はてなキーワード: 人間臭いとは
キルアオやウィッチウォッチは良くも悪くも全体にも個々の話にも一貫性があるんだが、グリーングリーングリーンズは何をしたいのかが明確な感じになってない。
要領よく生きてきた凡人が天才になって世界で活躍するという設定に対して、周囲のレベルがいきなり凄い高い。
凡人が天才に食らいついていくという物語は分かるんだが、当の本人がどういう人間なのかがイマイチ見えない。
正々堂々勝負したいのか、勝つためならハンディが欲しいのかも場面ごとにコロコロと変わる。
それが人間臭いテンパリとして描かれるならともかく、作品はさもそこに一貫性があるかのように語ってくる。
なんで?
今週の内容もなんだか、チグハグだ。
「凡人のくせに挑戦した結果、失敗した」という思い出が宿った写真を「変に冒険心を出さない戒め」と語りながらも、それを切り口に始めた話で「俺は本気でやって天才に勝つよ」と口にする。そして、最後には写真を消す。
一見すると話が繋がっているように見えるが、よく考えるとおかしい。
「戒め」の写真を消して冒険に挑むというのは確かに物語としてはそれっぽいのだが、実際にこの写真に写っているのは「凡人だけど挑戦してしまうという気持ちが昔から一貫していた」という部分なんじゃないのか?
100人の漫画家を集めたら95人は、この物語の終わりで「挑戦しちゃうんだよな。結構いい顔してるじゃん、俺」と言ってこの写真を大事にしまいなおす物語を描くだろう。
漫画なら絶対にやってしまう「主人公に一貫性をもたせる」を放棄している。
第三者の目で見ればおかしく見えるような公道を普通に主人公にさせるし、それがおかしいことを漫画の世界は自覚なく描く。
主人この目から見れば、一貫性のない行動に一貫性があることになっているという思い込みが世界を通して我々の目に飛び込んでくる。
漫画というものはどうしても「体を一貫させる*」ということを大事にしてしまう。
起承転結として正しい形を。
チェーホフの銃は撃たなければいけないし、燻製ニシンの虚偽はそれが分かる形にして終わるべきだとされる。
物語として納得の行く着地点を目指して、都合よく全てがトントン拍子に進まなければいけない。
何気ない食事一つから殺人事件のヒントを見つけ、怪しい動きをしていた子供は真犯人に口止めされていなければいけない。
凡人の癖に主人公が強いのは「めっちゃ努力する天才だから」で終わらされており、他の天才も滅茶苦茶努力しているはずなのに追い抜かれていく。
なんで主人公がゴルフを始めたのかの理由は驚くほど薄っぺらいし、主人公の自己認識も言ってることもしょっちゅうブレる。
枠組みに囚われた人間がついつい「これはこうあるべきですよ」と自縄自縛に陥ってしまう所をすり抜けていく。
これは、まるでAIによる出力だ。
人間が常識という壁によって気づかなかった可能性を、ブルートフォースアタックの総当たりで無理やり引っ張り出してくる。
将棋の世界はAIの力によって新手が無数に産まれ、新手を乱発する棋士はまるでAIのようだと評される。
ジャンプという動脈硬化を起こしきった雑誌に吹き込んだ新しい風だ。
皆、読んでくれ。
そして首を傾げてくれ。
「体を一貫させる」ことに囚われないリアルな高校生の無軌道さを楽しんで欲しい。
この間、ソフトバンクの孫会長が「ChatGPTを使ったことがない人は人生を悔い改めたほうがいい」と何かのプレゼンで話していたらしいことを知った。
見下されたように感じて正直腹がたったのだが、ちょうど女の子とデートする予定がありどんなお店を選べばよいのかさっぱりだったので、ChatGPTに相談してみることにした。
生涯で彼女いた事無し22歳童貞の知見では手に負えないからビッグデータに頼ったのだが?無能やん。と、その時は思った。
その後、その女の子に告ったところ「あなたのことは恋愛とかそんな感じには見てない」的な理由で振られ、失意の中で卒業研究に励むある日、ふたたびChatGPTを使うこととなった。
実験で得た複数データのばらつきを評価することになった。こういった評価には、標準偏差が一般的に用いられている。標準偏差は高校1年(数Ⅰ)で習う内容だが、なぜ標準偏差でばらつきが評価できるのか、恥ずかしながらよく理解していなかった。特に、分散を求めるに当たりどうして2乗するのかサッパリだった。
公式だけ知りたければGoogle検索で十分だ。しかし、その公式の成り立ちや意味を調べようととしたとき、Googleオンリーだと結構難しくて時間がかる。複数のサイトを巡り、様々な情報を関連付けながら理解する必要があるからだ。
というわけでChatGPTの出番が来た。
私「標準偏差の求め方について教えてください」
ChatGPT「標準偏差は、データセット内の個々のデータ点が平均からどれだけばらついているかを示す尺度です。標準偏差を求める基本的な手順は〜(手順を5ステップに分けて丁寧にわかりやすく説明してくれる)」
私「分かりやすく説明してくれてありがとうございます。分散を求める過程で、なぜ平均の2乗するのでしょうか。」
ChatGPT「平均を2乗する理由は、主に以下の2つの目的があります。1.負の値の影響を排除する 2.ばらつきの大きさを強調する 〜中略〜 そして、標準偏差はその平方根を取ることで、元のスケールに戻します。」
私「なるほど!標準偏差は元のスケールに戻っているから、母集団と同じ単位で扱ってよいのですね?」
ChatGPT「はい、そのとおりです!」
目から鱗だった。コイツ有能じゃないか。私は学習塾でバイトをしているのだが、私が生徒に教えるよりも、教室にあるiPad渡して「chatGPTに聞いて」と言ったほうがよっぽど分かりやすくて良いじゃないかと。「AIに仕事を取られる!」と巷は大騒ぎだが、まさか自分の仕事が、直ちに危機的状況にあるとは思っていなかった。
しかしながら、実際に塾講師の仕事が絶滅することは無いと思われる。塾講師の仕事は「生徒にわからない所を教えること」と思われがちだが、実際には生徒のマネージャーという意味合いが大きいからである。
生徒が苦手な問題を見つけてカリキュラムを考える事はもちろん、宿題をやってこない生徒に居残りさせるとか、授業中に雑談したりスマホ弄ることを止めさせるとか、そういったフィジカルで泥臭い仕事が結構多い。そして、泥臭くて人間臭い仕事は、AIよりも人間が得意とする分野だ。
例えば、居残りしなければならない生徒が、授業後にしれっと帰ろうとしているとする。スマホの中にいるChatGPTが「居残りしましょう」とアラームを鳴らすのと、おいおい何帰ろうとしてるのかな?と生身の先生が声をかけるのとでは、生徒に与えられるプレッシャーが結構違うのではないだろうか。
大抵の児童/生徒はなかなか自主的に勉強できないものである。自主的に勉強できない生徒や児童に勉強をやらせるためには、適度なストレスをかける必要がある。ここで言う「ストレス」とは、叱りまくって体罰を与えるような暴力的なものではなく、自宅のリビングとは違って少し緊張感を感じる自習スペースとか、宿題やテストの出来栄えを授業で毎回チェックされるとか、そういったものである。そして、生徒の肉体的/精神的な体調を考慮しながら、適度なストレスを子供にかけるという価値は、学習塾が提供する価値として大きなウェイトを占めており、それは生身の人間だからこそできるものである。
そういった感じで、今後は生徒のマネジメント業としての性格が強くなりながら、学習塾のビジネスは今後も残り続けるものと思われる。多少なりとも雇用は減るだろうが、学生バイト講師の募集が減るくらいだろうし、(私の塾では)どの教室も万年人手不足なのでむしろ好都合だろう。
あと数ヶ月で辞めてしまうバイトだが、私は自分の仕事に価値を感じられて満足した。しかし、研究室を出て駅に向かう道中、歩きながらもうしばらく考えたとき、AIが教育に与える影響はかなりヤバイのではないかと思うようになった。
近い未来、というより現時点で既ににそうなっているが、分からないところを教えるのはAIがやってくれる。お金も時間もかからないChatGPTが、塾や学校の先生より分かりやすく解説してくれる。自主的に勉強できる子供はchatGPTを始めとしたAIをどんどん活用し、今まで以上に短い時間と少ない出費で、ぐんぐん成績を伸ばしていく。家庭では子供の勉強にかかるコストを抑えられるから、スポーツなどの課外活動によりお金をかけることができる。子供は課外活動で様々な経験を得られ、勉強以外の能力もどんどん身につき、文武両道なエリートとして育っていく。
