はてなキーワード: 物言いとは
「フィクションの中ですら自分たち『市民』を差し置いて政府や自衛隊が活躍するのは我慢がならない」ってもうこの発想が出てくるのが大概やばい。
フィクションの中ですら自分が自己投影できる存在が主役として全肯定されてないと気が済まない精神性を現実社会にも応用することで、
参院選から都知事選までを含めたサヨクの不可解な言動を説明することができるのな。
東京都を善くする政策とかどうでもよくて、いかに自己を投影してる対象が承認を乞食できるかがポイントなので、
知名度しかないノープランの人間を担ぎ上げても無批判に受け入れちゃうし、
そいつが叩かれて埃がどんどん出てくると埃がでたことじゃなくて叩かれたことのように憤慨してしまう。
こういう承認乞食については、まず本人がゆるぎない自己を確立できるものを自分の内側にもってないとどうしようもないんだけど、
それをするにはもう齢を重ねすぎちゃったんだろうなあ。
23歳になってようやく、10歳頃からの慢性的疾患であるところの厨二病が治りかけてきたと思っている。
中二病にも、邪気眼系、暗黒微笑系、尾崎系等色々種類はあるが、ここでは、
「俺みたいな中3でグロ見てる腐れ野郎、他に、いますかっていねーか、はは
あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか
ま、それが普通ですわな
it’a true wolrd.狂ってる?それ、誉め言葉ね。
的類いのものと捉えてくれていい。
2016年6月の終わり頃、Twitterのトレンドに乗じて、「上半期に観た映画ベスト」なるものを自分も投稿したのだが、1位は、「ズートピア」とした。「ディズニーを敢えて1位として褒める、一周回って「アリ」」みたいなひねくれた気持ちでなく、これは純粋に、1位だと思ったからだ。
なので、先日公開された「シン・ゴジラ」も、事前の絶賛感想、また、「庵野…俺の負けだ…」という島本和彦氏のアツいツイートなどを見て、本当に愉しみにしていた。わざわざIMAXの席を取り、また一刻も早く観たいので平日の夜に、そして、若き日の庵野氏が登場する「アオイホノオ」も復習せねば、と息巻いていたくらいである。
という具合に、完全に、自分も、後でツイッターに、「シン・ゴジラ素晴らしかった!!」と書くつもり満々で(観てもないうちから…)、わくわくしていた。
が。
どこもかしこも大絶賛の理由がである。先程の中二病云々の前置きを入れたのは、これは決して、「流行りに反発する俺カッケー」的精神で言っているのではないという但し書きである。
特に不思議なのは、日頃、人権意識の高かったり、リベラル寄りの人も、「日本の戦い方というのを見せて貰った!!」みたいな論調で褒めていることだ。
いいのかそういう着地で?
多数の有名人たちが登場する中で主役として据えられているのは、内閣官房副長官である「矢口」(ハセヒロ)という人物である。
会議会議で誰もビシっと決断出来ない割にはその会議は最初から「想定内」の結論ありきな形式的なものにすぎないという悪しき日本の慣習に侵された人物が多数を占める中、この矢口という人物だけは、最初から、巨大生物の存在(後にゴジラと名付けられる)の可能性を指摘し、会議と、国民の反感や国際社会からの非難を怖れた日和見で政府が迅速な対応が取れなかったことを悔やみ、
派閥争いとか出世から外れた異端者たちを集めたチームや、石原さとみ演じる米国大統領特使(「意識の高いルー大柴」とか書かれていて笑った)と交渉、根回しすることで、何とか、米国などの言いなりの帰結としての「最終解決法」――「原爆投下」――日本にとっては三度目の――を阻止した上で、ゴジラの被害を食い止めるための解決策へと動く。
これは重大そうで重大でないネタバレだが、私が、ごく少ない素晴しい点だと喜んだのは、中盤あたりで、総理大臣(とその他閣僚数名)が躊躇なくあっけなく死ぬところだ。やな奴だと思っていた総理大臣が、突如矢口に、「君のことは、本当に買っているんだ…」みたいなことを言い始めたり(※補足:これはあくまで死亡フラグの例えで、別に私も劇中で嫌な奴だったとは全然思っていません)、「俺、この戦いが終わったら娘の結婚式に…」みたいな死亡フラグメロドラマもクソもない。あれ、死んだ?程度のタイミングで死ぬ。
「新しいリーダーがすぐに見つかるのがこの国の良いところだな」という劇中の自虐じみたないしは皮肉めいた台詞にあるように、この全然劇的でない死亡劇は、映画の一つのテーマともリンクしていて、国のトップである総理大臣でさえこの国にとっては唯一無二でないところは、しかしある意味では強みになり得るという着地だ。
超越的なカリスマ性や能力を持った人物のみの力で成り立っていたり、「その人だけにしか出来ない事」を抱えた人物が各々バラバラにいる組織は、リーダーや、「その人」がいなくなった途端崩壊してしまう。だから、組織や集団の恒久的な存続の為には、「その人だけにしか出来ない事」「その人でなければならないこと」といった唯一無二性を特定の人物に集中させない仕組み作りが重要なのであり、総理大臣が死んでも替わりがいるというのは、逆に言えば、そうした仕組みが機能しているからこそとも言える。
ゆえに本映画や主人公たる矢口は、徹底して「独占」を否定する。まず通常であればフィクションにとってかなり重要と思われる<キャラクター>の独占の否定。総勢300何人だかのキャストということで、ナントカ大臣とかかんとか色々次々に出てくるが、実質的には3つか4つくらいしかキャラクターは存在していない。誰が文部大臣で誰が防衛大臣でというのはこの映画にとってはどうでもいいことで、口調等微妙にキャラ付けされてはいるものの、「大臣」という一つの役割と行動原理と台詞が、10何人に与えられているに過ぎない。(多分普通の映画だったら2、3人にセリフをまとめるはずである)
「はみ出し者の集まり」とされる、ゴジラの正体究明班だってそうで、「学者っぽいないしはオタクっぽい探究心でゴジラについて調べる人たち」という一つの役割を4人くらいで分担しているだけである。(多分これも通常であれば一人にまとめられる)
これは、多数の人物たちが台詞を次々に言うことでテンポ感を出すという演出上の意味もあるだろうけれど、「チームで一つの役割」を持つべしという価値観の現れでもあろう。
更に、情報や知識の独占の否定。矢口は、本来ならば国の重要機密として扱われるであろう、ゴジラの細胞データサンプルなどの情報を様々な機関や国にばらまくことで、問題の早期解決を導く。三人寄れば文殊の知恵、これは自分ないしは自分たちだけが知っていると独占機密化することで情報の価値を上げるよりも、広く共有することでなるたけ沢山の協力を集めた方が得策である、という姿勢だ。
<超越的>存在であるゴジラに対峙した時、この国を救うのは、同じく超越的な存在や飛び道具ではない。目標を同じくする協力集団であり集合的知識であり、つまり<集合>こそが<超越>を「超える」
でもこれって前半あれだけ揶揄していた、「日本には決定を下せる人がいない」っていうのと紙一重であるから前半部の否定と統合性が取れていないし、
むろんこういうのは、思想的な好き嫌い、価値観の問題で、私は所謂ネット上ではブサヨと呼ばれる方の考えに近いから、ともすれば個の否定に繋がるような着地点に、なんだかなーと思ってしまうわけだけれど、問題なのは、というより、問題だと思うのは、「シン・ゴジラ」は、単なる、「集合バンザイ」を主張しているわけではなく、ともすればっていうかともしなくても命に関わる「有事」に遭遇した際について描いているという点である。
矢口は、一刻も早いゴジラの正体究明に必死になっているチームメンバー達が、カップラーメンのみで食事を済ませ滅多に家に帰らず連日泊まり込み、また帰ったとしても翌朝早く来る様子を見て、満足げに、
「この国もまだまだ捨てたもんじゃないな」
とか微笑み(正直、これだけで元・社畜の自分からしてみれば、けっっっっ、って感じなんだけど)
ラストシーン近く、ゴジラを倒す最終的な作戦の前に、自衛隊その他に向けた、
「今回のヤシオリ作戦遂行に際し、
ここにいる者の生命の保証はできません。
だがどうか実行してほしい!
