「不完全性定理」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 不完全性定理とは

2022-03-29

anond:20220329122655

根本的なところでは、言葉を使って考えざるを得ないからだと思う。っていうか、思考自体言葉なんだけど。言葉は相当あやしい。どっか限界があるっぽい。ゲーデル不完全性定理とか、ラッセルパラドックスとか。数学でさえ信用できないっていうし。わからんものわからん。そりゃ、専門家わからん素人わからんは別だろうけど。

似非科学って量子力学のタームと相性いいイメージだけど、あれもよほど頭いいヤツしかからないし、その頭いいヤツの中でも解釈がわかれてるし、そりゃ、素人を煙に巻くだけなら言ったもん勝ちにもなるよな、気持ちの弱ったやつは騙されるよな、と思う。

あとホメオパシーとかも、全然現行の科学に反してるのに、統計では有効って結果が出る場合があるらしい。だから既存科学が間違ってるとかって話じゃなく、数字をそれっぽく利用してやろうってヤカラにつけこまれ余地があるっていうことで、正直、どの似非科学にも引っかかってない人は運がいいだけ、周りに恵まれてるだけ、という感がある。

2022-03-11

公式勝手に言ってるだけ」からはじめる文学理論半世紀

最近二次元に魂を奪われ二次創作萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。

歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである構造主義の話はしません)。

すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。

さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石作品批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石意図」に接近しようとした。

これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。

聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である

これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者あなたが「八百屋さんの隣にあるポスト手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。

これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァ世界公式に起きたこと」にアニメ劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダム関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。

話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生ノートをもとにソシュール一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。

聖書漱石研究など、ソシュール以前は「世界言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンル議論酷使されすぎだと思う)。

それに対して、「言葉世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回であるソシュールが言ったのはあくま言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまり革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてから文学理論最近半世紀である

それまでの哲学世界観と言ってもよい)においては、言語研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたまのものいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?

よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。

これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しか言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかソシュールいわく言語対象の結びつきは「たまたまである。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。

冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。

もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。

二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズエラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。

しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたし感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。

上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこ言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作アニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観いか正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。

しかしそうした努力にもかかわらず、論理学数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデル不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。

かくして文学研究者らはそうした論理的数学理論縦横無尽闊達自在引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。

しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに自分場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。

から、「公式勝手に言ってるだけ」「原作アニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情想像力こそ、人間発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから

 

最後

これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探していますPythonとかほんの少しできますよろしくお願いいたします。

2021-12-12

数学不完全性定理よく分からん

はてなとかで不完全性定理がどうたらだから数学は○○だ…みたいな事言ってる人達って

あの定理きちんと理解してんだろうか

2021-06-18

弁護士に対して弁護を怠けたとかで罰金が科されたりすることはある?

たとえば死刑しかない外患誘致罪起訴された裁判って被告はもちろん弁護士のほうも詰んでない?

弁護にしようがあるとすれば、外患誘致罪ではない別の罪に該当することを立証するか、責任能力あたりを問うかだろう。

しかそもそも有罪率99%となるように検察側が用意周到に準備するこの国においてそもそも弁護士は圧倒的に不利だ。

外患誘致罪など今まで適用例がなかったような罪状場合ならばそんな小手先の弁護をしようと思えるような隙などないだろう。弁護される余地があるぐらいならそもそもその罪状は選ばれないはずだ。

たとえば医者が末期がんの患者処置なしとして特に治療を施さないことがあるだろう。そしてそれが医療ミスとして糾弾されるようなことではない。

上のような刑事裁判において弁護士が手を拱くのまたそれと同様に妥当なことではないかと思うのだがどうなのだろうか?

そもそも最善弁護義務には例外はないのだろうか?圧倒的に弁護側が不利なのに?

数理的には不完全性定理関係するのか知らないけどとにかく論破不可能な主張はないということらしいが、もし弁護義務例外がないとすれば、それはきちんとそういう証明がなされていることを踏まえて取り決めされたこなのだろうか?そうではなく「理屈と膏薬はどこへでもつく」のような、まさかことわざなどを拠り所して「どんな裁判にも絶対弁護の余地はあるはずだよね」みたいに楽観視の結果決められた義務などだとしたら不条理に極まりないと思う。民衆ことわざなど矛盾だらけなわけで厳格さを要求する立法においてあてにしていいはずがないのだから

(まあ責任能力から攻めるという手法ならどんな罪状のどんな裁判に対しても有効だということは直観されていたのかもしれないけれど。それでも裁判という体系の中で本当にそうなのかは証明しておくべきではないのか)

自分裁判を傍聴したことはないから的はずれな疑問になってるかもしれないからそこらへんは容赦してほしい。

2020-10-10

プリウスは悪くないログが残ってるいると言うが

じゃあECUバグがあってちゃんロギングできていないと立証できるのか?