しかし、自主的に勉強できない不まじめな生徒はどうだろうか。自主的に勉強をやらないためプロによるマネジメントを必要とし、学習塾に入れられることになる。学習塾での勉強は金銭的にも時間的にも重荷だが、AIを活用できる優秀な生徒には追いつけず、何もしないよりはマシな程度に留まってしまう。一方課外活動については、学習面にかかる金銭的・時間的なコストの圧迫を受け、こちらも満足いかないものになり、中途半端なレベルに留まってしまう。
子供が大人に成長し、社会に出てからもそれは続く。要領がよくやる気がある人間は、学生時代から使い慣れたAIを活用して沢山のことを学びながら、ガンガン仕事をさばいていく。それができない人間は取り残され、仕事を選べなくなり、さらに希望を失う。「AIに仕事を奪われる」と言われるものの、実際に仕事を奪うのはAIそのものではなく、AIにより教育されたエリートである。
もちろん、こういった格差はずっと昔からあった。そして、今現在もある。だが、これがAIによってますますエスカレートしたらどうなるか。
現在の日本は、大学新卒以降になると格差を覆すことが難しい社会である。だがそれは、居住地や親の太さなどの運要素はあるものの、一念発起して大学受験と新卒就活さえ頑張れば、何とか逆転できる社会でもある。
しかし、それがAIにより教育格差が促進され、小学校卒業時点に開いた差が永遠に縮まらないような社会になってしまわないだろうか。思春期が過ぎ、自分の性格を理解しながら理性を持って行動できるようになる頃、心を入れ替えて頑張ろうと思ったとしても、その時には何もかもがAIエリートには敵わなくて格差を覆せない。そんな状況になってしまわないだろうか。
10歳かそこら、いや、それよりも幼い年齢の時に、何かに興味を持つような性格か否か。自主性を持って物事に取り組めるか否か。新しいものを工夫して使おうと思うか否か。そして、これらの重要性を理解し、子供を誘導できる力量の両親をもっているか否か。
未熟な子供時代の性格と、両親の教育レベルの違いが、大きな格差を決定させてしまう社会。人として成熟した頃に気づいたとしても、何も為す術が無いような社会。そして、それが世代を重ねるごとに加速してゆく社会。
この間、ソフトバンクの孫会長が「ChatGPTを使ったことがない人は人生を悔い改めたほうがいい」と何かのプレゼンで話していたらしいことを知った。
見下されたように感じて正直腹がたったのだが、ちょうど女の子とデートする予定がありどんなお店を選べばよいのかさっぱりだったので、ChatGPTに相談してみることにした。
生涯で彼女いた事無し22歳童貞の知見では手に負えないからビッグデータに頼ったのだが?無能やん。と、その時は思った。
その後、その女の子に告ったところ「あなたのことは恋愛とかそんな感じには見てない」的な理由で振られ、失意の中で卒業研究に励むある日、ふたたびChatGPTを使うこととなった。
実験で得た複数データのばらつきを評価することになった。こういった評価には、標準偏差が一般的に用いられている。標準偏差は高校1年(数Ⅰ)で習う内容だが、なぜ標準偏差でばらつきが評価できるのか、恥ずかしながらよく理解していなかった。特に、分散を求めるに当たりどうして2乗するのかサッパリだった。
公式だけ知りたければGoogle検索で十分だ。しかし、その公式の成り立ちや意味を調べようととしたとき、Googleオンリーだと結構難しくて時間がかる。複数のサイトを巡り、様々な情報を関連付けながら理解する必要があるからだ。
というわけでChatGPTの出番が来た。
私「標準偏差の求め方について教えてください」
ChatGPT「標準偏差は、データセット内の個々のデータ点が平均からどれだけばらついているかを示す尺度です。標準偏差を求める基本的な手順は〜(手順を5ステップに分けて丁寧にわかりやすく説明してくれる)」
私「分かりやすく説明してくれてありがとうございます。分散を求める過程で、なぜ平均の2乗するのでしょうか。」
ChatGPT「平均を2乗する理由は、主に以下の2つの目的があります。1.負の値の影響を排除する 2.ばらつきの大きさを強調する 〜中略〜 そして、標準偏差はその平方根を取ることで、元のスケールに戻します。」
私「なるほど!標準偏差は元のスケールに戻っているから、母集団と同じ単位で扱ってよいのですね?」
ChatGPT「はい、そのとおりです!」
目から鱗だった。コイツ有能じゃないか。私は学習塾でバイトをしているのだが、私が生徒に教えるよりも、教室にあるiPad渡して「chatGPTに聞いて」と言ったほうがよっぽど分かりやすくて良いじゃないかと。「AIに仕事を取られる!」と巷は大騒ぎだが、まさか自分の仕事が、直ちに危機的状況にあるとは思っていなかった。
しかしながら、実際に塾講師の仕事が絶滅することは無いと思われる。塾講師の仕事は「生徒にわからない所を教えること」と思われがちだが、実際には生徒のマネージャーという意味合いが大きいからである。
生徒が苦手な問題を見つけてカリキュラムを考える事はもちろん、宿題をやってこない生徒に居残りさせるとか、授業中に雑談したりスマホ弄ることを止めさせるとか、そういったフィジカルで泥臭い仕事が結構多い。そして、泥臭くて人間臭い仕事は、AIよりも人間が得意とする分野だ。
例えば、居残りしなければならない生徒が、授業後にしれっと帰ろうとしているとする。スマホの中にいるChatGPTが「居残りしましょう」とアラームを鳴らすのと、おいおい何帰ろうとしてるのかな?と生身の先生が声をかけるのとでは、生徒に与えられるプレッシャーが結構違うのではないだろうか。
大抵の児童/生徒はなかなか自主的に勉強できないものである。自主的に勉強できない生徒や児童に勉強をやらせるためには、適度なストレスをかける必要がある。ここで言う「ストレス」とは、叱りまくって体罰を与えるような暴力的なものではなく、自宅のリビングとは違って少し緊張感を感じる自習スペースとか、宿題やテストの出来栄えを授業で毎回チェックされるとか、そういったものである。そして、生徒の肉体的/精神的な体調を考慮しながら、適度なストレスを子供にかけるという価値は、学習塾が提供する価値として大きなウェイトを占めており、それは生身の人間だからこそできるものである。
そういった感じで、今後は生徒のマネジメント業としての性格が強くなりながら、学習塾のビジネスは今後も残り続けるものと思われる。多少なりとも雇用は減るだろうが、学生バイト講師の募集が減るくらいだろうし、(私の塾では)どの教室も万年人手不足なのでむしろ好都合だろう。
あと数ヶ月で辞めてしまうバイトだが、私は自分の仕事に価値を感じられて満足した。しかし、研究室を出て駅に向かう道中、歩きながらもうしばらく考えたとき、AIが教育に与える影響はかなりヤバイのではないかと思うようになった。
近い未来、というより現時点で既ににそうなっているが、分からないところを教えるのはAIがやってくれる。お金も時間もかからないChatGPTが、塾や学校の先生より分かりやすく解説してくれる。自主的に勉強できる子供はchatGPTを始めとしたAIをどんどん活用し、今まで以上に短い時間と少ない出費で、ぐんぐん成績を伸ばしていく。家庭では子供の勉強にかかるコストを抑えられるから、スポーツなどの課外活動によりお金をかけることができる。子供は課外活動で様々な経験を得られ、勉強以外の能力もどんどん身につき、文武両道なエリートとして育っていく。
しかし、自主的に勉強できない不まじめな生徒はどうだろうか。自主的に勉強をやらないためプロによるマネジメントを必要とし、学習塾に入れられることになる。学習塾での勉強は金銭的にも時間的にも重荷だが、AIを活用できる優秀な生徒には追いつけず、何もしないよりはマシな程度に留まってしまう。一方課外活動については、学習面にかかる金銭的・時間的なコストの圧迫を受け、こちらも満足いかないものになり、中途半端なレベルに留まってしまう。