わが国の最大の力は、この現場にあり、
っつー半ば特攻精神的とも取れる演説。(でほんとに作戦決行中戦車みたいなのが幾つかバカスカやられているような)
そして、国連(だっけか)で決定された、「ゴジラには核落とせ」という判断を、何とか食い止めるための水面下交渉について、アメリカ人(のたぶん偉い人)が発する台詞、
「まさか日本がこんな狡猾な外交手段を取れるとは、危機は日本でさえ成長させるのかもな」(詳細は違うと思うがこんな感じ)
映画の素晴らしさは「共感」にあるわけではない。だからこれが、「完全なフィクション」であれば、私もうるさく言わない。
ファンタジーであれば――たとえば、『進撃の巨人』での出撃前の演説、「心臓を捧げよ!」は確かにアツいシーンである。
しかし、「シン・ゴジラ」の場合は、完全に、フィクションの世界観にあるフィクションの人物の行動原理として切り離すことはできない。明らかに、現在の日本を物語に取り込みそして、あるべき日本の姿を提示しているものだからである。
繰り返すが、断っておくと、これはあくまで個人的な価値観の問題である。
しかし私としては、リベラル寄りの人までも、結構絶賛しているのがよく分からんのだ。
もちろん、放っといたらもっと大勢の人が死ぬっていうのは分かるけど、それでいいじゃないか。それでいいというのは大勢の人が死ねばいいということではなく、多くの命が失われるのを防ぐための方法を、という行動原理で十分じゃないか?
それが、いや、登場人物が内閣とか政治家とかだから仕方ないかもしれないが、国のためとか国民のとかこの国はとかやたらと、まあーーーーうっるさい、しつこいのだ。
国のために個や生活を犠牲にして働くのが美徳で命を落とす覚悟が礼賛されるべきもので、何より、「有事」「危機」こそが、国を成長させる、みたいな価値観?
いいのかそれが「これぞ日本の戦い方」で飲み込んで
っていう些か判断や解釈の分かれる思想的な話の他にも、単純にひとつの作品として、映画やプロットの作りとして、鼻につくポイントは少なくないと思う。
これは多くの人が指摘するように、「シン・ゴジラ」の欠点ないしは一部の人にとっては美点の一つは、
「たぶん(本来怪獣映画を喜びそうな)小中学生が見ても分からない」
ことであろう。
次々に入れ替わり立ち替わり出てくる人物、やたらと専門用語や政治用語を並べ、理解させる気あるのか?というくらい早口の会議、応酬、ゴジラを倒すというよりメインは政治劇
「会議が冗長でなくムダがない」「予告では、おっさん達がやたらと会議して退屈そうだと思ったがいざ観てみたら会議もっとってなった」という内容の感想をよく目にするが、
そうか?
前半部の会議会議会議は勿論、指示手続き実行までのリアリティを出すためとかこれだけのプロセスを踏むことの提示とか必要な部分もあるが、社会的風刺になっているシーンも幾つか存在している。主人公が指示を出すと、「それどこの部署に言ったの?」と返されるタテ割り行政とか、とりあえず識者を集める時間の無駄とか、直前までスーツだったのに記者会見を前にして、総理「防護服を持ってきて」というあざといわざとらしさとか、面白いものもあるけれど、風刺したいなら、別に、それだけで、つまり、そういう戯画化したシーンを見せれば十分ではないか。
が、本作では、<その上で>、また、「この国では~」とかいちいち誰かが台詞で言うのだ。これもしつこい。
いや、分かったよ、わかるよ。だって、それさっき見たって。
「難しくて分からないだろうな」とは言うが、わざわざ台詞で補足してくれているところも結構あって、中途半端に親切なのである。その半端な親切さが観客の理解を助けるという方向ではなく、「この国ではあの国ではうるせえ!!」って感じに作用している。自分は、筒井康隆なんかが好きなので社会風刺物はむしろ好物な方なのだが、こういう見せ方はぜんぜん、スマートではないように思う。
更に、後半の最終作戦までの会議やり取り部分は、もっと無駄なような気がする。
物語として分解したときに、小難しい専門用語でなんか凄いものを観た気にさせるないしは(本当はよく分からないが分からないというとバカだと思われるので)褒めておこう!という方向に感想を誘導させる効果しか持っていない。
というのは、2時間映画の構造基本には、
が組み込まれていることこそが、フィナーレのカタルシスを呼ぶ。
小・トラブルとは、物語の世界観を示したり、人物たちの関係性を深めるためにプロット上に用意される障害だが、「根本的に解決されねばならない」問題は別にある。物語として最後に乗り越えるための壁が大・トラブルである。まやかしの勝利、からの喪失とは、今まで向き合ってきた、そして倒して喜んでいた障害が単なる「小・トラブル」で、大・トラブルは別にあることに気付いてしまったり、大・トラブルを解決したないしはできそうだと一旦は歓喜するものの実は全然間違っていたり、
「シン・ゴジラ」の場合、自衛隊が次々に攻撃することが小・トラブル、そして米軍がやってきてダメージを与えられたように見えるのがまやかしの勝利のように見えるが、そうではない。っていうか見えるがって書いたが見えない。
だってあれ見て、誰も「米軍やってきたやったー勝てる」とは思わんだろう。
突き詰めると日本は最終的に日本が守らなきゃねって映画なんだしっていうのがなかったとしても、
根本的なプロット上の問題として、主人公矢口とそのチームが、比較的最初の方で、最終的解決方法にほとんど気が付いてしまっているのである。
ゴジラの動力源が核融合であること、そのために生まれる熱を放熱するために冷却が必要なこと、おそらく血液の循環が冷却として作用しているので、血液を固めてしまえば、ゴジラは活動を停止するのでは……
っていうのが主人公サイドから割と早めに示されてしまって当初は矢口プランとか呼ばれている以上、
「これが正解なのだな」
と思う。思ってしまう。
だから、どんなに自衛隊とか米軍とかミサイルとか出てこようが、それでやっつけられるわけはない。それだと主人公が出てきた意味がない。
これは我々に組み込まれてしまった、フィクション鑑賞時のルールである。
故に、制作者は、その予定調和的思い込みを覆さねばならない。むろん、米軍が出てきて解決しちゃいましたチャンチャンという方向でなく、だ。
というプロット構造に則って言えば、ゆえにこの、当初気付いた解決策は後半部で本来、「覆される」べきなのだ。主人公ないしは主人公サイドは、「解決策」を握り、幾つかの妨害や無理解そのほかに合いながらも、なんとか実行直前ないしは実行に漕ぎつける。やった!!というつかの間の悦びを得るが、そのうち、それが無意味・不正解、根本的解決ではないことを悟り、絶望に陥る。
で、
からの。この、「で、」からが、ラストに向けた助走なのである。
これが、例えば、当初は主人公たちは全然別の方法を思いついてしかし失敗、再度のなんとか成分がとか原子構造がとか動力源がとか分析のアイディアの出し合いにより、「血液固めればいいんじゃね」ということに気づく…とか、苦労してバトルして血液凝固剤注入したけど無駄でした⇒博士の残したデータの解析⇒凝固だけじゃ足りないのかもとか注入方法の工夫が足りないとか試行錯誤して最終決戦、
など少なくとも順番が入れ替わっていれば、
専門用語を並べ立てた応酬、会議会議、チーム内の協力…の配置が、物語に機能していると言えるし、純粋に映画としてのカタルシスと、内容を理解できる者にとっては、そうだったのか!と、謎解き的、知的カタルシスをも生む。
しかし最初に、後半の最終作戦までの部分は、もっと無駄、と書いたように、実際はそういう構造ではない。
主人公たちが序盤の方で気付いた最終解決策がほぼそのまま最終作戦なのだ。博士の残したデータの分析で抑制剤がプラスされはするが大方まあ正解なのだ。そしてちょっとやられたりはするが成功しちゃうのだ。