ゲーデル不完全性定理からバグがないプロログラムはないはずだ。

2020-09-02

anond:20200827182934

ユークリッド幾何学不要派のような知識だけを得て万能感に浸っているのは愚者だと思う

ガロアによる方程式の不可解性定理や作図不可能性定理ゲーデル不完全性定理などにより

知性の限界認識し、世界に対して謙虚になるのが真の教養というものだろう

表面的に数学問題が解けたからと世界に対して傲慢になっている者たちの顛末

リーマンショックによるサブプライムローン崩壊

チェルノブイリ福島原発事故

AI暴走による核戦争人類家畜

などのカタストロフィ

ユークリッド幾何学が役に立たないという人は自分では筋の通ったことを言っているつもりなのだろうが

こういう統合的・逆説的な見地から見れば実に浅薄まりない

anond:20200902124342

同意

現代数学ルーツガロア理論にあることは間違いないが中学で作図などを教えたら

飛び級入学を許して、ゲーデル不完全性定理ラッセル論理学などどんどん読み進めるのがよいと思う

不完全性は量子力学などでも基本的概念であるから幅広く応用が効く

その基礎がユークリッド幾何学で身につけた論述能力にあることは疑いようがない

現行のカリキュラム実用性だけを重視し結果だけ示して細部は曖昧にしているが、これらは現代数学の基礎だから完全に修める必要がある

そういう人は足し算や掛け算もペアノの公理から厳密に示すべきだし、微分積分は測度論などを使い厳密に論ずるべき

2020-06-30

入門書あるあるなんだけど、最初簡単なところはやたらくわしく説明するのに、後半だんだんむずかしくなっていくと説明がうすくなるのはなんなの。数学ガール不完全性定理編を読んでておもった。さらネット上のレビュー理解できてないくせに高評価してんじゃねーよ。

2019-12-06

嫌いな小説

2019-01-06

anond:20190106125059

なんで不完全性定理観測者が出てくるかわからないなあ…と数学増田とかこの増田とか見てて、ふと気づいた。

数学君もこいつも不確定性原理とごっちゃになってるな。

私が言ってるのはゲーデル不完全性定理。全く別物。

anond:20190106121505

ヒルベルトゲーデルも準備不足だったね?

でも不完全性定理証明されてますよね?

宗教って体験が伴ってるでしょ?=論理経験が一致する地点がある。

そんなことは言及していない。

私は「有限的算術を含む無矛盾数学形式体系」が増田定義する「宗教」に含まれると言っている。

キミは論理を構築したり、観測する主体は何か?証明できるかな

「有限的算術を含む無矛盾数学形式体系」が増田定義する「宗教」に含まれるかどうかとこの議論無関係

キミが生きて経験していること自体が「証明」になっていることは理解できるかな

論理的。

それは数学ではない。

数学的な証明個人的経験ではなく形式体系で行われる必要がある。

anond:20190106115555

いや、晩年ゲーデルは心を病んでたからどうでもいいけど。

有限算術を扱う無矛盾な体系は必ず証明不能算術命題内包するというのが第1不完全性定理ですよね。

じゃあ、有限的算術を含む数学形式体系は全て元増田の言うところの「証明ができない宗教」であり、「偽物」ということになるけどいい?

2018-11-27

論理学のヤバさ

学問は何であれ研究対象 X というものを定めて、X に関する性質というものを調べるものだ。

X が鳥類場合生物学だし、X が回路であれば電気工学、そして X が論理場合論理学。

X を調べるときに使う方法はいわゆる 科学的な手法限定される。少なくとも学術誌に載せる論文ではそう。

この科学的な方法でつくられた研究結果は X に関する言明が有限な規則構成されている。これを Yと言おう。

論理学がヤバいのは、Y 自体が X で表現可能でありその性質が調べられるということ。

フランクに言えば Y はある意味人間思考といってもよいので論理学 が人間思考について言及するということだ。

電気工学で扱うテーマは「電流電圧はどのような関係だろうか?」のようないわゆるまともなテーマだが、

論理学で扱うテーマは「人間が考える論理学についての性質は正しいか?」を論理学の枠で考えることができる。

あ...ありのまま 今 起こった事を話すぜ!俺は論理学について研究していたつもりが、論理学が俺について言及していたッ・・・

これは、そのように考えることができるよね!っていうアイディアレベルではなく、数式や記号をもちいてかなり厳密に調べることができる。

それによって、「お前の考え方では『私』を理解することなんかできっこない」なんていうボスキャラがいることを証明できたりする。

興味があればゲーデル不完全性定理をどうぞ

2018-09-24

anond:20180924002934

自分が親からまれた生き物の分際で正当性だの決められると思うこと自体が、ヘーゲル不完全性定理からして反するんだよ。

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