子供が大人に成長し、社会に出てからもそれは続く。要領がよくやる気がある人間は、学生時代から使い慣れたAIを活用して沢山のことを学びながら、ガンガン仕事をさばいていく。それができない人間は取り残され、仕事を選べなくなり、さらに希望を失う。「AIに仕事を奪われる」と言われるものの、実際に仕事を奪うのはAIそのものではなく、AIにより教育されたエリートである。
もちろん、こういった格差はずっと昔からあった。そして、今現在もある。だが、これがAIによってますますエスカレートしたらどうなるか。
現在の日本は、大学新卒以降になると格差を覆すことが難しい社会である。だがそれは、居住地や親の太さなどの運要素はあるものの、一念発起して大学受験と新卒就活さえ頑張れば、何とか逆転できる社会でもある。
しかし、それがAIにより教育格差が促進され、小学校卒業時点に開いた差が永遠に縮まらないような社会になってしまわないだろうか。思春期が過ぎ、自分の性格を理解しながら理性を持って行動できるようになる頃、心を入れ替えて頑張ろうと思ったとしても、その時には何もかもがAIエリートには敵わなくて格差を覆せない。そんな状況になってしまわないだろうか。
10歳かそこら、いや、それよりも幼い年齢の時に、何かに興味を持つような性格か否か。自主性を持って物事に取り組めるか否か。新しいものを工夫して使おうと思うか否か。そして、これらの重要性を理解し、子供を誘導できる力量の両親をもっているか否か。
未熟な子供時代の性格と、両親の教育レベルの違いが、大きな格差を決定させてしまう社会。人として成熟した頃に気づいたとしても、何も為す術が無いような社会。そして、それが世代を重ねるごとに加速してゆく社会。
等身大の人間を描いたアイドルアニメは「この程度で悩んでんじゃね―よ」「脚本都合の鬱とかいらねーんだよ」と言われてしまう。
もはやアニメのアイドルにウジウジと普通の悩み方をするのなんて許されないんだ。
成長、それも絶対的に肯定するしかない成長の糧とする悩みしか視聴者は求めない。
愚かで人間臭いから悩むのではなく、無限に成長する可能性を秘めた怪物だから、どこまでも高みを目指しそれ故に自分の至らなさと何度でも向き合う、その過程の悩みだけがある。
鬼滅の刃の炭治郎が口にした「強くなるほどに自分の弱さがよく分かる」という号泣。
強者が強者故に壁に当たり、強者であるが故に素早く乗り越えまた強くなる。
その強さだけを見ている。
「努力する姿を見せるのがアイドル」であるとその昔誰かが言っていたが、その努力のレベルが凡人と同じでは許されない。
無限に努力してなお更なる強さを求める姿をオタクはアイドルアニメに求めているんだ。
人生が本当に2周目の超常的存在や、常人なら人生を3周しても得られない精神性を持った小学生のような、絶対的で圧倒的で完璧で究極の存在でなければ「アニメのアイドル」たり得ないわけである。
恐ろしいものだな。
どっかのアニメで「神アイドル」という言葉があり、それが本当に天上の世界に挑む存在になっていたが、まさにそのレベルじゃなければアイドルアニメのアイドルじゃないんだよ。
等身大の人間を描く場所としてもはやアイドルアニメは相応しくない。
発達障害や注意欠陥障害に配慮した番組作りなのか「相手の気持ちを考えよう」「そう言った時の結果を考えよう」「効率よく物事をしよう」的な、空気を読んで集団の輪を乱さないお利口人間大量製造計画的な番組多すぎや。
人形劇やアニメも昔みたいにガキ大将タイプのキャラとかワガママ放題のキャラとか、ステレオタイプなキャラクターが全然出てこない。
男は主人公でも妙に腰が低く苦笑いしているような相手を立てる草食キャラばっかり。
女はひとつもムカつくところがない見せ方の違うかわいらしさを取り揃えただけで現実にはいないキャラクターばかり。
オシャレで知的で綺麗なキャンバスの教育テレビなんて本当に子供の役に立つと思うか?
どのように叩かれているかを書くよりも、増田がどこが好きか書いてくれよ。
以下は俺が考えているそれぞれの叩かれている理由。(あくまで叩かれてる理由であって俺が嫌いというわけではない)
人気が無い理由は他の敵に比べて主張がわかりづらい、DIOありき、能力が強すぎてバトルがわくわくしないあたり。
現実に起こっていること(最新作でいうと虐待)をテーマとして扱うわりに対応がファンタジーすぎで監督の認識がおかしいと思われてる。
叩いてる側が勝手に読み取ったわけではなく監督本人がインタビューで堂々と扱うテーマについて言っているので擁護しづらい。
作品の出来ではなく過去にジオン大好きな視聴者がうざすぎたので反動で叩かれている。
暁相手に殉職というがその際の戦いがあまりにもシカマルの成長のための描写でアスマ含めシカマル以外のメンバーの頭が悪くなったように感じられたため。
作者が悪いと思う。
火影の血縁なのにただの上忍だというおいしいポジションなので「大人は劣等感とどう向き合っているのか」みたいな描写を期待していたので残念。
俺は好きだけどもっと大技あってもよかっただろとは思う。
過去作のプリキュアを登場させた代わりに本作の登場人物の描写が減ったせいで説得力が減った。
声優の演技を聞いたり書いていく内に敵側のガエリオの描写を増やしていった脚本家と、各種インタビューで反感を買う発言を多々した監督が悪い。
最終話放映直後は賛否両論だったのに監督の発言が増えるにしたがい評価してた人も言葉を濁し始めた。
MSの人気はある。
脚本が遅いせいで作画が間に合わず戦闘シーンの使い回しが多すぎたのに加え、後半はできるだけ不殺を貫いた結果宇宙空間に放置されたパイロットの問題など独善だと叩かれた。
ただこの段階では地球連合とザフト双方のトップの主張の方がヤバいため、賛否両論だった。
DESTINYには前作と違いザフトのトップの主張がそこまで頭がおかしいものではない、キラ達のゴールが見えない、アスランが所属変えすぎなどで叩かれた。
大筋が変わってないがオリジナルのセリフが多い漫画版2種の評価が高いので、制作が遅れていなければもっと評価されていたと思う。
俺は好きだけどシンがせっかく葛藤を見せはじめてから描写が減ったのが残念。
1期から視聴者から好感度の高いセルゲイへの嫌味を言う2期からの登場人物なので、単純に好感度の差。
ただ対話できた沙慈とルイスの対比として父親と対話できなかった例として描かれた人物なので製作陣の期待通りだと思う。
何も言わなかった父親の方も悪い。
ニュータイプや各種設定のオカルト要素が強すぎて叩かれている。
カミーユ最後のオーラを常時放っているようなものなので既存のガンダムファンと相性が悪かった。
語録を使っている=叩いていると思ってるかもしれないが、単純に楽しまれてるだけだと思う。
マジで叩かれている。
他のキャラが自分の理想のために何かを犠牲にしていることをが大半なので、特に何も犠牲にしてないように見えて(カレンの兄との友情が描写されなかった)どころか記憶喪失のヴィレッタを匿う、戦闘で指示が遅い、ゼロを裏切るなど視聴者のイライラポイントを確実に貯めていったため。
新作アプリで事前登録特典が扇だとわかった際の批判もすごかった。(生放送でFLOWが「扇もいいところありますので使ってみて」みたいなフォローをしていた)
最初からうざいキャラとして描かれた玉城はギリギリまでゼロを信じていたためかそこまで叩かれてない。
俺も嫌いじゃないが好きかと言われると困るキャラ。
原作では仙台に行かなかったがいつか行くために努力する主人公を周囲が見守るが、アニメでは仙台に行って諦めて帰ってきた上にこれからも都会に出ていかないだろう想像をさせる終わり方で叩かれた。
彼と編集は悪意が無いから余計に叩かれているが、監督自身がモデルなのでそう意図されたキャラであるといえる。(ガルパンの制作経緯を見ると本当にああいう発言してそう)
悪意が無い分対応する側のコストが高いので、もっと余裕のある職場なら増田のいうようにポジティブに受け取られてたかもしれない。
後半に出てくる制作は挫折した上で八つ当たりでやっていたため同情の声もそこそこあった。
stay nightの描写とこの作品との描写に齟齬があるのにも関わらず、アニメとして先に広まってしまったためこちらの描写が正史だと思われるのを恐れたファンが叩いていた。
俺も単体だと好きだけどこれを前提にFateを語られるとイラッとしてしまうかもしれない。