だったら後半部の、なんとか成分がとか原子構造がとかなんとか博士の分析が云々という難しげなやり取り、本当はいらないじゃん。だって序盤に示された正解が正解ということを補強しているだけである。
つまりほとんど、「米国が核爆弾落としちゃうかもヤバい!どうする!」という物語の都合上、(間に合わないかも!)という時間稼ぎに配置されているだけだが、そんなの、間に合うのは分かる。フィクション鑑賞時のルールとして。
ラストの作戦がショボい、という感想はちらほら見かけるが、本当は、作戦がショボいことがカタルシスを生んでいないのではない。ほぼ最初に示された正解通りのまま終わるから、あれ?となるんである。かつ、人物たちの早口の分析から判明していく真相に、なるほど、そういうことだったのか!という知的快楽も得られない。
以上の理由から、「難しいから子どもには面白くないかも~」と言っている人こそ、本当に理解しているのだろうか、煙に巻かれているだけじゃないの、という感じだが、
「小難しい」というだけで、煙に巻かれて何か凄いものを観た気になる一部の人間、ないしは、凄いものを観た、観客に媚びてない=芸術的=作品の価値が高い と「思いたがる」(言いたがる)(だってつまらないと言ったら理解できなかったと思われる、バカだと思われる)類いの鑑賞者にとっては、演出上の効果はあるのかもしれない。いや、あった。
けれど、
やれ家族の絆だ恋愛だお涙頂戴だ感動だの分かりやすい浅い作りにしなくても、クリエイターが作りたいものを大衆に媚びずに作っても、観客はちゃんと素晴らしいものを評価できることが~
みたいな、自分が一番「一般人」(こういう言い方をする映画マニア、てめえもただの一般人だろって感じだよなマジで)を馬鹿にしている上から目線の物言いで、無邪気にキャッキャッと、ハリウッドに勝ったとか邦画も捨てたもんじゃないとか喜んでいる場合だろうか。いまだに。
同時に、分かりやすいことは必ずしも、「浅い」ことを意味しない。
むしろ、近年、「マッド・マックス」とか、「ズートピア」のような、戯画化によって現在蔓延る社会問題の構造を鋭く炙った作品でありつつ、かつ、子どもでも純粋に楽しめるくらい映画として高いエンターテイメント性を持った作品が海外から出て話題を呼んだ中で、
まだ、大衆に媚びてないから一般人は難しくてついてけないだろうけど~チラッチラッ みたいなことを言ってはしゃいでいる段階って、それこそ完全に「敗北」だと思いますけどね。
乙女ゲーをプレイしていて、意中のキャラにフラれると、心臓が握りつぶされたように痛む。
本当にフラれたみたいな痛手を負うので、なかなかこちらから告白できない。
という話を友人にしたら引いたように、「そこまではない」と、言われた。
たかがゲームでしょ、という彼女の言葉に、それもそうだとうなずいたものの、やっぱりフラれるとその度に深くショックを受けた。
それだけじゃなく、告白されて断るのが心苦しすぎて、特に興味ないキャラとのエンディングを何度も見ることになった。
やがて、気をすり減らしながら遊ぶのは時間の無駄であると悟り、遊ぶのをやめた。
あれから十数年。
暇つぶしに始めた恋愛系のスマホゲームで、ものすごく物言いのキツイキャラが出てきた。
余裕ぶって彼にアプローチしてみたけど、心の奥底ではやっぱりちょっと傷ついていた。
優しくない言葉をかけられるたびに、だんだん落ち着かない気持ちになってきて、結局また遊ぶのをやめてしまった。
私はときめきたいだけなのに。
私には大好きな友人がいます。
一番の親友だと思っていたのに、、、
以前は互いに平等に笑い合えていたはずなのに、最近ではことあるごとに私を馬鹿にしてきて、それで私が怒っている、やめて欲しいという意思を明確に伝えているにも関わらず、やめてくれません。
以前はそんな人ではなかったのに、敢えて私を落ち込ませるような、見下したような物言いをする理由が分かりません。
どんなに辛いことがあっても、親友と話せば立ち直れたのに、最近では親友と会う度落ち込んで嫌な気分になります。
でも、周囲の環境や出来事一つで、関係ってこんなにも変わってしまうものなのでしょうか。
正直言ってとても悔しいです。
手に入らなかったものばかりに思いを馳せてしまうのは、もうどうしようもない人間の性なのかもしれない。
気が合うというか、物事に対する考え方はもちろん、趣味やファッションのセンスまでもが似ていたし、自分の持つ雰囲気と彼の持つそれとはとてもよく似ていたと思う。
けれどそれではもの足りなかった。
私は自分と似ている人ではなく、自分とは違うものを持っている人が好きだった。
彼といる時間は、穏やかで、心地よいものだったけれど、一瞬が輝くような、このまま時が止まればいいと思うような、そんな楽しさはなかった。
好きな人と話すときは、その人のことが愛おしくて、自然と顔がほころんでしまう。
彼に対してはそれがなかった。
もちろん笑いはするけれど、それは彼に対する愛おしさからくるものではなかった。
その頃私が周囲によく漏らしていたのが、「彼は結婚するにはとても良い相手だと思うけど、恋愛対象としてはもの足りない」という旨のことだった。
浅はかな恋愛経験でよくそんなことが言えたものだと当時の自分をぶん殴りたくなるけれど、その頃はまだ20歳そこそこで、根拠のない自信に満ち溢れていたから、全く救いようがない。
アラサーと呼ばれるようになった今の私からすると結婚に適している、そんな相手は喉から手が出るほど欲しいというのに。
出会いのが20歳の頃でなく20代後半となった今だったら、きっと結果は違っていただろう。
いや、もしこのタイミングで出会ったとしても、彼は私のことを好きにはならないかもしれない。
何回もデートをしたけれど、結局、彼は何も言ってこなかった。
私も私で彼に全く好意のサインを示さなかったし、なんとなくで付き合ってだめにして結果的に彼の時間を奪うようなことはしたくなかったので、牽制もたくさんした。
それでもなお、と言ってくれなければ付き合う気もなかった。
彼とはもう長い間連絡はとっていないが、立派な会社に勤めて、傍目からは順風満帆でいるらしい。
逃した魚は大きかったかもしれない。
参院選が近くなって、恒例の改憲派と護憲派の争いがちらほら始まってるけどさぁ。
戦争反対 = わかる
自衛隊反対 = (まぁ)わかる
現行
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
改正案(例)
2 前項の目的を達するため、また自衛のためであっても、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
こんな感じ
自国に敵が攻めてきたときに、日本国はどのような対応をするのか、という点について曖昧にしてることなんだよね。
敵が攻めてきた時とかの対応で思いつくのは、
下記のような感じなんだけど
1 抵抗せずに殺される
2 抵抗はするが、軍隊は使わない
3 自衛のための軍隊で抵抗するが、攻めてきた国を攻撃まではしない
6 仲間の国が攻めらたら、攻撃する
日本国民の総意は、どの辺にあって、
それに合わせてどのように9条を改正するのかを議論しないといけないんじゃないの?
まぁ、自衛隊をどうしても持ちたくないなら、1か2を9条に明記したらいいよね。
国民みんなが、他国が攻めてきた時に、「軍隊で抵抗するくらいなら、たとえ自分や大切な人でも、殺されたほうがマシ」だと思うならそうなるでしょう。
ちなみに私は、平和主義者なので、3番かなぁ。
とりあえず、「相手から手を出されるまでは、こちらから手を出さない。追い払うだけで、それ以上殴りに行かない」的な。
たとえ、運悪く、自分や大切な人が殺されてしまったとしても、自分や大切な人が他国に乗り込んで、殺す側に回るよりはいいです。
なんで、こういう話に誰もならないのかね。
本当に腹立つわー!
