨頂な「論旨のずらし」になってしまった。

 

9.id:magician-of-posthumanは、追い討ちをかけるかのごとく、

  id:gerlingの「孫引き」=他者が引用した文章をそのまま引用する不正行為を行っている事、

  id:gerlingがルーマンの文献を読まずにルーマン理論に反論している事の調査不足さ、

  id:gerlingがボルツの文献を読まずにボルツを馬鹿呼ばわりしている事を指摘した。

 

10.id:gerlingは、このid:magician-of-posthumanの追い討ちを受けて、

   やっとルーマンの文献を一冊だけ(←ここポイント)読んで、

   id:magician-of-posthumanのシステム理論が誤読だと反論した。

   実はこの誤読だという反論も、客観的に見れば「論旨のずらし」だとわかる。

   id:gerlingの本来の説明責任は、id:magician-of-posthumanが主張する「メディア論」と「ミクロ権力論」が

   同じであると言う事を「コミュニケーションメディア論」とフランクフルト学派の「メディア論」的転回に触れながら

   証明する事にあり、

   かつ、システム理論が「観念論・形而上学精神分析学」と同じだと言う事を

   形式とメディア理論オートポイエーシス論に触れながら証明する事にあったが、

   id:gerlingはこれらの説明責任の論旨を「id:magician-of-posthumanのシステム理論」へと

   ずらす事で、id:magician-of-posthumanの波状攻撃になんとか対応しようとしたって事だ。

 

11.しかしid:magician-of-posthumanは、id:gerlingが罠に落ちたと言う。

   id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの

  「id:magician-of-posthumanのシステム理論は誤読だ」という主張を、

   これまた正確に反証している。

   id:gerlingは、ルーマン理論が神経や意識を「一度も」説明していないというが、

   id:gerlingが読んだ事のあるルーマン本は、「一冊だけ」だった。

   id:magician-of-posthumanはこれに向かって、

   神経や意識を取り上げているルーマン本を数十冊取り上げ、その頁数まで正確に記載して、

   id:gerlingの「知ったかぶり」を説明した。

 

12.さらにid:magician-of-posthumanは、id:gerlingこそがシステム理論を誤読していると説明する。

   形式とメディア理論オートポイエーシス自己言及と外部言及、システム環境の差異、構成主義認識論、

   コミュニケーションメディア論間テクスト性パラドクス化と脱パラドクス化。

   数多くのシステム理論概念を取り上げ、

   id:gerlingが自分自身の「調査不足」の責任を相手の「説明不足」へと転嫁していると説明する。

 

13.1-12までのながれをみると、どうも客観的な立場の第三者からみると、

   id:magician-of-posthumanがid:gerlingの相手をする理由がないように思えてくるのは気のせいだろうか?

   id:magician-of-posthumanが言うように、id:gerlingは議論の入り口に立ててない。

 

14.しかしid:magician-of-posthumanは、「メディア論」に反論(笑)してくるid:gerlingを

   最初から相手にならない無害な素人と見做し、「メディア論」の必要性を高める為に、

   好都合に利用していたのである。

   詰まり、id:gerlingの「メディア論」批判が「メディア論」に栄養を与えていたってことになる。

 

15.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「孫引き」が知のデザインだという。

。「孫引き」を行なったid:gerlingは、これらの引用記事を読んではいない。読んだ上で言及するならば、最初から正確に引用であることを記したはずだからだ。したがってid:gerlingは、引用記事を読まずに「孫引き」した上で、引用されている記事のバックグラウンドに無学なまま反論(笑)を成し遂げていたと言うことになる。

http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090224/1235439131

 

16.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingの「論旨のずらし」も知のデザインだという。

   増田が批判していたが、magician-of-posthumanは肯定的に取り入れているっという事になる。

 「論旨のずらし」は、今現在顕在化している論旨では到底勝つことができないという惨めな気持ちを埋め合わせるために形式化されているのである。言うなれば、「論旨のずらし」とは、既存の論旨に反論したいけれども反論(笑)になってしまうというパラドクスを、別様の「形式」と「メディア」の区別を構成することによって、脱パラドクス化しているのである。つまり、「論旨のずらし」とは現状無害化による問題の隠蔽なのだ。しかし脱パラドクス化はそれ自体がパラドクシカルである。パラドクスの隠蔽はパラドクス発見を伴わせる。だからこそ今現在id:gerlingは、稚拙バックグラウンドのままメディア論に反論(笑)することが、逆にメディア論の必要性を助長するというパラドクスに向き合わざるを得ないのだ。

 

17.id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンの文献を読むように誘導していた。

   案の定id:gerlingは、ルーマンの本を「一冊だけ」(←ここポイント)読み、誤読し、自爆した。

   誘導していたid:magician-of-posthumanにとって、ここまで計算どおりだったってことなのである。

   id:magician-of-posthumanは、id:gerlingがルーマンを付け焼き刃で論じても、100%誤読すると

   確信していたんだろう。

   id:magician-of-posthumanは、システム理論完璧に説明し、id:gerlingのルーマン読解を完璧に反証して、

圧倒的な調査不足に基づいた反論(笑)は、まさしく<知のデザイン>である。

   と言っていた。確信犯以外の何者でもない。

 

 

 

こうしてid:gerlingは、id:magician-of-posthumanの手のひらの上で転がされていたんだ。

とくに、id:magician-of-posthumanがわざと「id:gerlingがルーマンの本を読むように誘導」し、「案の定誤読した」ところを

知のデザインの要素として好都合に動員したあたりは、実にしたたか。

今までトニオは周囲から煙たがれるだけの存在だったが、これほど真正面から「利用」されてしまったのは

おそらく初めてではないだろうか?

 

だが僕らには、id:magician-of-posthumanのしたたかさにネガコメを突きつける資格があるのだろうか?

実際問題、id:gerlingの「メディア論」批判が十分な調査不足と正確な反証だったなら、

こんな事は起こらなかっただろう。「メディア論」の必要性を助長させてしまう「メディア論」への反論(笑)

書いて、付け焼き刃の知識と「論旨のずらし」や「孫引き」を繰り返して非科学的な反論をしてしまった

id:gerlingにも、問題はあっただろう。

 

たぶん僕らが教訓として言えるのは、

普段から努力をサボってる奴には、努力した者だけが参加できるハイレベルな議論に

参加する事が許されないってことなんだろう。サボりは悪い。

 
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