自分の主張優先でマスターの考えを無視をしてお互い様だったのに、マスターの方が理解が無いみたいな雰囲気を出していた上恨み言がダサすぎたので叩かれた。
人間臭い英霊がいてもいいと思うので俺は好き(恨み言はダサいと思う気持ちと両立する)
名前を大きく宣伝で使っていたため出来が良かろうと悪かろうと反響は大きい。
増田のいうとおり脚本家があんなに叩かれたの他に見た事無いのは確かだが、そもそもあんなに宣伝に脚本家の名前をアピールしたのもみたことがない。
ガンダム以外にも、任天堂のメトロイドシリーズの主人公サムスのフィギュアの試作品でも炎上してた。その後原型師が変更されデザインもゲーム準拠になった。
カトキハジメと違い、造形がどうこうじゃなく関わりたくないと思われている。
・雑誌に載せた作例を参考にした方に、参考にしたことを書いておけと直接ではなくTwitterでRTした上で言った
・セブンイレブンで購入したあんまんを入れ忘れられた際に頭にきて電話したことをTwitterに書いた(クソ店員発言)
・猫3匹をキャリー入れてTwitterに画像をあげた際に心配したフォロワーに暴言を吐いた
ゲームのシナリオを切り詰めてアニメにしたのではなく最初からアニメなので脚本の粗が余計に叩かれる。(原作のファンがいない)
アプリのヘブバンは20代以下にも受けてるようなので、KEYの泣きゲーが時代遅れなわけではなく麻枝の脚本とアニメという形式があっていない。
アニメの話数は増やせないことを理解してないのかと思うが、麻枝よりも麻枝に企画を持ちかけるアニメ会社が悪い。
本編の前にアニメ化したことと、本編のような前線ではなく実験部隊の話なのでどうしても戦闘が少ないことがあわせて叩かれてた。
原作小説が途中で止まってて先の展開が不明なことなどもあり、アニメ制作陣の責任にするにはかわいそうだと思う。(アニメ放送1年後に発売されたゲームではクリスカルートのみ。唯依ルートが描かれる小説版は2013年で刊行が止まっている)
このクオリティで本編がアニメ化されたらこの比じゃない叩かれ具合になると思っていたが、原作は原作で完結しているためかそこまで叩かれていない。
俺も唯依が好きなので生放送のたびに新情報が無いか確認している。
日本がどれほど困難な状況かが描かれずむしろ平和そうなので、レジスタンスの主人公たちが異常に見えて叩かれている。
最近ドクターストーンというアニメの録画を見て年甲斐も無く「滅茶苦茶面白いなこれ!」って思って感動した。
人生って嫌な事も多くて、正直先も真っ暗で最終的に悲惨な結末を迎えるかもしれないな…って暗い想像をする事もよくあるんだけど
そういう時ベタだけど「うわめっちゃおもしれえなこれ!」ってコンテンツに出会えたらそれが一瞬でも生き甲斐になれる事がある気がする
なのでここ10年という最近に「これに触れる事が俺の生き甲斐なんだ!」ってくらいハマった物を少しずつ思い出して一度書き出してみたくなった
思い出せない物も沢山あるだろうけど、それでもその時その一瞬でも楽しめたのならきっと幸せな事だったんだと思う。ハマった年も覚えているなら書く事にする。
生まれて初めて最後まで追った深夜アニメ。このアニメを録画するためにブルーレイレコーダーを購入した。
機動戦士ガンダムSEEDの監督福田己津央氏が製作に携わっているという事で怖い物見たさで見始めたのだけど、見ている内に見事にハマってしまった。
OPに出てくるキラっぽいキャラが出るまではとにかく見ようかな…と思ってたんだけど、まさにそのキラっぽいキャラが出てくる4~5話で完璧にハマってしまった。本当に大好きだった。
次回が公開される一週間後を待ちきれず、放送日が来るまで何回も何回も録画した回を見返して待っていた覚えがある。今の自分からは考えられないくらいハマっていた。放送後に発売されたゲーム版もスパロボも買っていない。
イニストラード~ラヴニカへの回帰がスタンダートだった頃のMTG。当時友人達と一緒に遠くのカードショップまでカードを買いに行くほどハマっていた。
少年時代コロコロコミックで連載していたMTG時代のデュエルマスターズが好きだったんだけど、地元にMTGを取り扱っているショップが無かったので実際遊べるようになるのにその漫画を読んでいた頃から10年以上かかった。
基本的に安いカードしか買わないようにしていたんだけど、それでも結構な額を使ったような覚えがある。今ではその友人達との縁は切れたけれど、MTGだけは今でもMTGアリーナで遊んでいる。
当時ニコニコ動画でMTGの架空デュエル動画が大いに盛り上がっていて、そのシリーズが好きだった。所謂「例のアレ」ジャンルなので今となっては不謹慎かな、と思う。
当時菊地秀行氏や夢枕獏氏の作品の影響で所謂伝奇バイオレンス小説にハマっていて、何でも良いから面白い伝奇小説は無いか!?と思っていた時期に古本屋で出会ったのが講談社ノベルスの空の境界だった。
一冊100円という事でとりあえず上下巻買って読んだんだけど、とにかく読みづらくて「Fateとか月姫好きな人間はこんな読みづらい文章の作品にハマったのか…?」と読み始めた頃は思っていた。
読みづらい、とにかく読みづらい…と思いながら読んでいたけど上巻の終盤に始まる第五章・矛盾螺旋あたりから「あれ?この本読みづらいけど結構面白いのでは…?」と思い始め、下巻を読破する頃には完全にハマっていた。
正直今でもこの本の内容を理解しきれているとは言えないけど、主人公両儀式とその親友黒桐幹也の恋愛物語にもうのめり込んでしまった。しばらく後にこの作品がアニメ化している事を知りすぐにレンタルで全巻借りて見た。
アニメの出来もとても素晴らしくもう空の境界熱は止まる所を知らなかった。生まれて初めてアニメのDVD、それも初回限定盤を買ってしまったし書店でアンソロジーコミックスも買った。寝ても覚めても両儀式の事ばかり考えていた。
この自分の「好きだ!」「こういうのが見たい!」という熱量が、自分にSSを書かせる行動力も与えてくれた。とあるコミュニティで空の境界のSSを投下していたのもこの時期だったと思う。出来はあれだったけど、熱量はあった。
空の境界と同じ世界の話という事でメルティブラッドにも手を出してプレイしたし、メルティブラッドと同じ世界という事でついにCS版Fateにも手を出してしまった。クリアするのに60時間以上かかったけど、あれも凄いノベルゲームだった。
ここまで来るともう空の境界が面白い、というだけでは収まらなかった。Fateの前日譚という事でFate/Zeroの小説を通販で全巻買って読んだ。滅茶苦茶面白かった。その後はネットの各所でFateのSSを読み耽りまくっていた。
空の境界のアニメを見たんだから他の型月作品のアニメも見るか!という事で、真月譚月姫、DEEN版Fate/stay nightのTV版と劇場版、Fate/Zeroのアニメをセールの時に全巻借りて三日で全話見てしまった。
正直今の自分には信じられないくらいの熱量がこの頃の自分にはあったと思う。倍速でアニメを見るのもしんどい今の自分が、TVアニメを計5クール分と劇場版アニメ一本を立て続けに見るとか、完全にハマっていた。
その後空の境界の続編小説が発売されている事を知りそれも読み、未来福音の劇場版も楽しみだったけれど劇場には見に行けなかったのでレンタルで旧作扱いになる一年後に100円で借りて見た。これも中々面白かった。
この型月熱はずっと続くかと思っていたけど、ハマってから数年経つとやっぱり少しずつ冷めてしまった。色んな要因が重なった物だと思う。
型月ファン同士の嫌になるような叩き合いを見たとか、とある型月ファンサイトで作品叩きやらキャラ叩きやら嫌な思いをしたとか、自分の中で神聖視していた式のエッチな絵を見て衝撃を受けたとか、色々重なった。
結局2014年頃に放送されたUBWのアニメ版は「劇場版の中で出来た自分のイメージと違うと嫌だから」という理由で見なかった。2017年にやっていたアポクリファのアニメは見たけど、こっちは先入観無く最後まで楽しめた。
多分今でも作品に触れたらそれなりに楽しめるんだろうなって思う。3/16事件とかDDDとか型月熱が冷めた後に触れてもそれなりに楽しかったから。それにしても、空の境界に熱狂してた頃は本当に楽しかった。