◆16/07/09 2:00 追記
9条についての改憲派・護憲派の争点は、憲法が曖昧にしてきた部分によるものであり、
国防と軍隊(自衛隊)について、国民のコンセンサスをきちんととって、憲法上に明文化すべきじゃないかっていうことです。
なので、この文章をきちんと読んだ上での、真っ向からの反論だと思います。
確かに、あまりガチガチに憲法を決めてしまうと、不測の事態への対処に遅れるリスクはありますよね。
たぶん 「9 あえて曖昧なままにしておく。」を加えて、それも含めて国民が選べばいいんじゃないですかね。
・「自民草案があんな感じなのに、改憲とか言うの?」という論点
このタイミングで憲法の話をするのに、自民党の憲法草案について触れないのは微妙ですよね。
すみませんでした。
あれ、2年くらい前に読んだんですが(確か)
細かい内容は覚えていませんが、随分酷い内容だと思った記憶はあります。
なんか。某シールズみたいな物言いが嫌なんですが、立憲主義ってなんだっけ?っていう感じです。
あの草案は、「国家 > 国民」、つまり、国家のために、ひとりひとりの国民の基本的人権は、
じゃあ、「お国のために犠牲になる」ということをもう一度やるのか。
ちなみに私は、自民党について、
政権運営能力は、この党にしかないので与党であるのはやむなしと思っています。
が、今度の選挙は、全く支持していない民進党か共産党に入れます。(たぶん)
選挙では、自分が支持する政党に入れるということも大事ですが、
「自分の投票行動が、どんな政局を生むのか」ということを考えるべきだと思ってます。
この10年来、日本が失敗し続けているのは、
圧倒的多数の議席を獲得した与党が何をもたらしたかは、振り返ってみましょう。
・「周回遅れの論点」とか言う人へ
この手の意見もちらほら見えましたが、ぜひ、過去の論点と現在の論点をわかりやすく整理してください。
選挙権を「いま」持っている人たちが、
過去の論点を踏まえて、自分はどうしたいのかを考えられないといけないのではないでしょうか。
以上で、コメント終わりです。
長文にお付き合いありがとうございました。
明日の参院選ではどのような投票行動を取るか、今日一日考えたら良いんじゃないでしょうか。
選挙に行きましょう。みなさん。(なんだこのまとめ)
自分も大概なクズなコミュ障だが、その自分から見て「ああ、真性のコミュ障ってのはこう言うのを言うんだな」ってのを前職を辞める直前で見かけたので備忘録がてら書き連ねる。
■対象
ありえない程匂いのきつい香水をつけてくる。どれくらいきついかと言うと20畳程はあるだろうかフロアがその匂いで充満する程きつい。体臭等の理由があるのかもしれないがそれでも度を過ぎていた。隣りに座っている自分は毎日匂いのきつさのあまり頭痛に襲われた。
■やたら細かい所にこだわる、自分の意見を曲げない、人の意見を受け入れない
その会社では作成した画像を正式納品物以外は透かしを入れていた。持ち逃げ対策。しかしこれが気に食わないらしく「なんでこんなことをするんですか、必要ないでしょう」と言って聞かない。持ち逃げ対策で事業部当初からの慣例だと言っても「そんな必要はない」と言って一歩も譲らない。
最終的に「そこは議論に時間をかける必要もないし、これ以上時間をかけるのも無駄だからこの話はしない」とはねつけたんだが、そうすると「そんなレベルの低い話をしたくない」と尚も食い下がる。もううっとうしいから言ってることを無視して自分の作業に戻ったがこれが1週間ほど続いた。ありえない。
それだけでなく、自分は見聞でしか無いが経理側の慣例となっている作業に噛み付いて、そこでも2時間程お局とぐだぐだやりあったらしい。そこでも「レベルが低い」発言が何回も飛び出したそうだ。
10社も経験してれば入社数日の自分の意見で会社の慣例を変えられる訳もなく、それをする為にはまず社内で実績と信頼を勝ち取り、意見が通る環境を整える必要があることくら分かりそうなものだが、それが絶対的に理解できず「自分の意見が絶対的に効率的で正しくそれが理解できないのは君のレベルが低いからだ」が思考の基本形式らしい。
ぶっちゃけると、俺はその会社を退職までの最低猶予期間である2週間きっちりで辞めるよう手続きしていた。担当している仕事分量は多く、はなっからまともに引き継ぎできるともしようとも考えていは居なかったが、形式としては一通りの引き継ぎをしたと言う「建前」は必要だ。
なので一応ざっとした引き継ぎスケジュールを作り、それに基づいて引き継ぎ作業を行おうとしたのだが、今やっている作業が終わったら引き継ぎ作業を行うから声をかけてくれと言ってから2時間、3時間たっても一向に声をかけてこない。しびれを切らしてこちらから声をかけた時の会話の概要が下記の通り。
「手が空いたら声をかけてくださいって言いましたよね。今までの時間全く手が空かなったのですか?」
「はい」
「いくらなんでも3時間全く手が空かないってことはないですよね?何やってたんですか?」
「それは急ぎじゃないですよね、いつやってもいいですよね?俺、後一週間(※)でいなくなりますよ。引き継ぎ全然進んでないんですけど、その辺分かった上でやってます?」
「はい」
「分かってるんならどうして引き継ぎの作業じゃなくて、優先順位の低いそっちの作業をするんですか?」
「そう言うレベルの低い話はしたくないです」
「(またそれかよ)」
※…上記のようなやり取りが延々続いており、引き継ぎ進行率は残り1週間で切った所で20%もなかった。
俺は30代後半で子無し嫁無し家庭無しだ。主原因は俺のコミュ障にあるのは明らかだが、生まれ育った家庭環境の関係もあって結婚と言うものに期待も希望もなく、普段はエロゲ、時に風俗で十分満たされており、今後もその生活を変えるつもりは全く無い。
結婚の話になって「俺結婚するつもり無いんですよ」と言われたら、それなりに裏を色々察してそれ以上突っ込まないのが、普通の感性の持ち主の反応だと俺は考える。だが奴は違った。
「え?なんで結婚しないんですか?頭おかしいんですか?何かの思想信条ですか?それともなんか宗教的な理由ですか?」(入社3日目・原文ママ)
相当親しい人間同士の砕けた会話でも、宗教や思想信条と言う言葉を使っては会話しないだろう。ましては入社3日目、顔を付き合わせて3日目の人間に聞くべき話じゃない。流石に俺はキレ気味に
「それは仕事には関係のないことだし、それをあなたに話す義務もないし、そんな会話を赤の他人とするつもりは一切ない」
と断言した所
「コミュニケーションでしょ、会話でしょう、僕とコミュニケーション取るのが嫌なんですか?」(同上)
と来た。
思えばこの時点で「ああ、こいつ無理だわ」と結論づけて会話に壁を作って、引き継ぎ作業にかなりの悪影響を与えたことが今となっては分かるのだが、当時は香水の臭さとあいまってもはや近くにいるだけで文字通り頭痛を覚えたのは記憶に鮮明だ。
■人間落ちる所に落ちる
経歴だけ見れば大したものだった。業界では名が知られた会社を何社も経験していたし、資格欄にもカタカナと英文が踊っていたように記憶している。
一方、その会社は規模は小さく、給料は安く、将来性もない。俺はメンヘラで数社を転々とし「落ちる所まで落ちた」結果、入った会社だ。
なんで大手をやめてこんな所まで落ちてきたのかと経歴だけを見れば思うが、実物を見てみれば成る程「こんな会社まで落ちてくる訳だ」と納得する人間だった。
被った在籍期間は3週間程度だが、それでも「ああ、こいつは絶対に有り得ないわ」と思えるエピソードが他にも多数あった。
例えば、少し物言いがきつい先輩社員に小言を言われた直後、「社長に呼ばれたから作業に戻ります」と嘘をついて30分程姿をくらます等、細かい話をあげればまだまだあげられる。
そいつが普通じゃないことは明らかだが10社近くも経験しているなら、そいつなりには入社1ヶ月未満と言う自分の立場を弁えた上で、自分なりの「入社まもない転職組が取るべき当たり障りのない立ちふるまい」をしているはずだ。
3週間はまだその範囲内だろう。地が出てくる1ヶ月後、3ヶ月後、社内で起こすであろうトラブルは俺の想像の範疇を超えている。
そうやってどこに行ってもトラブルを起こし、社内での信頼や信用を失い続け、最終的に退職勧告を受けて辞めざるを得ないことを何度も繰り返してきたのだろうと俺は見ている。
ここまで来れば何らかの発達障害を疑い同情して勘案すべきってのが模範解答かも知れないが、それなら相応の診断を受けて、その前提で受け入れてくれる企業に行くべきだろう。
周りに通院を勧めてくれる人間がいないことは当人にとっても周りにとっても不幸なことかもしれないが、それは赤の他人が推測してやらなければいけない事案じゃない。
どれだけ立派な資格を取るだけの知力があっても、コミュニケーション能力がなければそれを生かすことはできないのだと生々しく実感した。
一方、少なくとも技術職に分類される社会人に求められるコミュニケーション能力と言うのは、巧みな会話スキルや時事ネタに通じている等ではなく、
・先輩や上司に当たる人間や会社の慣例を受け入れ自分の考えをすり合わせること
の二点程度で十分なのだとも思う。
顧客の要求を読み取り、技術的に実行の可否の判断や必要なスケジュールを弾くのはコミュニケーション能力でなく、技術職の「技術」の範疇に入ると俺は考える。
■辛い3週間だったが
同席した3週間はとにかく辛かったが反面教師として得るものは、皮肉なことだが1年程在籍したその会社の中で一番濃く実用性が高いものであったと思う。
引き継ぎは結局ろくにしないまま退職した。社会人としてそれは筋が通ってないと責められる点かも知れないが、それは本筋でないから触れる程度にしておくが、筋を通さないといけないような立派な会社ではなかったと言う点については明記しておく。ならば退職の意志を示してから2週間の猶予を持つと言う法律を最低限守っていれば責められる謂れはない。
新しい会社に入って1ヶ月をちょうど過ぎた。まだ試用期間ではあるが、直上の上司である社員からは「もうすっかり馴染んでるね」と評価を貰った。自身ひどいコミュ障である俺にとっては、これはかなり上々な評価といえる。
(※下の方に追記をした。ブコメへの反応が種だが、俺の考えを説明したつもりなので、読んでいただければと思う。
長すぎて途中で切れたようだ。続きはこちら。http://anond.hatelabo.jp/20160626174144 )
俺は表現規制に賛成だ。
厳密に言えば、厳格なゾーニングを求めている。エログロホラーが大好きな人間として、少年マンガ誌における性的表現は一掃してほしいし、機会あらばパンチラを差し込んでくるような深夜アニメには嫌悪感を覚える。公共空間に貼られるポスターに性的表現は不要だとも考える。極論になるが、積極的に根絶やしにしてほしい。(追記:この極論部分に関しては謝罪訂正する・7詳細は下の追記の段に書いたので、そちらもお読みいただきたい)
最近ブコメなどでもかまびすしい「まなざし村」認定が大好きな連中のことは本当に嫌いだし、絶滅してほしいとも思っている。(追記:絶滅部分については謝罪する)
まぁ俺が思ったからといって性的表現がなくなるわけでもないし、一部のオタク連中の過剰な防衛本能を根絶できるわけでもない。強制できることではないからな。
しかし俺は規制の是非を問われたら「規制は仕方ない。当然だろう」と答える。
それで好きな作品が回収されたり、好きな作家が食えなくなったりしてもまぁそんなもんだろで終わるだろう。
「お前の作品への愛はそんなものかよ」と思われるかもしれないが、好きな作品が生み出される素地を蹂躙してきたのはオタクたちなのだから仕方がないだろう。うなぎを食い尽くせばもう食えなくなる。それだけのことだ。
規制があったほうが表現は豊かになるだろうということだ。江戸時代に奢侈禁止令などが出たおかげで色彩感覚が発達したように、時の幕府を批判するためにメタファーの技術が発達したように、制限があってこそ発達する表現方法はあるだろう。俺はそれが楽しみだ。まぁ当然異論はあるだろうが、俺のこの期待は否定はされたくない。
俺が本格的に表現規制に転じたのは、「閃乱カグラSV」を見てからだ。アレを見て俺は心底気持ち悪いと思った。あれは許せなかった。
この作品は、「着せ替え」ができる。で、珍しいことに、着せ替えパーツを体の色んな所に配置できる機能がある。例えば、メガネを目の位置にかけるのか、おでこにつけるのか、鼻の方までずりさげるのか、みたいなものだ。この機能自体は素晴らしいと言えるだろう。しかし、この作品では着せ替えパーツに「コケシ」がある。コケシを一体何に使うんだ?…言うまでもなく、性器に突っ込めるようにするためだ。コケシを「体のどこにでも配置できる」のなら、当然股間に突っ込んで喜ぶ奴が出る。そしてこのゲームの悪質なところは、それを「ユーザーの選択」にしてCEROの審査をかわしたことだ。この作品のレーティングはD(17歳以上)だ。Zではない。コケシを最初から股間に突っ込んだ状態の装備にしたらZは避けられないだろう。着せ替えパーツ移動のアイディアが先かコケシが先かは定かでないが、結果としてコケシを女子高生の性器に突っ込むことを是とするゲームとなったのだ。そういうゲームを良しとし、ユーザーは喜んだのだ。
俺はこれらをみて、あぁ、もうダメだなと思った。
こんなのを見て自浄作用に期待など出来ない。できるのなら、する。やれるなら、やる。オタクに限らず、どんな階層の人でもそうだ。うなぎは今年も売れるだろうからな。ましてやオタクなんて生活費を削ってまでグッズを買うような連中だぞ。
Twitterで、イラストレーター出身の漫画家さんとこの件について話せる機会があった。俺の「規制やむなし。自浄作用などない」というつぶやきを引用してらしたので、しばらく話をした。できればこんな形で話したくはなかったが(大好きな方なので)、結局そこでも「あぁ、もうダメなんだな」と再確認することになった。その漫画家さんの意見は「自浄作用はある。だから極端で性急な規制は危険」というまっとうなものだった。確かにそのとおりだ。15年前なら間違いなくそうだった。しかし、この十数年で何か具体的な自浄、自重があっただろうか?「カグラSV」がCERO Dで通るような時代だ。あれにどれだけのオタクが疑問をもったのだろうか?あれは結構売れたはずだが、問題にはならなかった。件の碧志摩メグや「のうりん」のポスターの騒動も見てみるといい。対立しかなかっただろう。0か1かの感情的な罵り合いばかりで、グラデーションの議論はなかった。やめさせたい側と、それを攻撃する側の両者だけが燃え上がり、「お互いにどこまで歩み寄れるか」の話など掻き消えた。どこに妥協点を見つけるかが最も必要な議論だったのに、それがなかった。
ブコメやtogetterなどでの「またまなざし村か」系のコメントをみるにつけ、もはや相互理解は不可能だろう。このような0か1か、敵か味方かしか考えない連中が排除されない限り、ひたすらに先鋭化を極めていくだろう。そしてその先鋭化の果てに、一発でぶっ潰されるような未来があると俺は想像している。
どうせこのまま先鋭化していくオタクたちの「表現」にはついていけなくなったのだしな。
こないだも、「グルメ漫画でエロい顔をする必要があるのか」みたいな話があったろ。あれでも極端な話が大好きな連中が幅をきかせてたよな。
そろそろ過剰な性的表現に抵抗を覚える層が目に見える形で増えてくる時期になってきただろう。そしてタイミングよく(必然的に?)、極端な議論が大好きな層も表出してきた。
案外、今後数年でかなり大きな対立になるかもしれないな。
そうなると、もう今までのようになぁなぁでやっていくことは不可能になる。どっちか選ぶ時が来るだろう。
その時には、規制を俺は望む。
大阪都構想や、イギリスのEU離脱みたいなものだ。変化はほしい。(EU離脱に関しては様々な要因があると理解しているが)
ガッチガチの規制が敷かれて、結果性犯罪が激増することになるかもしれんが、まぁそれは原因と結果の螺旋だ。過剰な規制の前段階には過剰な表現があり、その結果を社会が負う。出生率の問題も解決するかもしれんしな。
ゾーニングをはっきりと設定し、過激な作品を保護してもらいたい。
しかしそれも、無理かもしれない。いや、多分無理だろうなと思う。だいたいもう諦めはついた。
過去と現在の過剰な性的表現の作品への楽しみよりも、規制後の作品がどうなるかが楽しみになってきたからかもしれない。
現状でも、性的表現を使わずに色気ある表現をする作品は沢山ある。
俺はもう、「妥協点を見つけよう」と説得して回るのに疲れた。もうやめる。
あとは規制反対派のみんなが自分の利益のために、いろいろと頑張って活動してくれ。どこまで鋭くなっていくのか、見守っていくよ。
書き始めた時は「規制に積極的に賛成する!」と熱が入ってたが、途中で熱気が抜けて諦観しか残らなくなった。なので文章の前の方と後のほうでずいぶんテンションが違う。一応修正はしたが、それでも熱の入りが違うことはわかると思う。
変化を嫌い、変化に順応できない規制反対派は滅びても仕方がない、みたいな話に持って行こうともしたけど、流石にコレは無理筋だな。でも正直ちょっと思ってる。表現規制っていう劇薬を投与したほうがいいよなってな。憲法よりは影響が無いんだから、憲法改正以下のテンションで表現規制を迎えてもいいんじゃねーか?
話が散らかったな。
とりあえず、俺はもうやめるわ。
いろいろ反響があったみたいだな。いろいろな指摘があってなるほどと思うところも多かった。
表現規制とゾーニングを混同しているという指摘があったが、確かに一緒くたにしていたな。俺の中ではゾーニングが理想だが、おそらくそれは実現しないだろうと思っている。理由は、規制派と反対派が全く歩み寄りの姿勢を見せないからだ。そうであれば、一発規制もやむなしと思っている。理想としては「ゾーニング>規制」だが、それは多分無理だろうなと、ブコメなど見て改めて思う。
また、単純に俺の好き嫌いを規制にからめているのではないかという指摘もあったが、俺の好きなものも規制されて構わない。なくなっても別にいいということだ。この種の規制の話になるといきなり理性がぶっ飛んで極論でしか殴り合わなくなるものだが、まぁそうなってしまったな。すまない。嫌いなものが悪と言っているわけではない。気に入るもの、気に入らないもの、いずれも悪とされて滅ぼされても仕方ねえよなということだ。そうしてきてしまったのだから。
いくつかのブコメへ返信をする。
ゾーニングを望むと言ってるこういう人たちが、規制がいかに必要かは語っても「何をどうゾーニングするべきか」を具体的に語らないから不信感がある。当然モザイクなど性器修正には反対してるんだよね?