ある時月刊少年マガジンを立ち読みした時に「陸奥VS呂布」という謎の煽りを見て何だこの漫画は…?と思ったのがこの漫画に対する第一印象だったのは覚えている。実際に読んだのはそれから大分経ってからだった気がする。
刃牙の烈海王ボクシング編が「烈の門」と言われたり、夢枕獏の餓狼伝をパクった作品だと夢枕獏本人に名指しで批判された事で、タイトルだけは読む前から知っていた。知っていたけど、中々手に取る気が起きなかった
それでもまあ有名だからきっと面白いんだろうな…と思って読み始めた所、最初の方は絵がお世辞にも上手いとは言えなかったり背景も正直手抜きだと思っていたけれど、いつしか…いつの間にか読む内にこの漫画にハマっていた。
第二部の決勝戦の頃には完全にハマっていたから、恐らくその前の片山右京戦・飛田高明戦あたりでハマっていたのかもしれない。第一部初期はあー夢枕獏作品のパクリと言われたのも分かる…と思いながら読んでいたから。
気付いた時にはグラップラー刃牙や夢枕獏の作品より修羅の門には好きになっていた自分に驚いた。特に第四部バーリ・トゥード編は未だに全格闘漫画で一番面白いパートなのでは?と思っているほどお気に入りだったりする。
修羅の門を読み終えた後には「とにかく修羅関係の作品が読みたい!」と最初は歴史物だからという理由で全く興味が無かったスピンオフ修羅の刻も読んでいてそちらにもハマっていた。幕末編と西部編、とにかく面白いんですよ。
その修羅の刻も読み終えると「もう修羅でなくても良い…川原先生の作品なら何でも良い!」と、あの大長編海皇紀にも手を出していた。とにかく長くて表紙で何巻か見分けが付かない漫画、といえば知る人も居るかもしれない。
これもとにかく長かったんだけど…読み終える頃には「これもしかして修羅の門より面白くね!?」というくらいハマっていた。修羅の門を描いたご褒美なのか、とにかく川原先生の当時描きたい物を描いた漫画、だったのかもしれない。
この長い海皇紀もコツコツ集めて読み終えた頃には、他に読める川原先生の作品といえばパラダイス学園やあした青空、エンジェル、HEROなどの短期連載作品か…それとも当時月マガで連載していた修羅の門の続編か、だった。
修羅の門とは全然雰囲気が違うなあと思いながらも川原先生の初期の作品も読んだし、修羅の門第弐門も九十九VS姜子牙戦あたりから毎月リアルタイムで月マガを立ち読みして追っていた。とにかく夢中になっていた。
九十九VS子牙戦の間に挟まれた九十九VSケンシン・マエダ戦は「もしかしてこれ本当に九十九は負けたのでは…」と読んでいてハラハラしたし、その後のラスボス・海堂さんと九十九の戦いは最後までどちらが勝つか読めなかった。
この修羅の門第弐門のエピローグ、或いはプロローグにあたる修羅の刻・昭和編がその後月マガで連載されたのだけど、こちらも最後まで面白かった。あまりの面白さに単行本も珍しく新刊で買いました。これまた面白かった。
その修羅の刻・昭和編を読んで自分の中で一旦何かが満足したのか…川原先生の新作・龍帥の翼は自然と読まなくなった。これも海皇紀と同じで長くなりそうだ、と思ったのかもしれない。実際読んでみたら面白いんだろうけど。
これもいつ頃ハマったのかは覚えてないけど、少なくともアニメの四期が始まる以前だったような覚えがある。揺れるイントゥ・ザ・ブルー、が面白かった事がこの作品にハマった切っ掛けだったような気がするけどあまり覚えていない。
フルメタは最初の一巻か二巻かを読んだ後にその後長年放置していた覚えがあるんだけど、何かがきっかけで積読を崩してからはもう夢中になってフルメタを読み耽っていた。恐らく当時ロボアニメにハマっていたんだと思う。
短編はあまり好みじゃなかったけど、長編と中編が面白いのなんの。途中で積読が何巻か抜けていた時は自転車で即書店に走ってその抜けを埋めて読むくらい、それほどこの小説にハマっていた。夢中になって読んでいた。
途中で作者の後書きに反感を持ったり、正直最後の方の駆け足展開ご都合展開は好みじゃないと思ったけど、それでも面白くて時間を忘れて読んだ小説だった。スピンオフにあたるアナザーは未だ読んでいない。
2015年に荒川弘氏のコミカライズ版がTVアニメ化した作品。アニメの一話を見て面白いな!と思い、二話までにそれまで積んでいた角川文庫のアルスラーン戦記を全て読み終えた。滅茶苦茶面白かった。
アニメ版アルスラーン戦記も主題歌が良く荒川弘先生のキャラデザが魅力的という事で中々楽しく見ていた。割と初期に原作漫画を追い越してしまった影響か最後の方はアニオリ展開になってしまったのは残念だった。
とにかくこのアルスラーン戦記を読破した事で「やっぱり田中芳樹作品は面白い!」と思い、マヴァール年代記やタイタニア、夏の魔術や灼熱の竜騎兵等々それまで買っただけで積んでいた田中芳樹作品を貪るように読んでいた。
その中でも銀河英雄伝説は「数年かけてOVAを外伝まで完全に制覇したのに、何で大まかな話を知ってる話をもう一度活字で読まなければいけないんだ?」と思っていた。実際読んだら、凄い面白かった。
当たり前だけどアニメと小説は媒体が違うという一番の特徴があって、どれだけ声優さんやナレーターの人の語りを入れてもアニメでは原作小説で描かれていた部分をそのまま全て作品に出来る訳ではないのだな、と思った。
OVA版が長いのもあって丁度内容を忘れ始めていた事もあってか、それとも純粋にこの小説が名作だからか、この場面や台詞は先にアニメで見て知っているなと思いながらもワクワクしながら読んでいた。
本編10巻外伝4巻の計14巻を読破した後は満足感と寂寥感の両方があったかもしれない。長い小説だけど、2018年と2020年にリメイク版が地上波で放送された時はまた熱が蘇り読み返した。本当に良い作家さんだと思う。
自分の中で小説・ライトノベルを読むのが何より楽しみだった時期に読み耽っていた作品。これも一巻だけ読んだ後は長い事積んでいたけど、ふと他人のとらドラ!読後の感想を見かけてこれは面白そうだと思い積読を崩し始めた。
どんな作品にも言えるけど、ある時期話題になった作品というのはやっぱり話題になるだけの面白さはある物だと思う。一度読み始めると「この先は一体どうなるんだ!?」と気になって気になって仕方なくなった。
この作品を読んでいて特徴的だと思ったのは、ヒロイン達が男にとって都合の良い一種のアイドルではなく醜い所・駄目な所・嫌な所もある人間臭い存在として描かれている所だった。逆に男子達には理想が入っていた気がする。
積読を読み終えると続き読みたさに書店へ走り、それも読み終えると今度は「竹宮ゆゆこ先生の作品なら何でも良い!」とわたしたちの田村くんとゴールデンタイムも買って読み始めた。こちらも同じく最後まで楽しませてもらった。
特にゴールデンタイムは途中まではもしかしてこれはとらドラ!に匹敵する名作なのではないだろうか?と思っていた。とらドラより巻数が少なかったためか終盤は駆け足気味に話が終わらせたのが残念だった。
ゴールデンタイム以降竹宮ゆゆこ先生の作品には触れていないけれど、彼女が電撃文庫で発表した二十数巻の小説はある時期の自分を本当に楽しませてくれた素晴らしい作品だった。本当にありがたい事だと思う。
いつだったか自分の中で野球漫画ブームが起きていた時期があった覚えがある。現実の野球が大好きという訳ではないけど、漫画というフィクションの中で描かれる野球という競技には本当にワクワクさせられた。
ドカベンなどの水島新司作品は書店で片っ端から買い漁ったし、他にもあだち充作品、ラストイニング、おおきく振りかぶって、名門!第三野球部、ペナントレースやまだたいちの奇蹟などとにかく野球漫画を読みまくった。面白かった。
登場する女の子の可愛さは最強!都立あおい坂高校野球部が抜群だった気がする。中でも一番読んでいて夢中になれた作品はラストイニングだけど、結局何とか甲子園に出場した所以降はまだ読んでいない。いつか読みたい。
野球漫画を片っ端から読んでいく内に、それまでタイトルと絵だけは知っていたけど読んだ事が無かったあだち充作品にも触れる事になった。最初に読んだ作品はH2だったと思うけどこれがもう面白いのなんの。
野球と恋愛をセットの物として描くからこっちは今野球が読みたいだけなのに!と思っている時はその恋愛要素が鬱陶しく感じる事もあったけど、それ込みで野球というスポーツを描く作品として本当に面白かった。