何かについて話すとき、その対象全てについて一度に語らなければならないということはないだろう。そんなことをしたら一つの意見が一冊の本くらいになってしまう。この日記では俺は「ゾーニングが理想だが無理そうだ。規制もやむなしだろうな」ということを書いている。ゾーニングの問題は積極的に話されるべきだと思うよ。俺はもう諦めて、規制でいいやという立場だけど。で、規制とゾーニングの話からいきなり「当然モザイクなどの〜」と飛躍するのはどうか。モザイクも広義のゾーニングのはずだ。売る場所を分ける、売る相手を身分証などで限定する、表現の一部をモザイクや黒塗りで抑える、そもそもそういう表現を用いない、など、ゾーニングにも各段階が必要になるはずだ。現状そういったゾーニングはすでにあるが、それらがさほど機能しておらず、拡大解釈が横行している。それが本文に書いたカグラの例だ。なので、俺はゾーニングは無理だろうなと思ったわけだ。あなたのゾーニング論は聞いてみたいし、より多くの人がするべきだと思っている。
「アニメ、マンガ、ラノベなどを好む人」のことを指して俺は「オタク」という言葉を使ったつもりだ。大雑把にくくったつもりはない。この日記で「オタク」が使われている部分を「みんな」だとか「人」に変えても成り立つと思っているのだが。俺はオタクの中から、オタクの問題点を書いたつもりだ。
>>こんなぼんやりした考えなのに表現規制に賛成してしまうのか…という困惑しかない<<
民主主義において、はっきりとした考えでくだされる決定がどのくらいあるだろう。イギリスの決定ははっきりした考えでなされたのか?少なくとも、俺の諦観を晴らしてくれるはっきりとした考えは、オタクたちの中からは出てこなかった。あなたのその書き込みもまた、はっきりしていないのと同じく。はっきりしないからこそ、大衆の決定は恐ろしいのではないか?そのことを理解しているなら、もっと危機感を持つべきだと思う。
安定の「妥協点を見つけようと努力をしない一言居士」ですねと一言残しておきたい。まぁそういう売り言葉に買い言葉は置いておいて、俺は上述のようにゾーニングを主体に書いたつもりではなかった。ゾーニングは無理だと諦めたから、全滅してしまえばいいという話を書いたというわけだ。「規制賛成派の意見」ではなく、「俺がなぜ規制に賛成することになったか」を書いたつもりだ。その理由は、諦観だ。
『俺は表現規制に賛成だ。/厳密に言えば、厳格なゾーニングを求めている。』 ここまで読んでゾーニングの話かなと期待した私に詫びてもらいたい。なんだよ『積極的に根絶やしにしてほしい』って。
申し訳ない。詫びる。本文にも書いたが、最初は頭に血が上った状態でかいたのでそのような表現になった。俺の気持ちとしては、「適切なゾーニングを施し、表現規制から逃れてほしい。しかし、どうも歩み寄りの姿勢や妥協点を探ろうという議論にはまったくなっていない。ならばいっそ、規制されて痛い目を見ればいいのだ」という怒りの発露だ。ゾーニングができればいいと思うんだがな。どうも無理そうだと俺は思う。あなたはどう思う?ゾーニングで解決出来そうか?何年も前から「ゾーニングが大事」と言う声は聞こえるが、それが形になったか?なりそうか?なる前に事態が急変しないか?
最初のほうが暴論っぽかったと反省しているのだが。後半のほうが暴論かな?混沌とした時代の定義にもよるのかもしれないな。規制で固められたなかから漏れだす表現と、先鋭化し一般人の理解を得られなくなった過剰表現、いずれも混沌とは違うものと俺は思っているが。混沌の中にも秩序が必要だと思っている。例えばコミケの「全員参加者」という建前もまた、混沌の中の秩序ではないか?全員がある程度のモラルを持って円滑に進んでいく、それが望むところではないかな?俺は表現において、それが崩れたと思っている。あなたはどう思う?
皮肉のつもりかしらんが、あなたとそれに星をつけているid:jakuon id:zions id:clworld id:dddeee id:mamimp は何を考えているんだ?俺は上述のように「俺が嫌いだから規制しろ」とは言っていない。そんな物言いを繰り返せば、歩み寄りも話しあいもできなくなってしまう。それを望んでいるのか?
>>そもそも、規制することで社会的なメリットは本当にあるの?青少年がエロいもの見たらダメって時点で意味がわからん。今どきの子供はネットでいろいろ見れちゃうだろうけど目立った変化はあったの?<<
理解されていないようだ。俺は「規制やむなしだろうな」という立場だ。規制に積極的になっている人たちはメリットではなく、デメリットを見ているのではないか。そして、彼らの考えるデメリットを覆すことが現時点でできていない。今時の子供の目立った変化はもうすでにあるのではないか?データは持っていないし、どうやってデータを取ればいいのか俺はわからないが。ろう。20年前に比べて、エロ表現がどのくらい変わったかを考えれば、答えに近いものは見えてくるのではないか。20年前はふたなりは奇形ジャンルだった。今やすっかり市民権は得たな。AVも見てみるといい。過激な内容がどれくらい増えたか。性的表現の過激さの加速度が、目立った変化とはいえるのではないかと俺は思っている。あなたは納得しないだろうが。そういう可能性もあると、頭のどこかに置いてもらいたいな。それと、青少年がエロいものを見たらダメとは言っていない。ゾーニングで細かく分けるのが理想だが、それが機能していない現状では。
「俺の意見=『性的なもの=悪』」という強烈な思い込みも、ぜひとも再考していただきたいのだが…。俺は性的表現も好きだ。本文にそう書いているだろう?それでも尚、諦めに至ったよと言っている。伝わらなかった申し訳ないが、あまり他人の意見を断定しないようにしてほしいな。それが歩み寄り、相互理解の第一歩なのではないか?
例えば、ゲームキャラクターを自由に閲覧できるモードを搭載しているゲームは多々ある。そしてそれらのゲームでは、CERO対策のためにスカートの中は覗けない仕様になっているものも多いだろう?それと同じことをするのは無理なのか?0か1かでなく、グレーゾーンはある程度残しながらも一般的に許容されるレベルを残して行くような「ゾーニング」は無理なのか?俺はそのようなゾーニングを望んでいたんだよ。過去形の話だ。
ゾーニングの話題じゃないのか…。/増田のように個人的嫌悪感を「公共の利益」のような漠然とした正しそうな言葉でラッピングして規制を言い出すケースは正にまなざし村じゃねーの。
俺としては、他人の意見をよく読まずに「まなざし村」とラッピングしてしまうあなたもまた十分に「まなざし村」だと思ってしまうのだ。そしてそれが「これはもう規制になってもしかたないな」という俺の諦観につながった。俺の意見は公共の利益などではない。「話し合えないなら戦争になるしか無いだろう」だ。そして、俺は反対派はその戦争に勝てないと思っている。だからこそ歩み寄りが必要だと思っていたのだ。
こうやってわざとミスリードして憎しみや対立を煽るから嫌われるんだろうな 規制に賛成とか反対以前に人間として問題がある まとめサイトとかと一緒の愚劣で卑怯な人間
俺はあなたのその意見は良くないと思う。俺の一つの意見を読んだだけで俺の人格を否定するというのは貧しい行いではないか?確かに俺の意見には極論が多く、またいくつかの混同があった。だからこそ、会話が必要なんじゃないか?俺は俺の意見を言う。それに対して反論や指摘がある。そして妥協点や着地点を見極めていくのが人間の理性ではないのか。「憎しみや対立を煽るから嫌われる」「人間として問題がある」「愚劣で卑怯な人間」これらのような非情に攻撃力の高い言葉は、相手を徴発し、正常な会話を出来なくさせるものではないのか?コレに関しては俺ははっきりと抗議する。そのような言葉遣いはやめてくれ。100文字の短いブコメの中にこれだけの強い言葉を並べるあなたに疑問を感じる。あなたのこの文章がまさに、憎しみと対立を煽ってはいないか?それが目的なのか?
あのね、マジレスさせてもらうけどね。
ネットの向こうの人はね、それぞれ多種多様な文脈で生きてるの。
性別も年齢も知能も経済力も習慣も思想もあるいは国籍すら違う人間の間で、
「ネタをネタと理解する」相互認識が成立することの難しさたるや。
あんたは書き込みをする一字一句ごとに、それについて想像してみたことがある?
完全にそれに配慮した物言いをすることは不可能だし、しろとは誰も言わないよ。
己の想像力の欠如ゆえに、その脇の甘い発言が、異なる文脈の人の逆鱗に触れてしまったんだよ。
だから反発される。仮に反発してきたのが明らかに幼稚なクソガキだったとしても、
つまりお主は、観衆(他人)に対しても、ネタ(笑い)に対しても、侮りすぎ。
当人がプロであれ素人であれ、他人に牙を向けた時は、いつだってシビアに返される。
それがネットってもんなのよ。
そうなった時、「ネタだから」とか「マジになってアホか」みたいな発言は、
てめぇが撒いた火種に向き合わない逃げであり、醜態でしかない。
それから。
こうやって半端にウケ狙おうとしてるのが分かると人はイラつくのよ。
叩きたくもなるでしょ。独りよがりな笑いは。
まーそんな感じよ。じゃあ新しい増田、考えてみよっか。
死ぬとかなんとかそんな深刻な物言いするならかなり切羽詰まってるような心境のはずだよね、
それでも新卒採用にこだわるのはそれなりにホワイトで研修やらでみっちり育ててくれるとこしか考えられないからじゃないの?