H2の後はタッチやクロスゲームなどの野球物は勿論の事、ラフ・虹色とうがらし・いつも美空、みゆきなど野球要素が無いあだち充作品も明後日は読み耽っていた。読んでいて一番自分に合ってるな、と思ったのはクロスゲームだった。
古本屋で全巻セットがお得なお値段で売られていた事から出会った作品。タイトルだけは知っていたけどあまりに長すぎて自分が読む事は無いだろうな、と思っていたから意外な出会いだった。
82年連載開始の漫画という事で、最初は絵も内容も古いな…と思いながら読んでいたけど、絵が読みやすくなったりキャラクターに愛着を感じ始める頃には流石長期連載される漫画だけあって面白い!と思いハマっていた。
主人公コータローがとにかく作中で色んな事に手を出すのでこういう漫画である、と一言では言えないんだけれど…格闘・バトル・学園物の漫画というのが近い気がする。もっと言うなら何でも有り漫画なのかもしれない。
全59巻という長さにも拘らず最初から最後まで面白いストーリー漫画というのは本当に衝撃的だった。これは続編も面白いに違いない!と早速柔道編も買って読んだけど期待は裏切られる事無くやはりそちらも名作だった。
この名作少年漫画が原作者の蛭田達也先生の病気療養が理由で2004年から連載が休止している事は知っているけど、実際に単行本最終巻を読むともうここから先は読めないんだな…と寂しく思ってしまった。
コータローまかりとおる!の連載が休止して再来年で20年、この名作の続きが世に出る事があればこんなにめでたい事も無いのに…と思う。昔の漫画だけど本当に面白くて90巻以上退屈せずに読めるって凄い事だと思う。
上司や先輩には典型的な昭和のオジサンが多くて、飲み会の席で新婚の先輩についてイジったり、キャバクラや愛人、性体験の有無など、下品な話が出ることもあった。
私も別にそういう話が好きなわけではないし、なんなら気まずいからやめて欲しいと思っていたが、今となっては「正しくはないが少なくとも不自然ではなかった」と思う。
数年後、都内の企業に転職すると、同僚は全く別世界の人たちに見えた。
みんなオフィスカジュアルを着こなしているし、缶コーヒーなんか飲んでる人はいないし、雑談の内容もアートやカフェの話ばかり。
たとえばお笑いの話をするにしても、昨日観たバラエティの雑な感想なんかじゃなくて、芸人のラジオの話とか、ライブに行った話、みたいな。
それなりに話を合わせてはいたけれど、正直いけ好かないというか、意識高すぎというか、同僚たちの会話がドラマのワンシーンみたいな血の通っていないものに思えてしまう。
モラル的に人前で性的な話題を出さないのは間違っていないと思う。むしろ前職の上司の方がデリカシーがない。
ただ、あまりにも性的な話題が出なさすぎて、「ここはそういうものが存在しない世界線なんじゃないか?」と錯覚してしまう。
ある同僚は、古着とコーヒーが好きで、丸メガネの似合うお洒落なイケメン。仕事にもストイックで、誰に対しても嫌な顔をしない。常に俳優のインタビューくらい隙を見せない人だった。
そんな同僚が突然結婚した。まず、恋愛をしていた(プライベートが存在した)ことに驚いた。驚くのもおかしいんだけど。
それから一年たたないうちに子どもができたという。つまり、(これも当たり前だけど)奥さんと肉体関係があったわけだ。もっと嫌らしい言い方をすると、生セックスをしたわけである。
周りの同僚たちは「おめでとう〜」と言っていたけれど、ちょっと待って、みんな性的なものなんて存在しない世界に生きてたんじゃなかったの?と思った。
前職と今の職場では、青年誌と少年誌ぐらい、明らかに世界線が違ったはずなのに。
わけが分からなさすぎて妻に相談したら、「たぶん他の人はそんなにセックスを特別なものだと思っていないんじゃないかな?」と言われた。
一瞬納得しかけたが、そうだとしたら、逆に普段全く性的な話題が出ないことがおかしくないだろうか。多少なり特別なものと思っているからこそ、普段はその話題を口にしないわけで。
ちなみに妻も飲み会の席で同性の同僚とは普通に性的な悩みを話したりするらしい。ちょっと安心した。
仕事中は真っ当な仕事人であることを求められるにせよ、休憩時間や飲み会の場ですら常に素の部分を見せず俳優然としていた私の同僚が、サラリと結婚や妊娠の報告をするギャップに違和感があるのだ。養子をもらっていたり、『よつばと!』みたいな親子の形だったら、彼が演じるドラマの続きとして納得できるけど。
そこで気になるのは、普段性的な話題に一切触れない人が職場で結婚や妊娠の報告をするとき、たとえば「自分がセックスをしている事実を認めていることになるなあ」とか、一瞬でも想像したりして、内心ではどぎまぎしているのかということ。
あるいは本当に心から喜びの気持ちで溢れていて、なんの躊躇いもなく公言できているのか。
少なくとも私はちょっと照れ臭かったし、照れ臭そうにしながら報告したけどなあ。
それとも妻の言うように他の人はセックスが衣食住の一部みたいに当たり前すぎて、「昨日お風呂入った」と同じくらいの感覚だからわざわざ言わないだけなのか。
なお、結婚や妊娠=性的なことという結びつけが安直だという指摘もあると思うが、私も決して同義だとは思っていない。
ただ、それが100%清らかな気持ちだと言い切るのもカッコつけすぎてないかということ。
誰もが物語の主人公のような一生を過ごしているわけではないだろうし、清らかな部分もあれば、人間臭い生々しい部分もあるのが当然で。それなのに、あまりに清潔な部分しか見せない人が周りに多いので、自分がおかしいのかなーと不安になってきた。今となっては、前職の上司の方が、よっぽど人間らしかったなあと。
独り言のような内容でしたが、思った以上に反応があってびっくりしました。
思考がまとまっていない文章にも関わらず読んでくださった方、ありがとうございます。
コメントを読みながら自分の考えを整理してみたので、もし良かったらもう少しだけお付き合いください。
まず、こんなタイトルをつけておきながら、自分のモヤモヤの本質はそこではなかったと気づきました。
コメントで多くの方から指摘された「職場でそんな話しないのは当たり前」という意見については、私もその通りだと思ってます。
そもそも冒頭に書いたように、前職の飲み会のノリはついていけなかったし、今の職場の距離感は仕事をする上で凄く快適です。
私も自分から聞かれてもないプライベートをベラベラ話すこともなければ、他人のプライベートに踏み込むこともしていません。
同僚の出産報告についても、「生セックス」という強い言葉の部分だけ抽出してしまいましたが、もちろん私も周りの同僚と同じように「おめでとう〜」のノリで接してます。
当然、からかうような気持ちもなければ、セックス自体が悪いことだと思っているわけでもありません。
諸々の社会人として求められる振る舞いをほとんどの人ができている前提で、「でも、本当はみんな上手に大人のフリをしてるだけなんだよね?」という確認がしたかったんだと思います。
仕事はもちろん、飲酒やお金の扱い、マナーや身だしなみなど、子どもの頃にはできていなかったことが大人になるにつれてできるようになってきました。
今では仕事終わりにお酒を飲んだり、空き時間に株価をチェックしたりと、子どもの頃の自分からすれば大人に見える行動を取っていると思います。
でも、子どもの視点からは当たり前に行っているように見える行動も、実は大人だって一人でバーに入るのは内心ドキドキしてるし、株価を眺めるのは植物の成長を見守るみたいにちょっと楽しかったりするし、大事な打ち合わせの日の朝に髪型が決まらなくて鏡の前で狼狽してたりするんです。
その中でもセックスは特別で、結婚して5年経ちますが、未だに毎回ドキドキします。
私たちの夫婦にとっては、いわば外食以上旅行未満みたいなちょっとしたイベントで、とてもじゃないけど排泄や歯磨きと同じようには考えられないんですよね。
だから「セックスなんて既婚者にとって日常。そんなことを考えるのは中学生」のような意見だけは、どうしても共感できなかったです。
そういう人にとって、学生時代の初めてのセックスは重要な出来事だったけど、現在のセックスは排泄と同じくらい無意識の行為になったのでしょうか?
確かに、他人の妊娠報告に性的な揶揄をする人がいたら私も軽蔑しますし、極力関わりたくないと思います。
でも、特別な行為だと思っているからこそ、そういう想像を一瞬でもしてしまうことすら糾弾されるのだとしたら、みんな大人のフリが上手いんじゃなくて、本当に心まで大人なんだなぁって感心します。
相手を祝福する気持ちも嘘じゃないし、その一方で良からぬ想像や、黒い感情を少しだけ抱いてしまう人もいる。でも、それを飲みこんで笑顔で接するのが大人であり、人間ってそういう割り切れないものだと思っていたのですが。
基本的に結婚・出産報告に対する「おめでとう」は本当に「おめでとう」の気持ちです。
高い場所で絶景を見て感動したあとに、「でも、落ちたら死ぬんだよな」とか一瞬考えちゃうのと同じで、そんな自分が不安になったんだと思います。
久しぶりにガッツリと本を読んだ気がする。去年『魔道祖師』(墨香銅臭)を読んで以来? でもたぶんシリーズ全4冊ぶんで『魔道祖師』1巻の3分の1も文字数ないと思うけど。しかしすごい読み応えあった。という訳で感想など。
『白昼堂々』『碧空』『彼等』『若葉のころ』の全4冊のシリーズもの。
主人公は華道の家元の孫息子・原岡凜一(はるおか りんいち)。真性ゲイの凜一が真性ノンケの氷川に恋をしてしまい、もだもだと悩んだり迷ったり僻んだり浮気をしたりしながら送る、15歳から19歳までの約四年間の青春期を描いた物語。
一言で言って「優柔不断」な性格とはどのようなものか、それを執拗に描写しきる長野まゆみ先生すごすぎる。ほんと、凜一の言動の隅々まで一貫とした「優柔不断」っぷり。彼に相対する人物達がイライラするのがよくわかる。凜一のキャラクター造形には細部にわたって一切の手抜きがない。凜一のはっきりしない物言いには時にビンタしたくなる半面、そのネガティブ通り越して傲慢ですらある性格が親という安心基地を持たない孤独により作られたものというのも解るので、おぉよしよし可哀相に~ってしたくなる。
長野先生といえば四季折々の花鳥風月や日本の古民家の内装や調度の描写の詳細さ。それと華道や茶道の知識が豊富なことだけど、人間を描写するのも巧みなんだなと。
見た目は綺麗だけどちょっとひねくれていて意地の悪いキャラクターは長野作品の特徴だが、凜一シリーズの登場人物はいつもの長野作品のキャラでありつつ特別人間臭いんだなと思った。登場人物の全員がどこか欠けていて、誰もまっとうな大人とは言えない。そんな人達が不用意な言動でボタンの掛け違いを起こしたり相手を傷つけたりする様子の描写が繊細。はぁ、そのヒリヒリとした感じ、まさに青春だなぁ。
凜一シリーズを読んでいてふと気づいた、長野まゆみ作品が商業BL読みにはあまり好かれない理由。それは、商業BLで描かれるのがもっぱら掛け値ない永遠の愛であるのに対して、長野作品で描かれるのは有限の美であるからなんだろう。長野作品では男同士の恋愛が毎度のごとくに登場するけど、それは有限の美を表現するツールの一つであってメインテーマじゃないんじゃないかなあ、たぶん。
凜一シリーズも最後は大団円って感じでもなく、凜一と氷川の関係はうやむやのまま綺麗に終わった。
さて、今年に入ってからずっと読書ばかりしていて自分の執筆作業は停止してたので、そろそろ積んでる資料を読んで続き書かなきゃ……。
昨日の夜に薬を買っていたことを知った。後からわかったけど、イベルメクチンというらしい。
前々から陰謀論には疲れていた。元から霊やオカルトやらを信じるタチで、自分自信はそういうものはある人にはあるのだろうと信じたもん勝ちくらいの軽いノリだったので、まあ害がないならいいだろうと思っていた。
それがコロナ禍になって顕著になってきた。訳の分からない陰謀論を引っ張り出してくる。
ワクチンに寄生虫が入っている、ワクチンを打った人間から出た物で体調が悪くなる、5Gでウイルスを撒き散らしている、ワクチンは政府が人口を減らすため、etc。まだあった気がするけど、もう覚えてない。
流石に害がないならいいや思考で段々と終えられなくなってきた。ワクチンを打たないという選択肢は否定せず、しかしそんな事があるわけないだろう、死んでない人間だっているんだぞ、とあまりに現実離れしたことは否定していた。
それが昨日の夜までだ。
昨日の夜、パソコンに張り付いていた時に聞こえてきた、妹との会話だった。
「父のワクチン接種に反対する」
父は間接的に医療に関わっている会社の所属で、10月にワクチンを摂取する予定だった。
だいぶ気難しい、というか明らかな発達障害なので、陰謀論VS発達障害とかいう地獄に地獄を重ねたドリームマッチは開催してほしくないなとか思っていた。
その後に、
「1万円ほどで薬を取り寄せた」と母は言った。
その瞬間に世界が凍りついた。
何が何だか理解できないまま、じっと母を見ていると、なぜか涙が出てきた。
促されるまま、そのまま風呂に入った。めちゃくちゃに泣いた。ほとんど放心していた。その時の記憶がない。何も手につかないまま布団に入った。
大好きなボカロPの弾き語り生のアーカイブを1時間じっくり見て心を落ち着かせていたが、考えないでおこうとする度に頭がそれでいっぱいになっていき、やっぱりめちゃくちゃ泣いた。泣きながら気持ちの整理もつかずTwitterに書き込みまくっていた。
正直何も分からなかった。何で泣いているかもよく理解していなかった。
書き込んでいるうちに、
「薬が危ない物ならどうしよう」と、
「こんな事を信じる様な人だと思わなかった」の二つの不安と恐怖を見出した。
薬に関しては専門知識もないので値段がどうとかわからなかったが、学生(バイト経験0)にとっての1万円はそりゃもうお宝並みの大金だ。それを実態もわからない薬なんかに使われてしまった、という失望が強く出ていたのだと思う。
Twitterに書き込んでいるうちに強い眠気が来て、そのままふて寝した。その後もちょっと泣いた。
寝不足のまま起きて、また泣いた。どうしようと思った。何の変わりもないまま朝が来た。絶望でしかない。
泣きながら放心していて何もできなかった用意をした。もちろん話しかけてくる。今日は何が原因だと。自分は若干不登校気味なので、そりゃあ朝っぱらから泣いていれば心配もする。
何もないとずっと言っていたが、脅されるがままに「お母さんが怖い」と言った。よくわからないぐちゃぐちゃの感情に押しつぶされて、だけど口にできた事に安堵を覚えながら、ギャン泣きしながら怖いという話をした。
母は「私を休む口実にするな」とヒスって茶碗を投げたので、じゃあ学校に行く、とそのまま玄関に出て何も言わずに学校に行った。
学校でもひたすら必死だった。いわゆる隠キャで仲がいい人間もひとりしかいないので、とにかく落ち着くことだけを優先していた。友人は何も言わなかった。
ふとした瞬間に泣きそうになっていたし、友人にバカなふりをする時もひたすら必死だったが、数学の授業を受けているうちになんとはなしに冷静になっていた。不安は拭えなかったが、それでもとりあえず全てを忘れることはできた。数学は偉大だとあの時ほど思ったことはない。
その後は普通に授業を受けて、普通に昼飯(母親が作っている、話をする前に用意してくれていた)を食べて、授業を受けて、朝忘れたテキストの尻拭いをした。
帰るのがとてつもなく嫌だったので、門限の19時を破って20時くらいまで電話出ないで遊んでやろうと友人に言った。ちなみに母親はパートで17時から22時までいなかったのでそもそも効かなかった。
友人を連れて近所のモールに来たはいいが、UFOキャッチャーで全財産の1000円を溶かされたせいで18時に帰る事になった。来た時は16時だった。即堕ちすぎる。
帰るとお菓子が置いてあったし夕飯も作り置きしてあったが、食べる気もなくそのまま自室に帰った。自室にこもってまたちょっと泣いた。YouTube見たり昨日のボカロPの曲を聴いたりしてなんとか誤魔化した。人格否定地味たことも言われたので、人間臭い厭世ソングと初音ミクがよく沁みた。ちなみに今流行ってるボカロPではない。
母親が帰ってきて、「薬は妹が全部捨てたから」とだけ言ってきた。何も食べないのは意思表示のつもりだったが、それを聞いて安心してすぐに部屋を出て夕飯を食べた。
もうとてつもなく美味しかった。多分忘れられない。食べながらめちゃくちゃに泣いた。こういうのが人ウケするんだろうなと思っていたシチュエーションに、まさか自分が立ち会うとは思ってもみなかった。それくらい泣いた。
その後ぼおっとTwitterを見たりして(フォロワーから心配のDMまで来ていた)暇を潰していたが、母親が風呂に入ったところで一応妹に聞いた。
「妹が捨てたって言ってたけど、捨てた?」
「え?いいや、捨ててない、隠した」
確認しなきゃよかったと思った。
「捨ててないの?隠したって言ったの?」
「うん、言った」
「あるの?」
小学生にそんな酷な言葉が出てくるのか、という若干の恐怖を感じながら、妹に薬の場所を見せてもらった。まさかのタンスと押入れの間という隠し場所もクソもない所だったが、板をずらすをからからとアルミの音がした。
錠剤が夥しい量詰め込まれていて、何と言えばいいのか分からなくなった。この量で輸入で1万円なら、むしろ安いまであるのか?とさえ考えた。とりあえず一つを写真に撮って、何も知らない事にした。
そこで調べて出てきたのがイベルメクチンなるよくわからない薬だ。保険対象外のものをわざわざ使わなくても…と呆れていたが、冷静になると思いっきり母は自分を騙していたのだと気がつく。そして今に至る。
正直、母親は好きじゃない。憧れの人ではあるが、それと好きは別だ。同族嫌悪に近いだろう。介護もしたくないので、金を貯めて老人ホームにぶち込んでやると前々から思っていた。机上の空論が人生設計に組み込まれた瞬間だ。
ただ、信用はしていたのだ。だから安心したのに、(場所を知らないとは言え)騙していた事に変わりはない。その事実にもう何か、耐えられなくなってしまった。疲れたんだろう。
さっさと寝る。もう全部忘れて、バカみたいなフリ、それこそ陰謀論者みたいに情報をシャットダウンする方が楽なんだろうと思う。けど死んでも願い下げだと思う。そんなバカに成り下がりたくない。
本当に何も信用できなくなった。昔から虚言癖地味た事を言っていたが、やはりそれも嘘だったのかもしれない。それだと自分さえ信じられなくなるが。
もうなんか、どうでもいい。ひとつ分かったのは、陰謀論者は頭が悪くて、それの発端の人間はどうしようもないクズだって事だ。殺したいくらいには恨むだろうと思う。
優しかった母が消えてしまった。18になるまでほとんど残り一年だ。人生、先が見えなくて死にたくなる。楽になりたい。
けど死にたくない。クソみたいな親父も母親もあいつもどいつも、自分の信じた道で塗り替えしてやるまでは死ねない。生きる。面倒だし、人間らしい営みはできないし、結婚もできない子供も作れない産廃みたいな人間だけど。
数学書に書いてある日本語は全て完璧で論理的であるかような気がするが、たまには上記のようにしれっと面倒を避ける人間臭いところもあったりする。
上記の言葉は、複数回の微分や偏微分、微分形式などを説明するときに、微分する関数等が何回微分可能なのかをいちいち書き記すのが面倒だから、細かい説明を避けるために使う用語。数学書ではわりとよく出てくる。
でも私なんかは人間関係にこそ必要なだけ微分可能性(ある種の滑らかさ)を仮定して、そうであれば解析しやすい相手の心を数学のごとく計算して易々と生活したいものだと常々思っている。
例えば、相手の心が十分に滑らかであれば、ある時点で微分してテイラー展開できる。そうすれば、相手の心というあんな複雑な関数でも多項式で表せる。
まだ無限の多項式ではあるが、十分なレベルの項まで取れば後は誤差項として切り捨てられる。あんな面倒な相手の心というものが、こんな単純な式に落とせるなんて!