(口先だけで死ぬ死ぬ言ってるだけで、、この時期だから実際はそこまで追い詰められてはないんだろうけどさ)
他のトラバやブクマで散々言われているように雇用までのルートなんて多種多様でしょ
なんつうか元増田みたいな人って「環境を用意してもらえれば私も輝けるようになるんです。だから私に期待して。」というようなスタンスで面接とか受けてるのかなと思って
国家予算を3割使う分野がどこにあるよ。それくらいかけられる位には人類は医学に頼ってるよってこと。
あと、普通に金稼げるのは、普通にエライとしか言いようが無いだろ今の社会なら。ソクラテスの時代じゃあるまいし。
理想論乙としか言いようが無いわ。なんつーか、中二だよそりゃ。
そりゃ、医学として世の中に言い訳するためにそういう物言いするよ、医学は。
だけどそりゃーさー建前って奴よ。本音は苦痛だの倫理どうこうじゃなく、人類の次のステージみたいとか、科学的な未知を解明したいとかの興奮のためだよ。
あるいは、臨床能力ってのが10年くらいで伸びが止まるから、それでも臨床に興味を持ち続けるために研究しますとかだな。
お前が言うような、理想論どうこうで努力するように人間の体はできてないの。
願えば夢ワかなう!みたいなアニメみたいなことないの。人間臭い自分を諒承して自分の生理を受け止めて人間としていきつつ研究者として生きるってのが大人なの。
つかさ、どんだけお前が建前を持って強弁してもさー。実際の医者がやるかやらないかは決める権利あるんだから、意味ないだろって思わないのか?
実際の医者の選択にたいして追随して金をだしたりお願いするしかできねーんだよ国も国民も。だって、医者のさじかげんで医学が決まっちゃうんだから。
この力関係が読めないのはガキだわ。
実際、医者が地方にいかねーから、医者が居れば普通に助かってる人間が田舎で死にまくってる。これは医者がお前が言うところの『義務()』を放棄してるのかな?w医者がやることに金を出すしかできねーのに、その金にすら医者がなびかねー状態なのよ。国民だの倫理に力が無いことが丸分かりなわけ。
>ほんの数行でブーメラン
「理想論の努力」を馬鹿にしてるんだよ。「人間の生理を受け止めての人間臭い努力」は馬鹿にしてない。
文脈読もうな。
僕らのごはんは明日で待ってるを読んだ。なんかふわふわした内容の小説だった。
主要な登場人物の葉山くんと上村さんはどっちもずれた性格をしている。葉山はぼんやりしていてどこかぬけているし、上村は変なこだわりというか流儀を持っている。この二人の恋愛が主要なテーマになっている本作は、こんな二人だからいろいろとすれ違ったりヤキモキしながら進展を見守るかと思いきや、意外とすんなりくっついてしまう。大学生活もそれなりに謳歌しているし、一度は別れてしまうんだけど、なんやかんやでこれまたあっさりと元の鞘に収まってしまう。
文章もぼんやりとした葉山くんの一人称なのでどこかとぼけた印象が強く、激しかったり力強かったりする内容の小説ではなかった。かといって心温まる人情ものであるわけでもないので、全体的にマシュマロのような柔らかくてとらえどころのない作品になっていたように思う。
しかしながら、部分部分にはっとするような綿飴に包まれたラムネの粒のような内容が描かれていて、それらが徐々に染み入ってくる。顕著なのは四話で、山崎さんの言葉が静かに胸を打つんだけど、どの章でもぼんやりとした描写の中に煌めく一節が紛れ込んでいる。おかげで知らず知らずのうちに毛布で温められているような(比喩が過剰すぎる)気分になった。
パンチ力はないけれど、優しくて柔らかな物語だと思った。葉山くんの頓珍漢な受け答えや、上村さんの素頓狂な物言いが小気味良く効いていて、折に触れてくすくす笑える小説だった。
京大卒、東大卒文学部の方々の文章を読んだ。どちらも有意義な文章だが社会において文系の価値が軽視されがちになってきている趨勢を感じるこの時代に書き残しておきたいことがあります。
何のために学問をおさめるのか、主婦になるのは大学教育は必要ない?東大卒はプライドを捨てなければ自己肯定できないのか?
どちらも境遇が違うのですが共通して言えることがあるので増田に書いてみたいと思います。文学部が存在する大きな意味のひとつに「無限の文脈」を得るためということがあるでしょう。
たとえば仏教は人生は苦しみであると説きます。しかし人生は苦しみであるという言葉だけではなにをもって人生が苦しみなのかわからないので人生とは~~~ゆえに苦しみであるという~~~を獲得するのを助けるのに文学ほど有用な学問はないと確信しています。これは論理や実験では決してうまらない人間の人間たる存在の問題であるのでバッチリこれが答えだなんて言いいきれるものではありません。それが理系と文系の決定的な違いなのではと思うのです。文系の学問は経済学や社会学、政治学などを含めて全て勉強すればするほどに断定的な物言いが難しくなる側面があります。文系は人文系とも呼ばれますがまさに文学は人間の混沌を理解するため、ではなくどう見つめるかのその過程を追求するためにあるのではないでしょうか。
だから社会的な実益を生むわけではないので文学は時に軽視されることになります。しかし自らの人生を追及するために文学ほど役にたつものは存在しないのです。それは一般的な労働に従事するかぎりにおいてはほとんど役にも立ちませんがそれでも個人の人生という物語を形成する重要な要素にはなるのです。
おそらくそれが京大の文学部を出て主婦になった方が感じる最も根幹に感じる違和感の正体ではないのでしょうか?大学を出て社会的な成果を出さないとは何事かと人は言います。けれど文学は人間の外面ではなく内面をどう料理するかを学ぶ学問なのですから主婦になろうがどうしようがそんな社会的なことは甚だどうでもいいものでしかないのです。むしろその京大で学んだ文学的素養を発揮するのに主婦や子育てほど適した職はないとも私は思っています。
文学の価値というのは学生の時には傾倒し教授と談義にふけったりそれはそれはとても面白いものですが社会に出れば時に忙殺されてしまいます。実務に追われ気づけば学生の時に追求した私は~~~だから私であるの幼い文脈すら仕事の一言に置き換わってしまいます。それは理系も文系も京大もFランも高卒も関係なくです。しかしそんな何のために働くかわからなくなった名もなき乾いた砂粒のような人間にこそ文学は必要なのですよ。
ようは避妊をしないセックスをしてもらいたい、ってだけの話なのに
日本社会の不思議なところは、これほどセックスが氾濫しているにも関わらず、
公(オオヤケ)で性について語ることが奇怪なほどタブー視されているところ。
性について語られるのは、単なる猥談かジェンダー論くらいしかない。
みんなが避妊をせずにセックスをすること。セックスの回数を増やすこと。
避妊や中絶を善しとしないこと(まるでカトリックの教義みたいだがw)
世の中が避妊や中絶を重要視するのであれば、それは少子化なんかよりも、
避妊や中絶によって守られる権益の方を重視しているという証拠。
会場に着いたのは17時半頃。マルイ2階入口からエスカレーターで9階まで上がり、階段で11階まで登りました。
階段で登っている時は驚くほど静かでシンとしていて、本当に公演があるのか?と不安になってしまうほどでしたが、11階に着いた途端ざわざわとにぎやかな声が。
会場手前では入場を待っている人や、椅子に腰掛けてのんびり待っている人でいっぱいです。
奥に進むとトレーディング商品を購入した人達が交換をするスペースがあり、ごった返していました。
そこを通り抜けると物販フロア。ここではチケットを持っていなくても買えます。
まずは事前に買ったトレーディングブロマイドセットを引き換え。
次に物販コーナーに並びました。と言ってもまったく混んでおらず、すぐに会計へ。
在庫は売り切れなし。素晴らしいです。
パンフと個人ブロマイドをいくつか買い、持ってきたバッグにしまって開場を待ちました。
トレーディングブロマイドは何が来ても大事にしようと思っていたので交換はしませんでした。
18時になり入場開始。
ですが、18時30分までは椅子には行けず狭めなロビーで待つので、30分まで外で待機していた方が良さそうです。
今日の席は2階席3列目通路寄りです。シアター1010の2階席は初めてでした。
シアター1010の公式サイトをよく見ると分かりますが、転落防止の柵があります。
ここはなぜか上手とセンターブロックの間、センターブロックと下手の間の柵だけ高く延長されています。
2階席で通路寄りになるとこれがもれなく視界に入ります。
公演が始まるとまっっったく気になりませんでしたが。むしろ脳が柵だけ透過処理をしてくれました。
19時、公演開始です。
冒頭は本能寺炎上から。明智光秀と森蘭丸の対峙から始まります。
二人のやりとりを眺めるように宗三左文字が登場。
声にびっくり。ゲームで聞く声によく似ています。役者さんすごい。
オープニングはまさかの刀剣男士そろい踏みによる生歌でした。うわーかっこいい!!