それが普段できないのは微分可能性が証明できないから。読者なんてまさにその典型例。微分可能性を仮定するあの言葉も、そんな叫びを隠したものなんだろうと私の心で思ったりする。
(他国でも自己犠牲を賛美する風潮はあるが、露骨に特攻を命令するのは貴重な兵士というリソースの無駄使いであり、普通はありえない
今の日本の政治家も悪党としては小物感が漂いすぎてて、こすいというかケチというか
WWIIもそうだけど、上層部は小悪党なのに強い言葉(コロナに勝った証とか)を言うだけで、結局は全部現場に丸投げでしかない
現場に丸投げというなら米国のベトナム戦争もそうだったわけだけど、流石に特攻を命令したり賛美したりはしない
(ベトナム戦争は北軍のゲリラ戦術が勝因ではなく、実際は中ソが米国への核攻撃を匂わせたため、米国は核による脅迫という外交で負けたのである
特攻が嫌で徴兵から逃げた息子を親が捕まえたり、特攻するために出兵する息子を親もご近所も万歳三唱したり、
GHQに支配されても、やっぱり日本人の本質は変わってないんだと今回のコロナでも思ったよ
国難というか、困ったことが起こると先に精神論に持ち込んでしまう
日本人以外に頑張る系の自己啓発は基本的に「ダルい」という反応しか得られれないと思う
(そうすると従業員やチームメンバーがついてこなくなるため、上層部は妥協案や合理化を考える
良くも悪くも基本的に真面目、
だから、上の人間にその真面目さを体よく利用されやすいのだと思う
付け加えるなら、ズルをしてでも敵国に勝つ、ズルをしてでも勝って支配する、領土を奪うという「欲」がない
キリスト教だってプロテスタントは「合理的禁欲」という考え方が根本にあるため、
お金を無駄使い散財しない→いざというときのために貯蓄する→資本主義
という流れがあったが、しかしあくまで「合理的」禁欲であり、仏教のような無欲を良いものとは考えていない
そもそも、無欲になりたい、という欲で座禅や修行をしているというトートロジーがある(一休宗純
うろ覚えだが、アニメのコードギアスでもシュナイゼルには「欲」がなかった
欲や執着心がないことがかえってルルーシュに負ける敗因になってしまった
自己啓発などで欲や執着を捨てようというネタもよく散見されるが、これはバランスの問題であって、
欲や執着が自分を苦しめるなら量を減らすべきだが、欲や執着がなければなんの成功にもたどり着かない
老後になったらオレオレ詐欺で無一文になっても構わない、なんてことはない、
それでは明日から生きていけないわけで、死ぬまでお金や何かに人間は執着するべきなのである
そう考えてみると、この国はコードギアスのシュナイゼル側に似ているとも思える
欲や執着心が足りないのに、「美しく」勝利しようとする
これが自分には良くないように思う
「美しい国」だの「国家の品格」だの言い出した時点で、アベはシュナイゼルにどこか似ているように思う
持論だが、まず「美しく勝とう」などと考えてはならない
大切なのは「みっともない形でもまずは目標を達成する」ことである
ダクトテープによるプロトタイピングとか、まずはみっともなくても完成させる、目的を達成することである
この段階から「軍神」がどうのとか、戦場に美的感覚を持ち込みすぎてはならない
勝利よりも何よりも、まずは目的を細分化し、その1つ1つをみっともないながらも達成していくことである
そして、そこから今度はそのみっともないものをブラッシュアップしていくことである
私は格闘ゲームをやったことがほとんどないのだが、人間がコンボを入力するのはバカげている、
キー操作を記録して一発のキー入力で技が発動できないか、みたいなことを考えるのである
WWIIの日本は、根性でみっともない形で達成しても、それを合理化、単純化しようとしない傾向があるように思える
また、そういった合理化や単純化を悪としたり、そういうのは美しくない、みたいな余計な美観が介入しているように思える
ズルをしてでも勝たなければならない
軍神がどうの、天皇がどうの、そういう美観を戦場に持ち込んではならない
そういう意味で、仮想敵国である中国はやはり良くやっているように思わざるをえない
ホリエモンだったか、自著の自己啓発本で「真似される奴になれ」とか偉そうに書いているらしいが、
真似をするというのは一位の背中にピタリと追随してスリップストリームを利用して走る二位のようなものである
そんな二位がゴール手前で一位を押し倒して一位になってしまうものである
たしかに「真似される奴」はオリジナルであり、ブレイクスルーを作り出すものであり、偉大な存在である
しかし、ホリエモンは起業家としてビジネスの歴史をそれなりに知っているはずではないのか?
ビジネスの世界で意外と最後に勝利するのは二番手だったりすることが多いのである
シュナイゼルについてうろ覚えなのでググってみたが、この文を書いていて、ついアベ氏と似ていると書いてしまったが、
goldhead氏だったか、安倍晋三氏がテレビで演説しているのを観て、
なんて空っぽで空虚な人なんだろう、みたいに思ったようなことをブログだかに書いていたと思うのだけど、
それは自分も同感であって、
安倍晋三氏=シュナイゼルと考えると意外と彼という人物を理解できる気がしてきた
まず、生まれながらにしてすべてが揃っているため「欲」がない、執着がない、
そして、「周囲が望むことを喋り、実行するだけ」の、
ある意味、気味が悪いぐらいよくできた長男みたいな人物だということだと思う
それが見える人には見えるのだけど、見えない人には見えない
なぜなら、安倍晋三氏が空虚に見えない人にとって、そういった一部の大衆が望むようなことを声高に喋るからである
自分のフラストレーションを代弁してもらっているような気分になるから、彼が空虚に見えない
しかし、その崇め奉っている彼は単なる「鏡」でしかないのである
端的に言うなら、二世だから出自が恵まれすぎている、生まれてこの方金銭関係などで大した苦労もない、
それが人間性に反映されて「欲」がない、
しかし、悪い意味で「いい子ちゃん」だから、周囲の望んだことを喋る、
そうやって有権者中の有力者の気持ちを代弁することで味方を増やす、勢力を付けるという戦法だったように思う
そう考えてみると、私はマシュマロ・テストというのがやはり解せないのである
今はルルーシュにくれてやるとしよう、みたいな台詞がうろ覚えだがあった気がする
もちろん、戦争であれ何であれ、意図的に負けてやる、忍耐みたいな姿勢も大事であることは理解できる
しかし、マシュマロ・テストというのはあれも極論めいた話であって、場合によるのである
では、目の前のマシュマロを誰よりも先に奪わなければ死ぬとしたらどうだろうか?