あ、これはにやける…!と頬の内側を噛んでぷるぷる震えてしまいました。
声が!びっくりするほど声優さんに似ています。声帯コピーの技を持っています。確実に。
所作が美しく、優雅。役どころは山姥切国広のサポート兼保護者のような相方と言った感じ。
序盤で「だいに、第二部隊が…」と台詞を噛んだ三日月でしたが、初日ならではの緊張感ですね。お茶を飲み、酒を飲み、茶菓子を食べ、マイペースな三日月ですが、戦うシーンは流石の一言。とにかく麗しい。ひらひらと狩衣を捌き階段を飛び乗り、立ち回ります。
・山姥切国広
これで綺麗なんて言うななんて言う方が無理。美しい。
ボロ布を常に頭からすっぽり被ったままですが美しい。
殺陣も見事。鞘を盾のように使う戦い方に技を感じました。
初期刀で当初は近侍であったものの、過失から近侍を降りている経歴持ち。審神者からまた近侍の命を受け苦しみながら奮闘する役です。ゲームをよく勉強してこられたのか、話し方が声優さんにいました。
・宗三左文字
これまた麗しい!!佇まいが可憐で優雅。けれども殺陣は迫力満点。
2階席からでもたまに見える素足ががっしりといているのが分かります。
本能寺で悩み、苦しみながらも不動行光を支える役。
・江雪左文字
戦いは嫌いですと言いつつ敵をなぎ倒す姿は鬼神。
小夜を案じ、左文字長兄としての優しさを見せる江雪。
終始取り乱すことなく常に落ち着いた動作が印象的でしたが、仮に真剣必殺されたらみんな泣くしかないと思いました。
・小夜左文字
スーパーアクションスター小夜ちゃん。短刀を操り、足技を繰り出し、バク転します。
一番身のこなしが素早いです。観ていて楽しい小夜ちゃん。
・薬研藤四郎
宗三の相方的な立ち位置。へし切り長谷部に対し「その名前、俺は嫌いじゃないぜ」と言ったり、不動行光を気にかけたりとコミュ力高し。
・へし切長谷部
一番面白い人。馬当番をこなします。近侍に再任命された山姥切国広にジェラシーします。
紅白戦では燭台切光忠と対戦。大柄な光忠に対し、斬り合いを軽やかにこなします。
信長を守るために光秀を討とうとする不動を、背後から斬りかかろうとする姿が印象的でした。
・不動行光
本作のキーパーソン。演技の一つ一つが迫真に溢れていて素晴らしかったです。
再開した蘭丸を抱えあげてくるくる回転する不動くんは本当に本当に嬉しそう。
序盤はよたよたしていた不動くんが、終盤で強く成長した姿に感動。
・一期一振
物腰穏やかな話し方に加え、凛とした殺陣。立っても座ってもサマになる一期。
台詞はさほど多くないのですが、無言の演技が出来る方だとお見受けしました。
殺陣はダイナミックで鮮やか。ラスト、傘を持って挨拶をする仕草が紳士然としていて素敵でした。
・鯰尾藤四郎
唯一の脇差だから年少組に入るのかと思いきや、小夜と一緒にいる時は保護者らしく振る舞う鯰尾。
脇差と足を使い素早い身のこなしで演じる殺陣が印象的。背後から忍び寄る鶴丸に振り向かないシーンはアドリブかな?はきはきとした物言いがゲーム版とよく似ています。馬糞は投げません。5月7日が役者さんのお誕生日とのことだそうで行きたかったなあ。兄弟だからか一期と一緒に戦うシーンが多いです。
・燭台切光忠
食べ物担当。毎公演、彼が提供する食べ物は違うそうです。その場面は毎回アドリブですね。
殺陣はダイナミックそのもの。にもかかわらず格好良さを忘れない戦い方が燭台切らしいです。鶴丸とよく一緒にいます。仲がぎくしゃくしそうな本丸を見て二人で紅白戦を提案するなど年長刀としての役割を認識しているようです。
・鶴丸国永
重くなりがちな本丸の賑やか担当。落ち込む山姥切の肩を叩いて慰めたり、不動の甘酒を欲しがったり、細かい演技が光ります。
戦闘は、太刀を肩にかけて飄々とこなすかと思えば豹変して雄々しく闘います。
敵に放つ掛け声が一番荒々しく、男らしさを感じました。
◼︎個人的に印象的なシーン
迫真の演技は圧倒的。死んでいるはずなのに生きようとし、まだ尚信長を守る姿は
・光秀全般
光秀でないと刀剣乱舞としての本能寺の変を掘り下げられないからですね。
蘭丸と二人で登場したカーテンコールは一際拍手が大きかったです。
・三日月と山姥切
織田刀が織りなす本能寺のテーマと並行して進んでいたテーマだと思います。
三日月が月を見て「おぬしも月を照らす陽の光となれ」と山姥切に投げかけるシーン。
それで山姥切は近侍の決意を固めます。その後窮地に陥った三日月の助けに入り山姥切は
「月(=三日月宗近)を照らす陽の光となる!」と宣言します。三日月は「ずいぶんすすけた陽の光だな」と応えるわけですが、熱い。少年漫画のようです。
これ以前の場面の紅白戦で一騎打ちになった時もしつこく追いかけてくる三日月に山姥切が「このクソジジイ!」と叫んで立ち向かうシーンも熱いです。
ラストで三日月が自らの破壊を匂わせる台詞がありましたが、あれは現実にならないとほしいと思います。
刀ステの山姥切国広は仮に三日月が折れたら二度と立ち直れない気がします。
◼︎全体の感想
2.5次元は初めての鑑賞ですが、エンターテインメントに優れていて素晴らしい出来栄えでした。
初日は友人が当選してくれて入れました。6日に自力当選したのでもう一度観劇できます。
今回は二つのメインテーマを重点的に観たので、次回は別視点から楽しみたいと思います。また思うところがあったら感想を書きます。
表現で剥離と使うと乖離と言い間違えたと指摘され誤用と扱われる。
しかし乖離という表現が一般的だと知った後でも、どうも剥離の方がしっくりくる時がある。
剥離は無惨にベリベリ剥がれ堕ちていったイメージで、そんなイメージから剥離を選びたいような気がしてきたりする。
(追記)
上記の文章を書く前に調べたら知恵袋で似たようなことを質問してる人がいてそこでも大体一般常識だから~という論調でボコボコにされていた。
トラバの概念か物理的かの違いは分かりやすく納得がいったが、ブコメは大体一般的だから~とかいう物言いばかりで、そういう話をしているのではないのになと思った。
某選手の延々と永遠も、自分はやっぱり延々派だけど所詮はツイッターだし本当に「永遠」と言いたかった可能性もあるなと思うし、それが悪かというと悪ではないよなと思う。
彼の場合は普段から色々と突っ込まれやすい発言が多かったから強く言われてしまうんだろうなと思う。
そもそも言葉というものは元来変化していく前提の下にあるものだ。歴史がそれを証明してもいる。
文化や言葉はいつでも発展途上にあるもので、だからといって古いものが悪いわけでもないが新しいものが悪いわけでもない。
古いものもかつては新しかったものだし、似ている意味の諺や慣用句がいくつがあるものもあったりする。
延々と永遠みたいなのも意味は容易に想像がつくし結果大半がほぼ同じ意味だととることができるだろうから片方が100点でもう片方を0点とするまでの差はないだろと思う。
正式で厳格な論文とかならともかく呟きや日記程度で堅苦しい言葉の使い方や使い分けを強要するのはつまらないなと思う。
(そもそも論文とかの方が一般的に分かりにくい表現や文章になっていたりもするが)
果物を普通の包丁で切っている人に対して果物を切るときは果物ナイフしか使っちゃダメだというようなものだ。
文章を書いた者があえてその言葉や表現を選んだ意図や意味を想像するのも一つの価値となるはずだ。
知り合いの英語教師から聞いた話だが、正しい日本語や言葉の使い方だなんだとうるさく文科省が指定したりするのは日本くらいで、
海外では野放しなので、日本が教える外国語と実際現地で一般的に使われる外国語に大きな差が生まれてしまっているとか。
そんな中でも漢字や語句の読み方というのは語句の表現や比喩の用法よりも明確に正しいか間違ってるかが分かりやすく決めやすいものだと思う。
しかし現実には明らかな読み間違いですら常識化されて、それが一般的になってしまった例がいくつもある。
それに比べると表現や語句の用法というのは厳格でなくてもよく、個々の好みや裁量が広めに許されるべきだろうと思うが…。
ブコメでも文学的表現であればしっくりくる方を使えばいいというコメントがあったが、表現の話なんだからそういうことを言いたかった。
あとキャラクターとシナリオの剥離の記事は書いてないし読んでもいないが、その場合にも意図によっては剥離使うのもありかと思う。
剥離はくっついてたものが離れるという意味というコメントもあったが、だからこそそっちが合うように思える時があるって話をしていた。
まあトラバの概念と物理の話が本当なら乖離が正しいと思うが、既に結構よくある誤用例らしいし後に使用許可される範囲が広がっていくのかもしれない。